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プロフィール
コメント数 731
性別
自己紹介 奥さんと長男との3人家族。ただの映画好きオヤジです。

好きな映画はジョン・フォードのすべての映画です。

どうぞよろしくお願いします。


…………………………………………………


人生いろいろ、映画もいろいろ。みんなちがって、みんないい。


…………………………………………………

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評価順1234567891011121314

61.  フォー・ザ・ボーイズ ベット・ミドラー、本当に素晴らしいですよね。何で一度も日本でコンサートやってくれないんだろう…。ともかく、彼女が自分のプロダクションこさえて、『ローズ』で一緒だったマ-ク・ライデル監督を引っぱりだして(監督は監督で、気心の知れたジェームズ・カーンと自分の息子を呼び出して)、もう、やりたいようにやったという感じが、やや暑苦しくもあるけど、素直に拍手してあげたいっす。特に、あのベトナム慰問シーンは、何度見ても感動させられるし。《追記》2005.1.11ビデオで久しぶりに再見。映画の中で、「あの二人なら、ボブ・ホープ&ビング・クロスビーを超えられる」というセリフがある。ぼくもまた、このベット・ミドラーとジェームズ・カーンのコンビなら、あの偉大なホープ&クロスビーを超えられる! と、本気で思ったのだった。それほどまでに、本作のミドラーとカーンは素晴らしい。とりわけミドラーは、本当に本当に本当にファビュラスでマーヴェラス!! …確かに映画は、時代の上っ面をなぞっただけの通俗的なメロドラマであるに過ぎないのかもしれない。けれど、人の心を癒し、なぐさめることもまた「娯楽」の効能であるのなら、これは間違いなく最高の「娯楽映画」のひとつだろう。ミドラーとカーンに敬意を込めて、あらためて評価を「8」から「10」へとさせていただきます。10点(2003-05-31 12:42:09)(良:2票)

62.  パニック・ルーム プロットは確かにサスペンス・スリラーの王道。だけど、あのデビッド・フィンチャーがまともにそんな映画を撮るワケないじゃないか。…と、考える人こそが本作の幸福な鑑賞者になれるでしょう。すべてに破格な『ファイト・クラブ』の後、彼が次に目論んだのは、ワンショットもゆるがせにしない古典的演出を、いかに現代的なキャメラワークで実現できるかということ。実際、ここでフィンチャーが見せるサスペンス演出は、あきらかに50・60年代的なものであり(この作品と比較するに最もふさわしいのは、『不意打ち』というオリビア・デ・ハビランド、ジェームズ・カーン主演の1964年度作品でしょう)、いささかも「現代的」な大袈裟かつセンセーショナルなこけおどしを用いていない。それゆえ、かったるいだの、物足りないとおっしゃる向きも分からなくはないのだけど、そういう時に皆さんが求めているのは「サスペンス」じゃなく「サプライズ」でしょう? そういったハズシ方こそが、いかにもフィンチャーらしい「戦略」だと思うんだけどなあ。あと、これを「本当は『エイリアン3』をこういう風な映画にしたかった」という彼の、”裏『エイリアン3』”として見ても、面白いんじゃないでしょうか。…この見方、ダメ? 9点(2003-10-06 18:21:16)(良:2票)

63.  ヴァン・ヘルシング そう言えば、あの『ハムナプトラ』だって本来は、ユニバーサル映画の古典的ホラー『ミイラ再生』だったんだよなぁ。 で、今回はいよいよユニバーサル・ホラーの主演モンスターたち揃いぶみできたかあ! …たぶん、先に発表された『リーグ・オブ・レジェンド』の内容を聞いて、「あ、俺もそのネタいただき!」てなもんで、嬉々としてデッチあげた企画なんじゃないかな。 そして出来上がったのは、例によってノーテンキな笑いとアクションとサプライズ満載の、まさにマンガ的世界。例によって、観客の微笑・失笑・爆笑を買っているようだ。正直、ぼくもその1人です。ただ、ソマ-ズ作品の場合、至る所にあるツッコミどころやアラも、笑っているうちに、何だかあらかじめ計算している…意識的に仕組んでいる気がしてこなくもない。まさかとは思いながら、実はデタラメすらわざと“ギミック”として用いているんじゃないかと…。 そうだからこそ、単なる新奇なスペクタクルやもの珍しさばかりを見る者に押し付ける、昨今のCGだらけのアメリカ製エンターテインメントの典型に見えて、ソマーズの映画はハッキリと一線を画すものだと言えるだろう。彼の映画を見るぼくたちは、「おいおい、そりゃ何だ!」とか、「そこんとこ、ウソっぽい!」とか否定的な向きであろうと、知らず知らず作品に「主体的(!)」に関わっていることになるからだ。 特にここ最近の映画の場合、ぼくたちは、「見る」んじゃなく、「見せられている」という“受け身”の立場にたたされていることが多い。その時、ただ「面白さ」や「刺激」をスクリーンから与えられているばかりで、もはや何も考えない。結局のところそれはただ映画に“反応”しているだけのことだ。 しかしソマーズは、この映画においてもそうだけど、どこまでも「おバカ」に徹しているようで、観客の積極的なツッコミを“要請”している。「楽しませる」だけじゃなく、「楽しむ」ことを見る側に求めている。ボケとは、漫才がそうであるように高度な“知性”の産物なのだ。 映画とは、本来そういった映画と観客との「間」において、はじめて成立するものだったはずだ。人と人との間に、愛が成立するように。 そんな、「何より大切なこと」を、あろうことかスティーブン・ソマーズの映画に教わるとは…。だから映画は、あなどれまへん。 以上、与太めいてますが、ぼくはマジです(笑) 8点(2004-09-15 17:03:33)(良:2票) 《改行有》

64.  禁断の惑星 クレジットはされていなかったと思うけれど、”原作”はシェークスピアの『テンペスト』! 無意識(イド)が目に見えない邪悪な怪物となる、というあたりの設定にしろ、一見典型的な1950年代SFのようで、その知的かつ思索的な内容は、今見ても決して古びていません。愛嬌満点のロボットは、確かTVの『宇宙家族ロビンソン』にもレギュラー出演してましたよね。何より、超ミニスカート姿のアン・フランシスがラブリーだし、当時にしては本格的な電子音楽も、なかなかに新鮮だし…と、ほんと盛りだくさん。昨今の、精巧だけど味気ないCGによる紙芝居風映像にウンザリする向きにはぜひおすすめしたい、これぞセンス・オブ・ワンダーの真髄といった名作ですぞ。9点(2003-11-10 17:25:00)(良:2票)

65.  スーパーマン(1978) 幼いスーパーマンが、中西部の田舎町で育つ場面の何という美しさ! ほとんどアンドリュー・ワイエスの絵画的風景とノスタルジックな情感豊かさに、思わずナミダが出そうになってしまった…(この部分が劇場版より長いヴァージョンがあるそうだけど、ぜひ見たい!)。そして、空を飛ぶ、というイメージを、この映画ほど優雅に、ポエティックに見せてくれる映画もないんじゃないかな。日本じゃ(本国アメリカでも?)大味なアクション監督と思われているリチャ-ド・ドナ-監督だけど、彼の映画には、どんな失敗作(『リーサル・ウェポン2』『ラジオ・フライヤー』…)にも不思議なセンシティビティーとロマンチシズムがあって、もっとその部分に光が当てられてもいいのになあ。とまれ、この『スーパーマン』は、ドナーの最もロマンチックな映画であります。10点(2003-05-26 15:15:00)(良:2票)

66.  チョコレート(2001) 正直、ハル・ベリーはミスキャストだと思う。あんなに美しい女性なら、ソーントンならずとも(どんな人種差別主義者でも!)コロリとまいっちゃうよなあ。あれが、せめてアンジェラ・バセットくらいの器量なら、もっと二人の孤独や切実さがひしひしと伝わってきたのに。あと、あまりにご都合主義的な展開も、安っぽいメロドラマ以外の何物でもない。監督はかなり頑張ってそこに生気を吹き込もうとしているものの(その映像感覚は、確かに見るべきものがあったとは思う)、及ばずって感じか。そしてあのラスト、…どうも「ハッピーエンド」という解釈が一般的みたいだけど、どう考えてもあれは決定的な”破局(カタストロフィ!)”を予感させるものでしょ? …すみません、文句ばかり並べたみたいで自分でもイヤなんだけど、こういう作為にまみれた作品にはどうしてもガマンならないもので。見るべき部分も多いんですけどね、ヒース・レジャーの屈折ぶりとか、ざらりとした映像の質感とか…。《追記》先日、友人夫婦宅でこの映画を再見する機会があり、見方を改める部分が多々ありました。どうもぼくは、この映画の上っ面しか見えていなかったようです。恥ずかしい…。ただ、やはりハル・ベリーは(素晴らしい女優であることは承知しているものの)、この映画にふさわしくなかったという思いは変わりません。あきらかに彼女の「美貌」が、あのヒロインを演じるにあたってマイナスになっている。そしてラストも(友人夫妻ともここが最も意見の分かれるところだったのですが)、ぼくにはどうしても「ハッピーエンド」を予感させるものには見えなかった。それどころか、あのラストの直後、きっとふたりは決定的なカタストロフィーを迎えたという気がしてしかたがないんです…。それは何も、自分の夫を「殺した」からというんじゃなく、夫の死刑執行人だったことを黙っていたという“裏切り”ゆえに(その前に、ヒロインは男に対して「私を傷つけないで、大切にして…」と言っていたのではなかったでしょうか。それを、結果的に彼は裏切ってしまった…)。そういうヤリキレナサが、今回もぼくの、この映画に対する見方を大きく喪失させるものでした。ゆえに、作品の評価は改めますが、点数は変えません。ヒロインの息子の死だとか、この映画はあまりに「運命」というものを安易にもてあそびすぎるという、その一点において。3点(2003-05-29 11:28:03)(良:2票)

67.  居酒屋ゆうれい ぼくとしては、かなり面白くてよく出来た現代の「人情噺」だと思いますよ。ショーケンも好演だったし、室井滋はのほほんとした、しかしこの世のものではない幽霊の滑稽と悲哀を上手く表現していたし、山口智子はイロッぽかったし。それに、居酒屋の客たちの小さなエピソードや、ネオンサインなど「小道具」を使った語り口の巧さも、ちょっとした名人芸の域。こういう「普通に良い映画」が当たり前のように劇場にかかるようになると、本当にいいのにな…といった、ひさびさに「らしい」日本映画でした。[映画館(邦画)] 8点(2003-10-17 17:42:36)(良:2票)

68.  マイアミ・バイス マイケル・マンの映画は、文字通り「男(マン)」を描いたものだと、よく言われる。が、実はそれ以上に「プロフェッショナル」たちの姿、ただそれだけを描こうとしたものなのだと思う。刑事であろうと犯罪者であろうと、彼らは、自らの成すべき「仕事」をただ果たそうとする。「仕事」のためなら、彼らは臆することなく死地へと向かう。プロである彼らにとって「よく生きる」ことは、「よく死ぬ」ことと同義なのだ(唐突だが、武士もまた「仕える者(=プロ)」であるなら、『葉隠』の「武士道とは死ぬことと見附たり」とは、何とマイケル・マン的な定義であることだろう!)。 映画は、そんなプロたちが「プロ」たるゆえんを凝視する。銃や武器の鮮やかな扱い方、車の転がし方、あるいは敵地へと潜入する時の物腰、表情・・・。そして主人公たちが一撃(ワンショット)で相手をしとめるように、マンの映像(ショット)は、そのひとつひとつの〈所作〉を、恐ろしいほど的確(クール!)に捉えていく。それ自体がプロフェッショナルな〈所作(=演出)〉によって、マンは、“巨大麻薬組織に挑む潜入捜査官たち”という「物語」とは別の次元で「映画」を成立させるのである。すなわち、プロたちが自分たちの「仕事」を遂行する姿、その〈所作〉だけによって。 一方でマイケル・マンの映画が男と女ののっぴきならない“関係”を描くのは、彼らもまた一介の男であり女であることを示すためだろう。その時この、「プロ」であることと「人間(マン)」であることの葛藤もまた、いかにもマイケル・マン的な主題であるだろう。が、しかしあくまでも主人公たちにとって、「仕事」を完遂することが最優先される。“情”は、常に「その次」なのだ(・・・ただ、たぶんこの『マイアミ・バイス』に唯一“瑕疵”があるとしたら、コリン・ファレルとコン・リーの刹那的な恋愛部分がいささか端折られ過ぎている、ということだろう。たぶん、再編集の段階によるカットで?)。 確かに、トニー・スコットやマイケル・ベイあたりの映画のように新奇(珍奇?)なスペクタクルもなく、「劇(ドラマ)」的な面白味に配慮のない無愛想(!)な映画かもしれない。けれど〈所作〉の英語訳が「アクション」なら、この映画は、言葉の真の意味において完全無欠の「アクション」映画に違いない。COOL![映画館(字幕)] 10点(2006-09-08 20:07:03)(良:2票) 《改行有》

69.  ルーカスの初恋メモリー まるでひと昔もふた昔も前の少年漫画みたいなストーリーだけど(頭はいいけどチビで家庭に問題がある男の子が、年上の少女に恋をするが、彼女はハンサムなスポーツマンの別の男の子に恋をしていて…)、実に繊細かつ優しく主人公の日常を見つめる眼差しに好感大。”弱者”に対しての想像力が欠如したものの多いアメリカの青春映画にしては、ハートを感じさせてくれる貴重な作品かな。主人公にひそかな好意を持つ内気な少女役で、あのウィノナ・ライダー(映画デビュー)がとっても可憐な存在感を放ってるのもマル。DVDを買って持っておきたい1本です。8点(2003-06-11 13:49:21)(良:2票)

70.  紀元前1万年 《ネタバレ》 神話や伝説なんかに接する時、往々にしてその「語り」の飛躍ぶりやご都合主義、デタラメさに驚かされる。そこでは人と動物が対等にコトバを交わし、何年もの時間がひと言で片付けられたりする。そして語り手(とは、その神話なり伝説を産んだ「集団的(無)意識」の具現化した存在=声に他ならないんだけれど)の思惑や気分(!)により、平気で展開や細部が変更・改変されることも常のことだ。でも、だからこそその「語り」は現代のような、緻密さと物語の整合性、テーマに汲々とした「神経症」的な息苦しさから解放された、あるすがすがしさや味わいがあるのだと思う。 オマー・シャリフの「語り」で物語が進行する『紀元前1万年』は、何よりも先ず、そうした「神話的・伝説的」な叙述[ナラティヴ]を映像化する試みとしてぼくは見た。というかこれは、最新のCG技術やらテクノロジーを駆使しつつ、しかし徹底して「現代的」な物語の叙述から身を離そうとする映画以外の何物でもないのじゃないか。だからこそ登場人物の「内面」やら心理的葛藤なんぞは、あっさりとナレーションで語られる程度なのだし(・・・例えばペーターゼン監督の『トロイ』は、登場人物たちの内面に寄りすぎたその「現代的」な演出ゆえに魅力を欠いたのだ、とすら言ってしまいたい)、死んだヒロインの“蘇生”場面にしても、あくまでそういった「語り」の要請に忠実だったゆえなのだ。すべてに成功している映画だとは思わないけれど(人々を支配する神のごとき存在がWASP風の「白人」だったというオチの、いささか安易な寓意性はむしろ不要だろう・・・)、その“大胆さ”こそ本作を真に興味深い作品にしているのではあるまいか。 そう、エメリッヒ監督の映画は、これまでもそのどこか反=時代的な「語り」のおおらかさこそが魅力なのだった(まあ、それを「バカバカしさ」ととる向きもあるんだが)。本作は、そういった「語り」そのものに監督自身がのめりこんでいるかのようだ。それゆえ、彼の映画としてはあまりに“作家性(!)”がオモテに出すぎた感がなくもない。が、「神経症」めいた映画にどこかイヤ気をさしていた観客にとって、これほど映画ごころを慰撫され、ホッとできる作品もないだろう。 エメリッヒ、やはり断固支持![映画館(字幕)] 8点(2008-06-03 16:03:59)(良:2票) 《改行有》

71.  カリスマ 「人は自然状態にあると自己保存の権利を行使しあい、果てしない死闘に明け暮れる」という、哲学者ホッブズの『リヴァイアサン』の定義そのままに展開する恐るべき寓話。何より戦慄させられるのは、この映画に描かれたようにこの現実の世の中が、絶えざる恐怖と暴力による死の危険に満ち満ちてきているってこと。「9・11」以後の世界をここまで予言した映画もないと思う。ただ、畏怖あるのみ。10点(2003-05-21 18:12:24)(良:2票)

72.  バットマン ビギンズ う~ん…。 結局この映画の作り手たちは、「バットマン」というものにまったく興味がないんだろう。原作コミックにしろ、ティム・バートンの映画化作品にしろ(あのシューマッカー監督作品にすら!)、この奇妙なコウモリ男が活躍するヒーロー譚の<本質>は、実のところ精神的・肉体的フリークスたちによるグロテスクかつバーレスクな「祝祭」としての非日常性にあった。彼は、他のヒーローたち(スパイダーマン.etc)のように正常な「日常」を回復するために闘うのではなく、逆に、さらなる「非日常」をもたらす“司祭”とも言うべきアナーキーな存在なのである。結果的に悪を倒したとしても、それは単に「祭の終わり」を告げ、もたらすものであったにすぎない。そう、バットマンとは、あのビートルジュース(!)と実は同類の、非日常世界の住人であり「怪人(フリーク)」なのだ。スパイダーマンだのXメンだのが、ニューヨークをはじめ現実の都市を舞台に活躍するのに対し、バットマンが「ゴッサムシティ」という架空の街を背景にしていることを思い出そう。もしバットマンをこの「現実世界」に登場させたなら、彼はたちまち狂人か精神異常の犯罪者として人々から石を投げられるにちがいない。バットマンが「ヒーロー」として“生きられる”のは、あくまで彼を含めたフリークスたちが思いのままに振る舞える、非日常世界でしかないのだ。…そういった“倒錯”にこそ、「バットマン」の真のユニークさがあったはずだった。 だのに、クリストファー・ノーラン監督たちは、何としてもバットマンをこの「現実」に引っぱりだそうとする。精神的フリークとしてでなく、自分の“弱さ”や心の闇を克服せんとする「求道的(!)」ヒーローとしてだ。ブルース・ウェインがカネにものをいわせてバットスーツやらモビールを開発していく過程を、映画は克明に見せてくれる。いかにも、「これはファンタジーだけど、いかにも“リアル”なファンタジーだろ?」と得意気に。だが、もはやそこに「バットマン」はいない。代わりにぼくたちは、単なる「金持ちのボンボンによる冒険物語」に付き合わされることになる。 とにかく、「バットマン」をシリアスな“色気のないジェームズ・ボンド映画”にした罪は重いぞ。…こんなの、バットマンじゃないやい![映画館(字幕)] 5点(2005-06-22 20:13:57)(良:2票) 《改行有》

73.  マネーボール 《ネタバレ》 この映画の脚本は、アーロン・ソーキンとスティーブン・ザイリアンという2人のアカデミー賞受賞者が担当している。 ・・・弱小球団アスレチックスを、「マネーボール理論」によって奇跡の“再生”を実現した若きゼネラル・マネージャー、ビリー・ビーン。その半生を描くという展開だけを見るなら、これは米国版プロジェクトXというか、典型的なサクセス・ストーリー以外の何物でもない。 だが、ソーキン脚本の『ソーシャル・ネットワーク』がそうだったように、これは、実在の人物に材を得た単なる成功譚というより、はるかに同時代的かつ思索的な「内省」へと見る者を導く、すぐれて知的な映画だといえるに違いない。と同時に、ザイリアン脚本の『シンドラーのリスト』がそうだったように、これはひとつの「歴史」を変えた人物が、“何を成し遂げたか”という伝記的な側面より、その「内面」の変化(それを、「成長」とも「成熟」とも「覚醒」とも呼んでいい)を見つめた映画でもある。 そう、『ソーシャル・ネットワーク』は、主人公が“何かを成し遂げた(=成功した)ことで失ったもの”の大きさを、まさにひとつの「悲劇」として描いたものだった。一方、この『マネーボール』のビリーは、将来を嘱望されながらメジャーの選手として大成しなかった。そんな男が、今度は弱小球団のGMとして革新的な理論で優勝をねらえるチームづくりを実現してみせる。まさに、“失ったことで、何かを成し遂げた(=成功した)”人物なのである。そして、他球団から多額の年俸で引き抜きの声がかかっても、ビリーはアスレチックスにとどまる。彼は「金額」に置き換えられるような成功よりも、もっと「かけがえのないもの」があることを学んだのだ。あのオスカー・シンドラーのように。あるいは、驚嘆すべきザイリアンの初監督作、『ボビー・フィッシャーを探して』の天才チェス少年のように。 こうして『マネーボール』は、ソーキンとザイリアンという名脚本家たちの、理想的な合作ぶりを堪能できる作品となった。もちろん、それを見事に映像化してみせたべネット・ミラー監督の手腕も、高く評価されるべきだろう。メジャーリーグという喧騒と熱気に満ちた世界を描きながら、あくまでも静謐でクールな映像のなかから登場人物たちの“体温”が確かに伝わってくるような演出ぶり。まこと、これは近年最高のアメリカ映画の1本だ。[映画館(字幕)] 10点(2014-10-29 14:25:45)(良:2票) 《改行有》

74.  リオ・ブラボー 冒頭、ヨレヨレのディーン・マーチンが悪党の放り投げた痰つぼの中の銭を拾おうとする情けない姿にはじまって、ジョン・ウエインの保安官が、この殺人を犯した悪党を逮捕するまでのシーン。確か、ウエインが「貴様を逮捕する」と言うまで台詞がなかったのでは? …いったいどんなハードな西部劇になるのかと思いきや、映画は、歌あり、男の浪花節(?)的友情あり、カッチョいいガンプレイあり(リッキー・ネルソンの投げたライフル銃をウエインが受け取り、間髪入れずブッ放つあの名場面!)、アンジ-・ディッキンソン姐御の脚線美あり、とどめにダイナマイトの「玉屋ぁ~」的なドンパチあり…と、もうアレヨアレヨの快調ぶり。ああ、映画ってこんなに“幸福”なものだったんだと、思わず知らず「うれし涙」がにじんでくるほどです。そして最後に「キミを逮捕する!」の台詞でしめくくる洒落っ気のイキなことといったら…。問答無用の痛快西部劇でありながら、こういったソフィスティケーションもかねそなているところこそ、ハワ-ド・ホ-クス監督ならではなんだろうな。もし、まだこの映画をご覧になっていないなら、アナタは幸せ者だ。だって、これからこの素ッ晴らしい楽しさ、映画の至福ともいうべき体験ができるのだから。そしてジョン・ウエイン! ぼくはあなたが誰よりも好きだっ!!!10点(2004-01-14 20:01:45)(良:2票)

75.  I am Sam アイ・アム・サム この映画に言いたいことは、ただ一言。「障害者を食い物にするなっ!!」。映画の中で、むしろ悪役扱いだったあの役人こそが唯一まともな人物に思える、すべてに偽善(にすらなっていない…)と、あざとさに満ち満ちたメロドラマ。サイテー!!! 点数の全ては、ミシェル・ファイファーの艶っぽさに。ああ、思いだしてもハラが立つ代物だったっす。2点(2003-05-20 10:36:50)(良:2票)

76.  ダーティハリー あらためて見直して(もう何度めだろう!)つくづく素晴らしい映画だと再確認、そして再感動! ハリーが最初にマグナムをブッ放す銀行強盗一味とのシーンで、ホットドックをもぐもぐしながらひとりずつ仕留めていき、最後に生き残った犯人に対して、ニヤニヤしながら「俺の銃にまだ弾が残っているか、運だめししてみないか?」と凄むあたりにウットリ…。これ以上カッコいいヒーロー(というか、アンチヒーロー)はいまだもって空前絶後ですよねえ! 自分をしか決して信じない男でありながら、そんな自分自身に対しても醒めた眼で見られる…これぞ男の中の男っす。クリント万歳、シーゲル御大万歳!!10点(2003-09-16 11:20:30)(良:2票)

77.  アフロ田中 いや~、笑った笑った。フィルムとDVDでもう10回以上は見たけれど、そのたびにナミダを流しながら笑わせていただいた。そしてそのナミダには、笑いすぎてと同時に“感動の涙(!)”すら交じっているのだった。劇中の田中ではないが、ソレッテ、凄イコトナンダヨォ~と、声を大にして申し上げたい。この映画は単なる童貞男子のドタバタ悲喜劇でありながら、それ以上に【ザ・チャンバラ】さんがおっしゃる通り極めて「知的」な批評性と、何より男たちへの“友愛(!!)”に満ちあふれたものなのである・・・  この映画が描くのは、徹頭徹尾「男子」というものの“恥ずかしさ”であり“生きにくさ”であるだろう。高校中退のブルーカラーで生まれてこのかた女性にモテたことのない、すべてにおいて“負け組”な主人公・田中。だが、それゆえに彼の意識内は、無意味な虚栄心と自己卑下、焦燥とあきらめ、期待と疑心暗鬼・・・その他もろもろの両義的な感情に常に引き裂かれている。本人にとっては切実なこのアンビバレントな感情の“ずれ”を、そのつど田中のモノローグ(というか、独りごと)で語らせる時、第三者にとってそれが実に滑稽であること。そのことに作り手たちは、ハッキリと自覚的だ。しかもその笑いは、世の男たちにとって大なり小なり自嘲をともなった苦さと“共感”とともにあるんである。そして、そうしてとった行動が、結局ことごとく裏目に出てしまう・・・そんな主人公を、同じ男子たるもの誰が愛さずにいられようか!  主人公の内面をコトバにして語らせる。一見それは、単なるコントめいた安易な手法と受け取られかねない。けれどこの映画は、その葛藤や“ずれ”を具体化することによって、そこに「笑い」を生み出すことに成功している。下手な「アクション映画」なんぞよりもっとスリリングな“(感情の)めまぐるしい動き”によって、見る者を笑い(と、共感)の渦へと巻き込んでいくのだ。そして、その脚本や演出意図をくみ取った主演・松田翔太の快(怪?)演や、彼のいかにもな友人たちを演じた共演者たちの素晴らしさ・・・  以上、特に前半に見せた過去と現在を自在につなぎ合わせる語り口の才気も含め、この映画は2012年の大きな収穫だとぼくはかたく信じるものであります![映画館(邦画)] 10点(2012-12-26 14:48:33)(良:2票) 《改行有》

78.  ブロンコ・ビリー 小生にとって、イーストウッド作品のワン・オブ・ザ・ベスト。何度見ても、最後のあの星条旗のシーンに涙が…。この映画と『許されざる者』が、イーストウッドの西部劇への、ひいてはアメリカ合衆国への”挽歌”だったんでしょうね。彼が単なる愛国ナショナリストじゃないってことは、サム・ボトムズ扮する脱走兵の扱いを見ても明らか。ジョン・ウエインは絶対的に服従すべき「偉大な」親父=体制そのものだったけど、イーストウッドはいつでも自身の”弱さ”を隠さない一匹狼。そんな男が、弱者ばかりの一座=疑似家族を作っていく本作(と『アウトロー』)には、彼の理想とする「アメリカ」がどんなものかが、見えてくるようです。10点(2003-05-20 12:37:26)(良:2票)

79.  インディアン・ランナー もう、何も言うことはありません。ただ、ショーン・ペンは本物の映画作家であると。ジョン・カサヴェティスのインプロヴィゼ-ション的アプローチとも違う人間への肉薄の仕方は、ほんと素晴らしいです。以後の監督作品も、どれをとっても逸品だし。だのに、なぜ世間は『デッドマン・ウォーキング』みたいな、所詮はウエルメイドなメロドラマばかりを称揚するんだろう…10点(2003-05-20 12:51:12)(良:2票)

80.  ターミナル 《ネタバレ》 別にトム・ハンクスが出演して、「空港」が重要な舞台になっているからと言うんじゃないけれど、この映画はやはり『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』との関連で語られるべきなんだと思う。設定も、物語にも、何のつながりはない。でもこの2本は、ひとつの〈主題〉において連続している。つまり、〈父〉という主題において。 あの作品のディカプリオ演じる主人公は、実の父親を“捨てる”ことで、トム・ハンクス扮するFBI捜査官という理想的な「父親(的存在)」を得る。つまり主人公は、父親を心の中で「殺す」ことによって、ようやく立ち直ることができたのだった(その後、主人公の父親は本当に死んでしまう…)。そして今回はトム・ハンクスが「息子」を演じ、亡き父親とのある“約束”を果たすために、空港内で何ヶ月も足留めを食らうという不条理な悲喜劇をサバイバルしていく。あきらかに『キャッチ・ミー~』で見捨てた父親との“和解”こそが、この映画ではめざされているのだ…(そう考えたなら、なぜキャサリン・ゼタ=ジョーンズの客室乗務員とのロマンス部分があれほど“淡白”な描かれ方だったかが、納得できる。あの老インド人同様、彼女もまた「自己犠牲」によって主人公を救う、人間の“善意”の象徴であり、こう言って良ければ主人公の「主語天使(!)的存在」として配されていたのだと)。 少年時代、母親が弟と妹を連れて家を出たというスピルバーグ。「自分は捨てられた」、という悲しみと、残された父親との確執は察するにあまりある。そして彼は、そういった心象を常に密かなモチーフとして、自作品にしのばせてきた。特に近年の作品には、ますます私小説ならぬ「私映画」的傾向が色濃くなってきたように思える(たとえば、“母に捨てられた子ども”の物語としての『A.I』…)。しかも、それをあくまで大ヒット狙いの商業映画として成立させようとしているところに、ヒットメイカーとして宿命づけられた彼の“困難さ”があるんだろう。でもぼくは今回のこの映画を、ひとりのアダルト・チルドレン(!)だった監督による、おかしくて悲しい、けれど「救い」に満ちた美しい〈ファミリー・ロマンス(家族の精神史〉だと信じて疑わないのです。8点(2005-01-21 17:26:02)(良:2票) 《改行有》


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