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プロフィール
コメント数 202
性別 女性
自己紹介 閲覧&良票を入れて頂いた皆様ありがとうございます(*^-^*)
良票を頂けると励みになります!作品に対する意外なヨミと、読んでいて楽しいレビューを心がけています。楽しんでいただければ幸いです☆

ジャンルを問わず鑑賞していますが、ホラーを観るときは手で目を覆って指の隙間から観ますw

★好きな俳優★
M.ファスベンダー、E.マクレガー、J.ロウ、D.クレイグ、O.ブルーム、ジョナサン・リース=マイヤーズ・・・・・はい、そうです。イギリス俳優好きですw
さらには、ドナルド・サザーランド、S.ブシェミ、M.フリーマン、フランコ・ネロ、B.ウィリス、H.ジャックマン、C.イーストウッド、女性では、ユマ・サーマン、M.ジョヴォビッチ、C.セロン、A.セイフライド・・・などが好きです。

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101.  バイオハザードIII 《ネタバレ》 数年に一度開催されるミラジョボ祭り第三弾。 ほんとにもう、話を書いているポールさんはミラジョボを裸にさせたがります。1では冒頭のシャワーシーン、2では医務室での紙切れ2枚でサンドイッチ場面、そして3ではクローン製造機の場面。3の公開時にはポールはすでにミラを嫁にしていたので、映画で脱がされ私生活でも脱がされ、ミラジョボはとても忙しそうです。 それはそれとして、1と2がどちらかというとヒンヤリ感が漂っていたのに対し、3は真夏のジリジリ感がいっぱいです。1と2が全体として暗く怪しげな映像であったのに対し、3は明るくて怪しげさを排除しています。 元気におひさまの下をうろつきまわるゾンビたちはどこかキュートで、アンブレラ社仕込みの青いパジャマ姿のゾンビは、カメラや携帯にはしゃぎ、おもちゃがうまくいかないと赤ん坊のようにカンシャクを起こします。箱詰めされていたコンテナから飛び出してきた青パジャマのゾンビたちは今にも枕投げをしてしまいそうなほど快活で無邪気です。 ポールはシリーズが”みんな何だか似てる雰囲気”にならないよう、ミラジョボ祭り3回目ではガラっと雰囲気を変えてきました。3回目ではひたすら<カワいいゾンビ>を見せてくれます。 ところで私の中で、今回の作品で一番かっこよかったのはカルロス。自爆で仲間を助ける直前に一本のタバコを発見し一服、ゆったり煙をはきニヤリしてからのドッカーンは、「スラムドッグ$ミリオネア」で主人公の兄貴がお札風呂で逝った場面と1位2位を争そう”かっこいい最後”です。 ゲームを楽しんだことがある人にとっては邪道かもしれませんが、バイオシリーズはポール主催のミラジョボ祭りとしてとらえている私にとっては「今回はミラをそう料理してきたか」と、普通に楽しめました。 「ゲームと違う~イメージ違う~」となげいて損した気持ちになるより、ポールにとって数年に一度のバイオシリーズは、愛する妻の記念アルバムの1ページ1ページだと開き直ったもん勝ちです。 ミラの瞳がアンブレラ社のマークにカチっと切り替わったりするために、彼女の湖のように深く澄んだブルーアイズがドアップになる場面だって、ポールによる「オラの嫁の瞳は世界一美しいんじゃ」という嫁自慢にほかなりません。[CS・衛星(字幕)] 8点(2017-08-17 11:26:46)《改行有》

102.  エクソシスト 《ネタバレ》 冒頭のイラクの発掘場面は、早送りするほど退屈だった。 あの怪しいコインの出土の説明は必要だとは思うがもうちょっとテンポよくできなかったのか。 リーガンが悪魔にとりつかれるまでも長いし、とにかく、テンポが遅い。 首ひねりもいかにも人形だし、ベッドガタガタとか引き出しガーッとかも、刺激不足。 緑の嘔吐も、ただ汚いだけ。 ドリフのコントで志村けんが牛乳飲んでからゲストの顔にブーっと牛乳を噴出しかけるのとあまり変わりがない。 他のレビュアーさんがおっしゃるとおり、同時期の「オーメン」は、時代を超えても今なお面白くゾクゾクする。 それはなぜかといえば、ダミアンの素性を知ろうとするひとたちが次つぎやられて、真相が闇の中へ・・・というしっかりとしたストーリーがあったせいだ。 それに対して「エクソシスト」は、要は悪魔がとりついた少女を、みんなが治そうとするだけ話で、ストーリーとしてタルみやすいのだ。 「オーメン」では残虐な殺害シーンに工夫がこらされていたが(特にガラス板で首スパーンは名場面)「エクソシスト」の殺害シーンで名場面と呼べるものは ゼロである。(そもそも3人しか死んでないし、1人目は現場は映像ナシ、2人目は死後の映像のみ。3人目は墜落死した死体のみ。お粗末の限りである) 大昔見て、そのときの印象は「最後は神父が投げ飛ばされて敗北」というものだったが、今回あらためて見て「全体的にタルくて全然怖くない」というものも加わった。 未来においてこの映画を再び見ることはないだろう。[CS・衛星(字幕)] 2点(2017-08-14 11:01:15)《改行有》

103.  フッテージ 《ネタバレ》 ミスターブギーが関連する、一家惨殺事件。定期的で、必ず8mmで撮影されていて、でも子供1名だけが殺害されていなくて失踪、現場に謎のマーク・・・こういった規則性が存在する頭脳派連続殺人事件モノは大好きである。「次はどんな手口で?」という、ゾクゾク感が大好きである。 ところが、「フッテージ」は恐怖が右肩下がりだ。その理由は”話しが進むにつれ、つくりが雑になっていく”から。 8mmのタイトルには「バーベキューパーティー」「プール遊び」など、朗らかな家族の記録の雰囲気がただよっていて、また映像の冒頭もそういった家族の幸せそうな様子が写し出されているからこそ、映像後半の残虐な殺害シーンが痛ましく、そのギャップゆえに面白いのである。 ところが、その後で再生される「おやすみの時間」や「芝刈り」は、家族の朗らかな場面がなく、いきなり殺害シーンのみの映像になる。 あっけないその殺しっぷりに、「あれ?ゾクゾク感はどこへ?」となる。 そしてイーサンホーク一家の殺害に至っては、記録される8mm映像は娘がいきなりオノでバッサリやってる場面だけの映像になっているわけで、もうまったく怖くもなんともない。 考えてみればそもそも、殺害された一家は、”幸せで仲良く暮らす家族”であるからこそ、突然まとめて処刑という悲劇性とのコントラストが素晴らしいのだが、イーサン一家は当初から夫婦関係も親子関係もうまくいってないから”仲良く暮らす家族”の映像もとれないし、お金もないからバーベキューだのプールだのといった映像もとれないのも当然だ。 そういうイーサン一家を主役にすえたこと自体が大失敗なシナリオとしかいいようがない。 私だったら、家族関係も良好な大金持ちの大人気作家が、興味本位で事故物件に移り住み、休日は家族仲良く庭遊びを楽しみつつも、好奇心本位から見た8mm映像でノンフィクション作品を執筆することを思いつき、不安をあおられつつ、いつのまにか連続殺人の輪に加わっていたという流れにしていただろう。 連続殺人の規則性は、引越し先の問題なので、どうしても”殺される一家は幸せで仲良しな暮らしっぷり”である規則性は要求されないのかもしれない。 でも、当初の8mm映像の編集が ”前半:家族の幸せそうな休日風景” ”後半:いきなり惨殺で悲惨な風景” という構成で来ていて、そういう悪趣味なつくりが恐怖心をあおるのだから、8mm映像は一貫してそういった編集であってほしかった。 それにイーサン一家の殺し方も、デッキチェアにしばりつけた家族をロープでプールに引き込むとか、クサリでぐるぐる巻きの自動車の中に家族を入れて着火とか、首吊り前の状態から木の枝が折れるにしたがってだんだん首吊り状態になるというタメをきかせた殺し方といった、殺害現場の舞台演出がまったくないところがガッカリである。 イーサン一家こそ、庭の木でジワジワ首吊りの刑をやって、娘が木の影からランララ~ンみたいに無邪気にスキップして出てきたほうが、ラストシーンとしては衝撃だっただろう。 冒頭にその首吊りシーンをもってきてツカミはOK。からの、作りが次第に雑になっていき、ラストシーンで一番の手抜き。とんだ尻つぼみ作品である。 手足をしばって口をふさいでオノでバッサリとか、歴代の殺しかたでは一番ツマンナイではないか! それって「おやすみの時間」の二番煎じではないか! エグゼクティブ・プロデューサーであるミスターブギー氏もダメ出ししてくるような内容ではないか! ブギー氏にお姫様だっこされてる場合じゃないぞ長女! とりあえずミスターブギーの正体は両刀使いのロリコンであることは分かった。[CS・衛星(字幕)] 1点(2017-08-09 07:38:40)(良:1票) 《改行有》

104.  ダーク・プレイス(2015) 《ネタバレ》 この映画のテーマはズバリ「A BRAND NEW DAY」。 ヒロインは、幼い頃に母や姉妹を殺され遺児となった成人女性だ。 痛ましい事件を経て、さぞトラウマを抱えて繊細で弱々しい女性になっているかと思いきや、自分にも他人にも心を閉ざし攻撃的な性格で、寄付金頼りで仕事もせず自堕落な生活を送っている・・・という意外性で冒頭からグっと引き込まれた。 彼女は寄付金が減ってきた対策として、世間が自分を思い出し寄付金が増えたり印税が入る事を期待して自叙伝を出版していた。 だが本は売れず、金の集まりも悪い。 後見人は「世間は忘れっぽいし、新しい殺人事件で遺児がいるし、君はもう大人だ。」と解析するが、実はそうではないところが、この作品をただの”陳腐な殺人の真相ドラマ”ではないものに仕上げている。 では本はなぜ売れなかったのか? 彼女が書いた本のタイトルは「A BRAND NEW DAY」(新たな日)。 しかしそれは彼女自身が自分の言葉で綴ったものではないと、殺人クラブで軽く告白している。 彼女自身が、本当の意味で過去を清算し、自分の思いを赤裸々につづった自叙伝であれば、ある程度売れたはず。そこに心に響く言葉があるはずだから。 しかし寄付金目当ての他人の言葉による中身のない自叙伝。売れなくて当然だ。 殺人事件から30周年になる区切りとして出版した自叙伝なら、著者自身も自らのトラウマをカタルシスすることで、心をオールクリアし、新しい人生をスタートする区切りにもなる。 しかし「A BRAND NEW DAY」と高らかな宣言をしながらも、彼女の心の闇(ダークプレイス)の中では、けして「A BRAND NEW DAY」はスタートしていないのである。 ところが見返りの金をもらうために真相を追った結果、犯人とされていた兄の冤罪の判明と和解。 そして憎しみと恨みによって痛みだけで生きてきた彼女が「ベンだけが学んだ。”許す”ということを。」と気づいた時に、初めて彼女はベンを、彼女を殺そうとしたディオンドラの娘を、そして何よりも自分を許すことができた。 それにより殺人事件とその後の屈折した人生にも区切りがついたのである。 兄の釈放の前の面会の後、車を運転している場面。ディアローグの最後の台詞は心地よく心にしみる。 「I know I start.」。 かつて偽りの A BRAND NEW DAY ではなく、本当に心の底からの変化によってもたらされた、真実のA BRAND NEW DAYが、彼女に訪れたことを彼女は客観的に確信したのだと感じさせる、重みのある一言だ。 サスペンスやミステリーに家族問題や思春期の恋愛をからめながら、ヒロインの新たな人生の始まりまでを描く、一本筋の通ったこの作品は、テンポ、シナリオ、後味もよく、何度も見たくなる秀作である。 **************************************** ところで、罪人を”許す”というキリスト教の教えを、よりによって悪魔崇拝に興味を持っていたべンが誰よりも守っていたというのは、皮肉で面白い。 結局、誰もが想像する以上にベンは純粋な青年だったのだ。 さらに、一回見て面白かったので二度見たら、ベンの幼女猥褻疑惑を心配して母親が彼の部屋を捜索して彼のノートをペラペラとめくる場面で、彼の純粋さをもう一つ発見。 美術が得意な彼らしく悪魔のイラストが上手に描かれていた最後のページに、 ”ヘザー、ニコール、クリスタル、クリシー、クリシー、クリシーデイ” と書かれていたが、一回目で見た時は内容をしっかり理解できていなかった。 自称被害者でベンにフラれたクリシーの名前があったので「母親はベンが襲った幼女のリストアップだと思ってガーンってなったんだな」程度でスルーしてしまい。 しかしあれは、ベンの”赤ちゃんが女の子だったらつけたい名前リスト”だったと、二度目で気づいた。 なぜなら日本語字幕では省略されていた”クリスタル”という名前が、後で登場するベンの娘の名前としてつけられていたから。 その上で再度そのリストを読み解けば、最後に書かれていた「クリシー、クリシー・デイ」というのも 「クリシーは年下すぎて犯罪になるから恋人にはなれなかったけど、もし赤ちゃんにクリシーって名づけたら?ボクの名字とくっつけて、クリシー・デイ・・・うん、わるくないかも?」 みたいな気持ちで書いたものだったと分かる。 自分の気持ちを抑えてきたけど、心の中ではやっぱりずっと好きだなんて、ピュアすぎるよベン。 しかもひっかかる女がみんな金持ちヤサグレ娘ばっかりだなんて、ピュアもいいとこだよベン。[CS・衛星(字幕)] 9点(2017-08-08 10:11:54)《改行有》

105.  砂上の法廷 《ネタバレ》 キアヌリーブス&レニーゼルヴィガーの法廷モノ。被告人の冤罪かそれとも・・・?だなんて、普通に期待値は高かった。 ところが いざ蓋をあけてみれば、オイタをしていたママでもかばってあげたいマザコン息子といい、自分は不倫してもキアヌの不倫は許さない黒人弁護士女といい、私の個人的主観ではどう考えても”モテ”るキャラはキツイのに 息子だけでなく隣人の思春期小僧にもキアヌにもモテているレニーゼルヴィガーといい さらには脇役のウソつきスチュワーデスといい、ウソつき警察といい、暴力夫といい 「だれひとりロクな奴がおらんのかーい!」 と大声で叫ぶ気力も萎えそうなほどの脱力映画であった。 最終的にキアヌとレニーが不倫関係解消するでもなく、キアヌが真犯人として訴えられることもなく、息子が父殺しの真半身がキアヌだと知っていたことを聞かされてキアヌがイスに座って どよ~ん・・・・とうなだれる場面からのエンドロールって、おいおい、私のほうがよっぽど どよ~~~~~ん・・・・だよ。[CS・衛星(字幕)] 2点(2017-08-08 07:08:15)《改行有》

106.  イングロリアス・バスターズ 《ネタバレ》 最後のほうで、ヴァルツとブラピの取引条件について了解する、電話ごしの司令部の人間の声(チョイ役)が、ハーヴェイ・カーテイル。ほんのちょっとだけ声の出演だなんて、なんてシブイんだ。そしてなんて贅沢なんだ。 「ゼロ・グラビティ」で宇宙飛行士が通信するNASAのひととのやりとりの声(チョイ役)がエド・ハリスだっていうことくらい贅沢だ。 あと心ひきつけられたのは、ショシャナがレストランに呼ばれて席についたときにグラスにつがれたもの、あと酒場でスバイ女優と落ち合ってた場面で、お店の人がグラスについだのが、ペリエのシャンパンだったってこと。 あのシャンパンの瓶、フランスのアール・ヌーボの時代にエミール・ガレがデザインしたアネモネが描かれてるんですがとっても美しくて、以前オークションでその瓶(カラの瓶のみ)を落札して家に飾ってあるくらい好きだったので、「あ、うちにあるのと一緒じゃんよ!」ってなんかうれしかった。 3デイズでワルのボスの家んちの壁紙がうちの居間のカーテンの柄と同じ、イギリスのアーツアンドクラフツ運動を牽引したウィリアム・モリスの「コンプトン」柄だったが「あ、うちにあるのと一緒じゃんよ!」ってうれしかったのと同じくらいうれしかった。 話を戻すと、最後の映画館焼却場面で、スクリーンが燃えきってなくなっているのに、火炎の煙が白くもくもくたちあがってて、その煙に、まだ映写機から送られてきているショシャナの顔が、煙に写り込んでたシーンは、いやもう、かっこよすぎる。タランティーノのセンスすごすぎる。 煙は不安定だから、映った顔があやしげにゆがむ、で、そのままヒトラーの顔面をドニーがうちまくって顔が崩壊していく画面にきりかわるんですが、不安定な煙にうつされて歪むショシャナの顔と、連射されて顔が崩壊するヒトラーの顔のリンクが最高に素敵。 映画館でナチス焼却計画実行する直前、ショシャナがドレスを着て赤い塗り頬紅をグイっとほっぺたに塗るシーンも好きです。 ちなみに「ショーガール」のノエミも、復讐に出かける前にドレスを身につけ鏡に向かって赤い口紅をグイっと塗りますが、赤は復讐の象徴なんでしょうか。 ショシャナの真っ赤なドレス、真っ赤な口紅。真っ赤な頬紅。それらの真赤な色は、彼女に想いを寄せる軍人に返り討ちにあって射殺されて倒れたときの顔に真っ赤な血ともリンクする。 血の魔術師タランティーノ、素敵すぎるセンス。 そして忘れてはならない、クリストフ・ヴァルツの存在。彼が登場人物とからむシーンはいちいち緊張感でいっぱいです。 フランス人農夫とのからみ、レストランでショシャナとのからみ、映画館でのアルドら4人とのからみ、そしてハマーシュマルクとのからみ・・・ そう、ハマーシュマルクの”靴が合えば疑いはない”の状況は、まるでバッドエンド展開のシンデレラてな具合で、さぐったポケットの奥に自分の靴を手の先に感じた彼女の悲壮感あふれる顔が忘れられません。 でも一番この映画を魅力的にしているのは、英語、ドイツ語、フランス語・・・が、登場人物の国籍そのままに使い分けられているところではないかと。 アメリカ映画においては、ナチを描く作品のほとんどが、ドイツ人でも普通に英語でしゃべるため、「イングロリアスバスターズ」のようにとことん登場人物の国籍と母国語をセットにした脚本は、この映画の設定や内容があまりにもブっとんでリアルさが時として失われがちなところに、みょうなリアリティを与えてくれる効果を有しているといえそう。 またこうした言語の使い分けがあるからこそ、冒頭のフランス人農夫とランダ大佐のフランス語→英語→フランス語のやりとりの面白さや、酒場でドイツ仕官に扮したイギリス人のドイツ語なまりがバレたなんだのシークエンスの緊張感、さらに映画館でランダ大佐とイタリア人に扮したアルドらのやりとりの滑稽さが描けるわけで。 ここまで各国語を玉手箱のようにちりばめた映画は、タランティーノ作品では類をみないし、また世界の映画作品全体をみても例がないのでは。 そういう意味では「イングロリアスバスターズ」は非常にユニークで、レアな作品だといえる。[CS・衛星(字幕)] 10点(2017-06-20 14:14:46)《改行有》

107.  ミスト 《ネタバレ》 中盤で、カルト的ではあるにせよ”神の御心のままに”生きて、銃殺されたおばさん。 それに対して、殺人や自殺(自殺ほう助も含む?)を禁じたキリスト教の神の教えにそむき、大事な息子を早まって殺してしまい、打ちひしがれた主人公のおじさん。 映画のラストは、原作にはない内容だということで、このオチについては、監督らの考えが入っているとはいえ、原作者キングは絶賛したという。 ということは、キングは宗教というものを、心から信じているというよりは、客観的な見方で「信じすぎても、信じなさすぎても。どちらにしても、いい結果を生み出さないかもね」というドライな価値観を持っているのではないだろうか。 原作のラストは、ラジオから流れる放送を聴いてそこで語られていた避難所(安全かどうかは読者の想像次第)に向かうという場面で終わるそうで、その場所の名前は”HOPE(ホープ。希望)”。 でも当初は名前をはっきりつけておらず、ファンから抗議があって書き換えたそうで、どちらかというと、ファンが”希望”を抱かせるオチを望んでいたのでしかたなく合わせたということだったのかもしれない。 (「ショーシャンクの空に」もキーワードがhopeでしたからね) そういえば「ミスト」の原作発表後に作られている 『危険な状況下でラジオ放送で語られる<安全地帯>は安全じゃない』 という法則をはじめて作ったのはひょっとしたら「ミスト」の原作かもしれませんね。 いずれにせよ私がこの後味の悪い映画を何度もついつい見てしまうのは、スーパーという閉ざされた場所で繰り広げられるシチュエーションスリラーとしての面白さにつきる。[CS・衛星(字幕)] 8点(2017-06-19 17:51:11)(良:3票) 《改行有》

108.  グリーンマイル 《ネタバレ》 スティーブンキングというと、ホラーか、あるいは「ショーシャンクの空」のような非ホラーのどっちかというイメージでもたれているのか、この映画を”ファンタジー”とか”おとぎ話”としてくくっている人達もいるようだ。 でもキングの作品は”超常現象”をけっこう多用しているところがあって、この映画のように、人知を超えた出来事を現実社会で普通に起こってます的な描き方がいかにもキングっぽさが出ていたと感じた。 この彼らしい世界観に素直に入っていけるかどうかが、この映画を楽しめるかどうかの分かれ道だと思う。 私は普通に入っていけたが、号泣したかといえばそれほどでもなく、少女殺しの真犯人でありジョンコーフィーを冤罪で死刑にさせた諸悪の根源ビリーザキッドが電気椅子で恐怖にまみえながら公開処刑されることなく、銃で瞬殺されちゃったあたりは「いや、ビリーこそデル並みの殺され方しないと!」と、すっきりしないところがあったりした。 (それはそれとしてビリーを演じたサム・ロックウェルのゲイリーオールドマンっぽいラリ顔はとてもワンダフル。) ただ、痛烈に印象的だったのが、ジョンコーフィーが電気椅子に座らされて恐怖を抑えるように「I'm in heaven...I'm in heaven...」と何度も口づさむ場面。 字幕には「ここは天国だ・・・天国・・・天国・・・」と書かれていたのだけれど、これは彼が死刑前に望むことはと聞かれて「活動写真を見たことないから見てみたい」という願いにこたえて、看守達のはからいで深夜に彼に見せてあげた映画の一場面の歌。 恐怖を、あの朗らかで明るい映画の一場面を思い出すことで、払拭しようとしていたのであろう。 この歌は、冒頭でポールが老人ホームでたまたまTVにその場面が出てきて思わずジョンコーフィーを思い出し、いたたまれずに席を立ったという場面でも印象を強く残している。 フレッドアステアの有名な「トップハット」に出てくる「チーク・トゥ・チーク」という楽曲だが、「グリーンマイル」を見たあとは、このトップハットの場面が出てきたらついジョンを私も思い出してしまいそうだ。[CS・衛星(字幕)] 6点(2017-06-14 10:17:19)《改行有》

109.  エイリアン2 《ネタバレ》 エイリアンはシリーズ全て見たが、2が一番のお気に入りである。 それは、リプリーという女性像を一番ストレートに、正しく描いているから。 強い女、賢い女、勇気ある女・・・そんなイメージで見られるリプリーだが、彼女は何よりも、”母性の強い女”。その側面を鮮やかに描き出しているのが唯一「エイリアン2」である。 リプリーにはもともと1人娘がいたが、「エイリアン」の脱出後から50年以上宇宙をハイパースリープ状態で漂っていたため、救助された(「エイリアン2」の時点)2179年の2年前に娘は死んでしまっている。つまりリプリーは、愛する娘と再会することなく母として不完全燃焼のまま、強い母性が残されている女性という設定になっていて、それはこの映画を、シリーズの中で唯一”人間味あふれた作品”に仕上げるうえで非常に効果的なものになっている。 リプリーは、ひとり取り残された女の子ニュートを、彼女が幾度と無く直面する危機から救い出し、最後の最後まで守り抜こうとする。彼女はきっと失った娘とニュートを重ねあわせていたのではないだろうか。 まさに”子供を守る母”である。 一方、クイーンは、まさに”卵を守ろうとする母”。 「エイリアン2」ではリプリーの母性をより一層きわ立たせるために、悪役(=エイリアン)にも、クイーンというエイリアンの母を配置して、母性を持つもの同士のコントラストをつけている所も上出来である。 ラスト近くで武器がタマぎれになったリプリーが武器を捨て、クイーンと同じ背丈になれるパワーローダーを装着してクイーンと対決する場面は、まさに母VS母の等身大の素手によるガチバトル。こんな場面は、シリーズ前作を通して「エイリアン2」だけであろう。 ついにクイーンを倒したリプリーに、ニュートが走り寄り、彼女に抱きつきながら思わず叫ぶ。 「ママ!」 このたった一言が、「エイリアン2」が間違いなく母性を描いていることを証明している。 ちなみに「エイリアン4」の原題は「Resurrection」(復活)なのであるが、そのタイトルになったのは、リプリーがクローンで復活したということだけでなく、人間とエイリアンのハイブリッド種であるニューボーンがリプリーを見て母親だと思い込むとか、リプリーもニューボーンに対して自分の子供のような敵のような複雑な思いで接するという、”母性”をにおわせる設定が「エイリアン2」で描かれたテーマを”復活”したものだから・・・と深読みしてしまうのは私だけだろうか?[CS・衛星(字幕)] 10点(2017-05-27 19:28:57)《改行有》

110.  天使と悪魔 《ネタバレ》 ユアンマクレガーが冒頭から既に”善良なふりをした真犯人”のニオイがぷんぷんだった。同じような意見をしているレビュアーの方々も多いようだ。 しかし、真犯人役に彼がキャスティングされたことは正しい。 なぜならユアンマクレガーが大好きな私は、もし「天使の悪魔」に彼がメインキャラに配役されていなければ、最後まで見ていなかったかもしれないから(笑) それはさておき、「火、空気、水、土」という要素に従って4人の誘拐された次期皇教候補たちが、その要素に関係するスタイルで殺されていく流れは、どこか「セブン」の七つの大罪に沿って起きる殺人事件をほうふつさせたし、またそもそも「火、空気、水、土」といえば「フィフスエレメント」を思い出さないではいられない。 原作者はたぶん意識していなかっただろうけれど、どちらも私のお気に入りの映画だったので、雰囲気がかぶっているのが気になるところだった。 教授の口からマシンガンのように次々と放たれる専門用語はついていくのが大変だったが、それはいわばインドカレーのようなものかもしれない。 カレー鍋に名前も聞いたことのない特殊なスパイス類が、あれやこれやと次々と投入されたものを専門料理店でいただくと、普通のバーモントカレーよりリッチで奥深い味わいな気がするような気分になっちゃうのに似ていて、「なんか、ワタシ、すっごい知的な作品を見たような気がする」ような気分にならないでもないような気にさせる。 インドカレーに通じる錯覚作用に、ユアンの神々しい魅力と神父コスを足して6点。[CS・衛星(字幕)] 6点(2017-05-26 12:22:25)《改行有》

111.  オデッセイ(2015) 《ネタバレ》 SF大好物な私であるが、「オデッセイ」に関しては、ズバリ、私とは相性が悪い。この主人公の、取り残されたことが分かったときの落ち着きっぷりが、どうしようもないのである。 宇宙飛行士たるもの、いかなる非常事態にも冷静さを保てる強靭なハートを持つものであることは重々承知。 NASAの宇宙飛行士の訓練の9割が非常事態に対応する訓練だということも承知。 だが、何が起きても数秒間だけオーマイガッなポーズをとってみせた後からのただちに解決策をシュクシュクと行う場面も、何度も繰り返されるばかりでは、ワンパターンで単調なのである。 火星で穴があいた宇宙服のヘルメットの前面をガムテをペタっとはるだけで修理完了!とか 吹っ飛んだ小屋(アレは何という名前でしたっけ)も巨大なビニールシートをガムテをペタっとはるだけで修理完了!とか 「火星ってそんなにガムテだけで生きていける場所なのだろうか?」と、そのあたりのイージー感も没入感がそがれた理由だ。 宇宙に一人取り残されるというテーマでは「月に囚われた男」が傑作なのだが、主人公は企業の社員であって、宇宙飛行士ほどの訓練は受けていないしメンタルも弱いという相違点はあれ、「オデッセイ」と比べたら”ひとりだけ取り残されたもののココロ”がヒリヒリするほど伝わってくる。 (地球との交信もリアルタイムではなかったり、そもそも地球に帰還させてもらえる前提すらないところも、ヒリヒリポイントだ。) ならば「オデッセイ」はサバイバルに徹した作品として優良かといえば、よくよく考えれば、帰還計画についてはNASAの陣営のほうが尽力しているところが多く、実際NASA関係者がアーダコーダと話し合っている場面が、ダラダラするくらい長い。 「主人公が全然出てこないよ!」っていう場面が長すぎて、これはNASAのキャラが主人公なのではと思うくらいである。 かといって、たとえば「アルマゲドン」に登場するNASA陣営のビリーボブ・ソートンのような、個性がきわだつキャラがいるかといえば、まったく没個性の、上司&部下の”イカニモ”な顔ぶれがワラワラ出てきてアーダコーダと三流の企業ドラマのごとき帰還計画のやりとりをしているだけなのであるから、褒めようがない。 唯一心が揺さぶられたのは、マットディモンが前半ではムキムキマッチョの肉体だったのが、後半のシャワールームから出てきた場面ではゲッソリやせほそった体になっていたという、体重の増減も自由自在な役者根性のみ。 ところでコレを書きながら今ふとすごいことに気づいちゃったのだが、SF映画において、宇宙空間で主人公のサバイバルを描く場合、その主人公は、「オデッセイ」のように宇宙飛行士のようなプロではダメなのかもしれない。 思い起こせば、「アルマゲドン」は、ただの掘削屋だった。 「月に囚われた男」は、ただの社員だった。 あの「ゼログラビティ」は、ただの博士だった。 宇宙における危機トラブルに関する豊富な知識や経験を持ち合わせていないセミプロが主人公だからこそ、何かあったときの、取り乱し方も、それを乗り越えて、解決したときの鑑賞者の感動も、ひとしおなのだ。 いずれにしても作品としてのデキがよろしくなかった「オデッセイ」の中でも一番ワケがわからなかったのは、イモの水をあげるために爆発事故起こしてまで苦労して手作りの水発生装置を使って水を作っていたのに、後半あたりでシャワールームから”水”で洗いたての濡れた頭をフツーにタオルでゴシゴシしながら出てきた場面。 だったら最初から風呂場から水もってこいよ。[CS・衛星(字幕)] 4点(2017-05-11 09:25:17)(良:1票) 《改行有》

112.  ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー 《ネタバレ》 スターウォーズのイメージを二字熟語で表せば「快活」とか「爽快」である。 それに対しローグワンは暗く、重く、そして最後は全員死亡って、シェイクスピアの「ハムレット」か。 スターウォーズはそっち路線ではない。 EP3ではアナキンがダークサイドに堕ちてしまったので、ある意味悲劇だが、死んでないし、それに悪役誕生というある意味物語展開上、必要な悲劇要素だった。 アミダラ姫は死んだが、2人の重要キャラを産み、自ら名づけたあとの昇天であるがゆえ、それは安らかな死でもあった。 それに対してローグワンでの登場人物全員死亡は、救いがない。 当然、新キャラはEP4にはいないので、いたら困る、だから殺してしまえ、それは分かる。 だが、そんなことをしてまで、むりやり3と5の間の話をこねくりまわす絶対的必要性があったのかどうかと、どう考えてもスターウォーズブランドに乗っかりたい気持ちと、EP6で終わったあとにEP7で寝た子を起こすようなことをしたうえに失敗までしたので、だったら安全圏の3と4の間の話ならどうよという、調子のよすぎる動機しか見当たらない。 スターウォーズ1~6までを愛するものとしては、ローグワンの背景に見えるご都合主義は、ルーカスの一連のシリーズに対する侮辱にしか思えず、エンドロールをうつろな目で眺めながら嫌悪感しか沸かなかった。 こんなふうに主要人物がひとり死に、二人死に・・・と、どんどん死んでいく展開は、どっかの山奥の山荘で殺人鬼に追われて一人死に、二人死に・・・っていうB級ホラー映画にしか思えない。[映画館(字幕)] 1点(2016-12-30 09:25:55)(良:3票) 《改行有》

113.  遥かなる大地へ 《ネタバレ》 「Far and Away」というタイトルはまさにこの映画にふさわしい。 まず、アイルランド移民のジョセフとシャノンが、船でアメリカに着けば簡単に土地ゲットできるとおもいきや、そこからあれやこれやスッタモンダで、ずっとずっとはるか彼方西へ行くとになる。このアメリカ横断なスケールが実に”far away"(ずっと遠く)だからだ。 さらに彼らが「土地ゲットは簡単だ!」と思い込んでいたのが、現実は厳しかったこともまた”far and away”(思ったよりもはるかに)難しかったという話にもマッチする。 でも何よりも一番マッチしていた理由は 天国にいるジョセフの父親が、旗を立てる直前で死んだトムを生き返らせたという奇跡を物語る上で、"far away”(はるか遠く)空の上にいる死んだ父親の存在をこの映画の重要なものにしているからだ。 序盤でジョセフの父親が地主の手下のせいで事故にあうが、いったん死を迎えたのに、「なにがあっても土地こそすべてだ。おまえは私が叶えられなかった夢をかなえてくれ。土地が手に入ったら天国から祝福するから」と言い残すためにわざわざいったん生き返るというちょっとビックリなシーンがある。 なんだか奇妙な場面ではあったが、ラストの場面でジョセフが頭を打って血だらけで死んだにもかかわらず、父親の神パワーで彼が息を吹き返すミラクルが、コントでもなくジョークでもご都合主義でもなく、”必然”、”自然”に感じさせてくれるのである。 「ノーノー!あなたなしで土地なんていらない・・・(I don't want this without you・・・)」と、ツンデレお嬢様が彼が死んでようやくすすり泣きながらホンネを告白するという、こっちまでもらい泣きしそうな訴えをする場面では、カメラが次第に彼らを上から俯瞰するカタチでどんどん離れていき二人がどんどん小さくなっていく。 大きな大地に、死んだ彼と彼にすがりつく彼女。 あたりは暗く、ヒュ~ヒュ~~~という虚しい響きの木枯らしの音に、ジョン・ウィリアムスの切ない音楽が重なりながら、カメラはさらにどんどん二人から俯瞰のまま遠ざかる。 ロンハワードはきっと、これを、天国の父親目線だとしたのだろう。 天国の父が「おぉおぉ息子よ。せっかく土地とさらにそこで繁栄していくための嫁まで同時に手に入りそうだったところを。よしワシが生き返らせよう」という彼の言葉が聞こえるようである。 次の瞬間、カメラはまるで遊園地のフリーフォールの高速落下のようにトムのところに急降下。 そしてトムが目を覚ます。 どう考えてもこれは、天国の父から彼へ、命が、落とされた瞬間の描写だ。 救援用の飛行機が食糧の支援物資を空からストーンと落としていくように、父親は命を空から彼に落としたのである。 喜び抱き合うジョセフとシャノンに夕日を逆光にして優しく輝く髪の毛が美しく、この場面でこちらまで心からの幸せに満たされる。 そして彼らの後から追ってきて土地に旗をたてようと馬を駆る人達に気づいた二人は、落としたままだった緑の旗を一緒に掲げ、いっせーのせでブスっと土地にそれをブッ刺すところでは、夫婦の初めての共同作業であるケーキ入刀のようで、まるでほほえましかった。 そして私のハートに的があるなら、二人がブスっと旗を大地に刺した瞬間、的のド真ん中にこの作品がストライクしたのを感じた。 爽快なのは、そのブスっとしたあとバっと場面が暗くなり、その後に出てくるのが、”流れ始めるエンドロール”でもなく”タイトルの題字”でもなく、”The End”というクラシカルな文字だったことだ。 いきなりエンドロール開始だと味気なく、タイトル題字ならちょとドヤ顔な感じで引いていただろう。 それが、昔の映画ならよくあったが最近の映画ではとんと見なくなった”The End”を、クラシカルな題材を扱ったこの映画で用いたのは正しい選択である。 ・・・ということで、このラストのシークエンス数分だけで、ごはん3杯はいけちゃうんじゃないかというくらいの素晴らしいラストであった。 もちろんこの二人だけでなく、シャノンのオバカな両親や、クラブの踊り子、娼婦宿の女将と娼婦たち、ボクシング賭博のドン、スノッブなスティーブン・・・にくめないサブキャラや脇役も、無駄の無い脚本に支えられたストーリーの中で魅力にあふれていた。 若かりしトム・クルーズが、アクションや男くさい映画ではなく、このようなデキのいい壮大なロマン活劇で、無学なシャイで頑張り屋さんというとびきりキュートな役の作品を残してくれたことは、誠にラッキーで貴重なことである。[DVD(字幕)] 10点(2016-11-30 10:11:40)《改行有》

114.  ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅 あれだけ動員数がありながらこのレビュー数の少なさは「ハリポタブランドならとりあえず見るか」という、だましのきく観客がほとんどだったからだろう。 結論からいえば、この作品はハリポタの”まずかったところ”を踏襲、いやむしろレベルをさらに下がった作品であった。 JKローリングの手法は、第一章のイントロダクションでは【目新しいものを台に並べて叩き売りした内容にさえすればOK】とする所。 でもストーリ-は実は稚拙で中身がカラッポ。 どこかで見聞きした、単純すぎる勧善懲悪。(オチが最初から分かる) でもファンタジーというナンデモアリなジャンルがゆえに、それまで人々が見聞きしたことのない架空の物(組み分け帽子、動く階段、みぞの鏡、架空のスポーツ等)をズラズラダラダラとこれでもかこれでもかと垂れ流しっぱなし続けることで、目くらましのように、何か傑作のように錯覚させるのがJKローリングのやり方だ。 その目くらましから覚めた人達が、ハリポタシリーズの回を重ねるたびに生まれ、ハリポタ脱退者が増加。結果的にシリーズ8作品の国内興行成績は分かりやすいほどに右肩下がりをして終わった。 けして子役が大人になってしまったことだけが人気が落ちた理由ではない。 第一章でしつこいほど見せまくった”お話のイントロダクション的な珍しいもの”で客をひきつけるのには成功したが、2章以降は”イントロダクション的珍しいものの叩き売り”がなくなり、代わりにストーリーのほうで勝負をかける段階で、見事に失敗してきたからだ。 第一章ではバレなかったストーリーのからっぽさ加減が、2章以降でむきだしになって露呈したからなのである。 実際、「ファンタビが面白かった」と喜ぶ人達が挙げる良かったところが<かわいい動物たち>だの<コレコレなダレソレ>だの、登場する動物や人間がどういうものだったかにばかり終始している。 ストーリーも<ハラハラする><ワクワクドキドキする>という感情表現ばかりで、ストーリーそのものがどう面白かったかの説明ができないのは当然。 ものめずらしいものを見てハラハラドキドキ・・・なら見世物小屋と変わりない。 ちなみに私はファンタジーは嫌いなのではなく、たとえば「ロードオブザリング」シリーズは絶賛だ。 あのシリーズは、しっかりとストーリーをねりあげたうえで、話を進める中で少しづつ上手に”珍しい架空のもの”を見せている。 ストーリーが根幹としてしっかりしているからこそ、3作目がアカデミー賞史上初のファンタジー作品での<作品賞>でオスカーを得たのである。 (その他の部門含め11部門でオスカー取得は史上3作目の最多部門受賞) これぞホンモノの見るに値するファンタジーの作品である。 一方のJKローリンズは人気があるだけの目くらましがうまい稚拙な大衆作家に過ぎない。 (たとえるなら、パサパサで甘ったるいスポンジに、表側だけ豪華なクリームデコレーションとフルーツを盛っただけの安くて不味いケーキだ) そんなわけで、ただでさえ稚拙なストーリーを”珍しい架空のもの”で隠してごまかすお話を書くJKローリングが、何を血迷ったかファンタビではいきなり脚本を書くのだから、この映画が駄作になるのはもう分かっていたとはいえる。 それでもあえて鑑賞したが、予想は的中。 ハリポタ第一章同様、これでもかこれでもかと、CGで架空の動物をあれやこれやとダラダラと登場させて観客を目くらましする手法で、実は中身がカラッポな内容を何かスゴイ作品に見せかけているだけであった。 私は子供の頃、つがいのハムスターが産んだ赤ちゃんを含めて10匹くらいのハムスターを1つのケージで飼っていたのだが、ある晩うっかり扉にカギをしめわすれ、一夜にして全員逃亡してしまったことがあった。 その時、ハムスターをつかまえるためにリビングにエサをまいておびきよせたり、本棚の中に棒を突っ込んで追い込んだりしていてイライラしながらグッタリした記憶があるが、ファンタビを見終わった後はまさにその時の気分に似ている。 ファンタビは全部で3作品作られるそうだが、ハリポタを下回る興行成績となり2作目以降はガーンと右肩下がりになることは間違いないと確信させる第一章であった。 最後に、主人公は魔法のカバンを持ち歩き、そのカバンにカバン以上のサイズのものが出入りする設定について。 そういう不思議カバンと、そのカバンを主人公のトレードマークにしていることそのものが「この設定おもしろでしょ!?」と押し付けがましい。 名作「メリーポピンズ」のメリーが持ち歩いていろんなものを取り出す魔法のカバンの二番せんじでしょうに。[映画館(字幕)] 1点(2016-11-29 13:01:33)(良:3票) 《改行有》

115.  ミッション:インポッシブル/ローグ・ネイション 《ネタバレ》 今までのMIシリーズは、登場する女性キャラの方向性にブレはなかった。悪玉なら悪玉、善玉なら善玉である。 しかしながら、今回のイルサ。敵なのか味方なのか?ハントが好きなのか、ただ利用しているだけなのか?ハントも振り回されっぱなしなのに、まんざらでもない様子。 そんなイルサは、「ルパン3世」の不二子ちゃん、そのままである。 (イルサの手引きでハントがやっとの思いで盗み出したシンジケートの情報が入ったメモリを、スルリとイルサがもってっちゃった時なんてもう、イルサの顔が不二子ちゃんにしか見えなかった。) となれば、ハントはルパン、おしゃべり心配性なベンジーは次元、そして無口めなテクニシャンであるルーサーは五右衛門そもの。 ハリウッド版ルパン三世にさえ見えてしまった今作は、残念ながら2作目や3作目に匹敵するような感触ではなかった。 映画は観客をドキドキわくわくさせるうえで”まさか”の意表をつく脚本が求められるけれど、こういった、”だましだまされ技法”は実に簡単に意表をつかせうことができ、言い換えれば安直な印象を与える。せいぜい2回までが使用限度だと私は個人的に思っているが、こうもしつこく何度も繰り返す展開はもう3度目あたりでオナカいっぱいだ。 もちろんアクション場面は相変わらず上手にハラハラさせてくれた。 特に序盤に登場するオペラ劇場での攻防も思わず「ワーーッ」と反応した。 ただ、そこで「ワーーッ」と感覚をつかさどる右脳が反応していると同時に、思考をつかさどる左脳のほうでは 「でも殺し屋が大きな音楽イベントに正装してやってきて、そこに来ていた要人を暗殺しようとするとか、銃を打つタイミングは楽譜をチェックして銃の音とかバレないように一番盛り上がる音譜のところにするとか、撃ったけど要人の急所が外れて現場はパニックとか、ヒッチコックの『知りすぎていた男』だよなぁ・・・」と冷静に考えている自分がいた。 余談だが、オペラの公演はプッチーニの「トゥーランドット」。でもそちらよりベンジーがオフィスでヘッドフォンをかけて聞いていたモーツァルトのオペラ「フィガロの結婚」の序曲のほうが私としてはツボである。 「ショーシャンクの空に」では主人公が刑務所の関係者を締め出して、全館放送するオイタをする時に流した曲もそのオペラからの曲だったし、「ライフ・イズ・ビューティフル」で主人公が奥さんに聞こえるように収容所の放送室に忍び込んで流した曲もそのオペラからの曲だったし、なにかこの「フィガロの結婚」の楽曲は、映画関係者が思わず劇中で使いたくなっちゃうようなサブリミナル信号でも組み込まれているのかもしれない。[CS・衛星(字幕)] 5点(2016-11-02 12:21:56)《改行有》

116.  ワイルドカード(2014) 《ネタバレ》 ジェイソンステイサムが出てるアクション映画はほぼハズレなしかと思ってきましたが、今回初めてハズレに出会いましたw ラスベガスを舞台にしてるといいながら、ぜんぜんラスベガスを感じさせません。 最初のほうは、ラスベガスの夜景をイメージビデオのようにいろいろ画面に出して「ここはラスベガスですよ!」と一生懸命アピールしてるんですけど、その後、地味で薄暗いなカジノがメインになり始めたあたりから、もうこれはどこの場末の賭博上だって感じになってきます。おそらく経費節減のため、屋内の撮影をベガス以外のロケ費用の安い地域ですませて、そうした映像がたぶんこの映画の8割くらいつかわれている。 とにかく”どーでもいい”画面作りが目立ちます。 物語が始まってまもなく、ステイサムは、ヤクザにレイプされた女に復讐の手伝いを頼まれ、助けないといいながら手助けするわけですが、特にその主犯格を探し出すのに時間も労力もかからず、滞在先のホテルで働いてる黒人メイドが「~号室の~~って人だよ」とサクっと教えてくれて解明できちゃうので面白くもなんともありません。 その後、ステイサムは主犯格の男にもとへ行って、主犯格の手下2名とお決まりの数分間の対決シーンを済ませたあとは、被害女性が後から登場して主犯格の男から札束とその男のペニスを手土産に早々に退散。 いってみれば、この映画の盛り上がりは始まって数十分のこのエピソードが一番の盛り上がりどころ(盛り上がりといっても、その盛り上がり具合は高さ3cm程度のお粗末さですが)であり、その後は、”どーでもいい”エピソードが延々と垂れ流されます。 ほめるところはほとんどなく、もちろんいつも通りステイサムはかっこいいのですが、作品によってガラリとキャラクターを変えてアカデミーノミネートも視野にいれたような渾身の演技をみせるハリウッド役者と違い、「どの映画のステイサムも、だいたい同じ」なので、つまりこの映画を見なくても、ほかの映画でも、この映画で見たようなステイサムが見られるので、つまりこの映画は見なくてもいいかもしれません、という悲しい結論をつけさせていただきます。[CS・衛星(字幕)] 3点(2016-10-24 11:13:02)《改行有》

117.  シックス・センス 《ネタバレ》 この映画で起きる色々なエピソードには「後悔」というキーワードがあてはまる。 それも、死のあとにも残るほどの後悔。 マルコムが成仏せずこの世に幽霊としてとどまったのも、仕事人間だったために妻との疎遠な関係を後悔していることや、 ヴィンセントを救えなかったこと(彼も幽霊が見えていた子供であったが、それをマルコムに理解してもらえないまま病気として解決とされてしまったことを苦に自殺してしまった)などが、彼の死後も心残りだったからである。 台所に出た傷だらけのおばさんは、夫のDVで苦しんで自殺したのだろう。 夫への恨みが消えないまま、こんな男と結婚してしまったことへの深い後悔が残っているのである。 毒殺された少女も、自分の死の真相を父親に知らせ、妹まで義理母に殺されかねない(お通夜で「妹さんも体悪いそうで」という会話から察し)のを阻止したかったが、それができないまま死んでしまった後悔があったから幽霊となってとどまっているのだ。 そんな中、後悔を心に残す霊と出会うたび、彼らの後悔を解決していくのがコール少年。 幽霊にとって、この世に残した人への思いを託せる頼れるメッセンジャーだ。 でもコール少年の一番の功績は、見知らぬ幽霊たちではない。 母親の母親(コール少年の祖母)のメッセンジャーとなり、祖母が母親に伝えられないまま死んであの世でずっと後悔していた思いを、母親に伝えたこと。 「ケンカしたあと、険悪な空気になってあなたは私がダンスの発表会には来ないと思ってたとおもうけど、実はちゃんとこっそり見に行っていたのよと伝えてほしい」 「お墓の前であなたが私にした質問した答えは、”YES”(「私を愛していた?」という質問だと察し)だと伝えてほしい」・・・ そうです、よくあることですよね、家族間で、心の中では思っていても言葉にして伝えていなくて、伝わっていないこと。 私はここで号泣した。 今思い出すだけで泣ける。。。。 私は鑑賞当時、中1の娘がいたが、この頃の娘は反抗的になりもするし、きまずい母娘関係になったりもする。 でも愛しているし、いつだって心配している。。。 それを娘はちゃんと分かっているだろうか?それをあらためて考えさせるシーンだった。 この場面が出てきたとき、背後でノンキにスマホをいじっていた娘に「私はあなたのことが大好きだよ」と泣きながら言ってしまった。 (娘は目がテン…) あなたは、もし今亡くなってしまうとしたら、思い残すことはないか? 後悔することはないか? 思いを伝えるべき相手にきちんと思いを伝えられているか? あらためて自問して、もしあれば、早めにそれをできるだけ解決していくといいのだと思う。 ”今ある命、人生をいかに、大切にして生きていくか” この「シックスセンス」はただのサスペンス・ホラーでもトリッキーなどんでん返し映画でもなく、 『今ある命、大切に生きてください』 という静かなメッセージが込められた、深い作品だと私は受けとめた。[CS・衛星(字幕)] 9点(2016-09-09 10:11:16)(良:7票) 《改行有》

118.  ファインディング・ドリー 《ネタバレ》 ファインディング・ニモでは、歯医者の水槽の中の構造や特徴をよくもまぁ熟知したうえで魚たちの大脱走劇を描き上げたものだと関心した。 ニモが空気ポンプから脱走できるのかどうかの場面でも、よくもまぁこう発想するなと。きっとスタッフたちはいろいろな水槽グッズを勉強してアーダコーダと水槽の世界をいかにユニークに描きかつ物語りとして成立させるために利用するかと、話し合っていたに違いない。 そして今回は、歯医者の水槽よりもはるかに広い、海洋センターの水槽。 しかも、水槽の種類の多いこと多いこと。 回遊魚のいる巨大水槽、子供たちが”ハンド”できるフレアイ水槽、運搬用水槽、さらには、おみやげ屋さんのおもちゃのサカナを浮かべた水槽まで・・・(苦笑) 運命に流されるように、ドリーやニモらが、次々といろいろな水槽に入ることになり、あれよあれよといううちに場面がテンポよくきりかわり飽きさせない。 ジンベエザメやイルカらの水槽も小さなパイプでつながっており、さらにそのパイプはいくつもの水槽にまで枝分かれしていている場面は、アクションやサスペンス映画でよく出てくる、主人公が追っ手から逃れて地下水路を足早に走り抜けていくというありがちな”水路場面”と同じなのに、魚ゆえに「よくある水路シーンね」と思わせない。 いやむしろ私にはそれがパロディにさえ見えた。イルカのベイリーのエコロケーションでパイプの中に対象物だけがボンヤリと見える・・・みたいな画面も、アクション映画で敵と味方が建物の廊下を移動する様子を熱探知機カメラみたいなのでボンヤリした映像を出して監視してる・・っていう場面のサカナ版パロディだと。 こうした数々の水槽・水路の躍動感あふれる場面を描ききった今作は、明らかに前作を上回るスケールであることは間違いない。 (海より海洋センターのほうが閉鎖的であるにもかかわらず、このスケールの大きさを見せるというのがさすがピクサーの天才集団のなせるワザだ) さてそれはそうとして、ドリーに注目してみれば、記憶障害以外にも、軽度の知的障害も見られると私は思う。 彼女は見た目サイズ(他のナンヨウハギと比べて)からして年齢的にあきらかに成人なはずだが、行動・発言が大人らしくないからだ。 これは私に療育手帳B2の知的障害の娘(21歳。ビネー式IQテストで精神年齢8歳と診断)がいるから察するのだが。 だから、小さいドリーが家の外にいた時、家にいた両親がドリーの将来を心配し「私達がいなくなったらあの子はひとりで生きているの!?」と泣く母親の気持ちに感情移入しホロっとくるし その後何年かしてドリーがふとみつけた貝殻をたどり、その先に、ドリーはもう大人になっているはずなのにまるで幼児のために作ったような「どの位置からも貝殻を見つけられてたどれるように」という親の思いがこもっている、分かりやすすぎるいくつもの放射状に伸びた貝殻の道しるべが俯瞰の画面でダーンと出たときにホロホロとなるし その後ドリーと両親が再会した時、親がドリーを抱きしめ喜ぶときの気持ちも痛いほど分かり(知的障害の子は成人になってもあどけない子供のようなのだ。だからあのときの両親は、まるで小さい幼稚園児の娘を見つけたときの気持ちなはずだ)わあ~んとなった。 一方でアクション映画が大好きな私は、タコのハンクのハンドルさばきでガケからトラックごと海に突っ込む場面のスローモーションは、アクション映画でよくある”危機一髪なところでスローモーション”という高所落下や爆発シーンなどでありがちな手法であるにも関らず、サカナゆえに、ありがち感が薄れ、サカナ版パロディに見えて大笑いしてしまった。 まさに、笑いあり涙ありである。 そしてエンドロールの後のギルたちが救出されるというエピソード。 前作のオチでギルたちが脱走できたものの「ビニール袋の中だからだめじゃん。このまま飢え死にか窒息死か」と、もやもやしたものを抱えたままだったひとは世界中にたくさんいたに違いない。 そのもやもやを13年後の今、スッキリさせてくれた。 設定としてニモ救出から1年後とされているが、あの場面だけは時系列が1年後ではなくせいぜい1週間後くらいの設定になっていると考えたい。 そしてヤシロアキ(笑)が「海洋生物研究所の役割は、魚たちを救出し、治し、海に返すことです」とアナウンスしていたことによって、われわれ見るものは 「あぁギルたちもビニールから出て海に返されるんだ」というハッピーエンドを想定できるだろう。[映画館(吹替)] 8点(2016-08-02 11:08:45)(良:1票) 《改行有》

119.  マディソン郡の橋 《ネタバレ》 これで視聴は何度目だろうか、しかし、やはりあの雨の中ダンナの運転する停車中の車の中で、メリルが目の前にいるクリントのもとへ車を出て走ろうかと車のノブをにぎって・・・そしてやめたときの場面から、涙がバーーーーだった。もういい加減何度も見てて、何度もそのたびにバーーーーだったので、さすがにもうバーーーーはないだろうと思って見たのだが、やはりまたバーーーーだった。 別の不倫映画で主演をやった「恋におちて」のメリルは、わりとトントン拍子にうまいこと行っていて、不倫映画のデキとして甘いと感じていた。しかしマディソン郡のメリルは、クリントと賭け落ちするかどうかの葛藤の中で「人を傷つけたことのない夫をどうして傷つけられようか」「子供もこれから恋をして結婚するというのに、精神的にどんな影響があるか」と夫や子供をかばい、悩みぬき、そして最終的には彼と別の道を歩むことを選ぶ。 悩み多き恋する女としては、圧倒的に「恋に落ちて」のメリルよりマディソン郡のメリルのほうが心揺さぶられる。 また「恋におちて」のデニーロは人ごみの中彼女に何も言わずいきなりブチューで、かなり強引であったが、「マディソン群の橋」のクリントは、家の中で、ふたりで踊りながら、お互いにキスを意識しないではいられないほど顔と顔が近付いたとき、「いやならやめていいんだよ」って一応承諾を得ようとする。 さらにデニーロはメリルのだんなが家にいようがいまいが関係なく彼女の家に電話してきて「会いたいYO!」と、彼女の状況なんぞオカマイナシの節操ナシであった。 それに対して「マディソン郡の橋」のクリントは、彼女と彼とのことが街中でうわさにならぬように気をつかったり、かけ落ちするかどうかは彼女の選択に任せ、かけ落ちしないと彼女が決めたのなら、それ以上せまらず去り、その後もイッサイガッサイ連絡をとらない(しかし、死ぬまで彼女のことだけ思い続け、灰を橋のところでまいてくれといって死んだ)という、誠実かつ一途かつロマンティックな、素晴らしい男だった。 こうした点で、相手役の男性についても、「恋におちて」より「マディソン群の橋」に軍配があがるだろう。 さらにいえばメリルのダンナだ。メリルのダンナは、けして悪いやつではない。年をとって死ぬ間際にはメリルばあちゃんに「君には君の夢があっただろうに、それを与えてあげられなかった。でも愛しているよ」と言う。また、ムダにでかい体型、つなぎの作業服、ハゲ頭。このミテクレがまた、悪いやつじゃない、素朴な、いいヤツ的なキャラを強調している。 「ピアノレッスン」「チャタレイ夫人の恋人」など、不倫妻の夫はえてして”ヤなやつ”であり、またそれが”不倫に走る必然性”に説得力を与えてくれる。 しかし「マディソン群の橋」の夫は、どこまでも”いいヤツ”であり、例の雨の中の車の場面で、目の前にとまっているのがクリントの車で、彼の話題を妻に話しているうちに、妻が苦しそうに泣きじゃくっているのを見て、「なんで泣いてるのか、さっぱりわからん」っていう表情を見せる、愛すべき鈍感オヤジなのである。 このように、パートナーがいいやつでありながら、主人公の2人は恋におちざるを得ない・・・というのは、”相対的な恋”(ダンナに不満があって、よそに目がいって恋をしたという形)ではなく“絶対的恋愛”(お互いが好きだから、恋をしたという形)であるという証になる。 そしてココが重要なことだが、”絶対的恋愛”は見るものに”恋の必然性”を説明するのが難しい。 「恋におちて」では、メリルもデニーロもそれなりにパートナーには文句なく夫婦関係良好だったのに恋に落ちたということで、”絶対的恋愛”を描こうとした。が、ふたりが恋におちる必然性の説明が不足してしまった失敗作だ。偶然が重なっただけ(しかも、どちらかといえばその偶然のほとんどはデニーロがストーキングして偶然を装っただけのもの)で、運命的なものを感じるかと言われればチョットどうなのって感じだ「おじさんがおばさんをナンパしてストーキングした勢いで狂い咲きしちゃった二人」にしか見えないのである。 その点、マディソン群では、二人が惹かれあい尊敬し合える理由(詩、芸術、旅…など)を会話に織り交ぜ、安定した展開で”絶対的恋愛”を見せてくれるので、満足度100%の大成功作なのである。 それはそうと、夫の死後にメリルが彼の仕事先に連絡したものの退社していて所在不明で、結局死ぬ前の再会はできなかったが、あれがもし現代ならフェイスブックでメリルが「ロバートキンケイド・・・検索!」ってすれば簡単に見つかって「夫が死んだので、今度お茶でも!」ってメッセージ出来たのであろうにな。[DVD(字幕)] 10点(2016-07-12 16:29:52)(良:1票) 《改行有》

120.  死霊館 《ネタバレ》 家に棲みついて悪さをしてるのは、子供を悪魔にいけにえにした結果魔女裁判にかけられ恨みを家に遺して自殺した魔女。 でもどうも、その本丸である魔女よりも 「彼女がやらせたのォー!」といってリストカットした手首を見せたと思ったらいきなりガーっと飛び出してきてドツいてくるメイドの幽霊とか、「かくれんぼしよう~♪」っていきなり真っ暗闇の地下室にひきずりこんで電気割って暗闇から手をのばしてくる少女の幽霊とか、ボヨ~ンと主人公一家の子供の背後に立ってちゃっかり写真に写りこむローリー少年の幽霊とか、魔女より幽霊のほうがなんかチョイチョイ たちの悪い怖がらせをしてくるやんって感じで 「魔女がこわいのか、彼女の犠牲者の幽霊がこわいのか、どっちかにせい!」とツッコミをいれたくなる展開であった。 さらにいえば、主人公一家の妻が魔女にとりつかれて暴れ出したので、神父がくるまで待てないってことでエドがとりいそぎ悪魔ばらいをすることになったが 最終的に魔女を追い出す方法が、十字架や聖水や悪魔ばらいのセリフなどではなく 魔女にのっとられた妻本人に「がんばれ!もどってこい!家族の思い出をさぁ思い出して!魔女を追い出して!」とみんなで励まし エスパーなエド夫人がハンドパワーで、主人公一家が海辺でワハハハと笑い転げ走るステキな思い出の記憶を注入! 最終的に”妻VS魔女”という、妻ボディの内側におけるガチバトルを妻が制して魔女を追い出す・・・という 「だったらもうこれからは、バチカンの許可もらってエクソシストの神父を出張させて 十字架だの聖水だのといった小道具や”神と子と精霊の名において・・・”なんてまどろっこしい悪魔ばらいをしなくたって のっとられた本人をみんなで励まして思い出のアルバムの写真なんかを体にペタペタはりつけて、本人と悪魔を戦わせる手法でええやん」 と思わせるような、<悪魔ばらい師不要論>が噴出しそうな、ぶっとんだ内容であった。 そして何よりも、個人的にいわせていただければ、悪魔憑依の作品は、バッドエンドでなくてはならない。 そうでなければ、ハッピーエンドにみせかけて、最後の場面で「まだまだ悪魔健在ですよ・・・フフフ」というワンカットを入れて、エンドロール・・・でなくてはいけない。 この作品については、個人的には、主人公一家が救われたものの、魔女がエド夫人に移動してしまいエド夫人が娘の背後にハサミをもってしのびよる・・・みたいなラストシーンであってほしかった。 (そう、だいたいエクソシストが登場する作品では、悪魔と奮闘したエクソシストのほうが最終的に被害こうむって終わるっていうのが王道だ) でも実話であるなら、それ以上は言うまい。 実話の映像化としては、きちんと基本をおさえて上手に撮られた作品ではある。そして、ファーミガ女史のあのなんともいえない、崩れていそうで崩れていない絶妙な均衡で美しさを構築している古典的な顔だちは、この時代のエスパー女として、当たり役であることは間違いない。[CS・衛星(字幕)] 7点(2016-07-12 10:25:08)(笑:1票) 《改行有》

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