みんなのシネマレビュー
やましんの巻さんのレビューページ[この方をお気に入り登録する

◆検索ウィンドウ◆

◆ログイン◆
メールアドレス
パスワード

◆ログイン登録関連◆
●ログインID登録画面
●パスワード変更画面

◆ヘルプ◆
●ヘルプ(FAQ)

◆通常ランキング◆
●平均点ベストランキング
●平均点ワーストランキング
●投稿数ランキング
●マニアックランキング

◆各種ページ◆
●TOPページ
●映画大辞典メニュー
●アカデミー賞メニュー
●新作レビュー一覧
●公開予定作品一覧
●新規 作品要望一覧照会
●変更 作品要望一覧照会
●人物要望一覧照会
●同一人物要望一覧照会
●関連作品要望一覧照会
●カスタマイズ画面
●レビュワー名簿
●お気に入り画面
Google

Web www.jtnews.jp

プロフィール
コメント数 731
性別
自己紹介 奥さんと長男との3人家族。ただの映画好きオヤジです。

好きな映画はジョン・フォードのすべての映画です。

どうぞよろしくお願いします。


…………………………………………………


人生いろいろ、映画もいろいろ。みんなちがって、みんないい。


…………………………………………………

投稿関連 表示切替メニュー
レビュー表示レビュー表示(評価分)
その他レビュー表示作品用コメント関連表示人物用コメント関連表示あらすじ関連表示
コメントなし】/【コメント有り】
統計メニュー
製作国別レビュー統計年代別レビュー統計
要望関連 表示切替メニュー
作品新規登録 / 変更 要望表示人物新規登録 / 変更 要望表示
要望済関連 表示切替メニュー
作品新規登録 要望済表示人物新規登録 要望済表示
予約関連 表示切替メニュー
予約データ 表示

【製作国 : 日本 抽出】 >> 製作国別レビュー統計
評価順1
投稿日付順1
変更日付順1

1.  座頭市 THE LAST 《ネタバレ》 思えば、『トカレフ』で大和武士の主人公は、佐藤浩市に撃たれて“一度死んだ”のだ。その後の物語は、“すでに死んでいる”主人公がそれと気づかず(あるいは気づかないふりをしつつ)、佐藤浩市への復讐すること、それだけのために費やされたものだった。だからそれは、奇妙な非現実感を漂わせる。そこはふたりの男だけの、殺し・殺されることだけに純化され、トカレフの乾いた銃声と、あの「カチ、カチ」という撃鉄の音だけが響き渡る世界だ。他の何者も立ち入ることはできない。それゆえに主人公の元妻で、今は佐藤浩市の子供を身ごもっているらしいヒロインすら、映画の途中で消えてゆくのである。 この『座頭市 THE LAST』でも、冒頭近くに主人公・市と所帯を持つと誓った石原さとみのヒロインが、市をかばって犠牲になる。けれど彼女が刀で刺し貫かれた時、実は座頭市も“死んだ”のではないか。あるいは、そこから彼の“THE LAST(最期)”は始まっていた。そしてラスト、一度は石原さとみの手に誘われるように海の中へと歩み入っていった市だが、次の場面で、海にたどり着けずにその手前で息絶えた姿として映し出される。あるいは、この2時間以上をかけてぼくたちが見てきた映像自体が、この、海岸手前で息絶える寸前に座頭市が見た“光景”なのではないのか・・・。そう思い至る時、この作品全体に漂う奇妙な非現実感に、ぼくたちはある戦慄と深い感動をもって納得させられるのだ。 (・・・座頭市と仲代達也扮する親分との対決シーンで、一瞬ふたりの姿が画面から消えてしまうあの場面にしてもそうだ。あそこで仲代達也は、実は市に斬られていたことを、ぼくたちは後で知らされる。いわば仲代もまた“すでに死んでいた”のである。いわばこれは、死者と死者が死闘を繰りひろげる『トカレフ』的なクライマックスの“再現=変奏”なのである) 監督デビュー作『どついたるねん』で、“一度死んだ者”としての赤井英和を主人公として以来、阪本順治監督の「アクション映画」は常にこうした死者たちの“末期の眼”で見られた世界を開示、あるいは現前させることこそが〈主題〉となってきた。この『座頭市 THE LAST』はそのひとつの到達点に他ならない。・・・ひと言、大傑作。[CS・衛星(邦画)] 10点(2011-04-26 19:29:46)《改行有》

2.  西鶴一代女 《ネタバレ》 随分と昔に見た時、偉大な名作というよりも、正直いって“実にヘンな映画!”という印象を抱いたものだった・・・。 同じ溝口監督の『山椒大夫』や『雨月物語』あたりに比べても、本作はどこか観客を奇妙な「居心地の悪さ」のなかに置き続け、結局そのまま置いてきぼりにしてしまう。感動というより、途方に暮れてしまう・・・といった印象。たぶんそれは、田中絹代演じるヒロインの、あまりといえばあまりすぎる「不運ぶり」とその転落人生を、徹底して突き放しながらも凝視する映画(というより、監督である溝口健二)の眼差しの“強度”に、見ているこちらが思わずたじろいでしまうからではあるまいか。 宮仕えの身から、最後は夜鷹という最底辺の売春婦にまで堕ちてしまう女。その次々と襲いかかる不幸の連続は、確かに封建的な時代の理不尽さや、女性に対する社会の酷薄さという戦後作品における「溝口的主題」を反映しているかに見える。が、この映画におけるヒロインの「怒濤の不運ぶり」たるや、ほとんど「喜劇」と紙一重だ(実際ぼくは、不謹慎と思いつつ見ながら何度も頭の中で爆笑してしまった・・・)。人生をクローズアップで見たら悲劇、ロングショットで見たなら喜劇だといったのはチャップリンだけれど、まさにこの映画は、ロングショットで見られた“世にも不幸な女の人生”そのものではないか。 しかし、本作を見ながらじわじわと迫るのは、田中絹代演じるヒロインを次々と不運にさらし、追い込み、堕ちさせるのが、他でもないこの映画(と、作り手の溝口)自身だという実感だろう。明らかにここでの溝口監督は、彼女をとことん汚し、堕としめることだけに精魂を傾けている。そしてこの、とことん堕ちた女に魅了されている(年増の夜鷹となった田中絹代の、凄絶なまでに美と醜がせめぎ合う様・・・!)。逆にいうなら、徹底して汚れきった女にしか表し得ない「美」があること、それを表現するためになら、人ひとりくらい平気で不幸のどん底へ突き落としてみせる。そういう気迫と「残酷さ」が、ぼくたちをただ圧倒するんである。 そして、そんな溝口の妥協なき「残酷さ」を全身で受けとめ体現しきった、田中絹代という女優の凄さ・・・やはりこれは、鳥肌ものの映画であります。[ビデオ(邦画)] 10点(2010-03-01 12:29:11)《改行有》

3.  西遊記(1960) 近所の公民館で上映会があったので息子(小3)を連れて、30数年ぶりに再見。でも悟空につくす健気な少女猿リンリンや、小鬼の小竜が角をアンテナにして通信するあたりは、ハッキリと覚えてました。 でも何より興味深かったのが、手塚治虫的キャラクターや描き方と、当時の東映アニメ調のキャラクターや描き方が“水と油”状態であること。「手塚治虫」の部分が、そのスピード感といい、モダンなセンスといい(中国のお話しにJAZZやらディズニーやフライシャーのアニメ映画のタッチを持ち込むあたり、まさに手塚治虫ならでは!)、まるで無意味(だからこそ、笑える)なギャグといい、作品中から“突出”している。その他の部分ではいかにも東洋風の色彩や絵柄だのに、突然ガラリと「別の作品」が紛れ込んだかのような印象なんですねぇ。特に牛魔王のアジトでのクライマックスは、確実に手塚治虫ならではの躍動感に満ち満ちて、それはいいんだけど、明らかに全体のトーンから浮いているのです。 たぶん、作品としてはマズイことなのかもしれない。けれど今見ると、だからこそ「面白い」し貴重なんだと言える。手塚治虫をはじめ当時のスタッフが、試行錯誤を繰り返しつつこの長篇アニメを作っていっただろうことが、画面からありありと見えてくるような気がするんです。それはそれで、作品以上にスリリングで感動的なのでした。 そしてひとつ告白すると、ぼくは手塚がリードして手掛けたいかにも「モダン」で才気にあふれた部分を面白く見つつ、実のところ古めかしくも端正な東映スタッフ部分の方こそが魅力的に思えた(中でもあのリンリンの愛らしさ!)。映画に限らず芸術表現というのは、この天才をもってしても常に「新しい」部分からまっ先に古びていくものだ…という〈真理〉を、噛みしめた次第です。 もっとも、息子や居合わせた他の子どもたちには、圧倒的に「手塚パート」の方が受けていましたが…。やっぱ、小生の“見方”が歪んでるのん? いやはや。7点(2004-07-28 16:24:26)《改行有》

全部

Copyright(C) 1997-2024 JTNEWS