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Web www.jtnews.jp

プロフィール
コメント数 2598
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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【製作年 : 2020年代 抽出】 >> 製作年レビュー統計
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1.  ゴジラ-1.0 「恐怖」が、戦後直後の復興途中の東京を蹂躙し、街を“再び”焼き尽くす。 たった一発の絶望的な熱線により、「生活」のすべてが吹き飛び、巨大なきのこ雲が立ち上る様を呆然の見上げるしか無いその“無慈悲”は、まさしく本作の映画世界でこの国が経てきたばかりの悲劇の再演であった。 突如現れた畏怖の象徴を目の当たりにして、立ち尽くす“日本人”の視線は、恐怖感や絶望感を超えて、諦観しているようにも見え、その様が事程左様に無慈悲への拍車をかけていた。 “恐怖の化身”という言葉がそのまま当てはまる大怪獣に対する畏怖の念は、1954年の第1作「ゴジラ」、そして2016年の「シン・ゴジラ」に勝るとも劣らないシリーズ随一のものだったと、まず断言したい。 1954年の「ゴジラ」第1作目から70年、国内製作の実写版としてちょうど30作目となる本作。過去のシリーズ作全作、ハリウッド版やアニメ版も含めてすべて鑑賞してきた“ゴジラ映画ファン”である自分にとっても、確実に五指に入る傑作だった。 正直なところ、7年前の「シン・ゴジラ」があまりにも大傑作だった故に、もうこれ以上ゴジラ映画を製作することは難しいんじゃないかと思っていた。 今年、新作が公開されるという情報を見聞きしても、期待感はそれほど膨らまず、ギリギリまで高揚感も高まらなかった。 山崎貴監督は、その懸念と軽視をものの見事に吹き飛ばし、蹴散らしてみせたと思う。 自らの得意分野であるVFXによる圧倒的ビジュアルを駆使して、観客を映画体験を超えた“ゴジラ体験”に引き込んでみせたことが、成功の最たる要因だろう。 これまでのシリーズ作においても、伝統的な特撮技術や、先進的な撮影手法による魅力的なゴジラ造形や映像世界の構築は多々あるけれど、そのどれよりもゴジラを巨大に、そして“間近”に見せていると思えた。 ゴジラの巨躯と対峙する登場人物及び、我々観客との圧倒的に短い距離感こそが、この体験のエキサイティング性を際立たせているのだと思う。 そしてゴジラが登場する映画世界の舞台を1947年にしたことも的確だった。 過去作でいくつも昭和の日本描写をクリエイトしてきたこともあり、その精度も最大級に高まっていた。精巧な映像世界の“創造”ができるからこそ、それを“破壊”することにおいても極めて高いクリエイティビティを発揮できているのだと思う。 昭和時代の人間模様を描いたドラマとストーリーテリングには、この監督らしい懐古主義をいい意味でも悪い意味でも感じ、台詞回しや演出プランには、ある種のベタさやオーバーアクト的な雰囲気も感じたけれど、その点も“昭和のゴジラ映画”へオマージュを含めたリブートと捉えれば的確だったし、印象深い演技シーンも多かった。 神木隆之介の華奢な主人公感、浜辺美波の圧倒的に美しい昭和女優感、吉岡秀隆の一瞬イカれた目つきを見せるマッドサイエンティスト感、佐々木蔵之介の分かりやすくべらんめえ口調な江戸っ子感等々、愛すべきキャストのパフォーマンスが、本作への愛着を高める要因となっている。 一つ一つの台詞に対する丁寧な伏線回収や、クライマックスの作戦終盤において熱線放射寸前で発光しているゴジラを海中に沈めることで状況をビジュアル的に認識できるようにした工夫など、本作は努めて“分かりやすく”製作することを心がけている。 ストーリー展開や登場人物の心情の少々過度な“分かりやすさ”は、世界のマーケットも見据えた本作の明確な製作意図であることは間違いない。 私自身、ハリウッド版ゴジラの各作品や、国内で制作された“アニゴジ”の3部作、Netflix配信のアニメシリーズ「ゴジラ S.P」の鑑賞を経て感じたことは、世界的なカルチャーアイコンとなった「ゴジラ」に対しては、ファン一人ひとりにおいて「観たいゴジラ映画」があって良いということ。 そして、“ゴジラファン”を経て、クリエイターとなった一人ひとりにおいても、「ゴジラ」をテーマにしたストーリーテリングは、自由闊達にその可能性を広げて良いということだ。 そのためにも、日本国内のみならず、より広い世界のターゲットに向けて、改めて「ゴジラ映画」の魅力を提示し、新たな展開に繋げていくことは、ともて意義深いことだと思う。 「映画作品」としての質や価値を主眼にするならば、本作は1954年「ゴジラ」や、「シン・ゴジラ」には及ばないかもしれない。 ただし、世界中の人々が愛することができる「ゴジラ映画」として、この作品の立ち位置はまさしく一つの「最適解」だ。[映画館(邦画)] 10点(2023-11-23 07:03:02)(良:5票) 《改行有》

2.  孤狼の血 LEVEL2 《ネタバレ》 前作「孤狼の血」は、現在の“ヌルい”娯楽映画が蔓延るこの国の映画界において、確実なカウンターパンチとなり得る“アツい”作品であったことは間違いない。 血と脂汗が入り混じって匂い立ってくるような暴力性とその熱量は、往年の大傑作「仁義なき戦い」をはじめとする東映のジャンル映画を彷彿とさせた。 昭和臭漂う血生臭い映画世界は、平成という時代の末期において、時代を越えて逆に新鮮で、センセーショナルだったと思う。 前作公開時点で決定していたこの続編に対しても期待感はひとしおだったけれど、どうなのだろう?という危惧もあった。それはやはり、前作で絶対的な主人公であり物語の中核であった“大神”の不在(死亡)によるところが大きい。 演じた役所広司の存在感の大きさもあり、あのキャラクターが不在で、果たしてこの映画世界のテンションが保持されるものだろうかという不安が拭えなかった。 だがしかし、結果的にはそういった危惧は杞憂に終わったと言っていい。 役所広司の跡を文字通り引き継いだ松坂桃李が主演俳優として気を吐き、新たな敵役として登場した鈴木亮平が圧倒的な存在感を放っていたからだ。 両者は終始敵対するキャラクターでありながらも、ストーリー展開と共に己に孕んだ狂気を相互に高め合い、最終局面で爆発させる。 そのキャラクター描写とストーリーテリングは、現実離れしていて殆どファンタジー。全くもって常軌を逸しているけれど、それをまかり通す映画的エネルギーに溢れていた。 特に鈴木亮平が演じた“上林”のキャラクター造形は凄まじく、凶悪性、残虐性を超越したその「絶対悪」ぶりは、国内映画において近年稀にみるヴィランを作り上げており、松坂桃李演じる日岡と正対するもう一人の主人公としてキャラクター性を高めていたと思う。 主人公二人の狂気と凶悪に引き寄せられるかのように、その他のキャラクターもみな悪人揃い。言うなれば“狂気乱舞”の愚かな人間模様が、本作に相応しい娯楽性を生んでいた。 その中でも特に印象的なのは、“或る夫婦”役として登場する中村梅雀と宮崎美子。中村梅雀は2時間サスペンスの「信濃のコロンボ」シリーズでの刑事役そのままの暢気な風貌で登場するが、そのイメージ操作こそがまさに確信犯的であった。 彼らが孕む真の悪と、闇。劇中、中村梅雀演じる瀬島自身の台詞に表されていた通り、「悪意」の無い「悪」こそが最も始末が悪いということ。 両目を自らの指で圧し潰すという猟奇性極まる殺人を繰り返す鈴木亮平よりも、手料理の味見をしながら“味付けに満足したかのように”微笑む宮崎美子の方が、実は一番恐ろしい。 無論、完璧な映画ではない。 この映画における最たるウィークポイントは、女性キャラがあまり魅力的ではないということだろう。 これは前作における最大のマイナス要因でもあったが、どうやらこの監督は、男性俳優に対しては突っ切った演技指導ができる反面、女優に対する演出が大人し過ぎるようだ。 この手のジャンル映画において、濡れ場や、シンプルな「裸」描写は必須だと思うのだが、それが殆ど無いというのはいただけない。 乃木坂を卒業したばかりの西野七瀬を脱がせろ!とは言わないけれど、あのような役柄である以上、もう少し踏み込んだ演出は必要不可欠だったと思う。西野自身、求められればそれに応える覚悟はあった筈だ。 どうしても初々しいヒロインに対する演出が無理ならば、かたせ梨乃御大に“一肌”脱いでもらうくらいの心意気は、監督側に見せてほしかった、と、思うのだ。[インターネット(邦画)] 8点(2022-06-05 08:31:20)(笑:1票) 《改行有》

3.  ゴーストバスターズ/アフターライフ 2022年2月12日、「ゴーストバスターズ」を生み出した映画監督アイヴァン・ライトマンが亡くなった。 この最新作にもプロデューサーとして名を連ね、監督を務めた息子ジェイソン・ライトマンと共に出演していたプロモーション映像でも顔を見たばかりだったので、その訃報は一映画ファンとしてとても悲しかった。 ただ、同時に、彼がクリエイトした娯楽映画史上に残るポップアイコンを自らの手で息子に託し、亡き盟友ハロルド・ライミスに捧げた本作の公開を見届けて逝ったことには、運命的なものを感じた。 そういった映画作品にまつわる様々なメタ的要素も絡みつつ、“若い世代”によってクリエイトされた本作は、1984年の「ゴーストバスターズ」が公開された“あの時代”に子どもだったすべての大人たちのためのジュブナイル映画であった。只々楽しく、そして泣けた。 1984年にアイヴァン・ライトマンが監督した「ゴーストバスターズ」の文字通り正統な続編であり、あの大人気映画があったからこそ意味を成す作品であることは間違いない。 そういう意味で、今の時代に相応しいテーマ性やアイデア、新鮮味がある映画ではないかもしれない。 でも、何も新しい物事を追い求めることばかりが、“新しい映画”にあるべきことだとは、僕は思わない。 過去の優れた娯楽や芸術を、新しい才能で蘇らせることもまたクリエイティビティなことだと思う。 敢えて80年代当時の着ぐるみ的な質感を携えたゴーストたちの造形だったり、80年代の空気感を残す田舎町を舞台にしたことなど、明確な演出はしっかりと創造性を孕んでいた。 そして、「継承」というテーマを映画世界の内外で強く意識した作品であるならば、その価値は更に意義深いものになる。 父親が生み出した世界に愛されたポップアイコンを、偉大な父以上の一流映画監督となった息子が継承し、その映画世界の中では、“お化け退治”の知識と技術と勇気が祖父から孫へと継承される。 この映画製作における文脈そのものが、大変エモーショナルだったし、王道的にエキサイティングだったと思うのだ。 息子ジェイソン・ライトマン監督が映し出した「画」は、尽くエモーショナルで素晴らしかった。 主人公の少女が佇む何気ないカットから、ゴーストバスターズ専用車両“ECTO-1”が田舎町を疾走するカットに至るまで、すべてのシーンが叙情感に溢れていて、それだけでも「いい映画だな」と思わせた。 一方で、ストーリー展開的において踏み込めていない要素は正直なところ少なくない。 主人公の少女を始めキャラクターたちは皆魅力的だったとは思うが、現在に至るまでの背景的な描写が極めて希薄なので、彼らが成長したり変化したりすることに対する感動は上手く表現できていなかった。 主人公フィーヴィーを演じたマッケナ・グレイス、兄役のフィン・ウルフハード、友達となるローガン・キムら若いキャストたちはキュートでジュブナイル性に溢れていた。 人生において破綻寸前の母親のキャラクターや、片田舎の冴えない教師に甘んじる地震学者を演じた“アントマン”もといポール・ラッドも、良いキャラクター性を孕んでいたのだが、「活かしきれていない」という印象は拭いえない。 「JUNO/ジュノ」、「ヤング≒アダルト」等々、人生に打ちひしがれた人間ドラマでこそ卓越した手腕を発揮してきたジェイソン・ライトマンだからこそ、そういう“負け犬たちのワンスアゲイン”的なキャラクター描写に物足りなさを感じてしまったことは、もったいなく思う。 だがしかし、振り返ってみれば父アイヴァン・ライトマンが監督した「ゴーストバスターズ」も、決して完璧な映画などではなく、くだらない部分はどこまでもくだらなくて、ポップでライトな“ノリ”に溢れた作品だった。 その“ちょうどいい”娯楽感こそが、「ゴーストバスターズ」であり、やっぱり正しい「継承」だったのだと思う。 短い時間ではあるが、亡きハロルド・ライミスを含めたオリジナルの4人が揃い踏みし、その中でビル・マーレイやダン・エイクロイドが気の抜けたジョークを繰り広げる。 1981年生まれの映画ファンは、そのさまを観て、率直に「ああ、良かったな」と思えた。[映画館(字幕)] 7点(2022-02-23 00:32:20)(良:1票) 《改行有》

4.  ゴジラvsコング 《ネタバレ》 今作は、或る意味、正統で真っ当な1962年の東宝映画「キングコング対ゴジラ」のハリウッド映画化と言えるだろう。 思い起こしてみれば、“モンスターバース”と銘打たれたこのハリウッド版“GODZILLA”シリーズは、“アメリカ”という国ででゴジラ映画を愛し続けてくれた映画人たちが、その“オタク魂”を遺憾なく発揮し続けたシリーズとも言える。 だからこそ僕は、これまでのシリーズ作において、“核の取り扱い”の一点において拭い去れない「嫌悪感」を示しつつも、製作陣のゴジラ映画やそれに付随する数々の特撮映画に対する「愛」を感じずにはいられなかったし、本多猪四郎や円谷英二、伊福部昭ら、東宝特撮映画のクリエイター達に対する尊敬の念に裏打ちされた映像世界に圧倒されたことを否定できなかった。 そういう意味で捉えるならば、この最新作もとい“モンスターバース”の一つの終着作とも言える今作も、ゴジラ映画や東宝特撮映画に対する「愛」に溢れた映画だと言えるだろう。 ただし、だ。今作の場合、その表現方法が、あまりにも「馬鹿」過ぎた。 その“馬鹿さ加減”も含めて、1962年の「キングコング対ゴジラ」だと言われれば、全くその通りなのだけれど、ただただひたすらに、その馬鹿さ加減のみが、地球3周くらい回って勢いがついた挙げ句にひっくり返って、無様にのたうち回っているようだった。 SF映画や怪獣映画として、“ストーリー”と呼べるものはまるで無く、「馬鹿」といか言いようがない登場人物たちが織りなす行きあたりばったりなストーリー展開が延々と続く印象を覚えた。 ゴジラとキングコングの文字通りの「肉弾戦」のビジュアルは流石に凄まじかったけれど、本当にどうかしていると思えるくらいにストーリー的な上手さやドラマ性が皆無なので、決戦描写が激しくなればなるほどに、どこか鼻白んでしまった。 クライマックスである香港決戦の描写や、地球空洞説を踏まえた空想科学要素は、個人的に好ましいエンターテイメント要素ではあったけれど、よくよく考えてみれば完全に「パシフィック・リム」の二番煎じでもあり、決してフレッシュではなかった。 そして今作のストーリーテリング上では“サプライズ”として登場する“メカゴジラ”も、何とも不格好でダサく、あまりにも魅力的でなかったことが傷口に塩を塗り込んでいる。 モデリングの醜悪さもさることながら、それを創り出し操っている人間が馬鹿すぎるので、メカゴジラの存在意義自体があまりにも希薄だった。 そもそも前作で登場したキングギドラの骨(DNA)をベースにしているのならば、“メカキングギドラ”でいいじゃん!と、「ゴジラVSキングギドラ(1991)」の大ファンとしては思わざるを得ない。 (そして、小栗旬の役柄の不憫さったらない……) と、呆れて物が言えないくらいの不満を覚えながら、改めて思い知ったことは、アメリカ人にとっての「ゴジラ映画」とは、まさに今作のベースである「キングコング対ゴジラ」以降の、“怪獣プロレス”を延々と繰り広げた昭和ゴジラシリーズに尽きるのだろうということ。 彼らにとって「ゴジラ」とは、どこまでもいっても“核が生み出したヒーロー”であり、それは即ち自らが生み出したこの星の“都合のいい守護神”なのだ。 実際に、プロレスブーム全盛の昭和ゴジラシリーズが存在し、アメリカのオタクたちが愛した怪獣映画がそれらである以上、その結果生み出された映画を「否定」することはもはやお門違いなのかもしれない。 それでも、日本のゴジラ映画ファンの一人として、この映画が、馬鹿馬鹿し過ぎる作品であることは否定できないし、玉石混交のゴジラ映画シリーズの中においては、或る意味今作もその系譜に相応しい作品と言えると思う。 この「落胆」は、この国のゴジラ映画ファンとして、むしろ「安堵」と言えるものかもしれない。 「シン・ゴジラ」を特異点として、日本国内のクリエーターたちにおける“ゴジラ”に対する創造性は、「新解釈」と共に益々多様的に展開している。 アニメ映画版三部作や、今年(2021)Netflix配信されたアニメシリーズ「ゴジラ S.P」はその顕著でエキサイティングな産物だろう。 どれだけ莫大な予算や映画的人材を駆使したとしても、「ゴジラ」だけは、日本でしか描きぬくことができない。それは、この国の映画文化が最も誇るべきアイデンティティの一つなのではないかとすら思える。[映画館(字幕)] 2点(2021-12-31 15:47:02)(良:1票) 《改行有》

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