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プロフィール
コメント数 1252
性別 男性
自己紹介 【名前】「くるきまき」(Kurkimäki)を10年近く使いましたが変な名前だったので捨てました。
【文章】感想文を書いています。できる限り作り手の意図をくみ取ろうとしています。また、わざわざ見るからにはなるべく面白がろうとしています。
【点数】基本的に個人的な好き嫌いで付けています。
5点が標準点で、悪くないが特にいいとも思わない、または可も不可もあって相殺しているもの、素人目にも出来がよくないがいいところのある映画の最高点、嫌悪する映画の最高点と、感情問題としては0だが外見的に角が立たないよう標準点にしたものです。6点以上は好意的、4点以下は否定的です。
また0点は、特に事情があって採点放棄したもの、あるいは憎しみや怒りなどで効用が0以下になっているものです。

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161.  パンダ・コパンダ 《ネタバレ》 時代背景からいえば、第二次大戦後の国共内戦で大陸を追われた国民党勢力が、台湾島と附属島嶼だけの状態で国連安全保障理事会の常任理事国として「五大国」の扱いを受けていたが、1971年に諸国の思惑がらみで代表権を失って国連を去り、1972年には日本も国交を断絶した(来年で50年)。代わりに国交が生じた大陸側から記念としてパンダ2頭が送られて来て、1972年11月から上野動物園で公開が始まり大人気になったが、そのような情勢のもとでこのアニメが作られたことを今回再認識した。 明らかに国家戦略のために使われているにもかかわらず、パンダ自体は現在も絶対善のように思われているようだが、それはこの時代に形成された国民意識の影響かも知れない。国民一億総panda huggerということだ(言いすぎか)。 当時は自分も見たのかどうかわからないが、3つ下の従妹が見て大喜びして、歌の冒頭部分をやかましいほど繰り返し歌っていたことは憶えている。何が面白かったのか不明だが、部外者なりに考えると、主人公の少女が父親に甘える立場と、小さい子に甘えられる立場の両方を兼ねるのが豪華な設定だったかも知れない。 序盤の幸せな時間も長くは続かず(全体で30分しかない)、やがて大人社会からの脅威が及んで来て、最後は別れの寂しさを残す終幕だろうと予想していたら、意外にも奇想天外な結末だったのには驚かされた。完全に現実を度外視してでも、見ている子どもらの期待を裏切るまいとする制作姿勢だったらしい(感動的だ)。 そのようなことで、今回見てもそれほど悪くない映画だとは思った。なお主人公の少女が、昔のアニメにしては表情豊かで躍動感もあるのはさすがということか。得意の逆立ちをする時に、ちょっと溜めてから伸びる場面があったのは芸が細かい。[インターネット(邦画)] 6点(2021-05-01 08:50:36)(良:1票) 《改行有》

162.  カーテンコール(2005) 《ネタバレ》 下関市役所では個人情報を出さないのに、民団の事務所ではコピーをホイホイ提供していたのは苦笑したが、まあ民団では日頃からそういう業務が重要だということなのかも知れない。あるいは、日本人は冷淡で情が薄い、とかいう皮肉のつもりだろうか。 それで内容としては、差別だとかいうのをあまり気にしなければ普通に心温まるお話である。また途中から在日の話に移行するのも、実はそれほど不自然には思わなかった。実際こういう取材の仕事をしていれば、途中で当初想定と全く違う背景事情がわかって来て収拾に困ることもありそうだし、そのような展開をそのまま映画に取り入れたといえなくもないからである。ただ自分はあらかじめどういう映画かわかって見たわけだが、公開当時の宣伝がどうだったかは知らないので、騙された気になる人が多かったとすればそれも否定できるものではない。 一方、最終的にはどうやら父と娘の関係がテーマになっていたようだが、それと在日の話をからめる必然性はよくわからず、また登場人物の映画愛も半端な扱いで終わっていて、どうも全体として焦点が定まっていない印象が残る。 それでもまあ心温まるお話に一応なっていると思うのは、穏やかに見える人物が多いせいだろう。特に藤村志保さんが全体の印象を柔らかくしていると思えるが、個人的には夏八木勲氏が意外に温和な父親役だったのも少しほっとした。 そのほかキャストに関しては、劇中の“良江さん”や若い頃の“宮部さん”は、いくら昔の話でも化粧っ気がなさすぎに見えるのが個人的に不満で(この女優2人を見るのも目的のうち)、特に“良江さん”の方は役柄上、もっと普通にきれいな女性に見えないと困るのではないかと思う。ただ、とりあえず主演女優をゆっくり見られる映画だという点では基本的に満足だった。 なお些細なことだが、最後に父と娘が再会した場所の選定はかなりわざとらしい。これは地元の文化財(王朝時代の郷校)であり、観光資源ではあるかも知れないが、こんなところでハーモニカを吹いている者はいないだろう。それから昔の話を白黒にするというのはよくあることだが、そのせいで当時すでにカラーだった映画まで白黒に見えているのは絶対に変だ。[DVD(邦画)] 5点(2013-07-01 21:32:19)(良:1票) 《改行有》

163.  劇場版 フランダースの犬 《ネタバレ》 そもそもこの話が本国で知られていなかった理由として、要は外国人作家がアントウェルペンの街を悪く書いていることに反発があり、地元で翻訳が出なかったからだとする論考を読んだことがある。それはわかるが、だからといってそれだけで無情なベルギー社会のイメージが好転するわけでもない。こんな情けない奴は死んで当然、というのが向こうの常識だそうだが、その割に観光客が多ければ客寄せの銅像だの記念碑だの建てるというのではますます現地の印象が悪化する。金を持っていれば異教徒でも絵を見せるのだろうし。 そのように嫌味を書きたくなるのも、このお話を見た後のやり切れなさを何かへの攻撃に転化しなければ気が済まないからだが、そういう者がいると知ってか知らずか、この映画ではエンディングで地元の政府・行政機関の名前が目立つようにクレジットされているので渋い顔にならざるを得ない。 ところで内容の方は皆さんご存知のとおりであり、自分としては初めから先が見えているので、前半部分で今は春と言っているのを聞けばクリスマスの悲劇を思って心に痛みを感じるし、また中盤で隣家の婦人が転居する場面では寒々とした風景も相まって、主人公の周囲から暖かさが失われていく予感がひしひしと寄せて来る。結局はマリア様も全ての人を救えるわけではなく、せめて死ぬ時になって祝福が得られただけでも幸せに思えということなのだろう。どうせ世の中そんなものだということだ(泣)。 それからこのお話では、少年に対する少女の思いの中に絵の才能への敬意も含まれているように感じられる。原作を読むと、コンクールへの応募は貧富の差をなくするために鉛筆画か木炭画が条件になっていて、この映画のように資産家の子弟が有利に決まっているというわけでもなかったらしい。今の目であらためて見れば少女の父親がどういう立場なのかもある程度わかり、芸術家としての才能が認められさえすれば越えられない身分差があったわけでもないと思われるのが悔しい。 なお最初と最後の修道女に関して、DVDのチャプター12の名前が「そして20年後」と書いてあったのは驚いた。もうそんな歳(9+20)になってしまって、一生そのままでいるつもりなのか。いつもそばにいる、とか思い込んでいたようだが、ネロもパトラッシュもおじいさんも、彼女の世間並みのしあわせを望んでいるのではないのか。本当にそれでいいのか。[DVD(邦画)] 6点(2013-10-15 22:52:59)(良:1票) 《改行有》

164.  聯合艦隊司令長官 山本五十六―太平洋戦争70年目の真実― 《ネタバレ》 [2018-05-12文章修正、主旨は同じ] 原作を読まないで行ったが、平和平和と連呼する映画ではなかったので安心した。テーマとしては受け入れやすい内容で、単なる過去の解釈ではなく、現代に向けたメッセージとして受け取れる。いまだに固定観念にとらわれたり広告宣伝に左右されがちなところもある中で、特に若い世代や無党派層に向けた映画のつもりかも知れない。序盤でいきなり新聞社の主幹が皮肉を言われる場面は痛快だった。 ただし評判のいい山口少将(や小沢治三郎中将)などを持ち上げておいて、南雲中将などを悪役にしているのはわかりやすいとしても、都合の悪い点はみな悪者のせいにしてしまっているようで本当なのかという気にはなる。原作がそうなっているのかも知れないが、史実としては割り引いて見ておくのが無難かも知れない。これを見て山本五十六を英雄のように崇めるのでは、それこそ映画のテーマに反するように思う。 映像面は、特にこだわりのない一般人としては満足がいくものになっている。昭和のミニチュア特撮を見慣れた人間としては、いわゆる特撮補正をかけなくとも本当らしく見える艦艇が出るだけで感動する。 またテーマにもかかわる若い新聞記者とのやり取りや、前線の視察を言い出したあたりの泣かせどころもあり、娯楽映画としては合格と思われる。ただ少し不満だったのはエンディングの歌であって(ピアノの音も不要)、オーケストラだけのしんみりした曲でよかったと思うが、まあ全体としてはわざわざ見に行く価値はあったものと思う。 なおNHKの「坂の上の雲」とキャストが一部かぶっており、最終回を見たばかりだったので変な気がした。 [2018-05-12追記] 久しぶりに見た。没後75年になったが、今でも大義を振りかざして我を張るとか、綺麗事の観念論に酔って現実を見ない人間が多数いる限り、日本は何度でも負けるという気がした。[映画館(邦画)] 6点(2011-12-26 22:48:24)(良:1票) 《改行有》

165.  セデック・バレの真実 《ネタバレ》 台湾の先住民(台湾での呼称は「原住民(族)」)であるセデック族に関し、1930年の「霧社事件」とその後の経過を扱ったドキュメンタリー映画である。日本人が見る場合、この事件について事前にそれなりの理解があるか、または劇映画「セデック・バレ」(2011)を見ていないとわかりにくい。逆にその映画を見てからだと、このドキュメンタリーが製作の背景になっているのがわかる。 題名の「餘生」とは「生き残った者」の意味だそうだが、現代で存命の人は基本的にいないので、子孫が何組か登場して当時の言い伝えや自らの思いを語っている。うち親子3人はセデック族の発祥地とされる「プスクフニ」(Pusu Qhuni)を訪ね、自分らが何者なのか探る旅をしていた。 この映画を見た限り、現在のセデック族は漢人社会に同化しつつあるようで、若い世代は言葉も話せず、今後もエスニック集団としての実質を維持していけるか難しいように思われる。さらにいえばセデック族というものが、いわゆる民族自決的な考え方を適用する以前の、今やっと民族意識を形成しかけた段階にも見える。事件の頃にあった集落間対立がすでに解消されたことを見せようとした場面もあったが、ここは正直ちょっと会話が微妙だった(笑)。 しかしこの映画としてはとりあえず、各人が民族としての自覚を劣等感ではなく誇りとし、他人に見下されたりしないよう、それぞれ子どもを立派な人に育てていかなければならない、という意味の言葉で締めていた。かつて彼らを見下していた日本人はもういないので、この映画では字幕でいう「台湾人や中国人」(本省人と外省人のことか?)に対して彼らの立場を訴える形になっている。 日本人としては今の彼らと立場が違うので、この映画から直接何かをメッセージとして受け取るのは難しい。しかし未来のことを考えれば、例えば日本国が近隣大国に併呑されるとか、グローバル社会の中で解体させられようとした時にどうするのかが問われているといえなくはない。 ほか特徴点としては、民族としての存在について外部からの勝手な意味づけを排する意図があったようである。日本統治時代には文明化すべき未開人の扱いだったわけだが、国民党政権下では反日宣伝のため一転して「抗日英雄」として賞揚され、それでかえって人々の実像が歪められたところもあったらしい。邦題の「真実」にはそういう意味も込めてある。 また教育はやはり大事だという考え方も出ていたように見える。日本統治時代の教育政策はかえって悲劇を生んだ面があったとのことだが、しかしその後の子孫も教育には熱心だったらしく、最後の締めのナレーションでも、他人に見下されないためには教育が必要だということを述べていた。実際に登場人物の一人で、子育て後に大学院に入ったという女性はいかにも知的な人物だった。 ほか女性というのは本当に強いと語る人物もいて、勝手に死んでいった男連中ではなく、女性こそが生命を後世につないだのだということも表現されている。見て面白い映画ともいえないが(時間も長いが)、劇映画と違って実在の人物の語る言葉は重かった。[DVD(字幕)] 6点(2021-10-16 14:28:53)(良:1票) 《改行有》

166.  シン・仮面ライダー 《ネタバレ》 今回はオープニングで東映のロゴが出る。仮面ライダーは対象年齢が自分より少し低かったので、リアルタイムではあまり熱心に見ておらず思い入れもそれほどない。 アクション場面では、序盤で崖の上から飛び降りるとか唐突な場面転換などは元の雰囲気が出ているが、その後は映像効果を多用した独自のダイナミックな映像を作っている。最後は単なる取っ組み合いの喧嘩になっていたが意図があってのことと思われる。 敵組織の目的が「人類の幸福探し」であるからには、「幸せって何?」を問う映画かと思ったら「最大幸福」は放棄したとのことだった。昔あった「最小不幸社会」の再現かと思ったが、しかしそれより進んだ現代的感覚として、不幸な人々の救済のためにはその他大勢にどれだけ負担や犠牲を強いても構わないという価値観のようでもある。その上さらにこの映画では、絶望した個人を敵組織が適当に選抜して強大な力を与え、当該個人の趣味嗜好で勝手に幸福を追求させることにより、その他大勢どころか社会全体に破滅的被害が及ぶ恐れが生じていたらしい。いわば不幸最強社会ということで、善なる意図を標榜しながらも、まるで社会の破壊自体が目的になっているかのようなのは嘆かわしい。 出て来た連中はほとんどテロリストだが、うち0号の男だけは本当に人類の幸福を目指していたらしい。しかし政府の男が言ったように「絶望の乗り越え方」は個人により違うのであって、全部まとめて処置すれば問題解決というのは間違っていることになる。最後の戦いで本郷は、社会の破滅を阻止すると同時に個人の救済にも手を貸していて、それが常に可能とも限らないがそういうことを彼は目指したのだと思われる。幸も不幸も人によって処方箋は違うはずだということだが、ちなみに「幸せって何?」に関してはルリルリの話がけっこう本質をついていた。追伸が泣かせる。 もう一つ、この世界で信じられるものがあるとすれば組織でも主義主張でもなく個人の単位でしかないのであって、そのためには誰をどこまで信じるかの見極めが大事と言っていたようでもある。ルリルリと一文字は本郷を信じ、また政府の男らをも個人としては信じようとしていたらしかった。ほか本郷が「自分の心を信じる」と言ったのは、自分がもともと持っていた良心の根底部分をどういう状況下でも失わないと決意したのかと思った。信ずべきもののわからない人類社会で、個人の心の持ち方を提言しようとした映画と取れる。 最終的には本郷の誠実さと一文字の反骨精神をもって戦うヒーロー像が実現し、とりあえず当分このまま戦いが続くらしいが、仮にこれが1年間のTVシリーズだったとすれば、最終回で人工知能が何をするかが問題になるのではないか。ロボット刑事がずっと見ていて人間の行動に関心を持ったりしていたので、その観察結果をもとに人工知能が本郷と同じく自分を変える結末だったらハッピーエンドになるかも知れない。それまでは見るのもつらい戦いになりそうだが、一文字が陽性で打たれ強そうな男なのは救われる。 以下その他雑記: ・全体的にシリアスで笑わせる場面は基本的にないが、大阪でいうとされる「知らんけど」のような台詞を浜辺美波さんが言っていたのは、制作側と若い世代の断絶を自虐的に表現したようで微妙に面白い。古い世代の常識?とされた赤いマフラーはけっこう感動的な使い方をされていた。 ・SHOCKERのSがSUSTAINABLEなのは今っぽいので笑った(偽善的)。浜辺美波さんもここは憶えにくかったのではないか。 ・キカイダーとロボット刑事は、日本語文中の英語を機械的に英語の発音に置き換えればいいと思っていたようで、各国事情に配慮する気のないグローバルな雰囲気を出している。 ・個々の改造人間についてはコウモリ→ウイルス→科学者、パリピ+薬物?といった現代的事象もあるがハチ→女王様はわかりやすい。それぞれの絶望の理由は必ずしも明瞭でなかったが見る側で察してやれということか。三種混合は単なるバカ(哀れな奴)。 ・一文字はかつて仲間を失う経験をして絶望し、自分は孤独が向いていると思い込もうとしていたが、今回の件でまた仲間を求める方向に転換したようで、この男の救済にも本郷が手を貸したことになる。政府の男らは機器類のメンテナンスその他に欠かせない連携先であり(なんと米軍まで動かしていた)、どこまで信じて協力できるか見極める力を一文字は持っている。 ・「シン・ゴジラ」「シン・ウルトラマン」に続いて体臭の話題が出ていたが今回は男だった。ニオイフェチとかは関係なく彼が人間であることの証拠と思われる。[インターネット(字幕)] 9点(2023-11-11 15:10:57)(良:1票) 《改行有》

167.  写真甲子園 0.5秒の夏 《ネタバレ》 2014年夏の「東川町国際写真フェスティバル」の時期に現地に行ったことがあり(皆さんお世話になりました)、その際に映画化の話も聞いて来た。その後にふるさと納税(株主制度)のお勧めがあったので喜んで「写真甲子園映画化事業」に協力したが、いざ公開されてみると自分の住所地から半径100km以内では上映していなかった。まあそれはだいたい予想していたことなのでDVD化を心待ちにしていたわけである。見覚えのある場所とか花火大会とかが見られるのは嬉しい。 東川町は2014年に「写真文化首都」を宣言しているが、そういうアピールの仕方は個人的に好きだ。ちなみに環境分野では「環境首都」というのもあるが、何にせよ何から何まで東京が一番でなければならないことはないはずなので、うちはこの分野では全国代表だ、という気概を持ってやっているところは応援したい(気持ちだけだが)。 この映画でも無理に町民を主人公にはしていないが、実際の写真甲子園で本当に活躍するのは全国の高校生であり、地元としては仕組みを作って場を提供することで写真文化を盛り立てる立場になっている。文化での町興しは無理との意見もあったそうだが、その正否はすでに実証済ということである。 褒めてばかりでも何なので映画に関していうと、まず予選を勝ち上がる過程を大胆に省略したのは時間の節約としても、全国大会の出場者にしてはあまりに素人っぽいとか緊張感のなさすぎな連中で大会の権威に関わるのではと思ったが、それはまあ審査の厳しさを強調するための下準備と解される。その審査の講評には台本がなかったとのことだが、「できるでしょう」「できます」というやり取りがあったのもアドリブだったということか。審査委員長の人となりは知らないが芸術家にしては意外に優しい物言いで、厳しい単語は使っていても若い人を伸ばそうとする意図は明らかであり、「未来しかない」「開き直る」といった励ましの言葉には正直感銘を受けた。ここには本物の感動がある。 その後の椅子工房は話を作り過ぎだったが、今しかできないことを今しなければ、という意味ならわかる。また終盤でひたすら走る女子の情けない顔に少し泣かされるところもあった。結末も意味不明瞭だった気はするが、今回の体験が当然、出場者それぞれの未来につながっていくはずだと思っておく。彼らの後に続く人々は、写真を含む芸術文化の創造性が人間の力になるということを、例えば極端に古風な(ステレオタイプな)言動の校長に見せつけてやってもらいたい。 その他個別事項として、必要な告知事項などをCGか何かで映像中に紛れ込ませていたのはスマートな説明の仕方だったかも知れない。また撮る側のマナーにかなり気を使っているのが目についた。[DVD(邦画)] 8点(2018-07-15 09:29:09)(良:1票) 《改行有》

168.  魔女(1922) 《ネタバレ》 1922年の映画である。監督その他の関係者はデンマーク人とのことだが、題名のHäxanと字幕はスウェーデン語らしい。 見たのは104分のバージョンで、全体が7章に分かれている。第1章は昔の宇宙観と関連づけながら魔女の基本的な性格を学ぶお勉強的なパートであり、また第2章は時代を1488年と特定して、中世の具体的な魔女像を多少ユーモラスに表現している。しかし次の第3章から第5章までは魔女裁判の話になるので笑っていられなくなり、第6章では魔女の発生原因として拷問の道具と僧院の狂気を紹介している。最後の第7章では近代(大正時代)に飛んで、中世から当時まで残されていた魔女的なものを明らかにする構成になっている。 最後の章はそれまでの各章に含まれていた要素を使って結論を導く形であり、何やら実証的な映画という印象もある。それほど明らかな社会批評の意図もないようだが、気の毒な人々に理不尽な偏見を向けないようにしなければという、この時代なりの良心が表現されていたようではあった。 物語として心に残るのはやはり第3章から5章までの魔女裁判で、ここでは中世の人々の迷信深さとともに、人間が本来持つ(現代にもある)邪悪な部分や偏狭な宗教の害悪が描かれている。個人的には特に、性欲の抑圧がかえって理不尽で組織的な暴力につながる面があるのではという方に考えが向いた。また客観的に立証できない罪状では自白が証拠の王だというのもよくわかる。最後の章では、中世なら魔女とされたであろうシニア世代と未亡人の表情が物悲しい印象を残していた。 特撮としても、主に第2章でストップモーションアニメや逆回転、多重露光?といった手法でけっこう面白い映像を作っている。着ぐるみや特殊メイクも多用されているが、特に監督本人が演じていたという悪魔が神出鬼没で、恐ろしいというより滑稽で不潔そうで品性下劣で邪悪な雰囲気を出しており、ヨーロッパの悪魔像とはこういうものだったのかと思わされた。そのほか個人的には夢魔?が布団の上を這って来て、寝ていた人物が慄いている場面が好きだ(一瞬だが)。 結果として、サイレント映画など古臭くて見る気がしない、という食わず嫌いを一気に解消する内容にはなっていた。なお映画自体は無音でも、今回見たDVDではピアノの背景音楽を入れて効果的な演出がなされている。[DVD(字幕)] 8点(2018-11-01 19:56:16)(良:1票) 《改行有》

169.  地球へ2千万マイル 《ネタバレ》 序盤で子どもが出るので、この子どもが最後までつきまとって煩わしい映画に違いないと思っていたら、金をせしめた後は出なくなったのがドライな印象だった。代わりに外人男女が親密になっていく様子が描かれていたが、事件が終了したとみた途端に2人でどこかに消えてしまったのは無責任で好きになれない連中である。またラストで科学者の博士が意味不明瞭な教訓を述べていたのはわが国の怪獣特撮にも見られる特徴である。 劇中ではアメリカ軍が執拗に金星竜を捕獲しようとしていたが、これは金星の大気中で人類の活動を可能にする秘密を探るためとのことだった。そのために最後は死人まで出てしまったようで、ここは人間の功利的な態度が手痛いしっぺ返しをくらったというように理解したいところである。しかし実際はその前に科学者連中が一定の成果を出してしまっており、結果的には人間(と金星竜)の生命を犠牲にしてでも欲しいものは獲った、という形になっていたのは共感しがたいものがある。 ただシチリアの現地警察があくまで人命保護を優先し、アメリカ軍への協力を拒否して独自に行動していたのは、人類の進歩を一人で先導しているかのような顔の傲慢な大国に対して一定の意地を見せていたといえなくもない。 ドラマ的には以上のような感じだが、撮影技術の面ではさすが侮れないものがある。金星竜の動きが非常に丁寧に作られており、合成も結構上手いと感じられる場面が多い。またゾウの重量で車がつぶれたあたりも実物感がある。そのほか構図の取り方も格好よく見えたりして、映像面では文句をつける気にならない出来だったとはいえる(が、ロケットを絵でごまかしたのは感心できない)。[DVD(字幕)] 5点(2015-06-01 22:12:13)(良:1票) 《改行有》

170.  ゆれる人魚 《ネタバレ》 1980年代のワルシャワの話だそうで、ソビエト連邦を中心とした社会主義体制の終わりが近くなり、ポーランド社会にも大きな変化が生じていた時期のはずである。その時代設定にどういう意味があるかよくわからなかったが、ワルシャワは地味なようでもそれなりに華やかな都会に見え、かろうじてスターリン時代からある「文化科学宮殿」が社会主義の名残に見えた(今もあるが)。 劇中人魚に関しては、原語ではシレーナsyrenaと言っていたようだが、これは古代ギリシャのセイレーン(シレーヌ、サイレン)に由来するもので、もとからの生業である歌を生かして人間社会に入り込んだ形になっている。少女のように見せていながら序盤でいきなり全裸になったのは驚いたが、穴がないならボカシも必要ないわけだ(ヘソもなかった)。下半身が突然に巨大化するのはトーキョーグールのようでもあり、またお手軽な手術で他人と上下を交換するなどかなり適当な感じだが、そこはダークファンタジーだから突っ込むまでもないと思っておく。 なおワルシャワに来たのはヴィスワ川を遡ったのだろうが、海水魚と淡水魚の区別がないのかは疑問点として残った。肺呼吸だと関係ないのか。 全体的な印象としては、まずは人魚姉妹が蠱惑的で、躊躇なく裸体をさらすのに目を引かれる(魚だが)。また前半部分では歌とダンスで聞かせる/見せる場面が結構あり、唐突にミュージカルが始まるのも可笑しい。この調子で最後まで歌って踊って楽しくやってもらえばいいと思っていたが、結果的にはそうでもなかった。 後半になるとグロい場面も多少あり、それはダークファンタジーだからいいとしても、後になるほど陰惨な雰囲気で気分が落ち込んでいく。アンデルセンの「人魚姫」がベースとすれば悲劇で当然なわけだが、見る側として人魚連中に共感できるわけでもなく、ドラマ的に心を打つものがないまま終わったのは残念だった。 個別の点としては、短い効果音をいろいろ入れていたのが面白い。また男を誘惑した場面で焦点が一瞬緩むところは印象的だった。姉妹は違うタイプの人材を並べた形で、個人的には妹(ズウォータZłota)の方に目が行くが、牙を出すと顔の形が変わって見えるのは残念だった。人を食っても何していても人魚は可愛くなければならないのではないか。[インターネット(字幕)] 5点(2020-10-03 08:29:10)(良:1票) 《改行有》

171.  鬼談百景 《ネタバレ》 作家の小野不由美による同名の実話怪談集(全99話)から、10話を選んで映画化したオムニバスである。6人の監督が脚本を含めて担当している。 【追い越し】 原話の不思議さが不足、無駄話が多い。 【影男】 音そのものが神経に響く。異音が付随しているのも嫌な感じ。窓から見えた空も意味不明だが怖い。最初は睡眠時無呼吸症候群かとも思えるがそうともいえなくなって戦慄。 【尾けてくる】 作業着の男がいかにもそれらしい顔。女子高生~女子大生の見開いた目はいいが若干くどい。ラストの街角遠望は好きだ(渋谷二丁目、青山学院近く)。 【一緒に見ていた】 原話にない背景事情を大きく加えた形。一回やっただけというより人格低劣で因果応報。倒れた男子生徒、ぶつかった女子生徒のいた風景がいい。 【赤い女】 女子高生絶叫ホラー。怖いことは怖いが階段をドタバタ駆け上がるのはなぜなのか(笑)。登場人物が高校生にしては変に大人っぽく、加弥乃さんは可愛らしいがヒガリノ(比嘉梨乃)さんはひときわ色気がある。 【空きチャンネル】 普通。特殊効果はやりすぎだが一瞬怖い。 【どこの子】 小学生のくせに妙にエロい。取り残されるシチュエーションは怖いが方言の男には笑わされる。 【続きをしよう】 子役がいい感じ。出演は9人だが顔が見えるのは8人、声がするときに誰の口も動いていない。流血の連続で児童虐待のようだが、走り回る子どもらを見ていると、この監督は本当に子ども好きなのだろうと思った。 【どろぼう】 難解で意味深。果実の隠喩と時間の経過、スカートの下にジャージをはいていないなど。何にせよ流産監督らしいテーマと思われる。女子高生が美形なのはいいとして、子沢山の母親がこういう顔だとは原作からは想像していなかった。 【密閉】 原話の投稿者が隠していた真相はこれだ、という感じの話。主演女優の顔が好きだ。 第1話を除く各話が「こんな手紙が届いた」で始まるのは、夏目漱石「夢十夜」の趣向に倣ったものと思われる。基本的には全て原話の筋立てに沿っているが、映画的なイメージを膨らませたり独自の解釈を施したものもあり、必ずしも実話とはいえないものが多いと思われる。しかし本物の怖さを出したもののほか怖がりながら笑えるもの、ストーリーとして面白いなど多様であり、映像的にもいい出来のように見える。これまで見たオムニバスホラーの中では最も良質だった。[DVD(邦画)] 7点(2016-07-16 22:30:45)(良:1票) 《改行有》

172.  吸血鬼ゴケミドロ 《ネタバレ》 90年代にVHSのレンタルで見たのが初見だが、その時点では二度と見る気がしない映画だった。その理由は何だったかと考えると、基本は延々とバッドテイストの内容が続いた上にバッドエンドになって嫌悪感だけが残るということだが、そのことよりも、こういう人の神経を逆撫でするものを気の利いた風に作って得意になっている製作側に怒りを感じたという方が正しい。 そのときの印象のままで0点とか付けるのも失礼かと思って二度目を見たところ、20年の間に神経が図太くなったらしく今回はそれほど気に障るところもなかったが、それにしても登場人物の行動が紋切型で人間性に深みが感じられず、また社会的メッセージのようなものも通り一遍で薬味程度にしかなっていない。逆にベトナムで戦争が続いていた時期にこういう悪趣味な娯楽映画を作っていた日本は呑気なものだと感じる。 登場人物のうち共感できる人間は誰もいなかったが(副操縦士はバカ)、金子信雄氏の悪役ぶりにはほれぼれした。 なおDVD特典の鷺巣富雄氏インタビューで、題名の由来が京都の「苔寺」と「深泥池」(:伝統的な心霊スポット)と知って少し感動した。安直なネーミングだが。[DVD(邦画)] 3点(2016-05-21 09:27:20)(良:1票) 《改行有》

173.  竜とそばかすの姫 《ネタバレ》 仮想空間と田舎を対比させているのは「サマーウォーズ」の系列作に見える。仮想空間には警察がいないそうだが、どうせ運営側が直接統制をかけるだろうがと思えばそういうことでもなく、これはいわゆるweb3.0か何かで誰にも支配されない世界が実現しているという設定か。50億の集合意識で本当に価値あるものが自ずと見出されていくという都合のいい展開は、監督が基本的なところでインターネット空間の発展に期待を寄せているという意味かも知れない。 また本物の顔を見せてこそ信頼が生まれるという考え方はわからなくはない。本人似のアバターを提案する方式も人格的なつながりを持たせる意図のようで、またSNSと紐づけ可能という設定からも、完全に別人格になれるメタバースというよりは実名登録で写真付きというフェイスブックの原点を忘れるなというようでもある。「新しい人生を始めよう」という言葉は、新たに見出された可能性を仮想空間内で完結させず、現実世界に持ち帰った上で新しい人生を自分で作っていけという意味かと思った。仮想空間の映像表現を売りにしながらも、「サマーウォーズ」と同様に現実世界とのつながりを意識していたようではある。 ところで素人が水難救助をしようとすると、結果として助けようとした方が亡くなってしまうことが現実に多い気がする。そういう時は無理せず公的機関に通報する一方、自分は安全な場所から助ける努力をするのが適切だろうが、しかしそれでも主人公の母が自分で助けに行ったのは、理性的判断というよりそうせずに済ませられない性のようなものがあったのか。まさにその点を主人公が受け継いだのだとすれば、そういう理屈抜きの衝動にそのまま共感できるかどうかがこの映画の評価を分けるかも知れない。主人公の方は今回たまたまいい結果を出せたということらしい。 全体的にみて、作り手側の思い優先で現実性度外視のところが多いのは作家性の強さと取るべきか。またそれとは別に、映像で観客の感情を動かす力を持った映画だとは思った。点数は作中の"半分が批判、半分が評価"というのを一人分の数字に反映させておく。 なお今回は少女の大泣きは控え目だった。主人公は「こんなに普通の子だったなんて」と言われていたが、普通未満と思われなくてよかったともいえる。仮想空間はとても人とは思えない連中だらけで、主人公がちゃんと歌姫の姿をしていたのはかえって特異なようでもあった。[インターネット(邦画)] 5点(2023-02-25 09:16:26)(良:1票) 《改行有》

174.  ガメラ 大怪獣空中決戦 《ネタバレ》 他の人々と同様、自分としてもこういう怪獣映画が見たかった、という希望がやっとかなえられたという感慨があった。福岡ドームからの回転ジェットの飛翔、吊橋を越えて敵を粉砕するプラズマ火球、それから遠景の巨大怪獣と近景のリアルな生活空間を組み合わせた画面づくりなどは見ていちいち感動する。 また、これは旧作も基本的に同じなのだが、毎度のように傷つきながら奮闘するガメラの姿には愛しさを覚える。「ガメラは味方です」の台詞にも感動した。ゴジラにはある程度冷淡な態度を取ることができても、やはりガメラは昔も今も特別扱いである。自分が子どもだった時代に、ガメラはぼくらの味方、というのが刷り込まれているからだろう。 ところでここから苦情になるが、登場人物のふるまいがマンガのようなのは昭和ガメラと別の意味で子どもじみており、これはいったい何歳児が何歳児に向けて作ったのかと呆れる。女性鳥類学者の言動が変なのは役者の持ち味?かも知れないが、政府機関が2種類の希少動物のうち片方だけを執拗に敵視する理由がわからず(役人の体面の問題ということ?)、劇中人物の胡散臭さと相まって現実味が著しく削がれている。 また昭和ガメラが特に動機なく子どもの味方だったのに対して、この映画では新たな(屁)理屈を考えようとしており、うちアトランティスまでは旧作にもある要素なので許容すべきかも知れないが、直接関係ない勾玉だのエトルリアだのルーン文字だの引っ張り出して来てトンデモオカルト説のようになっているのは何とかしてくれと言いたい。浅黄ちゃんの言うファンタジーだから信憑性度外視でも可ということなのか。まったくいつになったら大人が突っ込まずに見られる怪獣映画ができるのかと思う。 というわけで絶賛するわけには全くいかないが、まあ見て感動したのは間違いないので、ぼくらのガメラに免じて点数は少し高い方にしておく。 なお今回見て気づいたのは、劇中に出ていたルーン文字はでたらめではなく、ラテン文字に転写した文章(画面で下に書いてある)を現代アイスランド人に見せれば普通に読めるだろうということである。ここでギャオスの表記がGyaosでなく、ゲルマン語風にGjaosと書いてあるのはほめてやってもいい。が、全体がマンガのようなのに妙なディテールにこだわるのもオタクっぽい。[DVD(邦画)] 6点(2013-01-20 08:46:29)(良:1票) 《改行有》

175.  蟹工船(1953) 《ネタバレ》 大貧民が革命を起こして逆転勝利、という展開を期待したくなったが、資本家のイヌを皆殺しにするどころか終わってみれば死んだのは労働者側だけだった。死んでも一矢報いてやるといったサムライ根性のない連中であり、こういうヘタレに革命など起こせないだろうと思ったが、これは多分、劇中の「監督」と同意見である。 ところでこの映画を見ていると、ロシア革命に先立って1905年に起こった戦艦ポチョムキンの反乱を思い出す(エイゼンシュテインの映画は未見)。単純に見れば、この映画の製作者は本気で革命でも扇動するつもりだったのかと疑われるのだが、その点原作の方はかえって漸進的な社会改良を目指していて穏健に感じられるのが変である。また原作の労働者は現実に学んでしたたかに生きる姿勢を見せているのに、映画では弾圧されて終わりのため、労働者は弱いという印象しか残さない(前記)のもストーリーとしてどうかと思う。映画の最後が血塗られた旭日旗だったことからしても、どうもこの映画では労働者よりも国家の暴力の方に焦点を当てていて、原作の意図そのままではないと思った方がいいらしい。反権力を声高に叫ぶ時代の先駆けということか。 なお反乱の場面で遠くに浮かぶ艦影は、実際に昭和初年に就役していた峯風改型か神風型の一等駆逐艦に見える。普通こういうのは適当にごまかすと思うのだが、事実関係については真面目に再現しようとしている映画らしく、これは製作者に敬意を表する。[DVD(邦画)] 5点(2012-08-05 20:13:45)(良:1票) 《改行有》

176.  マイマイ新子と千年の魔法 《ネタバレ》 前半は子どもらのやることを笑いながら見ていて面白かったが、後半に入ると影がさして来て、妙に深刻な事件が起きたりする。主役の女の子があんな顔で怒鳴るのはやりすぎなんじゃないか。原作ではもっとあっけらかんとした感じだったろうと思うが。 またストーリーが複雑で難しいので、一回見ただけでは何が起こったかわからず、理詰めで考えなければならなかった。何か話を作りすぎのような気がする。独りよがりな台詞も多い。 ただ、映像的に美しいのは心に残る。また個人的には特に、千年前と昭和30年の風景を直接重ねて見せるような、いわば歴史地理学的な発想が面白いと思った。それがまた、都びとの目には何もないように見える一地方にも何百年、千年にもわたる人の暮らしが積み重なっている、という映画独自の主張につながって、時間的な深みを感じさせている。 それから千年前の一般庶民にも、花を散らす牛車を見てなごむ程度の心の余裕があるように描かれているのはよかった。世の中いいことばかりでないのは当然だが、悪いことばかりでもなく、楽しいこともある。それは千年前も今も同じだろう。昭和の事件の結末も含めて、この世界に対する基本的な肯定感が伝わって来て嬉しくなった。それはあくまで“子どもの世界”なのかも知れないが、中年男に向けた癒し効果もあったと思う。 そういうわけで、マイナス面もあり他人に勧めるのは躊躇するものの、個人的には忘れがたい映画になってしまった。 なお、登場人物のうち特にお姫さまのキャラクターが可笑しくて可愛い。周防権介の息子らをいいように使ってやりたい放題だったが、後半、山中の家を訪ねた場面は見ていて泣き笑いだった。周防守の権威をもって、この母子にいい継父を世話してやれないか。[DVD(邦画)] 8点(2011-12-31 15:44:38)(良:1票) 《改行有》

177.  ひぐらしのなく頃に 《ネタバレ》 ゲームもマンガもアニメも知らないで見たが、これ自体で完結させようという気が全くないようで、疑問点が山積したまま特に解決もせずに終わってしまう映画だった。ただし最後に主人公が実現しなかった可能性を想いながら死んでいったというのはある程度納得のいく終幕である。 ほか実質的にこの映画の最大の魅力は、やはり各年代の美少女が4人も揃っているという出来過ぎの設定である。かなりの年齢差を感じるがみな中学生ということらしく、うち園崎魅音役はもとから好きで見ていたわけだが、この映画では竜宮レナ役もかなりいい感じで、これは見て得したと思えた。また神前の舞いの場面など見ていると、古手梨花役も適切なキャスティングだったと思える。 そういった美少女の中に転校生の立場で入るのが鑑賞者自身と思えるようならよかったのだが、その代わりに、演技はともかく見た目からしてバカな男が主人公として登場するのはかなり残念なことだった。バカを隠すために冒頭では無理に格好付けていたようだが、馴染んでくると地のままのバカが表に出たように見えている。次回もほぼ同じキャストとのことで健闘を期待したい(というか実際はDVDを連続して見たが)。 なお「嘘だ!」に対してはどちらかというと好意的である。直後に汗がタラーリというのもマンガ的で笑った。点数は美少女に免じて少し甘く付けておく。[DVD(邦画)] 4点(2014-06-09 20:33:09)(良:1票) 《改行有》

178.  イカリエ‐XB1 《ネタバレ》 アメリカ公開時の題名は “Voyage to the End of the Universe” とのことだが、実際それほど大がかりな宇宙旅行でもない。要はお隣のアルファ・ケンタウリ系(4.3光年)が目的地とのことで、人類初の恒星間飛行にふさわしい無難なスケールである。宇宙船内では往復で2年だが、地球では15年が経過するという設定になっている。 モノクロ映画だが、白黒というより銀と黒の陰影が際立つ映像になっており、舞台装置も当時なりに洗練された印象がある。メカニックデザインもそれほど悪くなかったが、宇宙船が飛ぶ場面の操演?はちょっと感心できなかった。 SF的なアイデアとしては、ロボットというのはもともと人間全体を模したものだったが、22世紀のロボットは専門分野に特化しているという話が出ていたようだった。その考え方自体は正しいだろうが、現実には20世紀のうちから機能別のロボットは作られていたのに対し、人型のロボットは21世紀になっても普及していないので未来予測としては外している。ちなみにチェコスロバキアはロボットという言葉の発祥地である。 イカリエという言葉は意味不明だが、英題のIcarusからするとギリシア神話で太陽に近づきすぎて墜死したイカロスのことだろうから、どちらかというと不吉なネーミングである。映画自体も冒頭から不穏な雰囲気を出しており、暗めの映像や耳ざわりな未来っぽい背景音楽が心を乱す。物語が始まると乗組員の談笑風景などもあるが心和むようなものでもなく、楽しいはずのパーティ場面でもダンスミュージックが何とも奇妙で不安感を催す。 そのうち危機的な事件が続けて発生し、その場では何とかなるものの、最後がどうなるかは予想できずに気が抜けないが、やっと最後の数分間で、それまで出ていた伏線を生かして感動のラストにつなぐ形になっていた。結果としては全体を不安なサスペンス調にしておいて、最後に逆転を置く構成だったらしく、制作側が意図したであろう未来への希望を素直に感じさせる映画になっていた。 なお2163年の人々は20世紀を嫌悪すべき時代として記憶していたらしいが、その20世紀のうちにチェコとスロバキアも民主化して自由な時代が来たわけなので、全部が全部暗黒の時代だったというわけでもない(当然だ)。劇中人物が20世紀のいいところとして、スイス/フランスの作曲家アルテュール・オネゲル(1892~1955)の名前を挙げていたが、個人的に馴染みがない作曲家なので後で少し聴いてみたりした。[ブルーレイ(字幕)] 7点(2020-12-12 08:26:44)(良:1票) 《改行有》

179.  真・鮫島事件 《ネタバレ》 今どき鮫島事件かとは思ったが、永江監督の映画では「2ちゃんねるの呪い 劇場版」(2011)でも同じ題材を扱っていたので本人的には馴染みがあるものらしい。 今回は新型コロナウイルス感染症流行の時節柄ということでリモート飲み会の場を設定し、また呪いの拡散が「被害者が加害者に」なる点でウイルスと同様だという理屈を語っている。しかしそれをいえば吸血鬼とかゾンビも同じであって、実際に感染症映画兼ゾンビ映画というのもある(「デッド・シティ」(2019)など)ので独創的な発想ともいえないが、まあ今の世相を反映した映画ではある。 鮫島事件の話自体は昔からある「牛の首」のようなもので、この映画も“そんな怖い話は誰も聞いたことがない”系のオチかと思ったが、さすがにそれでは映画にならないということか、実体のある話を作っていたのは前作と同様である。空虚な言説が恐怖を拡散するというなら「コンテイジョン」(2011)のようになるかと思ったが、それよりはホラー映画としての娯楽性を優先した形かも知れない。 ホラーとしては、この監督らしく低予算ながら一定水準を確保した映画ができている。終始webカメラだったかのようなこだわりはなく、普通に変化のある映像を作っているが、邦画ホラー恒例の現場突撃を別人にやらせておいて、主人公はリモートで見ているという形で特徴は出していた。最初に違うところから入っても、結局同じところに行きついたというのは絶望感の表現になっている。 ちなみに「誰か来たようだ」は笑った(ギャグか)。またどうでもいいことだが現場の窓に「傲慢」と書かれていたのは、よくそんな字が手で書けるものだと感心した。よほど漢字の得意な奴だったか、あるいは片手にスマホを持って見ながら書いたと思われる。 出演者に関しては、リモートという設定もあって女優(女性俳優)の顔をでっかく映す映画である。今回主演の武田玲奈さんは、序盤は大映しすぎて粗が見えるようだったが、後半の怖い場面ではちゃんと可愛い顔を見せている(全身像も当然ある)。ちなみに妹の言うなりに使われるお兄ちゃんはひたすら気の毒だった。妹が可愛いと兄も優しいらしい。 ほか「カメラを止めるな!」(2017)で知られた しゅはまはるみという人も出ていたが、ラストの場面でこの人の肌を舐めるように映していたのはどういう趣味か。[インターネット(邦画)] 5点(2021-07-17 09:10:10)(良:1票) 《改行有》

180.  君の名は。(2016) 《ネタバレ》 見るつもりはなかったが、なぜか「シン・ゴジラ」と張り合っているかのような雰囲気が出ていたので見て来た。 印象としてはストレートな青春アニメであって、きれいに作ってはあるがあまり突出したものを感じず、映像的にもキャラクター設定もストーリー展開も至るところに既視感がある。SF的にも突っ込みどころが多そうに見えるほか、意外性の面でも弱いところがあり、時間のずれというのは観客としても想定の範囲内である。また突然の大災害も、冒頭の落下映像で最初から危惧を覚えていたわけなので、やはりそうだったのか(泣)という程度の衝撃だった。 最も意外だったのは、変に丸く見えた湖が火山に由来するもの(カルデラ地形など)ではなくクレーターだったということで、地球上でクレーターが2個接続した状態になっているのは珍しいのではないかと思われる(2個同時に近接して形成された事例はあるようだが)。もしかすると山上の聖地も恐山のような火口原ではなくクレーターであって、ご神体の岩塊は隕石というつもりだったのかも知れない。星の世界につながる特異点のような場所という設定とすれば科学考証的にはどうかと思うが、当方としては初めからファンタジーとして見ているので別に構わない。 ほかにも考えれば指摘すべき点はいろいろありそうだが、自分としては頭を使うのが面倒臭いのでそこまではしない。それよりも、若い登場人物に対して素直によかったねと言ってやりたくなる展開(見ている自分の境遇はさて置いて)だったのは当然ながら嫌いでなく、最終的には明らかにいい印象を残す映画になっていた。見ていてはっと胸をつかれるところが何か所かあり、特に終盤で並走する電車の場面では、一瞬の動揺を劇場内で隠すのが困難だった。 また「シン・ゴジラ」だけでなく、この映画でも何気なく先の震災が念頭にあったようで、今後起こりうる災害から目を逸らすことなく、まともに意識しながらしなやかな心で対していこうとする気構えが日本人の中にできて来ているとすれば心強いことである。 ちなみに、少女のオッパイが「転校生」(1982)だとすれば、ラストで記憶のない2人が再会できたのは「時をかける少女」(1983)に対抗したものではないか。切なさ優先で登場人物を不幸にするラストよりもこっちの方がよほどいい。(1953年のドラマのことは知らないので無視)[映画館(邦画)] 7点(2016-09-19 16:55:43)(良:1票) 《改行有》


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