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【製作年 : 1970年代 抽出】 >> 製作年レビュー統計
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1.  ざくろの色 私のノートには文章の合間にいろいろ図が描きこまれていて、言葉だけで記録をとるのが難しい映画だったのが分かる。階段の図に矢印が二つ(上っていくのと通過するのと)描きこまれてたり。壁画のタッチ、黒から白へ変わる、ということも何度も繰り返し書かれている。びしょ濡れの本、枠を持って歩く人たち、ろうそくの原に倒れている老いた主人公、なんてイメージが延々と綴られている。おそらく伝統に根ざしたイメージなんだろう。仕種や表情なんかもそうで、一人よがりになっていなかった。人形劇を見ている清潔感がある。やぎ、ロバ、鶏、羊、といった家畜の匂いも、頭だけでこしらえた宇宙じゃなくしている。もちろん伝統は格闘すべき対象であるべきなんだけど、差し迫った敵に対するときに団結する土台にもなるもので、グルジアの一般民衆がこの映画をどういうふうに受け止めたのか知りたい。黒いものが白くなっていくって、浄化のイメージでいいのかな。[映画館(字幕)] 9点(2013-09-13 09:46:05)

2.  三里塚・五月の空 里のかよい路 前作『辺田部落』で、農民の暮らしそのものの記録にたどり着き、生活と労働とが互いを削りあっている不幸な近代(その象徴としての飛行場)を発見した小川は、その後「技術としての農業」を追って山形県に移り住む。彼が知ろうとしたのは手触りとして感じ取ることのできる「農業の楽しさ」であり、それが日本の「農業の衰滅」と同時進行で記録されていったところに、小川の後期作品群の凄味がある。『牧野物語・養蚕編』は、静かに養蚕の技術を追った記録で、何のイデオロギーも叫ばれていず、どう手間を掛けるとどういう効果があってそれが作り手にはどう楽しいか、ということを丹念に描いていくだけなのだが、かつて国の柱ともてはやされ、やがて見捨てられていった産業としての養蚕の歴史に思いを馳せないわけには行かない。で、これ、三里塚シリーズ7作目にして最終作。夏と冬の印象が強かったシリーズの最後は初夏である。描かれている内容は爽やかでもないのだけれど、気分として、ここには同じ農業をしているもの同士が久しぶりに再会した爽やかさのようなものを感じてしまう。あの鉄塔が倒される。田植えを中断して眺める農民たち。無念な気持ちはあるだろうけど、どこか超然とした気持ちもあるのではないか。すごく不謹慎な連想だとは思うが、なんとなくこの初夏の空気にふさわしいピクニックの気分すら感じられるのだ。機動隊によるガス弾の水平撃ちによって犠牲者が出る事件も起こる。しかし小川が一番心配するのは、そのガスが農作物にどのような害を及ぼしているか、ということだ。あるいは低空飛行する報道のヘリコプターの風圧がいかにスイカを傷めているかだ(思えばこのシリーズの一番最初のシーンは、機動隊によって踏み割られたスイカだった)。彼の関心は農業者としての興味に絞られていく。農業者ほど季節に敏感でなければならない者もないだろう。シリーズの最後に、さわやかな新緑の季節が置かれたのは悪くない。農業のスタートの季節。次の発芽に向けられた希望を、厳しい状況のなかからもかすかに感じたいという願いが、観客の中にも生まれてきてしまっているからだ。[映画館(邦画)] 7点(2010-01-23 12:06:56)

3.  三里塚・岩山に鉄塔が出来た この第5作は、シリーズの要をなす二本の大作にはさまれた地味な作品だが、小川の作品群を並べてみたとき、一つの曲がり角になる貴重な映画になっていると思う。この映画は一種のネガだ。滑走路を使えなくさせるための鉄塔を建てる、その技能を感嘆しながら記録したドキュメントで、だから本作で意識されるのは、ポッカリと中心に空洞ができたかのように感じられる農業技術の不在なのだ。今まで土地に根差し下へ下へと向いていた反対闘争のエネルギーが、ここで上を向く。大地の上で戦えなくなった農民たちが空中に鉄塔を目指すとき、今まで蓄積してきた技術はほとんど役に立たない。支援の若い棟梁に任せるしかない。農民はワイヤーを固定する作業でしか土と接することができないのだ。最初のほうに集会の場面がある。航空法に違反する鉄塔建てるとかえって当局に手を出しやすくさせてしまうのではないか、という考えが出ての論議。そのなかで青年行動隊の一人が、そんなことになるんだったら俺は何で今まで危ない思いして鉄塔作り手伝ってたんだよ、と泣き出しながら怒り出す。さかんに、バカヤロー、と繰り返しながら、しかし憤懣をうまく表現し切れずに苛立つ。このシーンは印象深い。この鬱屈を包む仲間の農民たちも、重い沈黙でどこか彼の気分に共鳴しているところがあるのだ。鉄塔が最後の抵抗であることは分かるが、そういう手段に漠然と感じる違和感、自分たちの生活と異なる場に移ってしまった反対運動の手応えの不確かさ。しかしそれに替わるものが何も見当たらない…。この農民と対照的にカメラが生き生きと追うのは、鉄塔を建てているトビの若者たちだ。自分たちの技能をフルに生かして何かを作り上げることの充足感。小川はこの対比を的確に捉えた。小川の労働観が明確に見えた最初の作品として、本作は位置づけられよう。やがて、そのように働く喜びを奪われてしまった人々のルポとして『どっこい!人間節』(編集)が作られ、そのように働く喜びを理想的に生み出している記録として『クリーンセンター訪問記』が撮影されていく。それにしても本作、鉄塔からの撮影は大変だったのではないか。観ていて足がすくむ。こんなにも高く、こんなにも農地から離れたところまで来てしまったのか、という感慨があるからだろう。[映画館(邦画)] 8点(2010-01-22 12:18:22)

4.  三里塚・第二砦の人々 シリーズ4作目。前々作のラストは、農民が要塞を掘るその穴掘りシーンだった。彼らが土に帰っていく・土に沈んでいくといったちょっと現実を離れた寓話的イメージがあり、その掘り進めている土の壁に延びていた植物の根のアップが印象深い。で本作に至って根のモチーフは大きく膨らみ、農民が掘り進めていく抵抗の根としての地下壕のイメージにつながっていく。あくまで散文的な記録性を保持しながらイメージが豊かに広がっていく。おそらくスペクタクルとしての迫力はシリーズ屈指だろう。野外戦の興奮。権力の横暴といった理屈以前の、その場の高揚がフィルムを覆ってしまっている。農婦二人が自分たちを鎖で縛り合わせているところをじっくり写していたカメラがぐるりと振り返ると、タイヤを燃やす黒煙がもうもうと立ち込め、坂を下ってくる機動隊や、回り込んでいく学生たちが激しくうねっている。そこにかぶさってくるヘリコプターの騒音、拡声器の割れ声、耳をつんざく笛の響き、とにかく映画はその場を実感させ、体験させる。バリケードの隙間から火炎瓶を投げるタイミングをうかがっている学生など、へんに生々しい。またユーモラスなシーンも活きている。シリーズ常連の柳川のオバチャンが、自分の作戦を語るところ。「ベターッともうダメになったふりしててよ、あのジジイ(公団職員)が来たらよ、縛ったふりしてたこん鎖でもって殴ってやんだ」。緊張したところでふっと息を抜かせ、少し画面に近づき過ぎてしまっていた観客の気持ちを、微調整する働きがこういうシーンにはある。しかし本作の重要さは、農民が自分たちの手応えの分かる形で抵抗しようとしているところにあると思う。火炎瓶などといった今までの暮らしと無縁なものは学生にまかせ、自分を木に縛り付けたり、土に穴を掘ったり、彼らが一番手応えの分かっているもののそばに戻っていく。そのときに彼らが浮かべるちょっと晴れがましい表情。換気口つきの地下壕を作り上げた農民の照れくさそうな自慢げな笑顔。自分の技術を生かして何かを作り上げる楽しさ。三里塚で起こっていることは、単に土地を巡る争いなのではなく、農民から農業技術を生かして働く楽しみを奪うことなのだ。それはここ三里塚で密度濃く現われてはいるが、日本全国で緩慢に進行している農業の死という問題にほかならず、小川は以後に続く重要なテーマにたどり着いたわけである。[映画館(邦画)] 10点(2010-01-21 12:16:52)

5.  三里塚・第三次強制測量阻止斗争 シリーズ3作目。闘争の現場に徹した1時間に満たないニュースフィルムに近い作品だが、気を張っている顔が画面に溢れている点では、シリーズ中、一二を争うだろう。その気を張っているのも、自信でそうなっているのではなく、不安に追い立てられてなのだ。自分たちが農民でいられなくなるかも知れないという不安。そのとき彼らは、土のほうへ土のほうへと体を投げ出していく。地面に座り込み、測量のために打たれる杭に身を投じる。糞尿の入ったビニール袋を手にして。戸村委員長が機動隊が行なった横暴について演説するときの「おまんこ」と言う発音の滑らかさ、ごく自然に座り込みに加わる妊婦、そしてこの糞尿弾。この短い映画に次々と現われてくる素材が、「百姓」の生活がいかに生命の「第一義」的なものと密着しているかを示していく。彼らの不安は、その密着から引き剥がされるという生理的な次元にまで至っているのではないか。そういう生命の「第一義」的な面を隠蔽していくのが清潔な近代社会だった。それはそのまま第三次産業が第一次産業を埋め隠していく戦後史とパラレルである。この三里塚で反乱を見せたのは、その隠されていたものたちだったと言えるだろう。無理を重ねた近代がいつか剥き出しにしなければならなかった不安である。人がそのように不意に歴史と向かい合わされたとき、どのように気を張った顔を見せるのか、このフィルムはその記録であるとも言えるようだ。[映画館(邦画)] 7点(2010-01-20 12:07:58)

6.  サタデー・ナイト・フィーバー 今見ると、ディスコダンスの陰気さに驚かされる。薄暗いところにみんながぞろぞろ並び、覇気なく緩慢に体を動かしていて、ときどき物憂げにポンと手を打ったりして、こりゃ盆踊りだ。全体として籠もった感じ。ダンスならではの外へ向けたエネルギーがあまり感じられない。といってフラメンコのように、内側へ力を充溢させていくようにも見えない。動く快感より見られることが主体のダンスなのか。これは何なんだろう。60年の外側へ向かった抗議の時代の反動だったのかな。その驚きがかなりショックだったので、物語として映画を見てる余裕があまりなかった。トラボルタの、粗野だけど純真よ、っていう目つきが女性にウケたのはよく分かる。今だったら「誰でもいいからぶっ殺してやる」になっていきかねない、展望の開けぬブルーカラーの若者の鬱屈が、けっこうキチンと描かれていたような。[DVD(字幕)] 6点(2008-08-24 12:13:31)(良:1票)

7.  三里塚 辺田部落 三里塚シリーズでとりわけ好きなのが、成田闘争の最前線にカメラを据えた「第二砦の人々」と、地域の死をじっくり記録していく本作。隣人が消えていく、民俗行事が消えていく、墓もどこかに移さなければならない。村を構成していたものの消滅を一つ一つ数え上げることで、闘争の現場の奥を見せてくれる。雨の音の中での寄り合いのシーンでは、語られる言葉よりも、重苦しい沈黙のほうをより深く記録していた。生活そのものが消えようとしている重苦しさ。これと対照的なのが、野良でのカミサンたちのおしゃべり。岩山の部落は大変だべな、逮捕されてしょんぼりしてっだべな、なんて話をずるずるしてるだけなんだけど、生活が本来持っている生き生きした姿、いま奪われようとしている美しい時間を、完璧に記録してくれていた。記録するというフィルムの機能の基本をあらためて思い出させてくれる名作だと思う。[映画館(邦画)] 9点(2007-11-27 12:18:10)(良:1票)

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