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1. 緋色の街/スカーレット・ストリート
《ネタバレ》 ノワールと言えばやはり「欲望」というとこで、
主立った三人の登場人物は皆、自分の欲望を満たすためだけに行動をする。
中年の銀行マンは騙されてはいるのだが、嘘を付いてでも手に入れたい愛という、
そんなどうでもいいようなものの前では、同情などは打ち消されてしまう。
誰に同情出来るでもない世界観。
この世界観はラングによる繊細な人物描写で成り立っている。
しかもそれは見せ方だ。
例えば、男が女を殴っているのを主人公が目撃してしまうショットの上手さよ。
この引き画の、引き具合の抜群さだ。
傍目から見れば明らかに襲われているという見せ方。
これはこの前段階で主人公が若い女とどうのこうのという件が活きているからこそだが、
主人公同様に、我々観客にも「そう見える」という演出の上手さだ。
ラングの上手さとは見せ方の上手さ、つまり物語ることの上手さだ。
そしてやはりこの映画はクライマックス語らずにはいられない。
ネオンの明滅、決して消えない幻聴。
観客は視覚と聴覚を刺激され、まるで自分が主人公であるかの如き錯覚に陥るだろう。
そして現れるあの絵画の眼差し。
やられた。完全にやられた。
ここでこれを出してくるとは全く想像していなかった。
この瞬間に誰もが身震いするはずだ。もう蛇に睨まれた蛙だ。
ラストたった10分程だろうか、途轍もない緊張感と興奮に誘われる。
素晴らしい。[映画館(字幕)] 9点(2012-09-29 00:17:52)《改行有》
2. ヒューゴの不思議な発明
《ネタバレ》 メリエス(のみならずリュミエール兄弟でもハロルド・ロイドでもどれでもそうだが)の映画が流れる度に涙が溢れそうになるのだが、それは別にメリエスの映画に涙しているのではなく、ぬけぬけと懐古的な映画愛を恥ずかしげも惜しげもなく披露してしまう、この映画の全体の一部に涙している。何故なら、スコセッシがそう仕向けてくるのだから。
であるからこそで、ふたりが映画館へと忍び込むところだ。暗闇を切り裂いて、光が、ただ光が、スクリーンを突くと、浮び上がる新たな世界。『ロイドの要心無用』の名シーン、ビル登り、をふたりが興奮して食い入るように観る。そう、子供の頃の映画という体験の興奮を忘れることが出来ず、ひとは繰り返し繰り返し、暗闇へと脚を運ぶ。
さて、どうして、こんなにも愚直で、稚拙で、恥じらいのない、映画愛に満ち溢れた映画を作ってしまったんだろうか、スコセッシは。何時にも増した下手くそさと、観客を選ぶような映画愛表現と、幾つものレイヤーを重ね合わせただけのような3D映像。こんな欠点だらけの映画、最高に好きである。
これは暴力やセックスを描いてきた作家の、映画が暴力やセックスと手を結ぶまでの映画。映画は未来のない発明だという劇中でも登場するリュミエール兄弟の台詞とは裏腹に、映画は、音、色、そして、デジタルへと変容し続けている。人々が暗闇へと脚を運び続ける限り、映画は死なない。[映画館(字幕)] 8点(2012-03-08 01:10:41)《改行有》
3. ヒストリー・オブ・バイオレンス
《ネタバレ》 ラストシーンのあまりの素晴らしさ。
愛情の欠片もない無慈悲な兄との関係を、暴力によって断ち切った(かの様に見える ─ というのは暴力は暴力を生むというこの映画の法則に従えば、ここで断ち切ったとは言い切れない)トム・ストールは、愛情の消えかけた(かの様に見える ─ この後の展開がそうでなかったことを明白にしている)我が家に辿り着く。キッチンのテーブルの上には3人分の食事が用意されており、妻と子供ふたりが夕食をとっている。誰も何も語ろうとはしない。そこに苦悩するトムが帰ってくる。妻エディはうつむき、息子ジャックは戸惑う。トムは項垂れつつもキッチンに入ってくる。沈黙。エディはうつむいて、ジャックは戸惑っている。ここで、娘のサラがふと席を立ち上がり、後ろを向く。そしてふいとサラがこちらを向いたとき、(恐らくエディが用意しておいたであろう)真っ白な大きな皿とフォーク、ナイフが、か弱い手にしっかりと握られているではないか。サラはそれらをそっとテーブルの上に置き、席に着く。それを見たジャックは、大皿に盛ってあったチキンか何かをその真っ白な皿によそってやるのだ。この子供たちの愛情に答えるかのように、トムは静かに席に着く。そして目線の先にいるのは、勿論うつむいたままのエディだ。ここからは純粋な切返しが始まる。やがてエディの顔は上がり、二人は見つめ合う。そしてふと何かを見つけたという顔のトムのショットでこの映画は幕を下ろす。
「君の目を見たときに好きだということがわかった」トムはチアガール姿のエディを抱いてそっと呟く。つまりラストのトムが見つけたものは「それでもまだ愛している」というエディの愛情のまなざしだったのだろう。だからこの映画のラストに台詞は必要がないわけだし、この切り返しだけで、映画になっている。
ただしかしこの結末が、安易に愛情の安堵感だけで締め括られているとは到底思えない。この映画の根底には暴力は暴力である、暴力は暴力を生む、ということがあるからだ。暴力を愛で乗り越える映画では決してないのだ。ただエディのまなざしには「許し」が存在する。それは暴力の中にあるのではなく、やはり愛の中にあるのだ。許すこと。[映画館(字幕)] 10点(2008-10-02 01:49:05)(良:3票) 《改行有》
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