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1. 北国の帝王
大恐慌期という背景が、あんまり生きてない。ホーボーと車掌という無職と職持ちの争いが、賭けの対象になるような・ゲームのような、ただの意地の争いになってしまっている。社会の背景を思えば、「意地」なんてきれいごと言ってられないレベルでの迫力ある闘争を描けたはずだ。ホーボーは生きる地を求めて必死なはずだし、車掌だって鉄道会社に有能であることを示さないとこっちがホーボーになってしまう不安があったはずだ。そこが抜けているので、ただのサディスティックな看守みたいな厚みのない存在になってしまっている。おそらくこの映画が作られた70年代の空気が、ヒッピー的な楽園をホーボーに重ねて見てしまったのだろう。若造の存在も邪魔である。黒澤の師弟的な普遍性は得られたかもしれないが、男の対決という話の芯は緩くなってしまった。ただ、貨車の上を歩くシーンはそれだけで楽しい。特に進行方向と逆に進むときの、ムーン・ウォークのような空中ダンス的浮遊感は、わけもなくウキウキする。(わっ、ずっとこれ「ホッコクノテイオウ」だと思ってた。なんか急に北島三郎の演歌になってしまったような)[CS・衛星(字幕)] 6点(2011-03-31 10:04:36)
2. 儀式
《ネタバレ》 美しさの点では大島作品でも一二を争う。どこかヒンヤリしてるのが、いかにも儀式の美しさ。テルミチは滅びることによって佐藤慶の桜田家に抵抗したわけ。でもそんな「大敵」なのだろうか。たとえ大敵であっても、大敵として扱うことによって、さらにこちらの無力感を増幅させてるってことはなかったのか。「大敵」として扱うよりは、無視する・それができなければ見ないふりする、って手のほうが有効で、実は抵抗している者も深層では桜田家的なものが好きで、だから大物の敵として見たがっているんじゃないか。敗北の歌をこう美しく歌っていいのかなあ、という思いが残った。もちろんそれをこそ描いた映画なのだ、と大島さん言うだろうけど、ちょっと河原崎君ウジウジしすぎる。映画表現としても、否定すべき儀式をかくまで壮麗に描いてしまう心性と、どこか通じ合ってしまっている気がし、またこの陶酔的敗北主義って、戦後の反体制運動にずっと流れていたような気もし、そういったあれこれが点検できた作品として、私には大変面白かった。地中の弟の声を聞き取ることによってだけかろうじてアイデンティティが確保できるまで、「儀式」に追い詰められている。あの図柄はいいね、土俵ぎわで儀式と対抗している姿勢。耳を澄ますって行為自体が美しい(『ラスト・エンペラー』にもあったなあ)。あとは無人のお色直しのシーンの滑稽な悲痛さ。「ロシア兵は親切だっただろ」とさかんに聞く小松方正の共産党員。そして歌合戦。大島的なものが詰まっている。[映画館(邦画)] 8点(2010-06-09 12:06:41)(良:1票)
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