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【製作国 : イギリス 抽出】 >> 製作国別レビュー統計
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1.  ゼロ・グラビティ 《ネタバレ》 全くの無音から無線音への音のグラデーション、 相変わらずのレンズ前に付着させる水滴、 客観から主観への移り変わり、 これらは映画であるということの証明であり、 また圧倒的な映像力で見せる長回しは、 時間を断絶させないリアリティへの追求。 全くもって事実ではないことを尤もらしい事実のように描ききる巧みさ、 これがアルフォンソ・キュアロンの映画である。 サンドラ・ブロックの涙は無重力空間で水滴の塊となり浮遊する。 浮遊する水滴の塊は徐々に彼女から離れる。 フォーカスは水滴に送られる。 この現実的ではあるが(宇宙空間という舞台が現実的かどうかはさて置き)、 これはカメラが撮っている映画である ということへの固執こそがキュアロンであり、 このショットは、この映画は3Dで観なければならない ということを最も訴えているだろう。 なによりもこれはサンドラ・ブロックが「掴む」映画だ。 必死に生きようとするために掴む。 ジョージ・クルーニーとを結ぶロープを、 宇宙船の外壁を、突起物を、消化器を。 何かを掴み、何としてでも生きようとする。 そして彼女が最後に掴むもの、それは土、地球の地面の土。 やっとの思いで水中から陸地へと這い上がり土を掴み握り締める。 そして立ち上がろうとする。 しかし重力に屈する。 しかし彼女は笑うだろう。 何故ならば重力を感じているからだ。 生きて地球に帰ってきたという証だからだ。 そして再び立ち上がろうとする。 そして地球の大地を二本の脚で踏みしめる。 そしてタイトル「GRAVITY」[映画館(字幕)] 9点(2014-05-05 01:05:24)(良:7票) 《改行有》

2.  危険なメソッド 《ネタバレ》 水面すれすれを微速に進むカメラと、引画の中に本当に小さく、 でも凛として立っているキーラ・ナイトレイに泣きそうになる。 どのショットにしても、とても厳格で美しい構図とライティングと 天候環境で撮れているという贅沢さに満ち溢れているだろう。 そして役者の顔と彼らが発する台詞、その芝居を、 最も理想的であると思われるフレームで切り取り、 それを繋げることで物語を作り出すという 単純な作業だけで映画を成り立たせている。 最後の背を向けあって座っての 越しのカットバックの素晴らしさよ。 クローネンバーグは会話劇を巧みな役者を集めて、 緊張感あるフレーミングで描くのに長けている。 キーラ・ナイトレイが最後に動く何か乗って泣くだろう という予測は、もう冒頭から出来るわけだ。 それというのは、隔離からの解放は絶対に描かれるからで、 ただ馬車から自動車へ変わるという時代の移ろいも含め、 すべてを丁寧に描くクローネンバーグに感動した。[映画館(字幕)] 9点(2012-11-30 15:07:33)《改行有》

3.  ヒューゴの不思議な発明 《ネタバレ》 メリエス(のみならずリュミエール兄弟でもハロルド・ロイドでもどれでもそうだが)の映画が流れる度に涙が溢れそうになるのだが、それは別にメリエスの映画に涙しているのではなく、ぬけぬけと懐古的な映画愛を恥ずかしげも惜しげもなく披露してしまう、この映画の全体の一部に涙している。何故なら、スコセッシがそう仕向けてくるのだから。 であるからこそで、ふたりが映画館へと忍び込むところだ。暗闇を切り裂いて、光が、ただ光が、スクリーンを突くと、浮び上がる新たな世界。『ロイドの要心無用』の名シーン、ビル登り、をふたりが興奮して食い入るように観る。そう、子供の頃の映画という体験の興奮を忘れることが出来ず、ひとは繰り返し繰り返し、暗闇へと脚を運ぶ。 さて、どうして、こんなにも愚直で、稚拙で、恥じらいのない、映画愛に満ち溢れた映画を作ってしまったんだろうか、スコセッシは。何時にも増した下手くそさと、観客を選ぶような映画愛表現と、幾つものレイヤーを重ね合わせただけのような3D映像。こんな欠点だらけの映画、最高に好きである。 これは暴力やセックスを描いてきた作家の、映画が暴力やセックスと手を結ぶまでの映画。映画は未来のない発明だという劇中でも登場するリュミエール兄弟の台詞とは裏腹に、映画は、音、色、そして、デジタルへと変容し続けている。人々が暗闇へと脚を運び続ける限り、映画は死なない。[映画館(字幕)] 8点(2012-04-08 21:51:47)《改行有》

4.  グリーン・ゾーン 手持であろうと、スタビかまそうと、クイックズームしようと、フォーカスが合ってなかろうとなんでもいいのだけれど、でもこれって「見せる」という気がないのか、あるいは失敗しまくってるのか、それともこれがかっこいいと思っているのか、つまりスタイルとして確立したいのか、全然わからなくて、やっぱし観ていて思うのはこんなの駄目だろってことだけで、極端な話だけど、ドキュメンタリーは即時性だからどうしたって追いきれないとか撮りきれない瞬間てあると思うのだけど(まぁそれを撮るのがプロフェッショナルだけど)、しかしこれってドキュメンタリーじゃなくて、所詮そっれぽい感じのフィクションだから、だったら、何を見せるべきか、つまり、撮るべき対象っていうのがしっかり固まっていて、つまり芝居をつけてそれを狙うわけで、それがちゃんと撮れてない、っていうか敢えて撮ろうとしないっていうのは、ただの撮影行為の放棄じゃねぇかよって思うし、戦場の雰囲気ってこういうことじゃないだろっても思うし、要するに撮ってる側が戦場に入り込みすぎた感じのぶれぶれの何映っているかわからない映像のどこに映画の客観性があるんだよってな話で、どんなに頑張ったてスクリーンのこっち側にいる人間は客観であるしかないわけで、それを飛び越える瞬間てあるとは思うけど、こういうことではないんだってことははっきりと言えるのだ。 もう一つ言えば、そういうフィクションさを消したい感じ、つまりリアリズムを求めるのは、それはそれで良いけど、まぁここまで書いた通り、この映画の映像はまず徹底的に駄目で、じゃあお話はどうかってことで、でもやっぱりお話部分も駄目だと思うわけで、結局、映画の面白さって、時に、嘘っぱちさだと思うわけで、事実に創作を入れ込んだものというのは、その創作部分が事実を塗潰してしまうような嘘っぱちであって欲しいのだ。[映画館(字幕)] 3点(2010-06-01 22:20:15)(良:3票) 《改行有》

5.  アバター(2009) 殆どのことを棚上げし、「アバター」という映画をIMAXデジタル3Dで観るという体験についてのみを書こう。 創成期、映画は体験された。リュミエール兄弟が初めて「ラ・シオタ駅への列車の到着」を上映したとき、観客は列車がスクリーンから飛び出てくるのではないかと驚いて逃げ出しだという逸話がある。これの真偽は確かではないが、正に映画を体験するという言葉通りの話である。 現代、そういう逸話が産まれることは決してないだろう。しかしこの映画にはそれに匹敵するような圧倒的な映像がある。それは実に映画的な体験として観た者の感性に刻み込まれるに違いない。 この映画はほぼ実写ではない。だから映画ではない、ただのお絵描きだといういうような愚言などは正直どーでもよい。問題は映画を魅せつけるための、アングル、引き画、寄り画、トラヴェリングショット、カット割り、光と影があるかということだ。この「アバター」にはそれが映画史百年が培ってきた証として刻まれている。これはお絵描きをしてきただけで到達でるものではないのだ。 映画はついに実写と(モーションキャプチャーによる役者の演技があってこそ成り立つ)CGIが何の違和感もなく同じフレームに収まり、感動的な出逢いをする瞬間を迎えたのだ。CGIが実写を抱え上げ、涙し、実写はCGIの頬をそっと撫で、また涙する。これはあるひとつの映画の到達点だ。 (物語などはさて置)誰もが圧倒的な映像に打ちのめされ感嘆させられるだろう。これを単なるCGIだと言うのであれば、それは自分の感性を呪詛するべきだ。 IMAXデジタル3Dで観るという体験はひとつの体験として実に新鮮であり、破格のものである。[映画館(字幕)] 8点(2010-04-11 03:13:11)(良:1票) 《改行有》

6.  クリーン (2004) 《ネタバレ》 駅の中でマギー・チャンがニック・ノルティを探し回るシーン、長玉で軽く修正移動をかましながら、カメラが彼女を追っかけ回すが、とても素晴らしい。あれを李屏賓がやると超絶にうまいのだけど、ゴーティエは(彼の場合彼自身がオペレートしてるのかはわからないが)決して丁寧とはいえないし、寧ろ、雑、というか下手上手いというか、味があるとでもいったらいいのだろうか、あれがいいのだ。「イントゥ・ザ・ワイルド」でも長玉、手持ちとかでぶんぶん振り回すのだけど、それもまた雑でありながら、どこか味があってよい。 そのことはさておき、マギー・チャン演じるエミリーが友人の家に居候をするのだが、その友人が犬を連れ家を出て行くが、忘れ物をして家に戻ると、エミリーが涙を流しているというシーンなどは格段に素晴らしく優しい。ただひとりぼっちになってしまった孤独感で泣くというシーンだが、友人が外出し気が緩んだというこの見せてはいないが見えるワンクッションこそが素晴らしいだろう。このシーンまでは常にマギー・チャン、あるいはニック・ノルティを切り取るカメラが、ふいに友人を主軸に動き出すのだが、映っていないところでのエミリーの感情というのが友人が扉をそっと開けた時に一気に動き出すということだ。これこそが映画の巧みな演出だ。 そしてこの映画のニック・ノルティのまなざしこそがアサイヤスのまなざしで、見守るよという、やはり他のアサイヤスの映画同様にこの映画もまた優しさに溢れている。[映画館(字幕)] 8点(2009-09-16 17:31:08)《改行有》

7.  サブウェイ123 激突 《ネタバレ》 デンゼル・ワシントンが笑顔で我が家の門を押した瞬間にすべてが終わるが、またしてもストップモーションで幕を閉じてしまうという潔さだ。 結局ガーバーと彼の妻はこの映画で一度たりとも同じフレームに収まることはなかった。何故、最後、ふたりは抱擁しないのか。そんなことはこの映画においてどーでもいいことだからだ。ミルクを買って家に帰るという約束を果たせるか果たせないかということが重要で、ふたりの愛を確認し合う作業などトニー・スコット含め我々観客も全く興味がない。だからこそ、帰り道にミルクのパックが入っているであろう白いビニール袋を右手に持って歩くデンゼル・ワシントンというショットと彼のクロースアップのストップモーションが感動的なのだ。その後の抱擁し合うふたりなど幾らも感動的ではない。これこそがトニー・スコットなのだ。 また市長の描き方など絶品で、いかにも金の虫のような風体を晒しながらも、憎めない人の良さも醸し出し、犯人の割り出しも自らやってしまう、善でも悪でもない人物を平然と登場させる。罪悪感からか正義感からかで突っ走りだすガーバーや、金だけのライダーなどに比べ、あまりにも平凡な人物という描き方が素晴らしい。故に不倫というワードこそが現実的で必要不可欠なものとなり、そのためには市長を囲むマスコミすらもトニー・スコットには重要な登場人物たちなのだ。 現金輸送中のパトカーの事故、鼠のせいの誤射、PCによる映像、こんなものほとんど無駄な羅列にも見えるが、それらはただ「偶然」あるいは「運命」という得体の知れない厄介なものによって、ペラム123に連結され地下を疾走しているに過ぎない。だからこそその連結をいつ切り離そうが所詮それは「偶然」や「運命」であり、そうなったという事象のみがそこには存在することとなるのだ。 ガーバーとライダーの橋の上での対峙なども素晴らしい。いくらガーバーが警察官たちを呼べども全くもって近づいている感じがしない。その都合の良さこそ映画であり、その都合の良さが、ライダーのいつものカウントダウンでガーバーに極限の選択を迫らせるのだ。そしてこの時の単純なふたりのカットバックが見事な物語を構築している。 それでいての106分。スクリーンに映し出されるすべてを必要な情報として処理し、途轍もないスピードで走り抜ける、この潔さはトニー・スコットが唯一無二の存在になっていく証だ。 [映画館(字幕)] 8点(2009-09-05 15:12:20)(良:5票) 《改行有》

8.  ターミネーター4 《ネタバレ》 やたらマーカス・ライトの心臓であーだこーだやるなと思っていた。川辺では鼓動も聞いた。半分マシーン半分人間ということの強調かと思った。ところがジョン・コナーの胸部にT-800が金属片を突き立てた瞬間に移植という展開が一気に露呈した。 そして終盤、スクリーンに映し出されるすべてを疑った。この戦争の指導者は死ぬわけにはいかないから心臓を移植しましたでは、マシーンと人間との差異を描いてきたこのシリーズの根底を覆すことになるだろ。マシーンのパーツ交換じゃねーんだよ。「2」では修理すれば生きれたシュワちゃんだって自ら死を選んでんだぞ。シリーズを通しての物語の整合性など興味はないが、本質的に何を描くのかを見失っているのではないか。 そして「1」「2」の不安感は一体どこへ行ったのか。「1」「2」には、日常世界に見た目は人間だが中身がマシーンの殺戮兵器が未来から来て、反撃しようともくたばらず、執拗なまでに寡黙に追い掛けてくるという、底知れぬ恐怖とサスペンスが滲み出ていた。審判の日を経たため日常世界は消滅したのだから、同じことを求めるのは阿呆な話だが、あまりにも無意味で能天気なアクションシーンに緊迫感や不安感はなく、何よりもターミネーターに対する恐怖感が皆無だ。サラ・コナーが半狂乱になってまで恐れた終末世界ってこんなもんなのか。 これは戦争映画だ。それは正しい。マシーンは離脱や融合を繰り返し人々を襲う。これも正しい。しかし恐怖はない。ただの迫力のあるシーンだ。でかいマシーンはスピルバーグの「宇宙戦争」のトライポッドと同じ音を発し、これもまたトライポッドと同じ行動だが、人々を掴み籠へと入れるが、「宇宙戦争」にはあった不安感がここにはない。ジョンがカイルを救出するために端末をいじりながら侵入するが「ミッション:インポッシブル」のイーサン・ハントかと思う。モトターミネーターの目を使うところなどは「マイノリティ・リポート」じゃん。ジョンをトム・クルーズがやったらとんでもなかったろうに。 T-800とのバトルで、高低差のある工場内のような場所をわざわざ選んだのは「2」のバトルシーンへのオマージュだが、ここでの緊迫感はジェームズ・キャメロンのあのシーンには到底及んでいない。 悪いところばかりではないが、「ターミネーター」はシュワちゃんと、だっだっ、だっ、だだん!があればいいわけではない。[映画館(字幕)] 4点(2009-06-17 02:01:16)(笑:1票) (良:4票) 《改行有》

9.  消されたヘッドライン 《ネタバレ》 (結果的に全く違う映画だったのだが、軍事産業というキーワードだけで考えたときに)これなら「ザ・バンク」のほうが圧倒的に面白いだろう。 答えに辿り着けそうで辿り着けない世界というのは確実に存在しているという「ザ・バンク」に対して「消されたヘッドライン」は友情とかいうことに縛られてしまって紆余曲折して辿り着いた世界が実は足許だったという落胆にも値するほどのあっけないものとなってしまった。しかもその殺人はベン・アフレック演じるスティーヴンが望んだものではなく、歪んだ愛国心が生んだ勘違いの悲劇だったということ。 真実に辿り着いてしまったことに不満があるわけではなく、その真実に辿り着いたラッセル・クロウ演じるカルの絶望感が、新聞記者としてのものでなく、友情であるということがこの物語を一気に尻すぼみにしているだろう。 新聞が舞台となり、政府も巻き込んで、巨大な組織と対峙したにも限らず、結末が勘違いだの友情だのでは、結局ゴシップニュースレベルの話だったということだ。そもそもそんな展開など誰も望んではいないと思うのだが。 そして何よりも微妙な揺れが気になる。手持ちなのかスタビかましてるのかわからないが、微妙に揺れてる。全くこれの意義がわからない。[映画館(字幕)] 5点(2009-06-08 21:10:17)(良:1票) 《改行有》

10.  バーン・アフター・リーディング 《ネタバレ》 『ノーカントリー』の時も感じたが、はっきり言って駄目なんじゃないかと思う。ただ無責任なことだがどーして駄目なのかがよくわからない。凄く簡単に言うと「つまらない」ってことなんだけど、その「つまらなさ」自体すら理解することが出来ないから困る。 まず脚本も演出もまったく巧くない。群像劇ということで点と点は何らかの形で繋がってはいるが、それは巧さとは何にも関係ない。 コーエン兄弟って本当にキャラクター創造の人たちで、それって役者が勝手にやってくれることなんだけど、それを脚本とか演出でがちがちに固めて造り出そうとするから駄目なんだろうなと思う。この人はこういう人でっていう縛り付けが強すぎるんだな、きっと。映画ってキャラクターショーではないのだから。 ま、結局それがコーエン兄弟らしさなのかもしれないが、となるとそれを楽しみにしていないと何も楽しくないってことになるのか?だったら見なけりゃいいということか?しかし哀しいかな、確かに過去のコーエン兄弟の映画は楽しかった、好きだった、だから今も見ているという人は大勢いるだろう。もはやコーエン兄弟とウディ・アレンは年中行事になりつつある。これは正直良くないことだ。このことについては最近よく考えるが、どーしていいやらわからない。もしかしたら「もう見ない」という断固たる決意が必要なのかもしれない。 それはさて置、あと主な登場人物たちが最後誰も出てこなくなるってことでこの映画はいいのかと思うのだが、それは観ているこっちからすれば何の感慨も沸かなくなるんじゃないのかと、まあ出てこなくてもいっこうに構わないんだが、ならばその最後の感慨ってものを観客に感じさせるのにあのCIAの幹部のふたりにすべてを負わせるっていうのは無理があるってことなんだと思う。そこにはキャスティングミスということもが多少なりある。主な登場人物があまりにも有名過ぎて、あのCIAの幹部ふたりは添え物でしかない。添え物にすべてを任せるなんてのはあまりにも無謀すぎるだろと。 Googleアース的に始まって終わろうとそんなことはどーでもいいんだが、あれの意味を考えると更にこの映画がつまらない映画だと露呈してきそうなので、止めておくことにした。だからきっともうコーエン兄弟の映画は楽しめないんだって思う。[映画館(字幕)] 4点(2009-05-03 05:18:24)《改行有》

11.  スラムドッグ$ミリオネア 《ネタバレ》 ライフラインという見事な名が付いているにも限らず、それが三つのうちひとつしか映画として機能しないことが最もこの映画の鈍感なとこなのだが、そのひとつがこの映画のすべてだった。 ミリオネアはどんな番組だったかと上映前に思い、ライフラインというものがあったことを思い出し、この映画は恐らくそれが主人公のスラム育ちの人生と相互するように機能する映画なのかと考えたが2/3も裏切られた。 まず最初にオーディエンスという機能を見殺すかの如く描いたときに、この映画は駄目なんじゃないかと疑う。 だが次にジャマールがコールセンターに勤めているということと、彼がラティカの携帯電話の番号を調べ始めた時、テレフォンという機能は活かされるのではと期待する。しかしラティカという名前だけでは検索しきれず、ここでは兄の番号に辿り着くまでとなる。これでは駄目だ。ジャマールがラティカを探し求める映画ならば、テレフォンの相手は兄ではなくラティカでなければならない。 50:50という機能も半殺しの如く描かれ、結局最後に残されるライフラインはテレフォンだ。となれば後は誰が電話に出るかだ。 兄は最後の最後でラティカを逃がすことで贖罪する。そう、その時「これを持っていけ」と彼女の手に握らすのが携帯電話だ。やはりこの映画はそうならなければならないと大きく納得した。 だから彼女が答えを知らないこと、彼が最後の最後は勘だけで正解すること、そして兄がそれと時を同じくして死ぬこと、すべてそれで良い。彼女が電話に出たことでこの映画の問題は解答されたからだ。彼にとってみれば、唐突に彼女が電話に出たこと、それだけで、もはやクイズ番組などどーでもいいことで、むしろ彼女に早く会わなければならない。クイズの答えに悩む暇はない。だから答えはBでもCでもDでもなく、一番最初のAだ。 テレフォンにラティカが出て映画が成り立つという結末は、誰もが予測可能だ。しかしそうなったとき、予想可能さに嘆かれるか、納得してもらえるか、それがこの映画の面白さに直結する。この映画には大きく納得させられる。わかっていることに改めて納得する面白さこそがアメリカ映画的であると思える。だから最後は余計に良かった。そうかそこはボリウッドだったと。 ただキスシーンを奇麗に見せたいがために傷口じゃない方にキャメラを切り返したら絶対に駄目だ。[映画館(字幕)] 7点(2009-04-21 04:56:49)(良:1票) 《改行有》

12.  ザ・バンク -堕ちた巨像- 《ネタバレ》 美術館へ辿り着くまでの尾行、そして美術館での銃撃戦は見事としか言いようがない。真っ白で螺旋状の内壁に次々と撃ち込まれる弾痕。クライヴ・オーウェン演じるサリンジャーと殺し屋のやりとり。建物の形状を完璧なまでに駆使したカット割り。素晴らしい。 それ以前に、サリンジャーが殺し屋を追い掛けるシーン、キャメラは必死に走るサリンジャーを横移動で追っかけ、それと平行モンタージュで逃げる殺し屋の車を見せ、サリンジャーが大通りに出ると、キャメラは横位置から一気にクレーンアップして俯瞰構図となり、犯人の車が赤信号で停止している車の大群に混ざっているという一連及び最後のクレーンショットがまた素晴らしい。 人物の会話の殆どが人入れ込みの切り返しショットで処理されているのが少し物足りないというか、逆にしつこいかと感じる。サリンジャーが氷水の中に顔を突っ込み殺し屋らしき人影を思い出すインサートカットや、屋上での殺し屋はこうしていただろうという推論の回想映像は必要なのだろうか。殆どを無闇矢鱈に説明せずに見事なまでに簡潔に展開しているのに、この2点だけ過剰に説明していると思える。無くても理解できるから余計無駄だと感じる。 しかしながらこの映画は見事だ。ナオミ・ワッツ演じる検事とさよならしてからこの映画は急に晴れ晴れとした青空の中に舞台が移される。それは中から外へ出るという機能が働いたからだ。システムの中=法に司られた社会の中にいては解決できないのだが、システムの外=法を無視した世界に出て行けども決して辿り着けないという「どこかにある答えが見つかりそうで、どこにも答えがない」という<世界>にやはり着地してしまう。そこに至るまでを逮捕権のないインターポール職員とニューヨークの検事局員が追うことで、「答えが出そうで、出ない」という柵が更に主人公たちに絡み付くからいい。 ファーストショットのサリンジャーのクロースアップ(この次のショットは駅でなく、本当は車であるべきだったと思うが)はどこかにある答えを見据えていたが、ラストショットのサリンジャーのクロースアップはどこにも答えがないと盲目的になっている。それは幾らでも置換可能な現実=この近代社会のシステムを目の当たりにしてしまったという嘆きの表情だった。[映画館(字幕)] 8点(2009-04-13 01:14:06)(良:1票) 《改行有》

13.  ウォッチメン 《ネタバレ》 出てくるヒーローという奴らが、いつまで経ってもうだうだとメタレベルで苦悩し続けて163分が過ぎ去って行く。彼らは自分たちの存在意義や過去のパーソナルな出来事を回想し「ヒーローである以前に、皆ひとりの人間なんだ」という当たり前のこと、見てるこっちからしたらどーでもいいことで、163分悩み続ける。 もちろん「ヒーローである以前に、皆ひとりの人間なんだ」は事実だが、そんなことより映画として忘れてはいけないのは「ひとりの人間ではあるが、ヒーローなんだ」だ。 眼鏡のおっさんと長髪の女のセックスシーンは最低だ。 おっさんはソファーで「ちょっと待って」と言う。勃起しなかったのだ。しかし、次のシーンでおっさんは裸でコスチュームの前に立っているし、女はシャツ一枚でその場に現れる。全く理解が出来ない。やったのか?やってないのか?これは大きな問題だ。ここではこのセックスは中断されたと理解して話を進めたい。 その後、ふたりはコスチュームを身に纏い再びヒーローとして街に繰り出し、ひと活躍済ませる。そしてふたりはいい感じになり船内でやっちまう。簡単に言えばおっさんはヒーローして気分が高ぶり欲情したっていう変態で、コスチュームプレーで勃起したということだ。で?と思うだけで、正常な話ではないし、そんなこと興味ない。 そんなシーンにレナード・コーエンの「ハレルヤ」を流すセンスの悪さ、どーにかしろと。センスがないのではなく、センスが悪い。冒頭のあんなシーンでナット・キング・コールを流した時点でまずいとは思ったが、やはりセンスの悪いやつはどこまでいってもセンスが悪い。音楽も映像も、センスが悪い。 ヒーローはある一定の社会の秩序を整えるもので、世界の平和を整えられるわけがない。(そもそも、特にアメコミのヒーローなんて愛国右翼の塊みたいなもんで)もしそうなってしまえばただのファシズムに過ぎないだろう。この映画はだからその選択をあえてせずほっぽり投げている。それはわかる。だが、最後の新聞社だかにいくまえのグラウンド・ゼロを思わせるショットとか、戦争とか平和とか核兵器とかリベラルとか共産主義とか悪とか正義とかどーでもいいから、まず今のアメリカ社会を見てから映画を作れ。こんな映画、世界どころかアメリカでも必要としてないだろ。 映像化することだけに意固地になり過ぎた、完全時代錯誤な駄目映画。[映画館(字幕)] 1点(2009-04-12 23:56:48)(笑:1票) (良:2票) 《改行有》

14.  007/慰めの報酬 《ネタバレ》 ただ見せるということにのみ重きを置き、物語ることなどほぼ放棄し、しかしながら展開は着実に前進していくわけで、それをこれだけ詰め込んで100分弱というのは立派だ。ただほぼ説明らしい説明を廃し、兎に角詰め込んだ結果、マチュー・アマルリック演じるドミニク・グリーンがどんな人物なのかということがあまり明瞭ではなく、まこんなもんでもいいかとも思えるが、足りないといえば足りないだろう。ただ正義と悪の対立という構図のみに固執し過ぎるアクション映画の時代は過ぎ去ったのだとも言える。 007本来の華麗さなどは捨て、無骨な復讐の鬼となり、ひたすら乾いた接近戦を繰り返すダニエル・クレイグ演じるジェームズ・ボンドというのは、それはそれでいいのだと思える。そんな無骨さと対象的に洗練されきった美術とローケーションが、逆にその無骨さを際立たせている。007シリーズのみならず正義と悪の対立を描いたアクション映画のひとつの型としてあるのが、最後に敵のアジトに乗り込んでいき大爆発という展開、もちろんこの映画でもそうなのだが、それを仰々しく描いていないところに好感が持てる。それはホテルのセットのうまさ、洗練さにもあるだろうし、これはあくまで復讐劇なんだと。そんなホテルのシーン、特筆すべきは音響だ。爆発音と編集がまるでアンサンブル演奏のごとく調和がとれていている。そういった意味ではアクションシーンの見せ方もうまい。全くハイスピード撮影を使わず、CG処理などは最小限にし、リズムで繋いでいく。対話はカットバックでわかりやすい。 また炎の中オルガ・キュリレンコ演じるカミーユが膝を抱え、そこにボンドが飛び込んでいき抱きしめるところなどは、前作「カジノ・ロワイヤル」での ヴェスパーとのシャワールームでのシーンを思い起こさせる構図となっているように思える。ボンドの位置が左と右で逆であることが、その女性を救えるか救えないかという表象的意図があるかどうかはさておき。 とりあえず今作は復讐という大前提があるので、ジェームズ・ボンド本来のスパイらしさなど皆無、悪の一団を潰すということすらぼやけがちだったものの、やはり映画は復讐劇がいいなあと思いながら楽しめた。 多くを説明せず見せる映画とした今作のラストショットはなかなかのものだと思える。そして前作との繋がりを意識して敢えてラストに持ってきたガンバレルというのもなかなか憎い。[映画館(字幕)] 5点(2009-03-09 18:13:07)《改行有》

15.  007/カジノ・ロワイヤル(2006) 《ネタバレ》 やはり人が本気走っているのは見ていて凄く気持がいい。だから007シリーズで走っている様を映そうとする気がある場合は本当にかっこいい。とにかくピアース・ブロスナンの走る様というのは半端がないほどにカッコイイ。それをダニエル・クレイグがどう受け継いでいるかというのが一番気になるところだった。いや、いいですね。いい走りをしている。そしていい体をしている。ショーン・コネリーもなかなかの胸板をしていたが、ダニエル・クレイグも負けてはいない。 それにしてもこの映画のアクションシーン、つまり始まって間もなくの爆弾魔の追跡や、空港や、車の派手な横転、これらはこの物語とほとんど関係がない。唐突だ。いや、関係がないわけではないが、本筋ではなく、そこから派生し、枝分かれしたところで起こっている出来事、副産物でしかない。とりあえず枝の先のほうをアクションで描いてしっかり本筋に戻るという繰返しだ。だから正直このアクションシーンを記憶に留めて置くことは難しくなるだろう。あったという事実だけで、無くても良かったという苦笑と吊り合ってしまうのだ。だがそれが良い。つまりこの映画はあくまで007になるまでのボンドの純愛映画であり、そしてそれをも冷酷な顔で撃ち抜いてしまうボンドの冷酷映画なのだから。つまりピアース・ブロスナンがやり続けたただのアクション映画ではないのだから。だからそれでいい。だからこそ本来かかるべきところでかからずに、溜めに溜めて、最後の最後に劇場内に響き渡る、007のテーマのメロディーの流麗さに心が躍るのだ。ああここからダニエル・クレイグのジェームズ・ボンド、007が始まるのだと。[映画館(字幕)] 6点(2009-02-06 23:57:20)(良:1票) 《改行有》

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