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プロフィール
コメント数 2598
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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【製作年 : 2010年代 抽出】 >> 製作年レビュー統計
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1.  愛がなんだ たぶん、この映画を観たほとんどの人たちは、登場人物たち(特に主人公)に対して、痛々しさと、ある種の嫌悪感を覚えるのだろうと思う。 恋の沼に溺れ(どっぷりと沈み込んでいる)、自分を好いている人に都合よく甘え、相手を悪者にしたくないと物分りいい風に恋を諦める“彼ら”の様は、正直目も当てられない。 でもね、僕たちのほどんどは、その彼らの無様な姿から目を離すことができない。そして、嫌悪感を示しつつも、否定もしきれない。 それは、誰しもその無様さと自分自身の経験とを重ね合わさざるを得ないからだ。 誰だって、「正論」とは程遠い恋に溺れたことがあるだろうし、「不誠実」なセックスで誰かを傷つけてしまったこともあるかもしれない。 なぜそうしてしまうのか? それは、劇中でも吐露される通り、本当は誰も自分自身に対して「自信」なんて持てず、弱さや情けなさを隠しつつ、寂しさに覆い尽くされてしまわないように必死に生きているからだ。 主人公のテルコは、恋に溺れ沈み込む自分の愚かさも、相手の男の情けなさも、友人たちの弱さもズルさも、みんな分かっている。 それがもはや「恋」でもなければ、「愛」でもないことも。 それでも、彼女は、“沈没”を止めない。止められない。 友人に現実を突きつけられても、無垢な少女時代の自分自身に疑問を呈されても、「は?何それ」とすべてをシャットアウトする。 彼女は無意識下で知っているのだ。 それがどんなに愚かで精神的に不衛生な選択であろうとも、沈んで沈んで沈み込んで、“底”に足をつけなければ、浮き上がることができないことを。 この映画が描き出していることは、必ずしも色恋を主体にした恋愛模様ではなく、もっと泥臭くて滑稽な人間模様だった。 脳天をガツンと叩かれた感じ。この感覚は、2年前に鑑賞した「勝手にふるえてろ」を彷彿とさせる。 打ちひしがれた主人公が唐突に歌いだして心情を吐露するシーンなど類似点も多かったと思う。 そして、「勝手にふるえてろ」鑑賞時に松岡茉優を発見したことと同様に、また一人大好きになるべき女優を発見した。 主人公テルコを演じた岸井ゆきの。この女優がまた素晴らしかった。 不安定なキャラクターを演じきったその表現力もさることながら、個人的にツボだったのは彼女の風貌だ。 とても美人にも見えるがよく見るとそうでもなかったり、とびきり可愛らしくも見える時もあればまったくそうじゃない時もある。一つの映画の中でビジュアルがくるくると入れ替わるようだった。 例えるならば、“のん”のようなキュートでコミカルな繊細さ、“田畑智子”のような儚げな芯の強さ、そしてBiSHの“セントチヒロ・チッチ”のような秘めた熱さをかけて混ぜ合わせたようなマーブル柄。それが様々な表情を見せているようなそんな感覚を覚えた。 要するに女優としてどストライクだったということ。 「会社辞めたら象の飼育員になるわ」 と、動物園の象を見ながら、馬鹿な昔の男が馬鹿なことを言っていた。 それを聞いて泣いた私は、もっと馬鹿な女だったな。 と、彼女は、彼(象)に餌をやりながら懐かしむ。[インターネット(邦画)] 10点(2021-05-03 00:23:09)(良:1票) 《改行有》

2.  アベンジャーズ/エンドゲーム 《ネタバレ》 トニー・スタークがアイアンマンになって10余年。僕たちは、彼が幾つもの眠れぬ夜を過ごしてきたことを知っている。 そのトニーの姿を一番近くで見続けていたのは、他の誰でもなくペッパー・ポッツだったということ。 だからこそ、ポッツは、遂に“闘い終えた”トニー・スタークに対して、努めて穏やかに「眠って」と言葉を送ったのだ。 もうね、涙が止まらなかった。高揚感、喪失感、そして多幸感と感謝、涙の理由は多層的に渦巻き、正直なところ初回鑑賞時には感情の整理がつかなかった。 そして、マーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)が、「アイアンマン」からこの「エンドゲーム」に至るまで描き連ねてきたものは、“ヒーロー”という宿命を背負った者たちの自らの「運命」に対する抗いと享受の物語だったということを痛感した。 MCUのヒーローたちは、自らの運命を憂い、おびただしい傷を負いながら、藻掻き苦しむ。 時に混乱し、対立し、選択を見誤ることもあるけれど、決して彼らは諦めない。再び立ち上がり、強大な敵=運命に“Avenge(復讐)”する。 その姿に、僕たちは憧れ続ける。それは必ずしもスーパーヴィランに打ち勝つスーパーヒーローだからではない。 彼らは皆、ヒーローであると同時に一人の人間だ。その一人の人間としての弱さや脆さすらもひっくるめた強さに憧れるのだ。 この一つの「時代」を築き上げたヒーロー映画シリーズの最終局面である本作には、“市井の人々”は殆ど映し出されない。 必然的に、ヒーローたちが市民の危機を救うシーンは皆無だ。巷ではそのことに対して批判的な論評もあるようだが、僕は異を唱えたい。 本作に限っては、アベンジャーズが僕たち一般人を救い出すシーンなど必要ないと思う。 なぜなら、「彼らは、僕ら」だからだ。 スーパーヒーローの一人ひとりが、時に弱く脆い一人の人間であることと同時に、我々一人ひとりの人間が、時に強く勇敢なスーパーヒーローにもなり得るし、そうでなければならない。ということを、このエンドゲーム の“大合戦”はありありと映し出していた。 遂にスーツを纏い、夫と背中合わせで戦うペッパー・ポッツは勿論、テレパスのマンティスやシュリ(プラックパンサーの妹)など、非戦闘員のキャラクターたちが、名だたるヒーローたちの先陣を切るようにしてサノス軍に立ち向かっている。 クライマックスにおいて画面いっぱいに映し出されたこの異様な迫力に溢れた「構図」が表す意味は明らかだ。 もはやこの局面において、スーパーヒーローかそうでないかなど関係ない。強大な悪と理不尽な暴力によって大切なものを奪われた全ての者たちが、「正義」の名の下に復讐に挑む。 それは、溜めに溜めたキャップの「Avengers Assemble」の一声と共に、ヒーローたちのみならず我々人類全員が「アベンジャーズ」となった瞬間だった。 だから、この映画に限っては、ヒーロー映画であっても“救う”シーンは必要なく、全員で“戦う”シーンで占められているのだ。 と、まあ初鑑賞からかれこれ日数が経っても、熱くならずを得ず、また語り尽くせぬ。 10年以上に渡り、この類まれな映画体験を享受できたことを、只々幸福に思う。 70年遅刻のデートを果たしたスティーブ・ロジャースに祝福を。 “不完全燃焼”のソーには、まだ何千年も残っているであろう人生に敬意(と密かな期待)を。 そして、Thank you Tony. Thank you Avengers,3000.[映画館(字幕)] 10点(2019-04-27 00:09:40)(良:3票) 《改行有》

3.  アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー 《ネタバレ》 改めて辞書で確認してみると、「avenger」の意味は「復讐者」とある。つまり、このエンターテイメント大作のタイトルの意味は「復讐者たち」ということになる。 もはや熱心な映画ファンやアメコミファンでなくとも、「アベンジャーズ」という呼称は聞き馴染みのあるメジャーワードとなっているけれど、よくよく考えてみれば、ヒーローたちが集結した“チーム”の名称として、その意味は少々奇異に思える。 「復讐者たち」ということは、絶大なパワーを備えたチームでありながら、先ず危害を被ることを前提としているように聞こえるからだ。 しかし、その答えは、この“チーム”が結成された経緯を振り返れば明確になる。 各々がスーパーヒーローとしてそれぞれの「正義」を全うしていた中で、想像を超えた巨大な「悪」による恐怖と悲劇に晒される。ヒーロー一人ひとりでは到底太刀打ちできない。だから、結束して「復讐」をする。 絶対的な「巨悪」が先ずあり、それに対峙するために生まれた“チーム”だからこそ、彼らは「復讐者たち」なのだ。 彼らのその姿は、この現実世界の在り方とまさに“合わせ鏡”だ。 普段、この世界では、それぞれの国、それぞれの民族、それぞれの人が、てんでバラバラに己の「正義」を振りかざしている。 何かしらの問題や課題、共通の「敵」が存在したとき、初めて人々は同じ方向を向くことができる。 言い換えれば、何か「実害」が生じなければ、我々は結束することが出来ない。 なんとも歯がゆく、なんとも愚かしい。 ただそれが人間の正直な姿であり、「そうじゃない」と否定したところで何も始まらない。 その人間の、歯がゆく愚かな本質を根幹に据えたヒーロー像こそが、「アベンジャーズ」の正体なのだと思う。 彼らは人智を超越したスーパーヒーローではあるけれど、間違いも起こせば、失敗もする。そしてその都度、甚大な被害を生み、傷つき、苦悩する。 だけれども、彼らは常にそこから立ち上がり、己の間違いを正し、悪を叩き、ついに「復讐」を果たす。 だからこそ、僕たち人間は、彼らの活躍に熱狂するのだ。 満を持しての第三弾。“復讐者たち”は、あたかもそれが彼らの宿命であるかのように、打ちのめされ、紛うことなく過去最大の悲劇を叩きつけられる。 重く悲しい旋律がシアター内を包み込む。鑑賞を共にしたすべての観客が、絶望感と共に押し黙っているようだった。 誰も席を立つはずもなく、エンドロール後に示されるはずの「希望」を心待ちにしていた。 ようやく隻眼の司令官が登場し一寸安堵する。が、まさか、彼に「mother f*cker」すら言わせないとは。 “サノス”は「慈悲」だと言ったけれど、何たる無慈悲か。 でも、僕らは知っている。 チーム結成時の「6人」は、“二分の一の賭け”に勝ち残っているということを。 そして、「アベンジャーズ」と名付けられた彼らの本当の「avenge=復讐」が始まるということを。 最高だぜ。[映画館(字幕)] 10点(2018-04-27 23:49:03)(良:1票) 《改行有》

4.  アトミック・ブロンド ラストシーン、主演女優が甘美な微笑を携え小気味よく最後の台詞を言い放ち、映画は終幕する。 劇場の暗がりの中、エンドロールを迎えた途端に、涙が滲んできた。 純然たるアクション映画における圧倒的な充足感で涙が出てきたのは初めてかもしれない。 このアクション映画を賞賛する要素は多々あれど、先ず特筆すべき要素は次の3点に尽きる。 一にシャーリーズ・セロン!二にシャーリーズ・セロン!!そして、三にシャーリーズ・セロンだ!!! 決して大袈裟ではなく、全シーン、全カットで映える主演女優・シャーリーズ・セロンが抜群に格好良く、あまりに美しい。 「ワンダフル!」「ハラショー!」「ヴンダバー!」「シュペール!」 果たして、最終的にどの言語で、“彼女”を賞賛すべきか惑うが、とにかく「素晴らしい!」 ナイトクラブでのゴージャスなドレスから、全身傷だらけで“ズタボロ”にも関わらず完璧に美しいフルヌードに至るまで、ありとあらゆる「衣装」を纏った女スパイが、冷戦末日のベルリンで暗躍する。 「騙す者を騙すのは愉快」と、血で血を洗う国家間の陰謀の狭間を、強かに、しなやかに、そして艶やかに立ち回っていく主人公・ロレーン・ブロートンに、ただひたすらに陶酔せざるを得ない。 冷戦下を舞台にしたスパイ映画らしく、各人のめくるめく思惑と、折り重なる策略によってストーリーテリングはクライマックスにかけていよいよ混乱してくる。 何がどうなっているのか殆どわけが分からなくなってくるけれど、そんなストーリーに象徴される世界の混沌そのものを、主人公の存在感が圧倒する。 大国間の冷たく重い鬩ぎ合いも、その水面下で繰り広げられる各国諜報機関の騙し合いも、愚かな“ゲーム”によって命を奪い合う男たちも、その総てを見下し、嘲笑するかのような女スパイの冷ややかな視線と佇まいに、ただただひれ伏すのみ。 7分半にも及ぶ1カット構成により、次々と襲いかかる男共を叩きのめし、打ちのめす“ノンストップ”のアクションシーンは確かに物凄い。 このシーンのみで、今作がアクション映画史上におけるエポックメイキングとしての価値を刻みつけたことは間違いない。 けれど、この映画が物凄いのは、そんな圧倒的シーンすら主人公を彩る一要素でしかないということだ。 鍛え抜かれたアクションも、シーンごとにチェンジされる魅力的な衣装も、中毒性の高い80年代ミュージックも、その総てをウォッカロックのように飲み干し、“彼女”が「支配」する。 その「支配」そのものが、今作の全てのシークエンスを通じて“悦び”に変わる。 「女優」という存在に支配されることの愉悦と恍惚。それらこそが、映画という娯楽の根源ではなかろうか。[映画館(字幕)] 10点(2017-10-30 23:04:45)《改行有》

5.  アイリッシュマン 一言、凄い。 「映画」という“表現”と“歴史”が内包する「過去」と「現在」と「未来」を濃縮したような凄い映画だった。 この映画の“凄さ”は幾層に折り重なっていて、とてもじゃないが一度の鑑賞のみで語り尽くすのは困難に思う。 マーティン・スコセッシ監督が、自身のフィルモグラフィーにおける盟友(+名優)たちを集めて、ある種“懐古的”に製作されたギャング映画かと思っていた。 無論、その想像通りに、老いたデ・ニーロがスコセッシ作品で再びギャング役を演じるだけだったとしても、映画ファンとしての興奮は揺るがず、きっと良作になっていたに違いない。 だがしかし、この映画作品が孕むテーマとクオリティは、そんな安直な想像を容易に飛び越えて、遥かに高尚で、圧倒的に面白い映画の境地を見せてくる。 “マーティン・スコセッシの新作で老いたロバート・デ・ニーロがギャング役を演じている” そのこと自体に間違いは無い。が、そこに映し出されたものは、決して単なる懐古主義などでは留まるわけもない“新しい映画表現”そのものだった。 CG技術によって俳優の実年齢を大幅に変えて若返らせたり、老け込ませたりする“映像処理”の手法自体はもはや珍しくもなんともないことだけれど、今作のそれは、“映像処理”などという表面的な範疇を遥かに超えて、監督の演出と、俳優の演技に密接にリンクする「表現」として昇華されている。 そこで感じられたものは、ビジュアル的に違和感が有るとか無いとかのレベルではない。 稀代の名優たちが、スコセッシ監督が言うところの「CGによるメイク」を施されることにより、それぞれのキャラクターの人生を圧倒的な演技力で表現しきっていることに他ならない。 きっと、この映画を観た若い俳優たちは、驚きと共に、“恐れ”と“喜び”で、震え上がったに違いない。 なぜなら、避けられぬ老いと共に、一線から引いていたに見えた偉大な名優たちが、映画の新しい表現方法により再び新たな可能性を得たことを目の当たりにしてしまったのだから。 それは俳優としての機会損失の危機であると同時に、映画史の過去と未来が現在進行系で入り交じる、より多様性を孕んだ新しいキャスティング時代の幕開けに他ならないと思える。 そしてこの新しい映画表現が「実現」したフィールドが、「Netflix」という新時代のメディアであることも、当然ながら看過できない。 今の時代、通常の映画興行では“3時間半”に及ぶ長尺で、“ギャング映画”を製作し、公開するなんてことはほぼ不可能だろう。 巨額の製作費的にも、観客側のニーズ的にも、インターネットによる世界同時配信だからこそ成立した映画企画だったことは明らかで、この作品の“勝利”をきっかけとして、世界の映画人たちの“軸足”は益々変遷していくに違いない。 映画ファンの一人として、映画を「映画館」で鑑賞することの幸福は決して揺るがない、と思いたいけれど、本当に面白い映画を観ることができる「場所」が変わってしまうのならば、僕たち観客も“軸足”を変えざるを得ないだろう。[インターネット(字幕)] 9点(2020-01-03 00:51:38)(良:1票) 《改行有》

6.  アナと雪の女王2 “ハッピーエンド”のその先へ。 生まれ持った「資質」にまつわる“重責”や“鬱積”、そして“真価”を本当の意味で「解放」する物語。 持つ者と、持たざる者、それを象徴する愛すべき姉妹の素晴らしい到達点。 なんてアメージングな映画だろうか。   前作「アナと雪の女王」はもちろん良い映画だったと思う。 ちょうど愛娘が物心ついた時期だったこともあり、わりと何度も繰り返し鑑賞してきた。 ディズニープリンセスの系譜の中で、そのクラシック性をベースに敷きつつも、テーマ的には殆どそれを「否定」するレベルでの新しい時代の新しい価値観を、主人公の“お姫様姉妹”に表現させてみせたことは、アニメーション映画としてとてもチャレンジングであった。 社会現象まで引き起こす世界的なヒット作になったことも含めて、映画史上における価値も無論否定しない。   ただしその一方で、個人的な心情としては、何か一抹の“モヤモヤ感”が心のどこかに存在していて、そのことが世間の過剰な盛り上がりに対して、一歩引かせてしまっていたことも事実だった。 この続編を観てようやく明確になったことだが、そのモヤモヤの正体は、女王エルサの深層心理についてだった。分かりやすく言い換えれば、彼女の「本音」と言ってしまってもいいかもしれない。   魔法の力を生まれ持ったエルサは、妹を傷つけてしまったことや、両親の死に対して、自身の能力を呪い、それを隠すように長年に渡って引き篭もった。 そのひた隠してきた能力が、妹アナをはじめとする周囲の人間にあらわになってしまったことをきっかけに、彼女は鬱積してきた思いをぶちまけ、その資質を解放する。 そう、その様を描いたシーンこそが、前作最大のハイライトである「Let It Go」の歌唱シーンである。   逆に言うと、前作には、「Let It Go」のシーン以上にエモーショナルな場面が無い。 それはつまり、結局エルサは、「Let It Go」の前はもちろん、その後のシーンでも、更には“ハッピーエンド”のその後(短編2作含め)に至るまで、妹のアナにすら「本音」をぶちまけられていないことに他ならないのではないか。 エルサが「本音」を吐露したのは、“ありのまま”の自分を初めて自分自身で認め、高らかに歌い上げたあの最高の歌唱シーンのみだった(最後のちょっと“悪い顔”も最高)。 その彼女の“モヤモヤ”が、前作鑑賞時の僕自身の“モヤモヤ”と無意識レベルで直結していたのだと思う。   今作の冒頭でエルサ自身が認めているように、前作のハッピーエンド以降、彼女は「幸福」に包まれて王国の女王として生きることができている。 アナをはじめ、すべての国民たちは、女王である彼女を心から敬愛し、慈愛を向けている。   だがしかし、「果たしてそれが本当に彼女(エルサ)らしい生き方なのか?」ということ。この続編のテーマはそれに尽きる。   そもそもなぜエルサには魔法の力が与えられているのか。 国王である両親たちはなぜ幼い姉妹と国民を置いて危険な船旅に出掛けたのか。 そして、アナにはなぜ特別な力が備わっていないのか。   前作では、スペシャルな楽曲の数々によって巧妙に覆い隠されていたそれらストーリー上の欠落ポイントが、今作では壮大な物語性とストーリーテリングによって、補われ、きっちりと埋められていく。  そしてエルサは、「女王」としてではなく、一人の「人間」として、生まれ持った資質を解放させ、自らの存在意義と辿るべき“生き方”を見出していく。 彼女のその様は、喜びと尊厳に満ち溢れており、前作の「Let It Go」以上にエモーショナルなシーンの連続だった。   更には、すべてを決着させるための「決断」と「行動」をアナに担わせることで、この物語は素晴らしい到達点を見せる。 それは、この姉妹が「対」として存在し、「共に生きること」の“本当の意義”の表明だ。 必要だったのは、自然の猛々しい流れを強引に堰き止める巨大なダムなどではなく、姉と妹の二人をそれぞれの“袂”とした「橋」だったということ。 ぴったりと寄り添うことばかりが「共に生きる」ということではなく、互いの意志と資質を尊重し、たとえ離れていたとしても気持ちを行き交わすことも、間違いなく「共に生きる」ということであるという帰着。 “二人の女王”が、それぞれの場所で、互いを思うラストシーンには感嘆せずにはいられなかった。   前作の奇跡的な存在感を放つ楽曲群と比較すると、確かに“聴き劣り”はするけれど、それを補って余りある圧倒的なビジュアル表現とスペクタクルシーンの連続は、「圧巻」の一言だったし、連作を通じて物語全体の価値を高める素晴らしい続編だったと思う。[映画館(吹替)] 9点(2019-12-26 23:31:52)《改行有》

7.  IDOL-あゝ無情- まさにちょうど一年前に、「BiSH」という“アイドルグループ”を知り、瞬く間にドハマりし、虜になった。 そしてYou TubeやTwitterをフル回転して彼女たちのことを掘り起こしていく過程の中で、必然的に所属事務所である「WACK」を知り、その社長兼プロデューサーを務める「渡辺淳之介」という人物のことを知った。 BiSHは勿論、同じくWACKに所属する他のアーティストも、皆アイドルとしても、女性シンガーとしてもエモーショナルで、それぞれのパフォーマンスを見漁り、聴き漁った。 僕にとって、この一年は「WACKの一年」と言ってしまって過言ではなく、その一年の締めくくりとしてこのドキュメンタリー映画を劇場鑑賞したことは、中々相応しい体験だったと言えよう。 この作品は、或るアイドルオーディションの一部始終(の中のほんの一部)を映し出したドキュメンタリーであり、アイドルを夢見る女性たちの“烈しい”軌跡が描き出されている。 が、しかし、実はこの作品の焦点は、オーディションに挑む参加者たちには当たっていない。彼女たちの“夢追い物語”が主題ではないのだ。 それでは、オーディションと並行して繰り広げられるWACK所属グループ「BiS」の“解散劇”が今作の主題だろうか。 確かに、本来“主役”であるべきオーディション参加者をよそに、カメラの中心には、解散の瀬戸際で苦悩し泣き叫ぶBiSのメンバーたちが常に映し出されている。 憔悴するアヤ・エイトプリンス、懇願するムロ・パナコ、止めどない彼女たちの涙と苦悶の表情が、このアイドルドキュメンタリーのハイライトであることは間違いない。 でも、その彼女たちの姿、言動すらも、この作品のメインテーマの一つのファクターに過ぎなかった。 すべては今作のタイトルに表れている。 「IDOL-あゝ無情-」、他の誰よりもこの感情を覚え続け、時に呑み込み、時に吐露し続けてきた人物の苦悩こそが、今作の主題だ。 その昔、初めて担当し育て上げたアイドルグループを売れさすことができずに、解散となった事実と無念を今なお抱え続け、それでもアイドルを生み出し続ける男。 事務所の社長としての重責と、生みの親としての愛情の狭間で、彼はこの映画の中で、終始怒り、失望し続ける。 誰よりも「悪者」になっているその男が、誰よりも彼女たちを愛していることは明らかだ。 その男は、これからも少女たちの“夢”を生み、育み、壊し、ひたすらに進んでいく。 なんて悲しい、なんて虚しい。 まさしく「無情」そのものだけれど、その闇が深まるほど、表裏一体の光はより一層に眩しく輝くことを彼は知っている。 その光がほんの一瞬の儚きものだったとしても、彼はそれを追い求めることを躊躇わない。[映画館(邦画)] 9点(2019-12-18 14:14:24)《改行有》

8.  アクアマン 「ロード・オブ・ザ・リング」+「ブラックパンサー」+「ドラえもん のび太の海底鬼岩城」という式がぴたりと当てはまる。 そしてそれは、それぞれの過去作に対して“二番煎じ”というわけでは決してなく、あらゆる要素が大渦のように轟々と混ざり合い、まったく新しい「娯楽」の世界へと誘ってくれる。 詰まるところ、DCコミックスが放った新たなスーパーヒーロー映画は、「ワンダーウーマン」に引続き、最高の娯楽映画だったということだ。   大々的にイントロダクションされている通り、全編通して繰り広げられる海中アクションがやっぱり凄い。 映像技術の進化に伴い、水中描写そのものはそれほど珍しくなくなったが、今作ほど主要シーンの殆どが海中シーンであり、文字通り縦横無尽のアクションを展開させた映画はなかったのではないか。 そして、イマジネーションが満ち溢れる海底都市の魅惑的なビジュアルは、まさしく「誰も見たことがない」映像世界だったと思える。 また、果てしない奥行きを備えた海中世界の描写はIMAX3Dとの親和性も極めて高かった。   その圧倒的な映像世界と、凄まじいアクションシーンを司ったジェームズ・ワンの映画監督としての力量はやはり卓越している。 マレーシア出身のこのアジア人監督は、時に豪胆に、時に繊細に、広義の意味での“アクション”を膨大な映像的物量で積み重ねつつ、巧みに整理し、この大バジェット映画を支配している。 逃亡中の主人公らがヴィランに襲撃されるシチリアのシーンでは、ありがちな攻防戦を巧みな空間演出とカット割りによって、白眉のアクションシーンに昇華させている。 屈強でゴージャスなハリウッドスターの狭間で、マジックのような演出を施すこの小さなアジア人監督には、これからも新しい映画企画をどしどし回すべきだと思う。   「ジャスティス・リーグ」そして今作で、見事に“海の王”のキャラクターをものにしてみせたジェイソン・モモアのスター性も文句無く、もっとこの濃ゆい俳優によるアクアマンを観てみたいと思わせた。 現時点では「ジャスティス・リーグ2」の公開は定かにはなっておらず、今作においてもクロスオーバー的な描写が殆ど無かったことは残念だったが、隆盛を極めた“ライバル”に対して、DCコミックスの反撃態勢は確実に強く固まってきている。[映画館(字幕)] 9点(2019-03-02 17:54:45)《改行有》

9.  アイ,トーニャ 史上最大のスキャンダル “トーニャ・ハーディング”が、テレビカメラ越しに、やや諦観しているような真っ直ぐな眼差しで、軽薄な「大衆」に向けて、「あなた」という呼びかけと共に、静かな怒りと諦めをぶつける。 「あなた」というのは、まさに自分自身のことだと思えた。 1994年のリレハンメル五輪のあの冬、僕は13歳からそこらだったと思うが、トーニャ・ハーディングが途中で演技を止めて、審判席に詰め寄る光景をよく覚えている。 そして、僕は確かに、彼女のその様を、「往生際の悪い女だ」と、好奇と侮蔑を携えて見ていたことも、よく覚えている。 年端もいかない“ガキ”だったとはいえ、断片的に伝え聞いていたのであろうワイドショーの情報と、衛星中継の一寸の光景だけで、そういった底意地の悪い感情を抱いてしまったことは、恥ずべきことだったと思う。 結局、何が「真実」かなんてことは分からないけれど、自分も含めた大衆の無責任さは痛感せざるを得ない。 それにしても、一流アスリートとオリンピックを巻き込んだあの一連のスキャンダル事件を、このような形で、スポーツ映画としても、一人の女性像を描き出す作品としても成立させ、見事な傑作として完成させてみせたことには驚かされた。 マーティン・スコセッシの犯罪映画のようでもあり、デヴィッド・フィンチャーの実録映画のようでもあり、最新の撮影技術を駆使した確固たるスポーツ映画でもある今作は、極めて芳醇な多様性を孕んでいて、最初から最後まで決して飽くことがない。 二十数年前のスキャンダルを知っていても、知らなくても、面白みを堪能できる作品に仕上がっていることは、虚偽と真相、フィクションとノンフィクションの境界を描く今作が、大成功を収めていることの表れだろう。 演者で特筆すべきは、やはりなんと言ってもマーゴット・ロビー。 どこまでも愚かであり、どこまでも不憫な実在の女性像を見事に表現しきっている。そして、間違いなく世界トップクラスのフィギュアスケーターだったトーニャ・ハーディングを演じるにあたってのアスリートとしてのアクションも、極めて高い説得力と共に体現していたと思う。 ラストシーン、スケート界から追放された主人公は、ボクシングのリング上で、アッパーカットを浴び宙を舞う。 その様をかつての“トリプルアクセル”と重ねて映し出すという「残酷」の後、リングに打ち付けられた彼女は再びこちらを見つめてくる。 この映画は、無責任な好奇の目に晒され続けた彼女が、それを浴びせ続けたこちら側を終始見つめ返す作品だった。[DVD(字幕)] 9点(2018-11-23 23:52:48)(良:2票) 《改行有》

10.  アントマン 《ネタバレ》 アントマン=“蟻男”って、なんだその地味なヒーローは……。と、この新ヒーロー登場に触れそういう嘲笑を含んだ印象を拭えなかった。 今夏公開された「アベンジャーズ2」は、非常に満足のいくマーベル映画の集大成的な作品だった。 が、その映画的物量の凄まじさにより、スーパーヒーロー映画そのものに対して“お腹いっぱい”だったこともあり、今作においては劇場鑑賞をスルーしようと思っていた。 と、そんな矢先、某友人からふいに絶賛メッセージが届き、一転して映画館へ足を運んだ。 正直、実際に鑑賞に至るまで半信半疑なところもあったが、何の事はない、序盤から心の中の“親指”が立ちっ放しだった。 最高。傑作。マーベル映画史上最も“楽しい”映画であると断言してしまっていいとさえ思える。 何よりも楽しかったポイントは、「蟻男」が想像以上に「蟻男」だったことだ。 ただ単に新開発された奇想天外なスーパースーツを身に付けた主人公がミクロサイズになり、“一寸法師”的な活躍をするだけの新ヒーローだと想像していたが、そうではなかった。 「蟻男」は文字通り、“蟻”のリーダーとして無数の蟻軍団を率いて巨悪に立ち向かうのだ。 その想像を超えたあまりにマンガ的な展開が、決して馬鹿馬鹿しくなく、エンターテイメント性に溢れ、感動的な程に楽しかった。 (アリンコ一匹の死にこれほど悲しみを覚えた記憶も無い!) 有名なハリウッドスターがトップクレジットに据えられていなかったことも、イントロダクションの段階で今作が娯楽大作として地味に映ってしまった一因だったが、キャスティングされている俳優たちも皆素晴らしいパフォーマンスを見せている。 主演のポール・ラッドは、コメディ畑の俳優らしい表現力で、軽妙な映画世界の中での軽妙な新ヒーローに見事にフィットしていた。 脇役ではマイケル・ペーニャが最高に良い。近年様々な作品で印象的なバイプレーヤーぶりを見せる俳優だが、彼の「語り口」がなければ、今作は色々な意味で成立しなかったろうとすら思える。 そして唯一のビッグネームであるマイケル・ダグラス。この重鎮俳優独特の怒りと憂いと狂気に満ちた存在感があったからこそ、下手をすればただ軽々しいだけに仕上がっていただろう今作に一本の筋が通っていたと思える。 今作は、「アベンジャーズ2」という“大祭”が終わったばかりのマーベル映画シリーズにおけるシーズンオフ前の最後の作品でもあるらしい。 次のシーズンに向けての区切りとなる作品として、マクロ的に肥大しある意味においては食傷気味だったアベンジャーズの世界観を、一旦ミクロの世界へ凝縮させることにより、魅力を増大させてみせたと思う。 それは、まさに“アントマンスーツ”とまったく同じ論理であり、見事だという他ない。 幼い愛娘のファンシーな部屋の中で、ラスボスとの死闘を繰り広げるスーパーヒーローがいまだかつていただろうか。もちろん、いるわけがない。 “マクロ”から“ミクロ”へ、ヒーロー映画の視点そのものを見事な塩梅で転換してみせたこの映画の優れたエンターテイメント性に脱帽だ。[映画館(字幕)] 9点(2015-10-06 22:59:02)(良:3票) 《改行有》

11.  アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン マーベルの“大祭・第二弾”。 3年前の大祭・第一弾が、奇跡的な大成功を収めただけに、この続編へのハードルは残酷なまでに高まっていたと思う。 これ程までに濃ゆいメンツを一つの映画作品に詰め込むことだけでも、その苦労は半端ないものである筈で、そこに続編ならではの難しさも加わり、大き過ぎる期待の反面、クオリティーの低下を覚悟していた部分はあった。 が、何の事はない。高すぎるハードルを華麗に越え、エンターテイメント超大作としてきっちりと仕上げている。見事だ。 「アイアンマン3」、「キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー」の流れを汲み、描き出されるストーリーは、決して終始高揚感溢れるものではなく、時に陰鬱で破滅的ですらある。 アベンジャーズを構成するヒーローそれぞれの心の闇と葛藤が浮き彫りにされるストーリー展開は、映し出されるアクションシーンが派手になればなるほど、彼らを包む渇いた空気感を際立たせるようだった。 この“苦い”味わい深さは、この“大祭”に至るまでの各作品を観ていなければ到底理解できるものではなく、そういう意味では完全に“一見さんお断り”映画であることは間違いないだろう。 ただし、そういった苦味の中でも、アメコミヒーロー映画の究極として、アゲるべきところはしっかりとアゲてくる。 各ヒーローの弱みを露わにするからこそ、それぞれの見せ場も存分に見せてくれる。 そして、彼らが“アベンジャーズ”として「結束」することによる無敵ぶりをきちんと映画のピークに合わせてくる。 そして、今回キャラクターとして特筆すべきは、アイアンマンでもキャプテンアメリカでもハルクでもなく、まさかの“ホークアイ”だろう。 生身の人間であるこのキャラクターは、超人的な能力を誇る他のメンバーに対して明らかに浮いていた。 スカーレット・ヨハンソン演じるブラック・ウィドウはまだ紅一点という明瞭な存在意義があったが、ジェレミー・レナー演じるホークアイは、あまりに存在感が薄かったと言える。 が、今作においては、極めて重要な存在感を見せてくれる。 ロボットの軍勢が襲いかかり入り乱れる非人間的な戦闘の中で、「俺の武器は弓、笑えるだろ?」と自嘲するホークアイ。 それでも一歩戦いの場に踏み出れば、彼はアベンジャーズとして信念を持ってひたすらに弓を引き続ける。 その様は最高に格好良い。 そのホークアイの姿にこそ、アベンジャーズの真価が表れていたと思う。 ジェレミー・レナーという一流俳優がこの地味な脇役を担い続けた意味がようやく結実している。 さて、大きければ大きいほど祭りのあとはいつも寂しい。 ハルクは南の海に去り、ホークアイは家族の元へ帰ってしまった。トニー・スタークとソーは戻ってくるだろうか。 祭りのあとの空虚感を携えつつ、エンドロールを見送った。 そして、「アベンジャーズは帰ってくる」というお決まりのテロップをしっかりと確認し、少し安心して映画館を後にした。 (2018.5.14 再鑑賞) 劇場公開以来の再鑑賞。なんだよ、やっぱり最高かよ。 “S.H.I.E.L.D.”という文字通りの「後ろ盾」を失ったヒーローたちが、絶大なパワーとそれ故の恐怖との狭間で苦悩する。 この映画単体としてのプロットは、意地悪な見方をすれば、ヒーローたちの“独り相撲”であり、それにほぼ巻き込まれる形で実害を被る世界の人々からすれば、そりゃあ恨み節も言いたくなろうし、危険視するムーブメントも避けられまい。 今作におけるヒーローたちの「失敗」が、この後の「シビル・ウォー」の悲劇へと直結していくわけで、その顛末を知った上での再鑑賞では、ヤキモキ感が増長したことは言うまでもない。 ただだからこそ、前作「アベンジャーズ」を遥かに凌駕したヒーローたちのアクションシーンの連続が、ひたすらに熱い。 自ら招いた危機によって打ちひしがれようとも、傷つこうとも、倒れようとも、彼らは何度でも立ち上がり、新たな仲間を伴い、「復讐者」となる。 その様は、まさに“独り相撲”の極みかもしれないけれど、そんな小賢しい理屈なんて超えて、ただただ熱狂せざるを得ない。 実は誰よりも“人間臭い”最凶人工知能“ウルトロン”のユニークな悪役性、ホークアイを筆頭とする脇役の見せ場、スカーレット・ウィッチ、そしてヴィジョンら一線を超えた新キャラクターを問答無用に「有り」にしたMCUの巧みさに、改めて脱帽。[映画館(字幕)] 9点(2015-08-07 00:28:23)(良:2票) 《改行有》

12.  新しき世界 《ネタバレ》 ラスト、辛辣な運命に導かれるままに、ついに望まぬ“椅子”に収まった主人公。“新しき世界”を眼下に見下ろし、彼は何を思ったのだろう。 一見、彼の表情は自らの運命に対しての苦悩に苛まれているように見える。 しかし、その先のシークエンスで、彼の中にはそういった苦悩とはまったく別の感情が巡っていたのだろうことが分かる。 ラストのラスト、この映画で主人公が唯一見せる或る“表情”。 観客も、主人公自身もはたと気づく。 彼にとっての“新しき世界”は、とうの昔に始まっていたことに。 いやあ素晴らしい。毎度のことながら、韓国映画には新鮮に感服させられる。 監督の巧さ、俳優の巧さ、撮影技術の巧さ、すべてが高水準であることは間違いなく、総じて「映画づくりが巧い!」と言わざるをえない。 特に個人的に思うのは、ラストシーンの絶対的な巧さだ。 今作においても、ラストシーンの映画的巧さによって、作品自体の質を格段に上げている。 韓国映画のつくり手たちは、本当に映画という“娯楽”をよく理解していると思う。 そして、俳優たちが演じるキャラクターの“実在感”がまた凄い。 一人ひとりの顔つきに、各人物の人生模様が如実に現れていて、細かい人物描写がシーンとして無くとも、彼らがどういう人生を歩んできたのかが見えてくる。 嘘で塗り固められた人生を歩んできた主人公は、「真実」という“偽り”をすべて捨て去り新世界の支配者となる。 その彼の表情が苦悩に満ち溢れていたとしたならば、それはやはり、新世界の景色を共に見下ろすべき存在が誰であったかということに、ようやく気付いたからだろう。 その「孤独」に心が揺さぶられる。[CS・衛星(字幕)] 9点(2015-01-25 00:56:17)(良:2票) 《改行有》

13.  アメイジング・スパイダーマン2 《ネタバレ》 勢いよく飛び出した蜘蛛の糸が、ヒロインを救うために伸びる。 この“スーパーヒーロー”のどの作品にも描かれているお決まりのシーンの筈だが、“糸の先”が必死に伸ばした小さな手のように映し出される様を見て、突如としてその先の“悲しみ”が脳裏をよぎる。 前作に続き、ヒロインを演じたエマ・ストーンが、最初から最後までどのシーンにおいても、可愛く、美しい。 ヒロインのその存在感こそが、この映画の総てだと言ってしまって決して過言ではないと思う。 なぜならば、マーク・ウェブ監督が描き出したこの“スパイダーマン”は、決してヒーロー映画ではなく、若い男女を描いた恋愛映画であり、青春映画だからだ。 前作でも感じたことだが、派手なアクションシーン以上に、おおよそアメコミヒーロー映画らしくないただのデートシーンが矢鱈に印象的ことからも、それは明らかだ。 主人公をはじめ、登場人物たちの行動原理はとても浅はかだ。 約束は守れないし、一度決めたこともその場の気分ですぐに覆す。 彼らの軽薄さと危うさは、そのままこの映画全体の脆さに繋がっているようにも見える。 しかし、僕はその部分こそが、この映画の最大の魅力だと思える。 軽薄さも危うさも、見ていて気恥ずかしいまでの青臭さも、それらはすべて若者たちに与えられた「特権」だ。 常に揺れ動く“不確かさ”こそが、この映画におけるリアリティであり、他の映画にはないオリジナリティだと思う。 特に自覚もなく“大人”になったばかりの彼らが選んだ「道」は、あまりにも堪え難い悲劇だった。 しかし、その悲しみも、後悔すらも、彼らに与えられた権利であり、誰が非難出来ることではない。 ただ、その選択をした“本人”だけが、ひたすらに悲しみ、ひたすらに後悔し、絶望に沈むことが出来る。 だからこそ、絶望の淵から再びマスクを被り、少年の前に立つヒーローの姿に胸が熱くなった。 原作でのヒロインの顛末は知っていたので、“そのこと”自体に対しての驚きはさほどなかったけれど、想定以上にその後の自分自身の落ち込み具合が大きいことに気付いた。 それも、このシリーズが前作から通じて描き連ねてきた、“若さ”に対しての希望と、それと隣り合わせの脆弱さが結実した結果だと思う。 ヒーロー映画としての最大の“タブー”をしっかりと描き切ったこの映画の勇気、その価値はとても高い。[映画館(字幕)] 9点(2014-05-02 00:41:02)(良:3票) 《改行有》

14.  悪の法則 《ネタバレ》 ラストシーン、或る人物が「お腹がすいた」と一言発し、暗転、この映画は終焉する。 その瞳は、愉悦を覚えているようにも見えるし、欲望を満たすことを続けなければこの「世界」では生き続けられないということを、この映画に登場する誰よりも“正確”に理解している人間故の深く暗い悲哀に溢れているようにも見えた。 非常に哲学的で、極めて奇妙な映画であることは間違いない。 豪華キャスト勢揃いによる麻薬取引を軸にした“犯罪エンターテイメント”と高を括って観てしまうと、虚をつかれることは避けられないだろう。 マイケル・ファスベンダー演じる主人公が、終始ただ「カウンセラー(弁護士)」と呼称されることに表れている通り、この映画ではキャラクターのバックグラウンドに踏み込むような描写は一切無い。 それどころか、彼らがどういう経緯と理由で「悪」に手を染めているのかということも明確にならないし、描き出されるストーリーの“顛末”においても、「誰がどうしたからどうなった」という、普通の娯楽映画であれば当然ある筈の「事の真相」も抜け落ちている。 もちろんそれは描き手の明確な意図によるものであり、この映画で真に描き出したいことが、表面的にショッキングなバイオレンス描写やセックス描写などではなく、善悪の境界すらも超越した、彼らが生きる「世界」の本質的な「仕組み」の話であることに他ならない。 それはまさに、野うさぎを本能的に追うチーターの姿と何ら変わりない。 「捕食者」と「被食者」というたった二つの立場しか許されないピラミッドの縮図と、その真理だ。 そこには慈悲もなければ、憎しみすらない。ただどちらかが生きるために、どちらかが死ぬという極めてシンプルな「法則」があるだけ。 そのあまりに意欲的で野心的な映画世界を、「最新作」として送り出す大巨星リドリー・スコットの映画監督しての意識の“若々しさ”と“雄々しさ”には、毎度のことながら感服せずにはいられない。 映画作品としてのクオリティーを鑑みればそんじょそこらの映画監督が撮れる作品でないことは明らかだが、御歳76歳の大巨匠が描き出すような類いの作品ではないこともまた然り。 「衰え知らず」とは、まさにこの人のためにある言葉だと言っていい。 とても誤解されやすいタイプの映画だとは思うが、だからこそ、含まれた「真意」に対しての戦慄は殊更に際立つ。[映画館(字幕)] 9点(2013-12-08 22:47:11)(良:1票) 《改行有》

15.  アイアンマン3 映画鑑賞後、マイカー(軽四自動車)で帰路についた。 アクセルを踏み込む足、ハンドルを回す手、バックミラーを見る目、何ともない自動車の運転において、心なしか“メカを操っている”という気分で高揚していることに気付く。 詰まるところ、「アイアンマン」とは、そういう映画だ。 「3」なのでもちろんシリーズ3作目なのだが、今作の場合、普通のアメコミヒーロー映画のシリーズ3作目の立ち位置とは大いに異なる。 ご存知、一年前の一大フェスティバル「アベンジャーズ」を挟んで初めての続編だからだ。 幸いにも“フェスティバル”は大成功に終わったが、その後の各ヒーローの単体シリーズに課されたハードルは、高いというよりも、非常に困難なものになった筈。 「アベンジャーズ」で、宇宙規模いや神話規模の強敵と両雄入り乱れる死闘をNYで繰り広げた後に、ヒーロー単体で一体どんな「敵」と戦えばいいんだ?という話である。 しかし、結果としてこの作品の製作陣は、見事な結果を導き出してみせたと思う。   何よりも「脚本」が素晴らしかったと思う。 “祭りのあと”の心労を主人公に与え、独善的にまで自信家だった彼に、心に植え付けられた明確な恐怖を感じさせ、同時に旗艦である自宅、そして身に纏うアーマーまでもが敵によって破壊されてしまう。 結果、彼は内も外も文字通りに“丸裸”にされてしまうわけだ。 すなわちこの作品は、これまで自慢の鋼鉄アーマーを纏うことによってはじめて“アイアンマン”と成っていたトニー・スタークが、一度総てを脱ぎ捨て、自ら破壊し、彼自身が“アイアンマン”そのものであるということを見出していく物語に仕上がっている。 そういう物語の意向を踏まえると、妄信的に開発し続けてきたパワードスーツが尽く破壊され、絶体絶命に陥ったトニー・スタークが既に手に入れていたものこそが、“ペッパー”という彼にとっての最強のアーマーだったというクライマックスの顛末も、とても感動的だ。 さて、どうやら今作を皮切りに、“フェスティバル”の第2弾への助走が始まったと言っていいらしい。 もはやこちらとしてはノせられる気満々なので、せいぜい金をかけてマイルストーンを置いていってほしいものだ。 そして、すべてを脱ぎ去ったトニー・スタークが、満を持して“フェスティバル”に帰ってくる様を心待ちにしていよう。 (2018.5.11再鑑賞) 「I am Iron Man.」と、“社長”が締め、このシリーズ最終作(一応)は終幕する。 この台詞は、第一作「アイアンマン」で、同様にトニー・スタークが放つ台詞だが、イントネーションを変えることで、同じ台詞が持つ「意味」を変えて表現しているところが上手い。 このシリーズ最終作(一応)で、あらゆるものを失ったかのように見えるトニー・スタークだが、彼は“スーツ”をはじめとする総てを失ったことで、初めて自分自身の本当の価値を見出す。 即ち、鋼鉄の最強スーツを身に纏ったスーパーヒーローが“アイアンマン”なのではなく、それを絶体絶命の中から生み出し、叩かれ、倒れてもなお、再び創造することが出来る「私」こそが、“アイアンマン”なのだということに、他の誰でもなく自分自身が認められたことで、彼の「闘い」は一つの区切りを得たのだ。 ロバート・ダウニー・Jrを“社長”に配した映画史上においても指折りのベストキャスティングに端を発したこのヒーロー映画シリーズの「着地点」として、見事な最終作(一応)だったと思う。 まあ、(一応)を連呼した通り、MCUの連なりの中では、この先も“社長”はバンバン登場するわけで、この映画のラストシーンに溢れている筈のヒーローが去った寂しさみたいなものは、今となっては全く感じることは出来ないのだけれど。[映画館(字幕)] 9点(2013-04-28 19:24:00)《改行有》

16.  アルゴ “偽装”によるイラン国外への脱出に危険とそれに伴う恐怖を訴える外交官たちに対して、主人公は「偽装だけが銃から身を守る」と諭す。 人間、極限までに進退窮まれば、最後に唯一できることは“偽る”ことだけなのかもしれない。 そして、人間による“偽り”という行為は、必ずしも悲観すべきものばかりではないとも思える。 人生において打ちひしがれ、落ち込み、どうにもならない状況に陥ったとしても、自分が出来得る万全を期してその状況を何とか“やり過ごす”ことが出来たなら、きっとその先の展望は開ける。 決して格好良い事ではないけれど、そのしぶとさを人間は誇っていいのだと思う。 この映画と、それを生み出したベン・アフレックという映画人に、そういうことを感じた。 この映画はあくまで米国側の視点、もっと言うならばCIAの主観とも取れる“見方”によって描かれた作品である。 だから、いくらノンフィクションを描いていると言っても、真実と異なる点は大いにあるのだろう。実際大部分は脚色されているらしい。 必然的に、イラン側は分かりやすく“悪役”として描かれているが、そもそもの発端には米英による陰謀的な搾取があるわけで、国家間の争いに善悪などないというのが実際なのだろう。 その歴史的事実に対しては、世界中の人々が、正しく認知すべきだろうと思う。 ただし、いくら捉え方が偏っていようとも、これが映画である以上、そこに間違いはない。 しかも、世界中の多くの人間が観て「面白い!」と思うのならば、殊更に何の問題もないと思う。 こういう自国が直接的に関わるリアルな事件や問題を題材にして、ひたすらに面白い映画に仕上げようとするハリウッドの体質を、作品を通じて垣間見る度に、アメリカという国は、世界一“愚かな国”だけれど、結局のところ世界一“強い国”だと思わざるを得ない。 何かがほんの少しうまくいかなければ、もしかしたら世界は破滅に突き進んでいたかもしれない。 愚かな人間が巣食うこの世界はいつだってそんな危機に満ちている。 その数多の危機の一つを、文字通り、とても直接的な意味合いで「映画」が救ったという事実を、映画ファンとして愛さずにはいられない。 そしてその映画を生み出したのも、愚かな人間であるということに、ほんの少し勇気を貰え、何とか明日も生きていける。[ブルーレイ(字幕)] 9点(2013-04-28 19:18:55)(良:1票) 《改行有》

17.  アベンジャーズ(2012) もし、この映画を自分の意志で観に行って「つまんねー」なんて言う人が居たならば、そんな人はもう映画なんて観なくていいのにと思ってしまう。 こんなにも幸福な“THE MATSURI”映画を心行くまで楽しめないなんて、そんな不幸なことはない。 冒頭怒濤のドタバタから自分の口元は“ニヤリ”と緩みっぱなしで、結局最後まで嬉しそうにニヤニヤしながらスクリーンに食いついていた。 ストーリーが薄いとか、辻褄が合わないとか、滅茶苦茶だとか、そんなことは本当にどうでもいい。 爆音と爆発、音と光の「娯楽」のみで最初から最後まで押し通したこの映画の在り方は極めて正しく、「エライ!」と思った。 様々な世界観に息づくヒーローが一堂に会する明らかに「雑多」な映画が、これほどまで娯楽映画としてバランスよく仕上がっているとは思わなかった。 「大味」であることはそもそも覚悟して、たとえ中だるみや陳腐さがあったとしても許容する用意はしていたのだけれど、そういう部分が驚くほどに無かった。 無意識に「見て見ぬふり」をしているだけかもしれないが、観客にそうさせることが見事だと思う。 「ヒーロー大集合」とはいえ、結局はトニー・スタークが活躍の大部分を占める「アイアンマン2.5」的なスタンスなのかと思っていた。 実際良いところはやはり彼が持っていくのだけれど、それぞれのキャラクターも充分に持ち味を見せてくれ、非常に魅力的な「群像活劇」に仕上がっている。 超人たちの中で明らかに場違いに見える“生身の人間”である“ブラック・ウィドウ”と“ホークアイ”は、仰々しく雑多になり過ぎて不足しがちな“ドラマ”部分を担当しつつ、時に超人たちを押しのけるほどの大立ち回りを見せる。 スカーレット・ヨハンソンとジェレミー・レナーの“肉弾戦”なんて、この映画でなければ決して見られまい。 そして、主要キャストの中では明らかに地味なキャスティングとなった性格俳優のマーク・ラファロ演じる“ハルク”が、強烈な二面性と神をも振り回す“最強”ぶりで、見事な“オチ”をつける。 このキャラクターやキャストの関係性も含めた絶妙なバランスの良さが、想定外の完成度と爽快感を生み出していると思う。 いやあ満足、素晴らしい。この“祭り”にはまた参加したい。 エンドロール後のシークエンスに、“祭りのあと”の寂しさを感じつつも大笑いして、殊更にそう思った。[映画館(字幕)] 9点(2012-08-25 01:32:16)(良:1票) 《改行有》

18.  アウトレイジ(2010) タランティーノばりに馬鹿馬鹿しい映画だなと思った。勿論褒めている。 ヤクザが雁首付き合って罵り合い、殺し合い、血みどろになる。ただそれだけの映画だと言って良い。 それだけで面白いのだから良いのだと、映画作品そのものが堂々と居直っているように見えた。 “タランティーノばり”と言ったが、この映画が彼の映画を模倣しているという意味ではもちろんない。 それはむしろ逆で、映画オタクであるクエンティン・タランティーノが愛し憧れた日本映画の姿が、この映画に久方ぶりに現れたと言った方が正しい。 つまりは、世界中の映画ファンが“観たい日本映画”とは、体裁ばかりに無駄に大金を投じて中身がスカスカの恋愛映画やSF映画などではなく、“切った張った”の血みどろ映画であるということに他ならない。 この映画は、「ヤクザ映画」というかつて日本の娯楽映画のメインストリームに確かに存在し、日本が世界に対して、アニメ映画と怪獣映画以外で勝負し得た確固たるエンターテイメントの“再構築”だと思う。 「全員悪人」というか、「全員愚か者」と断言できるキャラクターを、そうそうたる俳優陣がそれぞれ抜群の存在感をもって演じている。 彼らのパフォーマンスは皆過剰なまでに仰々しく、決して今の時代において「リアル」なんてことは言えない。 ただその演出は間違いなく正しく、非現実感も含めこれこそが「ヤクザ映画」におけるエンターテイメントだということを高らかに宣言しているようだった。 そういう明確な意志を持って、総愚か者を演じたキャスト全員が素晴らしかったと思う。 また鈴木慶一によるスタイリッシュだがどこか冷酷なまでの軽薄さを感じる音楽も良かった。 それらすべてを導き出した北野武という映画監督は、やはり映画に愛されているのだなと感じた。昨今、ありとあらゆるお笑い芸人がこぞって映画監督に“腰掛けている”が、彼らとは映画に対するスタンスから何から総てにおいて明らかに次元が違うということを改めて思い知った。 “こういう映画”として殆ど文句のつけようは無い。が、敢えて言わせてもらうならば、 椎名桔平の最期酷過ぎるよ、バカヤロー!コノヤロー!続編も期待大だよ、コノヤロー![DVD(邦画)] 9点(2012-04-30 23:13:13)(良:5票) 《改行有》

19.  アジョシ 過去に訳ありの殺人術に長けた男が、孤独な少女と出会い、彼女を救い出すために決死の闘いに挑む……。 プロットそのものはあまりにありふれており、同様の作品は世界各国で量産されている。 そしてタイトルは“アジョシ(=おじさん)”。飾り気の無いそのタイトルは、食傷感を助長するには充分だったと言える。 韓国映画の全体的なクオリティーの高さは認めつつも、価値観の相違による居心地の悪さから若干の苦手意識もないことはない自分としては、某ラジオ番組で絶賛されていなければ、きっと見向きもしなかったろう。 結論としては、“食わず嫌い”をしなくて本当に良かった。この映画をこの“タイミング”で観なかった場合の損失はあまりに大きかったことだろうと思う。 “タイミング”という表現の意味の対象は、主演のウォンビンに他ならない。 今この時期のウォンビンという俳優の「凄さ」と「可能性」を知っているかそうでないかでは、今後の韓国映画に対する捉え方が大いに変わってくると思う。 即ち、今後彼の出演作は漏れなく注目していかなければならないということだ。 そう言ってしまって過言ではない程、前出演作「母なる証明」に続き、この美形俳優の存在感が半端なかった。 異性が求める「男性」の魅力の究極の様を同性でありながら強烈に感じずにはいられない。 その元来生まれ持った天性の美貌を更に高め爆発させるように、俳優としての存在感が際立ってきている。 孤独を深めていた男が徐々に怒りを爆発させていく。 その鬼神の如き様は、戦慄を覚えると同時に、自らに対する何かしらの“救い”を求めもがいているようにも見え、激しく感情を揺さぶられた。 鮮烈なバイオレンス描写の中に、これ程までセンシティブな情感を映し出した映画は中々ないと思う。 その総てを己の身体一つで表現している主演俳優の素晴らしさ。そして、彼の存在に説得力を与え、より際立たせている映画構成の巧みさに感嘆する。 ウォンビンの惚れ惚れするような体躯と同様に絞り込まれたタイトな演出と、端役に至るまでしっかりとキャラ立てがされている人物描写の上手さが、ありきたりなプロットの上に成り立つ映画を唯一無二の高みへと磨き上げていた。 こういう映画を長編第二作目の新鋭監督が鮮やかに作り上げてしまう隣国の映画制作のレベルの高さに、毎度のことながら驚き、ついつい羨望の眼差しを送ってしまう。[DVD(字幕)] 9点(2012-03-01 18:13:33)《改行有》

20.  アルキメデスの大戦 結論から言うと、とても面白い映画だった。 太平洋戦争開戦前の旧日本海軍における兵器開発をめぐる政治的攻防が、事実と虚構を織り交ぜながら娯楽性豊かに描き出される。 若き天才数学者が、軍人同士の喧々諤々の中に半ば無理矢理に引き込まれ、運命を狂わされていく。 いや、狂わされていくというのはいささか語弊があるかもしれない。主人公の数学者は、戦艦の建造費算出という任務にのめり込む連れ、次第に自らの数字に対する偏執的な思考性と美学をより一層に開眼させていく。そこには、天才数学者の或る種の「狂気」が確実に存在していた。 一方、旧日本海軍側の軍人たちにおいても、多様な「狂気」が無論蔓延っている。 旧時代的な威信と誇りを大義名分とし、戦争という破滅へと突き進んでいくかの時代の軍部は、その在り方そのものが狂気の極みであったことは、もはや言うまでもない。 強大で美しい戦艦の新造というまやかしの国威によって、兵や国民を無謀な戦争へと突き動かそうとする戦艦推進派の面々も狂気的だし、それに対立して、航空母艦の拡充によって航空戦に備えようとする劇中の山本五十六も軍人の狂気を孕んでいた。 数学者の狂気と、軍人の狂気が、ぶつかりそして入り交じる。 史実として太平洋戦争史が存在する以上、本作の主題である戦艦大和の建造とその末路は、揺るがない“結果”の筈だが、それでも先を読ませず、ミスリードや新解釈も含めながら展開するストーリーテリングが極めて興味深く娯楽性に富んでいた。 避けられない運命に対して、天才数学者のキャラクター創造による完全なフィクションに逃げることなく、彼自身の狂気性と軍人たちの狂気性の葛藤で物語を紡いでみせたことが、本作最大の成功要因だろう。 主人公を演じた菅田将暉は、時代にそぐわない“違和感”が天才数学者のキャラクター性に合致しておりベストキャスティングだったと思う。 新たなキャラクター造形で山本五十六を体現した舘ひろしや、海軍の上層部の面々を演じる橋爪功、國村隼、田中泯らの存在感は流石だった。特に主人公側と対立する平山造船中将を演じた田中泯は、圧倒的な説得力で各シーンを制圧し、本作の根幹たるテーマ性を見事に語りきっていた。 若手では、主人公のバディ役を演じた柄本佑がコメディリリーフとして良い存在感を放っていたし、ヒロインの浜辺美波は問答無用に美しかった(そりゃ体のありとあらゆる部位を計りたくなる)。 そして、山崎貴監督のVFXによる冒頭の巨大戦艦大和の撃沈シーンが、このストーリーテリングの推進力をより強固なものにしている。 プロローグシーンとしてはあまりにも大迫力で映し出されるあの「戦艦大和撃沈」があるからこそ、本作が織りなす人物たちの狂気とこの国の顛末、そして、「なぜそれでも大和は建造されたのか」というこの映画の真意がくっきりと際立ってくる。 数多の狂気によって、かつてこの国は戦争に突き進み、そして崩壊した。そこには、おびただしい数の犠牲と死屍累々が積み重なっている。 ただ、だからと言って、誰か一人の狂気を一方的に断罪することはできないだろう。なぜなら、その狂気は必ずしも軍部の人間たちや政治家、そして一部の天才たちだけが持っていたものではないからだ。 日本という国全体が、あらゆる現実から目をそらし、増長し、そして狂っていったのだ。 今一度そのことを思い返さなければ、必ず歴史は繰り返されてしまう。 平和ボケしてしまった日本人が、失われかけたその「記憶」を鮮明に思い返すために、山崎貴監督によるVFXが今求められているのかもしれない。 誰得のCG映画やファンタジー映画で茶を濁さずに、意義ある「映像化」に精を出してほしい。 。[インターネット(邦画)] 8点(2024-03-10 00:07:07)《改行有》

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