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【製作年 : 1990年代 抽出】 >> 製作年レビュー統計
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21.  新ドイツ零年 『パッション』以降の作品に言えるんだけど、メランコリーの度が強くなってるんだよね。それまで諧謔で隠されていたものが、剥き出しになってきたというか。室内撮影はもちろんそうなんだけど、風景の寒々しさといったら。ヨーロッパのメランコリーの源流はドイツにあるのだろうか。フランス・イタリアといったいわばヨーロッパ文化の中軸的なものに対して、ドイツ的なものを置くとヨーロッパに奥行きが見えてくる。たとえば音楽はイタリアやフランスで花開いたのに、いつのまにかメランコリックなドイツに中軸が移っていった。光に対する影のようなドイツの存在。そういえばこの映画では(というよりこの人の映画では常に)音楽・音に対して鋭敏にさせられるな。ピアノの打撃音まで。スピードを操作されてビデオで再現される過去の映画、その中の人物はすべて悲劇的に見えてくる。なにかすべてが憂愁へと向かっていく。憂い顔の騎士は、自らそのイメージの陳腐さに追い立てられるように、掘削機へ向かっていく。[映画館(字幕)] 6点(2011-03-25 12:14:20)

22.  私立探偵・濱マイク/我が人生最悪の時 この監督は「…もどき」という世界をピョンピョンと渡っているみたいで、「もどき」でない世界をいいかげん見せてもらいたい気がする(と封切り当時のノート)。これはアジア映画的というか、日活無国籍アクションもどき。でも主人公はウロチョロしてるだけで、事件との絡みが稀薄。そもそも「事件」に明確な輪郭がないのが、こういう話としては致命的。楊海平の顔はとってもいいんだけど。せっかくモノクロ・シネマスコープという活劇黄金期の枠を選択したのに、それがあんまり生きてない。痛快さがないの。陰気に指切り落としたりして、ジメジメして。[映画館(邦画)] 5点(2011-01-19 10:11:48)

23.  ジョイ・ラック・クラブ 《ネタバレ》 女たちのひとりごと・愚痴の集大成、といったおもむきのある、四組の母娘それぞれのお話。一つ一つはインパクトに欠けても、それらが交響されて味が出てくる。女たちの愚痴は、もっぱら母との関係・夫との関係に集約されていく。いつも母さんの顔色をうかがってた、とか、母が寄せる娘への期待の重たさ、とか。ピアノの特訓、チェスの天才。母と衝突した後、才能が消えているのに気づく。ついつい(白人の)夫に尽くしすぎてしまう娘もいれば、現代風に何でも折半でやっていくのもいて、でもどちらも結婚生活に失敗していく。母の世代では戦争の悲惨があり、そのまた母の世代になると、旧制度の悲惨がある。それらの時代を超えた女性史が、彼女らの中で「愚痴」として漉され、棘を抜かれ、また美しい撮影もあって、男には覗けない世界を魅力的に見せてくれている。それにしても母と娘ってのは、男には謎中の謎、特殊な親密さを感じさせる世界だなあ。父と息子ってのは、もうちょっと吹き抜けてない?[映画館(字幕)] 8点(2011-01-06 09:06:46)

24.  シンドラーのリスト 主人公が成金狙いのうさんくさい男ってとこに味がある。たくみに軍に取り入っていくあたりのとこ、リーアム・ニーソン、いい。それでもラスト近くのヒロイックな描かれかたには、やや抵抗が残るが、たとえば間違ってアウシュビッツに送られてきたのの扱い、彼はやはり「自分の」ユダヤ人たちを救おうとする。ここらへん、彼も「選別」しているわけで、ちょっと引っかかったんだけど、ああそうか、そこがポイントなのかも知れないな。抽象的な正義感よりも、自分の家族のように顔を知っている・名前を知っている人々を救いたいって気持ちのほうが強くなれるわけで、そういう具体的な顔や名前に足場を求めないと、狂った抽象的な理想に対抗する正義ってのは発揮できないんだ。ゲットー解体シーンはやはり迫力。ほんのささいな分かれ道で、生き延びられるものと生き延びられないものと違ってくる。音楽はまたJ・ウィリアムズ、ユダヤ人作曲家マーラーの交響曲8番に似たモチーフの部分があるんだけど、偶然だろう。[映画館(字幕)] 7点(2011-01-05 20:11:48)(良:1票)

25.  ジェロニモ(1993) 基本は友情が交錯し青年が成長する話。前半、保留地の暴動のあたりがイキイキしている。発砲の瞬間、フィルムに白いコマをはさんでいるみたい。ただ後半はちょいと演説的になってもたれる。難しいところだ。インディアンの扱い。ちょうどアメリカ映画史において西部劇がたどった苦難をなぞるように、この映画も後半停滞していってしまう。スカッとはいけない。こういうときアメリカは、すべての集団の中に、イイヤツと悪イヤツがいる、ということで処理していく。しかし追い詰められるアパッチ族の悲壮感が今ひとつ湧かず、平和を説く古老なんかを配置するのは、段取り過ぎて鬱陶しい。切り捨てられる斥候インディアンのほうに、悲惨を感じた。西部劇は荒れた土地があればだいたい撮れちゃうから、時代劇よりいいね。[映画館(字幕)] 6点(2010-12-17 09:56:11)

26.  ショート・カッツ 《ネタバレ》 アメリカ国旗を思わせるヘリコプターより降りそそがれる農薬の下の街。一皮剥けばののしりと軽蔑が波打っている社会、その悲しさを笑おうとする。悲しさの軸になっているのは、少年の死と歌姫の歌。この監督では「歌うこと」ってのが「一皮剥く」方法としてポイントになっていることが多い。ののしりや軽蔑という激しい感情の対に、無関心もある。ジャック・レモンは息子との関係回復にのみ心が走って、孫への関心が湧いてこない。アニーも、隣人の子どもの死に心が動かない。逆に過剰な関心が寄せられると、パン屋のいたずら電話になる。つまりどれもこれもマットウな距離が測れなくなってしまった人たちなの。医師は妻への疑いを普通の声で確認することが出来ない。水死体の脇での鱒釣り。遠慮と無関心。一方に偽の暴行、偽の(テレホン)セックスがあれば、一方に唐突に女を石で殴り殺す男がいる。すべて距離の混乱。最後の締めは、この見事な大伽藍の後ではちょっと物足りなかった。回想シーンなし、すべて時間順に綴られている。個人の内面に深入りしない(一人でいるシーンは長くやらない)。もちろんモノローグなし。そういう文法で綴られるのは、私たちがもう他人とのマットウな距離を測れなくなってしまっているという現実。ばらばらにされた家具の中でピカピカにきれいにされたカーペットの空間、あの空虚感がこの映画のテーマだろう。[映画館(字幕)] 8点(2010-09-11 09:54:03)

27.  四十七人の刺客 陰謀合戦に絞ったホンにしなくちゃならないのに、どうでもいい役をオールスターキャストのために作ったりして、フヤかしちゃう。ワイロの噂を赤穂側が流すなんてのは面白いんだけど、おびき寄せておきながら室内に入るまで反撃を全然しないってのは、吉良側がトンマに見える。つまり、吉良が要塞を作っていく経過が見どころになるはずなのに、いままでの忠臣蔵ものに影響されてか、「討ち入り=ヤマ場」にこだわりすぎたせいだろう。「塩」の字が旧漢字でなかったなあ。市川映画ではどんな役者も崑の世界に染まったものだが、健さんだけは、とうとう最後まで染まらなかった。主税が、藤純子の息子という思いやりはある。崑らしさが出たのは、宮沢りえの数カットのみだった。『ビルマの竪琴』のようないくつかの例外はあるものの、やはりこの監督に男集団の世界は合わないのだ。[映画館(邦画)] 5点(2010-08-19 09:59:21)

28.  シリアル・ママ 《ネタバレ》 模範的家庭をパロディにする、ってのもアメリカ映画の重要なジャンルか。しかもだいたい朝食シーンから始まるんだ。模範的にパチリとハマリすぎていることの気味悪さに敏感ってことか。中流アメリカは市民社会として安定してるがゆえに、その「市民」が成り立っている「きわどさ」にも敏感。市民であることの面倒くささ、シートベルトを締め、ゴミを分別し、借りたビデオはちゃんと巻き戻し、そういうあれこれの些細な厄介さの上に、市民社会は存立している。殺人が徹底してないのが不満、やはりこれは「公共的正義」のみにおいて狂うべきで、個人的なもの(学校の先生とか)が入ってくるのは不純。もっと分別をしっかりしてほしい。シートベルトを締めない男を追いかけるときには、ちゃんとシートベルトを締める。「あなたはリサイクルしてましたか?」ってのが裁判の決め手になるのが、当時のアメリカ社会の皮肉になってるよう。「正義」という保証を与えられた狂人が一番怖いという話。火掻き棒で刺すと肝臓がついてくる。[映画館(字幕)] 7点(2010-07-08 11:54:47)

29.  写楽 写楽の話というよりは、寛政期が主役の群像ドラマ。いつも人殺しの時代を扱うNHKの大河ドラマは、たまにはここらへんの文化を中心にやってみればいいのにと思っているのだが、日本文化史上の一つの頂点。時代が主役ならストーリーとして初めと終わりがキチッとしてなくてもいいのかも知れない。「地獄の上の花見」を見せればそれでいい。でも、一通りの有名人を交錯させるのだけど解説の域を出てなく、なんかこの監督、情報知識を集めすぎて盛りだくさんになってしまう弊が、のちの『スパイ・ゾルゲ』などにも見られる。この人は様式的な場が好きで、おいらん道中と大道芸人の道中とが直角に交差するとことか、歌麿のモデルがじっとしている部屋の光景などに、「らしさ」が出ている。合成技術の当時の限界? 全体の色調がドローンとよどむ。[映画館(邦画)] 6点(2010-06-21 11:59:30)

30.  ジャンヌ/薔薇の十字架 《ネタバレ》 戴冠式があって、政治的な汚れが彼女に迫ってくるわけ。ふとヴィシー政権下のパルチザンを連想した。男装の罪というのが、なにやら深い。女装すると牢番に嫌がらせを受けたなんてこともあり、まあそれだけのことかも知れないが、一度女装に戻ってから、また自分の意志で男装となり、死を選ぶ、ってなにか意味深そう。彼女のパラノイアの重要な部分に「男装」があったのではないか。ヨーロッパ中世における女性の位置についての考察が必要だろうが、国の解放と女装からの解放が、彼女のなかではパラレルだった。火あぶりを怖れ、ラスト炎のなかで「イエス様!」と叫んで映画は終わるのだけど。人々が中世の薄暗さのなかにいる感じは随所で出ていたが、どうもサンドリーヌ・ボネールは最後まで非中世的で(またあえてその効果を狙ったようにも見えず)、しっくりこなかった。[映画館(字幕)] 6点(2010-05-25 11:56:52)

31.  ジャンヌ/愛と自由の天使 この監督がなぜジャンヌを映像化しようとしたのかは分からないが、戦闘シーンの覇気のなさなどはいかにもヌーベルバーグである。自分から志願するところから始まって、パラノイアとしてのジャンヌを描きたかったのか。ふと天草四郎を思い、日本のヌーベルバーグと言われた大島作品とつながった。信仰家というのはどこかパラノイア的な頑固さがなければならないものなのだろう。周囲も、最初のうちは信仰による尊重もあるのだろうが、やがて彼女のパラノイア的純粋さの魅力に帰依していく経過。橋の攻略、最初は失敗し、次の攻略の前に樹下で祈るシーンになぜかグッときてしまった。やっぱりスペクタクルよりこういう場の方がいい。ええと、これ二本通しで観てノートはまとめて書いてあるので、一本目はここらへんまでか。[映画館(字幕)] 6点(2010-05-24 11:59:00)

32.  白い馬 ЦАГААН МОРЬ(1995) 観光映画よりは踏み込んでいるけど、内側からモンゴルを観察したというほどのドキュメンタリー精神はなく、まあ「留学映画」とでも呼んでみましょうか。モンゴル人の心に直接触れてるという気にはなれないが、短期旅行者の傍観よりはいい、ってとこで。雄大な風景と対比させるような、病気の子どもの目に映る狭い青空。町の図書館のシーン。あるいはロングで、バイクのラマ僧と移動百貨店トラックが道でよけあうとこ、などいくつか印象に残るシーンがある。それらがこじんまりと納まってしまうところが物足りないが、それがこの作家の資質なのだろう、新しい歌を歌おうとせず・新しいものを発見しようとせず、しかしそういうものが好きならそれでいいではないか、という大らかな気にはさせる。観ているほうにもモンゴル的大らかさが伝染していて。ラストのナーダムは、揺れる画像の合い間にロングの揺れない画像を入れてほしいところ。[映画館(邦画)] 6点(2010-05-20 11:57:43)

33.  親愛なる日記 ぼやき漫談ではないか。「ぼやき」も洗練すればもちろん「芸」になるのだが、でもかつて世界で一番活力に溢れていたイタリア映画が、そんな芸を見せねばならぬほど衰弱したのか、と思うとつらかった。やりたいのなら堂々とちゃんとした一編のミュージカルを作ってほしいじゃないか。野めぐり。“風変わりな自画像”もの、やたら「僕って変わってるでしょ」と言い続けられているようで、なんかぼやきのレベル。島めぐり。一人っ子ばかりの島での電話のエピソードはやや映画らしいが、終わりのカットで電話3台というのは物足りない。医者めぐり。痒み。これも医療風刺のレベル。ぼやくというのは、非建設的な批評ということか。[映画館(字幕)] 6点(2010-05-07 11:55:49)

34.  ショーシャンクの空に 『カッコーの巣…』の刑務所版。自由への希望を持ち続けることの話。塀があり、その中にさらに狭い懲罰房があり、塀の外には世間がある、そういう構図。いつのまにか塀に寄りかかって生きてしまう長期刑者たち。その中で自由への希望を持ち続けることを賞揚するのがアメリカだ。“調達屋”ってのは、つまり塀の中に小さな世間を作って、中だけで生きていこうとする選択(安部公房の「砂の女」の主人公がそうなったように)。それに対してアンディは外の刺激を導き入れようとする。ビールの味であったり、モーツァルトの歌声であったり。これがハンマーの一打ち一打ちになっていくわけだ。そのためには汚いことも進んで引き受ける。人を改心させるための刑務所に入って、俺は悪を覚えた、って。レッドに贈られたハーモニカは、小道具としてもっと使い道がありそうなもんだけど。世間に出てつぶされていく老人のエピソードは胸にしみる。もう塀の内側に皮膚が癒着しちゃってたんだ。その癒着のいちいちをハンマーで剥がしていかないと、と主人公は思うわけ。この人生観なんか実にアメリカ。[映画館(字幕)] 7点(2010-04-22 12:02:33)(良:1票)

35.  JM アクション映画はどんどん加速して盛り上げてほしいのに、これは単純な直線的進行。アクションが連続していれば退屈しないでしょ、と考えたらしいが、そうじゃないの、だめなの、加速が必要。そうしないとこちらは空回りしている徒労感に襲われる。想像力のなさが致命的。なにか一つ得るものがあるとすれば、政治的な東西対立が終わった後に、文化的東西対立が大きくなってくるかもしれないなあ、という予感。とりわけ西の「被害妄想」としての。どうして映画の悪者は、すぐに相手を殺さないでゴタクを並べて逆転されるという、あまりにもストーリーに奉仕した失敗を繰り返すのだろう。もう型になってしまっていて、誰も心配しなくなっている。たまにはそういった失敗から学んで進化した悪者を創造してもいいのに(といって善玉をあっさり殺させないしなあ)。無神経な暴力描写も不愉快。圧倒的優位に立つ側が、弱いもんをネチネチ痛めていくシーンは、もちろん悪を描くわけなんだろうけど、でもなんでこんなもんを見せられなきゃならないんだ、って気が先に来てしまう。[映画館(字幕)] 5点(2010-04-14 12:01:11)

36.  ジュラシック・パーク この映画の怖さのポイントは「舞台がテーマパーク」という設定だと思う。かつてのモンスターものは、怪獣たちが日常生活に闖入し蹂躙していくのが定番だった。私たちは、日常生活が破壊される恐怖と、日常生活が破壊される快感を同時に味わえた。私たちが私たちの世界に怪獣を迎え入れていた。しかし本作では、私たちが恐竜の世界に入っていく。もちろんこれは初めてのことではなく『ロストワールド』も『キングコング』もあったわけだが、それは「探検」の物語だった。だがこれは「探検ごっこ」である。この「ごっこ」の部分にとても現代性が感じられる。完全に制御されたスリルの場としての遊園地、日常と冒険とが奇妙にねじくれながら絡み合っている場としての遊園地、どんな危険も「ごっこ」の中で牙を抜かれてしまっていたはずのところで、不意に危険と私たちの境の網が破られてしまう。最初の襲撃のシークエンスが白眉だろう。テーマパークに入っていくときの浮き浮きした気分をたっぷり描き、おとなしい草食恐竜だけを見せて、肉食の方は気配だけに抑える。そして素早く「ごっこ」の部分を抜き去ってしまう。ヤギが消えていたり、コップの水が振動で揺れたりのスピルバーグお手のものの演出。しかし何よりも主人公たちが剥き出しにされている感覚、心理的に恐怖にじかに晒されている感覚が怖い。人類はひ弱だが知恵がある、という我々最大の自信が、つまるところ金網一枚だけで支えられていた程度のものだった、という発見が怖いのだ。[映画館(字幕)] 8点(2010-02-07 12:07:14)(良:1票)

37.  上海ルージュ 老人が勝ち、若者が滅んでいく、それはもう、一つの時代が末期を迎えている症状なのだ、ってことか。実に通俗的な設定を、黄金色に閉じた前半と、蕭条とした風景の中に拡散していく後半、の二段構えで描く。後半が前半の繁華を批判している、という感じではなく、どっちもそれぞれに、はかない。囚われの女は周囲に不幸を撒き散らしてしまう、そのことの悲しみ。どこからともなく聞こえてくる歌声の効果など、いつもながら音には鋭敏で、呼び鈴とか、軒下の風鈴、繰り返される子守唄のメロディは、硬質の木琴の音、オーボエ、月琴(?)、女声などによって変奏されていく。美しさという点ではいつも見事なのだが、映画のドラマとして切実さがも一つ感じられないというところも、いつも。[映画館(字幕)] 6点(2009-08-16 11:59:32)

38.  小便小僧の恋物語 《ネタバレ》 電車に家族を奪われた男(人に見られてると小便できない)が、市電の女運転手に恋する回復もの。と思ってたら、回復ものにしてはラストが陰気くさくなってしまった。ハッピーエンドじゃ軽くなってしまうので、悲劇に仕立ててみました、って感じの作品、けっこうヨーロッパ映画に多く、安易にハッピーエンドにするハリウッドと足して二で割りたい。死で片づけちゃいけないこと・片づけられないことの方が、この世には多いはずです。主人公が仕事に就くあたりの手際のいい省略なんか良かったし、公園のベンチで星空を見上げる夢が、ベッドから吊るした星を見る場になったりと、演出は手堅い。[映画館(字幕)] 6点(2009-08-14 11:53:17)

39.  白い風船 あくまでおつかいに出た少女の心理に寄り添いつつ話を進めていき、ラストでパッと三人称になる手際。ある意味では残酷だが、しかし少女の世界がパッと開けて、仕立て屋の徒弟やら兵士やら風船売りやら都会で独りぼっちで暮らしていた周囲の星々が輝き出す、という感じ。もしかすると彼らの対極にあるのは、家で怒鳴っている父親(とうとう姿を見せない)なのかもしれない。第三世界の映画というと「家族の愛」とか「地域の親和」とかのテーマを読み取りがちだが、「都会の孤独」だってやっぱりテーマになるのだ。大人の社会に触れる子ども。おばさんには愛想よかった仕立て屋が、子どもだけになると無視する。大人は大人の客とのケンカで頭がいっぱい。そして変なオジサンっぽい相手には用心しなくちゃいけないし。そういう緊張があって初めて、子どもたちがガムをくちゃくちゃやり、目を見かわし、なんとなく笑ってしまう、なんてスケッチが生きてくるわけだ。[映画館(字幕)] 7点(2009-08-11 11:56:23)(良:1票)

40.  シクロ 最初はリンタクに靴みがきでデ・シーカの世界に近いのかと思っていたら、何かギラギラしたものが出てきて、どちらかと言うと初期の大島渚か。俯瞰。この世間を離れた裏稼業のやくざの目で、あくせく働く表の庶民を俯瞰している。近代的なビルが建ち並ぶ下を、健全なシクロ一家が抜けていくラスト。おそらくそれに嫉妬する無垢な少年時代の「詩人」が見下ろしているという感じ。構造自体はグレかけたけどグレなかったのと、グレたのを恥じつつ死んでいくのと、というオーソドックスなものだけど、その彼らのまわりで「現代」がぐんぐん広がっていく圧迫感が描かれていた。タイヤの空気入れの仕事してるじいさんのとこに、まちがって体重計が届き、ならこれで商売してみようか、なんてエピソードがいい。あと、ベトナムにだって変態はいるんだ、ってこと。ああいうのはとかく高度資本主義社会のひずみとかで片づけられるけど、人の社会があるところ変態はちゃんといるんです。女親方の顔もよかった。それと色に意味づけがあったみたいで、黄色、赤、青などが象徴的に画面を彩る。熱気がこもってて表面はひんやりしている怖さ、みたいのがある。[映画館(字幕)] 6点(2009-08-01 11:57:32)

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