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プロフィール
コメント数 731
性別
自己紹介 奥さんと長男との3人家族。ただの映画好きオヤジです。

好きな映画はジョン・フォードのすべての映画です。

どうぞよろしくお願いします。


…………………………………………………


人生いろいろ、映画もいろいろ。みんなちがって、みんないい。


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【製作国 : ドイツ 抽出】 >> 製作国別レビュー統計
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1.  ラッシュ/プライドと友情 デジタル化が進んだなかで、映画は何でもありというか、映像で表象=再現できないものはない(と、自負する)次元にいたった。が、昨今のアメリカ映画を見ていて思うのは、もはや過去の映画や映画人たちが遺してきたもの(それは「技法」であり「法則」であり何より「精神」というべきものだ)が、どうやらすっかり顧みられないというか、失われてしまったということだ。なるほど、往年の名作や巨匠たちの一場面やタッチを想起させ、あからさまに「引用」する場面にでくわすことは、最近の映画にあっても珍しいことじゃない。けれどそこにあるのは、その名画や巨匠たちの映画的な「記憶(それを、「愛」と呼んでもいい)」ではなく、単なる映像的な「コンテンツ(!)」として“再利用”するものでしかないだろう・・・  そのなかで、たぶんロン・ハワードは、今なお「記憶」によって映画を撮り続ける数少ない存在だ。この『ラッシュ プライドと友情』にしても、2人の伝説的なF1ドライバーのライバル関係を描きながら、まるでアニメ『トムとジェリー』の猫と鼠よろしく“仲良くケンカ”しあう両者に、思わずぼくは『港々に女あり』のヴィクター・マクラグレンとロバート・アームストロングを連想してしまう。さらに、“ああ、ダニエル・ブリュールは『ハタリ!』におけるハーディ・クリューガーのようじゃないか!”などと思ったりしてしまうのである。というか、そもそもこの映画自体が、『群衆の歓呼』や『レッドライン7000』といったカーレース映画の精神的な「リメイク」ではないのか? ・・・等々、そこにハワード・ホークス監督の諸作品をダブらせずにはいられなかったのだ。 もちろん、そういった見方があまりにシネフィル的なものであり、何も語ったことにならないことは承知している。ただ、ホークス作品の男たちが「意地」と「心意気」のためだけに生き、時には死んでいくという“単純さ”ゆえに輝いていたなら、このロン・ハワードの映画もまたその“単純さ”こそを継承しようとしている。そしてそれが、どれだけデジタル技術が発達しようが表象=再現しようもなかった「(アメリカ映画の)精神」を、2人の主人公の生きざまを通してぼくたちに見せ(=魅せ)得たのだ。 とどのつまりは、「ロン・ハワード(・ホークス)万歳!」。以上。[映画館(字幕)] 10点(2014-04-05 15:56:23)《改行有》

2.  かいじゅうたちのいるところ 《ネタバレ》 スパイク・ジョーンズ監督の映画には、見かけの軽薄さや皮肉な笑いのなかに、いつも不思議なメランコリーがたゆたっている。見ているうちに、何だかこっちまでやるせないっていうか、切ない気持ちになってくるんである。それはたぶん、映画のなかで描かれる主人公の男たちが、誰もかれもみんな本質的に〈孤独〉でひとりぼっちであるからだ。 『マルコヴィッチの穴』のジョン・キューザックにしても、『アダプテーション』のニコラス・ケイジにしても、彼らは、誰かと一緒にいても、いや、一緒にいるからこそ〈孤独感〉がますます深まっていく。だから、懸命に相手のことを理解しようとしたりされたがったり、愛そうとしたりされたがったりする。逆に言うなら、愛や友情や思いやりとは、人が〈孤独〉だからこそ産み出され、育まれてきたものなのかもしれない。その、どこかウディ・アレンの映画をもっとキテレツ(!)にしたような神経症的なドタバタ劇こそが、「スパイク・ジョーンズ映画」の変わらない主調音なのだった。 この映画の少年マックスと、そのオルターエゴというか“分身”そのものである「かいじゅう」キャロルたちもまた、〈孤独〉であるからこそ、これ以上傷つくまいとして乱暴をはたらいたり、暴言を吐いたりしてしまう。そうして、余計に傷ついてしまうのだ。このあたり、原作絵本が“かいじゅう化していく少年マックス”を描くのに対し、映画の方は逆にかいじゅうたちの方があまりにも“人間的でありすぎる”ともいえる。みかけはオソロシクも愛きょうたっぷりなくせに、キャロルやその仲間たちは、ぼくやアナタのなかにもあってたぶん他人にあまり触れられたくない部分ーーそう“弱さ”そのものをむき出しにして、見せつけてくるのだ(ゆえに、見ていてけっこうツライ気分になってくるのも確かでは、ある)。 ・・・結局、「かいじゅうたち」と一緒にいることで、自分の内なる〈孤独〉に向き合うことを学んだマックス。センダックの絵本ファンや、年少の子どもたちにはいろいろ“不満”もあるだろうけれど、不思議な陰影に彩られた独特の映像のなか、高度に内省的だけれど実にピュアな寓意劇として、この映画は、凡百のファンタジーとは一線を画するものだ。断固支持。[CS・衛星(吹替)] 10点(2012-05-26 19:47:54)《改行有》

3.  16ブロック ニューヨーク市警の刑事で、どうやら離婚経験者である主人公。それを演じるのがブルース・ウィリスとくれば、誰だって『ダイ・ハード』シリーズを思い浮かべるだろう。事実この映画には、今は酒におぼれる自暴自棄な日々を送るジョン・マクレーン刑事の“後日談”めいた雰囲気がある。これを、シリアスに撮られた『ダイ・ハード4』だとすら言っていいかもしれない。 しかしあのシリーズが、<刑事もの>というジャンルを超えて、どんどん「見せ物(スペクタクル)性」をエスカレートさせていったのに対し、『16ブロック』は、あくまで<刑事もの>というジャンルにとどまり続ける。警察内部の腐敗や、護送中に心の絆がうまれる犯人と主人公の刑事といった、この手の映画の約束事というか定石を律儀なまでに踏襲していくのである。 それゆえこの映画は、一見すると地味で派手さに欠けた「普通」の映画、ひと昔もふた昔も前によくあった感じのありふれた映画にすぎないようにも思える。けれど、けれどそれは、作り手であるドナー監督自身によって意図的に選びとられたスタイルであり“戦略”に他ならない。わざと色調をおさえたトーンの荒い画面にしても、まさしく1970年代の映画のようなテイストをめざされたものであるだろう。ドナー監督は、あえて<ジャンル>に忠実というか自覚的な映画を撮ろうとした。何故か? たぶん<ジャンル>こそが、“映画が「映画」として成立する規範”であると、彼は信じているからだ。 CGの登場、あるいはルーカス=スピルバーグの登場によって、映画は<ジャンル>を逸脱することによる新たな「見せ物性(スペクタクル)」を開拓してきた。しかし一方でそれが、なんでもありの、「今まで見たことのない映像」を競うことの自堕落な増長を招いたことも確かだろう。だからドナーは、CGによる見せ場も、非現実的なアクションも禁欲(あの『リーサル・ウェポン』の監督が、だ)することで、あえて<ジャンル>への意識に満ち満ちた本作を撮った。映画そのものを、「アメリカ映画(!)」を“とりもどす”ために。そのことが、かろうじて「1970年代の(アメリカ)映画」にふれることができた年代の観客にとって、何より感動的なことなのだった。 そう、映画なんて、たとえば小道具に“小型ボイスレコーダー”ひとつあれば、充分なのだ・・・ [映画館(字幕)] 10点(2006-12-01 16:05:39)(良:3票) 《改行有》

4.  マイアミ・バイス マイケル・マンの映画は、文字通り「男(マン)」を描いたものだと、よく言われる。が、実はそれ以上に「プロフェッショナル」たちの姿、ただそれだけを描こうとしたものなのだと思う。刑事であろうと犯罪者であろうと、彼らは、自らの成すべき「仕事」をただ果たそうとする。「仕事」のためなら、彼らは臆することなく死地へと向かう。プロである彼らにとって「よく生きる」ことは、「よく死ぬ」ことと同義なのだ(唐突だが、武士もまた「仕える者(=プロ)」であるなら、『葉隠』の「武士道とは死ぬことと見附たり」とは、何とマイケル・マン的な定義であることだろう!)。 映画は、そんなプロたちが「プロ」たるゆえんを凝視する。銃や武器の鮮やかな扱い方、車の転がし方、あるいは敵地へと潜入する時の物腰、表情・・・。そして主人公たちが一撃(ワンショット)で相手をしとめるように、マンの映像(ショット)は、そのひとつひとつの〈所作〉を、恐ろしいほど的確(クール!)に捉えていく。それ自体がプロフェッショナルな〈所作(=演出)〉によって、マンは、“巨大麻薬組織に挑む潜入捜査官たち”という「物語」とは別の次元で「映画」を成立させるのである。すなわち、プロたちが自分たちの「仕事」を遂行する姿、その〈所作〉だけによって。 一方でマイケル・マンの映画が男と女ののっぴきならない“関係”を描くのは、彼らもまた一介の男であり女であることを示すためだろう。その時この、「プロ」であることと「人間(マン)」であることの葛藤もまた、いかにもマイケル・マン的な主題であるだろう。が、しかしあくまでも主人公たちにとって、「仕事」を完遂することが最優先される。“情”は、常に「その次」なのだ(・・・ただ、たぶんこの『マイアミ・バイス』に唯一“瑕疵”があるとしたら、コリン・ファレルとコン・リーの刹那的な恋愛部分がいささか端折られ過ぎている、ということだろう。たぶん、再編集の段階によるカットで?)。 確かに、トニー・スコットやマイケル・ベイあたりの映画のように新奇(珍奇?)なスペクタクルもなく、「劇(ドラマ)」的な面白味に配慮のない無愛想(!)な映画かもしれない。けれど〈所作〉の英語訳が「アクション」なら、この映画は、言葉の真の意味において完全無欠の「アクション」映画に違いない。COOL![映画館(字幕)] 10点(2006-09-08 20:07:03)(良:2票) 《改行有》

5.  最後通告 《ネタバレ》 「子ども」という《概念》が登場したのは、近世になってからのことだ。それまでの社会は、子どもたちのことを、「大人になる前の“半端”な存在」としか認識していなかった。「子ども」が無垢で、大人たちとは“断絶”した彼らだけの「世界」に生きているなどという「子ども観」は、少子化をむかえ、「少なく産んで大切に育てる」ことが可能になった近代に成立したイデオロギーにすぎない。中世までの「数多く産んで、生き残った者を育てる」という、あの頃の医療水準では仕方のないことだった状況からは出てくるはずもないのだ。それまでの彼らは、「死んだらまた産めばいい」程度の存在でしかなかったのだった…。 昨今の、世界中で繰り広げられる子どもたちへの“受難”を見るにつけ、この世は、ふたたび中世以前に逆行しているとしか思えない。ささいなことでわが子を虐待し、死に至らしめる親たち。無抵抗ゆえに、平気でテロの対象として殺戮していく大人たち。…むしろ中世以上に、今のほうが子どもたちの命を軽く見ているのではあるまいか。 この映画の中で、子どもたちは理由もなく失踪していく。大人たちはただ戸惑い、嘆き、必死に失踪の謎を追う。しかし、結局、誰が、どこへ連れ去ったのかは分からない。 けれど、映画を見るぼくたちは、彼らが不思議な黒人少年に誘われ、この世界を捨てて“あちらの「世界」”に行ったことを了解する。子どもたちは、“どこでもない「子ども」だけの世界”に消えていったのだと。でも、なぜ? さらに問う観客に、映画は最後まで答えようとしない。そして、ラストに、まもなく世界中の子どもたちが“こちらの「世界」”から消え去ってしまうことを暗示した「数字」を、ただ見せるだけなのである…。 このラストは、本当に戦慄的だ。この世界から子どもが消えていく…そんな世に、当然ながら未来はない。ゆえにそれは、まさにひとつの黙示録的《終末》を告げるものとしてあるだろう。この、とことんダークで不気味な「ピーターパン(!)物語」は、子どもたちへの“受難”が続く現代だからこそ、極めて鋭く、絶望的な寓話であり、警鐘として見る者を撃つのだ。 子どもたちが、この「世界(=大人たち)」を見捨てていく。…ファンタジーでありながら、何て「リアル」な恐ろしさ、哀しさ。 10点(2004-09-24 15:11:16)(良:1票) 《改行有》

6.  パーフェクト ストーム 現代における真に叙事詩的作品。実話を基にしたあくまでシンプルな物語が、逆に人間対自然の絶望的闘争という神話的構造を際立たせている。そしてそれを実現し得たのが、あの畏怖すべき荒れ狂う海というわけで、CG映像がこれほど作品に貢献している映画もないと思う。たぶんペ-タ-ゼン監督の力量というより、何か奇蹟のような力が働いたとしか考えられない…。とにかく、ジョージ・クルーニーとメアリー・エリザベス・マスラントニオが霧の海上で語り合う場面の美しさや、ダイアン・レインの出演場面の素晴らしさなど、信じられないくらい見事な作品じゃないですか。だのに、何でこうも評価が低いんだ… 。(11/17追記)先日のTV放映で改めて見直しました。小さな画面と細かなカットが気にならないくらい、やはり見入って、最後は深く感動されらた次第。間違いなくこれは『Uボート』を凌ぐペーターゼン監督の最高作であり、ここ数年来でも最も素晴らしいアメリカ映画です。皆さんの低評価にもめげず(涙)、再度コメントさせていただきますっ!10点(2003-05-30 15:43:35)

7.  デッドマン(1995) ジム・ジャ-ムッシュ監督のひとつの到達点だと思う。これだけの深度を持ちながら、しかも軽やかな作品を作り得るのは、たぶんジャームッシュならではじゃないかな(アキ・カウリスマキ? いやいや、彼の映画は良くも悪くも通俗的ゆえに、「哲学」の表出には向いていない…)。ジョニ-・デップ扮する主人公が、少しずつ生者から死者へと移りゆくさまの、何という美しさ。これが映画の詩というものじゃないかな。感動しました。10点(2003-05-29 14:49:39)(良:1票)

8.  戦場のピアニスト ホロコーストとは、決して映像によって描き得ない。だから私は当事者たちの”証言(声)”によってホロコーストを記録したのだ、とは『ショアー』を撮ったクロード・ランズマン。必ずしも彼のあの作品に対して全面的に賛同するものじゃないけど、確かにアメリカ映画なんかでナチによるユダヤ人虐殺ものを見て、シリアスな問題提起のようでいて、結局は怖いもの見たさの観客の好奇心に訴える「殺人ショー(!)」でしかなかったりして(『シンドラーのリスト』…)、暗たんたる気持ちになるしなあ…。ジャック・リヴェット監督が批評家時代に言った、ほとんどすべてのホロコーストものの劇映画はポルノグラフィーであるという言葉は、まさしく真実だ。もちろん、ロマン・ポランスキーだってそんなことは百も承知だったろう。だから『シンドラーのリスト』の監督オファーも断ったんだろう。それが、本作を手掛ける気になったのは、この映画があくまで「生き残った者(たち)」に捧げられたものだったからに他ならない。ほとんどすべてのホロコースト映画が、殺戮を、つまりは「死んでいった者たち」を対象にしていたのに対し、ここでは、運と成りゆきに救われながら生き延びていく主人公こそを徹底して肯定する。たとえどんなにぶざまで、ひとりよがりであろうと、そんな主人公が生き延びた、ただその一点だけで肯定する本作は、逆説的にホロコーストの核心を照射してみせたといえるだろう。…正直、ポランスキーの最高傑作とは言えないかもしれないけれど、一世一代の代表作であることは間違いない。拍手(ブラボー)!9点(2003-08-27 13:58:47)(良:4票)

9.  ルナ・パパ かなり悲惨な悲劇的ストーリーを、ここまで元気良く、ハチャメチャに、でも決してある種の品位を失うことなく、とびっきり楽しい映画に仕立て上げてしまった作り手のセンスに拍手! 公開当時、某キネ旬で「エミール・クストリッツァの亜流」とクサされたけど、あんな映画賞狙いの野心家の映画なんぞよりよっぽど素晴らしいやい。いつもビックリしたような瞳のヒロインも、実に健気なコメディエンヌぶりで素敵だしね。満点でも良いンだけど、ラストの「マジック・リアリズム」的処理は、もうちっと違うカタチの方が良かったんじゃ…というのがあって。9点(2003-06-11 14:15:52)

10.  ミリオンダラー・ホテル 決して全てに成功しているワケじゃないけど、ここしばらくのヴェンダ-ス作品では最も愛しい、そして美しい映画じゃないでしょうか。あまりにナイーヴな眼差しの中に語られる、「人間とは生きるに値いするか、そんな価値のない罪深き存在か?」という問いは、おいおいそんな恥ずかしいメッセージをわざわざ映画にすんなよ、と赤面させられもする。が、こんな時代であり、こんな世界だからこそそんな“問い”を自問し、本気で考察することも、きっと必要なのだ。ペシミスティックではあっても、決してニヒリズムには陥らないという、まさに『ベルリン・天使の詩』以降のヴェンダースの決意がひしひしと伝わってくる。やっぱり、彼って「天使的存在」なのかもしれないなあ。そして間違いなく「天使」に他ならないこの映画でのミラ・ジョヴォビッチ、最高です。9点(2003-06-06 16:03:45)(良:1票)

11.  ウェディング・プランナー こんなこと書くと、いかにも映画マニア的でイヤラシイんだけど、夜の公園での野外映画上映会で、突然雨が降り出すシーンが本当に美しくて…。それだけでカネ払って見る値打ちがあったと思いましたです。ほんと、上質のイタリア映画を見ているようでした。《追記》TV放映で再見。やっぱりステキな映画だと思うけどなぁ~。まあ、ここまであからさまに1950・60年代のロマンチック・コメディの感覚を 蘇らせたってことが、かえってストーリーの“ご都合主義”を際立たせることになった感は否めない。けれど、それこそがこの映画の最大の魅力であり、「美質」じゃないですか! それにこの映画の監督には、間違いなく“うたごころ”とでもいうべき映画のツボを心得たソフィスティケーションがある。いつか本格的なミュージカル映画を撮ってほしい才能です。断固支持!!!9点(2003-05-20 15:33:07)(良:2票)

12.  リトル・ランボーズ 《ネタバレ》 英国映画の「男の子」たちは、いつもオトナや社会と〈葛藤〉している。階級差や家族関係、あるいは抑圧的な学校と教師たちなど、文字通り“四面楚歌[スクエア]”な現実に対して闘争、あるいは逃走し、自分たちだけの「(精神の)ユートピア」を築こうとするのだった。たとえば『小さな恋のメロディ』しかり、『リトル・ダンサー』しかり・・・。  ・・・そこにあるのは、ともに家庭に問題をかかえ、孤独だった少年たちが、いっしょに何かを成し遂げようとすることで心のきずなを結んでいく姿だ。だからこそ、スタローンの『ランボー』に熱狂し、自分たちだけで“リメイク(!)”しようとする11歳の少年ならではの奇想天外・抱腹絶倒・天衣無縫な撮影シーンは、大笑いさせられながらもあれほどみずみずしく、感動的なのである。同時にそれは、ふたりをとりまく家庭や社会や学校からの“逃避”であり、その時彼らが創ろうとしていたのは、映画である以上に、家庭や学校や教会から唯一自由になれるふたりだけの「ユートピア」に他ならないのだった。 やがて、そんなふたりだけの「ユートピア」に割り込んでくる大人びたフランス人少年の登場で、ウィルとカーターのあいだに決定的な“溝”ができる。文字通り身も心もカーターを傷つけてしまったウィルは、もう一度カーターとの心のきずなを築き直そうとするだろう。なぜなら、友だちへの裏切りこそ最も恥ずべきことであり、その回復こそが男の子たちにとって至上の〈倫理〉なのだから。 「友情はセックスのない恋愛である」といったのは、作家の橋本治だった。そのことの意味を、この映画ほど実感させてくれるものもないだろう。それは、どんな美男美女が演じる「恋愛ドラマ」よりも純粋[ウブ]で、歓喜に満ち、痛ましく、そして感動的だ。・・・この映画の原題『Son of Rambow(ランボーの息子)』の“Rambow”は、本当なら“Rambo”の綴り間違いだが、ぼくはそれを“Rainbow”と見まちがえた。しかし映画を見終わって、“ランボーの「息子」たち”は、“虹[レインボウ]”こそがふさわしいじゃないかと、思い直したのだった。そう、「男の子」であるのは、まさに虹のようにはかない一瞬であり、だからこそ美しいのだ。[映画館(字幕)] 8点(2011-04-26 12:16:28)(良:2票) 《改行有》

13.  ターミネーター4 《ネタバレ》 まさにイーストウッドの硫黄島2部作を思わせる、冒頭のくすんで色褪せた映像による戦闘場面にはじまって、確かにこの映画は、これまでに見てきた様々な有名作・ヒット作・マニアックなB級作(マイケル・アイアンサイド! そして『スクリーマーズ』!)などのあのシーンこのシーンを彷彿させる“既視感”に満ち満ちている。全編これ引用=再現の連続、オリジナルに対する模造品[パスティーシュ]そのものだ。 それをオリジナリティの欠如だと否定するのも、ただのパクリじゃんと嘲笑するのも簡単だろう。が一方で、そういったシーンのすべてにおいて、無節操であることに開き直るあつかましさや、パロディやら引用と言い募るようないやらしさを感じさせないのも、また確かなのではあるまいか。ここにあるのは、マックGが愛してやまない映画たちへの単純にして純粋なオマージュであり、それらを自ら再現することへの無邪気なヨロコビそのものだ。そして、そんな〈愛〉の対象の最たるものが当の『ターミネーター』シリーズだったことは、たぶん間違いない。 そう、これは、映画が好きで、何よりキャメロンが創りあげたこのシリーズが大好きな男の手になる作品だ。だからこそ1作目と同じ容貌のシュワルツェネッガーが登場した時、単なる楽屋落ちやファンへの目くばせという次元を超えた「感動」があったのだと思う。マックGは、何としても『1』のシュワを自作で登場させたかった。ただそれだけの欲望と歓喜が、映画を見るぼくたちのハートに“共鳴作用”を呼んだがゆえの感動だったのだと。 それを、ただ「頭が悪い」と一笑に付すのは、先にも言ったように正しい。が、C・ノーラン監督のバットマン・シリーズみたくシニカルにお利口ぶった映画じゃなく、あるいは、映画を新奇な「見せ物[スペクタクル]ショー」程度のものとナメているとしか思えないマイケル・ベイ監督の撮るようなシロモノでもない、いいトシをしたオトナが「俺が見たいターミネーターを、俺自身が撮ったんだぜぃ!」と嬉々としているかのような本作にこそ、ぼくは文句なしに心ひかれる。しかも、数限りない制約だの軋轢の連続だったろう製作過程にあって、そういったノーテンキさをギリギリ貫けたあたり、この監督の“したたかさ”が窺えるじゃないか。 結論。「頭の悪さ」も、時には“才能”たり得るのです。[映画館(字幕)] 8点(2009-08-19 12:52:26)(良:3票) 《改行有》

14.  悪霊喰 ホラーというよりは、カトリック異端史というか、バチカン陰謀ものというか…。教会から「破門」された者の魂を救う“罪食い”の存在をめぐる、むしろ「薔薇の名前」に近い、一種の形而上学的ミステリーといったところか。「恐怖」度は↓の方がおっしゃっている通りほとんどないし、カトリックの教理だとかに縁のないぼくたちにとって、「いったい何がオモロイねん?」てな声も聞かれそうだ。が、宗教的な部分を超えて、これを「主人公が、愛する者のために、自ら異端の刻印を受ける(ケガレ)存在となるまで」のドラマとして見ることも可能じゃあるまいか。そして、そうすることで、この映画は、ひとつの「(アンチ・)スーパー・ヒーロー誕生譚」であり、何より「宿命」の残酷さ悲しさを隠喩としたミステリーとして、極めて知的かつ興味深い作品たり得ていると思う。映像的にも、廃虚然とした教会内部の1階と2階をひとつの画面で捉えた構図など、かなり面白いことをやっています。消してすべてに成功している映画ではないけれど、ぼくは高く買いたい。8点(2004-03-27 13:00:36)

15.  パトリオット 勧善懲悪という「分かりやすさ」を、こういった史実に基づく歴史映画に導入すると、どうしても作品自体が薄っぺらなものに感じられてしまう。だから当然避けなければいけなかったはずなのに、どうやら本作の作り手たちは、その愚を犯し、英国側をあまりに単純な”悪役”にしてしまった…。そのあたりが、この作品のいまひとつ評価が低い最大の理由じゃないでしょうか。ただ、そういった「歴史」的背景を重視した《叙事詩》としてではなく、監督のエメリッヒは、これをあくまで「情」の映画として、つまりは《叙情詩》として作ろうとしたんじゃないか。時代や運命に翻弄される人間たちの喜びや悲しみ、怒り、祈り、そして勇気…といった、感情こそをすくい取ろうとしたようにぼくには見えました。だから、確かに題名からして「アメリカ建国史」を謳い、戦闘シーンも大掛かりな大作ではあるけれど、これは言葉の正しい意味での「メロドラマ」なのでしょう。そして、ぼくはこのメロドラマを実に美しい、素晴らしい作品だと信じます。何故なら、作り手たちが目ざした通り、ここには豊かな感情の機微が全編にわたって息づいているから。…ローランド・エメリッヒの作る映画=おバカ映画という短絡的な見方は、そろそろやめにしませんか?8点(2003-11-21 13:47:37)(良:1票)

16.  ザ・コンテンダー コラムニストの中野翠サンが、本作を見て怒り狂ったんだって。ふ~ん、何でだろ? このヒト、田中真紀子に対しても憎悪をむき出しにしてたし、アグネス・チャンとの確執も記憶に新しいところ。きっと、「男社会の中で”女”を主張しながらのし上がろうとするキャリアウーマン」が、同じ女性のくせに大嫌いなんだろうな。同様に、そんな女たちを恐れ嫌悪する世の男たちのメンタリティに近いんでしょう。で、この映画。ぼくは非常に好感をもって見ましたです。ひさびさに「本当の意味でカッコいい女性像」を見せてもらったという感じ。ジェフ・ブリッジスの大統領もわるくないしね。8点(2003-09-06 18:47:43)

17.  カットスロート・アイランド だいたい、ちょっと興行的にコケたからって、それだけで作品そのものを否定するなんて可哀想です。この種の冒険活劇としちゃ、セットも、豪快でスピーディーな語り口も、第一級の出来映え。もし問題があるとしたら、レニー・ハーリンがあまりにストレートに往年の”海賊映画”というものを再生産したことで、イメージ的に時代錯誤感が拭えなかったことじゃないかな…。それとて、CGまみれのインチキなスペクタクルばかりの昨今のアメリカ映画の中にあって、十分賞賛に値するアナクロニズムだとぼくは思う。ジーナ・デイビスにも見放されたレニー・ハーリンだけど、まだまだ見限れないゾ!8点(2003-08-09 15:25:11)(良:1票)

18.  8 Mile 監督がご贔屓カーティス・ハンセンなんで、「何でアイドル(?)歌手が主演する映画なんぞを彼が…」と半信半疑で見たところ…ハイ、すっかりハマッってしまいました。エミネムとその友人たちの閉塞感、街そのもののどんづまり感が実になまなましく表現されていて、しかもさわやかな余韻を残してフィニッシュさせるなんざ、お見事の一語。風俗的には「現在」なんだけど、映画的にはむしろ50・60年代風の「古風さ」を感じさせるのが良くも悪くも普遍的な青春映画たり得たポイントなんでしょうね。それにしても、キム・ベイシンガー、よくこんなアバズレおっ母さん役を引き受けたもんだ。拍手!8点(2003-06-30 13:23:11)

19.  アビエイター 《ネタバレ》 確かに「失敗作」と呼ばれても仕方のなかった(けれど、ぼくは大好きです)スコセッシ監督の前作『ギャング・オブ・ニューヨーク』に比べる時、いかにも楽しんで撮っている高揚感が伝わってくるぶん、楽しく見ることができた。言うなればこの映画、往年のジョセフ・L・マンキウィッツ監督の『イブの総て』や『裸足の伯爵夫人』を想わせる人間ドラマと娯楽性のバランスにおいて、最近のアメリカ映画じゃ最も「上質」な部類の大作だとは思う。けれど… 冒頭に置かれた、幼いハワード・ヒューズとその母親の奇妙なエピソード。それは、後年のヒューズが悩まされた激烈な強迫神経症の「原因」を暗示(というより、むしろ“明示”)するものだ。と同時に、彼の映画と飛行機と女性遍歴をめぐる冒険への度を越したのめり込みを、すべて母親である彼女の影響下によるものだと「分析」するものとしてあった。そのシーンがラストにもう一度登場する時、この映画が、「映像と航空機とセックスの世紀」である20世紀の象徴的人物を精神分析し、その<臨床例>をめざしたものであることをぼくたちは了解するのだ。言い換えるならこれは、ヒューズという人物の「伝記」というより以上に、彼を通じて「20世紀」という時代を“診断(!)”することをめざされたものに他ならない。 ただ、ハワード・ヒューズを単なる“マザコンの卑小な神経症患者”に過ぎない…というのが言い過ぎなら、彼をあまりにも「現代」の戯画(カリカチュア)として描くことは、一方で作品そのものを“矮小化”することにつながらないだろうか? つまり「心理」や「内面」を分析し説明しすぎてしまうことは、映画を、ひいては芸術というものをただの「人間主義的なスケール」に陥れることになりかねない…。 思えば、映画の冒頭に母親を持ってくる点をはじめ、この映画は『市民ケーン』をほうふつさせるところがある。けれど、あそこでウェルズは、主人公の新聞王と母親の関係を決して分析したりしなかった。そして映画の最後に、あの名高い「バラのつぼみ」として明かしてみせたのだった。…そういうハッタリこそが、この映画には、というかスコセッシ監督には決定的に欠けている。 同じハワード・ヒューズを描くものなら、たぶん『ロケッティア』というほとんど忘れ去られたSF冒険映画の方が、はるかに「神話的」かつ「映画的」だとぼくは思う。…[映画館(字幕)] 7点(2005-05-23 20:49:18)(良:1票) 《改行有》

20.  モーターサイクル・ダイアリーズ 「アメリカ」と聞けば、ぼくたちは、すぐに「アメリカ合衆国」のことだと思ってしまう。しかし「アメリカ」とは、南北にまたがる広大な大陸(=土地)に与えられた名前でもあるのだった。そしてまだアルゼンチンの若い医大生だったエルネスト・ゲバラが、友人とともに敢行した冒険旅行のなかで見出したもの。それは、常に虐げられ“搾取”される「(南)アメリカ」という土地と人々という現実に他ならない…。 この映画は、50年前にゲバラたちが見た風景を、あらためて映し出す。それらは、ゲバラが眼にした時とほとんど変わらないのだろう。同じく、差別と貧困にあえぐ先住民や、工事現場での苛酷な労働を余儀なくされる人々の姿もまた、きっと当時のままだ。ウォルター・サレス監督は、まるでドキュメンタリ-作品であるかのようにナマの土地を、人間たちをフィルムにおさめていくことで、そういった「現実」を静かに告発する。そうしてぼくたちは、ゲバラが見た・感じた・考えたままの「現実」、今も変わることのない南アメリカの「現実」と直面することになるのだ。 …ただ、このハンサムで喘息持ちの理想主義者に過ぎなかったひとりの青年エルネストが、後に真の「革命家」チェ・ゲバラになっていったことを、本作は描くものでなかったこと。そのことだけは、やはり少し残念に思う。ゲバラがこの旅を通じて見出したもの、それは“ふたつの「アメリカ」”だったのではないか。ひとつは土地としての「アメリカ」であり、もうひとつはそんな土地を搾取し続ける国家としての「アメリカ」。その構図と直面したことが、彼を“アクティヴィスト(実践的革命家)”へと成長させたはずだ。その“ふたつの「アメリカ」”の関係を、本作は巧妙に避けている。確かに後半のハンセン病患者たちとの交流を描くシーンは、美しく感動的だろう。が、あれだけでは、ゲバラとは単なる「理想主義者」のままにしか見えない。そして「理想主義者」とは、決して偉大な「革命家」たり得ないのだ…。 それでも、映画のなかのナレーションにもある通り、これは「偉業の物語ではない」のかもしれないが、「偉大な“魂”の物語」であることは間違いないだろう。本当に、こんなにも“美しい人”を、ぼくは映画のなかで久しぶりに見た気がする。そのことだけでも、この作品に出会えたことを心から喜びたいと思う。7点(2004-10-27 17:23:14)(良:2票) 《改行有》

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