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1. サンドラの週末
《ネタバレ》 マリオン・コティヤールがとある出来事で傷付いて、
(と言ってもこの映画内ではずっと傷付いているんだけども)
車に乗り込んで、買ったばかりのミネラルウォーターのキャップを夫に開けてもらい、
一心不乱に身体に水分を流し込み、走る車の車窓から傾げた首で風を切り光を浴びる。
苦しさを解き放つ為に。
ああこのワンショットはちょっと力強過ぎて凄いなと思って泣けた。
マリオン・コティヤールの芝居と、決してフレームの中で動くことのない車体と、
それとは逆に車窓外を流れ続ける街並みとが、サンドラという女性の風景だなぁと。
まぁよくわからんけど、そんな感じだ。
ダルデンヌ兄弟の芝居を引き出す能力は本当に凄いものだ。
エンドロールを眺めながら、この映画を端的に表現している曲をふと思い出した。
自分の幸せを願うことはわがままではない
私の涙が乾くころ あの子が泣いてる
このまま僕らの地面は乾かない
誰かの願いが叶うころ あの子が泣いてる
みんなの願いは同時には叶わない
小さな地球が回るほど優しさが身に付く
もうー度あなたを抱き締めたい
できるだけそっと
というやつだ。まぁそういうことだと思う。
弱者であるとかそんなことじゃなくて、感情を有する人間の本質と
だからこそ平等とか平和なんてこの世には存在し得ないという糞哀しい真理。
ならばせめてものってことだ。
君が笑ってくれるなら僕は悪にでもなる、という言葉選びの素晴らしさをも思い出した。
曲と言えば、ダルデンヌ兄弟があんなところでヴァン・モリソンなどを流し、
なにやら感傷的なドラマを生み出したことには少し驚いた。こんなことも出来んのかと。[映画館(字幕)] 9点(2015-06-06 01:18:32)《改行有》
2. ザ・マスター
毛皮の女の長回し、まるで水が静かに流れているかの様な躍動。
そしてただただバイクが疾走するだけの躍動。
それらがスクリーンに投影されている。
それを観ているだけで思わず涙しそうになる。
もうそれだけで、この映画は充分に素晴らしいだろうと。
映画とはそういうものだと思うからだ。
なんだか久し振りにこんなにも映画を観ながら熱を帯びて痺れてしまったもので、何よりも最高の光をフィルムに定着させている。あの絶妙な薄暮の中を走る船であるとか、本当に見事なまでに豊かな映画であったと思う。
そして、何よりも、ホアキン・フェニックスがフィリップ・シーモア・ホフマンを睨むように見つめ微笑むあの顔の美しさったらない。彼の熱や精気が徐々に失われ、顔面の脂も抜けて、ただの骨と肉と魂の塊へと姿を変えていく美しさよ。そんな骨と肉と魂の塊が彷徨い、両の眼を涙でギラつかせ、口許を歪ませているだけのクローズアップ、そしてその陰影。
映画は、物語などを超えて、観るという体験として身体に刻み込まれるものだ。[映画館(字幕)] 9点(2013-04-22 01:16:46)(良:2票) 《改行有》
3. ザ・ファイター
《ネタバレ》 映画は最初の数分を観れば、その映画の善し悪しであったり、それがどんな映画なのか大体はわかるとはよく言ったもので、「ザ・ファイター」は冒頭の路地を物凄い勢いでトラック・バックした時点でこの映画の良さというのは一目瞭然伝わってくるのだ。
ディッキーの薬中ドキュメンタリーが放送された夜、シャーリーンがミッキーに会いに来た時の彼女の表情の説得力こそがこの映画の凄みであり、監督デヴィッド・O・ラッセルと女優エイミー・アダムスがこの映画で一番のシーンを生み出した瞬間であった。何故か。それはこの放送中の一連のシーンで、シャーリーンは一切登場しない。しかし、扉を開けた時のシャーリーンの表情が、スクリーン外で起こった彼女の物語を途轍もない説得力で表現しているからだ。彼女もテレビを見ていた。しかしそのあまりにも酷な内容を前に、あれだけ拒絶したミッキーにどうしても会わなければならないと決意し、今、扉の前に立っている、という物語があの表情にはあるのだ。デヴィッド・O・ラッセルはあえて彼女の登場をあそこまで引っ張った。そしてエイミー・アダムスはそれを理解しあの表情をあそこで出した。この映画はもうそれだけで充分ではないか。[映画館(字幕)] 8点(2011-04-24 16:12:17)(良:1票) 《改行有》
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