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21.  殺人課 音楽おさえめのドキュメントタッチの刑事もの。ザラリとした味わいは刑事という「職業」から来ているのだろう。最も他人とざらついた関係を持つ仕事。ザラリに対してドローンと粘ついた人間関係を思わせる「民族」ってものが次第に浮き上がってくる。ここに思わず吸い込まれかけるところが、本作の評価の分かれ目で、私はやや唐突に思われたが、迫害され煮詰められてきた血の歴史を考えると、こういう感じってあるのかなあ、とも思う。反ユダヤビラの気色悪さは相当なもの。冒頭の「恩返しになぜ悪が生まれたのか教えてやろう」というせりふが全編を貫いている。ちょっとちぐはぐなユーモアは、狙いなのか下手なのか。[映画館(字幕)] 6点(2012-10-15 09:42:09)

22.  三悪人 姫を守る三人の騎士の話をアメリカ西部に持ち込んだよう。三人は最初から姫と結ばれる資格がないことは了承ずみで、ただ「尽くす」ことに男意気を見せるわけ。一番の見せ場は正午を期してみながワゴンで走り出すやつ。のちにトム・クルーズの『遥かなる大地へ』でもやったランドレースっての。行けたところまでの土地が自分のものになる、って豪快な競走。カメラ自身も走ることの躍動感が凄い。そういう持続する動きの迫力と、もう一つ、妹との再会の場に現われた悪役の顔のアップの、白目がギラギラしている瞬発の迫力もある。ピストルの発射の突発性なんかもね。ぶら下がっているカメ(?)を撃つところや、ラストの対決でも瞬発の魅力がある。テントの中でタマが跳ね返ったりもするんだ。これ、アメリカのフィルムセンターから借りたものも含めた「大フォード回顧」ってんで見て日本語字幕なしだったが、スクリーンで見る迫力でモトは取った。[映画館(字幕なし「原語」)] 7点(2012-09-03 09:43:51)

23.  三文オペラ(1931) 友情讃歌ととればいいんだろうか。警視総監、泥棒、乞食の巴となっての。それらをひっくるめて、乞食の群衆の裏表の関係になってたのか。とにかく全部セットで、風景を映したシーンがないのも、舞台を意識したよう。泥棒の情婦、乞食の娘としっかりした女たちが小気味いい。男のキザ加減も見事、警官に追われても走らないし、屋根から下りてくるときでもステッキを離さない。こういうキザに徹するのを風刺としてでなくそのままで楽しむって姿勢、日本にはないけど、ヨーロッパは「007」なんか見てもあるな。紳士の文化ってのが、なんかあるんだな。あと「愛すべき泥棒たち」ってのも、あちらの文化的。日本で似たのを考えると、歌舞伎の白浪ものになるが、あれは「愛すべき」という仲間的な親しみじゃなく、やはり見上げるヒーローという距離がある。鼠小僧ってのは、江戸の町人にとってどうだったんだろう、仲間・同類って感じあったのかな。[映画館(字幕)] 6点(2012-08-07 09:01:52)

24.  細雪(1983) 市川崑は「女たちの帝国」とでも呼ぶしかない世界を好んで描いてきた。それの大映時代の代表作を『ぼんち』とするなら、東宝時代がこの『細雪』だろう。大映時代には『黒い十人の女』もあるし、東宝時代の『犬神家の一族』もその系譜だけどね。じゃれあう姉妹たちで閉じられた世界、夫たちも足を踏み入れられない聖域。雪子が溺愛するのも甥ではなく姪であり、女の血の流れだけで守られた上品な淫蕩さが支配する結界だ。この宇宙が崩壊していく物語なんだけど(いや、散り散りになっても決して崩壊しないという物語なのか)、あからさまな腐臭はたたせない。啓ぼんでさえ、変な言い方だが実に趣味よくすさんでいく。雪子の見合いの相手はどんどん落ちていき、妙子の相手の質も悪くなっていくのだが、そのことが蒔岡姉妹を汚せない、雪子の高貴さを高めるばかり。こういう不可思議な帝国を観客に納得させるのは、女優たちの力で、佐久間良子の三枚目ぎりぎりの「愛すべき人物」ぶりなんかが実にいい。最初キャスティングが発表になったとき、吉永小百合の雪子は違うだろ、と思ったが(現実の女優が雪子を演じるということ自体無理な話なのではあるが)、観てみると、なんか納得できる出来になっている。下手に雪子らしさを強調するとオカルト娘っぽくなっちゃうし、何も演じなければただの愚図になってしまう、その程度が良い。鮎男との見合いのあとフェイドアウトになるときの曖昧な表情。たしかに軽蔑があって、それを隠してもいないのだけど、棘がないというか、相手に向かっていない。相手にマゾヒスティックな悦びを与えてあげているような表情。蒔岡姉妹とはつまりこういう表情を作れる人なんだ、と得心させられる。「細雪」という作品の本質が一瞬であらわになった場面だった。「女性映画」と並んで崑で優れているのが「無内容な純粋娯楽作品」だと思ってるんだけど、それの大映時代の代表作が『雪之丞変化』、東宝時代の代表作が「金田一もの」。そういう私にとって、本作で「本家」とか「分家」とかの活字を画面に目にすると、あのシリーズを思い出しホロッとしたものでした。[映画館(邦画)] 9点(2012-08-01 09:58:38)

25.  魚からダイオキシン!!  内田裕也の魅力ってのは、ツッパッてる男をどこか醒めて戯画化してたとこにあったと思うんだけど、これマジになっちゃってる。マジメ男がイビツな社会の中でイビツになっていくってのが『水のないプール』や『十階のモスキート』のモチーフだった。クルド人コンサートをやろうとするマジメ男を、日本の営利だけのプロモーションシステムの中で浮かび上がらせる滑稽さで勝負できた題材なのに、主人公と内田とを重ねすぎちゃったんだろうか、いつもの距離を置いた笑いが出てこない。単純な男が単純でない社会を照射する、といういつもの姿になれず、変にマジメなぶん、社会も単純になってしまった。それで「割り切れる映画」になってしまった。前半の選挙ルポも、内側から見た面白味ってのが出せなかったのか。[映画館(邦画)] 4点(2012-07-27 10:14:52)

26.  サンライズ 《ネタバレ》 ストーリーだけ取り出すと、ヘン。何も都会に逃げ出るからって、妻を殺す必要はないだろ。舟の上での殺意のシーンの演技なんか表現主義時代の悪影響が感じられる。都会=悪、田舎=善というパターンも気に食わないし、どう見たってシティ・ガールより可憐な妻のほうがいいじゃないか…。でもたぶんこれは神話なんだよね。しっくりいかなかった夫婦が真の夫婦になるまでの試練の物語。そう思えば、この二人が都会で過ごす部分がシミジミといい。ついさっき殺意を見せた夫に追いつかれると、もう逃げようともせず、つまり自分の命の危機よりも、夫婦生活が崩壊してしまったことのほうに泣いている妻。可憐そのもの。一緒について行くんだ。教会を経て新婚夫婦のようにはしゃぎまわるの。写真館、床屋、そして遊楽場の光の洪水に、花火のおまけまでついて。帰りに湖水ですれ違うかがり火焚いた船(いかだ?)。そのあとの嵐も極端なんだけど、神話としての駄目押しね。これでラストの「よかったよかった感」が深く心に定着していく。私の知る限り、モノクロで一番美しい映画。[映画館(字幕)] 9点(2012-07-21 09:52:18)

27.  サン★ロレンツォの夜 《ネタバレ》 この監督の映画はエピソードをひとつひとつ思い出すだけでも心が満ちてくる。教会が砲撃され司祭と母親が額をつき合わせて傷ついた娘を運び出す場とか、画面は至ってシンプルなのに沁み入って来る。寓話の紙芝居をめくっているように、戦争の残酷がピクニックの絵日記のように展開していく。残酷が頂点を極めるのが、小麦畑での戦い。今まで幾多の戦闘シーンが映画の歴史の中で撮られてきているだろうが、私にとってはこれが一番きれいで残酷。グロテスクな意味での残酷ではなく、まさに戦争そのものの残酷さが、うららかな小麦畑の中で繰り広げられるのだからたまらない。圧巻は少年ファシストを射殺するシーン。少年ならではの純な高揚がその前に描かれている。父の「まだ十五歳だから」と嘆願している目の前で、地を這いずり回って助けを求めている少年を射殺する。殺す側も身重の妻をファシストに殺されており、この憎悪の増幅の耐え難い残酷さほど、ストレートに戦争を告発した場はないだろう。射殺の次にパッと遠景のカットになり、画面を美しい緑で埋めてしまうニクさ。さらにすごいのはラストで「実際に起こったことでもハッピーエンドになることがあるんだよ」って言うんだ。ずっと深い絶望を語ってきた映画の最後で、それを踏まえた上での希望を語っている。断固とした平和への意志が感じられる。戦争をそのまま描けば、いやピクニックのように楽しんでいる少女を通して描いても、それは反戦映画になる、という確信を監督は持っている。こういう作品を作れるのは本当の平和主義者に違いない。私は傑作の多いこの監督の作品群でも、本作と『カオス』がとりわけ好きだ。[映画館(字幕)] 9点(2012-05-24 10:07:34)(良:2票)

28.  さらば愛しき大地 《ネタバレ》 一度ヤクをやめようと思ったとき、家族が来て再び手を出してしまうとこ。周囲のものが「ちゃんとしてほしい」と実に控え目に望んでいるのだが、その控え目な期待が重荷になってしまう。ダンプというシェルターから出たとたん剥き出しになってしまう。ダンプがあの稲穂や森のざわめきから守ってくれていたのかも知れない(カメラの田村正毅は小川紳介作品で稲穂に熟練)。さらにヤクに溺れていく原因を消去法で詰めていくところ。子どもの死ではない、妻はしっかり生きている。家庭が悪いわけではない、弟はちゃんとやっている。性格の弱さではない、友人は溺れなかった(蟹江敬三が「みんなやってんだべ」「たいしたことないっぺ」とビクビクしながら言うとこが絶品)。最終的な結論は得られないが、この丹念な作業が、じわじわとネジを巻いていくように怖い。秋吉久美子の「何いじけてんのよ」って言葉も、煽ってくる。すべて被害妄想という一言で片づけられるものかもしれないが、ヤクとダンプに保護されずに生きていくということは、その剥き出しに放り出されることなんだ。家族とはダンプのシェルターなしで付き合わなければならない。日蝕の色調が素晴らしかった。蟹江家のびっことどもりは「金閣寺」のパロディなのかな。[映画館(邦画)] 8点(2012-05-15 10:07:05)

29.  ザ・スタンド(1991) 現在自然保護が圧倒的命題になったことはいいことで、「文明」という野蛮を冷静に反省するんならいいんだけど、何か非合理主義とか神秘主義への傾斜が感じられると不気味。非合理主義こそ野蛮の元締めだった。この森林の中でも電気を必要とする人類だし。ゴルフボールを打ち込むのはちょっと引っかかったな。映画としての展開はかなり地味。ジャングルを三次元で感じさせてくれるロープウェイシーンや落下シーンがあり、ちゃんと高さのある密林になっていた。子どもを救うかどうするかってとこは、実に重い問題なんだけど、あっさり情で逃げてしまった。全体、人物に魅力が乏しいの。[映画館(字幕)] 5点(2012-04-17 12:17:14)

30.  サム・サフィ 《ネタバレ》 フツーであろうとすることへの冒険、ってモチーフは面白い。金銭的に追い詰められていない状況で、金のための仕事をしてみたい、なんてのはおそらく歴史始まって以来、庶民階級が初めて経験する心性だろう。家政婦とか役所とか、「地味」に挑戦していく。ここらへんをもっと徹底して描くべきでしょうな。彼女ももっと本気で挑戦すれば、別の面白さが出たはず。この「マジメごっこ」というゲームを、もっと真剣に遊んでほしかった。ま、その遊びもグズグズと出来なくなってしまうところが、ぬるい現代の表現なのかもしれないが。ラスト、妊娠・出産に話を着地されると、「女性のやっているフツーのことが偉大な事業だった」というすわり心地のいい結論に落ち着いてしまい、がっかり。オーレ・アッティカ嬢はベアトリス・ダルから影を取ったような女優さん。ロジー・デ・パロマ嬢の顔も見慣れてくると、最初ほどインパクトない。海鳥が屋根へ降りる影が、壁をスーッと上るとこ。[映画館(字幕)] 6点(2012-03-02 09:53:38)

31.  秋刀魚の味(1962) 《ネタバレ》 佐田啓二のアパートをロングで捉えたカットで、手前を小編成の電車がトコトコと通過していく。サイレント時代の斎藤達雄の家の前にもこんな車両がやたら往還していたなあ、などと思っていたら、あとで佐田宅から帰る岩下志麻が立った駅が東急池上線の石川台であった。このいくつか先に終点蒲田駅がある。松竹のサイレント時代の故郷だ。なるほど「小市民が暮らすのは蒲田」という配置は30年を置いても変わらなかったわけだ。もっともこちらの小市民はゴルフをたしなむまでになったが。あと今回気がついたことでは、最後のトリスバーのシーン。軍艦マーチが流れ、客の須賀不二男らが旧海軍を揶揄すると、笠智衆はムッとする表情を一瞬浮かべた。小津の登場人物は私的な場ではしばしばクサるが、公の場でこの手の不快を見せるのは珍しいのではないか。つい映画を観ていると忘れてしまいがちになるが、平山は艦長という帝国海軍のエリートだったわけだ。この映画に満ちている侘しさは、おもに娘の結婚や男やもめの孤独など家庭面から来るものだが、もっと若い時代にまつわる失意・小津が体験しつつもずっと正面からは触れようとしなかった戦争の影も、考える必要があるかもしれない。このバーに座る男は、妻に先立たれ・娘の恋を成就させてやれなかっただけでなく、今はからかいの対象にしかならない軍隊に若い時代をうずめてきたその徒労感(と若干の愛惜の情)も背負っているんだ。私は小津の映画が、そのすべてを肯定したくなるくらい大好きなのだが、音楽だけはどうにも我慢ならない。晩年の「秋」の三作にはどこか荒涼とした気配が感じられ、とりわけ遺作となった本作など東野英治郎への残酷な視線に容赦がなく、あのノーテンキな音楽がないとむごたらしさが前面に出過ぎてしまうからか、などと出来るだけ好意的に考えようとも思ってみるのだけど、もし音楽抜きのバージョンが存在したら迷わずそっちを選ぶ。[CS・衛星(邦画)] 8点(2011-11-05 12:23:54)(良:1票)

32.  サラフィナ! 映画の感動が類型によって阻害されている恒例。類型から突出しかかるものがあると、ことごとく棘を抜いて、均衡をとることにばかり気を使っている。たとえば、あの白人の下で威張ってる警官なんか突っ込めば面白くなれそうな要素なんだけど(アパルトヘイト下で生活することの苦しい選択)、哀れな目をして殺され、こちらの学生側の過激な奴が兵に撃たれるのと釣り合わされる。拷問の報告から銃を捨てるサラフィナとの間にこそ最も大きなドラマがあるはずなのだが、もひとつ説得力がないのではないか。何か作者が思ってもいなかったものがググッと突出し、作者自身が途方に暮れてるようなものが欲しいんだけど、そういうものはことごとく芽のうちに摘み取って、こういう「感動作」として未整理なところが一つも残らないようにきれいに掃除をしてしまっている。作者が自分で問題を見つけようとしてないんだな。そういった傷のない類型化がテーマを鈍くさせている。ミュージカルとしての演出も下手で、カットを割りすぎてダンスの面白味は皆無(これは全盛期以降のミュージカルすべてに言えることだけど)。歌が始まる瞬間のトキメキもなかった。ネルソン・マンデラが神様になってることはよく分かった。アパルトヘイト反対の趣旨にのみ同意の点数。[映画館(字幕)] 5点(2011-09-21 10:08:08)

33.  サニーサイド 大正8年か。松井須磨子が自殺してキネ旬が創刊された年だ。コントラストがきつくなっちゃってて、かなり見づらいフィルム状態ではあった。楽譜をヤギに食べられてしまい、キーを叩くとヤギが鳴くというのを視覚で見せるギャグがあった。朝食のシーンで砂糖をいっぱい入れてドローッとしたのを飲む、ってのもあったな。一番好きなのは医者たちが座っているロビー(?)を強引にモップで掃除するというギャグ、無理に脚の間を通したりするの。この人のギャグでは、律儀にテキパキと仕事をしている振りをする、ってのにいいのがある。そこに庶民のズルさと言うか反逆を見てしまうのはヤボか。労働讃歌と素直にとっていいところもある。機械的に動く労働者の自嘲と見るのは、後の作品から振り返って見てしまい過ぎてるかもしれない。[映画館(字幕)] 6点(2011-07-20 12:10:18)

34.  ザ・ファーム/法律事務所 《ネタバレ》 映画に向いてない話を無理に映画にした、ってのの典型みたいで、ただこちらは話を追ってくだけだった。やっと終わりのほうでB級的悪人が走って追いかけてきたりしたけど、何か流れとして不自然。そもそもなんでこの事務所、よく調べずに正義感の男トム・クルーズに白羽の矢を立てるんだ(顔見りゃ、正義の人って分かるだろうが)。過度の「至れり尽くせり」の不気味さのあたりは悪くない。孤独の戦いが始まるな、ってあたりも一応ワクワクした。でもなんか映像で追う話じゃないんだよな。兄さんを釈放した後の看守にカメラがちょっと寄ってくだけで、彼が事務所に通報したと理解させるあたりは、たしかに映像に語らせてはいるのだが。けっきょくこの事務所の不正を摘発するだけで、マフィアには及ばない。この方が現実的なんだろうけど、いつもガンガン正義で押しまくるアメリカ映画にしては、スカッとしない。トム・クルーズって、両手の人差し指立てて説得するポーズ好きなんじゃない?[映画館(字幕)] 5点(2011-06-13 10:14:50)(良:1票)

35.  ザ・シークレット・サービス CIAあがりの暗殺狂と主人公の対決という設定はさして珍しくないが、この両者に「みじめな時代」を生きてるという共通項があるところがミソ。どちらもJFKの時代をイキイキと生きて挫折を味わい、いまクソのような時代を生きてるという認識なの。大統領と個人的な接触をしないのはつまらないヤツと分かると困るから、という。犯人は大統領よりも、ホリガンを相手としてのゲームを挑んでいるわけ。大統領なんてもう標的になる役割りしかない。このクソのような時代に意味を与えようと、自分の分身に挑むわけ。大統領という偉大な虚構のためにどこまで命を掛けられるか、というゲーム。ほとんど三島由紀夫における「天皇」を見るようなニヒリズム。だからマルコヴィッチはいつも「友だち」と呼びかけてくる。ただ一人だけゲームの分かる奴として。公園でヒッピー姿でフラフラしているマルコヴィッチは本当に気持ち悪い。口もとが不気味なんだな。「俺を撃てば大統領を救えるぜ」とか。さして暗殺するに値しない・守るに値しないと、両者納得の上で闘争が展開していく、かなりニヒルなサスペンス。[映画館(字幕)] 8点(2011-05-15 12:19:01)(良:1票)

36.  殺人犯 《ネタバレ》 あの手のモチーフはオカルト映画ではあるけど、そういう霊じゃない、って当人が念を押しているとこが不気味か。過去の恥の証人がそのままそこに・身近に存在している気味悪さ、というか。主人公の狂気というサイコ・スリラーの可能性も残していて、そこらへんスッキリしない作りになっている。こういうの多いね、最近。声が変わるって趣向は、コメディとこういうスリラーでよく使われる。単純だけど、けっこう効果がある。そうでない声が聞こえてくると、笑いか恐怖が生まれるんだ(山本嘉次郎の『孫悟空』では、姿は美女で声はエノケンてのがあった)。ここらへん、笑いと恐怖がけっこう接近したものだってことが確認できて面白かった。映画の後半も、半分笑いに傾くような場面で気味悪がらせている。主人公と悪の張本人が対決している場面は、どれもそう。だいたい○○が腕を組むと、笑いの場面なものだ。ホノボノとした笑いで。そこに気味悪さを出しているのが本作の趣向。でも全体、もう少しスマートに作れたんじゃないかな。映画としての動きが香港ものにしては若干重たるい。[DVD(字幕)] 6点(2011-04-22 09:46:00)

37.  サザエさん(1956) 《ネタバレ》 江利チエミのオテンバぶりがやたら懐かしかった。オテンバやって何かしくじって、脚の片方を後ろに曲げて、頭をてのひらで叩いて舌を出す、というような感じ。「おきゃん」ほどではないが「おてんば」も死語になりつつあるなあ。「気立てのいい娘」とか「おてんば娘」とかは、近隣の噂話の中から生まれてくる評判で、そういう近所付き合いの枠組みがなくなってきたことで、それらの言葉もなくなりつつあるんだろう。これまだマスオさんと結婚する前なので、大家族というほどではないが、下宿人としてノリスケさん(仲代達矢だぜ!)がいたりして、現在の一般家庭よりは大人数。この昭和31年でこの構成員数が平均以上なのか以下なのかはっきりとは分からないが、核家族化へ向かう過渡期のころで、ある人たちにとっては自分たちの家族のように親しめ、また都会生活する若夫婦にとっては、失われた懐かしい家庭風景に見られたんだろう(サザエさんちは成城だった)。家族会議のシーンには、戦後十年たった民主主義に対する照れくささみたいなものを感じた。ビルの脇の自転車留めが懐かしかった。アチャコとのデパート内での不条理なオッカケ、金語楼の「耳が遠いのは家内です」いうギャグ、森川信の女装する探偵所長など、喜劇人がゲスト出演で賑やかにする。ラスト、ダークダックスの御用聞きも上がり込んできて、みんなが手をつないでジングルベルを歌いながらぐるぐる回りだしたときは、なんだかわからないけど、胸がいっぱいになっちゃった(ルネ・クレールかフェリーニか)。さてこれは、フィルムセンターの「亡き映画人をしのんで」の時、江利チエミ追悼で上映されたんだけど、最初に清川虹子が江利チエミのお父さんとちょっと挨拶があってシミジミした気分で観始めたの。で、映画が終わったとき場内で一緒に観賞していた清川虹子を見たら、もう号泣しちゃってて満足に歩けず、お父さんに支えられて出ていった。なんかコメディを観賞するにはすごくシミジミし過ぎる状況だった。[映画館(邦画)] 6点(2011-04-17 12:09:29)

38.  さらば、わが愛/覇王別姫 最初のうちは、監督初めての失敗作かと思った。向いてないことをやってんじゃないか、とか。でも中華人民共和国成立以後の部分はピリピリと締まってて、振り返ってみてやはり傑作の部類に入る作品だろうと思った。惨憺たる中国の近代史。その惨憺たるさまを惨憺たるままに描いて、一片の希望だに見せず、ひたすら滅亡の歌を奏でていく 。京劇の滅びに、古代の覇王の滅び、さらに現代における人が人らしく生きる環境の滅びを重ねて、崇高でさえある。主人公の人生は少年時代の訓練から陰惨さを反復する。強制的に男であることを忘れさせられ、錯覚の中に生きていくことを強いられる。競って愛国者を演ずることになる20世紀中国の群衆と、女形を演じ続ける彼との対称。陰惨である。その陰惨は文革の人民裁判にまで持続していく。この監督にそもそも悲劇志向があるのか、それとも中国の伝統なのか。陰惨だけれども極彩色の壮麗な悲劇に仕上がった。[映画館(字幕)] 8点(2011-04-11 09:57:08)《改行有》

39.  沙耶のいる透視図 《ネタバレ》 あの土屋君てのは、良くないんじゃないか。あれはもっと普通の人っぽいのを据えといたほうが効いてくるんじゃないか。名高君もあまり適役とは言えない。「ビョーキ」と「健全」で、きれいに分かれちゃってる。最初っから病気っぽい病気なんて、あんまり興味湧かない。ものを食べてるところを他人に見られると吐いちゃう、なんてとこは具体的でいいんだけど、その彼女が軽い分裂病だったなんてことになっちゃうと、急に話が狭くなる。夕方、加賀まりこの母親がドロッと融けたようになってるシーンなんかは、ちと良かった。ラストの屋上シーンの土屋君も、しゃべらずにただドロドロッととろけてるようなとこは良かったんだけど。落下シーンは、ギャグにならないかと心配したが、スローモーションでけっこうちゃんとなってたな。でも繰り返さないでも良かった。病んでるなあとは思うけど、だからどうなんだと言い返したくなる映画。沙耶嬢は激さないところはいい。[映画館(邦画)] 5点(2010-11-25 10:06:28)

40.  サラバンド 《ネタバレ》 まるで脚本家の理想として、シナリオだけを提示したかったような・骨だけが存在しているような映画。演劇に去った監督が、最終的にこういう顔とセリフの映画を撮りたかったというのは興味深い(もうひとり、監督と演劇人を経験した天才にヴィスコンティがいるが、その二人が同じハ短調のサラバンドを映画に使ったわけだ。あちらは『地獄に堕ちた勇者ども』で、ヘルムート・バーガー登場への前奏曲のような皮肉な使われかたをした。ああそうだ、あれにはベルイマンの常連イングリッド・チューリンが出てた。ついでに言うとあまり映画音楽として使われないブルックナーの交響曲を、あちらは『夏の嵐』で7番、こちらはこの映画で9番を流した。絢爛志向と枯淡志向、対照的な世界を撮った二人だが、けっこう共通した趣味が見出せる)。本作で展開している「互いに批評しあう人間世界の業」から逃れられているのは、もう顔だけの存在になった死せるアンナと、狂の人となった娘だけで、アンナは最後まで超越者の地位に置かれるが、狂った娘とはもしかしたら心がまだ通じあえるかも知れないというラストに至る。チェリスト娘は、他人に批評されない楽団員の未来を選び、父の元を去る。批評の心は、ときに侮蔑に振れ、それは裏返されて不安に形を変える。そういう「相互批評」の地獄として人の世を見た監督だった。遺作ということでだろうか、観ながらいくつかの過去の作品が浮かんでは消えていった。「厳しい音楽教育」は『秋のソナタ』だし、「狂う娘」は『鏡の中にある如く』だし、「老い」としての『野いちご』があるし、ラストの不安を静めるベッドは、『叫びとささやき』の、メイドとハリエッタ・アンデルソンのあの美しいカットを思い出させた。[CS・衛星(字幕)] 6点(2010-11-16 09:50:47)

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