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【製作国 : フィンランド 抽出】 >> 製作国別レビュー統計
1. コンパートメントNo.6 《ネタバレ》 寝台列車でモスクワからムルマンスクへ行く映画で、列車内外の冬の風景やムルマンスクの都市景観らしいものも見える。映画評では「世界の見方が変わるような映画」と言われていたが個人的には何も変わらなかった。 原作付きの映画だそうだが、短縮のためか説明不足になっている気がする。主人公には特に共感できないので同室の男に関していえば、最初は粗野なだけに見えて実はけっこう愛嬌のある奴だったが、精神年齢的にはガキのようでもある。これはここの国民がこれで普通というよりも、この男個人として人格形成の過程に特殊事情があったのではと思わせる。しかし男の出自をはっきり示すものはなかったようで、ペトロザヴォーツクのガガーリンは何だったのか、住所交換を嫌うのはなぜかといったことが不明点として残る。 ただ少なくとも食堂車から戻ってからの主人公は男にとっての母親のようで、その後の行動はいわば愛する母への献身なのかと思った。いわば不良少年と母親の関係とすれば男女のラブストーリーではなかったことになる。男が言った「みんな死ねばいい」は絶望の表現だろうが(ガキっぽいが)、その心は主人公も共有できていたかも知れない。ラストで車内に陽がさして来たのは悪くなかった。 点数は普通につければ無難に5点くらいだろうが、製作国4つの中に個人的に嫌悪する国が入っているので採点放棄で0点とする。映画に罪はないだろうが感情問題ということで。 ついでに書くと自己紹介で名前を言われたのにアロハと答える奴の無神経さを憎む。隣国であるのにЛёхаが人名ということも知らないのか。[インターネット(字幕)] 0点(2023-12-30 16:45:47)《改行有》 2. ラスト・ディール 美術商と名前を失くした肖像 《ネタバレ》 この監督の映画は3作目になる。美術商の映画としては、ほかに邦画の「嘘八百」(2017)と「文福茶釜」(2018)を見たことがあるが(両方とも関西の話)、それほどの殺伐感はこの映画にはない。ネット上のレビューを見ても評判のいい映画のようだったが、個人的には残念ながら同じように感じられなかった。 まず、老人と孫が出るからには世代間継承がテーマかとは思ったが、自分としてはその孫が全く信用できなかった。才覚があって行動力もあってモバイル機器が使えるにしても、それだけでは日本でいう転売ヤーのようになるだけではないか。このガキに後を任せたところで、うまくやれば1千万円台で売れる資産をゲットしたとしか思わないだろうが。 また、せっかくキリスト教の救世主が真顔で何か言いたげな様子を見せておきながら、「個人よりも全体」という言葉が結末に生かされないのは落胆した。自分のためより家族(子孫)のためというだけでは、富を一族で独占しようとする富豪や権力者と同じではないか。美術商という前提はあったにせよ、私利私欲を越えた公の価値が美術品にあるという認識に最後まで至らなかったのは非常に残念だ。 要は、例えば公共の美術館に匿名で寄付すればよかったわけで、店じまいを機に主人公が商売人の立場を捨てて、優れた芸術作品を公共の財産にしたというなら最後の仕事にふさわしい。それが主人公最後の自己変革となり、またその姿を見せれば孫の人格向上にも役立ったはずだが、そのようにできないのが商売人の性という意味なのか、あるいはそもそもフィンランドには公の観念がないということなのか。 ほか個別の点として、終盤の殴り込みはやりすぎだ。また死去は唐突だったが、「ヤコブへの手紙」(2009)ほどの必然性は感じられなかった。 [2021/2/20変更] この監督の映画だから、この国の映画だから誠意をもって見なければ、と思っていたのが馬鹿らしくなってきたのでやめにした。半端な感動を提供する薄っぺらいドラマだというのが正直な感想だったと書いておく。あるいは女性を苦しめる時代錯誤の老人はさっさと世を去れというメッセージとすれば文句はいえない。何にせよ点数は落とす。[DVD(字幕)] 3点(2020-10-31 08:55:07)《改行有》 3. アイロ 北欧ラップランドの小さなトナカイ 《ネタバレ》 トナカイ映画である。場所はラップランドだが、国としてはフィンランドのほかノルウェーも出ていたようで(フィヨルドが見える)、季節によって国境を跨ぐ移動だったらしい。トナカイのほかにも周囲に住む各種の動物を見せている。 ポスタービジュアルが安っぽく見えるので期待していなかったが、本編は映像が圧倒的に美しい。四季の自然景観は当然として、特に生き物の動態が印象的に撮られている。トナカイの群れが歩くのと並行して撮った場面は、個人的には船団に付き添って飛ぶ航空機からの映像のように感じられた。またオオカミが走る場面は、低空で侵入する軍用機の編隊のようで恐ろしげに見えた。なお日本には野生のオオカミがいないわけなので、代わりに自分としては「もののけ姫」(1997)を思い出した(牙を見せていた)。 制作にあたっては、一年くらいかけて現地の野生動物を撮りまくってから切り貼りしたのだろうと思うが、細切れの映像をつないで動物の表情を出しているのは巧妙な編集に見えた。なお主人公の若いトナカイが最初から最後まで同じ個体だったかはわからない。 ナレーションを入れてドラマのようのものを作るのは、あまり人の感情に寄せるとウソっぽくなって見ていられなくなるが、この映画では他の動物との友情関係などは少しやり過ぎに見えたものの、動物の生態に沿った部分はそれほど違和感がない。ホッキョクギツネの若いオスがずっと配偶者が得られず焦っていたのは、個体数が減っていることの反映のようだった。 オオカミ以外に危ない相手だったのはクズリという奴で、木の上から獲物を狙うのは本来の習性らしい。悪役らしく邪悪な顔をしてみせる場面もあったが(こっちを見ていた)、直後にユーモラスな行動をしたりして、特定の動物を悪者にしない配慮をみせていた。ちなみにクズリは和名だが英名は「ウルヴァリン」のようで、手(前足)に生えている爪も見えた。 ほかレミングが2回くらい出ていたが、擬人化もされず単なる食い物扱いなのは哀れだった。また人間は姿が見えなかったが(そもそも人口希薄だろうが)その存在が若干の圧迫感を出しており、森林伐採?の場面では、機械の全貌が見えずに火星人が攻めて来たような印象を出していた。こういうのもうまく作っている。[インターネット(字幕)] 6点(2020-10-31 08:55:05)《改行有》 4. オリ・マキの人生で最も幸せな日 《ネタバレ》 オリ・マキという言葉は人名には見えないが、「オッリ」と書けばフィンランド人風であり、実際に皆さんオッリと発音している。またマキはカウリスマキのマキである。個人的に知らなかったが実在のボクサーとのことで、劇中の試合後も実績を出して名を残しており、コッコラのパン屋(Kokkolan leipuri)というのも本当のニックネームらしい。 今どき白黒映画だったのは意味不明だが、そのせいか登場人物の顔が印象的な映画になっている。また子どもらの演出がけっこう面白かった(激突!)。ほか思ったのは、フィンランド人にとってはサウナが最強の減量方法らしいことである。湖のほとりに小屋を建てるのが本来の形と思われる。 劇中の試合が当時どれほど期待を集めたかはわからないが、この映画では国威発揚というよりビジネスの面が強調されている。記録映画とか長身モデルとかスポンサーの機嫌取りとかで本来のペースを乱されるのが問題なのかと思っていたが、そこで唐突に「恋をしてる」というのが前面に出たので何だこれはと思ってしまう。 彼女とは最初からそれなりの関係ができていたようなので、今はとりあえず試合に集中すればいいだろうがこのバカがと思ったが、どうやら主人公としては絶対譲れない優先順位があったらしい。一番大事なことをまず押さえ、次に周囲の環境を整えて準備に注力し、その上で当日やることをやれば負けて悔いても悪びれないようで、試合後の撮影場面で見せたのが本来の顔ということらしかった。打ちのめされたのは興行主であって主人公ではないということだ。 なお凧の場面は、集中状態での適度な息抜き方法を心得ていたということか、あるいはプロポーズの結果を受けた喜びが少しはみ出してしまったのか。 人物について、主人公役と婚約者役は本物と同じボスニア湾岸のコッコラ市出身の役者らしいが、それが最優先のキャスティングとも思えない。主人公は低身長で衒いのない人柄で嫌味がなく、また婚約者も痩身美形ではないが愛嬌があって人柄が顔に出ている。終盤のバスの場面では、この人物が主人公を全肯定して根底を支える存在であり、主人公が現場を抜け出したのも、そうすることにそれだけの価値があったことを納得させられた。ちなみにエンドクレジットには「Old happy couple in harbor/Olli and Raija Mäki」と書いてあった。 物語として面白いともいえないが、結果的にじわっと来るタイプの映画だった(かなり来た)。正直主人公が羨ましい。[インターネット(字幕)] 8点(2020-10-31 08:55:02)《改行有》 5. ファブリックの女王 《ネタバレ》 独創的なデザインのファッション製品・バッグ・インテリア・雑貨類を世界に提供するフィンランド企業「マリメッコ」の創業者であるアルミ・ラティア(1912-1979)の映画である。邦題の「ファブリック」とは会社の原点になった布を意味しているようで、今も商品ラインナップに載っている(テキスタイルとはニュアンスが違うらしい)。なお個人的には衣類には縁がないが、ウニッコ(Unikko)柄のマグカップが一個だけある。 ちなみに創業者の死去後、経営が悪化していた会社を1991年に買収して再建したキルスティ・パーッカネンという人物のTVドキュメンタリー「マリメッコの奇跡」というのも見たことがある。この人物も創業者を評価し、その方針を引き継ごうとしたとのことだった。 マリメッコの映画であるからには、鮮やかな色彩感で見せる映像(ポピーのお花畑イメージ)が豊富かと思えばそうでもない。また監督インタビューによれば「お決まりの伝記的な形にはしたくはなかった」そうで、この人物を語る際に必ず出そうなケネディ大統領夫人の話などは出て来ない。 それより基本的には人格の表現に重点が置かれていたらしい。DVD特典のTVドキュメンタリーでは本人の理性的な面が見えており、有無を言わさず周囲を引っ張る豪傑のような印象もあったが、しかしこの映画ではどちらかというと、監督の言っていた「非理性的なところ」や人間的な弱味が強調されていたようである。 また当然ながら、男社会で苦闘する女性への共感も制作の動機だと監督は語っていた。ちなみに監督は主人公の元友人で、マリメッコの役員を務めたこともあるそうである。 映画の作りとしては、主人公を扱った演劇の稽古の場面を映画にした劇中劇の形になっている。その理由としては、主人公のいた世界をまともに再現しようとするよりも、舞台装置の形にした方が安価でシンプルかつ芸術的に表現できるからか。また演出家との会話で役者の迷いが語られていたりするのは、一人の人間の本質に迫ること自体の難しさが表現されていたようでもある。映画化にあたってまとめ切れていないというよりは、それが人間というものの実態だということかも知れない。 以上のようなことで、評価すべき点はあるだろうが娯楽性は高くない。個人的には大変よかったともいえないが、個別の場面としてはアメリカで、主人公の側近が舞台裏から覗いていたのが面白かった。変人風だが重要人物だったらしい。[DVD(字幕)] 6点(2020-08-01 08:49:50)《改行有》 6. 365日のシンプルライフ 《ネタバレ》 自伝というかドキュメンタリー調のようだが、積雪のある時期にわざわざ全裸で倉庫へ走るなどはいかにも作為的である(前日は倉庫から全裸で帰ったということか)。全体的にストーリー性が弱いので退屈に耐えながら見たが、最後には少し和ませる仕掛けがなくもなかった(祖母に似た感じだったような)。男連中の顔などは見なくていいが、上から目線の従弟のど素人っぽい顔には笑った。また風景映像の印象は悪くなく、背景音楽の北欧ジャズもいい雰囲気だった。 実験の内容に関しては、日本でいう高度成長期でもなかろうに、モノがあるほど幸せと思う人間など今どきどれだけいるかと思うわけで、前提からしてちょっと違うのではと思わせるものはある。そもそも実験を始めたきっかけがそれなら結局どうすればいいかは最初から見えており、弟や友人などの好意もさんざん当てにしておいて、結局何が一番大事なのかというのもありきたりな結論というしかない。ただ公式サイトによれば、公開時には「多数の“実験”フォロワーが生まれ」たとのことで、別に主人公と同じ結論を得る必要はないわけなので、真似してみること自体はいいかも知れない。 個人的に真似する気はないが思ったこととしては、自分としては今あるものを全部捨てて家を空にしてから墓に入りたいという願望が昔からあるので、それが終活の大きな課題になることは改めて認識した。その一方で映画に関することでいえば、動画配信サービスなどで見て終わりにしておけばいいものを、形あるものとして手元に置きたくなってDVDなり何なりを買ってしまうということがある(最近の例では「地獄少女」)ので、そういう欲求を抑えるのが生きている間の課題かとは思った。 なお真似するにしても全裸になる必要まではないだろうが、ちなみにフィンランド人はサウナに入った後に全裸のまま外に出て湖に飛び込んだりする人々だそうで、全裸で走るのにも抵抗がなかった可能性はなくもない。以前にNOKIAの日本支社長が、社内のサウナに入ってから屋上で涼むのが周囲のビルから丸見えになるので日本人社員が困ったという話を読んだこともある。映画と関係ないが。[インターネット(字幕)] 5点(2020-08-01 08:49:48)《改行有》 7. アイアン・スカイ/第三帝国の逆襲 《ネタバレ》 シリーズ2作目になるが、今回もまたとりあえず作ってみた的なものができている。全編パロディで構成されているようなのが特色だろうが一生この作風で行くつもりなのか。 今回は宇宙戦争の場面は限定的で、代わりに地球空洞説とか恐竜とか実は全部が爬虫類型宇宙人のせいだったという趣向を盛り込んでいるが、映像的にはどこかで見たものを再現しているだけで新鮮味はない。物語としても、思い付きの設定をもとにして適当な流れを作っただけで、それ自体を面白がるほどのものにはなっていない(前回もそうだったかも知れない)。ちなみに前回のヒロインも出ていたはずだが、どこにいるのか最後までわからなかった…というか外部情報を見れば簡単にわかるわけだが、キャラクター性で記憶しているので役者が同じということ自体に意味はない。 前回と似た印象の場面として、人類史に破壊と堕落をもたらした古今東西の英雄が一堂に会する場面があり(夕飯かと思ったらその後に昼飯もあった)、チンギス・ハーンやKim Jong-Unといった偉人の姿も見えたが、アル中ケッコネンとかいう何だかわからないのを出すのは場違い感があった。有名人を茶化すだけで笑えると思うのは、精神年齢を低く抑えた制作姿勢が成功をもたらすとの確信があるらしい。 ラストの映像を見ると、次回は人工衛星スプートニクが破壊兵器として蘇って宇宙戦争を展開する映画と予想されるが全く期待しない。 ちなみにネット上の評価も割れていると思うが、どこまでも内輪受けを狙ったようなものにそのまま乗れる観客ならいいかも知れない。自分としては、前回は御祝儀っぽい感覚でそれなりの点を付けたが毎度同じことはできない。 そのほか、動物が可哀想な目に遭わされる場面が結構あったのはよろしくない。NOKIAもゾロトニクзолотник(4.266g)も面白くはなかったが、ルービックキューブの本当の意義が忘れられた世界というのは少し笑った。[インターネット(字幕)] 3点(2020-05-30 10:26:09)(良:1票) 《改行有》 8. オンネリとアンネリとひみつのさくせん 《ネタバレ》 シリーズ3作目になって子役がかなり大きくなってしまっている。小学生にしては体格がよすぎるが(特にオンネリ)、2004年生まれとすれば一応12歳だったらしい。 レギュラーの登場人物も少しずつ出ていて、ブタがかなりカラフルになってリボンがついたりしているのが目についた。庭でオカリナを吹く人物がいたのはいわゆる死亡フラグのようだったが、最後はハッピーエンドに決まっているので誰も心配していない。ほか今回、魔女姉妹の栽培していた植物はさすがに異様すぎる。 映像面では、今回は収容所が出る話なので、このシリーズにしては珍しく無彩色に近い場面もあったが一応は暖色系になっている。所長がいないと子どもらが勝手に動いているのが可笑しい。また小物ではネズミの動きがユーモラスで面白かった。 ドラマ的には何を読み取るべきかわからないが、まずはどんな人にもそれぞれふさわしい居場所があるという意味か。元警官も子どもらも、本来なすべき仕事のできる職場が実現したのはいい結末だった。所長などは異世界に追放されたかのようだったが、これでも一番幸せな居場所ということらしい。ちなみに映画の原題と英題は同じ意味だが、この所長にとってはUFOがMysterious Strangerだったのかも知れない。 またこの所長が自称していたjohtaja(リーダー)と、市長Kaupunginjohtaja(市のリーダー)を対比させることで、指導者というもののあり方を語っていた可能性もあるが不明瞭だった。この映画で見る限り、どうせ政治家など自分の見栄えのことしか気にしていないので、要は賢く使うことを考えろ、という変な知恵をつける感じだったがそういう理解でいいかどうか。 そのほか雑談として、所長が子どもらの髪を梳く場面があったので、これはまさかシラミを取っているのかと思ったら何とその通りだった。この映画の原作”Onneli, Anneli ja orpolapset”(オンネリとアンネリと孤児たち)が発表された1971年の時点でもシラミはさすがにいなかったのでは思うが、これは孤児だから不潔と決めつけられていたと解すべきか。この場面の「まちがいだった」は笑った(達者な子役だ)。 もう一つ、市長役の役者は西部のヴァーサ出身で父親がケニア人、母親がフィンランド人とのことで、見た目にかかわらずフィンランド生まれのフィンランド人ということらしい。実際こういう黒人市長というのもありえなくはないわけだが、もしかしてオバマ大統領のように初の黒人大統領を目指す野心家という設定だったのか。[ブルーレイ(字幕)] 7点(2020-05-30 10:26:06)(良:1票) 《改行有》 9. サマー・ヴェンデッタ 《ネタバレ》 森でキャンプをしていた若い男女が殺されていくタイプの映画である。一応は1960年にフィンランドで起こった「ボドム湖殺人事件」(未解決)を題材にしている。 実際の現場はそれほど人里離れた場所ではなく、首都ヘルシンキ近郊の行楽地のような場所らしいが、この映画では深い森の中ということになっている。映像的には湖水に面した岩塊のロケーションが印象的で、これこそフィンランドらしい景観と思ったが、実際の撮影地はエストニアだったという話もある。 時代に関しては、序盤で出た家庭の古臭さが昭和30年代の表現かと思っていると、実際はかなり年数が経った時点で事件を再現する形になっているのが後に判明する。ただし現代というよりは少し前の、携帯もカーナビもパワーウィンドウも?なかった時代と思うのが妥当ではないか。今でいえばリベンジポルノ(リベンジではないが)のような話題も出ていたが、ネット上の画像ではなく実物の写真のことだったと思われる。 登場人物4人が現場に行った動機としては「事件を再現して検証」するためだと説明されているが、そういう変な小理屈をいうよりも、日本でいえば若い連中が心霊スポットに行きたがるようなものと思えば簡単である。ただ実はそれほど単純でもなく、女子2人・男2人の共通目的とそれぞれ個別の思惑もあって結構複雑な状態になっている。 ストーリーの面では、実際の事件の真相に関する複数説を融合させたように見える。途中で意外な展開が2回あるが、1回目でどうなるかは何と予告編でネタバレしているので2回目が本番と思うしかない。しかし残念ながら1回目も2回目も真相がありきたりで驚きがなく現実味も感じられない。 どうも話の中身が軽く、またそもそもの事件も地元で有名なだけで、例えば津山三十人殺しほどのインパクトがあるわけでもない。映像面ではそれなりの映画に見えているので悪くはいえない気はするが、面白いともいえないので人には全く勧められない。 なお主人公の女子は地味な風貌に見えたが、実は意外に豊満な体型だったのがかなり目についた。ただしそれが目的で見るほどの映画ではなく、見れば途中で非常に気になるという程度のことである。これも無意味にエロいのではなく、厳格な父親との関係で意味があったのかも知れないがよくわからなかった。[DVD(字幕)] 3点(2020-05-23 09:27:29)《改行有》 10. バニー・ザ・キラー 《ネタバレ》 発情したウサギ男が人々に襲いかかる映画である。 こういう設定でホラーの怖さなど期待するはずもないわけだが、グロ場面も撮り方のせいか半端に見えるところがある。コメディとしても大笑いするものではなくエロい場面もほとんどないが、それよりこの映画の本質は下品ということであって、既存のジャンルに当てはめるより下品映画とか下劣映画とか下賤映画とかいうカテゴリーを作った方がいい。 登場人物の人種・国籍(言語)・性的嗜好は多様なようだが、これは要は現地(撮影地は北東部のかなり田舎)でも旧来の秩序が失われたということの表現か。ウサギ男が男女関係なく襲っていたのは尋常とはいえないが、そのことを含めて一般常識の枠組みからの逸脱なり解放を表現したキャラクターということかも知れない。 一方で、片時も休まず年中発情している点では便所に籠っていた若い男も同じことである。しかし誰でも構わないわけでは決してなく、ちゃんとそれなりに見える(一見これがヒロインかと思う)相手に御執心だったわけで、この男こそがいわば人としての基本路線を体現した存在ともいえる。エンディング後の場面では、この男だけが修羅の地を脱して楽園に到達できたような印象もあり、ここで救われた気がした現地の観客も多かっただろうと思っておく。 ちなみに微妙なことだが、もしかしてフィンランド人は自国民よりスウェーデン人を高級(上物)と思っているのか?? 若い男が最初に目をつけたのが英語を話す外国人で、最後に受け入れられた相手が先住民だった??らしいのも意味ありげだが(原点回帰?)、どこまで深読みしようとしていいのかわからない。 そのようなことで、個人的には史上最低最悪のフィンランド映画は何かを探る気分で見ていたが、このくらいだとまだ最低ではないと思われる。 なお笑える場面は多くなかったが、ノコギリから始めていきなりボウガンができてしまい、それでいきなり変なものを撃ったのは少し笑った。一般にいう動物に危害を加えていません的な愛護精神も踏みにじっている(※造形物のため実際に虐待してはいない)。 ほか可笑しくはないが共感できたのが「最高のオッパイ」で、ここは中国人と価値観が一致していた。この点はキャスティングの上でも最重要だったはずで、最終的にはこの本物のヒロインが少し好きになった。[インターネット(字幕)] 2点(2020-05-23 09:27:26)《改行有》 11. アンダー・ザ・ウォーター 《ネタバレ》 製作国として国名が3つ出ているが、映画の舞台はコペンハーゲンなのでデンマークの印象が強い。監督・脚本と主演俳優はデンマーク人、ほかにスウェーデン人やスウェーデン語話者のフィンランド人(エステルボッテン出身)も出ていたようである。 邦題はともかく原題の”QEDA”は一般に通用しない劇中用語のようで、「量子もつれ quantum entanglement」という科学用語を理解できる/しようとする人間も少数だろうから、これは製作側の独りよがりである。とても商業映画のタイトルとは思われないので、英題くらいにしておくのが妥当である。 全体的には北欧らしい作りということなのか、地味で不愛想な外見のためたまらなく眠くなり、字幕を見落として少し戻るということを何度も繰り返した。ただ同じ顔の人物(二役)が自然な感じで一緒に映っている場面があり、これが結構不思議ではあった。 映画のテーマとしては、一つは地球温暖化の問題と思われる。海水面の上昇でコペンハーゲンの街路がベネチアのようになっていたのは古典的な温暖化イメージだが、そのほか気候変動の表現として突然の嵐の場面もあった。塩分のために真水が失われて多くの生物種が絶滅し、人の健康も損なわれるというのは世界共通の一般論か不明だが(低地限定ではないか?)、2095年の男が2017年に来て、かつての世界がこれほど豊かで人の心も満たされていたと実感する場面は確かに現代人への警告になっている。ここは一般受けしやすい。 一方で時間ということに関しては、簡単に過去を変えてはならない、といったことを教訓めかして言っていた感じだが、そもそも人間というのは過去を変えられないので現実世界に向けたメッセージにはなっておらず、単に意外で悲惨な結末を面白がるだけのショートムービー的なもので終わった気がする。あるいは過去にこだわらず、未来を変えることを考えろという意味とも解釈できるが、それにしても回りくどい話である。 そのようなことで、学生のSF研とかなら内輪受けしそうなアイデアに、地球温暖化の話を加えてかろうじて長編映画にしたような印象だった。ほか劇中設定(地球温暖化と時間旅行)に関する疑問点もいろいろあるが長くなるので書かない。地球温暖化について何か言いたい人は見てもいい(ただし眠い)。 ちなみに「ひいひいばあちゃん」は確かに魅力的な女性だった(知的で賢明)。妻の先祖であるからには惚れて当然か。[DVD(字幕)] 4点(2020-04-29 11:51:29)《改行有》 12. スペース・タイム 時空を超えた使命 《ネタバレ》 フィンランド映画ということで見た。邦題はともかくとして原題と英題は「運命の書」である。 時代の違う5つのエピソードからできているが、一貫して「運命の書」なるものが存在する時空間の物語である。役者についても主人公とヒロイン役は共通で、時代の違う人物が同じ運命線上にいることが表現されている。各エピソードは下のような構成で、一つの映画で各種ジャンルが楽しめるという趣向らしい。 Episodi 1「トランシルバニア 1773年」吸血鬼映画 Episodi 2「アリゾナ州 1883年」西部劇 Episodi 3「フィンランド カレリア地方 コッラー川 1939年」戦争映画(冬戦争)白黒 Episodi 4「フィンランド タンペレ市 2003年」スパイ映画またはアクション映画 Episodi 5「宇宙 2124年」SF映画またはスペースオペラ なお登場人物は全てフィンランド語を話している(宇宙人含む)が、西部劇でフィンランド語というのは外国人にとってはさすがに違和感があった。 最初のうちは一応真面目に見ていた(特に3は茶化すわけにはいかない)が、しかし4でシュワルツェネッガーが出たところでもうどうでもよくなった。5ではキャラ設定自体がコメディ調になり、どうせまともな宇宙モノなど作れないのをふざけてごまかした印象になっている。 結果的には軽薄なパロディ映画または各種分野の習作見本市のようだったが、それでも一応真面目に語るとすれば、運命はあらかじめ定められているようでも結局最後は本人の行いで決まるのだ、という意味に取れる。さらにいえば“終わりよければ全てよし”ともいえるが、しかしエンドロールの後に、幻の次回作の予告編が出たのを見て真面目に考えたこと自体がアホらしくなり、最初まで遡って全否定したくなった。この映画自体が終わりをぶち壊しにしている。 ちなみに原案は学生の作だったようで、それを映画にした脚本家と監督も若かったらしい。予算も十分ではなかったようで、そのため日本でいえば「カメラを止めるな!」(2018)と同じ感覚で好意的に受け止める向きもあったらしいが、難点を不問にするほどの才気は感じない。またフィンランド映画の流れでいえば、こういうバカ映画の延長上に後の「アイアン・スカイ」(2012)も位置付けられるのかと思わなくはないが、娯楽性の面でその域に達していない。一つ言いたいのはパロディそれ自体に価値はないということだ。 なお最後の女神さまのようなのは顔が神々しいので嫌いでない。最終的によかったのはここだけだった。[DVD(字幕)] 1点(2020-04-29 11:51:26)《改行有》 13. アンノウン・ソルジャー 英雄なき戦場 《ネタバレ》 フィンランド独立100周年記念プログラムの一環とのことである。原作は有名な長編小説で、海外版は132分に短縮されているがオリジナルは180分あるらしい。似た例でいえば「ウィンター・ウォー」(1989)の短縮版のようなもので、そのためか意図不明のところが結構ある。 簡単に書くと、第二次世界大戦中の「冬戦争」(1939.11-1940.3)に続き、フィンランドがソビエト連邦との間で戦った「継続戦争」(1941.6-1944.9)に従軍した人々の物語である。最初は激しい戦闘だったがその後は塹壕に籠る状態が続き(ときどき帰宅)、最後の撤退でまた苦しい戦いを強いられる。風景はひたすら森と岩、川や湖、ときどき雪だが映像的には美しく感じられる。ちなみに大笑いさせられる場面が一か所あった。 [以下長文] よく知らないが継続戦争に関しては、大義という面で少し無理があったのではという気がしている。表向きは名前のとおり冬戦争の続きで、ソ連に奪われた土地を取り戻すためのものだったはずだが、しかし問題は台詞にもあったように、「旧国境」を越えてソ連に逆侵略をしかけた形になっていることである。それで「盗賊」なる言葉も出ていたわけだが、公式説明では一応「相手側の領土に戦争をもちこむとか、戦略的見地とか、講和をする時に取引材料に使おう」という意図だったとされている(※)。 しかしドイツの勢いに乗じて、あわよくば同系民族を統合した「大フィンランド」を実現したいとする目論見がなかったともいえず、そのことが、地図で娘が遊んでいた場面に出ていたと解される。また、もともとロシアの都市だったペトロザヴォーツクをアーニスリンナ Äänislinna(字幕ではアニスリナ)と改名したのはソ連のやり口をやり返していたわけだが、恒久的な領有を意図してのことならいかにも調子に乗った風に見える。 さらに戦争が長引くと、徴集兵と士官の意識の違いも問題になっていた。終盤でもう撤退にかかっているのに、将校が玉砕だと言わんばかりの理不尽な命令をして“きさまらそれでもフィンランド人か!”(意訳)と怒鳴っていたのは戦後日本人のイメージする日本軍そのままなので笑ったが、ここはもう国民意識の鼓舞だけでは兵を動かせなくなっていたと取れる。 国の上層部には大それた野望があり(?)、また軍人の意識も一般兵とかけ離れたところにあったが、主人公(に見える男)に関しては、ソ連に奪われた自分の土地を取り戻したいという思いがあるだけだった。しかし結果的にそれもかなわず、ただ人々が死んでいったことへの失望と憤懣が表現されていたように見える。 ※「フィンランド小史」日本語版(1994年第2版)より。駐日フィンランド大使館に無料でいただいたもの(ありがとうございました)。 ただし軍事的に見れば、撤退時には後衛の役目が大事だろうから一斉に逃げればいいわけでもなく、劇中の将校が特に阿呆だったとは限らない。また国同士の駆引きでも、あくまで抗戦の構えを見せてこそ相手と交渉できる立場が確保されることになる。ラストでは「第二次世界大戦で負けた国でフィンランドだけが他国に占領されなかった」(字幕)と書いていたが、これは戦争末期に死んだ人々の犠牲が決して無駄でなかったという意味らしく、結局最後は穏当にまとめた形で終わっていた。 それまでさんざんこの戦争を批判的に描写していながら、現実認識に縛られたのか国民感情への配慮か原作との関係か、最後だけ批判精神を封印した印象だったのは正直困惑させられたが(この監督は左派系ではないのか?)、しかしここは日本人の単純な観念論では割り切れない、フィンランドなりの現実的判断があるのだと思われる。少なくとも最後まで、ソ連に奪われた土地を取り戻そうとすること自体には否定的でなかった。それがあってこその継続戦争である。 ちなみに最後の水中全裸は主人公の望郷の思いの表現かと思った。 そのほか、同じ監督の「4月の涙」で印象的だった既存楽曲の使用は今回少し控え目だったかも知れないが、国民的作曲家シベリウスに関していえば、序盤では軍隊向けの勇ましい行進曲op.91a、ヒトラー来訪の場面では「歴史的情景」(組曲第1番op.25の第3曲、ただしニュース映像の背景音楽)が聞かれた。 以上は事態の展開に沿った形だが、しかし戦争が終わって死者と生者が帰った場面で、あえて交響詩「フィンランディア」(中間部のメロディを民衆音楽風にアレンジしたもの)を流していたのは、この曲で象徴されていた国民の、戦いの末の悲しい姿を表現したということか。あるいは歴史的にいえば、19世紀末以来の国民意識高揚の時代がここで終わりを迎えたというように取るべきかも知れない。何にせよこれが最後に物悲しい印象を残す映画だった。[ブルーレイ(字幕)] 8点(2020-01-17 23:15:03)(良:1票) 《改行有》 14. オンネリとアンネリのふゆ 《ネタバレ》 「オンネリとアンネリのおうち」(2014)に続くシリーズ第2作で、前回は夏だったが今回は冬の話である。クリスマス直前なので12月ということになるが、それほど寒そうでもなく日中は明るい。前回の登場人物はレギュラー化しており(ブタに色がついている)、撮影地は引き続きロヴィーサである。 今回は主人公2人が「こびとの一族の家族」を迎える話になっている。そもそも2人の自宅からしてお人形さんハウス仕様だが、その家にある本物のお人形さんハウスに家族が入居して、2人がまたその客人になるという入れ子構造である。ユーモラスで心和む話といっても悪人を登場させなくては済まないようだが、金に目が眩んで見せ物小屋に売り飛ばすといった古風な行動なのがまたファンタジー感を出している。あくまで人の性が善であることを前提にした物語である。 劇中家族は主人公ほか多くの人々に助けられていたが、しかし弱者だからと一方的に守られるべき存在でもなかったらしい。「自立することが大事」(字幕)との言葉は、当初からの主人公2人の思いに、人としての誇りを持って生きようとする意思を重ねてみせたように思われた。 以下雑談として、映画紹介と字幕では一家の名前を「プティッチャネン」と書いているが、これはフランス語のpetitを使った日本版限りの造語と思われる。台詞で実際に言っていたのはVaaksanheimo(ヴァークサ族または一家、Vaaksanheimolainenとも)だったが、vaaksaというのはかつて使われていた長さの単位だそうで、肘から指までの長さを表すkyynäräの1/4に当たり、メートル法では約14.8cmになるらしい。日本でいえば一寸法師のようなネーミングということになる。 ほかにも日本版では、劇中家族の少年の名前がPuttiであることにからめて、この種族独自の単語を「プティ」という言葉で表現していたが、実際に原語で使われていたのはpikku(小さい)である(サンタクロースJoulupukki→サンプティクロースJoulupikku、メリークリスマス"Hyvää joulua."→メリープティクリスマス"Hyvää pikkujoulua.")。なお英語版では来訪者の家族を"McTiny family"という名前にしており、それぞれの言語で“小さい”ことを表現するよう工夫していたようだった。 この一族のクリスマスがなぜか普通より少し早いのは、主人公2人が自分らの家でクリスマスを楽しむための設定だったらしい。森にはこういう家族がほかにも住んでいたようで、見ていた子ども(主に女子?)にとっても夢のある終幕だったはずである。[インターネット(字幕)] 7点(2019-12-21 09:56:01)(良:1票) 《改行有》 15. レア・エクスポーツ ~囚われのサンタクロース~ 《ネタバレ》 題名のカタカナ英語がよくわからない。これだけでは何の映画かわからないので日本でも副題を付けているが、Internet Movie Databaseで見ると世界各国でそれぞれ好き勝手な題名を付けていたようで、国によって映画の受け取り方が違うということかも知れない(かなり可笑しいのがある)。ちなみにRare Exportsの意味は映画の最後にならないとわからない。 クリスマスの映画といっても映像的には汚く見えるところが多いが、周囲の自然景観はさすがに見栄えがする。設定上の舞台は、フィンランドでサンタクロースの本拠地とされるラップランドのコルヴァトゥントゥリ(Korvatunturi, 486 m)という山の周辺だが、実際の撮影地はノルウェーのトロムソTromsøとのことで、本物よりも周囲の山が険しく見えていると思われる。ちなみに昼の時間が極めて短いのは北極圏の冬の表現だろうが、12月下旬なら実際はほとんど真っ暗ではないか。 物語としては大昔のサーミが封印した悪魔のようなものを、外国資本が蘇らせてしまったために破滅の危機が迫るといった体裁で、一応ホラーのように見えなくはない。サンタの使い魔?(原語でtonttuと言っている)が集団で迫るのはけっこう不気味で、真冬なのに全裸で股間にぼかしが入っているのは子どもに見せるものとも思われない。 ところで一般的には、サンタクロースといえば言葉の意味からしてもキリスト教の聖人と思うのが普通だろうが、この映画では独自の発想で“サンタクロース異説”を作ったように見える。 しかし必ずしも常識外れなものをでっち上げたわけではなく、もともと現地のサンタクロースとはこういうものだったとも考えられる。フィンランド語でサンタクロースをいうJoulupukkiは“ユールのヤギ”であるから、サンタの親玉が角を生やしていたのも変ではない。また死人が出たのは大殺戮の予兆にも見えたが、実はドイツの黒いサンタや日本のナマハゲ(アマハゲ、アマメハギなど)のように、悪い子を懲らしめればそれで終わりだった可能性もある。古書の挿絵は主人公のようなクソガキに脅しをかけるための誇張に違いない。 そのように本来は子どもに恐れられる存在だったものを、お仕置き確定のクソガキが妙な行動力を発揮して撃退した物語だとすれば、痛快かも知れないがかなりふざけている。あるいは商業主義にまみれたクリスマスへの皮肉を込めた社会派映画かも知れないが、それにしてもふざけた映画というしかない。家族でクリスマスを祝う善良なフィンランド人のイメージは破砕されてしまうが、ユニークなのは間違いないので少し好意的な点数にしておく。 余談として、劇中に出ていたようにコルヴァトゥントゥリはフィンランドとロシアの国境にあるが、妻のヘアドライヤーが何者かに盗まれたと思い込んだ住民が「ここではローテクでもロシアでは最新器機だ」(字幕)と決めつけていたのは笑った。辺境の国境管理は大変だ。[DVD(字幕)] 6点(2019-12-21 09:55:58)《改行有》 16. サンタクロースになった少年 《ネタバレ》 原題も英題もクリスマス物語である。主人公の名前は一応聖ニコラオスから取ったようだが、話自体はキリスト教と関係ないので異教徒でも無宗教でも見られる。そもそもフィンランド語のクリスマスJouluもサンタクロースJoulupukkiもキリスト教とは関係のない言葉のようである。 時代としてははっきりしないが、豊かでもない庶民が懐中時計を持っているからにはそれほど大昔でもなく、もう19世紀に入った頃のことではないかと思った。電気はさすがに通じていなかったが、村の人口が増えたというのは前近代を脱したという表現のようでもあり、孤立的な昔話ではなく現代に直接つながる出来事と取れる。 撮影場所は、フィンランドでサンタクロースが住むとされているラップランド地方とのことで、なだらかな山容が特徴的に見える(実は見たことがなくはない)。季節の変化も印象的で、これが現地の風景だとほれぼれした。ほかに師匠と主人公が家具を売りに行った場面は南部の都会トゥルクの大聖堂で撮っている。 内容としては完全オリジナルのサンタクロース誕生秘話を極めて誠実に作っている。師匠と一緒にプレゼントを配ったとか、親友の娘が家を訪ねて来た場面は少し感動的だったが、ただ全般的に展開が駆け足すぎて、大河ドラマを一晩だけの総集編にしたようでもある。後半で突然ヒゲオヤジに化けたのも唐突な印象で、個人的には健気で賢明な少年と、親友や師匠とのやりとりをもっと見ていたかった気がした。 自分の志を世の父親連中に委ねて、本人は空から子どもを見守る存在に昇華したという結末(多分)は悪くないとしても、主人公自身が自分の家族を持つという選択はなかったかとはどうしても思ってしまう。主人公の心境は正直よくわからなかったが、家族と思った師匠も去ってしまって一人残された家で、妹代わりかと思った人物の忠告も聞かず、他人の子どもを自分の子のように思うしかない状態に自ら追い込んでいった面がなかったのか、と思うと少し寂しい結末だった。 その他の事項として、プレゼントをしておいて知らないふりをする主人公もそうだが、顔の怖さを前面に出す師匠とかツンデレ少女とかがシャイといわれる国民性の表現のようで面白かった。個人的にも以前に現地へ行った時に、不愛想で物も言わないが親切なフィンランド人というのが本当にいたのを思い出した。[DVD(字幕)] 6点(2019-12-21 09:55:55)《改行有》 17. オンネリとアンネリのおうち 《ネタバレ》 同じフィンランド映画の「ヘイフラワーとキルトシュー」(2002)と同時に見た。原作はマルヤッタ・クレンニエミ(1918-2004)という作家の児童文学で、シリーズ6作のうち2作は邦訳も出ている。映画はこれを含めて3本が製作されており、そのうち2作が過去に日本でも公開されているほか、第3作も今年5月から日本各地で上映されているらしい。ちなみに映画の撮影場所は首都ヘルシンキの西北西80kmにあるロヴィーサLoviisaという小都市である(2019/1/31現在で14,873人)。 なお英題は「Jill and Joy」になっているが、「ヘイフラワー…」と違って英題でなく原語を邦題にしたのは正解である。「ジルとジョイ」では話にならない。 内容としては「ヘイフラワー…」と登場人物の構成が似ていたりするが、よりファンタジー感の強い話になっている。主人公の少女2人は7歳の設定とのことで、小生意気な連中かと思っていたらわりと素直で良心的な児童だったので安心した。 題名の「おうち」は極端にメルヘンチックな作りだが、要は劇中にも出ていたお人形さんハウスのイメージらしく、主人公2人が場面ごとに違う華美な服装(着せ替え)で現れていたのが目を引く。ご近所の魔女?が庭で異様なものを栽培していたことなどを含め、荒唐無稽でユーモラスな劇中世界が色彩感豊かに表現されている。 主人公2人は自宅に戻れば普通に現実世界の住人のようだったが、「おうち」にいても夢ばかり見ているわけでなく家事も一応こなしていたようで、また近所づきあいを普通にやっていたのも感心した。最後のパーティ場面では本来の家族も客人として招かれていたりして、「おうち」での暮らしが早目の自立心を育てる効果があったようでもある。 そのほか大人が見ても笑わせる場面が多いのでけっこう楽しい映画だった。エンディングが騒がしく品がなかったのは少しマイナスだが、全体としては「ヘイフラワー…」よりかえって純粋に面白かったかも知れない。 以下雑談として、主人公2人が呑気な暮らしをしていられるのは夏休みだからで、劇中では白夜という言葉も出ていたが、主人公2人がまだ明るいうちに寝床に入り、深夜でも夕方の風景だったのは7月頃のことかも知れない。後半になると普通に月夜の場面があったりしたのは少し日数が経っていたということか。 ほか大したことではないが、序盤の警察署の場面で、2人が正直者と思われているかどうか知りたいかと警官に聞かれ、アンネリが”Joo.”と答えたのはフィンランド語で普通にYesの意味だが、オンネリが「ウン」と言ったのは日本人かと思った。[インターネット(字幕)] 7点(2019-07-05 21:30:02)《改行有》 18. ヘイフラワーとキルトシュー 《ネタバレ》 フィンランド映画だからという理由で見たが、自分の年齢性別にそぐわないのはわかっている。原作はシニッカ・ノポラ、ティーナ・ノポラという姉妹作家の児童文学で、1989年に第1作を出して以降、2018年の第17作まで続いている人気シリーズらしいが、映画化はこれ1本のようである。ちなみに映画の撮影場所は、首都ヘルシンキから西に120kmくらい離れたフィンランド湾岸のケミオKemiö(2009年の広域合併後はケミオンサーリKemiönsaari)とのことである。 まず題名に関して、原題のフィンランド語をカタカナ表記すると「ヘイナハットゥ」と「ヴィルッティトッス」と書くのが一般的と思われる。意味としてはheinä(干し草)+hattu(帽子)とviltti(毛布)+tossu(靴)だが、vilttitossuは一語で冬用のフェルト製長靴のことを意味するらしい。どちらも登場人物が実際に身につけているものなので、人名というよりは愛称ということになる。 また原作は邦訳が出版されているが、その題名は「麦わら帽子のヘイナとフェルト靴のトッス」とされており、これに倣えば「麦わら帽子」と「フェルト靴」と訳せばいいことになる。ただし邦訳では「ヘイナ」「トッス」を人名の扱いにしているため、「麦わら帽子の“麦わら”とフェルト靴の“靴”」という変なことになってしまっている。 一方で英題は「干し草の花」と「キルトの靴」だが、hay flowerは牧草限定でない草花を指すとの話もあるらしい。何にせよ原題の麦わら帽子とは違っており、また「キルト」もフェルトと同じものとは思われない。 このように原題と英題と邦訳の題名にずれが生じている状態だが、この物語を愛する人なら、やはり原題の「ヘイナハットゥ」と「ヴィルッティトッス」をきっちり覚えなければならないと思われる(本気を出せば覚えられる)。 映画の内容としては姉妹が可愛らしいので和まされるが、子どもとはいえ明らかに美人さんなので出来すぎの感もある。個人的には健気なお姉ちゃんが愛おしく思われて、反乱のあとは良い子でなくていいことにしたのはよかったが、しかし駄目親の両親までが自分らでできないことは隣人に頼れば可ということになったらしく、要は誰も頑張らなくていい、という極めて緩い結末だったのはかなりユニークだ(呆れた)。フィンランド人が一般に生真面目だとすればこのくらい緩くてちょうどいいのか、または行き過ぎた核家族化で生じたストレスを緩和する意図か、あるいは女性が活躍するためには地域の協力が必要だという主張か。 なお終盤の「パン生地セラピー Taikinaterapia」というのは何だかよくわからないが色鮮やかで印象的だった。大人もこういうので羽目外しを楽しめるといいだろうが。[DVD(字幕)] 6点(2019-07-05 21:30:00)《改行有》 19. ムルと子犬 《ネタバレ》 フィンランドの都市ハメーンリンナを舞台にした、犬と少女とその家族の物語である。少女の父親が出来心で子犬を家に連れて帰ったが、成長すると飼うのが難しくなり、引き取りを申し出た家族に引き渡すまでの話で、おおむね心和むファミリー系ドラマになっている。邦題の「ムル」は主人公の少女(7歳とのこと)の名前だが、「子犬」という言葉はこの映画のほとんどを通じて当たっていない(でかい)。ちなみに犬種はコーカシアン・シェパードとのことで、劇中ではクマを追い払った後にフィンランド軍の歩兵戦闘車に吠えかかる場面があった 時代設定としてはベルリンの壁崩壊(1989/11/9)から東西ドイツ統一(1990/10/3)のあたりまでの1年程度だったようで、その間にクリスマスと主人公の誕生日と夏が1回ずつあり、うち夏は服装のほか、外がまだ明るいうちに人々が寝ようとしている様子で表現されていた。 全体としていいたいことはそれほど明瞭ではないが、主人公の母親が軍に勤務しているという設定は、犬の本来の性質が父親のようなリベラル系ではなく軍隊に近いこと、及び前記の犬種が近代では軍用犬として使われて来たことを説明させるためと思われる。しかし、だからといって軍隊に犬の幸せがあるわけではなく、また主人公の家もいわばベルリンの壁で囲まれた状態であって、それよりこの犬に本当にふさわしい場所はほかにある、という結末だったようである。 結果としては犬の性質に無知なまま、自宅にそぐわない犬種を簡単に選ぶ人々へのソフトな警告を込めていたように見える。劇中家族はどちらかというと悪い例になるわけだが、しかし最後まで犬に愛情をもって接していたのは間違いないらしい。うちには犬がいないのでわからないが、犬好きの人々ならもっと感じ取れることがあるかも知れない。 また最終的には動物愛護全般を訴えていたようで、ラストの“動物を虐待していません”という主旨のコメントが普通よりかなり念入りで長い文章になっている。またエンドクレジットの最初に、出演した動物(犬・ネコ・ハリネズミ・子豚?・ウサギ・馬・ネズミ・ロバ・小鳥)の個体名を全部並べ、その後に人名を出していたのもこだわりがあったように見える。 自分にとってはそれほど感動的でもなかったが、達者な感じの子役に少し加点しておく。金切り声がやかましいが、ネコ顔になったところは可愛らしかった(「猫の恩返し」の主人公に匹敵)。[DVD(字幕)] 6点(2018-12-31 12:58:09)《改行有》 20. 旅人は夢を奏でる 《ネタバレ》 フィンランドのロードムービーである。邦題はどちらかというと意味不明で(「夢」はあるか?)、英題は北への道というような感じだろうが、原題では”pohjoiseen”が「入格」というのを使っており、単純に方向を示すのではなく“北の地へ入って行く道”というような意味だと思えばいいか。 移動の経路としては、国の南端にある首都ヘルシンキから北に向かってユヴァスキュラをまず訪れ、アーネコスキに立ち寄った後、セイナヨキを通って? ボスニア湾岸に出て? オウル経由で? 北上してロヴァニエミ(フィンランド北部のラッピ県の中心都市)に至り、さらに奥地のケミヤルヴィから北に入り込んだ場所を終焉の地にして終わっている。行程中で特に目を見張るような景観はなく、ただ淡々とフィンランドの普通の風景を映しているようである。 物語としては突然帰った父親が、かつての自分の所業のせいで混乱して停滞していたものをひっかき回してぶち壊して、結果的に息子の人生を立て直して家族を再構成した話に見える。 難しいのは父親の語る寓話のようなものの解釈で、うち孫に語ったスグリの実の話は、これまで永遠の40歳のつもりだったが何もできずに来た男が、世界最良のものに出会ったのが人生の最後だった、という状況を語っていたと思えばいいか。コメディめかしていながらどうも最初から陰気臭さが感じられて、自分としてはこのジジイの行末に不吉なものがありそうだとばかり思いながら見ていた。また「射手」の話はストーリーの根幹に関わるものだろうが、何と結末部分が語られないで終わってしまう。ここは息子なり観客なりがそれぞれ思ったことそのままでいいということか。 結果として悪い話ではないだろうが、個人的にはそれほど共感できる箇所もなかった。当然ながら世間では評判がいいらしく、こういうのをいいと思わない自分は映画好きとはいえないのだろうなと思った。 ちなみに今回勉強になったこととして、英語の”Earl”というのはフィンランド人にとっても発音しにくい言葉だったらしい。またホテルで披露されたピアノ曲「ねこふんじゃった」を台詞では”Kissanpolkka”と言っていたが、これは「ネコのポルカ」(kissa「ネコ」→kissan「ネコの」+polkka「ポルカ」)という意味である。フィンランド語の題名にもちゃんとネコが出ていることがわかって若干感動的だった。ついでにいうとジジイの孫はるみちゃんという子だったが、lumiというのは雪の意味である(ゆきちゃん)。[DVD(字幕)] 5点(2018-12-31 12:58:06)《改行有》
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