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1. 孤独な天使たち
《ネタバレ》 主人公が蟻塚を買って地下に引き籠るという、蟻塚を見つめる主人公の視線と、
そんな主人公を見つめる観客の視線というところで、
最後のストップモーションが、見ているものは見られているで、
スクリーンという隔たりを一気に乗り越えてくるので、とても愛おしく泣ける。
無論、David Bowieの名曲"Space Oddity"のイタリア語版
"Ragazzo Solo, Ragazza Sola"(こんなものがあったなんて初めて知った)が
流れ、歌い出す瞬間なども、泣けてしょうがないわけだ。
歌詞の内容もさることながら、ふたりを撮らえるカメラの動きも良く、
ああ切ない、と思わせる見事な作りにまんまと泣かされる。
齢70を越え、車椅子に座っている写真を見たことすらあるベルトルッチが、
若者ふたりを主人公に据え、こんなにも潤った映画を撮ってしまうのだから驚嘆せざるを得ない。
それは若者が出ているから若々しく見えるのか、とは言え、巨匠の手捌きは熟練されているのだし、
なんともひとつで二度美味しいというか、若くもありながら成熟もされている映画だ。[映画館(字幕)] 9点(2013-05-27 00:52:59)《改行有》
2. 告白(2010)
《ネタバレ》 はじめに映画と関係ない話。未成年の殺人検挙者は戦後1960年代をピークに減少し、2002年以降では年間100人を越えたことはない。これはピーク時のおよそ1/4以下の数字だ。
映画「告白」は全く衝撃的でも問題作でもない。これを観て命の重さとか少年法とかそんなことを真面目に考える馬鹿が出てくるなら、その面でこの映画は多少なりとも罪深いんじゃないかと思う。
何故なら、これは中島哲也と湊かなえの悪意によって、子供たちを悪の化身的モンスターに仕立て上げ、血みどろの犯罪劇を描いたエンターテイメントでしかないからだ。
また映像も新鮮味はなく凡庸で、よくテレビで見るような広告的あるいはミュージッククリップ的な映像の羅列だ。それを映画として用いたことで映像的センスがどうのこうのと勘違いし、また逆にそれは非難の的ともなる。ただ思う。そんなのどーでもいいよと。これはこれでいいじゃん。イメージとしての映像。意味を求めたショットでなく、あくまで悪というイメージを表象化しただけのショット。であるから、そこにリアリズムなどというものは存在し得ないという表現ともなる。そんな現実味を感じさせないところから、問題提起や答えを見出そうとするのは阿呆くさい作業だ。
この映画が徹底して悪のイメージを描こうとしていることは、登場人物に潔白な正義というものが殆ど皆無であることからもわかる。松たか子ですら正義ではない。木村佳乃が言う通り、彼女は自分の子供可愛さに娘を学校に連れ込み、先生としての職務を怠慢している。それは事実で、端からこの学級は崩壊していて、彼女の話に耳を貸す者など殆どいない。そう、この映画の唯一のメッセージらしきもの、それは子供をしっかり育てろよ馬鹿親!ということだ。渡辺修哉をモンスターにしたのは、息子に自己を押し付け終いには放置した母親だ。涙を流し散ってゆく姿は母性的だが、あの母親もまた悪の根源だ。モンスターの親はモンスターだ。
そう、この映画は人間という名のモンスター・エンターテイメント。意味なんてない。悪と悪が対立する、リアリティの欠片もない、ただの映画。それとしてこの映画は面白い。
最後にもう一度関係ない話。この映画と同様、未成年の犯罪が増幅されているように見えるのは、報道の自由という名のエンターテイメントが創り出した幻想であり、それは子供たちをモンスターにしているのは大人だという事実だ。なーんてね[映画館(邦画)] 8点(2010-06-25 05:45:12)(良:3票) 《改行有》
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