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【製作年 : 1920年代 抽出】 >> 製作年レビュー統計
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1.  キッド(1921) 終わり間近「夢の国」の場になる。登場人物たちが羽根を生やして失楽園を演ずる。いちおう子どもを失ったチャップリンの内面世界ととれるが、ジェラシーとかイノセントとか、それまでのストーリーからは浮いていて、現代人の目にはとてもヘン。これは活動写真が見せ物だった時代の名残りと思うのが一番いいのではないか。ワイヤーアクションで舞台の芸人が飛びかっているような見せ物。古いミュージカル映画のラスト近くにも、筋から自由になった長めのダンスの見せ場がよく置かれる。私は勝手にカデンツァ(協奏曲のコーダ近くにある独奏者の見せ場)と呼んでいるのだが、あれも映画が見せ物だった時代の名残りではないかと想像している。映画がストーリー(筋)に屈伏させられないよう抵抗しているようでもあり、ああいう無意味が氾濫する場を終盤に用意するのは、もと見せ物客だった観客に対するサービスだったのではないか。日本の昔の村芝居では義経が人気だったので、ストーリーに関係なく「さしたる用はなけれども」と言いながら義経が舞台を通り過ぎた、という話はよく聞く。決して無意味が無価値ではなかったかつての演劇の活力を、映画は受け継いでいたはずなのだ。舞台が意味に覆われてしまったイプセン以後の近代演劇のほうが異常なのである(いま思ったのだが、植木等の「およびでない」のコント、大好きだったが、これと関係してないか)。[CS・衛星(字幕)] 7点(2013-05-25 09:36:48)(良:1票)

2.  極北の怪異 《ネタバレ》 カヌーから次々と家族が出てくるところ。海岸のセイウチ猟、腹這いになって近づき向こうが気づくあたりの緊張、仲間のセイウチが沖から心配そうに見守っているところ。家づくりのシーン、ナイフ一丁で窓まで作っちゃう。小さな穴を通してロープで引っ張り合う。向こうから犬ぞりが来るその広さ。などなどが面白かった。今では異文化の暮らしはテレビによってさして珍しくないものになったが、止まった写真ぐらいでしかなかった知識が、動く映像で見られるリアリティは大きな違いだったろう。そのことは人々の世界観を大きく変えたはずだ。フィルムは民族を熱狂によって閉じることにも使われたが、打ち破って広げていく方向にも使われた、そっちを信じたい。モンゴルの遊牧民の映像なんかでも思うのだが、ああいう簡単に移動できる社会で、家族単位の次の地域社会ってのはあるのだろうか。なんかその方向に「地域で閉じない新しい社会」のありようの可能性が秘められているようにも思えるのだが。で本作、あくまで生活中心に追っていく。生活の厳しさは主に犬によって表現されていた。飢えて吠える犬、ブリザードの中で真っ白になっての遠吠え。[映画館(字幕)] 8点(2012-12-23 09:52:21)

3.  キートンのセブン・チャンス 《ネタバレ》 感謝するのは、若いころリバイバルが盛んだったことで、今から思えばビデオ化の波が近づき、それに対処する権利の問題でも絡んでいたのか、映画史の名作をずいぶん大スクリーンで見ることができた。そんな中で圧倒的な迫力だったのがキートン、これと『蒸気船』の名画座での二本立てに魂を抜かれた。プロポーズできない優柔不断男が花嫁の大群に追いかけられるという悪夢が大スクリーンに展開する。前半は「誰でもいいから7時までに結婚する」という必死な男を巡る「心理」的な笑いで、しかしその心理がだんだん「状況」に非現実的に投影されて世界ににじみ出てきてしまう。床屋の首あたりから、悪夢の濃度が濃くなっていく。いつも警官に追われていたサイレントコメディの主役が、花嫁たちに追われるという異様な悪夢(警官の大群に追われる短編『警官騒動』が併映されたので、とりわけ印象的に対比された)。パニック映画の様相も出てきた。満点は一人の監督(映画人)に関して一作、と私は勝手にルールを作っているので『蒸気船』とどっちにしようかと悩んだが、休みなく走るこっちを取ろう。斜面を転げ落ちてきた岩石群が詰まって止まりホッと一息入れられたと思ったら、ゆっくりとまた動き出し始める緩急のリズムのつけ方。たまらない。[映画館(字幕)] 10点(2012-07-16 08:57:28)

4.  吸血鬼ノスフェラトゥ(1922) あのポーズ、肩をそびやかして目を大きく剥いているのは、あれは恐怖に「襲われた」側の表情でもあるんだよな。舌なめずりをするような気分を表現するのに、ああいうポーズを取らせる効果ってのは何なんだろう。たしかに不気味なんだ。彼自身が背後からそそのかされて血を吸ってるって感じなのかな、純粋な悪はその背後にあるって言うような。あるいは過度の恐怖と過度の歓喜は同じ戦慄を呼び起こすと言うか。とにかくこの映画にはドイツロマン派の気分が満ちている。ペストの恐怖と重ねられて独特の暗鬱なロマンチシズムが溢れている。とりわけ光景、城の入り口付近や、フッターの向かいの建物、恐怖をゆっくり運び込んでくる帆船のしずしずとした動き、災いの町と化したブレーメンの縦に続く石の道(その白い道をペストの犠牲者の黒い棺が運ばれていく)。どれも素晴らしい。ノックを追い掛け回す群衆にはドイツ民話の雰囲気もあるが、やがてラングの『M』でも描かれるだろう未来のナチズムに通じる「迫害するドイツ群衆」の基本形が、ここですでに提示されていたのかも知れない。白黒反転はいい効果を出してたが、コマ落としはちょっと滑稽(当時の映写方法だとそうでもなかったのかな)。[CS・衛星(字幕)] 7点(2011-09-14 10:07:32)(良:1票)

5.  キートン西部成金 《ネタバレ》 キートンはアメリカにおけるヒーロー像をひとつひとつ自分流にパロディにしていったってところがあるが、これではカウボーイ。牛を移動させるのがカウボーイの仕事、キートンは真赤な悪魔の格好をして牛の大群に追われつつ走る(もちろん画面は白黒だが)。笑った笑った。まずあの単純さがいい。牛を早く進めるためには赤いものを動かせば良い、という知識から、直線的に悪魔の衣装に飛躍してしまえる身軽さ。単純さを望んだがためにかえってヤヤコシイ目に遭ってしまうパターン。それは一途さと言ってもいいわけで、牛のブラウン・アイへの純愛も最後まで貫かれる。一途ってことは人の迷惑を気にしないことでもあり、町中を牛の大群を連れて歩くことに関する社会的配慮を、いっさい無視できる感覚でもある。それでいて特定の女性の視線は気にしてしまうんだけど。つまり特定のものだけが見えて社会全般が見えなくなってしまうのか。だから「世間知らず」ってことにも通じて、牛の乳しぼりで缶を置いたまま向き合って座ってたりするわけだ。変に執着するってのもあるな。いつも食事に遅れていた彼が、真っ先に駆けつける執念。いろんな要素があって、しかしそれらが総合されるとキートン的としか言えない存在にちゃんとなってるんだ。[映画館(字幕)] 7点(2011-07-28 09:56:32)

6.  キートンのラスト・ラウンド 世間知らずのいいとこのボンボンが、恋のためにその安逸の世界から思わぬ状況に挑まねばならなくなる、ってパターンがキートンでは多いんだけど、そのときの当惑して心細そうに直立してる姿を見るだけで、もう嬉しくなっちゃう。まずお坊ちゃんぶりの山の生活で笑わせるが、ヒロインが登場し二人でテーブルで肘を突いて話しこんでいると、次第にテーブルがめり込んでいって、普通のピクニックのような自然な腹這い状態になる。ヒロインが現われることによって生活が変わっていくであろう予感。嘘からトレーニングをしなければならなくなる。何しろ拳闘選手。練習のシーンだったか、スカンスカンと空振りしながら相手と組んでいるときの動きなんか最高だった。手の動きと目線とが食い違ってて、もちろん相手とも合っていない、悲劇的で滑稽なダンス。で、最後はコケにされていたことが分かると憤然と名誉のために頑張ってしまえるパターンで、他の傑作群と比べると後半がちょっと弱かったけど、でもいいんです、あのお顔とお姿を見られればそれでもう。[映画館(字幕)] 7点(2011-07-14 09:57:19)

7.  キートンの大学生 《ネタバレ》 晴れたカリフォルニアの字幕の後に雨の卒業式。青白きインテリの坊ちゃんといった優等生を喜劇の主人公に据えるところがキートンの世界。運動の害についてのスピーチをしていると体が前傾し、後ろの教授たちもそれにならって傾く。まったくどんな深読みも許されぬただ荒唐無稽なだけのギャグ、これが実におかしい。キートンにおける「姿勢」ってのはじっくり考える必要があるかもしれない。で彼がメアリーの心を捉える目的で、「スポーツをするために」苦学生として大学へ行くとこになる設定。野球をやれば一人でスリーアウトになる。陸上競技のいろいろが単発ギャグの連続で面白いけど、もひとつ盛り上がらぬということはあるか。円盤投げで自分の頭上に落ちてくるのではとビクンとする、とか、ハードルを全部倒して走り抜けるとか。ボートのコックス役でどんな出番を作れるのかと思っていると、人間舵になった。で恋敵からメアリーを奪い返すために、すべてのスポーツが繰り返されるという趣向で、走る走る、垣根を越え、物干し竿で二階に飛び込み、投げ、撃ち、撃退。ここらへんの爽快感がやはり醍醐味。結婚で終わるかと思っていると、その後の二人を墓場まで追っていく。一体これは何なんだ。なんという不意打ち、ギャグと言うには難解すぎます。それでいてひどくキートン的だなあ、という感じはするのですが。[映画館(字幕)] 8点(2011-07-09 10:19:29)

8.  キートンの空中結婚 突然化け物屋敷で始まり、スーッと滑り台で外の道へ出てくる。悪夢と日常が「滑るように」つながっている。で次のデブのオバサンが出てきたとこで潰されたりもする。美女につられてボートの洞窟めぐり、ヒジテツ食ってぼろぼろ。次にまったく脈絡なく気球に引っかかったまま飛んでいくことになり、自分の撃った猟銃で墜落。で川になるのか。ここで先の女性といろいろあるわけ。つまりね、どんどん話の設定は脈絡なく展開していくんだけど、なにか持続するものもあるの。女性とか、猟銃とか、あと気球も最後に出てくるし、デタラメなりのルールが敷かれていて、統一感を維持していく。大袈裟な類推をすると、現代芸術の苦労ってのが感じられるのよね。たとえば20世紀の無調音楽も、デタラメやってるようでいて、なんか終わりでは終わったなって感じを出せるようになっている。磯崎憲一郎の小説も、どこに連れられていくのかと心配になるが、終わりでは終わったな、って思える。固定された形式を壊した後の芸術の展開の方式ってのは、それぞれが独自に案出しなければならなく、生まれたばかりのコメディ映画も、それなりの話法を生み出す試行錯誤があったのだろう。…なんてことを思うのは、まあ後の人間で、穴のあいた魚籠に永遠に魚を入れ続けている間に、せき止めた川の水位がどんどん上がっていったら面白いだろうなあ、といった喜劇人の本能的なカンをつないでいっただけなんだろうけど。[映画館(字幕なし「原語」)] 7点(2011-07-03 12:12:28)

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