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プロフィール
コメント数 731
性別
自己紹介 奥さんと長男との3人家族。ただの映画好きオヤジです。

好きな映画はジョン・フォードのすべての映画です。

どうぞよろしくお願いします。


…………………………………………………


人生いろいろ、映画もいろいろ。みんなちがって、みんないい。


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21.  ラスト サムライ まずは、ここまで徹底した「日本」へのアプローチと、文化への理解、そして敬意に対して、トム・クルーズや作り手たちに「ありがとう」と言いたい気持ちになります。何より、渡辺謙や真田広之ほか日本の役者をここまで正当に扱ったことに、本作の度量の深さをしみじみと感じるし。トムを含めた登場人物それぞれが複雑な人間的陰影をたたえ、戦闘シーンの圧倒的なスペクタクルも見事! と、何だかケチのつけようのない充実ぶりなのですが…。作品がどこか『ダンス・ウィズ・ウルブズ』の”二番煎じ”的な展開であること。ここでトム・クルーズが魅せられた「武士道」とは、結局のところ「侍」という《支配者階級》のものであり、彼らは決してアメリカ先住民のようなマイノリティとは違うのにこの映画はそのあたりを(わざと?)同一視していること。その2点がどうしても気になってしまったのでした。この映画からは、当時の民衆がすっぱりと切り捨てられ、ただの背景でしかない。そのあたりが、例えば黒澤明の『七人の侍』などとは決定的に異なるところではないでしょうか。もちろん、それがほとんど”イチャモン”じみたものでしかない、素直に本作の素晴らしさを賞賛しろ! との非難を覚悟の上で。8点(2003-12-01 17:04:37)(良:4票)

22.  静かなる男 作品的評価をひとまず置くなら、ジョン・フォード監督の作品中でも最も好きな映画。緑、緑、また緑の風景の中、愛すべき人物ばかりが登場して、酒にケンカに明け暮れるこの映画の中のアイルランドは、まさに本物のユートピアじゃないか。有名な延々と繰り広げられる殴り合いシーンも、野を越え山を越え、酒場でお互いひと休みして、また再開…といった、おおらかにしてユーモラスな名場面。何回見ても、あまりの幸福感に思わず嬉しナミダがにじんでしまう、本当に本当に本当に愛すべき映画です。ハレルヤ! 10点(2003-11-13 12:41:55)(良:4票)

23.  硫黄島からの手紙 《ネタバレ》 『硫黄島からの手紙』のなかで、負傷して日本軍の捕虜になったアメリカ兵の青年が登場する。彼は手厚い看護を受けたものの、結局息を引き取る。けれど、彼が持っていた母親からの手紙の内容に、今までアメリカ人を“鬼畜”だと信じ込んできた日本兵たちは、「彼らも俺たちと同じじゃないか…」と愕然とするんである。 この場面は、本作のなかでもとりわけ感動的で、美しい。その時、日本兵たちは、目の前のアメリカ人青年をただ殺すべき〈敵〉ではなく、はじめて〈人間〉として認識した。と同時に、ぼくたち観客もまた気づかされるのだ。この映画そのものが、『父親たちの星条旗』にあってまったく「顔」を与えられなかった日本兵たちを、ふたたび個々の〈人間〉として見出すものであったこと。そのために、どしてもこれが「二部作」であらねばならなかったことを。 『星条旗』が、「憎悪と敵意」「政治」という「戦争の本質」こそを描くものだったとするなら、本作は、常にそういった「戦争」のなかで見失われてしまう〈人間〉を回復する試みである、といって良いかもしれない。・・・戦場にあって、ただお互いを殺し・殺されるだけの兵士たち。「憎悪と敵意」の対象でしかなかった〈敵〉同士を、イーストウッドの本作は、あらためて〈人間〉として描こうとする。それこそが、戦争の“消耗品”として歴史に埋もれ、顧みられることのない彼らを、あくまで一個の人間として追悼することになるからだ。だから、「戦争で命を落とした人々は敬意を受けるに余りある存在だ」というイーストウッド自身の言葉は、決して彼の「右翼的」な信条=心情から出たものではあるまい。むしろ彼は、現在に至るまで時の為政者(ブッシュ!)たちが「自分たちは正義の側で、悪と戦う」と唱え、戦争を肯定することへの断固としたアンチテーゼとして、兵士たちを1人1人〈個人〉として「戦争」から“帰還”させようとしているのだから。 この、全編のほとんどを日本人の役者ばかりが登場する「日本(語)映画」を、アメリカのジャーナリズムが高く評価するのも、おそらくその一点においてであるだろう。・・・これが、監督イーストウッドの最高傑作かどうかは分からない(し、どうでもいい)。けれど、戦争の「本質」を描き、兵士たちをふたたび〈人間〉の側に取り戻そうとする「硫黄島二部作」は、現代最高の「(戦争)映画」であること。それだけは間違いない。[映画館(字幕)] 10点(2007-01-17 18:31:23)(良:4票) 《改行有》

24.  ヒア アフター 《ネタバレ》 思えば、イーストウッドが監督した西部劇は、常に「地獄」を描出するものだった。『荒野のストレンジャー』で、主人公の幽霊ガンマンが街を真っ赤に塗り“HELL(地獄)”と名づけて以来、彼自身が演じるガンマンは“一度死んだ者”として復讐すべき相手の前に現れ、この世界は地獄に他ならないことを体現してきたのだった。・・・そして1990年代半ば以降のイーストウッド作品は、そんな「地獄」を、現代劇のなかにも描き出す試みだったのではあるまいか。そこでは、そういった「地獄」を主人公たちが受け入れることでしか“救済”などありえない(でもそれは、もっと深い“絶望”を意味するのだ)。そんな苛酷な、あまりにも苛酷な〈叙事詩〉的作品こそが「イーストウッド映画」なのだった。 だが、この本作において、たぶんはじめてイーストウッドは「天国」について語ろうとした。それは、実際に“天国の光景[ヴィジョン]”が描かれたから、というだけじゃない。確かにマット・デイモン演じる霊媒の才能をもった男も、フランス人の女性ジャーナリストも「来世」を“見た”し、それをぼくたち観客も“目撃”した。しかしイーストウッドは、ここでそれを決して「天国」だと言ってはいない(あのモノクローム風に描かれた「来世」は、むしろ「冥府」のようではないか)。 ・・・この映画に登場する、3人の一度“死んだ”者たち。その体験ゆえに彼らは、それぞれ「死の意味」を求める苛酷な日々を送ることになってしまう。この世にありながら「来世[ヒアアフター]」を追い求め、あるいは逃れようとする彼らにとって、もはやこの世界こそが「地獄」に他ならない。 だが、それぞれ長い“「地獄」巡り”を経て、3人は運命的(まさに「ディケンズ」の小説のように!)に巡り会う。その後で、映画は“2つの抱擁”を描くだろう。ひとつはとある施設の殺風景な1室で、もうひとつは何でもない雑踏のなかでの抱擁。しかも雑踏でのそれは、男がはじめて「来世」とは別に“見た”「この世」のヴィジョンなのである。 ・・・彼とフランス人のヒロインが(もうひとりの主人公である少年の、天使[キューピッド]的な計らいによって)出会い交わす、抱擁とキス。その“幻視”の後、ふたりは雑踏のカフェに席をとり、親しげに語らう。このラストシーンこそ、イーストウッドがはじめて描いた「天国」だ。その何という穏やかさと、美しさ。[映画館(字幕)] 10点(2011-02-22 17:57:45)(良:4票) 《改行有》

25.  戦場のピアニスト ホロコーストとは、決して映像によって描き得ない。だから私は当事者たちの”証言(声)”によってホロコーストを記録したのだ、とは『ショアー』を撮ったクロード・ランズマン。必ずしも彼のあの作品に対して全面的に賛同するものじゃないけど、確かにアメリカ映画なんかでナチによるユダヤ人虐殺ものを見て、シリアスな問題提起のようでいて、結局は怖いもの見たさの観客の好奇心に訴える「殺人ショー(!)」でしかなかったりして(『シンドラーのリスト』…)、暗たんたる気持ちになるしなあ…。ジャック・リヴェット監督が批評家時代に言った、ほとんどすべてのホロコーストものの劇映画はポルノグラフィーであるという言葉は、まさしく真実だ。もちろん、ロマン・ポランスキーだってそんなことは百も承知だったろう。だから『シンドラーのリスト』の監督オファーも断ったんだろう。それが、本作を手掛ける気になったのは、この映画があくまで「生き残った者(たち)」に捧げられたものだったからに他ならない。ほとんどすべてのホロコースト映画が、殺戮を、つまりは「死んでいった者たち」を対象にしていたのに対し、ここでは、運と成りゆきに救われながら生き延びていく主人公こそを徹底して肯定する。たとえどんなにぶざまで、ひとりよがりであろうと、そんな主人公が生き延びた、ただその一点だけで肯定する本作は、逆説的にホロコーストの核心を照射してみせたといえるだろう。…正直、ポランスキーの最高傑作とは言えないかもしれないけれど、一世一代の代表作であることは間違いない。拍手(ブラボー)!9点(2003-08-27 13:58:47)(良:4票)

26.  わが谷は緑なりき 炭坑で働く屈強な兄貴たちが、ひ弱な末っ子にケンカの仕方を教えたり、何かとさりげなく気を配る。 ああ、これってジム・シェリダン監督が『マイ・レフトフット』で美しく“再現”していたなぁ…と、しみじみ思い出す。 その末っ子がある日病気で立てなくなり、神父の励ましにより、大きな樹の下でよろよろと立ち上がる。 …少なくともこの映画を見ている間は、これ以上崇高なシーンなど、これまでもこれからも絶対にあり得ないとかたく信じ込む。 そして、主人公一家の長女を演じるモーリン・オハラの、何という美しさ! 彼女こそ映画の中で描かれた最高の女性だと、これも見ている間じゅうぼくは狂おしく“恋”してしまう。 この世界が耐え難く醜く思えたり、自分を含めた人間が嫌いになった時、ぼくはいつもこの映画に「還る」。そうすると、ふたたび生きていけるような気がする。 そういう意味において、これはぼくにとっての「理想の映画」に他ならない。ジョン・フォードにとっても、この作品よりも完成度の高いものや優れたものはあるだろう。ぼくだって他に好きな作品、感服する作品はいっぱいある。けれど、間違いなく、この映画は「特別」な一本なのだ。単なる「映画」としてでなく、「人生」においての。 ところで、貴方にとって「映画」とは何なのでしょう?10点(2004-06-21 21:57:38)(良:4票) 《改行有》

27.  サルート・オブ・ザ・ジャガー 《ネタバレ》 『ブレードランナー』や『許されざる者』、『12モンキーズ』などの脚本家デビッド・ピープルズが、初監督に挑戦したSFアクション。例によって原始時代に逆戻りしたかのような未来世界で、何かホッケーかラクロスと格闘技を足したようなスポーツの巡業(?)の旅を続ける、ルトガー・ハウアーとそのチームの物語です。彼らのところに、まるで『七人の侍』の菊千代みたいにジョアン・チェンが強引に加わり、やがて彼女が一流のプレイヤーに成長するまでの間に、師弟愛を越えたほのかな恋愛感情あり、卑劣な敵側の陰謀あり…と、まあこの手の映画にありがちな展開ではあるんですよね。しかし、ルトガー・ハウアーたちが試合に命がけで挑み、ひとつの試合を生き抜くとまた次の試合に臨むために荒野を徒歩で移動する姿は、まるでTVドラマ『コンバット』や『プライベート・ライアン』あたりの歩兵小隊そのまま。そんなかれらのストイックな生きざまが、めちゃくちゃカッコいいんだな。映画の最後、大きな町のチームに迎え入れられたジョアン・チェンと、また黙々と次の試合相手のもとへ旅を続けるハウアーたち。その対比に、ぼくは本物の「ヒロイズム」を見た思いです。そう、これは真の”戦士”についての、シンプルだけど実に力強く思考された一考察に他ならない。ただ暴力的なだけじゃなく、知的にも、情動的にも深いインパクトを与えてくれるドラマです。 《追記》ああ、ようやくこの映画に“救いの手”が現れた! 【なにわ君】さんのレビューを拝見して、ぼくも「8」じゃ映画に申し訳なくなってしまいました。よって、今さらながらの満点献上。本当にこの作品にみなぎる「心意気」と「気高さ」こそ、今の自分に必要なものだと痛感。どうにかして、もう一度見たいなあ。… 《再追記》あらためて【なにわ君】さん、どうもありがとうございます! ぼくが唯一行く弱小レンタルビデオ店には置いてないので、今度DVD探してみますね。ただ、この映画の原題も2種類あるし、別バージョンのものがあるのかもしれませんねぇ…。 《再々追記》おおっ、久々に同志が…(感涙)。【映画の奴隷】さんのレビューで、あのラストシーンが鮮明に浮かんできました! ああ、また見たいっ! しかし小生が行くレンタル店には、この映画がないっっ! 嗚呼。 《再々々追記》おおっ、“同志”がまたひとり![映画館(字幕)] 10点(2003-11-17 11:30:20)(良:4票) 《改行有》

28.  BALLAD 名もなき恋のうた 《ネタバレ》 映画の中で、人々が「記念写真」を撮る場面は、どうしていつも感動的なのか。それは、たぶん人物の写真を撮ったり撮られたりすることが、まもなく彼や彼女たちに訪れる“別れ”を暗示し、予告するものだからだ。・・・小津の『麦秋』や侯孝賢の『悲情城市』における家族写真、『少年時代』の主人公と村のガキ大将が撮った2人だけの写真、等々。『二十四の瞳』でも、大石先生と子どもたちが撮った写真は、いくつもの別離のたびにその悲しみを深めるものだった。  この『BALLAD』にも、「記念写真」の場面が登場する。それは武将・又兵衛とその配下の武士たちが、明朝に敵陣を強襲する前に、未来から来た少年・真一の父親が「写真を撮りましょう」と提案する場面だ。初めての写真に、緊張する又兵衛たち。だが、思い思いのポーズをとったりふざけあいながら、彼らは、楽しげに撮影に臨む。そして又兵衛は、「これで、この世に生きたというあかしを残せた」と感謝するだろう。 この場面は、こよなく美しい。それは、死地へとおもむく者たちを描くための、ただの感傷的な設定に過ぎないのかもしれない。だが、監督・脚本の山崎貴の意図がどこにあったにしろ、わざわざ真一の父親の職業を「(売れない)カメラマン」にしてまで盛り込んだ、この、原作アニメにもなかった場面があるからこそ、ぼくにとって『BALLAD』は忘れがたい作品となったのだった。山崎監督は、映画において「愛する人々の写真を撮る」ことの悲劇性を、ここできっちりと見据えている。タイムスリップを題材とした荒唐無稽な時代劇が、先に挙げた小津や侯孝賢作品をはじめとするひとつの「映画(史)的記憶」に満ち満ちたものとしてあることへの驚き・・・。 もちろん、そういった小賢しい贅言を弄さずとも、その美しさは、『非情城市』や『麦秋』がそうだったように、誰の胸をも打つものだとぼくは信じる。確かに、少年の成長物語としても、姫と武将の悲恋ものとしても、この映画はただただナイーブにすぎて、「オトナ」である貴方は嘲笑するばかりかもしれない。しかし、そういった作品が一方で、驚くほど豊かな「感情[エモーション]」と「表現」を実現していること。その事実をぼくたち観客も、見る、あるいは感じ取る“責任(!)”があるとつくづく思う。 というワケで、満点献上でも良いのだけれど、やはりここは原作アニメに敬意を表して・・・[映画館(邦画)] 9点(2011-09-02 18:05:58)(良:4票) 《改行有》

29.  イージー・ライダー ある意味、ゴダールの『勝手にしやがれ』以上に「映画」そのものの概念を一変させた奇跡的な作品でしょう。ズームレンズ1本でアメリカを横断すりゃ、それで映画なんか出来ちまうという、コペルニクス的転回! ただ、そのイージーな方法論(?)が真に成功したのも、この本作のみということを映画史は記録することになる…。いきあたりばったりな展開のなかから、「アメリカ」という国の”素顔”が、”本質”が鮮やかに浮き彫りにされ、それは今見ても十分インパクトがある。ただ、映画に「物語」だの「生理的刺激(=興奮・快感)」といった「面白さ」だけを要求する向き、1本の作品を自分なりの興味なり意志なりで「読みかえる」ことをせず、単にその与えられた「面白さ」の好みのみを評価の判断基準にする向きには、やはりオススメしませんが。と、「物事を素直に見れない性質の悪い天邪鬼」であるぼくは、10点献上したうえで、あえて申っせていただきます。10点(2003-10-08 11:04:21)(良:4票)

30.  岸和田少年愚連隊 ただひたすら喧嘩を繰り返す。やったらやり返され、やり返されたらまたやることの繰り返し。いくら「岸和田」とはいえ、こんな中学生どもがおるかいっ! …と思う前に、その徹底した「反復」の“無意味さ”こそに井筒カントクは勝負を賭けたのだな、と思う。ナイナイ演じる主人公たちは、その際限のない喧嘩の「反復」の中で決して人生(!)を学んだり、人間的に成長(!!)したりしない。主人公の父親と祖父がいつも見ている、テレビの動物番組の野生動物みたく、果てなき闘争だけがどんどん“肥大化”していくだけだ(主人公たちを動物番組で暗喩する、心憎い語り口!)。しかし、一方で彼らは、この「反復」の外へ出なければならないことにも薄々と気づいている。だのに「出口」が見つけられないことの焦躁と無力感が、この一見ハチャメチャな土着(?)コメディに微妙な陰影を与えていることは間違いないだろう。…悪い冗談ではなく、この映画は何かとてつもなく「悲劇的なるもの」を漂わせていると、ぼくは本気で信じている。シジフォスの神話を思い出すまでもなく、果てしない堂々巡りを生きざるを得ないこと、無意味であることを承知しながらもその円環から抜けだせない“無間地獄”に陥ること、そういった「反復」こそが真に「悲劇的」でなくて何だろう。…たぶんカントク自身が「そんな屁理屈はいらんわいっ!」とおっしゃるだろうゲロ、ぼくはそれゆえに本作を“畏怖”し、愛するッパ! (←ゴメン、ぐるぐるさん。つい…)10点(2004-04-16 16:39:05)(良:4票)

31.  キング・コング(2005) ピーター・ジャクソンが、どれだけオリジナルの『キング・コング』とそのキャラクターを愛しているかを、ぼくもまた決して疑うものじゃない。それはこのリメイク作品においても、全編から、ディテールの隅々から伝わってくる。例えば、コングの住む断崖に散らばる巨大な骨や頭蓋骨。それを画面にさりげなく見せることで、コングが、家族や仲間の死に耐えたまったくの“独りぼっち”であることを観客に示す。それゆえ、彼がアンという「相手」を得たことの喜びを、何があっても彼女を守ろうとすることを、ぼくたちは素直に納得できるのだ。 しかし、人間であるアンもまたこの巨大な「怪物」に“愛”を、そういって言い過ぎならば“愛しさ”を抱く時、この映画はオリジナル版の〈美女と野獣〉の寓話性を失ってしまい、単なる「メロドラマ」に陥ってしまったのではないか。コングが、彼女の前ですねたり強がったりする表情やしぐさは、確かに素晴らしくチャーミングだ。ぼくもまたそんなコングを愛さずにはいられない。しかし、コングがそうやって「人間的」に描かれれば描かれるほど、これは“異形の者の悲恋もの”に過ぎなくなってしまう(…クライマックスで、エンパイアステートビルにアンとともに逃げ登る本作のコングは、まるでエスメラルダを伴ってノートルダム寺院の尖塔に登るカジモドのようだ。そう、これはむしろ『ノートルダム・ド・パリ』のリメイクといった方がふさわしいのではあるまいか…) もちろん、メロドラマだから悪いと言ってるんじゃない。でも、決して相容れない美女(=人間)であるからこそ、彼女に魅せられ身を滅ぼす野獣(=コング)の物語は、「神話」へと昇華されたのではなかっただろうか。だのに今回のコングは、たとえ死ぬとはいえ十分に愛され、何と幸せ者かと思ってしまう。しかもその“愛”が、自分に忠実で無償の愛情を注いでくれる「ペット(!)」に向けられたものではないと、誰に断言できるだろう…。 オリジナルで、最後まで恐怖の悲鳴をあげ続けたフェイ・レイのヒロイン。コングを決して「人間」とも「ペット」とも思わなかった彼女の方が、どれだけ“誠実”だったことかとぼくは思う。もちろん、そんなのは不当なイチャモンだと言われればそれまでだ。しかしなぜかこの映画には、そんな文句を投げかけたくなってしまう。…ごめんよ、ピーター・ジャクソン。[映画館(字幕)] 6点(2006-02-03 16:37:58)(良:3票) 《改行有》

32.  フラットライナーズ(1990) 映画の中で、臨死体験ののちに様々な過去のトラウマの「実体化(!)」に悩まされる医学生たち。その中のひとり、子どもの頃にいじめた女の子への罪の意識に追い立てられるケビン・ベ-コン扮する青年は、あらためて彼女の家を訪ね、心から赦しをこう…。 彼女が青年の謝罪を受け入れて、ぎこちなく微笑を浮かべた時、ぼくは不覚にも涙がとまらなかった。…そう、ぼくもそんな「女の子」を知っている。小学6年生の時の同級生で、クラス全員の男子から嫌われいじめられていた彼女。ぼくもまた、友人がふざけて頭に被せた彼女のカーディガン(赤い色だったこと、左わきのところが少しほころんでいたいたことまで覚えている…)を、床に叩き付けたことがあった。その時は何も思わなかったのに、笑っている友人たちの顔と、黙ってそれを拾い上げる彼女のことは、その後もふとしたことで蘇ってくる。…繰り返し、何回も、何回も。 …あまりにも「個人的」な、他人にとっても、映画にとってもどうでもいいことだろう。けれど、ぼくにとっては何よりも切実な「記憶」にこの作品が触れたこと、そして、映画のなかであの青年が赦された時、ぼくもまた「救われた」気がしたことだけは記しておきたいと思う。ぼくには、あの彼女の所に赴き、昔のことを謝罪する“勇気”などない。しかし(というか、だからこそ)青年に自分を重ねあわせ、見ている間だけは自分も「赦された」と思えたことを映画に感謝したいのである(もっとも、あれから一度も見直していない。やっぱり、つらすぎるので)。 ありふれた流行歌が、どんな言葉にもまして深い“なぐさめ”を与えてくれることがあるように、とるに足りないようなただの娯楽映画が、ある者にとってどんな高尚な芸術作品よりも人生の「真実」を開示してくれることがある。だからぼくたちは、映画をこんなにも愛し、あるいは求めてしまうんだろう。 ぼくも死ぬ直前に、「K.H」さんに“会う”のだろうか。その時、あの赤いカーディガンを着ているんだろうか。ぼくはきちんと謝れるんだろうか。… 10点(2004-06-13 18:06:22)(良:3票) 《改行有》

33.  汚れなき悪戯 映画の初めの方で、主人公の男の子マルセリーノが、道ばたで架空の友だち「マニュエル」と遊ぶシーン。“マニュエル、それはね…”とか、“マニュエル、ほら…”とか言いながら独りで遊ぶそのマルセリーノの姿は、あまりにも無邪気で、無垢で、愛しくて、そして悲しくて、もう、涙なくしては見られなかった…。最後に見てからもう10年以上は経っているはずなのに、いまだこの映画(から受けた感動)はありありと鮮明に覚えている。それはきっと、この映画が、キャメラだの、構図だの、カット割りだのといったものにとらわれることなく、ただ「小さな奇蹟」をあるがままに物語ろうとした、その“てらいのない「純粋さ」”ゆえじゃないでしょうか。そんな眼差しの中でなら、たとえ屋根裏のキリスト像がマルセリーノの“相手”をしてあげるために動きだそうとも、ぼくたち観客は素直に納得させられてしまう。もはや宗教的な意図を越えて、このひとりぼっちの幼い男の子のために彼(キリスト)は“復活”したのだと納得させられる。そのために、この子が神の国へと召されることになっても、ひとりの「天使」がふたたび天上へと帰っていったのだと、たとえキリスト教とは何の関係もないぼくたちですら、素直に心打たれ、祝福できるのでしょう…。芸術であるとか、娯楽であるとかいったこと以上に、「映画」というメディアは、時に“この世で最も美しい何か”を現出するという「奇蹟」を実現してみせる。それを《神の顕現(エピファニー)》と言いうるのなら、ここにはまさしく「神」が宿っている。…にしても、「7歳までは神のうち」という箴言は、洋の東西を問わないんですね…。10点(2004-03-05 12:56:53)(良:3票)

34.  はなればなれに 小生が初めて見た映画館(というか、ホールでしたが)では、途中の1巻を抜かしたまま上映し、エンドタイトルが出た後に改めて抜けた巻から上映し直したワケです。明らかに映写ミスなんだけど、小生を含め、観客のほとんど(たぶん)がそれを「おお、これもゴダールの手法か?」と思いつつおとなしく見ていた(笑)…という、恥ずかしくもお粗末な思い出の作品。一見すると学生の自主映画に毛がはえた程度の、ユル~イ犯罪&青春悲喜劇なんだけど、初期ゴダ-ル作品中でも最もナイーヴな「あやうさ」と、だからこその「みずみずしさ」に溢れているっていうか。特にアンナ・カリーナの時代を超越した素晴らしさには、現代のスレッカラシな(失礼!)青少年のハートすらわしづかみすること必至でありましょう。ホントっすよ! 小生的には、あの美しすぎる列車内でのシーンに、もうメロメロにさせられたものです。トリュフォーの『突然炎のごとく』のごとく”男2人・女1人”の三角関係ドラマも、若きゴダールが撮ればこんなにも遊びと内省とに満ちた「ポップ」な作品になる。どちらがいいと言うんじゃない、どちらも素晴らしい。9点(2003-12-03 18:56:29)(笑:2票) (良:1票)

35.  ラブ・アクチュアリー 試写会で幸運にも見ることが出来ました。だって、あと何回でも見たい! と思わせてくれる素晴らしい映画でしたから。 とにかく、ここには《愛》というものが人にもたらすものの、ほとんどすべてがある。それは「喜び」であり、「慰安」であり、「優しさ」であり、時には「苦痛」や「絶望」であり…。ドストエフスキーは愛を失った心を「地獄」と言ったけれど、いくつもの《愛》が交叉する、一見すると他愛ないこのロマンチック・コメディは、その実そんな「地獄」を直視することで成立しているのだと思う。そう、きっと誰もが一度は愛に惑い、見失うことの絶望を、「地獄」を知っている。だからこそ、それが一方でどんなに苦悩やせつなさをもたらそうとも、人は愛さずにはいられないのだ…と。 個人的には、リーアム・ニーソンの父親と息子のエピソードが最も好ましかった。いや、誰もがこの「小さな恋の行方」を、それこそ愛さずにはいられない、と断言しておきましょう。もちろん、その他の様々な《愛》のカタチの、そのどれをとっても、人生のささやかな“現実”と“真実”がしっかりと盛り込まれている。 それをここまで軽やかでスウィートな「コメディ」に仕立て上げたリチャード・カーティスの脚本・監督に、今は最大限の賛辞を贈ろう。そしてこう言いたいと思う。 「…この映画のおかげで、今少し人間を、世界を、信じていけるような気がする。ありがとう」と。10点(2004-01-17 18:33:22)(良:3票) 《改行有》

36.  パッチ・アダムス 《ネタバレ》 この映画を絶賛する方々の気持ちも分かるし、否定する方々の言い分も理解できる気がする(ロビン・ウィリアムス大っ嫌いだから映画も嫌いとか言うのは、論外。小生も別に大好きな役者ってワケじゃないけど、彼が嫌いゆえに作品ケナすんなら、初めから見なければいいだけの問題では?)。個人的にはそんなに悪い出来の作品じゃないとは思うのだけど、この映画、カラダの病いに対しては”寛大”だけど、ココロの病いにはとてつもなく「偏見」をあらわにしているのが、どうしても気になるというか、悲しく指せられる…。精神病患者を笑い者にしたり、鬱病の青年を「アブナイ奴」どころか殺人者(!)に仕立てたり、よしんばそれが「実話」であろうと、こんな安易さで彼らの事を描くことは、ただ世間に「心を病む者=怖い人」と煽るだけじゃないか。で、犠牲になった主人公の恋人(彼女は、どうやら幼い頃に性的虐待を受けたらしい…)が、蝶々になったというあたりの展開は、メロドラマチックだからこそ余計にあの鬱病の青年を「悪者」として印象づけると、ぼくには思えました。くり返すけれど、出来映えは悪くない。だからこそ、作り手たちの「無知」と「安易さ」が残念です。4点(2003-12-03 16:42:50)(良:3票)

37.  グランド・キャニオンの対決 極端な“引き(ロングショット)”と、人物のバストショットを交互に組み合わせただけの、いたってシンプルな画面。だのに、何でここまで惹き付けられるんだろう…。グランドキャニオンの圧倒的な景観の中で繰り広げられる、連続殺人。捜査を担当する保安官の周囲の人物がどれも怪しいっていう、思わせぶりな展開の割には意外性のない犯人ってのがご愛嬌だけど、クライマックスのゴンドラ上での対決は、テレビで見る分にも実にスリリングです。まだ「B級」時代のドン・シ-ゲル作品とはいうものの、簡潔さに徹したその「経済的」な語り口は、ぜい肉だらけの「A級」大作か、箸にも棒にもかからない「C級」のジャンクに二極分解した感のある昨今のアメリカ映画を思う時、あらためて「映画の真髄」というものをかいま見せてくれる。そう、映画にゃ思想も詩想もいらん、きっちりと意味内容を提示するショット(映像の断片)を撮って、それをムダなく編集していきゃいいのだ…と。この「カツドウ屋精神」こそが、やはり映画そのものなのだ。8点(2004-04-13 14:57:54)(良:3票)

38.  ラルジャン 「たまげた」とは、漢字で書くと“魂消た”となる。タマシイが消えるほどの驚愕ということの本当の意味を、ぼくはこの映画で知りました…。少年の作った稚拙な「偽札」が、人の手から手へと“流通(!)”していくことの不条理。その1枚のために、投獄され、妻子を失い、遂には善良な一家を惨殺する男の顛末は、運命というより、あたかもそれが「必然」であるかのように、寸分のブレもなく進んでいく。…フランケンシュタインの怪物は「感情」を持っていたがために悲劇を招いたけれど、この映画の男は、徹底的に感情を喪失した「怪物(モンスター)」として映画の最後に君臨する。ゆえに、もはやこれはどんな悲劇でも不条理劇でもない、究極の「ホラー映画」に他ならない…。繰り返すけれど、ぼくにとってこれほど恐ろしい映画はなかったし、これからもないだろう。単なる“好き・嫌い”を超越した次元でこの作品は、《映画の極北》として、絶対零度的な寒々しい輝きを放ち続けている。…ヘタに近づくと、あなたのタマシイも凍りついちゃいますよ。10点(2004-03-03 13:47:26)(良:3票)

39.  メンフィス・ベル(1990) どこに爆弾落としても、地上の人間は死ぬっつーの! それを、「爆撃するのは軍事施設だけだ」とかぬかす若造どもの偽善ぶりが、映画そのもののユル~イ感じと相まって、見ている間じゅう怒りを禁じ得なかったことを、今も昨日のことのように思い出す。最近のアメリカが、戦争の時に目標だけをピンポイントで攻撃するなんて言うのを聞かされるたびに、この映画のことを連想してしまうんスよね。大ウソツキ野郎どもが! (…と、確かにこういった見方は、「映画と現実を混同視しすぎてる」と非難されるかもしれない。けれど、どんなファンタジーや夢物語だって、このぼくたちが生き、死んでいく”現実’の所産なのだし、もし、そういう”現実”を無視した、あるいは無自覚な作品が成立したとして、そんなものは徹底して無意味かつ無価値なシロモノでありましょう。少なくとも、ぼくはそう信じています。)[映画館(字幕)] 0点(2003-06-06 16:34:25)(良:3票)

40.  16ブロック ニューヨーク市警の刑事で、どうやら離婚経験者である主人公。それを演じるのがブルース・ウィリスとくれば、誰だって『ダイ・ハード』シリーズを思い浮かべるだろう。事実この映画には、今は酒におぼれる自暴自棄な日々を送るジョン・マクレーン刑事の“後日談”めいた雰囲気がある。これを、シリアスに撮られた『ダイ・ハード4』だとすら言っていいかもしれない。 しかしあのシリーズが、<刑事もの>というジャンルを超えて、どんどん「見せ物(スペクタクル)性」をエスカレートさせていったのに対し、『16ブロック』は、あくまで<刑事もの>というジャンルにとどまり続ける。警察内部の腐敗や、護送中に心の絆がうまれる犯人と主人公の刑事といった、この手の映画の約束事というか定石を律儀なまでに踏襲していくのである。 それゆえこの映画は、一見すると地味で派手さに欠けた「普通」の映画、ひと昔もふた昔も前によくあった感じのありふれた映画にすぎないようにも思える。けれど、けれどそれは、作り手であるドナー監督自身によって意図的に選びとられたスタイルであり“戦略”に他ならない。わざと色調をおさえたトーンの荒い画面にしても、まさしく1970年代の映画のようなテイストをめざされたものであるだろう。ドナー監督は、あえて<ジャンル>に忠実というか自覚的な映画を撮ろうとした。何故か? たぶん<ジャンル>こそが、“映画が「映画」として成立する規範”であると、彼は信じているからだ。 CGの登場、あるいはルーカス=スピルバーグの登場によって、映画は<ジャンル>を逸脱することによる新たな「見せ物性(スペクタクル)」を開拓してきた。しかし一方でそれが、なんでもありの、「今まで見たことのない映像」を競うことの自堕落な増長を招いたことも確かだろう。だからドナーは、CGによる見せ場も、非現実的なアクションも禁欲(あの『リーサル・ウェポン』の監督が、だ)することで、あえて<ジャンル>への意識に満ち満ちた本作を撮った。映画そのものを、「アメリカ映画(!)」を“とりもどす”ために。そのことが、かろうじて「1970年代の(アメリカ)映画」にふれることができた年代の観客にとって、何より感動的なことなのだった。 そう、映画なんて、たとえば小道具に“小型ボイスレコーダー”ひとつあれば、充分なのだ・・・ [映画館(字幕)] 10点(2006-12-01 16:05:39)(良:3票) 《改行有》


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