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プロフィール |
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731 |
性別 |
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自己紹介 |
奥さんと長男との3人家族。ただの映画好きオヤジです。
好きな映画はジョン・フォードのすべての映画です。
どうぞよろしくお願いします。
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人生いろいろ、映画もいろいろ。みんなちがって、みんないい。
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1. 三姉妹~雲南の子
《ネタバレ》 下の妹たちが父親と町に出て行って、ひとり村に残る10歳の長女。彼女は家(というより、ほとんど“小屋”といった粗末さだ・・・)で茹でたジャガイモだけの食事を摂る。暗い屋内でそこだけ光がさす場所に座り込み、黙々と食べ続ける少女。ある意味とても孤独で痛ましい場面ではある。が、それ以上に、斜め上からの光を受けながらジャガイモを食べる彼女の姿は、あまりにも美しい。一種“崇高な”と形容したくなる鮮烈さと美に満ちているのだった。
この映画は、そういった思いがけないほど美しい場面や、目をみはるようなエモーショナルな場面のなかで、わずか10歳の少女を浮き彫りにしていく。その連続のなかで、悲惨なはずの(いや、常に咳き込んでいる彼女が置かれている状況は、「悲惨」そのものなのだけれど)長女の姿は、いつしかどんなにドラマチックな映画のヒロインよりも忘れがたい「ヒロイン」性を獲得していくのである。
中国の高山地帯にある貧しい村で、幼い三姉妹だけで暮らす彼女たち。風呂にも入らず、いつも同じ服を着たままのその暮らしは、村で飼われている豚や羊たちといった“家畜”とほとんど変わらない(この映画には、いたるところで動物たちの鳴き声が響きわたっている)。だが、妹たちや家畜の世話をしながら野良仕事もこなす、昨日と同じような今日を生きる長女の姿は、監督ワン・ビンの凝視するカメラの前で、いつしか「崇高」そのものの輝きを放ち出すのである。
なぜなら、この映画が彼女に見出そうとしたものこそ、人間の、というより“生きる”ことそのものの「神聖さ」にあるのだろうから。・・・いつも表情の少ない彼女が、村の男友だちと話すときに初めて少しうれしそうな顔をする。あるいは、ひとりぼっちで道ばたにしゃがみこみもの思う彼女を真正面からカメラがとらえようとすると、何気ないそぶりでその場を去っていく。そういったひとつひとつの映像が、ぼくたちの心を深く、深くうつ。同情なんてとんでもない! そのとき、彼女はほとんどロベール・ブレッソンの『少女ムシェット』や、『バルタザールどこへ行く』のロバ(!)に匹敵する生=聖なる「顕現」ぶりによって、ぼくたちをただただ圧倒するのである。[映画館(字幕)] 10点(2013-11-20 11:08:08)(良:1票) 《改行有》
2. ザ・マスター
《ネタバレ》 フィリップ・シーモア・ホフマン扮する新興宗教の教祖ランカスターは、ホアキン・フェニックス演じる主人公フレディを“息子”として自分のものにしたかった。フレディもまたランカスターに“父親”を見出した。…そう、『ブギーナイツ』や『マグノリア』、前作『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』などがそうだったように、ポール・トーマス・アンダーソン監督の作品はここでも「父と息子」、「(疑似)家族」をめぐる愛憎劇を繰り広げる。
だが、ある一点において本作は、これまでのPTA作品と根底的に異なる“貌”をみせるだろう。そう、この映画におけるフレディは、もはや誰の“息子”にもなれない男だった。ーーアル中で女に目がない、一見すると単なる負け犬の流れ者。しかし一方で彼は、どこまでも自由で束縛(=家庭)から逃走し続ける、常に「移動する者」でもあるのだ。
常にその肉体と魂を彷徨のなかに起き続ける、フレディ。何という空虚さと孤独。だが彼は、それでも生きていける。これまでも、これからも空虚で孤独でありながら「独り」で生きていける男なのだ。その意味で、すでに彼は師であり“父親”であるランカスターすらをも“超えた”存在なのである。
ランカスターはフレディに、「もし“師”なしで生きられる方法が見つかったら、ぜひまた会いに来て教えてほしい」という。そして「来世で出会ったなら、お前は私の最大の敵となるだろう」とも。ランカスターもまた、フレディが自分“息子”どころか自分すら超越した存在だということを覚っていた。それでも、というかそれだからこそ実はフレディを手放したくなかったホフマンが口ずさむ「中国行きのスロウボート」と、それに対するフェニックスのゆがんだ笑顔。その対比の、何という美しさだ・・・
フレディ、このこのアル中で情緒不安定で暴力的だが、どこか愛さずにはいられない“1950年代のハックルベリィ・フィン”。この真の意味で「自由」な人物像を造型し得ただけでも、この作品と主演のホアキン・フェニックスは映画史上のものだ。彷徨する魂と肉体にこそ己の存在理由を見出す「アメリカ(人)」の心象風景をここまで鮮やかに映像化した作品など、ほとんど空前絶後ではあるまいか。ともあれこれは、21世紀に入ってから今に至る最高の「アメリカ映画」だと、ぼくは確信している。[映画館(字幕)] 10点(2013-03-29 01:45:33)(良:1票) 《改行有》
3. 座頭市 THE LAST
《ネタバレ》 思えば、『トカレフ』で大和武士の主人公は、佐藤浩市に撃たれて“一度死んだ”のだ。その後の物語は、“すでに死んでいる”主人公がそれと気づかず(あるいは気づかないふりをしつつ)、佐藤浩市への復讐すること、それだけのために費やされたものだった。だからそれは、奇妙な非現実感を漂わせる。そこはふたりの男だけの、殺し・殺されることだけに純化され、トカレフの乾いた銃声と、あの「カチ、カチ」という撃鉄の音だけが響き渡る世界だ。他の何者も立ち入ることはできない。それゆえに主人公の元妻で、今は佐藤浩市の子供を身ごもっているらしいヒロインすら、映画の途中で消えてゆくのである。
この『座頭市 THE LAST』でも、冒頭近くに主人公・市と所帯を持つと誓った石原さとみのヒロインが、市をかばって犠牲になる。けれど彼女が刀で刺し貫かれた時、実は座頭市も“死んだ”のではないか。あるいは、そこから彼の“THE LAST(最期)”は始まっていた。そしてラスト、一度は石原さとみの手に誘われるように海の中へと歩み入っていった市だが、次の場面で、海にたどり着けずにその手前で息絶えた姿として映し出される。あるいは、この2時間以上をかけてぼくたちが見てきた映像自体が、この、海岸手前で息絶える寸前に座頭市が見た“光景”なのではないのか・・・。そう思い至る時、この作品全体に漂う奇妙な非現実感に、ぼくたちはある戦慄と深い感動をもって納得させられるのだ。
(・・・座頭市と仲代達也扮する親分との対決シーンで、一瞬ふたりの姿が画面から消えてしまうあの場面にしてもそうだ。あそこで仲代達也は、実は市に斬られていたことを、ぼくたちは後で知らされる。いわば仲代もまた“すでに死んでいた”のである。いわばこれは、死者と死者が死闘を繰りひろげる『トカレフ』的なクライマックスの“再現=変奏”なのである)
監督デビュー作『どついたるねん』で、“一度死んだ者”としての赤井英和を主人公として以来、阪本順治監督の「アクション映画」は常にこうした死者たちの“末期の眼”で見られた世界を開示、あるいは現前させることこそが〈主題〉となってきた。この『座頭市 THE LAST』はそのひとつの到達点に他ならない。・・・ひと言、大傑作。[CS・衛星(邦画)] 10点(2011-04-26 19:29:46)《改行有》
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