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1. ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド
《ネタバレ》 ただの映画ギークだったクエンティン・タランティーノが、いよいよアメリカ映画界の巨匠になろうとしている。
『イングロリアス・バスターズ』では、糞ったれた史実を、バット一本で完膚なきに塗り替えてしまう、という傑作を見せつけたが、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』に於いては、映画史に刻み込まれてしまった狂った殺人事件を、もう単純に家を間違えるというだけで、これもまた塗り替えてしまうのだ。平たく言えば嘘つきだ。所詮、映画は絵空事だ。
だがしかし、こんなにも優しい嘘はない。
まさかタランティーノの映画を観て、最後の最後で泣きそうになるなんて。
しかもその直前までは笑いまくってたのだから。
最後の最後まではずっと壮大なフリだ。もうぎりぎりまでフリ続ける。
ハリウッドをレオナルド・ディカプリオでフリ、マンソンファミリーをブラッド・ピットでフリ、
そしてマーゴット・ロビーが自分の映画を観るという件がまたサスペンスを高めるフリだ。
そして岐路は単純。そう家を間違えるというだけ。
そこからのブラッド・ピットの怪演とタランティーノ得意のゴアなバイオレンス描写がもう笑えてくる。
ここで、事実を捻じ曲げて、さあどうするタランティーノ、どう決着をつけるというふうになる。
しかし誰もが納得するだろう。
現代ハリウッドの象徴と言って過言でないレオナルド・ディカプリオとシャロン・テートを抱擁させる。
彼女をスクリーンの中で生き続けさせること。
そしてタイトル Once Upon A Time in ... Hollywood
それがしたかったのか。泣ける。優しいよ、タランティーノ。
これは史実に対する復讐である。
糞ったれた史実を犬に噛み千切らせ炎で焼き尽くし、血生臭いフィクションを張り付ける。
生と死を描いて辿り着く先は、優しい抱擁、これこそ正に映画である。
またしても傑作。
さて、帰路に着いてふと思い出したが、『イングロリアス・バスターズ』の最後、クリストフ・ヴァルツは、ブラッド・ピットによって額にナイフで鉤十字を刻み込まれるんだ。実はここから既に壮大なフリだったのか。まさかそんなわけがあるまいな。[映画館(字幕)] 9点(2019-09-07 00:28:01)《改行有》
2. 忘れじの面影(1948)
《ネタバレ》 リザは寝室を抜け出し、母がいるリビング前をぴょんぴょんとすり抜け、玄関を出る。
そしてステファンの部屋の扉のちょっと上の小窓をこっそりと開けて彼のピアノの音色を聴くのだ。
小窓から音と共に流れ出すささやかな風が彼女の髪の毛を揺らす時、
ああ、映画の美しさとはこういうことかと感じるだろう。
同構図による時間経過後の反復は、同意義である一方でそこには決定的な差異があって、
その差異こそがそのショットの狙いなわけだけど、そもそも反復される前の元のショット自体に
なんだか強い力みたいのがあって、そこで先ず一発喰らわされて、
そして後に更にまた一発喰らわされるという、恐ろしい仕掛けだと熟思う。
この作品での同構図反復は、先ず、階段上からのリザひっかけの階段下を見た俯瞰ショット。
そこにステファンと別の女が帰って来て、ふたりが階段を上ってくるのにつけて、
徐々に軽くトラックバックしていき、リザはフレーム右端の壁にそっと隠れる。
二度目はそのワークそのままなのだが、リザがステファンと階段を上ってくるのだ。
最初にリザが隠れていた壁もしっかりとフレーム内に収めてはいるけれど、
そこはいい具合に暗闇になっていてこれが好い。
隠れて見ていることしか出来なくて泣いて帰ったリザが、
今はあの時自分が見た光景の様に、その憧れの男と一緒に階段を上っているという美しさだ。
あのときはこの暗い壁のところに隠れていたのだ。これが同構図反復の強さだと思う。
この映画はそのような流麗なカメラワークは勿論、あのアパート(特に階段)であったり、
冬の夜の遊園地であったりする完璧なまでの美術セットも素晴らしいだろう。
そして最後の扉前の合成の見事さったらないよね、って思った。
正に、忘れじの面影、素晴らしい邦題。[映画館(字幕)] 8点(2014-07-18 03:38:12)《改行有》
3. ワルキューレ
《ネタバレ》 恐らく誰もが言うだろうが、ゲッペルスが青酸カリらしきものを口に含むシーンや、トム・クルーズ演じるシュタウフェンベルクが失われた左手を高々と挙げて「ハイルヒトラー」と叫ぶシーンであるとか、そして電信所の女たちが総統の死の知らせを知り「ハイルヒトラー」という様に手を挙げる様などが素晴らしい。
この映画の簡潔さ、例えばシュタウフェンベルクの家族に対する愛情というのを鬱陶しく描かないことからもわかる通り、個々の内面、ひととひととのぶつかり合いや葛藤などという今更という陳腐なことを描くナチス映画ではないことを雄弁しているだろう。こんなにも簡潔な映画の中でひととひととのぶつかり合いなどという面倒被ることを延々と描いてもつまらないだけだ。この登場人物たちは互いを理解し合って決起するのではなく、軍事クーデターを行うということに感染して集うだけの駒だ。シュタウフェンベルクが暗殺を行い戻ってきてから、皆が同士である印のカードを次々と取り出すシーンなどは正に感染でしかない。軍事クーデターを行うことが重要であって、理解を深めることは問題ではないのだ。だから極端な話をすれば、この映画は「ワルキューレ」なのだから、ワルキューレ作戦が描かれていればいい。シュタウフェンベルクでさえもこの映画においてはワルキューレ作戦に感染した駒のひとつだ。彼は現実、今や英雄かもしれないが、この映画での彼の最期は国を愛する正義というよりは、ワルキューレ作戦という軍事クーデターに雄叫びをあげて殉じた狂信者としか映らない。ただそれでいい。「ハイルヒトラー」と叫んで死ぬか、「ドイツ万歳」と叫んで死ぬか、このふたつは簡単に入れ代わりが可能なほどの差異なのだ。
ただ、この事実を忘れてはならないということ、それを終幕直前のふたつのショットがそう言っている。
ひとつめはシュタウフェンベルクが処刑され、地面に倒れた時のクロースアップ。彼の目は閉ざされることなく、こちらをじっと見つめている。
ふたつめは一度登場したショットの続きとなるラストショット、シュタウフェンベルクのアイパッチをした左側頭部を入れ込んだ、彼の妻との別れのときのショットだ。
このふたつのショットは明確に示している。刮目せよ(忘却するな、という意も込められているだろう)、あなたたちはわたしの左目となって事実を目撃したのだから。
それでこの映画は充分だ。[映画館(字幕)] 8点(2009-04-15 00:57:36)(良:2票) 《改行有》
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