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プロフィール
コメント数 206
性別 男性
ブログのURL //www.jtnews.jp/blog/22117/
年齢 43歳

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【製作国 : アメリカ 抽出】 >> 製作国別レビュー統計
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1.  ゴーストバスターズ/アフターライフ 《ネタバレ》 過去作については子供の頃に「ゴールデン洋画劇場」などで放送されていたのをよく見ていた程度のライトな観客なので、レビューを書くのも少々おこがましい気もしますが (^^;)、こうやってわざわざ正式な続編を見に行く程度にはファンであるということで一筆書かせていただきます。 かつてのゴーストバスターズの孫たちが、ゴースト捕獲機やプロトンパック、ECTO-1 などお馴染みのガジェットを「発見」していく序盤の展開は非常に丁寧で、最後にシリーズを見てから長いブランクのある僕みたいな観客にとっても「そうそうこんな感じだった」と思い出しながら作品世界に入っていけたとともに、程よいノスタルジーも感じることができました(このような丁寧な展開は、恐らくシリーズ初見の観客を意識してのことでしょう)。 またその序盤におけるジュブナイル展開など、本編で活躍する子供たちの様子は、個人的に「グーニーズ」や「インディージョーンズ 魔宮の伝説」を連想させるものであり、これはこれで今や「古き良き」ものとなった 80 年代ハリウッド映画(の一部)の牧歌的な雰囲気が感じられました(とは言え、家賃を払えなくなった主人公親子が家を追い出される展開はなかなかに現代的でヘビーですが)。 ただし、そこは 2020 年代の「今」に蘇ったゴーストバスターズです。あくまでコメディが主体だった印象の過去作とは違い、今作ではゴースト要素にまつわるホラー的な展開がなかなか強調されており、いわゆる「ビビり」である僕にとっては割と本気でドキドキさせられました(あくまでホラー「的」という程度であり、そこはさすがにゴーストバスターズとしての一線は守っていると思いますが)。 序盤は比較的丁寧(ゆったり)だった展開も、ゴーストが本格的に登場する中盤辺りからは一気に加速し、過去作ファンにはお馴染みのラスボスと、ベタベタかもしれないもののやっぱり出てくると胸が熱くなる「彼ら」の登場には、少しでも過去作に触れた人なら恐らく「待ってました」と思えるのではないでしょうか。それでいて今作では、世代を超えてリブートしたことをうまく使ったホロリと来る展開や、過去作のコアなファンなら間違いなくニヤリとできるオマージュ要素も仕込まれており、古くからのファンにも初見の観客にも見やすい現代の「ゴーストバスターズ」としてとても楽しめました。[映画館(字幕)] 8点(2022-02-13 23:12:42)(良:1票) 《改行有》

2.  スター・ウォーズ/最後のジェダイ 《ネタバレ》 「自分が好きだったスターウォーズは今後もう二度と作られることは無いのだ」・・・この『最後のジェダイ』を見終わったときに感じたのは、ある種の寂しさを伴ったこのような感慨でした。 僕の理解では、ルーカス時代の6つのスターウォーズに関しては多かれ少なかれ「おとぎ話」、もっと言ってしまうと「神話」的な要素が相当程度含まれていると思います。それも「フォースをフックとした善と悪の闘争」の神話としてです。 「神話」が物語の大枠ですから、そこに登場する人物たちも当然「神話的」、「伝説的」とならざるを得ません。900年間も指導者の立場にあったジェダイマスター・ヨーダ、彼を筆頭にしたジェダイの英雄たち、圧倒的な悪であるダース・シディアスと彼が率いる帝国軍、善と悪の間を揺れ動く「選ばれた者」としてのアナキン=ダース・ベイダー、そしてそんな「血統」を受け継いだルークとレイア・・・いずれも人間の体臭を感じさせない、「神話的」という表現に恥じない特権的な人物たちです。そして「フォース」もまた、そんな「神話的」な彼らにのみ使うことを許された特権的なものであり、必然的にそこで描かれる「善と悪」の葛藤も、どこか浮世離れした抽象的なものとなっていました。 この『最後のジェダイ』では、過去のスターウォーズにはあったそんな「神話性」や「特権性」がことごとく打ち破られているように僕には見えました。戦争の英雄たちよりも無名のレジスタンスたちにフォーカスするその手法、泥臭いレジスタンスたちの奮闘とその失敗、「神話」からは程遠い俗世的なカジノのシーン、貧乏くさい旧同盟軍の施設、あっさり退場するスノーク、堂々としたジェダイぶりからは程遠いルークの姿、子供っぽさの抜けないカイロ=レン、そして何ら「神話的な」バックグラウンドを持たなかった「何者でもない」レイ・・・過去の作品の「大柄さ」「神話性」からすると、これらのスケールの小ささは全てスターウォーズとしては「禁じ手」と言い切ってしまっても良いでしょう。そしてこれらの「禁じ手」は、過去のスターウォーズの枠組みを破壊するために、製作者側によって意図的に選ばれたものだと僕は感じました。 これだけの「過去の破壊」を通して目指されているのは、個人的には「今の自分たちに合った『善と悪』の物語」ではないかと思います。 例えばエピソード4~6が制作された当時(及びその後しばらくの間)は、そこで語られる大柄な「善と悪」の葛藤が観客にリアルなものとして共有されていたのではないかと思います。だからこそ、見る者はそんな大きな「善と悪」の物語を理解し、それに対してワクワクできたのだと思います。 しかしそんな「大柄な」物語は、残念ながらより混沌とした状況である現代では、もはや生き生きとしたものとして共有しにくいものとなっていると思います。登場人物皆が皆、まるで等身大の自分たちであるかのように泥臭く試行錯誤し時には失敗し、「何が善で何が悪か」を手探りで見つけようとしているようにも見えるこの『最後のジェダイ』は、そんな今の時代の「善と悪」、そしてその先にある「希望」のありようにとてもふさわしいように見えます。 そのような『最後のジェダイ』の方向性を最もよく体現しているのが、作中のルークではないかと思いました。過去の偉大なジェダイ達とは違って、その姿はどこか頼りなさそうですが、最終的には彼自身もまた、苦労の末にようやく、「持てるものを次の世代に受け継ぐ」という、自分の取るべき道を見出したようです。 そんな「旧世代」の彼が、「新世代の主人公たち」がいる別の惑星に「実体としては」存在しなかったのは極めて象徴的です。もはや彼は「生身を伴った」主人公ではなく、従ってその「舞台」にも立っていない(立つことはできない)・・・新しい時代を迎えるにあたり、ルークはこの作品で退場すべき必然性を持った人物だったのかもしれません。 そんな彼がフォースと一体になっていく時に、どこかほっとしたような、懐かしいようなまなざしで見つめる「二つの太陽」は、そんなルーク(そして旧作を愛するオールドファン)に対する製作者側のせめてもの「はなむけ」ではなかったかと、個人的には思います。[映画館(字幕)] 9点(2022-02-13 23:03:08)《改行有》

3.  ボヘミアン・ラプソディ 《ネタバレ》 アルバムや楽曲の発表の順番、またバンドの、そしてフレディの伝記的な部分については、映画を盛り上げるための割り切りと思うにしても余りにフィクションが多すぎる点が、個人的に目に付きました。この点は、正直言って2回目の鑑賞を終えた今に至っても全く評価できません。 何より、フレディのエイズ発症とその自覚、そしてメンバーへのその告白が、少なくとも通常伝えられている時期よりも早められてしまったことが、僕には受け入れられません。その結果、本来はフレディ含むメンバーたちも何ら悲壮な覚悟を持つことなく、ただただ稀に見る大舞台を心底楽しんでいただけだったはずのライブエイドのステージに、「不治の病に冒されているのを承知で死を覚悟してステージに上がったヴォーカリストと、それを支えるメンバーたち」という強烈な「色」が付いてしまったからです。 ライブの迫力と音楽そのものの高揚感からは外れた過度の感傷が、自分たちの音楽に持ち込まれてしまったことを、音楽監修を行ったブライアンとロジャーは本当に良しとしているのかという疑問すら、僕は一瞬湧きました。 しかしそういった疑問も、例のライブエイドのシーンが始まった瞬間に吹っ飛んでしまっていました。 ライブエイドのシーンを見たからと言って、僕の中でそういった「伝記的事実の改変」が受け入れられない(一部に至っては許しがたい)ものであるのに変わりはありません。 しかしそういった改変は所詮は「フィクション」でしかなく、それは実際のライブエイドの舞台で演じられた、クイーンのメンバーによる迫真の演奏と音楽の前には、どうでも良いようなものでしかありません。そしてメンバーのステージ上の動きを忠実に再現した俳優たちの演技や、大観衆で埋め尽くされた会場の臨場感に溢れるカメラワークにより、映画の観客もまたウェンブリーでのクイーンの演奏を(その場で聴いているかのように)肌で感じることになるのです。そこには何らの感傷も悲壮感もなく、ただただ圧倒的な高揚感、そしてクイーンという唯一無二の音楽の「力」があるだけなのです。 伝記的な部分の扱いについては、未だに僕の中では大きな疑問符を拭い去れません。しかしクイーンの音楽が持つ力をほとんどダイレクトに映画の観客に伝えるこのライブエイドのシーンのおかげで、僕は最終的に「やっぱり見て良かった」と心底思うことができたのです。[映画館(字幕)] 8点(2018-12-13 01:36:53)(良:1票) 《改行有》

4.  ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー 《ネタバレ》 作りは非常に重厚、人間ドラマの厚みについても(前半の説明的な展開を除いて)申し分なし、ベイダー卿の冷酷な強さの描写も文句なしにかっこ良かった(ジェイムズ・アール・ジョーンズが引き続き担当していたのが本当に嬉しい)・・・一言でいうと、この『ローグ・ワン』という作品を「単独で」評価するなら、非常に良くできたSF映画と言えると思います ・・・しかしそれでも、あるいはむしろそのような「重厚さ」のゆえに、僕自身は「ルーカス時代の6部作」を基準に考えた際に、ある一点だけについては、ある種の「違和感」を拭い去れません。 それを一言でいうなら、ルーカス時代のSW作品に存在した、ある種の「軽さ」が、この『ローグ・ワン』には(そしてもしかしたらエピソード7にも)欠けていると思えてならないのです。 その「軽さ」をより詳しく言うと、「おとぎ話・ファンタジー的な軽さ」ということになりかもしれません。 僕自身の感想を言うと、ルーカス自身が制作に関わっている時代のスターウォーズを仮に「正典」と捉えるなら、「主要なスターウォーズらしさ」の一つとして「汗臭さを全く感じさせない非現実感」が挙げられると思うのです。 そのような「非現実感」を、必ずしも評価しないファンがいらっしゃるのは事実ですし、それを否定するつもりも全くありません。 ただし個人的に、今現在もこれだけのファンをスターウォーズが惹きつけ続けているのは、今自分たち(観客)が生きているこの時代や周囲の環境からは全く隔絶した、人間の体臭を全く感じさせない浮世離れした物語があるからこそ、という側面もあると思うのです。 それを言い換えるなら、観客が思い思いに「遠い昔、はるか彼方の銀河系で」の物語を、好きなように想像して鑑賞することができるのも、この「非現実感」があってこそ、という気がするのです。 そのような(いちSWファンである僕自身から見て決して見過ごしてはならないと思える)軽さが全く感じられないこの『ローグ・ワン』については、「エピソード3と4をつなぐ重要なピースの一つ」という意義や、あるいは作品自体の力の入りようとクオリティの高さを決して認めない訳ではありませんが、それでも「これが本当にスターウォーズか」と言われると個人的には素直に「そうだ」と断言できないものを感じさせるのです。 それは(非常に厳しい、あまりフェアではない指摘であるのは承知の上であえて言わせてもらうと)ラストシーンの、それまでさんざん重厚な(まるで現代の中東における対テロ市街戦を彷彿とさせるような)「リアル」な戦闘を描写した上で、デススターの情報を受け取るレイア姫が登場するシーンに顕著に表れていると思うのです。 このたったワンシーンに僕が感じた違和感を、ある種の例えで一言で言うなら、「それまで夏目漱石ばりの純文学を読んでいたつもりだったのに、最後のワンシーンでその作品がハリー・ポッターのようなファンタジーだったことが判明した」といったものです。 それなりにスターウォーズを追いかけて来たいちファンとしては、このような「ルーカス版SW」が余り注目してこなかった「汗臭さ」や「リアルさ」を追求するのももちろん意義のあることではあるが、それでもその「ルーカス版SW」が持っていた「ファンタジー的軽さ」の要素は、できるだけ疎かにせず保持して欲しいと、どうしても思ってしまいます。[映画館(字幕)] 8点(2016-12-25 01:25:24)(良:3票) 《改行有》

5.  スター・ウォーズ/フォースの覚醒 《ネタバレ》 それなりにスターウォーズを追いかけて来た一人のファンとしては、主要製作者としてルーカスの名前がクレジットされていない本作に対して、多少とも懐疑的・・・と言うより「本当にこの映画はきちんと『スターウォーズになっている』のだろうか」という不安な気持ちを持って本作の鑑賞に臨んだのですが、幸いなことにこの不安は、個人的には杞憂に終わりました。過去の6作と比べると当然より現代的にスタイリッシュになっている部分はあるものの、目の前の映画は、僕にとっては間違いなくスターウォーズでした。 僕がそう感じたのは、ハン・ソロやチューバッカにレイア、そして懐かしいドロイドたちといった見知った面子が出てきてるからといったこまごまとした部分だけによるのではなく、このシリーズ全体を貫く、フォースという要素をフックとした「善と悪の葛藤」が、この一作にして既にしっかりと語られているように見えたからです。 それを前提としてまず強く印象に残ったのが、この作品は単なるファンサービスというレベルに留まらない次元で、明確な意思を持って第4作「新たなる希望」になぞらえられているということでした。つまり、例えばファルコン号のレーザー砲の照準装置や同船内のモンスター・チェスのテーブルを登場させたり、シーンの構図や展開の所々にEp4を彷彿させるものを差し挟むといった、旧来のファンの心を快くくすぐるレベルに留まらず、そもそもの話の大まかな流れ自体が、Ep4を強く思い起こさせるものになっていると思うのです。 この部分を、一人のSWファンとして好意的に、作品の物語に即して捉えるなら、それは「歴史は繰り返す」ということがこの事によって描かれているのではないかということです。この作品においては、銀河は再び動揺の時代を迎えています。そしてそのような動揺の時に、まさしく再び「新たなる希望」が生まれつつある・・・このEp7でその様子を描くにあたって、過去にあった「新たなる希望」の誕生の時(すなわちEp4)が、運命とも予言ともつかない形で二重写しに重ねられているのではないかと、見ていてそう思いました。 しかし、大まかな話の流れはEp4に則っているように見えつつ、細かな部分では当然のことながらEp4とは大きく相違しています。 一番大きな違いは、ジェダイ側も暗黒面の側も、双方の戦士の状態がひどく不安定であるという点です。カイロ・レンは早々にそのマスクを外して「光の側にまた戻るかもしれない」と危惧しますし、一方のレイは、終盤の「覚醒」の時に至って、暗黒面の力に身を委ねたのではないかと見間違える程に闘争心をむき出しにしてレンを圧倒します。そしてレン(その正体はハンの息子であるベン・ソロ)の指導に失敗したと思われるルークは自ら表舞台から身を引き、ヨーダやオビ=ワンに見られたような自信も感じさせず、どうやら指導者としての自分の力量に疑問を感じている様子です。 この作品における、このようなある種の「不安定さ」の表現は、恐らく製作者側の明確な意図であるだろうと僕は思っています。ヨーダ率いるジェダイ騎士団、あるいは皇帝ダース・シディアス率いる銀河帝国という、明確な「善や悪」が存在した過去の6作とは違い、このEp7の舞台で前提となっているのは「善も悪も戦い尽くし、過去の秩序が崩壊した=新たに秩序を作り直していく世界」です。そしてその秩序の立ち上げの段階において、「新たなる希望」であるレイも、暗黒面に堕ちたレンも、そして新たな指導者としてのルークも、皆がみな「手探り」の状態なのだろうと思います。 光の側にせよ闇の側にせよ、それらに関わる人物たちの「当事者」としての生々しい「不安定さ」が、僕自身はこの作品の欠点ではなくむしろ「持ち味」であるように見えて、とても魅力的でした。またこの「手探りの不安定さ」がどのような方向に転んでいくのかという点が、今後の展開において重要になるのではないかと僕には思われて、非常に楽しみになりました。 全体としては、過去6作からの「継承」と、それに留まらない「新機軸」が、しっかり見られる作品となっていたと思います。[映画館(字幕)] 8点(2016-01-03 02:46:41)(良:2票) 《改行有》

6.  ダークナイト ライジング 《ネタバレ》 結果的にはそれなりに楽しめたのですが、個人的に残念だった部分も多い作品でした。点数は正確には6点+端数という感じで、何だかんだ言っても楽しませてもらったという意味で切り上げ7点としています。 まず(それなりにこの監督の作品を見てきた者として言わせてもらうと)「長台詞の多用」や「シーンを素早く切り替える」というこの監督独特の手法が、この作品の場合裏目に出ている部分が多いのではと思いました。前作『ダークナイト』では、ジョーカーというカリスマ的な悪役の存在により映画全体がそもそも引き締まった重みのあるものとなっていたため、そういった手法が説得力を持ったり(長台詞)、作品に一定のテンポを与えていた(シーンの切り替え)と思うのですが、今作に関しては肝心の悪役ベインにそこまでの求心力が無かったために、そういった手法が作品にテンポを生む前に「それぞれのシーンに存在するアクションやタメの『重み』を殺いでいる」部分が多いのではないかと思いました。要するにそれぞれのシーンが妙に軽く、また繋がりも良くないように感じました。 またそのベインが思ったほどの深みのある悪役ではなかったことと、その背後にあるどんでん返しが単なる「父なるものの呪縛」に終始してしまったことも、少なからず残念だった点です。 何より釈然としなかったのは、前作で問うたはずの「ダークヒーロー」像、あるいは「善と悪」に関する問いと言うものが、この作品で最終的に「単なるヒーロー像」や「単純な善悪の構図」に戻ってしまったことと、そういう中途半端な「復帰」のせいで劇中に無用な混乱を招いてしまっているように見えてしまったことです(例えばウェインが劇中でバットマンとして初めて復帰する一連の場面。ただしこれは劇中でアルフレッドが指摘していることでもあるので、「織り込み済みの流れ」でもあるのでしょうが、それでも)。 ただし相変わらず映像はスタイリッシュであり、贅を尽くしたアクションにはやはり圧倒されもしたので最終的に楽しむことはできました。またこういう不満も個人的には(ある一定の作家性を発揮してくれるだろうという)期待値の高さの裏返しでもあると思っています。今作は少々残念な部分もあったとはいえ、やはりそのような期待を持たせてくれる監督の存在は貴重だと思います。[映画館(字幕)] 7点(2012-08-12 23:47:09)《改行有》

7.  プロメテウス 《ネタバレ》 「人類の起源」や、中でも「創造者(創造神)」といった考え方は多分にキリスト教的だと素人ながらに思うのですが、そういう考え方にあまり馴染みのない僕としては、頭ではそのような考え方や疑問を理解できても、切実にそれを実感するのは難しいというか、「本当にたった一つの絶対的な『創造者』だけを想定しなければならないのか?」という感慨がどうしても勝ってしまいます。 そのような僕にとってそういう「扱われているテーマへの馴染みのなさ」は、たとえて言うなら他のホラー映画で登場するような「さびれた洋館」や「廃墟となった病院」が自分にとって馴染みがないのと全く同一でした。そしてそれらの意匠が自分にとって馴染みがないからといって、それを基に構築された悪夢的な世界観を魅力的に感じることを一切妨げません。それは完全に「実際に構築された世界の出来具合」によるからです。 そして実際にそのようにして作り上げられたこの映画の世界観を見てみると、これは十分に魅力的であると僕は思いました。人間側の一方的な淡い期待が、次々とその意味不明かつ恐ろしい実態によって裏切られていくさまは、「人類の起源や創造者をめぐる一つの悪夢的な仮説」たりえていると思います。何よりリドリー・スコットらしい生々しさによって、その「恐ろしい仮説」が生き生きと映像化されている点が素晴らしいと思います。劇中説明もなされずほとんど意味不明であるにもかかわらず、質感ばかりがやたらリアルな現象の数々も、そんな「悪夢的」という印象を強めます。 思えば第一作の『エイリアン』も、広大な宇宙と、そこにぽつんと漂う巨大な宇宙船内を、エイリアンという恐怖の対象によって悪夢的な空間として再提出した映画でした。そしてリドリー・スコットは、このエイリアンの前日譚という形を利用して再び、今度は「人類の起源」という題材を基に「リアルで魅力的な悪夢」を作り上げたのではないかと思います。[映画館(字幕)] 9点(2012-08-12 18:32:09)《改行有》

8.  ブレア・ウィッチ・プロジェクト 《ネタバレ》 僕はあの雰囲気は好きです。本当にあの映画が「現場に残されたビデオテープの映像である」と信じ込みながら見たら、かなり面白かったです。特に恐さは感じませんでしたが・・・ <2011.8.5追記。点数を6点から7点に上げました> 上掲のレビューを書く直前にこの映画を見た時、僕より前にこの映画を見終わっていた兄が「映画の冒頭で撮影クルーが町の人にインタビューしてただろ?で、その内容をよく覚えておいてラストのシーンを見るとすっげえ怖かったぞ」と、何やら気になることを言っていたのがずっと引っかかっていたのですが、もともとこの映画自体お気に入りでもあったため、上に書いた兄の指摘を念頭に最近見返してみたところ、兄の言った通り初見の時以上にこの映画の「怖さ」というものを実感できました。 以下、その点の列挙(つまり正真正銘のネタバレ)をしますので、「自分で映画の中から『そのネタ』を見つけたい」という方は、すみませんが読むのを控えてください。また以下に書く事も、既にどなたかがレビューに書いておられるかもしれませんので、その時はご容赦ください。なお、この映画に関して「嫌いじゃないけど、いまいちどこが怖いのか(面白いのか)わからない」という方、また「もう一度見てみようかな」と思っている方がもしいらっしゃれば、その時は一度「町の住人のインタビュー」の流れを注意深く見てみてください。 ①ラストでヘザーが、壁に向かって静かに立っているマイクを見つけるが、これは過去にあった殺人事件の手口とされる、「殺人が行われる間、後に続く被害者は壁に向かって立たされていた」という内容と全く同じである。つまりマイクはあの場面で、ヘザーがやってきて殺されるのを「誰か」に待たされていた(そしてマイクはその次に殺される事になる)。 ②やはり過去にあったある殺人事件の犯人が、「俺はついにやり遂げた!」(I've already finished!)と叫んだと言い伝えられているが、ヘザーとマイクが、ジョシュと思われる人物の声を聞いて廃屋に向かう途中、その謎の人物は「俺はやり遂げた!」(I've finished!)とも聞こえる叫び声を発している。 上記の点は全て冒頭のインタビューで住民が答えている内容です。こうして見ると、今となってはこういう「フェイク・ドキュメンタリー」といった手法は若干手垢が付いてしまったように思われるものの、この作品はこの作品でそういう「ニセのリアリティ」を、結構真面目に追求していたのだなと感じます。そしてその「努力」の結果は、「作品に不気味な雰囲気をまとわせる」という形できちんと実を結んでいるように思います。[DVD(字幕)] 7点(2011-08-06 00:21:30)《改行有》

9.  アバター(2009) 《ネタバレ》 <『特別篇』を見た上でのレビューです。3D上映で鑑賞しました> 映像の革新性は言うまでも無いと思いますが、その一方で物語には(偉そうな言い方になってしまいますが)悪い意味での「アメリカ娯楽映画的な安易さ」がちらついてしまう瞬間が少なからずあるのも事実だと思います。個人的には、そもそも「既に人間が資源を求めて異星を略奪している」という設定からして、「今の時代いい加減そういう『無批判に侵略を描く』という態度は無いだろう」という違和感を感じてしまいます。 しかしそれにも関わらず、この映画は魅力的だと感じました。僕自身はあまり熱心なキャメロン・ファンではありませんが、ただ折に触れて彼の作り出す「生々しい臨場感」はそれなりに楽しんできましたし、そういう「臨場感へのこだわり」が、「強い女性」というモチーフと並んでキャメロン監督の持ち味だと感じてきました。そして個人的にはこの「臨場感へのこだわり」という点に関して、この作品はある種の到達点にたどり着いたと思います(個人的には、あの「翼竜」を手なずける儀式のために訪れた高地の底知れなさが見事だと思いました)。 またキャメロン監督が、この作品に関して宮崎アニメ(特に『もののけ姫』)からの影響を公言してはばからないだけあって、ナヴィたちやパンドラの生物(つまり「自然」)とジェイク(人間)との「交流」の描き方も、かなり印象的だと感じました。例えば(アバターになっている)ジェイクが自分の翼竜を手なずけた直後の様子など、一宮崎アニメ好きとしてはニヤリとしてしまいます。ただし森や生物とナヴィ(そして当然人間)との関係に、どこか「人間の現世的な利害の一致の関係」の影を振り払いきれないところなど、深遠極まりない宮崎アニメをそれなりに見続けてきた一ジブリ・ファンとしては「もう一歩かな」という気持ちを拭い去れないのですが。 しかしそういう宮崎アニメを髣髴させるシーンばかりでなく、例えばラストの「人間のままのジェイクとネイティリとの始めての出会い」という、単なる宮崎アニメの模倣ではないこの映画独自の魅力を持ったシーンも存在すると思います。「大きく猛々しい女性」が「小さくか弱い男性」をやさしく労わる様子など、ある意味「究極のキャメロン節」ではないかとも思いますし、僕自身このシーンが大好きです。 そして僕にとって、何よりジェイクが「足を治す」という選択肢を蹴ってまで自分の意志を貫いたその様子が、強く印象に残りました。このジェイクの決断に関しては、「足も治そうと思えば治せた」という点が劇中できちんと示されているだけに、説得力があると感じました。 先にも書いたようにこの作品には「独自の魅力」と「ありきたり・安易な部分」が混在していると思いますし、僕自身、今後この作品を見返したときに、もしかしたら評価を下げることもあるかもしれません。しかしそういう「ありきたりな部分」の存在にもかかわらず、それ以外の「魅力」といったものがより大きな比重を占めていると僕は感じますし、また映画館の大画面でこの作品の迫力を感じることができた満足感が現時点では加わっていますので、 この点数ということにしたいと思います。[映画館(吹替)] 9点(2010-10-24 21:31:47)《改行有》

10.  ターミネーター2 《ネタバレ》 <2010.10.3改稿、特別篇を鑑賞した上でのレビューです> 久しぶりに見返してみても、相変わらずT-1000のCG表現は古さを感じさせず、やはり楽しんで見ることができたのですが、その一方でいまいち映画の設定に没入できない部分を新たに感じてしまったことも事実です。 と言うのも今回見直してみて、シュワちゃん演じるT-800の姿と言うのが、どうしても「確かな設定よりも製作側の気持ちが勝ってしまっている」と感じてしまったからです。つまりこの『2』でのT-800にあるのは、「こうあるはずだ」という「リアルさ」ではなく、「こうあって欲しい」という「理想」であると感じたのです。この点、僕が同時期に見直した『1』の方が、「目標をターミネイトさせる」ことをインプットされた文字通りの殺人機械としての一貫性が感じられただけに、(映像表現で大いに引き離されているにもかかわらず)作品世界により没入できた気がします。 もちろん、劇中のジョンとT-800の「交流」はこの映画の大きな魅力ですし、製作側がどうしてもこの部分を描きたかったという必然性も感じられますので、ことさら上記の点を責め立てるつもりは全くありません。ただ一観客として率直に思うところとしては、上記「気持ちが勝った」部分に関しては、この『2』の魅力であると同時にもしかしたら弱点でもあるんじゃないのか、といった事を今回感じました。 また劇中のダイソンの運命も、今回なんだか救われないというか可哀相に思ってしまいました(何せ彼がゼロからスカイネットの基礎となる部分を作り上げたわけではなく、あくまで会社が秘密裏に回収したT-800の部品を研究するように上から言われただけなんでしょうから。それにサラ達の主張を聞いて、本当に素直に研究成果を破棄することに同意しているわけですし)。この辺、サラが劇中で「命の尊さ」を云々する割には結構アンバランスじゃないかな、と思ってしまいました。 と、ここまで書いといて何ですが(^^;)、トータルとしては何だかんだ言って大変面白かったことも事実です。個人的に「アラは結構ある」とは思いつつ、最終的にその「アラ」を帳消しにさせる力技(褒め言葉のつもりです)がすばらしいと思いました。「SF性」としてはアラがありつつ、それを「叙情性」でカバーしている、といった印象を受けました。[ブルーレイ(字幕)] 8点(2010-10-03 21:00:20)《改行有》

11.  ターミネーター 《ネタバレ》 <2010.10.3改稿。点数を7点から8点に変更しました> 近々『アバター』の特別篇が上映されるとの噂を聞きつけ、その予習というのでもないのですが、一度ここでジェームズ・キャメロンの映画をまとめて見直してみようと思い立った次第です。 今の時点でこの作品を見てみると、未来の戦闘シーンや金属の骨格がむき出しになったターミネーターといった映像表現は、お世辞にもよくできているとは言えません。 しかしそれだけに今回見直してみて、そういう映像表現の限界を何とか埋め合わせようという努力の跡が、同じ「今の時点」の観客としての立場からよく見えたような気がしました。要するに「映像表現のチープさ」にも関わらず、映画自体の面白さのために、そういうチープな映像表現がまったく気になりませんでした。 個人的には、後の『2』と比べて物語自体が非常にタイトに作られていて設定に無理がなく、文字通りの「殺人機械」としての「ターミネーター」の姿が見れるだけに、以前と比べて『2』よりもこの『1』の方が映画に没入できたように感じました。[DVD(字幕)] 8点(2010-10-03 20:16:00)《改行有》

12.  エイリアン2/完全版 《ネタバレ》 過去にこの作品の「劇場公開版」(と表現するべきなのでしょうか)に対してレビューを投稿したのですが、今回見直してみたのがこの「特別版」でした。従って特別版に今回投稿するこのレビューに関しては、過去に投稿した「劇場公開版」の修正レビューという位置づけにしたいと思います。 まずはこまごまとした不平めいたものを先に書いておきたいと思います。訳のわからないもの(エイリアンたち)にまともに対峙してようやくその「怖ろしさ」を思い知る海兵隊員たち、というその姿がたいへんリアルに感じられたのに対し、その「リアルさ」を、果たして「リアルであるから」というその理由のみによって無条件に評価して良いものかどうか、個人的には迷ってしまうところです。と言うのもこういう心理と言うのは、例えばイラクに駐留する米軍兵士たちにとっては、いまだに決して絵空事ではないであろうという連想も働くと同時に、「そもそもそういう状況に立ち至った『経緯』自体、検証が必要なのではないか」という点を見過ごしたままで、その「リアルさ」を受け入れて良いのかとも思ってしまうからです。 また(自分自身短絡的な考えだとは思うのですが)簡単に「核爆弾でやつらを一掃してしまおう」と作中人物が口に出してしまう点も、反射的に警戒心を抱いてしまいます。 とは言えそういう点を仮に考慮に入れたとしても、この作品が依然として大変な傑作であることには変わりないと思います。観客を物語に引きずり込むサスペンス性、エイリアンの造形の生々しさ、そして何より観客たちにも基地の中を歩き回らせているように感じさせる生々しい臨場感・・・全く非の打ち所のない面白さだと思います。 そして(既にこの作品のレビューページで取り上げている方もいらっしゃいますが)作中に存在する「女性(と言うか「母性」)の強さ」を感じさせる点が、今回見直してみて印象的だと感じました。それは何も主人公のリプリーだけではなく、個人的にあの「女王エイリアン」からも感じられたということも、告白しておきたいと思います。重ねて書いておくと、ラストのあのリプリーとエイリアンの一騎打ちシーンから、「母と母の闘い」とでも表現するしかない妙な迫力も感じました。[DVD(字幕)] 9点(2010-09-05 02:42:12)《改行有》

13.  宇宙戦争(2005) 《ネタバレ》 この映画、本当に大好きです。個人的に、 1:グロ過ぎない(何にせよ「飛び散らない、千切れない、痛がり過ぎない」) 2:突然びっくりさせない というネガティブ基準に加え、 1:雰囲気が好奇心(怖いもの見たさ)をそそる 2:出てくるものが何だか訳がわからない 3:上記2点があくまで「徐々に」漂う・姿を見せる というポジティブ基準を満たしていればSF・ホラー・サスペンスにせよ大好きになるのですが(どれだけ気が小さいのかと^^:)、そういう基準で言うとこの作品は完全に僕の好みに直球で訴える作品でした。 冒頭の謎の雷やトライポッド襲来の様子などといった正統派SF的な「掴み」の上手さが何とも面白く、安心して楽しめる作品だと思うのですが、そんな中にあって微妙にうまくいっていない家族関係、パニックに陥る人間たちといった、バックグラウンドとなる人間たちの描写が意外にしっかりしているのも見どころだと思います。 個人的にはティム・ロビンスの異常ぶりが、「敵は決して外部だけにいるとは限らない」という点に関して妙にリアルに感じられました。 <追記(H22/9/4)>改めて見直してみたのですが、ティム・ロビンス演じるオギルビーの扱いがさすがにちょっと安易と言うか、「異物は死をもって排除する」という姿勢があからさまに出すぎていて、この点だけは安易に見過ごしてはいけないような気がしました。この一連の場面に限らず、この映画には「仕方なしに他人を死地に見捨てる」場面が多々存在しますが、このオギルビーに関わる場面以外に関しては、そういう状況に他人を捨てておくのに相応な「理由」や「状況」というものが(あくまで「映画的に」、ということですが)示されるのに対し、この場面に限ってはそういう「やるだけのことはやった」といった「選びようの無さ」というものが余り見えてこない気がしました。 しかしそれにも関わらず(と言うかその点のみを、個人的な「受け入れるべきでない点」として考慮したとしても)、作品全体で見れば依然として大好きな映画であることに変わりはありません。スピルバーグらしい、「ツボはすべて心得ている」といった趣の娯楽性はもとより、トム・クルーズ演じるレイのダメぶり・不器用ぶりが、個人的に何とも共感を覚えてしまい、それだけにその不器用さを通してしか表現できない「愛情」といったものが、際立って印象的だと感じました。オギルビーの地下室にかくまわれた当初に、子守唄をレイチェルからねだられて何一つ彼女の希望の歌を歌えず、ようやく自分の知っている歌を歌って精一杯の愛情表現を行うレイの姿が、今回見直してみて特に印象深く感じました。 個人的には、最初の方であれだけ子供たちにダメぶりを見せ付け、子供たちも言うことを聞こうとしなかったレイに対し、ロビーが自主的に「お父さん」と呼ぶようになったあのラストシーンこそ、まさにこの映画にふさわしいカタルシスの備わった場面だと思いました。[CS・衛星(字幕)] 9点(2010-09-04 02:05:40)《改行有》

14.  A.I. 《ネタバレ》 このレビューを書いた時を最後にこの作品を見返すことはなかったのですが、映像表現が比較的きらびやかなのに対して作品全体に寂寥感が色濃く漂っていたという点が、良い意味でいつまでも印象に残り続け、「今ならもっといろいろ楽しめるのではないか」と思い、最近になって見返してみた次第です。そして結論から言うと、心底「見て良かった」と思えました。 今回見直してみて初めて感じたことですが、劇中で『ピノキオ』が重要なモチーフとして登場するのと同様、この作品そのものもどうやら一種の「おとぎ話」になぞらえて形作られているみたいだという点が、非常に印象的でした。それも「『愛』を主題にした、哀しいおとぎ話」として、です。 例えば人間が人間に対して持つ「愛」の場合、どうしてもそこにいろいろな夾雑物が混じる場合が多いと思います。それは必ずしも「欲」とか「打算」といったあからさまに悪い感情ばかりではなく、「遠慮」とか「行き違い」といった、ある意味「愛する故に不可避的に湧き出る感情」も含まれます。要するに愛に限らず、「何かを感じる時には分析不可能なくらいに様々な感情が入り混じる」からこそ、「生身の人間」なのではないかと思います。 それがこの作品の場合、「愛するために生まれてきた」と言っても過言ではないデイヴィッドという存在により、ストレートに「人を愛すること」という主題が胸に迫ってくると感じました。作中デイヴィッドが見せる、2000年を越えても消えることのない純化された「母への愛」は、まさに「おとぎ話」のようです。 そしてそのようなおとぎ話が、どうしてあれだけ哀しい寂しさをまとわなければならなかったのか・・・僕自身は、「イノセントに愛が満たされる」物語ではなく、むしろ「愛を渇望する物語」を描いてこそ、映画を見た後に観客に残るものはより確かなものになるのではないかと思います。いやそれが一般論として広げすぎなのであれば、少なくともこの作品に限っては、はっきりとそういう方向性を取って作られていると思いました。そしてこの作品のそういう「満たされない愛情から生まれる寂寥感」は、日々虐待やネグレクトといった「満たされなかった愛」にまつわる痛ましい事件が報道される現代において、より重い意味を持ってくるのではないかと思います。 そういう意味で僕自身は、この作品を「愛すべき作品」と捉えることにしました。そして告白すると、劇中最後の最後になるまでその「愛への渇望」を満たされることのなかったデイヴィッドの姿を思うと、なおさらこの作品は「愛されるべき作品だ」と(一観客として)思えます。 最後に一つ戯言を書かせてもらうと、このレビューを書いている途中で思いつきましたが、『A.I.』とは「愛」とも読めます。これ自体は単なる偶然でしかないでしょうが、しかしこの作品が「愛」という事柄を、哀しく美しく描き出している事だけは間違いないと思います。 [DVD(字幕)] 9点(2010-09-02 00:08:02)《改行有》

15.  2001年宇宙の旅 《ネタバレ》 「この作品ほどブルーレイという媒体にふさわしい作品も無いのではないか」と感じて、ディスク購入と同時に何の気なしに見直してみたこの作品ですが、初見の時(つまりこのレビューを投稿した時)から数えて8年が経過した今になって、「えらいものを見てしまった」という圧倒的な印象を与えられたと同時に、この作品がある意味大変「怖い作品」だという事にも気づきました。ちなみにレビュー初投稿時の僕の採点は「7点」でした。 モノリスの影響により猿が知恵を身につけ、人へと進化し、やがてその人が宇宙空間へと進出して最終的に「スターチャイルド」として人類の究極のステージに到達する・・・もはやSFの古典となっていると言っても大げさではないこの作品の筋を知っている人は、恐らく多いと思いますし、僕も一番最初に見た時は、主に「このストーリーに共感できるか」という点を重視してこの作品を見ていたように思います(そしてその結果としての7点という採点でした)。 しかし今回見直してみて、そういうストーリーといった点からこの作品が大きくはみ出している、そして他のSF映画では殆ど見られない点があると(全く今更ながらですが)感じました(と言ってもあくまで「これまで僕が見てきたSF映画の中で」、という条件付きではあるのですが・・)。それは、この作品が「宇宙そのもの」を主題に取り上げており、その無限に広がる虚無的な「宇宙」に人間(人類)が対峙するその「状況そのもの」を、言葉による説明ではなくビジュアルを通して克明に描こうとしている点です。 例えば他のSF映画の多くが、地球外生命体や宇宙空間を扱っているとはいえ、それは最終的には「宇宙的なもの」に託して表現された「地上的なもの」である場合が多いと思うのです(宇宙空間=密室、地球外生命=敵、といったように)。そしてそういったSF映画を見る時、他では得られない非常に増幅された感情を視聴者は受け取りますが、その感情も最終的にはこの「地球上の生活」に関わるものであり、その作品を見ている間も、そして見た後も、心理的に「自分の足元にある地面にしっかり足を踏みしめたまま」といった感じの状態でいる場合が殆どだと思うのです。 しかしキューブリックはこの作品を通じてはっきりと、「何の比喩でも例えでもない『宇宙そのもの』と対峙しよう」と試みていると思います。ある意味非常に怖ろしい仕事だと思います。つまりそれは即、「宇宙的な意味で『人間』の存在意義を問う」ことをも意味すると思うからです。 一歩間違えれば人類を単なる「宇宙の藻屑」の地位にたたき落とすことにもなりかねないこの仕事を、キューブリックは徹底的なこだわりによるリアリズムと、主に映画終盤における圧倒的な内的イメージによって視覚化する事によって成し遂げました。僕自身は今回見直してみて、後半のあのボウマン船長の見たイメージを「圧倒的なものに対峙した際の状態」として受け取りました。そして宇宙という「無限」と対峙した彼は、最終的に「無限そのもの」である宇宙と一体化し、人類としての究極の境地に到達した・・・僕にはそんな風に見えました。 ここまで僕が書いてきたことははっきり言って僕の勝手な感想でしかなく、また作品が大変説明に乏しいために、僕の思い違いの部分も大変多いでしょう。しかし僕自身は、「宇宙における人類の存在」という大変気の遠くなるような仕事に映像を通して取り組み、たとえ言葉で説明されていないとはいえ、そういう無限的(あるいは虚無的)なものに拮抗するものとして人間を描き得ている点が、個人的な印象として強く残りました。 ・・・しかしそれにしても、やはり怖い作品だと思います。[ブルーレイ(字幕)] 10点(2010-08-15 20:35:02)《改行有》

16.  グラン・トリノ 《ネタバレ》 まず最初に書いておきたいのですが、タオの家が襲われて以降のあの一連の物語の流れ、あれに関しては僕は釈然としない思いを拭い去れません。僕自身は、「死をもってささげる好意よりも生きたままで持ち続ける交流の方が守りにくく、それだけに一層そちらの方が尊い」と感じるからです。それに普通に考えても、「復讐よりはまずは『警察に通報』だろう」と考えてしまいます。ましてや映画の中盤まで、あれだけ「掛け替えのない」交流を深めてきたウォルトとモン族(とりわけタオ)との「関係」があるのだし、たとえウォルトが病気で死にかけていたとしても(もしかしたらそれゆえ先が長くないだけ余計に)、残された時間における彼らとの「関係」は一層貴重なものになるのではないかと思ってしまうのです。 また、「『あいつら』がいる限りタオとスーには平和は訪れない」といった内容のウォルトのセリフがあり、そのセリフの意味に乗っかった上でのあのラストの展開がやってきますが、僕はあれも結局は対症療法でしかなく、厳しい(そして身勝手な)言い方になってしまいますがそれは最終的にはタオ自身の問題の解決になっていないのではないかと思うのです。劇中のタオ自身には、劇が進むにつれて「たくましさ」の感触が少しずつ感じられてくるのですが、それを差し引いてもなお、「『あいつら』みたいな『やつら』がゴロゴロいるこの世界にあって、あんな解決ではタオ自身が、この先自分の力だけで新たな『あいつら』に対処していけるかわからない」という気持ちが残ってしまいます。 ・・・と、ここまで不平みたいなものを述べては来たのですが、しかしそれにも関わらず、僕はこの映画が大変好きになってしまいました(今回レンタルで見たのが初見です)。それは何を置いても、劇中でのウォルトとモン族、そして言うまでもなくタオとの交流が非常に心温まるものに感じられたからです。同胞であるモン族のギャングたちは「一人前になるための儀式」としてタオにグラントリノを盗ませようとしますが、本当に「一人前」になるためのきっかけを与えてくれたのは、そのグラントリノの持ち主である異人種の老人であり、また血を分けた家族の中で寒々とした思いを味わい続けてきたウォルトの心を再び暖めたのは、やはり異人種の人々であり、とりわけ一人の少年の存在でした。 僕自身は以上の理由から、単純に彼ら二人を「精神的境遇の似た者同士」と見ていたような気がします。そしてそんな潜在的な「似た者同士」を、全くの異人種間でお互いが見出したことが、僕にはとても印象的でした。 また上記僕の不満めいた感想にもかかわらず、例えばラストのあのウォルトの遺言状の口ぶりが、相変わらず辛辣な皮肉屋っぽい響きを失っていなかった点などによって、何だかんだ言ってそういうご都合主義的なように見えるところまで「これは映画だ」と割り切らせる気持ちにもさせます。そしてその結果、映画を観終わった後に残るのは、僕にとって一番印象深かった「老人と少年の交流、そして双方の成長」という大変優しい、そして力強い光景なのです。[ブルーレイ(字幕)] 9点(2010-08-14 12:24:18)(良:3票) 《改行有》

17.  チェンジリング(2008) 《ネタバレ》 映画館で初めて見た時には劇中のクリスティンの状況に激しく心を揺さぶられましたし、最近改めて見直してからもその点は一切変わりなかったのですが、今回見返してみて漠然と思ったのは、「組織に埋没している人間が一番『非人間的』になる可能性があるものなのだな」という感慨であり、また「そういう点をかなり強調してこの作品は作られている」という印象でした。 それは例えば劇中でニセのウォルター少年が「自分は警察から『ウォルターを名乗れ』と言われたのだ」と叫ぶ場面や、あるいはあの凶悪犯ノースコットさえも、(劇中「警察から」と特定はしないものの)「<誰か>から『ウォルター少年を殺した』とクリスティンに言うこと」を「強要」されているようなそぶりを見せる描写などからも感じられました(それは劇中後半で「ウォルターが逃げ出した」ことが明かされることからも窺えると思います)。さらに言うなら、この犯人と母親との緊迫の対面場面において、僕はむしろ自身死刑が迫っている(何もかもどうでも良いという投げやりな心理になってもおかしくない)身でありながら、それでも「嘘をつきたくない」という信念に基づいて、「ウォルターを殺した」という(事実に反した)言葉を一切口に出さなかったノースコットに、ある種の「誠実さ」すら見てしまうのです。 そして上記ロス市警に属する(ヤバラ刑事を除いた)上層部やあの精神病院の面々の腐敗ぶりの横にこのノースコットを置いた時、(あくまで「映画の中だけ」に限ったことですが)あの凶悪犯でさえ、(遅すぎたとはいえ)「信念に基づいて『真実』に逆らわずに行動している」だけ、僕には何とも「人間的」に見えてしまうのです。 それだけでなく、この作品には例えばノースコットに殺人の方棒を担がされるクラーク少年や、あるいは事件の7年後に初めて名乗り出た生存者の少年のように、「激しく悔いる」人物が登場します。そして彼らに共通しているのは、最後には「自分の気持ち」に逆らわず、それに従って行動をするという点です。そして僕自身はこの点に、作中極めてイノセントに自分の信念を行動に移すクリスティンと他の(組織に属した人々以外の)登場人物を結ぶ「共通の糸」を見る思いがします。 個人的にはこういった点に、「真実を曲げない」という信念を持った人々への製作者側の(あるいは監督自身でしょうか)共感といったものを感じます。もしかしたら実際の事件から色々と脚色が加えられているのかもしれませんが、僕自身はそういう点とは関係なく、「組織(や、あるいは漠然と「自分より大きいもの」)に埋没せずいかに『真実』を曲げずに生きていけるか」という点を切実に思い返す契機となっただけで、この作品は称賛に値すると思えました。[ブルーレイ(字幕)] 10点(2010-08-12 20:55:35)(良:2票) 《改行有》

18.  インセプション 《ネタバレ》 見終わった後、「念入りにゴージャスに、そして整然と構築された力技」、といった印象を受けました。 「夢の3層構造」という設定や「深層意識に影響される夢の内容」といった道具立ては、リアルな作品世界を構築する上で十分その機能を果たしていたとは思うものの、肝心の「インセプション」つまり「偽りのアイディアの発生」という発想自体に対しては、いくら映画の中とは言え「本当にそんな簡単に人の深層心理にアイディアを植えつけられるものなのか、また仮にそれに成功したとして本当に人はそのアイディアに支配されるものなのか」という疑問が、個人的には払しょくできませんでした。言ってみればそれら道具立てやルールは、「よく練られてはいるものの最後まで詰めてみればどこか穴があるもの」という風に感じるのです。 また渡辺謙が「夢の中の死」を経験し、時間の流れが極端に遅くなる深層心理の虚無の中に、非常に長い時間とどまり続けたような描写がありますが、個人的にはそういう「無限に近い時間」の経験を、たとえ夢や深層心理の中とは言え「経験」したのであれば、その後に現実世界に帰ってきたとして果たしてまともな精神状態を維持できるのかという疑問も感じました(もちろんそういう「無限の時間から生還した」という「悪夢から覚める」ような爽快感が、あの展開の中に存在することも否定しませんが)。 しかしそれら凝った道具立てだけではなく、この映画にはもう一つ「コブの過去に関する葛藤とその克服」というコアの部分が存在しますし、どちらかと言うとそれら道具立ては、全てこの「葛藤の克服」・・・と言うより「現実への帰還」というラストに向けて配置されていると思いました。あのラストシーンを見た時、「夢に引きずり込まれそうになるギリギリのところで、帰るべき現実に帰ってきた」という、何か「リアルな感覚を伴ったカタルシス」を感じたのですが、このカタルシスが僕の中では十分説得力あるものだったので、結局その他の「凝ってはいるが詰めは甘い」諸点については、リアルな画作りやアクションのスペクタクルとも相まって「上手く監督に力技でねじ伏せられた」ような印象を覚えました(それは決して悪い感じではありません)。 机の上で奇妙に独楽が回り続け、「倒れそうかな?」という微妙なところでエンドロールに突入するあのラストについては、個人的には「コブのいるのが現実なのか夢なのかわからない」という事よりも、「彼が『独楽が回り続ける世界』にいるのか『いつかは独楽の回転が止まる世界』にいるのか」を、監督が観客自身に感じさせようとしているのではないかと思ったのですが、その時観客が感じることは、もしかしたら僕たち観客の持っている「現実認識」とも微妙にリンクしていることなのかもしれません。この印象的なラストも相まって、僕は最終的には大いにこの映画を楽しみました。[映画館(字幕)] 8点(2010-07-25 22:25:57)(良:1票) 《改行有》

19.  スター・ウォーズ エピソード3/シスの復讐 《ネタバレ》 「陳腐なところや書き込みの足りないところなどが多々あるが、それでもスターウォーズ・ファンである自分にとっては、基本的にはこのEP3という作品は”キズは多々あるものの『基本的には』宝石である”」というのが、初見当時の僕のこの作品に対する基本的なスタンスでした。そこから月日が経った今の自分からはもはやかけ離れた感想となっている、と一言だけしておきたいと思います。 最近見直して、アナキンがオビワンに対して、並々ならぬ配慮や熱情を吐露しているところが印象深く感じました。それは「私の運命は彼(オビワン)と共にある」という意味合いのセリフを、数回は話しているという点や、またオビワンに対して(恐らく内面には自己否定すれすれの自己犠牲感も手伝っていたであろうとは言え)、ジェダイ騎士としての自分が取るべき道を基準とした心情(=自分はこれまで傲慢で感謝の足りない態度を示し続けていた)の吐露を、極めて率直に行っていた事からも窺えると思います。暗黒面に堕ちる直前まで彼が真摯に葛藤し続けた事の証左として、僕自身の中で極めて鮮烈に印象付けられつつある部分です。 そしてこの作品に存在する問題は、この自己犠牲感を引き換えとした「義務への奉仕」と、それに対する根源的な「自分自身の奥底に燻ぶる気持ち」との根深い葛藤にあるのだと、最近になって改めて思い至った次第です。 並み以上のジェダイ騎士からしても雲の上の存在であるヨーダからは、下手をすれば説教にも響きかねない助言を投げかけられる事にもある程度納得できたかもしれませんが、自分が長年接してきて、かつ信頼も寄せていたオビワンからもそのような説教じみた助言を与えられた時、アナキンにはどこか煮え切らない、もう一歩親身になった事を言ってほしいという気持ちが残らなかったとも言い切れないと、今は思うのです。そしてこのEP3の悲劇性は、長い目で見ればヨーダやオビワンの言うことは圧倒的に正しく、その一方でどこにも片づけることのできないアナキンの葛藤も決して無視されるべきではなかったという、この解決の図りにくい二項対立にあったのではないかと、今は強く感じます。 こうして見ると、ジョージ・ルーカスは「ハリウッド的大作映画」というガチガチに固まった枠の中で、彼の考える最善の方法で自分の信じることを、このEP3という器の中に盛りきったのではないかと、最近では思います。[映画館(吹替)] 10点(2009-01-03 02:43:38)《改行有》

20.  宮廷画家ゴヤは見た 《ネタバレ》 電灯の無い時代と言う舞台を意識した薄暗い画面作りや、意外に緊迫した娯楽性のある内容(これがいわゆるフォアマン作品らしいところなのかなと、素人ながらに感じました)はもとより、何よりも作品における真の主人公と言えるロレンソのその姿が特に印象に残りました。 僕が見た限りでは、ロレンソは最後にあえて死刑を選ぶまで、自分自身の信念らしい信念を持ち合わせていなかったのではないかと思います。スペインで神父をしていた時代のロレンソのその嫌らしい偽善者振りや、フランス逃亡後の居丈高な調子(実はいずれも自分にとって大変生々しく身近に感じてしまいました)・・・どちらも背後に透けて見えるのはロレンソ自身の、臆病さと裏腹になった傲慢さです。そして痛みや危難に際して、ロレンソは簡単に信仰を捨ててしまうのです。 最後の最後で教会の高僧から、「死を選ぶか再度信仰に戻るか」という二者選択を迫られますが、その際ロレンソはあえて屈辱的な状況で命を長らえる事を拒み、自ら進んで死に赴く事を選びます。その理由は劇中言葉では説明されませんが、僕自身は、もはやその時ロレンソの中にはフランス革命の理想も、またその革命に殉じるという悲壮な決意も存在しなかったのではないかと思います。ただそこにあるのは、自分自身の「意地」のようなもの、もう自分自身の中で何もブレたりはしないという、「自分の良心」への忠実といったものだったのではないかと思います。 椅子に縛られたままガタガタ震えるほどに死を怖れつつ、それでもなお死を選んでまで意地を通したロレンソは、最後の最後に「信念の人」になれたのだと思いました。また神父時代に自らが凌辱したイネスの、ロレンソに向けられた真っ直ぐな笑顔は、孤立無援で死に赴くロレンソに手向けられたせめてもの祝福だったのだと僕は思います。それに対して引きつりながらも笑顔を返したロレンソを見ると、彼自身も少しは報われたのではないかと思い、何だか僕まで少し救われたように感じてしまいました。[映画館(字幕)] 10点(2008-10-23 22:40:27)《改行有》

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