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【製作国 : フランス 抽出】 >> 製作国別レビュー統計
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1.  白いリボン 撮影は全編カラーフィルムで行われたと聞くが、最終的にミヒャエル・ハネケがここに残すべきと判断した色は、子どもたちの腕に巻かれるリボンや村を覆う雪の白、それだけだったのかもしれない。色彩を失くしたモノクロームの村は、血の気がひいたように冷たく寒々しい。さらにハネケは音楽の一切を退け、この村に漂う長閑な静寂をくっきりとふちどることで、逆説的に、その裏に潜む不吉や不穏を強調する。息づまる異様なこの静けさが雄弁に物語るのは、それが何だか分からぬままそれでもひたひたと確実に迫り来る、得体の知れぬ虞だ。愛人であったと思しき中年女の老醜を忌々しげに罵る医師。そんな彼がふと思いついたように年頃となった自分の娘に年齢を訊ねる場面でこの父娘を包む静寂には、身の毛もよだつ禍々しさが息をひそめている。色彩を排し音楽を排しさらにハネケが試みる次なる仕掛けは、物語の核=真実をも排除することだ。ハネケ映画には珍しく語り手のモノローグをそこここにちりばめながらも、そこにつまびらかな説明が付与されることはなく、描かれる出来事もまた決してその核心を顕にしない。そうして恐怖の正体は最後まで明かされずじまいとなる。たとえば、牧師である父が語る「奇病で死んだという罪深い少年の説話」に頬を上気させ恥辱に苛まれる息子と、彼の腕に何らかの罰として巻かれる純潔の白いリボン。また等しくこの息子が、罰を受けるため自ら折檻用の鞭を用意し、重い足取りで再び戻るその部屋。あるいは件の医師が娘の耳にピアスホールを開ける真夜中の診察室。それらが何を意味するのか、想像するのは容易い。だが映画は終始、そこで確実に行使されているはずの暴力を密室に隠蔽する。かよわき子どもたちの悲鳴や呻きが洩れ聞こえては来ても、その姿は秘密の小部屋に閉じ込められたまま第三者の目にふれることはない。それは、まさしく虐待の構図だ。そうした村の日常の中で、小鳥や幼児そして知恵遅れの少年らより弱き者へと向けられる陰惨な暴力や、反逆として張り巡らせられた針金だけが、畏るべき事件と看做される、その痛烈な皮肉。原題における副題は「ドイツの子ども史」といった意味だろうか。だが非力な子どもも、いつしか歴史を動かす大人になる。ドイツの子ども史は大人史となり、それがやがてドイツ史となる。1913年の子どもたちが創り出した歴史を、おそらく私たちは厭というほど知っているのだ。[映画館(字幕)] 7点(2010-12-22 23:49:13)(良:2票)

2.  勝手にしやがれ 《ネタバレ》 主人公ミシェルはおしゃべりな男だ。盗んだ車を運転しながら、彼はくだらない独り言をのべつまくなし語り続ける。時に確信犯的カメラ目線さえこちらに向け語られる空疎で冗長なその戯言。やがて彼が美しいパトリシアと出会い、独白が対話となってもそれは変わらない。気怠い昼下がり、陽光差し込むホテルの一室でとりとめなく垂れ流される二人の美しいフランス語は、対話のようで、しかし対話ではない。饒舌に言葉を用いる彼らは、抜け殻のような独り言を、ただそれぞれに実りなく発しているに過ぎない。そんな彼らの意思が疎通することは決してない。二人が虚空に放つ過剰な言語がまるきり有用な意味をなさぬまま、じわじわと彼らの溝=空洞=孤独を拡げていくさまを、映画監督ジャン=リュック・ゴダールは冷徹にカメラに捉え続ける。この退屈な映画に素直に退屈するのは、ある意味とても正しい。ゴダールがここに描いているのはまさに救いようのない不毛な退屈、それそのものだからだ。退屈と孤独、そしてその不毛。「“二人で眠る”と言うけれど眠っているときは一人よ」というパトリシアの後の台詞が示すように、彼らは二人でありながら、けれどどこまでも一人だ。彼らが孤独でないこと、二人でいること、その実感がもしそこに存在するのだとすれば、それはパトリシアのスカートをめくり尻を撫でるミシェルの手のひらの感触と、彼のその不作法に平手打ちを食らわすパトリシアの手のひらの感触、ただそれだけだろう。つまりは言語など用いぬ肉体的接触だけが、不毛な言語では決して他者と結びつき得ぬ孤独な彼らをかろうじて媒介できる。だがそうした接触をパトリシアは冷淡に拒み続ける。彼女があっけなく密告という裏切りに転じ、ミシェルと“二人でいること”を気まぐれに終えるのは、その意味で至極当然の成り行きと言える。あなたを裏切ったのだから私はあなたを愛していないと饒舌なパトリシアは言う。だがそれは詭弁だ。彼女はただ、愛していないから彼を裏切った、それだけのことだ。そしてその詭弁が再び、彼らのかわし続けてきた言語の不毛を炙り出す。ミシェルは舗道に横たわり自らの指でまぶたを閉じる。そうしてその瞳から愛していたはずの女の姿を自らの意志で永遠に遮断する。不毛な言語はそれでも時に真実を言い当てる。パトリシアの言った通り、人は眠る時“も”やはり一人だ。それは確かに 最低だ。[CS・衛星(字幕)] 6点(2010-08-08 20:16:51)(良:2票) 《改行有》

3.  告発 《ネタバレ》 映画はヘンリーが受けた残虐な仕打ちも彼が犯す殺人も、克明に描く。けれど克明でありながら、その描写はとても冷静だ。より露骨に声高に描ける可能性を、映画は勇気をもって捨て去る。裁判のシーンもその判決も、観客の求めるカタルシスをもっとドラマチックに感動的に満たすことはいくらでも可能だっただろう。しかし映画は誠実に、それをしない。ヘンリー・ヤングは弁護士ジムに言う。自分のように暗闇でクソにまみれて這い回っていたわけでもないのに野球中継を見ないなんて、と。俺は女を知らないと。穴蔵に迷い込んできた蜘蛛が唯一の友だちに思えたと。おまえと俺は一体どこが違うのかと。裁判の過程や事件の真相とは直接関係のないヘンリーのその焦点のズレた発言の数々は、けれど彼の台無しにされた悲しい人生を静かに物語る。看守の目を盗みジムがヘンリーに娼婦をあてがう一見下世話なそのシーンの持つ意味は、あまりに切実で痛ましい。人間の尊厳をあらかじめ奪われながら、人生の大半をただ生き延びたヘンリー。そんな彼がジムとならんで座り、トランプのカードを飛ばして遊ぶシーンが忘れられない。彼の人生たった一度きりのその幸福な瞬間が、肝心の判決が下る待ち時間の出来事というのは象徴的だ。ヘンリーが望むのは身の潔白や無実などではなく、ありふれた人間としての当り前の価値、ただそれだけなのだ。人としての価値を踏みにじり続けた副所長を裁判中もずっと直視することができなかったヘンリーは、けれど再び戻るアルカトラズの入り口で、ついにまっすぐしっかりと彼の目を見据える。恐ろしい穴蔵へと続く階段を降りながら、それでもその瞬間彼はようやく価値ある一人の人間として、誇り高き勝利のその意味を噛みしめる。彼はもう哀れなヘンリーではない。ようやく美しき一人の人間として、気高くそこに立つ。裁判でも判決でもなく、その時にこそ、彼は本当の意味で勝ったのだ。[DVD(字幕)] 7点(2009-11-24 21:10:22)(良:1票)

4.  ピアニスト 《ネタバレ》 エリカは感情を麻痺させる術に長けている。他人を求め拒絶されることは恐怖だ。あらかじめその恐怖の芽を摘みとることで、彼女は孤独と引きかえに心の平穏と均衡を手に入れてきた。それは彼女なりの生きる智慧だ。ポルノショップで男たちの好奇の目に曝されること、ドライブインシアターでカーセックスに耽る恋人たちを窃視すること、彼女の秘密の二つの行為はどちらも視線を媒介する。見られる時、あるいは見る時、そこに生じるのは他者との距離だ。視線という距離を測ることで彼女は他者との隔たりを認識し、安心する。母親以外を隔絶して生きる彼女はまるで羊水に浮遊する胎児だ。けれどミヒャエル・ハネケはそんなエリカのぬるま湯のような無痛の孤独に、残酷な揺さぶりをかける。彼女の鉄壁を乗り越え迫るワルター。彼のその無邪気さは、常に茫とした第三者として世界に存在していたはずのエリカに、当事者としての甘美な実感を与えてしまう。あえなく氷解してしまった感情のままにたどたどしくワルターと向き合うエリカは、雛鳥のように無防備に愛を乞う。痛ましく無様なその姿と、やがて語られる赤裸々な被虐願望。それは隠し持つ己れの醜さすら曝け出した上で赦されたいという切実な愛の告白であり、罪深い彼女にとってのある種の告解だ。だが頑なな心を開いた彼女を残忍に待ちうけるのは、愛した者に拒まれ、切り捨てられる絶望だ。健やかな笑顔を見せ、他人事のように軽やかに去っていくワルター。それら出来事のすべてが彼女の妄想であれ現実であれ、重要なのはその痛みを前にしたエリカが、麻酔も鎧も、身を護るその一切を失っているということだ。母との蜜月を断ち切り、産道を抜け、血まみれで産み落とされた彼女はもうぬるま湯に逃げ帰ることはできない。胸に突き立てたナイフは、鋭い痛みの実感を彼女に与える。その表情によぎる誤魔化しきれぬ苦悶。エリカは血を流す生身の体で再び、貫くような孤独の痛みの中を、ひたすらに歩いて行く。この不愉快な映画はまさにエリカの持つ尖鋭なその刃の切っ先だ。ハネケの見せつける本物の痛みを前に、私はその不愉快を滑稽と嗤い飛ばす。けれどそれはエリカを庇護し続けた偽りの麻酔とどこが違うのか。ハンドバッグの中に包み隠されたそのナイフを、私もまた確実に持っている。ハネケは言うだろう。ナイフを突き立てろ、そしてその痛みから目を逸らすなと。[DVD(字幕)] 9点(2009-11-03 18:00:27)(良:2票)

5.  まぼろし 《ネタバレ》 愛は、無上の幸福と引きかえに胸の奥底に漠とした不安の影を落とす。愛とは常にその内部に愛するものを失う不安を胚胎させるものだからだ。フランソワ・オゾンは私たちが持つ絶対的なその畏れを、主婦マリーにある日突然訪れる出来事として、具象する。事件なのか事故なのかあるいは生きているのか死んでいるのか、それすらも不明なまま突きつけられる耐え難い喪失。愛する夫はあとかたもなく目前から掻き消え、そこにあるのは、確かに二人で存在したはずのその場所にただ一人立ち尽くすばかりの、愛にとり残された者の姿だ。残酷なのは、対象が奪われてもなお愛のもたらすその絶対なる不安だけが、否応なしに抜け殻のようなマリーを支配していくことだ。知り合った男と軽率に同衾しながらも情事の途中で笑いだすマリー。「あなたでは軽すぎる」気がふれたわけでも男の小柄な体を馬鹿にしているのでもない。彼女はただ、喜ぶのだ。長年連れ添った夫の重みを実体験として記憶する自身の肉体を、そして最愛の夫の確かなその痕跡を。たとえ相手が夫に似た体躯の男であったとしても、彼女はどこかしらに彼との差異を見出だし、言うだろう。あなたではないのだと、あの人でなくてはだめなのだと。マリーが求め見つめる先にいるのは、まぼろしとなった夫、ただ一人なのだ。失われた愛の上でそれでも機能し続ける彼女の異形の貞淑が胸をえぐる。愛は美しい幻想であり、また醜い強迫観念でもある。そんなふうに確固たる幻想に生きることで愛にすがろうとするマリーを、今さらのように直面する夫の死体が、さらには義母の語る見知らぬ夫の姿が、容赦なく現実に引き戻す。堅固に築いた幻想も強迫観念も、砂上の楼閣のようにガラガラと音をたて崩れ去り、そして彼女は知るのだ。身も心も捧げ信じ抜いたその愛が、どれほどにあやふやで不確かなものだったかを。そしてその愛こそが、まぼろしであったと。マリーは幸福に思えた人生の意味の大半を失い、喪失のかなしみだけがただひたすらに、まぼろしではない本物として、打ちひしがれた彼女に実感を与える。全身を貫くその痛みを受け入れることで、けれど彼女はようやく真実を生きるのだろう。砂浜を駆けだすマリーはまるで瀕死の野生動物のようだ。満身創痍でありながら、その姿は気高く美しい。よたよたと頼りなく、けれど最期まで生きることをあきらめぬその足取りで、彼女はまぼろしの彼方を目指すのだ。[DVD(字幕)] 9点(2009-10-03 20:27:26)

6.  トト・ザ・ヒーロー 《ネタバレ》 主人公トマは、向かいに住む金持ちの息子で同じ日に生まれたアルフレッドと自分は産院の火事で取り違えられてしまったのだ、と固く信じている。あらかじめ奪われた人生。そんな子どもの頃に思い描く貴種流離譚はつまり自分の置かれた環境や劣等感から逃避する手段としての夢物語であるが、そうした空想にふけるのは決して不遇な子どもに限ったことではないだろう。事実、トマの子ども時代は、愛する家族に囲まれて、彼の人生で唯一輝いていた時代でもあるのだ。にもかかわらずトマとしての自分の人生を否定し、アルフレッドへの羨望やトト・ザ・ヒーローへの憧憬をいつまでも捨て去れなかったことに、トマの不幸はある。この映画がすごいのは、子ども時代の空想やトマの姉アリスの美しい思い出に囚われつづけるそんな人生を、トマと相対するはずのアルフレッドにも等しく課してしまう点だ。終盤、老人となったアルフレッドが同じく老人となったトマに語る一言は、トマがアルフレッドだったようにアルフレッドもまたトマであったことを意味している。自ら創り出した空想が真実をも呑み込んでしまった時、きちんと与えられていたはずの本物の人生を、まがいものの人生として共に生きざるをえなかった2人。それを踏まえて行動するトマの最期は、ややもすれば被害妄想を貫きとおしたようにも見える。しかしそれは違う。自分の人生を一から否定しつづけてきたその思い込みの間違いに、彼は気づいている。彼がすべきは、真実を否定することでも人生を嘆くことでもなく、自分の手で台無しにしてしまった人生そのものをそれでもありのままに受け入れ肯定すること。アルフレッドとなって死んだトマだが、そうすることで彼はアルフレッドの人生ではなく、アルフレッドになりたかったトマとしての人生を見事に生ききったのだ。間違いだらけであっても灰色であってもそれでもすばらしい、彼の本物の人生を。灰となって空を飛ぶトマの笑い声はだからこそ底抜けに陽気で、そして人生賛歌のように薔薇色の世界に燦々と降りそそぐ。ぼくの人生はこんなにもすばらしいぞ、と。こんな思いがけないラストを用意してくれたジャコ・ヴァン・ドルマル監督に心から拍手を送りたい。[映画館(字幕)] 9点(2009-07-23 22:01:11)(良:3票)

7.  藍色夏恋 《ネタバレ》  時代は現代なのにどこか懐かしい台北の町並み。その町の風景に溶け込むように描かれる清く正しい少年少女。傷つき悩みながらもまっすぐな彼らの姿からは、襟を正して生きることの大切さが真摯に伝わってくる。おそらく自分が女の子にモテることを知っているのであろう少年の不敵で屈託のない笑顔。その自信とうらはらのほほえましい悩みと純情。そして頑なな潔癖さと負けん気でそんな少年を突き放そうとする少女。この二人が、なりゆきで校舎の中庭の床に貼られたラブレターを足で蹴ってはがそうとするシーンが面白い。躍起になって互いの足を蹴っ飛ばしているようにも、それでいて二人楽しそうに軽やかにステップを踏んでいるようにも、見える。さらに後半で対比的に描かれる、もう一人の少女が恋の遺品焼却を思い直して火を消そうとする場面の、ひとりぼっちで踊るためらいと嘆きのステップもいい。彼らの足の生き生きとしたその躍動が、青春のジタバタを文字どおり体現していて見事だ。あるいは夜の体育館で二人が衝突するシーンでは、体当たりでぶつかりあう二人を表情が判然としない距離から延々と長回しで写し、彼らが体全体から思いをほとばしらせ格闘する様をまるごと切り取るように描き出す。風をうけて走る自転車の心地よさ、夜のプールや体育館のその秘密めいた緊張感、だれかとならんで眺める校庭と青空、だれかを好きになる気持ち、片思いの胸の痛み、だれにも言えない思いをこめたそれぞれの壁の落書き、そして夏の匂い。そんな青春映画的ガジェットの過剰さが良くも悪くもこの映画の持ち味なのだが、その反面、易智言監督の描写は意外なほどに簡潔で無駄がなく、そして的確だ。少女が少年に告白するある秘密。それが本当なのかあるいはうそなのか、最後まで答えはわからない。それは彼女自身にもまだわからない答えなのだろう。この映画はとってつけた説明や答えなど、一切提示したりはしない。そうして描かれるのはただシンプルに、彼らがその夏を共にしたということ、真正面からぶつかりあい、認めあい、そして最後に笑いあえたということ、それだけだ。その潔さがとてもいい。ならんで自転車に乗る二人。友だちでも恋人でもなく、けれどその夏を懸命に生きたかけがえのない同志として、それぞれの足で未来へとペダルを漕いでいく彼らの姿は、力強く、美しく、まぶしいばかりだ。[映画館(字幕)] 10点(2009-07-20 00:03:32)(良:2票)

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