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プロフィール
コメント数 731
性別
自己紹介 奥さんと長男との3人家族。ただの映画好きオヤジです。

好きな映画はジョン・フォードのすべての映画です。

どうぞよろしくお願いします。


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人生いろいろ、映画もいろいろ。みんなちがって、みんないい。


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【製作国 : 日本 抽出】 >> 製作国別レビュー統計
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1.  ペコロスの母に会いに行く 《ネタバレ》 原作コミックは未読だが、まさかこれほど「ハゲ頭」の男たちの挽歌(?)な映画だとは予想もしていなかった・・・。まあ、岩松了演じる主人公がハゲなのはポスター等からも窺えたが、温水洋一や竹中直人(は、登場してしばらくはいかにも不自然なフサフサ頭だが・笑)、加瀬亮までもが変装した加藤茶みたいな“ヅラ頭”を披露してくれるのだ。さらに介護センターの職員や、主人公のライブ演奏場面でチラリと映し出される客にいたるまで、やたらツルツル頭が目につくんである。 そうなってくると、“認知症と老人介護をめぐるヒューマン・コメディ”という宣伝文句(には、偽りはないんだが)以上に、ずばりこれは「(ハゲ男たちの)喜劇」なのだ、と納得させられた次第。そりゃあ、そうだ。だって監督は、あの森崎東なのだから。 森崎監督の喜劇は、しばしば「怒劇」として語られる。それは、社会の周縁で生きる人々の喜怒哀楽、そのなかでも“怒”を描いてきたからだ。貧困や偏見、差別などによって蔑まれた者たちが、それでもどっこい生きて(や)る! というバイタリティーこそが森崎映画の原点であり、「笑い」の源泉なのである。 しかし、この最新作においては“怒”ではなく、それ以外の“喜・哀・楽”こそが中心となっている、と言えるかもしれない。いや、むしろ“優(しさ)”の字こそがふさわしいだろう。・・・そう、ここにあるのは、すでに人生をじゅうぶんに生き抜いてきたひとりの女性、すなわち赤木春恵(と、原田貴和子)が演じた主人公の母親への、静かな賛嘆と慈しみの念ばかりだ。彼女は、昭和という時代を懸命に生き抜いてきた。そして、今はこうして現在ではなく「過去」の時間のなかで生きている・・・あの、眼鏡橋におけるひとつの「奇跡」的な瞬間。その記念写真の場面は、あまりにも美しい。それは、この映画が彼女に用意した最高の“贈り物”でなくしてなんだろう。 その時、ぼくという観客は滂沱のナミダにくれながら、森崎東監督の映画における“怒り”とは常に“優しさ”の裏返しだったことにあらためて思い至るのだ。社会的な弱者として語られ、かたづけられる者たちの側に「連帯」することで、そういう風に語り、かたづける者たち(=社会)への怒りを画面にたたきつけてきた森崎「喜劇」。その“優しさ”こそが、この作品に充ち満ちている・・・もはや、泣くしかないではないか。[映画館(邦画)] 10点(2013-11-22 19:40:03)(良:2票) 《改行有》

2.  アフロ田中 いや~、笑った笑った。フィルムとDVDでもう10回以上は見たけれど、そのたびにナミダを流しながら笑わせていただいた。そしてそのナミダには、笑いすぎてと同時に“感動の涙(!)”すら交じっているのだった。劇中の田中ではないが、ソレッテ、凄イコトナンダヨォ~と、声を大にして申し上げたい。この映画は単なる童貞男子のドタバタ悲喜劇でありながら、それ以上に【ザ・チャンバラ】さんがおっしゃる通り極めて「知的」な批評性と、何より男たちへの“友愛(!!)”に満ちあふれたものなのである・・・  この映画が描くのは、徹頭徹尾「男子」というものの“恥ずかしさ”であり“生きにくさ”であるだろう。高校中退のブルーカラーで生まれてこのかた女性にモテたことのない、すべてにおいて“負け組”な主人公・田中。だが、それゆえに彼の意識内は、無意味な虚栄心と自己卑下、焦燥とあきらめ、期待と疑心暗鬼・・・その他もろもろの両義的な感情に常に引き裂かれている。本人にとっては切実なこのアンビバレントな感情の“ずれ”を、そのつど田中のモノローグ(というか、独りごと)で語らせる時、第三者にとってそれが実に滑稽であること。そのことに作り手たちは、ハッキリと自覚的だ。しかもその笑いは、世の男たちにとって大なり小なり自嘲をともなった苦さと“共感”とともにあるんである。そして、そうしてとった行動が、結局ことごとく裏目に出てしまう・・・そんな主人公を、同じ男子たるもの誰が愛さずにいられようか!  主人公の内面をコトバにして語らせる。一見それは、単なるコントめいた安易な手法と受け取られかねない。けれどこの映画は、その葛藤や“ずれ”を具体化することによって、そこに「笑い」を生み出すことに成功している。下手な「アクション映画」なんぞよりもっとスリリングな“(感情の)めまぐるしい動き”によって、見る者を笑い(と、共感)の渦へと巻き込んでいくのだ。そして、その脚本や演出意図をくみ取った主演・松田翔太の快(怪?)演や、彼のいかにもな友人たちを演じた共演者たちの素晴らしさ・・・  以上、特に前半に見せた過去と現在を自在につなぎ合わせる語り口の才気も含め、この映画は2012年の大きな収穫だとぼくはかたく信じるものであります![映画館(邦画)] 10点(2012-12-26 14:48:33)(良:2票) 《改行有》

3.  桐島、部活やめるってよ 《ネタバレ》 神木隆之介クン扮する映画部の高校生と仲間たちは、ジョージ・A・ロメロ(!)のような「ゾンビ映画」を撮ろうとしている。そして撮影機材は、今どき珍しい「シングル8」の8ミリカメラ。その時、ぼくたちはただちにもう1本の「ハリウッド映画」を想起しないだろうか。そう、スピルバーグが製作したあの『スーパーエイト』でも、少年たちは「スーパー8」の8ミリカメラで、ロメロのような「ゾンビ映画」を撮ろうとしていたのだった。 それは、それぞれの作品にとって取るに足りない些細なことかもしれない。けれど、スクールカースト上位の生徒たちに端から無視され、せいぜい嘲笑の対象でしかない彼ら最下層のオタク映画部員にとって、「ゾンビ」とは自分たち自身の鏡像なのだ。そう、片田舎で鬱屈した日々をおくる『スーパーエイト』の、ブルーカラーな少年少女たちがまさにそうだったように(だから主人公の少年は、エイリアンと「理解」し合えたのだった)。 そしてロメロのゾンビ映画が、人間たちの「生存闘争劇」からついに人間とゾンビの「階級闘争劇」へと至ったように、映画『桐島』もまた学校屋上における「ゾンビたちの反乱(!)」でクライマックスを迎える。もちろんそれで、学校内の何が変わるというワケでもない。明日からも映画部員たちは、相変わらず無視され嘲笑されるだけだろう。しかし、中心人物のひとりである野球部のイケメンだけは、神木クンにカメラを向けられ、「俺はいいんだよ。俺はいいって」と涙ぐむ時、確実に知ったはずだ。自分(たち)の方こそが彼らに“負けた”ことを。 高校生たちのリアルな日常と心情を描いた群像劇のようで、ここにあるのは各階層[カースト]に位置する者たちの、その「位相」ばかりだ。ある階層とある階層との“あいだ”にある決定的なずれと断絶。それが、しだいに動揺し衝突することのなかに産まれるダイナミズムこそ、この映画を、悲劇でも喜劇でもない真に「劇的」なるものにしている。彼らがどんな「人間」かじゃなく、彼らの「立ち位置=場所」が“不在の主人公”を前に揺らぎ崩れていくさまと、逆に“揺るがない”ことの強さと輝きを放ち出すオタク映画少年たちの姿を鮮明にしていくのだ。その光景は、奇妙で、残酷で、滑稽で、けれど何と感動的なことか。 ・・・そう、あの野球部イケメンの涙にナミダしない奴らなど、ゾンビに喰われてしまえ![映画館(邦画)] 10点(2012-08-24 11:22:42)(良:5票) 《改行有》

4.  BALLAD 名もなき恋のうた 《ネタバレ》 映画の中で、人々が「記念写真」を撮る場面は、どうしていつも感動的なのか。それは、たぶん人物の写真を撮ったり撮られたりすることが、まもなく彼や彼女たちに訪れる“別れ”を暗示し、予告するものだからだ。・・・小津の『麦秋』や侯孝賢の『悲情城市』における家族写真、『少年時代』の主人公と村のガキ大将が撮った2人だけの写真、等々。『二十四の瞳』でも、大石先生と子どもたちが撮った写真は、いくつもの別離のたびにその悲しみを深めるものだった。  この『BALLAD』にも、「記念写真」の場面が登場する。それは武将・又兵衛とその配下の武士たちが、明朝に敵陣を強襲する前に、未来から来た少年・真一の父親が「写真を撮りましょう」と提案する場面だ。初めての写真に、緊張する又兵衛たち。だが、思い思いのポーズをとったりふざけあいながら、彼らは、楽しげに撮影に臨む。そして又兵衛は、「これで、この世に生きたというあかしを残せた」と感謝するだろう。 この場面は、こよなく美しい。それは、死地へとおもむく者たちを描くための、ただの感傷的な設定に過ぎないのかもしれない。だが、監督・脚本の山崎貴の意図がどこにあったにしろ、わざわざ真一の父親の職業を「(売れない)カメラマン」にしてまで盛り込んだ、この、原作アニメにもなかった場面があるからこそ、ぼくにとって『BALLAD』は忘れがたい作品となったのだった。山崎監督は、映画において「愛する人々の写真を撮る」ことの悲劇性を、ここできっちりと見据えている。タイムスリップを題材とした荒唐無稽な時代劇が、先に挙げた小津や侯孝賢作品をはじめとするひとつの「映画(史)的記憶」に満ち満ちたものとしてあることへの驚き・・・。 もちろん、そういった小賢しい贅言を弄さずとも、その美しさは、『非情城市』や『麦秋』がそうだったように、誰の胸をも打つものだとぼくは信じる。確かに、少年の成長物語としても、姫と武将の悲恋ものとしても、この映画はただただナイーブにすぎて、「オトナ」である貴方は嘲笑するばかりかもしれない。しかし、そういった作品が一方で、驚くほど豊かな「感情[エモーション]」と「表現」を実現していること。その事実をぼくたち観客も、見る、あるいは感じ取る“責任(!)”があるとつくづく思う。 というワケで、満点献上でも良いのだけれど、やはりここは原作アニメに敬意を表して・・・[映画館(邦画)] 9点(2011-09-02 18:05:58)(良:4票) 《改行有》

5.  もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら 《ネタバレ》 前田敦子サンの熱狂的ファンらしい長男の強い要望で、ノコノコ家族3人見に行ったものの、正直まるで期待していませんでした。で、そのように“期待値”が低かった(ゴメンナサイ・・・)せいか、これがなかなかの面白さ! 何より、ヒロインの名前からの連想かもしれないけれど、あだち充の『タッチ』をどこか想わせてくれたのが、小生の世代には懐かしいというか、“胸キュン(死語)”ものでありました。たぶんそれは、よけいな恋愛エピソードや、超人的な選手たちのありえない大活躍といった展開をからませず、(あだち充の野球マンガがまさにそうだったように)等身大の「高校野球」と「高校生たちの心情」を描こうとしている、その“清潔感”ゆえにではないでしょうか。 たとえば、俊足の選手が出塁した時、一歩ずつリードするその歩調に合わせてスタンドの応援団たちが、「イチ、ニ、サン・・・!」と声を揃える。そこに実現されているのは、確かに高校野球の試合で行われていそうな応援風景であり、この映画を見ているわれわれ観客をも熱くさせるリアルな高揚感だ。あるいは、ヒロインの幼なじみであるキャッチャーの、彼女に対する思いやりと内なる“想い”のひかえめな表現ぶりの好ましさ。それは、心臓を病んで入院している女子マネージャーとエースピッチャーの語らいの場面にあっても、いくらでも濃いというか暑苦しい展開になりそうなところを、ただ2人がボールを投げ交わすだけで終わらせるあたりにもハッキリと表れている。でも、それだからこそよりいっそう深く伝わってくるものがあるのだ。 ・・・熱血よりも、熱愛よりも、そういったひかえめさや不器用さ、けれどひたむきでまっすぐな“想い”こそが、「高校野球」にはふさわしい。そういった意味でこれは、アイドル・タレントによるベストセラーの映画化という安直な企画モノではない(あ、でも前田敦子嬢は実に魅力的にヒロインを演じています。長男の目に狂いはなかった・笑)、真に「高校野球映画」と呼びうる作品になっている。そんな少なくとも作り手の“誠実さ”こそを、大いに評価したいです。 あと個人的には、あの素晴らしい『半分の月がのぼる空』の池松壮亮クンと大泉洋が、ここでも好演しているのも高得点。・・・おおっ、実はこの映画を大好きなのかも、オレ(笑)[映画館(邦画)] 7点(2011-06-10 12:29:21)(良:1票) 《改行有》

6.  雨月物語 《ネタバレ》 映画を見ていて、「どうしてここでカットが変わるんだろう」とか、「何でこのポジションからの構図なんだろう」などと思う時がある。もちろんぼくは映画を撮ったこともない、ただの観客だ。けれど、この場面ならロングショットで見たかったな、とか、ここはぜひこの女優のクローズアップを見せてほしかった! という、たぶんに勝手な物言いもまた、「映画を見る」者にとっての権利ではあるまいか。 もっといえば、こっちが思いもかけない画面を見せてくれた瞬間から、その作品に惚れ込み、心底から評価したくなるのである。 この、「世界のミゾグチ」の代表作の1本を最初に見たのは随分と昔だけれど、見る前はいささか気負っていたのが、見終わってまず思ったのは「めちゃくちゃ面白い!」ということだった。それまでにも、それ以後にも見た他の溝口作品と比べても、この映画は単純に「面白さ」において際立っている。何よりそれは、ここに実現されているのが、天才的というより職人的な部分において「完璧」な映画づくりだということに他ならない。 ・・・映画の終盤近く、森雅之の主人公はようやくわが家へと帰る。妻の名前を呼びながら人気のない家の様子をうかがう夫をカメラは追い、もう一度戸口へとパンした時、さっきまで火の気のなかった囲炉裏に火が入り、そこには田中絹代扮する妻が煮物を炊いているのだ。この場面をワンカットで実現してみせたその技巧は、確かに驚くべきものがある。けれど、それはあくまで、すでにこの世の者ではない妻を描くという「物語」の要請ゆえに実現されたワンシーンワンカットなのである。 その他においても、溝口作品に対して誰もが口にする流麗な移動撮影の長回しというより、この場面を描くならこれしかあるまいと誰もが納得する映像(=ショット)をムダなく編集していく鮮やかさはどうだ。だからこそ、この映画が100分足らずの極めて簡潔な(「B級映画的な」と言いかえてもいい)上映時間におさまったというべきだろう。 『雨月物語』は、溝口健二監督が何より優れた職人的技量をもった「物語映画」の担い手であることを、どの作品にもまして雄弁に告げるものだ。実際、映画の歴史上これほど「面白い」作品も、世界中探したってそうはないのだから。[DVD(邦画)] 10点(2011-04-26 19:02:13)《改行有》

7.  座頭市 THE LAST 《ネタバレ》 思えば、『トカレフ』で大和武士の主人公は、佐藤浩市に撃たれて“一度死んだ”のだ。その後の物語は、“すでに死んでいる”主人公がそれと気づかず(あるいは気づかないふりをしつつ)、佐藤浩市への復讐すること、それだけのために費やされたものだった。だからそれは、奇妙な非現実感を漂わせる。そこはふたりの男だけの、殺し・殺されることだけに純化され、トカレフの乾いた銃声と、あの「カチ、カチ」という撃鉄の音だけが響き渡る世界だ。他の何者も立ち入ることはできない。それゆえに主人公の元妻で、今は佐藤浩市の子供を身ごもっているらしいヒロインすら、映画の途中で消えてゆくのである。 この『座頭市 THE LAST』でも、冒頭近くに主人公・市と所帯を持つと誓った石原さとみのヒロインが、市をかばって犠牲になる。けれど彼女が刀で刺し貫かれた時、実は座頭市も“死んだ”のではないか。あるいは、そこから彼の“THE LAST(最期)”は始まっていた。そしてラスト、一度は石原さとみの手に誘われるように海の中へと歩み入っていった市だが、次の場面で、海にたどり着けずにその手前で息絶えた姿として映し出される。あるいは、この2時間以上をかけてぼくたちが見てきた映像自体が、この、海岸手前で息絶える寸前に座頭市が見た“光景”なのではないのか・・・。そう思い至る時、この作品全体に漂う奇妙な非現実感に、ぼくたちはある戦慄と深い感動をもって納得させられるのだ。 (・・・座頭市と仲代達也扮する親分との対決シーンで、一瞬ふたりの姿が画面から消えてしまうあの場面にしてもそうだ。あそこで仲代達也は、実は市に斬られていたことを、ぼくたちは後で知らされる。いわば仲代もまた“すでに死んでいた”のである。いわばこれは、死者と死者が死闘を繰りひろげる『トカレフ』的なクライマックスの“再現=変奏”なのである) 監督デビュー作『どついたるねん』で、“一度死んだ者”としての赤井英和を主人公として以来、阪本順治監督の「アクション映画」は常にこうした死者たちの“末期の眼”で見られた世界を開示、あるいは現前させることこそが〈主題〉となってきた。この『座頭市 THE LAST』はそのひとつの到達点に他ならない。・・・ひと言、大傑作。[CS・衛星(邦画)] 10点(2011-04-26 16:50:48)《改行有》

8.  SPACE BATTLESHIP ヤマト 《ネタバレ》 (ラストシーンについて、激しくネタバレしています。未見の方はご注意ください) どこまでも広がる大地にうがたれた、幾つもの巨大クレーター。その上を緑の草原が覆っている。そして、そこに立っているひとりの女と、まだ幼い男の子・・・。 この場面に、ぼくという観客は心から感動する。それは単に絵としてキレイだとか、地球の再生というドラマの大団円にふさわしいものとしてだけのものじゃない。その“緑のクレーター群”の映像は、端的にSF映画の「画(=イメージ)」として実に実に魅力的なものだったからだ。大げさに断定してしまうなら、これは今までのアメリカや他のどこの国のSF大作にもなかった、美しい、そしてSF的な「イメージ」なのだった。 正直なところ、自己犠牲だの何だのと騒ぎ立て、安っぽい悲壮感をあおるばかりの展開や演技に、同じテレビ局が製作したリメイク版『日本沈没』そのまんまじゃないか・・・と本作に少なからず失望していたことは確かだ。そもそも地球規模の危機に対し、日本人だけしか搭乗(というか、登場)しない宇宙船で立ち向かうといった不自然さからして、ここにはエメリッヒ作品程度(!)のSF的「リアリティ」もありはしない(・・・原作アニメもそうだった?)。さらに、すべてにどこかで見たことのあるような場面や設定が連続するのは、これまでの山崎作品の常だが、少なくともこれまでは、監督自身がそれらの“再創造”を嬉々として楽しんでいることの高揚感が伝わってきたものだ。しかし、今回ばかりはどうにも乗っていけない・・・  だが、【鉄腕麗人】さんの《一つでも「印象」に残る要素があれば、その映画の価値は揺るがない》というテーゼに心から賛同しつつ述べるなら、作品としての『ヤマト』は、すべてこのラストシーンによって、最後の最後にSF映画として、何より一編の美しい「映画」としてぼくを魅了したのである。そう、それでじゅうぶんじゃないか。[映画館(邦画)] 8点(2010-12-06 20:46:53)(良:5票) 《改行有》

9.  半分の月がのぼる空 《ネタバレ》 主人公の高校生・裕一は、病院の屋上ではじめてヒロインの里香と出会う。そこでは洗濯物の白いシーツが風に揺れはためき、そのシーツの合間から見え隠れする彼女。・・・運命的な出会いというにはあまりにもさり気ないこの場面は、だがこよなく美しい。 その“シーツ”は映画の中盤、里香が裕一の病室に忍び込みベッドのシーツの中で語り合う場面へと引き継がれ(・・・ほの淡い光につつまれたふたりの、何という感動的な姿!)、さらに終盤ちかく、もうひとりの主人公である医師・夏目のマンションのベランダで揺れるカーテンへとつながっていくことになる(・・・夏目は、それに導かれるようにして亡き妻との想い出の場所へと向かい、映画はクライマックスを迎えるだろう)。 ここに至って、ぼくたちはこの“風に揺れるシーツ”の変奏こそが「裕一と里香(と夏目)の物語」を支える〈仕掛け(=演出)〉となっていることに気づかされる。それは特権的なイメージの突出ではなく、あくまでこの映画の「物語」に奉仕するものとしてあったのだ。 冒頭の、自転車で夜の商店街を疾走する主人公を捉えた縦移動の長回し場面や、過去と現在が“交差”する一瞬でドラマの流れを変える鮮やかさ。さらに濱田マリ演じる看護婦の、単なるコメディリリーフ的な役回りに終わらせない味のあるキャラクターづくりなど、この映画の“巧さ”をぼくたちはいくつも見出せるだろう。けれど、それを決してあざとさやこれみよがしな技巧の披瀝に終わらせるのじゃなく、ただ、“いかにこの「物語」を魅力的に語り得るか”という語り口において機能させること。そういう作り手の“誠実さ”が、この「難病ものの純愛ドラマ」というウンザリするほどワンパターンな題材を、真に「映画」として輝かせることになったのだと思う。 そう、愛する者の死と、それを受け入れて再生する者たちのドラマなど、確かにありふれている。けれど、過去が美しければ美しいほど、現在が色褪せ耐えがたいものであるのに、それでも我々は生きていかなければならない。なぜなら、それこそが死んでいった愛する者たちからの「命令」であり、残された(=生き残った)者たちの果たすべき「責任」なのだから。・・・お涙頂戴映画は腐るほどあっても、そういう〈倫理〉を説く映画は本当に少ない。だからこそ、ぼくはこの作品を高く評価する。[映画館(邦画)] 10点(2010-08-27 17:54:15)《改行有》

10.  時をかける少女(2010) 《ネタバレ》 映画でも文学でも音楽でも絵画でも何でもいい、有史以来ヒトは「作品」を創り、残し続けてきた。でも、どうしてわれわれは「作品」を創造するんだろう。自分の才能を世に知らしめようという野心や顕示欲? 他人の尊敬や社会的成功を夢見て? ・・・いや、ちがう。そんなものはあくまで「作り手」にとっての“問題”であって、「作品」とは無縁のものでしかないだろう。  創造の契機は、それこそ作り手の数だけある。けれど、いずれにしても、自分が“見た・聞いた・感じた(そして、考えた)”ものを、この世界の誰かと分かち合いたいという想いというか「願い」こそが、ラスコーの洞窟壁画を描いた原始人から現代のカネと欲にまみれた類のアーチスト(ですら!)に至るまで、すべての始まりであることを、ぼくは信じる。そして「作品」は、そんな「願い」に応えてくれる理想的な“誰か”が現れてくれるのを、いつまでも待っているのだ。 ・・・この映画のなかに登場する8ミリ映画は、未来からやって来たヒロインに想いを寄せる大学生が撮った、まだ音入れも終わっていない「未完成品」にすぎない。しかし、やがて未来に戻った(と同時に、過去にタイムワープした時の記憶は失った)ヒロインは、その8ミリ映画を見て、自分でも理由が分からないまま涙を流す。もはやヒロインは、彼のことを憶えてはいない。でも、そのフィルムに込められた彼の“想い”は、間違いなく彼女の心に届いた・・・たぶん、それでじゅうぶんなのだ。いかにもチャチな出来損ないの8ミリ映画は、この時、本物の「作品」となったのである。 そう、高名なヒット映画のリメイク(というより、後日談を描いた“続編”)という体裁をきっちりと遵守しつつ、ぼくにとってこれは、創造行為をめぐる美しい「寓話」そのものだ。何よりそこに生命を吹き込んだヒロイン、仲里依紗の素晴らしさ! 彼女がここで見せる驚くべき感情表現の豊かさこそ、本作における最大の「価値」でありスペクタクルである。・・・特に、映画の最後を締めくくるストップモーション。彼女が見せたその一瞬の表情こそ、まさしく“美神[ミューズ]の微笑み”以外のなにものでもないだろう。[映画館(邦画)] 8点(2010-05-25 17:34:48)(良:2票) 《改行有》

11.  續・姿三四郎 開巻まもなく、横暴なアメリカ人水夫を三四郎が海に叩き込む場面。ああ、これってフライシャー兄弟のアニメ「ポパイ」じゃないか! そして、怪しげな日系人(だったかな)プロモーターが主催する異種格闘技の会場。リングサイドで歓声やら野次をとばす外国人観客の姿と、強烈なライトに浮かび上がるリングなど一連の描写は、ほとんどアメリカ映画そのもの! ・・・日本の敗戦の年に公開された「戦意高揚映画」だというのに、本作には驚くほど「ハリウッド映画」のテイストが満ち満ちている。しかも、まるで後の白戸三平の劇画に登場してもおかしくないほど強烈(であるとともに漫画チック)な柔術家兄弟のキャラクターをはじめ、ここには、他のクロサワ作品にはない特異さがたっぷり盛り込まれているのだ。  前作の好評を受けてしぶしぶ撮ったというこの黒澤監督の第2作は、しかし、この未来の巨匠が他の作品では決して見せなかったような、「B級娯楽映画」に徹したことによる魅力に満ちあふれている。お仕着せの企画なんだから、俺様の好きなように撮ってやる! といわんばかりに、前述のアニメやらボクシング映画やら西部劇の決闘場面やら、とにかく「アメリカ映画」のスタイルをこれでもかと踏襲することでデッチ上げたことは、何よりその画面そのものに現れているだろう。クライマックスの雪原での対決場面も、ほとんどバカバカしいくらいデタラメじゃないか。「面白けりゃいいんだろ!」という若きクロサワの声が聞こえてきそうだ。 だがしかし、これが実に面白いのだ。後年、『用心棒』といった西部劇テイストの映画を撮っても、ここまで「自由」じゃなかった。もちろんやっぱり超面白かったけれど、あの作品には(他のクロサワ作品がそうであるように)どこか「傑作」であることを義務づけられたような、そんなどこか重苦しさがあった。でも、そんなことなどお構いなし、おまけに敗戦濃厚な戦時下の空気なんぞもどこふく風といったクロサワの「B級」映画は、今見ても実に軽やかで、才気にあふれ、面白いのである。 もし黒澤明が、世界的巨匠ではなく、この『続・姿三四郎』のような映画づくりの道こそを進んでいったなら・・・。この“If”に思いを馳せられるだけでも、本作は貴重この上ない1本だと思う。[CS・衛星(邦画)] 9点(2010-02-26 19:21:58)《改行有》

12.  鴛鴦歌合戦 もう、あまりにハッピーで、見ているこっちもシアワセになって、最後には嬉しナミダなんかすらにじんでしまう。けれど見終わって、いったいこの映画の何がそこまで面白かったんだろう? と考えても、何だかよく分からない。でも面白い。でも分からない。・・・その繰り返しで、もう何回見たことか! もちろん、皆さんご指摘の市川春代チャン(と、なぜか“チャン”づけで呼びたくなるんですよ・笑)の可愛い意地っぱりにメロメロとなり、憎めないダメオヤジぶりが驚くほどハマっている志村喬など、出てくるキャラと役者の魅力が大きいのは分かる。モテモテ役の片岡千恵蔵だって、城中で家臣たちとジャム・セッション(!)を繰り広げる憎めない“陽気な殿様”ディック・ミネだって、ほんと良い感じだ。そして、宮川一夫のキャメラを得たマキノ正博監督の融通無碍な演出が、すでにこの時代に頂点に達していることもじゅううううううぶんすぎるくらい分かる。でも、この映画は、そんな作品それ自体の完成度を超えた〈場所〉で、その真の魅力をたたえているように思う。 それは、先に【ザ・すぺるま】さんが書かれている素晴らしいレビューのお言葉を借りるなら、その「浮かれかた」にあるんじゃないか。1939年という、すでに中国での戦争が泥沼化した時代にあって、ここまで「浮かれた」映画を撮ることは逆に容易なことじゃなかった。しかも、『会議は踊る』などのヨーロッパ風オペレッタというより、まもなく“敵国”たることが確実だったアメリカのミュージカル映画こそがふさわしい「浮かれかた」をめざすという、マキノ監督はじめスタッフ・キャストたち映画人の“心意気”こそが、このちょっとした「奇跡」みたいな作品を産み出した・・・。 「こんなご時世やからこそ、いっちょ底抜けにオモロイ映画を撮ったろうやないか」。そうして創りあげた本作は、時代を超えてなお、「浮かれる」ことが映画にとって“最大の「武器」”であることをぼくたちに教え続けてくれるのである。 ・・・あの軽やかに舞い上がるラストのキャメラ。ついには重力(それを「時代」とも「社会」とも読みかえてもらっていい)すら振りきり空にのぼっていく場面は、戦時下における「映画」と映画人たちの勝利を高らかに告げるものなんだと、ぼくは信じてやまない。 そう、やっぱり映画には「浮かれた」ハッピーエンドこそがふさわしい。[CS・衛星(邦画)] 10点(2010-02-26 18:59:32)(良:2票) 《改行有》

13.  西鶴一代女 《ネタバレ》 随分と昔に見た時、偉大な名作というよりも、正直いって“実にヘンな映画!”という印象を抱いたものだった・・・。 同じ溝口監督の『山椒大夫』や『雨月物語』あたりに比べても、本作はどこか観客を奇妙な「居心地の悪さ」のなかに置き続け、結局そのまま置いてきぼりにしてしまう。感動というより、途方に暮れてしまう・・・といった印象。たぶんそれは、田中絹代演じるヒロインの、あまりといえばあまりすぎる「不運ぶり」とその転落人生を、徹底して突き放しながらも凝視する映画(というより、監督である溝口健二)の眼差しの“強度”に、見ているこちらが思わずたじろいでしまうからではあるまいか。 宮仕えの身から、最後は夜鷹という最底辺の売春婦にまで堕ちてしまう女。その次々と襲いかかる不幸の連続は、確かに封建的な時代の理不尽さや、女性に対する社会の酷薄さという戦後作品における「溝口的主題」を反映しているかに見える。が、この映画におけるヒロインの「怒濤の不運ぶり」たるや、ほとんど「喜劇」と紙一重だ(実際ぼくは、不謹慎と思いつつ見ながら何度も頭の中で爆笑してしまった・・・)。人生をクローズアップで見たら悲劇、ロングショットで見たなら喜劇だといったのはチャップリンだけれど、まさにこの映画は、ロングショットで見られた“世にも不幸な女の人生”そのものではないか。 しかし、本作を見ながらじわじわと迫るのは、田中絹代演じるヒロインを次々と不運にさらし、追い込み、堕ちさせるのが、他でもないこの映画(と、作り手の溝口)自身だという実感だろう。明らかにここでの溝口監督は、彼女をとことん汚し、堕としめることだけに精魂を傾けている。そしてこの、とことん堕ちた女に魅了されている(年増の夜鷹となった田中絹代の、凄絶なまでに美と醜がせめぎ合う様・・・!)。逆にいうなら、徹底して汚れきった女にしか表し得ない「美」があること、それを表現するためになら、人ひとりくらい平気で不幸のどん底へ突き落としてみせる。そういう気迫と「残酷さ」が、ぼくたちをただ圧倒するんである。 そして、そんな溝口の妥協なき「残酷さ」を全身で受けとめ体現しきった、田中絹代という女優の凄さ・・・やはりこれは、鳥肌ものの映画であります。[ビデオ(邦画)] 10点(2010-02-26 14:37:10)《改行有》

14.  喜劇 駅前温泉 《ネタバレ》 森繁と伴淳が、全編にわたって丁々発止と渡り合う。しかもそこに、三木のり平やフランキー堺がからみ、淡島千景や淡路恵子、池内淳子(若いのに、何という艶っぽさ!)、そして実におちゃっぴいな司葉子らのキレイどころが華を添え、森光子や沢村貞子、菅井きんなどの名女優が脇をしめる。いやはや、これほどまでに贅沢なキャストの映画が、クレイジーキャッツ主演作の“添え物”として2本立て公開だったとは! この事実だけでも、当時の日本映画の凄さ豊かさが実感できるというものだ。  撮影所内に組まれた室内セットでの撮影を中心に、時折はさみ込まれる屋外ロケシーンのみずみずしさ。当時でも「田舎」だったろうその山あいの温泉街のたたずまいからは、単なる郷愁や“古くささ”といったものとはちがう“匂い”が漂ってくる。それは、菅井きんと幼い娘が扮する「乞食母子」の存在に象徴される、1960年代前半の「昭和」という時代の“貧しさ”であり、それでも人と人とが“情”によってつながり得た時代の風景であり、匂いであるだろう。 そして久松静児という監督は、常にそういった時代の“貧しさ”や人々の“情”というものを見つめ、丁寧に映像へとすくい取りながら映画を撮ってきたのだった。一方で「三助コンクール」なる場面のようなドタバタ風の味付けをはさみながら、また一方で、夏木陽介演じる青年のごとく若い世代への“判断停止”ぶりをあからさまにしながら(古い価値観にとらわれないというより、ここでの彼は単なる傍若無人で無神経な、若大将ならぬ“バカ大将”でしかない)、変貌しつつある時代への哀惜と諦観をにじませてしまう。それが、本来なら他愛なくも明朗な人情喜劇でしかないはずの本作に、どこかそれ以上の陰影を与えることになったのだと思う(・・・結婚して旅立つ娘・司葉子を乗せた汽車と、それを遠くから見送る森繁のラスト場面など、そこにあるのは単なる感傷というよりもっと深い諦観と「悲しみ」だ・・・)。 それを、いかにも「保守的」な後ろ向きの郷愁に過ぎないというのは、たぶん正しい。また、これが歴史に残る名作でも何でもなく、むしろ歴史に埋もれてしまうたぐいの映画であるだろうことも承知している。けれど、それでもやっぱりこの映画と、そういう映画の作り手としての久松静児監督を、ぼくはこれからもつつましく愛し続けるだろう。[CS・衛星(邦画)] 7点(2009-11-25 12:16:56)《改行有》

15.  パッチギ! LOVE&PEACE 《ネタバレ》 ここでは3世代にわたっての、とある「在日」一家の生きるーーというか、“生き抜く”姿が描かれている。祖父の世代は苛酷な戦火のなかを、泥と血にまみれながら。二・三世である父母とその子供たちは、貧困と差別のなかを。そして四世となる男の子は、不治の病に対して。彼らはそれぞれの逆境を、時にのろい、時に怒り、時に嘆き傷つきながら、それでも生き抜こうとするのだ。 もちろん、彼らをそういった状況に追い込み、追いつめたのが日本という国家であり、その国民であることを、映画は真正面から描くだろう。けれど映画のなかの一家は、そんなことを告発や断罪する前に、とにかく必死に生きる、懸命に生きる。その姿を前にする時、「日本人」たちの何と卑小でみじめなことだろう・・・! そこでは藤井隆扮する「良い日本人」ですら、どこまでもひ弱で無力な存在でしかない(もっとも、彼は彼なりにーー愛ゆえに?--「意地」を通すのだけれど)。たぶん、彼らは我々にこう言うだろう。差別するなり反省するなり勝手にやってろ! と。 前作『パッチギ!』では、そういった「生」のエネルギーのほとばしりを高校生たちの群像ドラマに託しつつ、一方でそれを「在日」という言葉(=観念)に収斂させてしまうことで実に「上質」な(ということは、「映画賞の取れる」ような!)作品を撮りあげた井筒監督ら作り手たち。だが今回は、「政治」だの「歴史」だのといった観念性をブッちぎり、映画としての体裁すらブッこわしてまでも、主人公とその家族の「生」を、それだけを映像におさめようとした。そしてそれは、見事に成功したといえるだろう。何故なら、前作とうって変わってのこの「低評価」こそがその証じゃないか! だが、これでいいのだ。映画が「生きるもの」たちの姿を、その輝きこそを映し撮るものだとするなら、これこそが正真正銘の「映画」そのものなのだから。 ・・・映画の最後、難病の男の子が、自転車にはじめて乗ることに成功する。彼は助からないかもしれない。しかし、それでもやっぱり生き抜こうとしている。その姿にふたたび家族がひとつになる。 何て美しい光景だろう。[映画館(邦画)] 10点(2009-03-31 17:30:36)(良:1票) 《改行有》

16.  二十四の瞳(1954) 映画の中盤以降、主人公である大石先生はことある毎に泣いている。最後には、子供たちからも「泣きみそ先生」とあだ名される始末だ。でも、大石先生の流すその涙にこそ、昭和という歴史への、つまりは「戦争」というものへの“異議申し立て”があることを、この映画の作り手たちはまちがいなく自覚的である。それはただ悲しいからでも、つらいからでもない、「くやしい」からこそ流された涙だ。時代に翻弄され、押し流されながらなすすべもない時、人はそういう状況に追い込んだものたちに怒り、しかしそ気持ちの持って行き場がないから、泣く。そこには単なる「被害者意識」ではなく、もっと烈しい告発の意志がある。だからこそそれは、時代を超えて見る者の心を揺さぶり続けるのだと思う。 ・・・以上、ずっと以前に録画してあったビデオで、先日久しぶりに再見した感想。昔は単なる感傷と、いかにも日本人的な諦観にいろどられたもの、という印象を抱いていたのだけれど、今回見てコロリと考えがかわりました。やっぱり映画は、何回も見直すべきだなという反省と自戒をこめて、ここに記す次第です。木下恵介監督、ゴメンナサイ。 そして素晴らしい映画をありがとうございます。[ビデオ(邦画)] 10点(2009-02-03 20:06:26)(良:1票) 《改行有》

17.  明日への遺言 連日、厳しく罪状を追及してくるアメリカ人検事に、主人公はある朝、こんな風に声をかける。 「おはよう、検事殿」 あくまで何気なく、何のふくみもない平凡な朝の挨拶。それに対して検事は、思わずニッコリと微笑むのだ。 時間にして1秒にも満たないかのような、検事の微笑。そこから、全編が裁判所内というこの映画のなかの「空気」は、少しずつ“軽さ”をーーあるいは“すがすがしさ”へと変わっていく。それは、「裁く/裁かれる」という対立の構図ではなく、かつては(あるいはその時も)敵同士だった者たちのあいだに、連帯が、むしろ〈友愛〉そのものがうまれたからである。 そう、藤田まこと演じる主人公の岡田中将は、何も部下たちを救ったからだとか、日本人としての「品格」とやらを示したから称賛されるのではない。この映画はそんな程度のもの(と、言ってしまおう)を描こうとしているのではあるまい。ここには、戦争犯罪人という立場でありながら、日本人とアメリカ人、原告と被告、敗戦国と戦勝国、正義と悪といった対立軸を超えて、この法廷をただ正々堂々と戦い抜こうとする岡田中将と、同じく正々堂々と戦うアメリカ側という〈構図〉があるばかりだ。その〈構図〉を、フェアネスな“空気”を実現してみせたことにこそ、岡田中将という人の真の偉大さがあった。 映画は冒頭で、醜悪で悲惨な戦争の非人間性を記録フィルムで観客に示す。そのことで、岡田中将の“もうひとつの「戦争」”が、むしろ「人間性」をあらためて信じ、取り戻すためのものであったことを、この映画は見る者の心に鮮明に焼きつける。そう、この映画は人を(あるいは国家を、歴史を)裁くのでも、告発するのでもない。日本側・連合国側を問わずこの法廷にいる者たちは、人間というものの持つ真の「崇高さ」のために、共に共闘しているのだ。そういった姿を通して、人間というものの「美しさ」を、ただそれだけを映し出そうとしたものだったと、今ぼくは確信している。  確かに、一見すると地味で派手さのかけらもない、「映画的」ですらないと思われもするかもしれない。しかし、映画がここまで「人間」の美しさ、その精神の「崇高さ」を見つめようとしたことにおいて、本作は、ぼくにとってたとえばジャン・ルノワールの作品に比するものだ。 ・・・最後に。小泉堯史監督、貴方の映画と同時代の観客でいられて、ぼくは本当に幸福です。[映画館(邦画)] 10点(2009-02-03 19:23:13)(良:1票) 《改行有》

18.  しあわせのかおり 《ネタバレ》 映画の冒頭、ガスコンロに火がつく「ボッ」という音にはじまって、食材を炒める、揚げる、煮る、蒸すといった音が、調理する光景とともにーーいや、それ以上に音こそが強調されてぼくたち観客をとらえる。そしてその中華鍋をおたまで攪拌する音、中華包丁で刻む音の、何というリズミカルな響き・・・。そんな音たちの連なりの果てに、眼にも鮮やかで艶やかな料理が画面いっぱいに映し出されるのだ。 そう、料理を創ること・食べることが半分近くを占めているこの映画は、そういった「料理」を“音”によって表象する。いかに見事な音を奏でるか、それが料理それ自体の映像に、官能的なまでの〈美味しさ〉を与えることになるというわけなのである。・・・結局のところ映像は、料理の味も匂いも伝えることができない。けれどその官能性を、一種の「音楽」として聴かせることは可能だろう。音が創り出され、そのリズムやハーモニーが結果として料理を、その〈美味しさ〉を産み出す。本作が単なる「グルメ映画」と一線を画すのは、これがむしろ“音と音の響きあう”映画、まさしく「音楽映画」であるからにちがいない。 たとえば、藤竜也が演じる料理人の王さんは、その「音楽」を見事に奏でることで「名人」であることを体現し、我々を納得させるのだし、中谷美紀による主人公は、はじめはたどたどしかった“音”が徐々に「音楽」となっていくことで、料理人としての成長を実感させる。・・・クライマックスとなる食事会。それぞれ夫を亡くしたシングルマザーと妻と娘に先立たれた孤独な料理人であるふたりが、二人三脚で“ひとつの「音楽」”を創り出す料理場面は、中華鍋をふるう所作ひとつをとっても、これが一種の“ミュージカル映画”でもありうることをぼくたちにハッキリと見せつけてくれるだろう(その食事会の終わりに歌われる「ホーム・スウィートホーム」は、だからそういったふたりが奏でる「音楽」への“返歌”としてあったのだ)。 まるでホウ・シャオシエン監督の『戯夢人生』や『フラワーズ・オブ・シャンハイ』のような、沈黙と、ひとつの乾杯で締めくくられる長いワンカットのラストまで、この一見つつましい、およそオリジナリティを主張しないかのような「地味」な映画が、実は最近の日本映画のなかでも最も「滋味」豊かなものであること。そのことこそを、ぼくは高く、高く評価したいと思う。[試写会(邦画)] 10点(2008-10-16 12:04:21)(良:1票) 《改行有》

19.  愛妻記 う~む、書きたかったことはほぼ全て青観さんに書き尽くされてしまったので、それ以上付け加えることもないんだけど・・・まあ、小生もちょこっとコメントさせていただきます。 それにしても、この映画の司葉子は本当に素晴らしい。女学生時代の友人をたよって郷里の金沢から東京に出てきたという彼女は、まさに天真爛漫でいながら、それがたまらなくコケットリー(誘惑的)だ。しかも、そのことに彼女自身がまったく無自覚であること。その“無垢[ウブ]”なところが実に実に良いのであります。たぶんそれは、この昭和初期にあってもじゅうぶんに魅力的だったんだろう。だからこそフランキー堺の主人公が魅かれ、一緒になろうと決意したことも、素直に納得できる。そして、こんな貧乏作家のところに喜んで嫁いでくれる彼女のような奥さんと出会えた主人公に、大いに「嫉妬(笑)」してしまうんである! そんなふたりが、はじめて“結ばれた”シークエンスも忘れがたい。とはいえ、もちろんベッドシーン(というか、この時代じゃ“床入り”か)があるわけじゃない。司葉子がフランキー堺の下宿にやって来て、彼の部屋で朝を迎える。その明け方の場面。おたがいきちんと着物姿でありながら、それまでになかった彼女の恥じらいを含んだ様子ひとつで、ふたりがその晩に結ばれたことを、ぼくたち観客はハッキリと知ることになる。案の定、そこでフランキー堺は(貧乏作家のくせに!)「所帯を持とう」と切り出すのだ。・・・このあたりの“奥ゆかしさ”こそ、本作の美質であり、久松静児という監督の持ち味なんだろう。 ともあれ、まだ戦争の影がさしていない昭和初期の生活風景をていねいに素描しつつ、これほど魅力的なヒロイン像を造型し得ただけでも、ぼくにとってこの映画は忘れられない1本になったです。記録よりも、記憶に残り続ける映画。・・・そう、ひとりの映画ファンにとって、それこそが真の「名画」であり、宝物なのだから。 《追記》ユーカラさんのおっしゃる「軍国化」のくだりは、え、そうだったの? と思いもよりませんでした。さすがスルドイ。ただ木下恵介ならともかく、この映画の場合、ああいう兵隊たちや警察の横柄さも含めて当時の日常というかあたりまえの「空気感」であるという、それ以上の含意はないのでは・・・とも思うのですが、どうでしょう? でも、この映画って愛されてるんですねぇ。シミジミ[CS・衛星(邦画)] 8点(2008-08-21 13:48:08)(良:1票) 《改行有》

20.  映画ドラえもん のび太と緑の巨人伝 《ネタバレ》 声優が一新されてからのドラえもん映画は、常に「のび太」という11歳の少年のメンタリティに寄り添うかたちで創られている。この少年の、11歳という年齢だけが持つ「まっすぐさ」、たぶんそれだけを(とは、まぁ極論だけれど)描こうとしているのだと思う。 そして映画の中で、のび太は、自分にとって“何より大切なもの”のために、11歳の男の子としてのありったけの努力と勇気をふりしぼって、その“大切なもの”を守り抜こうとする。その時ジャイアンやしずかちゃん、スネ夫たちもまた、のび太といっしょにがんばり抜き、最後まで行動をともにするだろう。彼らは、「友だちであり続けること」というもうひとつの“大切なこと”のために、やはり「まっすぐ」がんばるのだ。そう、友だち同士(=同志!)として。 だからドラえもんも、映画では、“頼れる存在”というよりあくまでコメディリリーフ的役割というか、のび太たちを「あたたかい眼(笑)」で見守る立場だ。特に今回の映画では、ひみつ道具すらあまり登場しない。その分、のび太たちの「まっすぐ」ながんばりがクローズアップされることになる。・・・そのことに、いいトシをした親父であるぼくは感動し、不覚にもナミダしてしまう。 確かに、植物星人たちが地球を攻撃する後半は、いささか状況が分かりにくいかもしれない。でもその中で、のび太がキー坊を懸命に助けようとする姿と、それを見た植物星のお姫さまも手助けしようとする、この場面にこそ、映画版ドラえもんを貫く主題ーーと言って大層ならば“精神(ハート)”があるにちがいない。そう、ドラえもんの道具でも、悲壮感たっぷりのヒロイズムでもない、「ぼくにはこれしか出来ないから…」と大切なものを守ろうとする11歳の少年の「まっすぐさ」こそが、世界を救うことになるのだ。その、何という清々しさ・・・。 そうした「11歳の心(ハート)」を、「まっすぐさ」という彼らの〈倫理〉をドラえもん映画が失わないかぎり、ぼくもこのシリーズを見続けていこうと思う。どんなにトシをとろうとも、のび太たちの「まっすぐさ」を見守り続けることは、子どもたちにとってはもちろん、大人にとってもまちがいなく大切なことだから。 以上、レビューというよりひとり語り、スミマセン・・・。 <(_ _)>[映画館(邦画)] 10点(2008-03-12 19:22:10)(良:2票) 《改行有》

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