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【製作国 : アメリカ 抽出】 >> 製作国別レビュー統計
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21.  トゥルー・グリット 《ネタバレ》  父の復讐という正当さを盾にしようとも、幾つもの骸を生み出す契約を結んだ彼女に、契約の代償という名の矛は突き刺さるのは当然であり、またそれを受け入れること、それを受け入れた力強さこそが、あのラストショットの背中なのだ。 彼女が蛇に咬まれた以降こそがこの映画で最も重要であることは誰にでもわかるだろう。彼女はコグバーンに馬に乗せられ、幾つもの骸を見つめ、峠を越え、そして愛馬をも失う。果たして復讐とは一体何なのかと自問自答するのだ。正当な交渉と契約をも無効にしてしまう復讐に意味はあったのであろうかと。 しかし過去は取り返せない。復讐を果たした彼女の宿命、それは片腕を失い、孤独となり、また過去の戦友と再会することをも許されない。それでも彼女は凛と力強く歩いて行ける。そんな彼女をいつまでも見守っているかの様にコグバーンの墓石が彼女の背中を見つめている。この時のショットの力強さに圧倒され、この力強さにはイーストウッドと似たものを感じた。[映画館(字幕)] 8点(2011-04-13 11:27:56)(良:6票) 《改行有》

22.  人生万歳! 《ネタバレ》 ウディ・アレン、久しぶりのアメリカ舞台の作品。アメリカを出て撮った数作のちょっとしたシリアス路線など無かったかのようないつものアレン映画。皮肉とジョークと良き音楽で魅せるアレンらしい映画だ。主演をラリー・デヴィッドに任せるも、あれはアレンの化身の他の何者でもない。 今回も「それでも恋するバルセロナ」の時に書いた様に、ある一点のみについて書いておこうと思う。それは尺取虫の母親が初めて写真を見せるシーンで写真のインサートを一切入れないのがアレンであるということだ。どんな写真なのかは必要な情報ではなく、その写真から始まる物語が重要であり、それはふたりと、ふたりがいる風景があればそれでいいのだということ。もし写真のインサートが入ると、その内容、尺取虫の娘のミスコンの情報が現れ、その物語が立ち上がってしまう。そうなると、あのふたりのこれからの物語に移行するのに遠回りになる。だから入れない。それで絶対的に正しいと思うのだ。 本作で監督作品40本目、そういった巧さを心得ているアレン、まだまだ枯れるはずなどない。[映画館(字幕)] 7点(2011-01-14 18:59:21)(良:1票) 《改行有》

23.  アンストッパブル(2010) 《ネタバレ》 「マイ・ボディガード」146分、「ドミノ」「デジャヴ」127分、「サブウェイ123」106分、そして遂にトニー・スコットの映画は100分台をきった。「アンストッパブル」近年最速の上映時間99分。 ありとあらゆるアングルからカメラを構え、空撮、ハンディやクイックズームを活用し、動いていることそが映画であると、総てにおいてを「動き」として収め、そしてその総てをアクションで繋ぎ、一切の「間」を観客に与えない。子供は平和の象徴でありながらも同時に危機に直面する不安定さであり、野次馬は出来事の重大さと日常生活の中にある危機を表し、テレビと路線図は簡潔な説明の他の何物でもない。スクリーンに映し出されるものは総てが必要な情報だと処理し、途轍もないスピードで駆け抜ける。 暴走する列車を止める、たったそれだけの話だ。 徹底してそれだけだ。だから巻頭間もなく列車は直ぐに走り始め、エンドロール直前まで列車は止まらない。更にデンゼル・ワシントンとクリス・パインですら列車を止めるひとつの装置として処理される。彼らは「列車を止めることが出来る唯一の男たち」という装置だ。であるから、とにかく列車は走り出し、後から貼付けられるべたべたの人情劇があるが、はっきり言って本作に関してはそんなものは、トニー・スコット含め我々観客も殆どどうでもいいと思っている。更に言えば、労働環境がどーのとか触れるのだがそれもどーでもよい。これは鑑賞後「何も残らない映画」であって、考えることなどない。ただ最高に面白い映画がある、それだけだ。重要なことは列車が止まるのか、止まらないのかということだけ。この列車の周りで起ること総ては、この列車を止めようとするそれぞれの装置。ふたつの過失から始まるこの映画は誰をも悪として描かない。列車に追いつけない、いかにもドジでのろまな風体を醸し出したあの男ですら、悪としては描かれない。会社の上層部は自分達の立場としての態度であり、それは悪ではない。悪と対峙しない、刃物や銃器も登場しない、しかしあそこまでの激しさを演出するトニー・スコット。もはや他の追随などに関心など示さず、全く別の次元で映画を作っているとしか言いようがない。[映画館(字幕)] 8点(2011-01-08 17:04:50)(良:3票) 《改行有》

24.  トロン:レガシー 《「トロン:レガシー」に見る3D映画》  CGと3Dという「トロン」にとって最高の素材が整ったであろう今、続編を作る意義はわかる。しかし、これを全く聞いたこともないジョセフ・コシンスキーとかいう新人監督に撮らせたことは疑問だ。また脚本の2人はテレビドラマの「ロスト」などの脚本を手掛けているようだが、何故その2人なのかも疑問だ。展開と情感を会話とフラッシュバックに任せるのはいいが、それが全く駄目という下手糞さは退屈な時間で、無駄に映画を間延びさせる。現実世界を2D、ゲーム内を3Dと使い分けるというのは3D映画として正しい姿勢だと思うが、この3D感の無さ、使い分けの駄目さは何だろう。めっちゃ3D!って感じにしなければ、この使い分けの効果など無効になる。ただこういった使いわけ故に3Dのみ上映にした勇気は買うが、まぁ失敗だな。 3D映画に求めるものというのは、大概の場合が飛び出して来る何かだ。本編上映前の「パイレーツなんチャラ」の予告編では扉を突き抜けてくる剣が見事に飛び出して来た感があった。確かにそれもいいが、3Dってそれだけじゃない。「アバター」の冒頭近くの宇宙船か何かの中のシーンで、手前、浮遊する人物、奥、という奥行き感が半端なくてこれは立体映像だと思えた。今回実写3Dを観て改めて思うのは、やはり立体感を出すのに、ボケ過ぎは駄目だということ。2Dの映画におけるボケとピントがきている箇所というのは、立体感や奥行き、そしてそこを見せたいという作り手の意図だ。そういった作り手の意図を、3Dでは飛び出ている部分と奥の部分で表現出来る。その時に奥がボケているというのは3Dにおいては意味がないというか、立体感を損なう要素になる気がする。本作にはそういった奥行きを活かした部分は皆無と言って過言ではない。個人的には飛び出してきそうな何かでなく、そういった奥行きとしてどういう表現になるのかに期待しているんだが、もしかしたら3D映画の見方としては的外れかもしれない。 そして現時点で実写3D映画はCGありきであって、早く奥行きを駆使した実写のみの3D映画が観たいが、まぁ無理だな。 詰るところ本作を観て改めて思うのは、実写の3D映画に今後も期待などしても無駄だと。だからこそ「トイ・ストーリー3」と併映された本作同様に2D・3Dを織り交ぜた短編「デイ&ナイト」は観ておくべきだったと後悔している。[映画館(字幕)] 3点(2011-01-03 18:13:32)《改行有》

25.  エアベンダー 《ネタバレ》 シャマランはこの映画で何をしたいのか。 そもそも彼は登場人物に感情移入させるとかいう映画において最もどーでもいいようなことには勿論興味はないし、なんなら物語自体にもそんなに興味を持っていない。彼は物語をどう描くかってことを深く考えているだけだ。 台詞やモノローグ、ショットまでも、すべてが説明であり、説明の構築だけでこの映画は成り立っているかのように見える。どことどこの国が喧嘩して今こーいう状況で、だからこの人たちはこーしますよ、っていう説明をやっていくのだけど、それは物語だから興味なくて、ないというかそれが一番描きたいものじゃなくて、この映画で描きたいのは、あくまで一度逃げ出したアンがもう逃げ出さずに運命を受け入れるということを物語を通して描きたいわけだ。その描き方に集中している。だからその周りで起こっている出来事なんぞなんだっていい、と言うと語弊があるかもしれないが、まぁなんだっていいんだろう。 だからそこだけは説明じゃない、ちゃんと連鎖してる。 アンは仮面を被った火の国の王に助けてもらうわけだが、アンは一度は彼を置いて飛び立とうとする。しかしアンは一度逃げ出したということを深く後悔しているのだ。だから踵を返し、彼を援護する。この時のカット割りとそのテンポは実に巧妙で、この時この映画は飛躍する。それまでの説明がその瞬間に集約されそこで大きく開花するってことだ。アンはもう逃げ出さない。 これは最後の海の壁を聳え立たせるシーンでも言える。何かを犠牲にして運命を受け入れるという困難さの克服、その克服の瞬間に集約される大きなアクションとしての巨大な海の壁、これが映画としての起伏だと思う。 まぁシャマランにしてみれば、説明を重ねることによって、最も描きたい部分への布石となるならば、そのための説明で何が悪いんだってとこだろう。[映画館(字幕)] 6点(2010-07-23 23:42:18)《改行有》

26.  プレデターズ(2010) 《ネタバレ》 設定だけの映画。プレデターが狩猟の本能を高めるために、異星人たちを次々に拉致し、とにかく狩る。こういう乱暴な設定というのはきっと例えばプレイステーションとかでやってるゲームによくある。この設定を活かす気などこの映画には全くない。つまり物語らしき物語というのが存在しない。この映画は先述の設定だけを100分近くも間延びさせただけに過ぎない。 観客もろとも謎の惑星に叩き落されるというこの入口は最高にスリリングで興奮したし、五里霧中でプレデターと狩り狩られ、そして最終的にそこから一歩も出ないという構造もまた良い。背景の殆どが森であるからこそ、ハイアングルとローアングル、ワンショットとグループショット、縦と横の動きも使い分け、視覚的には飽きさせない。狩るということを、首をはねるという行為に凝縮したラストは良いし、何よりも最後の台詞「さぁこの惑星を脱出するぞ」はとても好ましいものだが、あれは引き画ではなくバストショットで撮るべきだ。 しかしながら、登場人物たちの行動範囲の位置関係の不明さ、後付けされていくキャラクター、特に医者が殺人狂者であったとか、ヤクザが刀で一騎討ちというのも、それは設定であって、設定から派生するものを描けないというのは駄目だってことだ。 最後にひとつだけ。日本のアニメーションやゲームは確実にハリウッド映画に大きな影響を及ぼしている。未来のハリウッドの巨匠たちが、リスペクト或いはインスパイアの対象として、アメリカ映画史の偉人たちやその作品群ではなく、日本のアニメーションやゲーム、その作者の名を口にする日は必ずや訪れる。寧ろ既に訪れているのだろう。つまりもはや映画は世に言われる日本のおたく的な文化を吸収せずには語れない存在となってしまったということだ。 [映画館(字幕)] 5点(2010-07-22 21:21:35)(良:3票) 《改行有》

27.  ローラーガールズ・ダイアリー 《ネタバレ》 何も新しいことなどない。このフィルムがスクリーンに映し出すもの殆どが既にどこかで観たことのあるようなものであり、その物語も驚くべき何かがあるものでもない。しかし、それでいいのだ。そこにはアメリカ映画が培ってきたアメリカ映画としての、そして映画そのものとしての喜びに満ち溢れているから。 人間の感情というのは複雑でありながらも単純なものでもあり「喜怒哀楽」などという四つの漢字を複合することで表現することもできる。しかしながらやはりその四つの間は複雑さという幾層ものグラデーションとなり、それを映画に於いて描くことがどれだけ困難であるかは過去の成功には至らなかった映画たちが雄弁に物語っている。しかしながらこの映画はそんな映画たちを尻目に、満ち溢れた幸福感から途方もない絶望感へという途轍もなく広いふり幅を限りなく単純ながら繊細に描き切ってしまう。そしてそのふり幅をも圧倒的に振り切る喜びと爽快さをこの映画は魅せつける。それがアメリカ映画の素晴らしさだ。 そう、アメリカ映画の素晴らしさ、それは勝つことでの感動ではなく、「We are No.2!」という負けても自分たちを肯定する美しさを描くこと。つまり負けても、それは本質的な負けではないということ。だからこそより感動的なのだ。[映画館(字幕)] 8点(2010-06-12 23:51:25)(良:2票) 《改行有》

28.  グリーン・ゾーン 手持であろうと、スタビかまそうと、クイックズームしようと、フォーカスが合ってなかろうとなんでもいいのだけれど、でもこれって「見せる」という気がないのか、あるいは失敗しまくってるのか、それともこれがかっこいいと思っているのか、つまりスタイルとして確立したいのか、全然わからなくて、やっぱし観ていて思うのはこんなの駄目だろってことだけで、極端な話だけど、ドキュメンタリーは即時性だからどうしたって追いきれないとか撮りきれない瞬間てあると思うのだけど(まぁそれを撮るのがプロフェッショナルだけど)、しかしこれってドキュメンタリーじゃなくて、所詮そっれぽい感じのフィクションだから、だったら、何を見せるべきか、つまり、撮るべき対象っていうのがしっかり固まっていて、つまり芝居をつけてそれを狙うわけで、それがちゃんと撮れてない、っていうか敢えて撮ろうとしないっていうのは、ただの撮影行為の放棄じゃねぇかよって思うし、戦場の雰囲気ってこういうことじゃないだろっても思うし、要するに撮ってる側が戦場に入り込みすぎた感じのぶれぶれの何映っているかわからない映像のどこに映画の客観性があるんだよってな話で、どんなに頑張ったてスクリーンのこっち側にいる人間は客観であるしかないわけで、それを飛び越える瞬間てあるとは思うけど、こういうことではないんだってことははっきりと言えるのだ。 もう一つ言えば、そういうフィクションさを消したい感じ、つまりリアリズムを求めるのは、それはそれで良いけど、まぁここまで書いた通り、この映画の映像はまず徹底的に駄目で、じゃあお話はどうかってことで、でもやっぱりお話部分も駄目だと思うわけで、結局、映画の面白さって、時に、嘘っぱちさだと思うわけで、事実に創作を入れ込んだものというのは、その創作部分が事実を塗潰してしまうような嘘っぱちであって欲しいのだ。[映画館(字幕)] 3点(2010-06-01 22:20:15)(良:3票) 《改行有》

29.  第9地区 《ネタバレ》 既に言われているのが、この映画と「アバター」との類似である。それは、大袈裟に言えば、異星人を肯定的に、人間的に描き、寧ろ人間自体の存在を否定的に描いているという点だ。というのも「アバター」に登場する異星人とこの映画の ”エビ” は観客が受け入れ難いほどの奇妙な造型で、明らかに人間の敵なのではと思わせるが、彼等に人間を滅ぼすという強い意思などはまるでない。話が進むに連れ、この映画で言うならば ”エビ” たちはただ故郷に帰りたいと願うだけなのに対して、人間の利益という欲望が醜く見えはじめることにより、観客は寧ろ異星人たちに感情移入し始め、人間なんて糞ったれた存在だと感じ始める。そしてその中間地点に置かれる主人公が、異星人の姿形になってしまうことで、このふたつの映画はより観客の感情を異星人側へと導こうとする。 かつて映画で描かれてきた殆どの異星人というのは地球を滅ぼす敵であった。そして姿形を異星人へと変化させた人間は死ぬか、元に戻ってお終いとなるものが殆どだ。しかしこの2本の映画が決定的に違うのは最後に主人公は死にもしなければ元にも戻らない。寧ろ、それを受け入れ、そしてそれとして生きる。ただ「アバター」とこの映画の大きな違いはここからにある。この映画の主人公は「アバター」の主人公のように何も好き好んで ”エビ” の姿形を選んだわけではなく、寧ろ元に戻りたいのだ。妻を愛している。この映画のラストショットを見れば一目瞭然「アバター」より遥かにセンチメンタルに溢れているではないか。 またこの映画のはっきりとした意思というのは、友情と約束である。人間と異星人の間に微かながらも友情が芽生え、約束が結ばれるが、果して人間同士というのはどうなのか。この映画の舞台に南アを選択したのにはそういった意味もあるのだろう(それは南アが現在でも抱えてる問題、世界最悪と言われる治安やタウンシップとかもあるし、あとはアメリカでは起き得ないことでも南アであれば納得させやすいという理由もあるだろうが)。少なくともこの映画はそういった教訓を描いている。しかしそれは決して押し付けがましいものでなく、それ以前に立派なエンターテイメントとして仕上がっている。 また利害関係とは全く別で、ただ愚直に人間様という思いだけで、敵である異星人を片っ端から始末する軍人がどちらの映画にも存在するというのが見逃せないところだ。[映画館(字幕)] 7点(2010-04-15 06:10:24)(良:1票) 《改行有》

30.  シャッター アイランド この映画の本来の姿というのは、謎解きではなく、消えた女とつきまとう女に苦悩していく男を描く事が正しいんじゃないかって思うのだ。デニス・ルヘインは「ミスティック・リバー」の原作者でもあるわけだが、イーストウッドが聡明なのはミステリーではなく男たちの苦悩を描ききったところが素晴らしかったわけで、スコセッシの技量ではそんなところには到達できない。彼は何やらこの映画を難解にしたいのか、それとも技巧派を狙いたいのか、それとも今更アーティスティック気取りなのか、変にこねくり回すからつまらない。意味深な台詞や、極彩色に彩られた過剰なまでの妄想のシーンなど、何の意味があるのか。意味深にする必要もないし、灰とか降らす必要もないし、普通にやればいい。そのせいもあって無駄に間延びして150分近くあるから許せない。殆ど内容がすかすかなことに気付かず間延びさせて長尺になるいつもの状態だ。無駄は削る。必要な事象だけを描く。映画はそれでいいはずだ。それが下手糞だから、いつまでたってもスコセッシはなぁと思う。 そしてミステリー、つまり謎というのは、結末を指した言葉であるはずがないのだから、その謎というもの自体の話しであって、結末というのは二の次なのだと思わなければならない。なのだから結末が衝撃的であるというのは、結末に至るまでの過程がどんなもんであるかで決まるもので、過程の段階で結末ばかりを見据えた展開というのは、結末有りきなものとなって、展開の面白さを疎かなものにしちゃう。  それは決して幕開け数十分で結末が読めるから詰まらないとか、宣伝に煽られただけで落胆とかそんな文句とは別で、その読める結末に着地するまでの展開を楽しみ、そして結末を読めていようが、納得して結末を迎えられるかというところを考えるべきである。だからこそこの映画はミステリー云々以前に、ディカプリオの苦悩を描ききらなければならなかったのではないか。ならばこそ余計に、過剰なまでのあれらの映像が果たして効果的であったのかと疑問が残ってしまうってもんだ。 そして「騙されないでください」云々という本編とまったく関係のない冒頭の件だが、そもそも映画自体が嘘の塊であって、寧ろ映画など騙されてなんぼなもんで、余計なお世話だと言いたい。根本的に間違っている。 音楽は多少過剰かとも思えるが、素晴らしい。[映画館(字幕)] 4点(2010-04-11 02:49:00)《改行有》

31.  ハート・ロッカー 最低である。最悪でもある。 みんなで頑張って爆弾処理に行こう、イラクに泊まろう、みたいな映画である。あるいは、USアーミー爆弾処理班の仕事紹介のイメージビデオだ。それでも俺は戦場に行く、というメッセージか。明らかに戦闘意欲を昂揚させている。反戦とかそういうこととは別に、軍隊に入ろう、爆弾処理の記録を作ってヒーローになろうみたいな糞みたいなことを2時間以上も観せられた。もはや拷問だ。 戦争に行ったことのない女監督が、さも戦争知ってますみたいな面して、これが真実、現実です、みたいに押し付けてくる映画を作っちゃたっていう最悪な出来事だ。彼女は恐らく戦争が麻薬とかそんなことには大して興味はなくて、USアーミー辛いけど頑張れくらいの労いの気持でこの映画を作っている。それがいけないんだ。それが駄目なんだ。それが糞ったれなんだよ。こんなところには真実も現実もない。それらは戦争を体験した人以外にはわからない。映画で戦争をやるならそれなりの覚悟が必要だってこと理解しなければならない。これはスーパーマーケットで沢山あるシリアルの中からお気に入りのシリアル買ってるような女がやっちまった惨事だ。そもそも映画なんかに真実や現実なんかあるわけがない。戦争を経験してない人間は主人公の妻みたいに押し黙ってるしかできないんだよ。素早い反応なんて出来ないんだよ。だって経験してないんだから。童貞やバージンがセックスについて語れないのと同じようなもんだ。しかし、自分にも責任があるってことを忘れては駄目なんだよ。それは戦争を知らない人々にも罪はなくとも責任はあるからで、罪は個人に関わり、責任は集団に関わるからってことだ。 爆発すると映画的にも華があっていいよね。人間関係、対立とか、友情とか、信頼とか中途半端に描いて何がしたいのかね。物語も放棄して、ただ映像繋げて垂れ流して、あと何日とかいう何の効果もないチャプター分けして、手持ちかスタビで、クウィックズームで臨場感ですか?立派だねぇ。嗚呼立派だ。まさか21世紀初頭、こんなプロパガンダにアカデミー賞をあげるなんて、アメリカという国はまだまだ異国で糞垂らしまくる気なんだな。本当に立派な国だ。 アメリカ映画の面汚し的愚作。中指立てて差し上げます。  [映画館(字幕)] 1点(2010-03-13 00:00:18)(良:1票) 《改行有》

32.  インビクタス/負けざる者たち 《ネタバレ》 久しぶりに死の影をほとんど感じさせないクリント・イーストウッドの映画であったわけだが、彼の映画における「幽霊」という存在はこの映画でも健在であった。マット・デイモン演じるフランソワが皆を引き連れてロベン島に行くが、そのときに独居房や採掘上に現れるモーガン・フリーマン演じるマンデラは、生きる魂、正に生霊的である。そう、肉体を魅せるのではなく、魂を描くことこそがイーストウッドの映画なのだ。 冒頭、黒と白という二項対立構図を一本の道を挟んだだけの俯瞰ショットで描き、その黒と白は徐々に混ざり合っていくのだが、それが決して図式的に陥らず(肉体ではなく魂を描くからこそ図式的に成らない)、さも現実的であるかのように描き切ること、それもまたやはりイーストウッドである。しかし実際、全く現実的とは思えない。例えば、過労で倒れるマンデラや負傷してしまったチェスターが、何のきっかけもなく突如として全快してしまうという全く真実味を感じさせない流れ。しかしその流れに何も違和感を感じさせない力があるのは一体何なのだろうか。それは本作がとにかく簡潔であるからだ。無駄なものなどすべて根こそぎ削り取られ、そこには出来事のみが集約されている。彼がカメラを向けた瞬間にそれはさも現実的であるかのように立ち上がり、出来事が起こり、フィルムに定着し、映画と成り、そしてそれは「あったこと」となってしまう。それは力強く、そして熱く、凛として感涙的な事実と成ってスクリーンに投影されるのだ。 それにしても最後の試合のシーンは凄い。選手たちの動きのみならず、審判が時計を確認して笛を吹き鳴らす瞬間までハイスピードで撮影している。更には選手たちがぶつかり合う音までもが間延びしているのだから凄い。ここまで間延びさせると逆に躍動感を失いそうなものだが、平然とそれを乗り越えて、心震え上がるようなシーンに仕上げてしまう手腕にはやはりただ驚愕するばかりだった。[映画館(字幕)] 8点(2010-02-22 23:53:57)(良:3票) 《改行有》

33.  アバター(2009) 殆どのことを棚上げし、「アバター」という映画をIMAXデジタル3Dで観るという体験についてのみを書こう。 創成期、映画は体験された。リュミエール兄弟が初めて「ラ・シオタ駅への列車の到着」を上映したとき、観客は列車がスクリーンから飛び出てくるのではないかと驚いて逃げ出しだという逸話がある。これの真偽は確かではないが、正に映画を体験するという言葉通りの話である。 現代、そういう逸話が産まれることは決してないだろう。しかしこの映画にはそれに匹敵するような圧倒的な映像がある。それは実に映画的な体験として観た者の感性に刻み込まれるに違いない。 この映画はほぼ実写ではない。だから映画ではない、ただのお絵描きだといういうような愚言などは正直どーでもよい。問題は映画を魅せつけるための、アングル、引き画、寄り画、トラヴェリングショット、カット割り、光と影があるかということだ。この「アバター」にはそれが映画史百年が培ってきた証として刻まれている。これはお絵描きをしてきただけで到達でるものではないのだ。 映画はついに実写と(モーションキャプチャーによる役者の演技があってこそ成り立つ)CGIが何の違和感もなく同じフレームに収まり、感動的な出逢いをする瞬間を迎えたのだ。CGIが実写を抱え上げ、涙し、実写はCGIの頬をそっと撫で、また涙する。これはあるひとつの映画の到達点だ。 (物語などはさて置)誰もが圧倒的な映像に打ちのめされ感嘆させられるだろう。これを単なるCGIだと言うのであれば、それは自分の感性を呪詛するべきだ。 IMAXデジタル3Dで観るという体験はひとつの体験として実に新鮮であり、破格のものである。[映画館(字幕)] 8点(2009-12-26 04:04:08)(良:1票) 《改行有》

34.  パブリック・エネミーズ 《ネタバレ》 フィルムのみならず、小さなビデオカメラも手にしたマイケル・マンのカメラワークは自由自在で狭い部屋の中も縦横無尽に動き回る。冒頭の脱獄シーン、車で仲間の手を離すまでの一連のカット割なども見事であり、そういう角度にカメラを入れるのかと感嘆する。勿論、熱を持った銃声だけが響き渡る森の中での銃撃戦の音響処理はいつも通り見事であり、マイケル・マンの映画である烙印だ。この銃撃戦のシーン、音楽も一切排し、緩慢に間延びしきっている。しきってはいるが、それが退屈へと陥らず、ぎりぎりのところでサスペンスとして完璧に成立しているのだ。これもまたマイケル・マンの烙印と言っていいだろう。そして単純ながらもジョニー・デップ演じるデリンジャーとマリオン・コティヤール演じるビリーのカットバックを撮ること。これがこの映画のすべてなのだ。 だからこそ最後が泣きなのだ。 デリンジャーは映画館でクラーク・ゲーブルが演じるブラッキーの潔い死に際を目にする。これは「男の世界」という映画だが、電気椅子を自ら選ぶブラッキーに、ウィリアム・パウエル演じるジムが「Bye Bye Blackie」と言うのだ。デリンジャーとブラッキーというカットバック、デリンジャーは何を想い、映画館の席を立ったのだろうか。そして彼は最期を迎える。彼の死に際のひとことをスティーヴン・ラング演じるウィンステッドがビリーに伝えにやってくる。「Bye Bye Blackbird」。これがアメリカ映画の本質的な泣きの瞬間だと信じてならない。そして涙を流すビリーのクロースアップ。映画はそこで幕を降ろすと思わせるが、最後にもうワンショットある。ビリーのPOV。素晴らしいではないか。[映画館(字幕)] 8点(2009-12-23 20:04:30)(良:2票) 《改行有》

35.  イングロリアス・バスターズ 《ネタバレ》  大傑作。 スクリーンに映し出される多量の空薬莢とその前に積み上げられたナイトレイト・フィルム。 フィルムが発火し、スクリーンが燃え上がり、観客は撃ち殺され、映画館は爆破される。 映画そのものが燃えて、すべてが灰と化していくのだ。 映画への冒涜、あるいは尊崇。 崩壊していく館内、ショシャナの高笑いだけがサウンドトラックを通して響き渡る。 しかし映画は決して死なない。 やがてスクリーンがあった場所にかつては映画であった残骸たちが白煙となり舞い上がる。 そして蒼白な光が投影される。 そのショシャナの顔は幽霊そのものであるが、またそれと同時に優麗でもある。 これは彼女の復讐劇であり、映画の復讐劇でもある。 糞ったれた史実を、バット一本で完膚なきに滅多打ち、血生臭いフィクションをその上に張り付ける。 生と死の上に積み上げられた、新たなる歴史という名のフィルムは正に映画である。 間違いなくこれが彼の最高傑作。[映画館(字幕)] 10点(2009-12-01 19:15:49)(良:4票) 《改行有》

36.  スペル 《ネタバレ》 サム・ライミという監督が登場した当時のUNIVERSALのロゴマークで始まる本作は、彼がこの映画で何を描きたいのかということの表明だ。「死霊のはらわた」が処女作の彼は、ホラーというジャンル映画の監督の枠で収まることなく、西部劇や野球ものを描き、そして「スパイダーマン」という大衆向け商業映画を大成功に導いた。そうやって培ってきた映画的感性を自分の原点にフィードバックさせた、原点回帰がこの映画である。 風や物音、カーテンに映るシルエット、蠅などの虫や、体内から吹き出るどろどろな液体の数々など、もはや使い古された手段ばかりがスクリーンを駆け巡るが、彼の円熟の域に達した演出力は決してそれを飽きさせない。 白い封筒の中に丸い何かが入っているというそれだけでラストのサスペンスを盛り上げていく巧さなど見事だ。車中でアリソン・ローマン演じるクリスティンが誤った封筒を手にした瞬間、誰もがそれに入っているのはボタンではないくコインであると気付く。その真実を知るのは観客のみであるというところにサスペンスの巧さがある。つまりコインは重要で、だからこそ、ジャスティン・ロング演じるクレイと彼の父親との会話の中にもさりげなく登場させ、その存在を決して観客に忘れさせないのだ。 またクリスティンがローナ・レイヴァー演じるガーナシュ老婆の口に白い封筒を突き刺す泥々のシーンを雨で浄化させていき、そのままフェードでシャワーシーンに移行するところから始まり、彼女のハッピーエンドを期待させるような明るいシーンの連続はホラー映画だけを撮り続ける監督では出来ない晴れ晴れしさであり、また、地獄への素晴らしい前ふりであった。 そして彼女がいきなりコートを買う。これがおかしい。このシーンを見ているとき、何故ここでこんなシーン挿むのか不思議でならなかった。確かにとても大切な旅行だ。しかし突拍子もない。だがそれは、ボタンが入った封筒を出すきっかけへの絶妙な伏線だったのだ。あざとさをまったく感じさせない巧さだ。 そして謝れば許されるという結論には決して辿り着かせない潔さ。何があってもクリスティンを守ると誓ったはずなのに、彼女を守れなかったクレイのクロースアップ。そしてスクリーンいっぱいに映し出される「DRAG ME TO HELL」の文字。「俺も地獄に連れて行ってくれ!」素晴らしいではないか。 真のアメリカ映画とはこういう映画のことだ。[映画館(字幕)] 8点(2009-11-29 01:47:24)(良:4票) 《改行有》

37.  リミッツ・オブ・コントロール 《ネタバレ》  拳銃を使わない映画 セックスをしない映画 携帯電話を使わない映画 復讐すらも無意味な映画 そこにあるのはふたつのカップに注がれたエスプレッソ そして幾度も同じ台詞が繰り返される 目的はひとつ「自分こそ偉大だと思う男を墓場に送る」こと そんな殺し屋の映画 物語の起伏となる要素をすべて排し ただただ淡々と時間だけが直線上に流れていく イザック・ド・バンコレ演じる孤独な殺し屋は 仕事中の堕落を一切禁じる またパス・デ・ラ・ウェルタ演じるヌードの女は すべてを破滅に導くファム・ファタールのような素振りだが ファム・ファタールとしてはまったく機能していない そしてティルダ・スウィントン演じるブロンドの女は 「上海から来た女」の話をし始める しかしラストのビル・マーレイと対峙するシーン 一面鏡張りの部屋にしたりはしない つまりこの映画はフィルム・ノワール的要素を散りばめながらも それらを一切禁欲する 新たなるフィルム・ノワールと言えるだろう ジム・ジャームッシュのスタイリッシュさはとても正しく どのアングルも どのカットの繋ぎも どのハイスピード撮影も どの音楽の挿入も すべて納得させられるものだ 想像力さえあれば 映画には限界はないし 映画の行く路を決めることなどできない[映画館(字幕)] 8点(2009-10-01 16:40:52)(良:3票) 《改行有》

38.  ノウイング 《ネタバレ》 過去の50年間でありとあらゆる災害、戦争やテロ、事故などにより、数多くの人々の命が瞬く間に失われて来た。この映画はそれは総て定められた事象であり、偶然の確率などではないと言っている。だからこそ避けられない人類の滅亡も待ち受けている。しかしそれを知る全知全能の神たち(宇宙人たち?)は、新たなるアダムとイブを選ぶ。宗教性溢れた終末思想が露顕し過ぎてはいるものの、充分楽しめる。 アメリカ映画の現在が、終末世界からの回避ではなく、決定された終末世界からの新たなる芽吹きというほうに向かっているのが非常に興味深いところだ。要するに「一度すべてなかったことにする」ということだ。 総てには責任が付いて回り、我々人間がその責任を負い、皆で力を合わせて解決していかなければならない(特にアメリカが中心となって)、という映画を量産し続け、アメリカの強さを誇示し続けているようにも感じられたが、もはやそれは無理よと。こういう考え方になったのはやはり9.11があったからなのだろうか。一回リセットしなきゃもう無理だよと。だからこそ「一度すべてなかったことにする」。 恐ろしい映画と言えば恐ろしいわけで、一回のリセットに伴う犠牲が過去の50年間のありとあらゆる死者たちとも考えられるわけで、このあたりは実に曖昧に描かれているとも言える。 ニコラス・ケイジが最後、舟に乗らなかったのは、責任の部分であり、リセットされる新たな世界に過去の責任は無関係であり、すべてを断絶しなければならないという意思なわけだ。そういう意味では責任を果たしたということにもなるだろうし、親子の継承ともなるのだろう。 それにしてもニコラス・ケイジを久しぶりにスクリーンで見たが、この人は出ているだけで、何か納得させられる部分がある。この人の情けない表情とか、禿げてしまった頭皮が、人間味溢れていて、存在として説得力がある。[映画館(字幕)] 6点(2009-09-13 21:06:12)《改行有》

39.  サブウェイ123 激突 《ネタバレ》 デンゼル・ワシントンが笑顔で我が家の門を押した瞬間にすべてが終わるが、またしてもストップモーションで幕を閉じてしまうという潔さだ。 結局ガーバーと彼の妻はこの映画で一度たりとも同じフレームに収まることはなかった。何故、最後、ふたりは抱擁しないのか。そんなことはこの映画においてどーでもいいことだからだ。ミルクを買って家に帰るという約束を果たせるか果たせないかということが重要で、ふたりの愛を確認し合う作業などトニー・スコット含め我々観客も全く興味がない。だからこそ、帰り道にミルクのパックが入っているであろう白いビニール袋を右手に持って歩くデンゼル・ワシントンというショットと彼のクロースアップのストップモーションが感動的なのだ。その後の抱擁し合うふたりなど幾らも感動的ではない。これこそがトニー・スコットなのだ。 また市長の描き方など絶品で、いかにも金の虫のような風体を晒しながらも、憎めない人の良さも醸し出し、犯人の割り出しも自らやってしまう、善でも悪でもない人物を平然と登場させる。罪悪感からか正義感からかで突っ走りだすガーバーや、金だけのライダーなどに比べ、あまりにも平凡な人物という描き方が素晴らしい。故に不倫というワードこそが現実的で必要不可欠なものとなり、そのためには市長を囲むマスコミすらもトニー・スコットには重要な登場人物たちなのだ。 現金輸送中のパトカーの事故、鼠のせいの誤射、PCによる映像、こんなものほとんど無駄な羅列にも見えるが、それらはただ「偶然」あるいは「運命」という得体の知れない厄介なものによって、ペラム123に連結され地下を疾走しているに過ぎない。だからこそその連結をいつ切り離そうが所詮それは「偶然」や「運命」であり、そうなったという事象のみがそこには存在することとなるのだ。 ガーバーとライダーの橋の上での対峙なども素晴らしい。いくらガーバーが警察官たちを呼べども全くもって近づいている感じがしない。その都合の良さこそ映画であり、その都合の良さが、ライダーのいつものカウントダウンでガーバーに極限の選択を迫らせるのだ。そしてこの時の単純なふたりのカットバックが見事な物語を構築している。 それでいての106分。スクリーンに映し出されるすべてを必要な情報として処理し、途轍もないスピードで走り抜ける、この潔さはトニー・スコットが唯一無二の存在になっていく証だ。 [映画館(字幕)] 8点(2009-09-05 02:41:00)(良:5票) 《改行有》

40.  3時10分、決断のとき 《ネタバレ》 何という素晴らしさなのだろうか。正に、視線の、まなざしの映画だ。 何よりも、人々が向けるまなざしを見ているだけで、すーと吸込まれてゆきそうで、そしてそこから伝わってくる彼らの気持が体内に染込んでくる。だからこそ、単純なカットバックが幾度となく繰り返されるのだが、それだけでも充分なくらいの物語が構築されている。 ラッセル・クロウ演じるベン・ウェイドがクリスチャン・ベール演じるダン・エヴァンスに馬乗りになりながら首を締め付けるのだが、ダンの、金ではなく妻や息子たちに自分の誇りある姿をもう一度示したいのだ、という本心をベンは知り、物語はそこから一転し、彼らが屋根の上を伝いながら、ユマ往きの汽車が滑り込んでくる駅舎まで駆け抜けて行く様などは、もはや涙なくしては見ていられない。この瞬間、善悪などというものなど一切断切れ、あえて言うのであれば、それは絆や友情、そして誇りというものを懸けて、男ふたりが激しい銃撃のなかを駆け抜けて行く。このふたりが何かひとつのものを目指して共に駆け抜けて行くということなど、映画の中盤からでは想像だにつかない。にもかかわらず、ひとつのフレームの中でふたりが駆け抜けて行く姿たるや、見事という他ないだろう。 ラスト、息子のウィリアムがベンに銃口を向ける。この時の彼のまなざしの変化がまた素晴らしい。彼はベンと知り合ってからベンを憧れのまなざしで見つめていた。しかし、この時のまなざしは怒りそのものであり、いつ引金を引いてもおかしくはないのだ。しかしウィリアムは、無法者ベン・ウェイドをユマ往きの列車に乗せた父を心から誇りに感じた。だから撃たないのだ。何故なら、彼はまたその誇り高き父の継承者だからだ。 ただ、ふたりが対峙した瞬間、ベンはウィリアムにまなざしという拳銃で撃たれていたのだ。 だからこそ、そのまなざしを受けたベンのまなざし、この素晴らしさには計り知れないものがある。 ベンは誇りという絆で結ばれたダンの敵を暴力に任せ解決してしまうのだが、また同じく父と漸く誇りで結ばれたウィリアムはその暴力を自ら抑制する。ダンはその時思うだろう、誇りという事の尊さを。 そしてダンとの絆、あるいは彼の誇りに懸けて、ベン・ウェイドは、3時10分、ユマ往きの列車に自ら乗り込んで行くのだ。[映画館(字幕)] 9点(2009-08-10 02:46:54)(良:3票) 《改行有》

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