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【製作国 : 台湾 抽出】 >> 製作国別レビュー統計
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1.  青春神話 《ネタバレ》 蔡明亮の処女作にあたる本作にはまだどこか不完全でごつごつとした手触りが残っている。だがその原石めいた無骨な感触こそが強烈に本作を青春映画たらしめてもいる。窃盗目的で破壊される公衆電話からはじまり、受け手不在のまま鳴り響くテレクラの電話で終わるこの映画が、所謂“コミュニケーション不全”を描いているのは明白だろう。蔡明亮は、若者たちが内に抱える不全感を心象として強くふちどることで、都市生活のざらついた不毛をくっきりと炙りだしていく。コンパスで刺しても死なないゴキブリの強靭さにたじろぎ、苛立ちにまかせてガラス窓を突き破る予備校生・小康。心配を見せる母親と叱責する父親双方に等しく向けられる敵意と拒絶。あるいは公営アパートに住む不良少年・阿澤もそうだ。意図せぬ4階で決まって一時停止するエレベーターにも、排水孔から逆流し部屋を浸食する大量の下水にも、他人のように暮らす兄にも、彼は一切動じない。彼にとってそれらは日常なのだ。機能を失った排水孔のように決して疎通することのない彼の意思。だが少女阿桂との出会いによって、塞がれていたはずの排水孔はゆっくりとその機能を取り戻す。澱んだ水は一滴のこらず阿澤の部屋から流れ落ち、水は大量の雨となり、今度は小康めがけて降りそそぐ。土砂降りの中、何かに反撃するかのように小康が振り下ろすのは、鬱屈した勉強部屋でゴキブリを刺し貫いた件のコンパスだ。羨望とも、嫉妬とも、復讐とも、憧憬とも、恋慕ともつかぬ、その衝動。そうして無残に破壊されたオートバイを黙々と押し歩く阿澤に、ここに至り、ついに声をかける小康。けれど阿澤の眼中に小康が捉えられることは最後までない。それは彼がはじめて自ら他者に歩みより働きかける一瞬であり、そしてそれが即座にこの他者によって打ち砕かれる瞬間でもある。その残酷と痛みが胸を抉る。翼をもぐことでようやく対等になり得たはずの相手=阿澤からの強烈な拒絶の一撃に呆然と立ちすくす小康。家を追われテレクラの個室へと辿り着いた彼が無感動に眺めるのはヒステリックに鳴り響く電話器だ。狂ったように疎通を希求し誰彼かまわず、けれど特定の誰宛でもなく虚しく鳴り続けるその呼出音を背に、彼はどこへ向かうのか。分厚く垂れ込める雲はいまだ突破口を見せず、出口を失った小康は気づかぬままだ。それでも、閉ざされていたはずの扉はほんの少し開かれ、静かに彼の帰りを待っている。[DVD(字幕なし「原語」)] 10点(2013-05-25 23:41:07)

2.  エドワード・ヤンの恋愛時代 《ネタバレ》 楊徳昌は、4時間にも及んだ前作『牯嶺街少年殺人事件』に匹敵するほど複雑に相関する登場人物を、このたかだか127分の中に無造作に配置し、配置された彼らはのべつまくなし饒舌にまくしたて、そのややこしく入り組んだ人間関係に言及する。説明描写の一切を放棄したまま、彼らの夥しい会話=情報だけがひたすらぎっしりと詰め込まれていく様は圧巻だ。だが、膨大な台詞を膨大な字幕で追いかけなければならない我々外国人にとっては、もはやお手上げである。『牯嶺街』でその名を世界に轟かせながら、続く本作がカンヌに出品されつつ無冠に終わったのは無理もない。(台詞を極端なまでに排した蔡明亮の『愛情萬歳』が、同年のベネチアでグランプリを獲得したのは皮肉な話だ。)この映画を初見で完全に理解することは、ほぼ不可能だからだ。だが二度観なければ理解できないとすれば、その映画ははたして映画失格だろうか?おそらく映画祭の審査員にとってはそうだ。多くの一般の観客にとってもそうだろう。しかし私にとっては違う。過剰にして饒舌なこの映画には、けれど恐ろしいほどに一切の無駄がないのだ。その映画的ボルテージは傑作『牯嶺街』にすら引けをとらない。そしてそれを今度は他愛のないラブコメの枠組みでやってのけたのだから、やはり楊徳昌は恐るべき天才だ。孔子の論語の引用から物語りはじめる小賢しく皮肉屋の楊徳昌だが、本作において彼が最後の最後に見据えるのは、物質社会に翻弄され困惑する儒者の末裔=現代人が、それでもひたすらに誠実であろうとするその有り様だ。打算や虚栄が前提の世界だからこそ八方美人と揶揄されるチチ。親友モーリーとの友情にも亀裂が入り、「用もないのに来られたら目障りだわ」となじるこの友人に対して彼女が出す答え。「会いたかったの。あなたもでしょ?」それは途轍もなくシンプルで美しい、ありのままの感情だ。そしてラストシーン。去りゆく相手をそれでも想って一度閉じたエレベーターを開くこと、あるいは去りゆく相手をそれでも想ってエレベーターの前に舞い戻ること。扉が開き、そうして目の前に現れるのは、あまたのラブコメにおける御都合主義的ハッピーエンドとは決定的に違う、必然の邂逅だ。楊徳昌は言う、これこそが真実なのだと。心のままに向かいあった「もう片方」を、彼らは心のままに、力いっぱい抱きしめる。いつかではなく、そう、今すぐに。[DVD(字幕)] 10点(2013-05-02 21:00:54)(良:1票)

3.  恋恋風塵 《ネタバレ》 少女の名が雲(ユン)であることはとても重要な隠喩だ。カメラは頻繁に上空を流れる雲を捉える。時にゆっくりと時に急速に、形を変え流れていく雲。さらに候孝賢は全編に渡り幾度となくこの「雲」を連想させるさまざまな装置を散りばめ、そしてくり返す。開巻劈頭からしてそうだ。トンネルを抜けた列車が走る鮮やかな緑の木々は、心なしか微かな靄につつまれている。少年遠(ワン)の乗るオートバイが別れを告げた印刷工場の玄関口に残す排気煙もそうだろう。たばこの紫煙や、線香や冥銭を燃やす煙、畑の野火に至るまで、それらは「雲」の変奏たる風塵として画面に刻まれていく。なかでもいちばん強く印象をのこすのは、兵役に就くため駅へと向かう少年のかたわらで彼の祖父が淡々と鳴らしつづける爆竹だろう。爆竹からたちのぼり、しばし漂い、そしてあっけなく消えていく白煙の儚さは、背景の美しい田舎道の光景とあいまって強烈に胸に沁みる。少女が働く仕立て屋の隣りの建物が家事になるという不穏な煙の挿話もまた、雲の暗喩の一つといえるだろう。やがてカメラは再び上空の雲を捉える。少年が軍務に服する金門の林の梢を一面蔽う、その雲だ。少女の結婚を知り慟哭する少年をじっと見据えたのちに映し出されるこの雲は、それまで描かれてきたそれらとは明らかに違う様相を呈している。それはあたかも永遠に時を止めたかのように、重苦しくそこに停滞している。だが真に驚くのは次の瞬間だ。この不動の雲を捉えたカメラはやがて、カメラのほうが、横滑りに動いていくのだ。悲しみと悔恨で一処に滞り続ける彼の痛みを、まるでそっと押し流すように。単なる横移動に過ぎないこのオーソドックスなカメラワークに、けれど私ははっきりと映画の奇跡を見た。ラスト、分厚い雲間から洩れる陽光が山あいをゆっくりと移動しながら照らしていく。再び流れはじめたその雲と同じ速度で。[ブルーレイ(字幕)] 9点(2013-04-28 01:18:28)

4.  楽日 《ネタバレ》 多くの映画が2時間で主人公の一生を描ききるように、時間の跳躍は映画の醍醐味である。観客は我を忘れ小気味良いこの跳躍に酔いしれる。一方、長回しはこの小気味良さから我々を現実的な時間軸に引き戻し覚醒させる技法である。ではそうした長回しを用いて映画を撮ることの意味とは一体何だろう。その一つの答えを蔡明亮は本作で提示している。カットを割ることなくカメラが空間を捉え続ける時、それを観る我々の時間は自ずとスクリーン上に描かれるその時間と同調し、ぴたりと重なりあい同じ秒を刻む。そのとき私たちは画面に映し出される映画と、時間をそして空間を、共有する。恰もその場に居合わせたかのようにその瞬間を「体験」するのだ。本作でも多用される固定カメラによるワンシーンワンカットの長回しには、映し出される被写体の動きや変化が不可欠となる。フィックスの構図で何ひとつ変化のない光景を映せば静止画と判別がつかない。だからこそ、下心を秘め彷徨する男たちや、しどけない年増女の怠惰な蠢きですら、この空間に息を吹き込む生命となる。びっこを引きずり通路や階段をのろのろと行く女従業員の陰気な歩みも、画面の奥でひたすらに窓を打つ激しい雨垂れもだ。あるいは映写技師不在の映写室で彼の残したタバコの吸いさしから立ち昇る幽かな紫煙のゆらぎ、それだけでもいいだろう。映画を映画たらしめるそのささやかな動きすら失った時、映画は死ぬ。だが驚くべきことに蔡明亮はそれを実行する。かつて栄華を極めながらも楽日を迎えた映画館。最後の上映を終えライトに照らし出された夥しい客席を、先述の女従業員がのそのそと横断しやがてフレームアウトする。一切の動きを無くした巨大な空間は、無音の静止画となり、ただそこに横たわる。映画が映画としての機能を停止する(=死ぬ)この数分間にも及ぶ「静止画」に込められる万感の思い。主を失い時を止め今まさに息絶えた映画館に、カメラはただただじっと寄り添い続けるのだ。まるで最後のその別れを惜しむように。そうして蔡明亮は、映画の死を以て映画館の死を悼む。土砂降りの中をバイクで去っていく映写技師を見送り、女従業員もまた違う方角へと歩いていく。彼女は気づいただろうか。男がバイクに跨るほんの一瞬ヘッドライトが照らし出した緑色の炊飯器を。その中には彼女が半分残した巨大な桃饅頭(まるで哀悼の意を表す葬式饅頭のようでもある。)が息をひそめている。[DVD(字幕)] 10点(2013-03-09 17:48:50)

5.  海角七号/君想う、国境の南 《ネタバレ》 かつて台灣は日本であった。個人的に大日本帝國の植民地政策を肯定するつもりはさらさらない。しかし日本統治期を生きた台灣人の夠くは、それでもかつて自らが「日本人」であった過去を愛おしみ、また懐かしむという。日本が第二次世界大戰に敗れ、台灣が中國國民党に委ねられた時、彼らは思ったに違いない。なぜ私たちを見棄てて行ってしまうのかと。あなたたちと同じように、私たちもまた日本人ではなかったのかと。『海角七號」が描くのは、まさに日本人が台灣を去ったその日に書かれた七通のラブレターである。手紙を書いた若き日本人教師とその宛先たる女学生は、かつての日本と台灣の姿そのものだ。手紙は語る。「君には解るはず。君を棄てたのではなく、泣く泣く手放したということを。みんなが寝ている甲板で、低く何度もくり返す。棄てたのではなく、泣く泣く手放したのだと。」引き出しの隅に隠され決して投函されることのなかったその戀文を、「海角七號」に住むうら若き「小島友子」はどれほどの想いで願い、そして待ち望んだことだろう。楊徳昌や侯孝賢らの名を持ち出すまでもなく、台灣映画のレベルはとても高い。その意味では、本作の出来はお世辞にも良いとは言い難い。冗長で野暮ったく、粗だらけですらある。だがこの映画には、多くの台灣人の想いを代弁する“心”が宿っている。台灣では、映画館に足を運んだ日本統治期世代の老人たちが劇中幾度も挿入される日本語の唱歌「野ばら」を合唱し、おそらく心のどこかで待ち望んできたであろう件の聲にそっと涙したと聞く。だが台灣映画の歴代興収を塗り替えるほどの大ヒットとなった本作が、日本で大きな話題になることはついになかった。日本人から台灣人へのラブレターを描いた『海角七號』は、その実、台灣人が日本人に宛てた切なる戀文なのだろう。だが日本人はまだ、引き出しの隅に大切な手紙を仕舞い込んだままだ。[DVD(字幕)] 7点(2012-01-24 15:46:59)

6.  牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件(188分版) 《ネタバレ》 映画とは暗闇の中で光を映写することだ。しかし『クーリンチェ少年殺人事件』は光よりもまず先に闇に重点を置く。それは、あまたの映画で見受けられる闇として描かれた光ではなく、視覚的情報を遮断するまでの真実の闇だ。暗闇の中に映し出される暗闇。そんな完き闇の中だからこそ、少年の持つ懐中電灯の光源だけが弱々しくけれどはっきりと、浮き上がる。この映画を映画館で観ることができないのは本当に不幸なことだ。楊徳昌監督は、あまりに不確かなこの世界の輪郭をそれでも不遜になぞろうとするのではなく、まぎれもなくそこにある空気そのものをありのままに写し撮ることで、世界を描こうとする。そのスタンスは、ヒロインとして登場する少女の描写にも適用されている。彼女がどんな少女で何を考えているのか、映画は一切の説明を加えない。登場人物によって語られる彼女に関する曖昧な情報だけが時に錯綜はしても、その真偽を確かめる手だては一切ない。少女は、不確かな世界同様に不確かなままそこに立ち、少年をただ見つめ返す。そこには、この不確かな世界を生きることの不安が常に漂っている。ブラスバンドの演奏の中で少年は少女に愛を宣言する。音楽にかき消されぬよう彼が声を強めた次の瞬間、響き渡っていた楽器の演奏がはたと止む。「きみを守る!」その声は、ふいにおとずれた静寂に一直線に放たれ、悲痛な叫びとなって世界にこだまする。けれどその切実な叫びは、彼女に届きようがない。「私はこの世界と同じ。だれにも変えることなんかできない。」少年は少女のその言葉に抗い反撃するかのように、憎むべき世界にナイフを突き立てるのだ。この世界は絶望に覆われている。それは60年代の台湾に限ったことではないだろう。少年は絶望の中で世界と対決すべくひたすら藻掻き、少女は絶望への抵抗を断念することで世界と折り合いをつけ、それぞれがそれぞれのやり方で生き延びようとする。どちらが正しいわけでも間違っているわけでもない。それは彼らにとってどちらも等しく、のっぴきならないこの現実を生きぬくための手段なのである。母を雇う金持ちの家の少年に身をゆだねる少女は、穢く汚れているのだろうか。決してそうではない。そこには絶望があるだけだ。そんな彼らの魂は、本当は限りなく等しい。だからこそ少年がナイフを片手に立ちつくし、少女が崩れ落ちる時、我々はこの世界の、暗闇の、絶望の、その深さを思い知るのだ。[レーザーディスク(字幕)] 10点(2009-08-29 11:01:49)

7.  花蓮の夏 《ネタバレ》 おさななじみの少年2人、康正行と余守恆のあいだに、ある日、転校生の少女慧嘉が現れる。そのことにより生じる少年たちの関係性のゆらぎ、それがこの映画の主題である。しかし、群像劇でありつつも物語が正行の抱える秘密(守恆への恋)に沿って綴られていくため、正行のせつない心情や、それを知り板挟みとなる慧嘉の苦悩は痛いほど繊細に伝わる反面、終盤まで一貫して無邪気で単細胞であるがゆえ鈍感な守恆の描写には漠然とした違和感がつきまとう。クライマックスで彼がとる「行動」などは、美しくも都合のいいファンタジーのようにすら見えてしまう。けれどそんな守恆がラストシーンで、映画のもう一つの核となる彼の側の秘密を吐露するに至る時、それまでずっと不自然に浮き上がって見えていた彼の言動のその一つ一つが、まるでジグソーパズルのピースのようにピタリと空白に嵌っていく。朝の出迎えのうるさいくらいの熱烈さ。いつでも正行の姿を探しているその姿。正行を見失うと途端に不安でたまらないその表情。恋人にたいするような幼いやきもち。そして事故の夜の「行動」すらも。二者択一のクイズは彼の耳に届いていたのだろうか。だとすればどんな思いで彼は聞こえないふりをしたのだろうか。 「康正行、お前は俺のいちばんの親友だ!」 恋も友情も区別のなかった子どもの頃の宣言とまったく同じ言葉で、大好きな気持ちをただただ告げるしかできない守恆。その言葉に滂沱し立ち尽くすしかできない正行。そのあまりに唐突な幕切れはそのまま冒頭へとつながり、同じ場面が今度は守恆の秘密に寄り添うように隠されてきた彼の痛みを一から語りだす。 若書きゆえの稚拙さは否めないものの、これほどまっすぐ胸を貫く映画はそうはない。 [DVD(字幕)] 9点(2009-07-20 06:42:38)《改行有》

8.  藍色夏恋 《ネタバレ》  時代は現代なのにどこか懐かしい台北の町並み。その町の風景に溶け込むように描かれる清く正しい少年少女。傷つき悩みながらもまっすぐな彼らの姿からは、襟を正して生きることの大切さが真摯に伝わってくる。おそらく自分が女の子にモテることを知っているのであろう少年の不敵で屈託のない笑顔。その自信とうらはらのほほえましい悩みと純情。そして頑なな潔癖さと負けん気でそんな少年を突き放そうとする少女。この二人が、なりゆきで校舎の中庭の床に貼られたラブレターを足で蹴ってはがそうとするシーンが面白い。躍起になって互いの足を蹴っ飛ばしているようにも、それでいて二人楽しそうに軽やかにステップを踏んでいるようにも、見える。さらに後半で対比的に描かれる、もう一人の少女が恋の遺品焼却を思い直して火を消そうとする場面の、ひとりぼっちで踊るためらいと嘆きのステップもいい。彼らの足の生き生きとしたその躍動が、青春のジタバタを文字どおり体現していて見事だ。あるいは夜の体育館で二人が衝突するシーンでは、体当たりでぶつかりあう二人を表情が判然としない距離から延々と長回しで写し、彼らが体全体から思いをほとばしらせ格闘する様をまるごと切り取るように描き出す。風をうけて走る自転車の心地よさ、夜のプールや体育館のその秘密めいた緊張感、だれかとならんで眺める校庭と青空、だれかを好きになる気持ち、片思いの胸の痛み、だれにも言えない思いをこめたそれぞれの壁の落書き、そして夏の匂い。そんな青春映画的ガジェットの過剰さが良くも悪くもこの映画の持ち味なのだが、その反面、易智言監督の描写は意外なほどに簡潔で無駄がなく、そして的確だ。少女が少年に告白するある秘密。それが本当なのかあるいはうそなのか、最後まで答えはわからない。それは彼女自身にもまだわからない答えなのだろう。この映画はとってつけた説明や答えなど、一切提示したりはしない。そうして描かれるのはただシンプルに、彼らがその夏を共にしたということ、真正面からぶつかりあい、認めあい、そして最後に笑いあえたということ、それだけだ。その潔さがとてもいい。ならんで自転車に乗る二人。友だちでも恋人でもなく、けれどその夏を懸命に生きたかけがえのない同志として、それぞれの足で未来へとペダルを漕いでいく彼らの姿は、力強く、美しく、まぶしいばかりだ。[映画館(字幕)] 10点(2009-07-20 00:03:32)(良:2票)

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