みんなのシネマレビュー
すぺるまさんのレビューページ[この方をお気に入り登録する

◆検索ウィンドウ◆

◆ログイン◆
メールアドレス
パスワード

◆ログイン登録関連◆
●ログインID登録画面
●パスワード変更画面

◆ヘルプ◆
●ヘルプ(FAQ)

◆通常ランキング◆
●平均点ベストランキング
●平均点ワーストランキング
●投稿数ランキング
●マニアックランキング

◆各種ページ◆
●TOPページ
●映画大辞典メニュー
●アカデミー賞メニュー
●新作レビュー一覧
●公開予定作品一覧
●新規 作品要望一覧照会
●変更 作品要望一覧照会
●人物要望一覧照会
●同一人物要望一覧照会
●関連作品要望一覧照会
●カスタマイズ画面
●レビュワー名簿
●お気に入り画面
Google

Web www.jtnews.jp

プロフィール
コメント数 116
性別
ホームページ http://twitter.com/srktnt

投稿関連 表示切替メニュー
レビュー表示レビュー表示(評価分)
その他レビュー表示作品用コメント関連表示人物用コメント関連表示あらすじ関連表示
コメントなし】/【コメント有り】
統計メニュー
製作国別レビュー統計年代別レビュー統計
要望関連 表示切替メニュー
作品新規登録 / 変更 要望表示人物新規登録 / 変更 要望表示
要望済関連 表示切替メニュー
作品新規登録 要望済表示人物新規登録 要望済表示
予約関連 表示切替メニュー
予約データ 表示

【製作国 : アメリカ 抽出】 >> 製作国別レビュー統計
評価順1234
投稿日付順1234
変更日付順1234

1.  ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド 《ネタバレ》 ただの映画ギークだったクエンティン・タランティーノが、いよいよアメリカ映画界の巨匠になろうとしている。 『イングロリアス・バスターズ』では、糞ったれた史実を、バット一本で完膚なきに塗り替えてしまう、という傑作を見せつけたが、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』に於いては、映画史に刻み込まれてしまった狂った殺人事件を、もう単純に家を間違えるというだけで、これもまた塗り替えてしまうのだ。平たく言えば嘘つきだ。所詮、映画は絵空事だ。 だがしかし、こんなにも優しい嘘はない。 まさかタランティーノの映画を観て、最後の最後で泣きそうになるなんて。 しかもその直前までは笑いまくってたのだから。 最後の最後まではずっと壮大なフリだ。もうぎりぎりまでフリ続ける。 ハリウッドをレオナルド・ディカプリオでフリ、マンソンファミリーをブラッド・ピットでフリ、 そしてマーゴット・ロビーが自分の映画を観るという件がまたサスペンスを高めるフリだ。 そして岐路は単純。そう家を間違えるというだけ。 そこからのブラッド・ピットの怪演とタランティーノ得意のゴアなバイオレンス描写がもう笑えてくる。 ここで、事実を捻じ曲げて、さあどうするタランティーノ、どう決着をつけるというふうになる。 しかし誰もが納得するだろう。 現代ハリウッドの象徴と言って過言でないレオナルド・ディカプリオとシャロン・テートを抱擁させる。 彼女をスクリーンの中で生き続けさせること。 そしてタイトル Once Upon A Time in ... Hollywood それがしたかったのか。泣ける。優しいよ、タランティーノ。 これは史実に対する復讐である。 糞ったれた史実を犬に噛み千切らせ炎で焼き尽くし、血生臭いフィクションを張り付ける。 生と死を描いて辿り着く先は、優しい抱擁、これこそ正に映画である。 またしても傑作。 さて、帰路に着いてふと思い出したが、『イングロリアス・バスターズ』の最後、クリストフ・ヴァルツは、ブラッド・ピットによって額にナイフで鉤十字を刻み込まれるんだ。実はここから既に壮大なフリだったのか。まさかそんなわけがあるまいな。[映画館(字幕)] 9点(2019-09-07 00:50:17)《改行有》

2.  LOGAN ローガン 《ネタバレ》 父と子供、暴力、ロードムービー、つまりアメリカ映画だ。 ジェームズ・マンゴールドの巧さは、ひとの生き様やその深度を描くことだと感じる。 また彼の作品群には視線劇という印象が強く、今作も殆ど喋らないローラの視線が強烈に描かれる。 しかしある時を境に彼女は突如喋り出すのだが、これは仕方がないことだ。 恐らくながら、マンゴールドは複雑な構造ではないシナリオにしている。 つまり敢えて典型的なシナリオを書いていて、誰かが死んでこうなるという予感などは裏切らないわけで、 だからローラが喋るという行為自体も都合だ。何故ならローラはずっと喋らなくたって良いわけだ。 しかしチャールズの死後、そうでなきゃ物語を転がせられないからで、 だがそれは物語上の些細な都合だし、それは転がすだけの装置でしかない。 だから別にそんなことは大した問題でもなくて、ローガンを動かす何かをちゃんと描いてるから巧いのだ。 矢鱈と語らせるわけでもなく、必要最低限の台詞に留め、風景と役者の芝居と視線で描ききる。 そして愛は暴力を生み出すのだけども、また暴力に勝るものは愛でしかないというアメリカ映画の根底的主題。 それやこれやを積み重ねていき辿り着く最後は、観ていて途轍もなく身体が熱くなるアクションとドラマを畳み掛ける。 それは無論カタルシス的な何かであって、ここまでの蓄積がある故に、それが典型的なフォーマットだろうが、 そこへ落し込む力、それを納得させるという巧さがあるから、泣ける。兎に角、泣ける。 過去の自分の化身と満身創痍で戦うのだが、その化身の息の根を止めるのが、今の自分ではなく、 娘であるローラだというところが泣ける。それの意義たるや泣ける。 そして十字架を傾け、Xの文字になったとき、誰もが詠嘆するだろう。 それはきっと、あれだけであるひとりの男の人生がそこに一気に立ちあがってしまうという、 マンゴールドのひとの生き様やその深度を描くことの巧さなのだろう。 素晴らしい。[映画館(字幕)] 9点(2017-06-02 23:58:57)(良:1票) 《改行有》

3.  ハドソン川の奇跡 《ネタバレ》 一言で言えば無難だ。 回想と妄想が物語を多層化させることでより良くなるというよりは、 実際の出来事の短さを物語として成立させる為の無難な肉付というところもあり、 簡潔さの申し子とも言えるであろうイーストウッドらしくないとも感じる。 その一方でランタイムが100分をきっているという事実もある。 別にシナリオが悪いわけではない。無難だが寧ろ面白い。 墜ちないでくれと思わせる現実と墜ちてしまえと思わせるシュミレーションを、 時間差で観客に叩きつけてくるわけだ。何たる語りの構造。 ただしかしイーストウッドが撮る為のシナリオに感じない。 乳飲児を預る隣席の男の慎ましさ、親父と息子の電話での会話に迸る熱量、 この映画を締めくくる副操縦士の一言など、細部にこそ映画の良さは宿るが、 エンドクレジットを見ればわかる通り事実の延長線上でしかないと感じざるを得ない。 無論、イーストウッドにそんなものは求めてない。 角張った石も転がり続ければ丸くなってしまうということだろうか。 あと最近、ステディショットが多過ぎるのではないかと危惧している。 これは撮影上の効率化なのか、芝居を撮ることを優先する為なのか。[映画館(字幕)] 7点(2016-09-26 22:39:19)(良:1票) 《改行有》

4.  ブラックハット 《ネタバレ》 マイケル・マンがハッカーであるとかサイバーであるとかそんなことに最後まで執着するひとではないことくらいは当然皆が知っている。クリス・ヘムズワースが釈放された時にタン・ウェイが向ける眼差しをこれでもかとショット割いて描くのは、この映画はこのふたりの映画であるという説明でしかない。その後もマイケル・マンは物語の中心に据えた男女を取り巻く社会の巨大さを空撮やらインサートショットやらで説明し続ける。司法や権限という社会の内部構造という障壁に呑み込まれるふたり。やがてその障壁は外側からこじ開けられる。復讐心と一縷の望みとを抱え、その大きな風穴から外部へと抜け出す。この瞬間の輝く大都会とトワイライトの天空、狭い飛行機の中で抱き合う男と女。ここでもう充分に満足してしまった。マイケル・マンかっこいいって。ただ勿論、映画は続く。外側へ出たふたりであるからこそ、物語はより荒唐無稽さを増し、マイケル・マンの描き方も行動と結果しか描かなくなる。観客は殆どの瞬間でふたりが何をしようとしているのかという点で置いてきぼりを食らうだろうが、それでいい。そしてすべてが集約されるラストだが、これがまたとんでもなく良い。実行ボタンを押すだけで光るマクロな基盤の中を高速で駆け抜ける情報などというサイバーな戦いなど放り出し、松明の炎が揺れる群衆の中を相手を追い掛けて拳銃と刃物で物理的に殺しあう。映像が共振する。復讐譚として最も相応しい。やっぱりマイケル・マン、めっちゃかっこいいっす。[映画館(字幕)] 9点(2015-05-11 21:22:25)(良:1票)

5.  脱出(1944) 《ネタバレ》 ローレン・バコールの登場シーンの格好良さ。 「Anybody got a match?」というオフの声、既に咥え煙草で扉に寄りかかるバコール。 ハンフリー・ボガートが投げたマッチ箱を乱暴に受け取り、ボガートに一瞥くれて煙草に火をつける。 火の消えたマッチを後ろにぽいと投げ捨て「Thanks」と捨て台詞。 煙を吐き出し、マッチ箱をボガートにぽいと投げ返し消えていく。 これが映画の粋だ。かっこいい。痺れる。 この後も幾度となくボガートはバコールの煙草の火を付けてやるのだが、一度立場が逆転する。 客が払うべき金を踏み倒そうとしたことに気付いたボガートは、その客に詰め寄る。 その時に隣にいたバコールは、ボガートが煙草を口に咥えるか咥えないかの瞬間に、 それはその行動を読んでいたかの如く、マッチに火を付け、ボガートの顔前に出すのだ。 この行動の俊敏さ。かっこいい。 この映画の登場人物たちは皆活き活きとしている。もうそれだけでいい。 最後のバコールの腰振りダンス、ボガートに腕を掴まれた時の笑顔。泣ける。 そしてその後ろを鞄を持ったウォルター・ブレナンが、こちらもちょいとリズムを刻んでふたりに付いていく。 最高。[映画館(字幕)] 10点(2015-01-07 03:53:10)(良:1票) 《改行有》

6.  忘れじの面影(1948) 《ネタバレ》 リザは寝室を抜け出し、母がいるリビング前をぴょんぴょんとすり抜け、玄関を出る。 そしてステファンの部屋の扉のちょっと上の小窓をこっそりと開けて彼のピアノの音色を聴くのだ。 小窓から音と共に流れ出すささやかな風が彼女の髪の毛を揺らす時、 ああ、映画の美しさとはこういうことかと感じるだろう。 同構図による時間経過後の反復は、同意義である一方でそこには決定的な差異があって、 その差異こそがそのショットの狙いなわけだけど、そもそも反復される前の元のショット自体に なんだか強い力みたいのがあって、そこで先ず一発喰らわされて、 そして後に更にまた一発喰らわされるという、恐ろしい仕掛けだと熟思う。 この作品での同構図反復は、先ず、階段上からのリザひっかけの階段下を見た俯瞰ショット。 そこにステファンと別の女が帰って来て、ふたりが階段を上ってくるのにつけて、 徐々に軽くトラックバックしていき、リザはフレーム右端の壁にそっと隠れる。 二度目はそのワークそのままなのだが、リザがステファンと階段を上ってくるのだ。 最初にリザが隠れていた壁もしっかりとフレーム内に収めてはいるけれど、 そこはいい具合に暗闇になっていてこれが好い。 隠れて見ていることしか出来なくて泣いて帰ったリザが、 今はあの時自分が見た光景の様に、その憧れの男と一緒に階段を上っているという美しさだ。 あのときはこの暗い壁のところに隠れていたのだ。これが同構図反復の強さだと思う。 この映画はそのような流麗なカメラワークは勿論、あのアパート(特に階段)であったり、 冬の夜の遊園地であったりする完璧なまでの美術セットも素晴らしいだろう。 そして最後の扉前の合成の見事さったらないよね、って思った。 正に、忘れじの面影、素晴らしい邦題。[映画館(字幕)] 8点(2014-07-18 03:47:04)《改行有》

7.  ゼロ・グラビティ 《ネタバレ》 全くの無音から無線音への音のグラデーション、 相変わらずのレンズ前に付着させる水滴、 客観から主観への移り変わり、 これらは映画であるということの証明であり、 また圧倒的な映像力で見せる長回しは、 時間を断絶させないリアリティへの追求。 全くもって事実ではないことを尤もらしい事実のように描ききる巧みさ、 これがアルフォンソ・キュアロンの映画である。 サンドラ・ブロックの涙は無重力空間で水滴の塊となり浮遊する。 浮遊する水滴の塊は徐々に彼女から離れる。 フォーカスは水滴に送られる。 この現実的ではあるが(宇宙空間という舞台が現実的かどうかはさて置き)、 これはカメラが撮っている映画である ということへの固執こそがキュアロンであり、 このショットは、この映画は3Dで観なければならない ということを最も訴えているだろう。 なによりもこれはサンドラ・ブロックが「掴む」映画だ。 必死に生きようとするために掴む。 ジョージ・クルーニーとを結ぶロープを、 宇宙船の外壁を、突起物を、消化器を。 何かを掴み、何としてでも生きようとする。 そして彼女が最後に掴むもの、それは土、地球の地面の土。 やっとの思いで水中から陸地へと這い上がり土を掴み握り締める。 そして立ち上がろうとする。 しかし重力に屈する。 しかし彼女は笑うだろう。 何故ならば重力を感じているからだ。 生きて地球に帰ってきたという証だからだ。 そして再び立ち上がろうとする。 そして地球の大地を二本の脚で踏みしめる。 そしてタイトル「GRAVITY」[映画館(字幕)] 9点(2014-05-05 01:05:24)(良:7票) 《改行有》

8.  とらわれて夏 《ネタバレ》 ケイト・ウィンスレットのどうしようもないくらいの中肉中背具合に、 あのぼろぼろのブロンドの巻き髪が包む疲れきった表情、 昔は美人であっただろうという、いかにも田舎の年増の女具合が絶妙なんだな。 それというのも、あの冒頭の寝起きに息子と一緒に鏡に映り込んだ姿が、その息子との対比もあってか、 やけに浮き彫りとなって、ああ正にそれだと思わせる。 そしてジョシュ・ブローリンは、髭を蓄えて登場する最初は、 いかにもアウトロー感があるが(登場の仕方が好い)、 別人が演じている回想を抜きに想像しても、いかにも堅く誠実な男を思わせる匂いを放ち、 また髭を剃り落とし、髪の毛も整えれば、正にその通りの男になる(その登場も好い)。 しかもだ、てきぱきと料理を作り、タイヤの交換をし、日曜大工仕事までも難なくこなす。 そしてまるで実の息子のようにヘンリーと打ち解ける。これらの描写がもう絶妙なんだな。 ジェイソン・ライトマンは、こういう人物が放つ、その人物の匂いみたいなもんを的確に導き出し、 そして切り取ることに非常に長けているんだろうな、きっと。 そのライトマンの冴え渡り方は、別に人物描写だけではなくて、冒頭のタイトルバックからの、 横移動でのあのボロ一軒家の見せ方ではっきりわかる。 この家で起こる何かというサスペンス性が確実にある、あのショットは。 的確なショットと的確なモンタージュは映画の「リズム」を作る。 「リズム」を刻めば映画は兎に角弾んで面白い。 3人でピーチパイを作るシーンの得体の知れない感動は後々になり再び呼び起こされる。 アデルの「A」、時間を越えて、必然か偶然か、想いは伝わる。 これが映画の「リズム」だと思うのだ。 これはアメリカ映画それもメロドラマの正統な継承であるというところだろうか。 更には繊細な視線劇でもあって、特に息子ヘンリーの視線、 大人への憧憬が繊細かつ見事に描かれているわけで、 というかヘンリーが軸なわけで、まぁ好い。 好いというか、もう感嘆した。素晴らしい。[映画館(字幕)] 9点(2014-05-05 01:03:53)(良:1票) 《改行有》

9.  襤褸と宝石 《ネタバレ》 映画を観ていると、何気ないことがふと気にかかるときがある。 その瞬間というのは大概が、後々に、ああ、成る程ということになるもので、 そういう反復、連鎖、というものが描かれる映画はやはり面白い。 この言わずと知れたスクリューボールコメディの傑作『襤褸と宝石』にもそんな瞬間がある。 それは冒頭、ゴミ処理場で暮らすある男のところに上流階級然とした女と男がやってくる (この時のその男の後ろに車が滑り込んでくるワンショットも凄く好い) ところであるが、その男の汚い手を最初に躊躇いもなくしっかりと握る妹という、 このちょっとした何でもないことが、何故だかふと気になるのだ。 あんな汚い男の手をあんな身なりの綺麗な女が躊躇わずに握りしめる。 姉などは近付きたくもないというような振る舞いであったではないか。 そういったことが気になるのは、まぁごくごく普通のことだろうが、 それは何故かこの映画の忘れられない瞬間となる。 この瞬間は、この映画の先を読める瞬間でもある。 話は進み、映画も終幕間際である。 男は成功するわけだが、そこにその妹は転がり込んでくる。 勿論、そこはあのゴミ処理場の跡地である。 そしてラストショット、その妹はしっかりとその男の手を握り締めているのだ。 しかも、それは婚約の誓いとしてだ。ああ、成る程なと。 これが映画であると信じている。[映画館(字幕)] 8点(2014-01-04 03:16:25)(良:1票) 《改行有》

10.  フライト 《ネタバレ》 改めてロバート・ゼメキスの映画作りの上手さを思い知らされる。 ゼメキスの素晴らしいところは、すべてきっちりと画で説明するところで、 役者もそういう芝居をしなければならないし、 そういうものが撮らえられている映画は、やはり問答無用で面白いのだ。 冒頭からの墜落シーンのカット割や編集が卓越され過ぎていて、もう参った。 そして墜落の瞬間を客観で見せる上手さ。 墜落している瞬間の同時進行の中では決して見せない。 テレビの中、結婚式だかをやっていた誰かが偶然撮影した映像、 そして何よりもあのタイミングだということだ。 墜落の瞬間を、その飛行機を操縦していたパイロットが見るのと、 時を同じくして観客も初めて見る、そこに大きな意味がある。 冒頭も女のケツをやたらと舐め回すようなショットを撮り続けているわけだが、 それだって最後の最後でのデンゼル・ワシントンの決断への伏線であり、 冒頭の女の印象を強く残すことでの、あの決断なわけである。 ああ、そしてホテルでの酒の小瓶を手にする瞬間のハイスピード撮影の上手さよ。 置く、小瓶、そして手が入る、取ってフレームアウト、このワンカットのサスペンス。 なんて素晴らしいのだろうか。 飛行機の墜落と人生の墜落、勿論あの薬物中毒の女のことも含まれているわけだ。 一機の旅客機を不時着させた男は、二度と飛ぶことは許されないわけだが、 人生における新たなフライトが始まるストップモーション。 今は亡きトニー・スコットとの作品といい、デンゼル・ワシントンには、 ストップモーションでの終幕が本当に良く似合う。[映画館(字幕)] 8点(2013-04-29 00:56:35)(良:1票) 《改行有》

11.  ザ・マスター 毛皮の女の長回し、まるで水が静かに流れているかの様な躍動。 そしてただただバイクが疾走するだけの躍動。 それらがスクリーンに投影されている。 それを観ているだけで思わず涙しそうになる。 もうそれだけで、この映画は充分に素晴らしいだろうと。 映画とはそういうものだと思うからだ。 なんだか久し振りにこんなにも映画を観ながら熱を帯びて痺れてしまったもので、何よりも最高の光をフィルムに定着させている。あの絶妙な薄暮の中を走る船であるとか、本当に見事なまでに豊かな映画であったと思う。 そして、何よりも、ホアキン・フェニックスがフィリップ・シーモア・ホフマンを睨むように見つめ微笑むあの顔の美しさったらない。彼の熱や精気が徐々に失われ、顔面の脂も抜けて、ただの骨と肉と魂の塊へと姿を変えていく美しさよ。そんな骨と肉と魂の塊が彷徨い、両の眼を涙でギラつかせ、口許を歪ませているだけのクローズアップ、そしてその陰影。 映画は、物語などを超えて、観るという体験として身体に刻み込まれるものだ。[映画館(字幕)] 9点(2013-04-22 01:19:51)(良:2票) 《改行有》

12.  ミッドナイト・イン・パリ 《ネタバレ》 アレンの映画について書くときのいつものインサートのことから。 アレンは殆ど物のインサートを撮らない。 今回はイヤリングをプレゼントされるシーンが分かり易い。 大概の映画がイヤリングの寄りのインサートを撮る。 こんなイヤリングだ、という説明のショットだ。 アレンはこういったショット恐らく好んでいないであろう。 それはここで描きたいものはイヤリングをプレゼントするという行為だからだ。 インサートが入り行為そのものの流れに淀みが出来ることが嫌なのだ。 行為そのものの素敵さとイヤリング自体の素敵さは、 このシーンではほぼ無関係なのだから。 さて、そんなアレン映画の根底にある主題とはと考えると、 今を生きているということは決して幸せなことではない、 という正にこの映画がストレートに描いていることな気がする。 しかしそれでも今を生きるしかない 生きているからこそに見つけられる幸せ それはたとえ雨の中でも自分の脚で歩いて見つけるしかない 現在への虚無感と過去への憧憬。 憧憬の中で生きようとも、それはいずれ虚無へと変貌を遂げる。 「過去は死んでないんだ、それは過去ですらないんだ」 今を生きることを選んだ男の最高の未練だ。 素晴らしい。[映画館(字幕)] 8点(2012-12-04 05:19:06)《改行有》

13.  ヤング≒アダルト 《ネタバレ》 冒頭の連鎖していくショットのテンポの良さに惹き込まれる。 そしてカセットテープをカーステレオに入れる。 再生ボタンを押すと彼女にとっての懐かしの音楽が流れ出す。 そして更に何らかのボタンを押すと、テープがきゅるきゅるとなる。 これが、早送りなのか、巻戻しなのかは説明されてないのだけど 絶対に巻戻しなのだ。巻戻すことに意味があるから。 そこで更に惹き込まれるのだ。 ベッドで寝ているということだけを撮るにしても 意味を持たせる為の演出と撮り方の選択。 ひとりではうつ伏せ、ふたりでは仰向け。 そして反復する構図で、物語が動き出す直前であることを演出すること。 簡単であるようで、そこに辿り着けるひとは少ないのだ。 あとはもうシャーリーズ・セロンをどう見せるのか ということに徹した映画であって、もうそれだけで充分だ。 綺麗な女優が歪なビッチを演じきり、周りが盛り立てる。 こんな贅沢な話はないじゃないか。[映画館(字幕)] 8点(2012-11-30 03:30:01)(良:1票) 《改行有》

14.  過去を逃れて 《ネタバレ》 やっぱりジャック・ターナーは凄い。とにかく女優を綺麗に魅せる。 ファムファタール、ジェーン・グリアが綺麗過ぎて、息が詰まる。 ジェフがアンに打ち明ける回想明けで、 ジェフが車を降りてアンとのクロースアップのカットバックになるのだが、 このカットバックの秀逸さたるや唸る。 もうこの撮らえ方が、ああこのふたりは絶対に結ばれることなどないのだと思わせる。 ジェフとキャシーが初めて結ばれる夜、 ジェフが投げ出したタオルがランプシェードにぶつかり、 ランプシェードは倒れ、部屋は暗くなり、嵐で扉が開き、その扉に向ってトラックイン。 愛が交わるという素晴らしい演出だけでなく、ここがすべての破滅の始まりとも見える。 そしてラスト、アンは聾唖の少年に「ジェフは本当に彼女と逃げたの?」と尋ねる。 少年は戸惑い何も答えないが、アンの「そうなの?」という更なる問いかけに最後には軽く頷く。 そして彼女は去り、少年はジェフの名前が書かれた看板に、これで良かったろ?と挨拶するのだ。 つまり、アンに真実を告げれば彼女はジェフのことを想い、新たな幸せな人生を迎えられない。 そんなことは彼も望まない。例え彼が悪者になろうとも、彼女のことを想うから、 彼女が幸せになれるならば、それはそれで良いのだということだ。 それがあの少年の選んだ決断だ。これで良かったろ?と。泣ける。[映画館(字幕)] 9点(2012-11-08 10:26:49)《改行有》

15.  緋色の街/スカーレット・ストリート 《ネタバレ》 ノワールと言えばやはり「欲望」というとこで、 主立った三人の登場人物は皆、自分の欲望を満たすためだけに行動をする。 中年の銀行マンは騙されてはいるのだが、嘘を付いてでも手に入れたい愛という、 そんなどうでもいいようなものの前では、同情などは打ち消されてしまう。 誰に同情出来るでもない世界観。 この世界観はラングによる繊細な人物描写で成り立っている。 しかもそれは見せ方だ。 例えば、男が女を殴っているのを主人公が目撃してしまうショットの上手さよ。 この引き画の、引き具合の抜群さだ。 傍目から見れば明らかに襲われているという見せ方。 これはこの前段階で主人公が若い女とどうのこうのという件が活きているからこそだが、 主人公同様に、我々観客にも「そう見える」という演出の上手さだ。 ラングの上手さとは見せ方の上手さ、つまり物語ることの上手さだ。 そしてやはりこの映画はクライマックス語らずにはいられない。 ネオンの明滅、決して消えない幻聴。 観客は視覚と聴覚を刺激され、まるで自分が主人公であるかの如き錯覚に陥るだろう。 そして現れるあの絵画の眼差し。 やられた。完全にやられた。 ここでこれを出してくるとは全く想像していなかった。 この瞬間に誰もが身震いするはずだ。もう蛇に睨まれた蛙だ。 ラストたった10分程だろうか、途轍もない緊張感と興奮に誘われる。 素晴らしい。[映画館(字幕)] 9点(2012-09-29 00:25:38)《改行有》

16.  南部の人 《ネタバレ》 唐突な話だが、ルノワールの『南部の人』は、死ぬ間際に観たい映画だと思った。 果たして死ぬまでに何本の映画を観るだろうか。勿論、本数の問題ではない。 ならば観るべき映画は観たのだろうか、観ずに死んで後悔する映画はもうないかと。 しかし、そんなことがどうでもよくなる映画、それが、ルノワールの『南部の人』だ。 もうこれを観たのだから、悔いはないだろう。 こんなにも幸福感に包まれた映画などこの世にはないのではないだろうか。 夫婦揃ってベッドで眠るショットにオヴァーラップする綿花畑の美しさや 滅茶苦茶すぎる街の酒場での乱闘シークエンスや なによりも登場人物の表情ひとつひとつの美しさ そして生命の力に満ち溢れているではないか。 あばら家に引っ越してきた時に初めて灯るストーブの火。 ここから物語が、この家族の新しい生活が始まる。この美しさに心を揺さぶられるではないか。 その時点ではこのシークエンスのみでの美しさなのだが ここにただならぬ何かを感じずにはいられない。勿論そこではそれが何かなどわからない。 映画は進み、嵐が畑を無に返す。男はもう無理だ、街へ出ようと決意する。 しかし家に戻ると妻は、「家は大丈夫、そしてストーブも直った」と言う。 そして再び灯るストーブの火。泣ける。泣けて泣けて仕方ないだろう。 冒頭のストーブの火に感じる魅力は生命の力だ。 ルノワールが描きたいこととはそういうことだ。 死の間際、幸福に包まれた生命の力を感じる映画を観る。 こんなにも安らかな最期などないはずだ。 そんなことを思わせる傑作である。[映画館(字幕)] 10点(2012-09-09 00:37:42)(良:2票) 《改行有》

17.  ヒューゴの不思議な発明 《ネタバレ》 メリエス(のみならずリュミエール兄弟でもハロルド・ロイドでもどれでもそうだが)の映画が流れる度に涙が溢れそうになるのだが、それは別にメリエスの映画に涙しているのではなく、ぬけぬけと懐古的な映画愛を恥ずかしげも惜しげもなく披露してしまう、この映画の全体の一部に涙している。何故なら、スコセッシがそう仕向けてくるのだから。 であるからこそで、ふたりが映画館へと忍び込むところだ。暗闇を切り裂いて、光が、ただ光が、スクリーンを突くと、浮び上がる新たな世界。『ロイドの要心無用』の名シーン、ビル登り、をふたりが興奮して食い入るように観る。そう、子供の頃の映画という体験の興奮を忘れることが出来ず、ひとは繰り返し繰り返し、暗闇へと脚を運ぶ。 さて、どうして、こんなにも愚直で、稚拙で、恥じらいのない、映画愛に満ち溢れた映画を作ってしまったんだろうか、スコセッシは。何時にも増した下手くそさと、観客を選ぶような映画愛表現と、幾つものレイヤーを重ね合わせただけのような3D映像。こんな欠点だらけの映画、最高に好きである。 これは暴力やセックスを描いてきた作家の、映画が暴力やセックスと手を結ぶまでの映画。映画は未来のない発明だという劇中でも登場するリュミエール兄弟の台詞とは裏腹に、映画は、音、色、そして、デジタルへと変容し続けている。人々が暗闇へと脚を運び続ける限り、映画は死なない。[映画館(字幕)] 8点(2012-04-08 21:51:47)《改行有》

18.  戦火の馬 《ネタバレ》 馬を見つめる青年から始まるこの映画は、冒頭から、見ること、を提示している。 そう、まなざしである。まなざしを操ること、それが映画である。 見ること 見られること 見えなくなること 見えなくとも気付くこと そして見ないこと 見ることを奪われる青年が、見ずともわかること。 ラストのジョーイの視線は、家族を見ていない。 見ていないから良いのだ。 ジョーイは見ないのだ。見なくてもわかることもあるから。 そして、帰ってくる、という意味の重さと尊さ。 帰ってきたよ、という帰還した者のまなざしではなく 帰ってきたのかい、という帰還した者を受け入れるまなざしで描ききること。 アメリカ映画とはこういうことだろと。[映画館(字幕)] 9点(2012-03-07 01:31:41)《改行有》

19.  SUPER8/スーパーエイト(2011) 《ネタバレ》 何がこの映画を包んでいるのだろうか。それは紛れもなく優しさであり、徹頭徹尾『SUPER 8』は優しい。冒頭の看板にクレーンでトラックしていくショットですら、その看板の意味を宙吊りにして優しいだろう。 エイブラムスの『SUPER 8』はスピルバーグの『宇宙戦争』である。『宇宙戦争』でのスピルバーグと同様『SUPER 8』でのエイブラムスもまた、人間を描くことにしか興味がない。しかしエイブラムスの唯一の差異、それは、人間の本来の醜悪を完全に省いてしまったこと、つまり『宇宙戦争』ほどの陰湿さがない。それはこの映画の対象はどこかということだ。スピルバーグは、近年ではもはや、子供向けに映画を製作していない。しかしエイブラムスが『SUPER 8』に授けた想い、それは映画の素晴らしさを老若男女問わずに伝えること。映画とは何か、その結晶がエンドクレッジトなのだ。 さて、その映画とは、物語を観るのか、映画自体を観るのか。『SUPER 8』は映画を観せてくれる。だから、物語や台詞などすべて忘れてしまえばいい。スクリーンに映し出される事実だけ、それだけを観て記憶に留めればいい。ジョーの手から解き放たれ、たゆたいながら静謐に飛び去って行く《彼女》の瞬間を決して生涯忘れない。 「わたしはもう行くわ」 「いかないで!」 「離しなさい。あなたにわたしはもう必要ない」 「・・・」 「さようなら」 「・・さようなら」 傑作。[映画館(字幕)] 9点(2011-06-25 06:11:53)(良:2票) 《改行有》

20.  ザ・ファイター 《ネタバレ》 映画は最初の数分を観れば、その映画の善し悪しであったり、それがどんな映画なのか大体はわかるとはよく言ったもので、「ザ・ファイター」は冒頭の路地を物凄い勢いでトラック・バックした時点でこの映画の良さというのは一目瞭然伝わってくるのだ。 ディッキーの薬中ドキュメンタリーが放送された夜、シャーリーンがミッキーに会いに来た時の彼女の表情の説得力こそがこの映画の凄みであり、監督デヴィッド・O・ラッセルと女優エイミー・アダムスがこの映画で一番のシーンを生み出した瞬間であった。何故か。それはこの放送中の一連のシーンで、シャーリーンは一切登場しない。しかし、扉を開けた時のシャーリーンの表情が、スクリーン外で起こった彼女の物語を途轍もない説得力で表現しているからだ。彼女もテレビを見ていた。しかしそのあまりにも酷な内容を前に、あれだけ拒絶したミッキーにどうしても会わなければならないと決意し、今、扉の前に立っている、という物語があの表情にはあるのだ。デヴィッド・O・ラッセルはあえて彼女の登場をあそこまで引っ張った。そしてエイミー・アダムスはそれを理解しあの表情をあそこで出した。この映画はもうそれだけで充分ではないか。[映画館(字幕)] 8点(2011-04-24 16:14:16)(良:1票) 《改行有》

全部

Copyright(C) 1997-2024 JTNEWS