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プロフィール
コメント数 731
性別
自己紹介 奥さんと長男との3人家族。ただの映画好きオヤジです。

好きな映画はジョン・フォードのすべての映画です。

どうぞよろしくお願いします。


…………………………………………………


人生いろいろ、映画もいろいろ。みんなちがって、みんないい。


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81.  ベスト・フレンズ・ウェディング ストーリーも、展開も、けっこうありきたり。なんだけど、これくらい監督のセンスを感じさせる映画も最近じゃ珍しい。特に、音楽の使い方がバツグンで、ミュージカル映画の新たな可能性すら見た気がした。ハッキリ言って、単なるラブコメなんかの水準をはるかに越えてます。素晴らしいです。これでダーモット・マローニーがハズレじゃなかったら、満点だったのに。 《追記》久しぶりにBSにて再見。いや〜、やっぱりムチャクチャ素敵かつ「うたごころ」にあふれた傑作! でした(オープニングタイトル場面の、MGMというよりは往年のパラマウント的な色彩感覚!)。そしてダーモット・マローニーが、実は得なようでいて損な役回りを、ほとんど何を考えてんだコイツ的「無意識過剰(?)」と希薄な存在感で演じこなしている・・・と再認識。申し訳ない、マローニー殿。[映画館(字幕)] 9点(2003-07-16 17:04:38)(笑:1票) (良:1票)

82.  顔(1999) 藤山直美のパンツ丸出しの熱演には、皆さん同様ただ感服あるのみ。社会からハミ出すほどに輝いていく主人公像は阪本順治カントクならではだけど、ここまで豊かなキャラクターになったのは、ひとえに彼女のおかげです。淀川長治さんは、阪本カントクのことを「今にモダン溝口健二になる」とおっしゃったけれど、この映画なんかまさにそんな感じ。恐れ入りました。見事です、素晴らしいです。人の好みはそれぞれだとは思うけど、気に入らなかった方、お願いですからそんなに軽くケナさないでくれませんかねえ…。10点(2003-06-28 15:47:58)(笑:1票) (良:1票)

83.  ウェディング・プランナー こんなこと書くと、いかにも映画マニア的でイヤラシイんだけど、夜の公園での野外映画上映会で、突然雨が降り出すシーンが本当に美しくて…。それだけでカネ払って見る値打ちがあったと思いましたです。ほんと、上質のイタリア映画を見ているようでした。《追記》TV放映で再見。やっぱりステキな映画だと思うけどなぁ~。まあ、ここまであからさまに1950・60年代のロマンチック・コメディの感覚を 蘇らせたってことが、かえってストーリーの“ご都合主義”を際立たせることになった感は否めない。けれど、それこそがこの映画の最大の魅力であり、「美質」じゃないですか! それにこの映画の監督には、間違いなく“うたごころ”とでもいうべき映画のツボを心得たソフィスティケーションがある。いつか本格的なミュージカル映画を撮ってほしい才能です。断固支持!!!9点(2003-05-20 15:33:07)(良:2票)

84.  さらば愛しき女よ ロバート・ミッチャムのフィリップ・マーローは、原作のイメージからだといささかクタビレ過ぎかも。ただ、だからこそこの、メロウでハードボイルドな世界にぴったり溶け込んでいるんスよね。ディマジオの連続安打記録更新だけを楽しみにしつつ、醜悪な社会の闇(=病み)へと踏み込んでいく探偵マーロー。『三つ数えろ』のボギー以上に、その「諦観」をにじませたミッチャムの存在感に魅せられました。そして、シャーロット・ランプリング! この美しき”ビッチ”な悪女役こそ、彼女のキャリアのなかでも最も輝いたものじゃないでしょうか。どうも忘れ去られた映画のようだけど、1970年代に作られた探偵映画としちゃあ、『チャイナタウン』に優るとも劣らない名作だと、小生信じとります。あのシルベスター・スタローンも、頭の悪そうなツラしてチラッと出演しているしね!9点(2003-12-05 18:09:32)(良:2票)

85.  父親たちの星条旗 18世紀プロシアの軍人クラウゼヴィッツは、その古典的著書『戦争論』で言っている。戦争の「本領」とは、「憎悪と敵意」を伴って遂行される暴力行為だ、と。 戦場において国民(=兵士)たちは、ただこの「憎悪と敵意」を増幅することだけを課せられ、そのエスカレーションとともに相手国民(=兵士)を殺し・殺される。そして、そんな「憎悪と敵意」をむけるべき〈敵〉としてのみ、本作の日本兵たちは描かれるのだ。だから、彼らは「顔」がない。徹底して得体のしれない“脅威”としてのみ、アメリカ兵たちの前に現れる。その時『父親たちの星条旗』は、これ以上なく端的に戦争の「本領」をぼくたち観客に見せつけているのである・・・。 一方クラウゼヴィッツは、「戦争とは異なる手段をもってする政治の継続である」とも言っている。「憎悪と敵意」をぶつけ合う戦場とは別に、国家にとって戦争とはあくまで政治的な「外交(!)」の手段なのだ、ということか。事実、映画のなかで政治家たちは戦争を継続するために、何とか戦場から生還した兵士たちを、国民が国債を買うための“道具”として利用する。兵士たちは、否応なくもうひとつの戦争の「本領」に巻き込まれてしまう。いわば、彼らは「憎悪と敵意」と「政治」という二重の「戦争」を戦うハメになったのだ。 そう、これまで常に〈体制〉からハミ出した「個人(アウトサイダー)」を演じ・描き続けてきたイーストウッドは、そんな「個」を単なる“道具=消耗品”としてしか扱わない戦争そのものの〈本質〉、ただそれだけをこの映画のなかで表出しようとした。声高に「反戦」を叫んだり、賛美・正当化する「反動」に走ったりするのではなく、いかに戦争が〈個人〉をないがしろにすることで遂行=継続されるものであるかを、ある痛み(と、悼み)とともに観客へと伝えようとしたのだと思う。同時にその時、本作が、ジョン・フォード監督の『コレヒドール戦記』(原題は、「They Were Expendable(彼らは消耗品)」だ…)に呼応し共鳴しあうものであることも、ぼくは深い感動とともに確信する。  その上で、『硫黄島からの手紙』を撮ることによって、あらためて「兵士たち」を人間として、〈個人〉として追悼しようとしたイーストウッド・・・。この「硫黄島二部作」において、彼はジョン・フォードをすら“超えた。この2作品と「今」出会えたことを、ぼくはただただ幸福に思う。[映画館(字幕)] 10点(2007-01-17 15:43:55)(良:2票) 《改行有》

86.  怪物の花嫁 ティム・バートンの『エド・ウッド』に合わせて、まとめて公開されたエド・ウッド御本人の映画を何本かみるにつけ、意外にも画面にある種の雰囲気というか、独特のアトモスフィアを漂わせる才に長けている…という感想を持った者として、彼を「史上サイテーの映画監督」というレッテルのもとに嘲笑い、葬り去る風潮には断固異義をとなえたいっす。そりゃあ、セットや支離滅裂なストーリーテリングはお粗末かもしれないけど、ひとつひとつの画面には、陰影に富んだ「端正さ」がある。特にこの映画は、1940年代の恐怖映画のムードをかなり良く出した、なかなかの代物じゃないでしょうか。モンダイ(?)の大ダコのシーンも…まあ、バートンの映画で茶化されるほどには失笑ものではない…こともないか(笑)。とまれ、偏見抜きでぜひ一度ご覧あれ。7点(2003-10-29 13:01:57)(良:2票)

87.  デス・レース2000年 ロードショーで見て(自慢)、キッチュなウサンクサイ面白さが「なかなか」と思っていたら、いつの間にか「おバカ映画のケッサク」としてカルト化していたのね、これ。幸い、昔に撮ってそのままになっていたTV放映時のビデオが出てきたんで再見したら、キッチュさはそのままなれど、ウサンクサイならぬただのビンボークサイ映画でしかないことに、がっかり。こういう未来の”ディストピア”な殺人ゲームを描いたものでは、(スティーブン・キングが別名義で書いた原作ともども)あきらかにこの映画の影響下にある『バトルランナー』が、質量ともに超えちゃったからなあ(賛同者は少ないかと思いますが…)。ともあれ、いかにもロジャー・コーマン的な”バイオレンス、セックス、そしてささやかな社会派ブリッコ”のなつかしい味わいは珍重に値します。聞けば、トム・クルーズがこれをリメイクするって話だし。…本気か? 《追記》いやぁ~、本当にリメイクが決定したみたいですね。で、監督が『バイオハザード』やら『エイリアンvsプレデター』の人…。いえ、まあいいんですけどね。けど、やっぱり↑の方もおっしゃる通り、ポール・バーホーヴェン作品で見たかったなぁ。せっかくのカルトな「お宝(?)」映画を、単なる頭の悪い本物の「バカ」なヴァイオレンスものにされちゃう気配が濃厚だもんなぁ…。6点(2003-10-06 14:51:23)(良:2票)

88.  空の大怪獣ラドン 東宝の怪獣ものとしては、『ゴジラ』と並ぶ代表的傑作にして古典。炭坑での奇怪な連続殺人に始まって、少しずつ事の核心へと至っていく展開が、ほんとスリリングです。特に、ジュウシマツか何かの卵から、ラドンの孵化につながるシーンは、屈指の名場面。後半のラドンによる市街破壊のスペクタクルも、CG全盛の現代だからこそそのミニチュア合成が逆に新鮮なんじゃないかな。いや、もうまったく、この頃の怪獣映画は志が高かった…9点(2003-10-06 16:11:47)(良:2票)

89.  ニワトリはハダシだ 本作の監督さんである森崎東の映画には、どんなに深刻な状況や主題(例えば「原発」やら「差別」など)を描く時でも、常に〈喜劇〉であろうとする“意志”というか“心意気”を感じさせる。社会の底辺や、社会からはみ出して生きざるを得ない人々が多く登場する森崎作品は、そんな人々の抱える悲惨さや「問題」ではなく、彼らの生きる熱気を、そのバイタリティこそを見つめようとする。虐げられた人間にも、おかしければ笑う自由(!)はあるし、耐え忍ぶんじゃなく思いっきり泣く、罵る、暴れまくる権利(!)がある! …それが森崎流の「人間喜劇」の真髄なのだと思う。彼の映画には、文字通りそういう人間たちのエネルギーこそがみなぎっている。 『ニワトリはハダシだ』というタイトルからも、そういった、この監督ならではの精神が息づいている。そう、ニワトリがハダシなら、人間はハダカだ! 「問題」や困難に直面すればするほど、われわれはハダカになって、つまり何一つ隠すことなく思いっきり泣いたり、怒ったり、笑ったりするんだ! …と。なるほど、確かにここでは驚異的な記憶力を持つがゆえに、偶然見つけた国家的スキャンダルにつながる裏帳簿を記憶してしまい、警察と暴力団の両方から追われる知的障害者の少年とその家族(しかも母親は「在日」二世でもある)の受難が描かれている。しかしそこには「社会派」風のメッセージやもっともらしい告発の姿勢じゃなく、少年一家が力の限り怒り、恐れ、立ち向かい、最後には朗らかに笑いあう姿ばかりがあるだろう。そこでは笑いと涙が、暴力と慰安が、憎悪と愛が、至るところで“衝突”しあうことで「ドラマ」が生まれる。その集積が、この、渾沌としていながらどこまでも清々しく、〈生〉への大いなる肯定に満ちた、美しい映画なのである。 最後に、出演者はみな素晴らしいものの、中でも新人の肘井美佳(まるで相米慎二監督の映画における薬師丸ひろ子のようだ!)と、倍賞美津子のオモニ(母親)役の李麗仙に、ぼくは深く心打たれ、魅せられたことを付け加えておきましょう。9点(2005-02-24 11:54:57)(良:2票) 《改行有》

90.  アメリカン・スナイパー 《ネタバレ》 この映画の謳い文句によると、主人公クリス・カイルは「アメリカ軍史上最多160人以上を射殺した伝説のスナイパー」とある。が、「狙撃兵(スナイパー)」ではないものの、ひとりの兵士として敵兵を最も多く射殺した者といえば間違いなくオーディ・マーフィーだろう。そしてかつてドン・シーゲル監督は、この第二次世界大戦の英雄で後に西部劇スターとなったマーフィーを、『ダーティハリー』の連続殺人鬼である「狙撃犯(スナイパー)」“サソリ”役に起用しようとしたらしい。「なぜなら、彼は本物の大量殺人者だから」と。 この『アメリカン・スナイパー』におけるクリス・カイルは、中東で紛争が起こるたびに志願して戦場へと出かける。それは義務や使命感という以上に、“仲間を助けるために敵を殺す”という、単純にして彼にとっては絶対的な「倫理観」ゆえだ。しかし、ミサイル砲を手にした少年に照準越しに「それを捨てろクソッタレ!」と毒づく時、彼は自分が少年を「殺したがっている」ことに気づいたのだ。「殺すこと」そのものが、自分のなかで目的化(!)したことに気づき、だから愕然としたのだ。だからその後、家族のもとに帰還したクリスがどこか“不穏”なあやうさを漂わせ、これが実話であることを忘れてぼくたち観客は、彼による決定的な「カタストロフィ(悲劇)」の予感(予兆?)におののきながら固唾をのんで見守ることになるのである。 もちろん、実際は帰還後のクリスが「殺人鬼」になることはない。むしろ彼は、同じ帰還兵の手によって不慮の死をとげる。だが、この映画を見てきた僕たちは、彼を殺すその帰還兵とはもはやクリス自身のアルターエゴ(別人格)というか“もうひとりの自分”に他ならないことを確信する。そしてその時、これがドン・シーゲル監督が『ダーティハリー』でひそかにもくろんでいた〈主題〉を、そこで主演俳優だったイーストウッドが今度は監督として継承し完成させたものであることを、ある感動とともに深く納得するのである。ーー狙撃犯の“サソリ”と、狙撃兵のクリス。つまり彼らは、ともに「アメリカン・スナイパー」に他ならなかった・・・。 こうしてぼくたちは、底知れない“闇(=病み)”を抱えたイーストウッド的主人公像を前に、またも震撼させられることになるのだ。[映画館(字幕)] 10点(2016-03-29 13:38:19)(良:2票) 《改行有》

91.  ペコロスの母に会いに行く 《ネタバレ》 原作コミックは未読だが、まさかこれほど「ハゲ頭」の男たちの挽歌(?)な映画だとは予想もしていなかった・・・。まあ、岩松了演じる主人公がハゲなのはポスター等からも窺えたが、温水洋一や竹中直人(は、登場してしばらくはいかにも不自然なフサフサ頭だが・笑)、加瀬亮までもが変装した加藤茶みたいな“ヅラ頭”を披露してくれるのだ。さらに介護センターの職員や、主人公のライブ演奏場面でチラリと映し出される客にいたるまで、やたらツルツル頭が目につくんである。 そうなってくると、“認知症と老人介護をめぐるヒューマン・コメディ”という宣伝文句(には、偽りはないんだが)以上に、ずばりこれは「(ハゲ男たちの)喜劇」なのだ、と納得させられた次第。そりゃあ、そうだ。だって監督は、あの森崎東なのだから。 森崎監督の喜劇は、しばしば「怒劇」として語られる。それは、社会の周縁で生きる人々の喜怒哀楽、そのなかでも“怒”を描いてきたからだ。貧困や偏見、差別などによって蔑まれた者たちが、それでもどっこい生きて(や)る! というバイタリティーこそが森崎映画の原点であり、「笑い」の源泉なのである。 しかし、この最新作においては“怒”ではなく、それ以外の“喜・哀・楽”こそが中心となっている、と言えるかもしれない。いや、むしろ“優(しさ)”の字こそがふさわしいだろう。・・・そう、ここにあるのは、すでに人生をじゅうぶんに生き抜いてきたひとりの女性、すなわち赤木春恵(と、原田貴和子)が演じた主人公の母親への、静かな賛嘆と慈しみの念ばかりだ。彼女は、昭和という時代を懸命に生き抜いてきた。そして、今はこうして現在ではなく「過去」の時間のなかで生きている・・・あの、眼鏡橋におけるひとつの「奇跡」的な瞬間。その記念写真の場面は、あまりにも美しい。それは、この映画が彼女に用意した最高の“贈り物”でなくしてなんだろう。 その時、ぼくという観客は滂沱のナミダにくれながら、森崎東監督の映画における“怒り”とは常に“優しさ”の裏返しだったことにあらためて思い至るのだ。社会的な弱者として語られ、かたづけられる者たちの側に「連帯」することで、そういう風に語り、かたづける者たち(=社会)への怒りを画面にたたきつけてきた森崎「喜劇」。その“優しさ”こそが、この作品に充ち満ちている・・・もはや、泣くしかないではないか。[映画館(邦画)] 10点(2013-11-22 19:40:03)(良:2票) 《改行有》

92.  村の写真集 映画の終盤近く、ダムに沈む村の人々を写真に撮り続ける父と息子が、山道で立ち止まってふもとの景色を眺める場面があった。そこには、山々に抱かれるようにして村落が広がり、いろんな生活風景が繰り広げられている。農作業に勤しむ老人、洗濯物を取り入れる主婦、学校帰りの子どもたち、自転車をこぐ女子高生、散歩する犬、…。そのひとつひとつを、画面は衒いなく、ただ丁寧に映しとる。そしてぼくという観客は、このなんでもない短い場面に途方もなく魅せられ、いつしか涙ぐんでいる…。 そう、これは、何よりも「風景」の映画だ。徳島の山深い自然の風景ばかりでなく、たとえば人間の日々の生活や営みをも「風景」としてとらえ、見つめるまなざしによって創られた映画。父と子、家族の葛藤と和解を主題としながら、それすらも「風景」のなかの点景として描く映画なのだ。しかも、決して高みから見下ろすような(ある種“傲慢”な)「神の視点」なんかじゃなく。 そんな、「人間」をも「風景」のように見つめること。日が昇り日が沈み、風が吹き木立を揺らすようにして“時間(とき)”が過ぎるごとく、人は生き、やがて死んでいくことを、ひとつの「風景」としてスクリーンに映し出そうとすること。…その時、この映画は、大げさじゃなくひとつの<コスモス(=宇宙・調和・摂理)>をフィルムのなかに創造し得たのじゃないか…と、ぼくは思う。 繰り返すが、それは決して「運命」だとか「死生観」だとかといっただいそれたものじゃない。それは、慎ましい人生の哀歓を、「物語る」のではなくそっと「見つめる」ことで成立していたかつての日本映画のように、ささやかだけれど美しい「風景」それ自体なのだ。 …かつて本作の三原監督が、『風の王国』で福岡アジア映画祭でグランプリを受賞した時、その作品を強く推したのが台湾の候孝賢だったという。彼もまた、「人間」を「風景」のように見出し、映し出す監督に他ならない。そう、『村の写真集』は、たとえるなら候監督の『恋恋風塵』のように美しい映画なのである。 拍手![試写会(字幕)] 10点(2005-05-17 21:21:53)(良:2票) 《改行有》

93.  怒りの葡萄 《ネタバレ》 こういう映画を、正真正銘ホンモノの名作と言うんです。大恐慌下の悲惨さを全面に出しながらも、類稀なる人間讃歌になっているあたり、まさにジョン・フォードの、そしてアメリカ映画本来の真骨頂。最愛の息子が殺人を犯し、逃亡しながらも、あくまで残された家族を支えて生き抜く決意をする母親役のジェーン・ダーウェルが、絶品中の絶品。オンボロトラックに家財道具を積み上げて、土ぼこりの荒野をヨロヨロと旅していく前半部分から、過酷なリアリズムを貫きながらも映像は息をのむほど詩的な瞬間の連続です。スタインベックの原作が20世紀の「ある真実」を直視した《叙事詩》なら、その映画化である本作にあるのは、祈りと憐憫に満ちた《叙情詩》的な眼差し、でしょうか。いつの時代にあってもその価値が失われない、これが「本当の映画」です。10点(2003-11-05 14:00:29)(良:2票)

94.  レディ・イン・ザ・ウォーター 《ネタバレ》 シャマランの映画におけるモチーフは、どれもあまりに単純というか、馬鹿馬鹿しいくらい「幼稚(プリミティブ)」なものばかりだ。「幽霊」、「不死身のヒーロー」、「宇宙人」、「都市伝説」、そしてこの最新作における「妖精」・・・。世の常識的(!)な大人たちにとってそれらは、せいぜい子供だましのギミックか、浮世離れしたファンタジーの口実(エクスキューズ)にしかならないだろう。 しかしシャマランの映画は、そんなあ然とするようなモチーフを、どこまでも大真面目に物語っていく。だから観客は、「これには何か、アッと驚く“仕掛け”があるに違いない」と思う。大のオトナが、幽霊や妖精などを「本気(シリアス)」に語るはずがないのだから。実際、シャマランの映画はこれまで、その“仕掛け”において(のみ)評価されてきた。 でもシャマランの映画が描こうとしたのは、やはり幽霊や妖精の方だったのだと思う。なぜなら、それらこそ「物語」の“根源的(プリミティブ)”なものに他ならないからだ。ヒトが「人」としての歴史を歩み出して以来、人間は常に「物語」を求め続けてきた。なぜだろう? たぶん他の生き物たちと違って、人間は、この過酷な世界=現実をそのまま受け入れることに、耐えられないからではないか。だから「物語」を通じてのみ、人は世界や現実を見出すことができた。恐怖や不安、苦痛から目をそらすのではなく(なぜならそれは、“現実逃避”という別の「悪しき物語」だから)、それを受け入れるためにこそ、人は「物語」を求めた・・・。 シャマランの映画は、そういった「物語」あるいは「物語ること」の根源にあるものを、あらためてぼくたちに教えてくれるものだ。この最新作で、ポール・ジアマッティ扮する主人公は水の精(その名も「ストーリー」!)を癒すと同時に、自分も「ストーリー」によって耐え難い過去の不幸な記憶から癒される。そして観客であるぼくたちはその主人公の姿に、「物語(ストーリー)」こそが人間にとって(たぶん唯一の)“救い”であることを深い感動とともに見出すのだ。 だからシャマランの映画は、プリミティブであるからこそ美しい。そう、何て美しく、愛しいんだろう・・・ (以上の文は↓の皆さん、特に【あにやん】さん、【すぺるま】さん、【のはら】さんのレビューから示唆されたものです。ありがとうございました!)[映画館(字幕)] 10点(2006-10-04 17:24:22)(良:2票) 《改行有》

95.  ダイナー(1982) 小生にとって宝石のような、宝物の映画。これほど異国の青春群像に共感した記憶って、それまでも、たぶんこれからも絶無じゃないかな。とにかくひとりひとりのキャラがお気軽なようでいてそれぞれに鬱屈していて、でもそれをやりすごすだけの覚悟はあるっていう…何て分かってるんだバリー・レヴィンソンという奴は! まだフレッシュだったミッキー・ロークほか、今にして思えばキャストも豪華で役柄にピッタリ。特にケビン・ベーコンには強烈なシンパシーを抱いてしまった。良いですか、これが「青春」という厄介な代物を最もカンペキに描いた映画でありますっ!! 《追記》最近ビデオでまた見直して、思うところがあったんで少しだけ補足を…。この映画の青春群像は、すべて「昔こういう奴らがいてさぁ…」という(多分に誇張…ホラっぽさを交えた)想い出話風のスタンスというか、“距離感”をもって描かれている。そしてそういう話は、どんなにシビアなものであろうと、過去という時間がすべてを帳消しにし、「笑い」とともに語られるものなんである(日本の“落語”なんか、まさにそうでしょ)。バリー・レヴィンソンという監督さんは、どんな題材を描こうとも常にそうした“距離”の感覚を作品に導きいれる。そこから、「昔、こんな奴がいた。で、こういうことがあった。すると、…」といった、レヴィンソン監督ならではの語りのスタイルが産まれたのだった。ともすればそれを、冗長だのムダが多いだのと言われもするけれど、すべてが絶叫マシン的な速度と興奮ばかりをエスカレートさせるばかりといった昨今のアメリカ映画にあって、彼の作品は間違いなく「大人」の手になるものだ。何故なら、過去を「笑い」とともに振り返れるのが、「大人」なのだから。そんなレヴィンソンの語りのスタイルが、すでにこの監督デビュー作において、完璧に成立している。あらためて、ぼくはリスペクトを込めて讃えたいと思う。10点(2003-05-27 20:16:21)(良:2票) 《改行有》

96.  トロイ(2004) 伝説的な戦士アキレスを主人公とした映画を撮ることになった時、ペ-タ-ゼン監督には、かつてフリッツ・ラング監督が映画化した『ニーベルンゲン』二部作のことが脳裏に浮かばなかったんだろうか…。あの第一部『ジーグフリード』において、竜の血を浴び不死となった主人公は、確か一枚の葉が背中に付いていた部分だけが不死身ではなかった。ちょうど、アキレスにおける“アキレス腱”のように…。 ラングはその後、ナチス・ドイツ政権下のドイツからアメリカへと亡命する。そしてハリウッドの「御用監督」として、娯楽映画を撮りまくったのだった。同様にペーターゼンも、(亡命じゃないけれど)ドイツからアメリカに招かれ、エンターテインメント大作の監督として重宝がられている。しかし、彼の前作『パーフェクトストーム』には、間違いなく〈運命〉というものへのゲルマン民族的(!)な感受性というか、眼差しがあったとぼくは信じているのだ。それが、あの映画を現代における《叙事詩》的なるものを、奇蹟のように実現してみせたのだと。…人は、どんなに抗おうとも自然(=神)の前に破れ去る。しかし、その抗う姿にこそ人間の「偉大さ」があることを描き、称えるのが《叙事詩》なのだから。 だからペーターゼンが、ホメロスの神話的叙事詩を映画化すると聞いて「やっぱり!」と期待していたのだったけれど… たぶん、「エンターテインメント」としては申し分のない映画ではあるんだろう。ブラッド・ピットは文句なしにカッコいいし、エリック・バナは儲け役だし、ローランド・ブルームだって損な役回りを懸命に演じているし。戦闘シーンも、どこまでがCGなのかぼくなんかには判断がつかないほど精巧で、スケール感において大したものだ。しかし、それだけのことだ。一瞬でもラングの名前を思い浮かべ、『ニーベルンゲン』を重ねようとした自分が、ひたすらバカだった… 見終わってその期待が、「やっぱり…」という嘆息に変わったことを、ここにご報告しておきます。映画が悪いというんじゃなく、ぼくが悪いんだろうけど。…嗚呼ペーターゼン 、本当にアンタは“この程度”のカントクなのか?5点(2004-05-28 13:03:33)(良:2票) 《改行有》

97.  揺れる大地 貧しい漁村を舞台に、素人の役者を使ってイタリア社会の“現実と悲惨”を告発するという、「ネオレアリスモ」とひと括りにされる映画を撮っても、ビスコンティの手になればかくも「贅沢(!)」なものになる。そもそも、この当時に2時間40分もの映画を、しかもクレーンまで使って(…とは、ぼくの記憶違いかもしれない。けれど、確かにクレーンを使ったショットがあったという“驚き”が、今も生々しく残っている)撮るなどという贅沢な真似を、ロッセリーニもデ・シーカもやりたくても出来なかったろう。内容にしても、権力者に搾取される漁民たちと、それに抗った若者の悲劇という、いかにも共産党の資金を得たという「プロパガンダ臭」が漂う物語ながら、ビスコンティの主眼は、決して「告発」に向かうことなく、ただ「滅びゆく者」への大いなる共鳴を、悲歌(エレジー)ではなく交響楽(シンフォニー)として奏でるのだ。…そう、この時からすでにビスコンティはビスコンティそのものだった。貧しい漁師の若者も、ルードヴィッヒも、「人間、この卑小なるもの」として、この巨匠の前では「等価」なのだ。ビスコンティの「リアリズム」をいうなら(そして、その真の偉大さは)、たぶんその一点に尽きるとぼくは思うのであります。10点(2004-04-13 15:51:35)(良:2票)

98.  まあだだよ 完全主義者と言われながら、実は観客という「他者」と、「自己」の芸術表現のいずれをも満足させたいという葛藤こそが、黒澤明作品に複雑な陰影を与えていた…と、ぼくは思う。そんな彼が、たぶん最も純粋に「自分」だけのために撮っ作品が、この『まあだだよ』じゃないでしょうか。本来なら、会話のニュアンスや視線、小道具などで表象する登場人物たちの関係や心理のあやが、ここでは徹底的に欠落している。誰もがバカ笑いし、泣く時にはワンワン泣き、すべては「笑う」「泣く」「怒る」…という《記号》に還元されている。でも、それこそが黒澤監督が到達した境地というか、「人間観」だったのではないか。つまり、愛だの何だのといっても、人の世なんてものはすべてこういった「型」でしかないのだという、無常観こそがこの映画の主題だったのでは…。それは、一見まるで正反対の地点から出発して、小津安二郎(!)と同じ「場所」に到達してしまったということに他ならない。この、いずれ劣らぬ稀有な映画作家同士の、正反対のベクトルからの思いがけない結びつきこそ、「映画」というものの不可思議さであり、深淵さでしょう。ともあれ本作は、ぼくにとってまたとない“スリリング”なクロサワ作品でした。10点(2003-11-04 18:32:39)(良:2票)

99.  鴛鴦歌合戦 もう、あまりにハッピーで、見ているこっちもシアワセになって、最後には嬉しナミダなんかすらにじんでしまう。けれど見終わって、いったいこの映画の何がそこまで面白かったんだろう? と考えても、何だかよく分からない。でも面白い。でも分からない。・・・その繰り返しで、もう何回見たことか! もちろん、皆さんご指摘の市川春代チャン(と、なぜか“チャン”づけで呼びたくなるんですよ・笑)の可愛い意地っぱりにメロメロとなり、憎めないダメオヤジぶりが驚くほどハマっている志村喬など、出てくるキャラと役者の魅力が大きいのは分かる。モテモテ役の片岡千恵蔵だって、城中で家臣たちとジャム・セッション(!)を繰り広げる憎めない“陽気な殿様”ディック・ミネだって、ほんと良い感じだ。そして、宮川一夫のキャメラを得たマキノ正博監督の融通無碍な演出が、すでにこの時代に頂点に達していることもじゅううううううぶんすぎるくらい分かる。でも、この映画は、そんな作品それ自体の完成度を超えた〈場所〉で、その真の魅力をたたえているように思う。 それは、先に【ザ・すぺるま】さんが書かれている素晴らしいレビューのお言葉を借りるなら、その「浮かれかた」にあるんじゃないか。1939年という、すでに中国での戦争が泥沼化した時代にあって、ここまで「浮かれた」映画を撮ることは逆に容易なことじゃなかった。しかも、『会議は踊る』などのヨーロッパ風オペレッタというより、まもなく“敵国”たることが確実だったアメリカのミュージカル映画こそがふさわしい「浮かれかた」をめざすという、マキノ監督はじめスタッフ・キャストたち映画人の“心意気”こそが、このちょっとした「奇跡」みたいな作品を産み出した・・・。 「こんなご時世やからこそ、いっちょ底抜けにオモロイ映画を撮ったろうやないか」。そうして創りあげた本作は、時代を超えてなお、「浮かれる」ことが映画にとって“最大の「武器」”であることをぼくたちに教え続けてくれるのである。 ・・・あの軽やかに舞い上がるラストのキャメラ。ついには重力(それを「時代」とも「社会」とも読みかえてもらっていい)すら振りきり空にのぼっていく場面は、戦時下における「映画」と映画人たちの勝利を高らかに告げるものなんだと、ぼくは信じてやまない。 そう、やっぱり映画には「浮かれた」ハッピーエンドこそがふさわしい。[CS・衛星(邦画)] 10点(2010-02-26 18:59:32)(良:2票) 《改行有》

100.  ザ・デッド/「ダブリン市民」より ぼくが愛するジョン・ヒューストンは、あくまで『王になろうとした男』の、『アフリカの女王』の、『キーラーゴ』の監督なのです。そんなヒューストンが、こんなにも美しい、あまりに美しすぎる「白鳥の歌」を歌うなんて、ほとんど“背信行為(!)”じゃないか…。そう思いつつ、いつ見てもただナミダさせられるのが、口惜しい。特に、あのラストシーン…。もはや「死者の眼」で見られたあの風景に心震えない者がいたとしたら、何と不幸なことだろうとすら思う。そして、階段に立ちすくみ、聴こえてくる歌声に微笑みながら涙を流すアンジェリカ・ヒューストンの、崇高までの美しさはどうだ。自らの娘のイメージ(映像)を、見た者すべての心に「永遠化」してみせたヒュ-ストン監督には、もはやどんな賞賛の言葉も無力だ。繰り返す、たとえ“遺言”にしても、ジョン・ヒューストンにこんな美しい「歌」は似合わない。けれど、それは間違いなく存在し、ぼくたちの前に残されたのだ…。10点(2004-02-23 19:16:21)(良:2票)


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