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1. チャップリンの黄金狂時代
《ネタバレ》 前半で社会批評、後半でメロドラマ的要素と、二段構えになっているのが多いね、この人。争っている猟銃の銃口が常に逃げ回るチャップリンを追っているとこ、ズボンをステッキで引っ掛けながらのダンス、相手を倒したと思い込み意気揚々と引き上げるとこ、傾く家から飛び出すタイミング、などなどで笑ったが、極限状況を笑うとはどういうことなのか。単純に食卓と靴という組み合わせのシュールリアリスティックな面白味がある。それも上品なマナーで食べるおかしさ。悲惨と滑稽が隣り合わせなのは、何も極限状況に限らないのかも知れない。相棒の目に鳥に映ってしまうって悲惨の極みの恐怖だが、そう見えてしまう人間の弱さは私たちの日常にもともとあるような気がするし、「極限状況」ってのはそれを拡大するレンズなんだろう。自分の弱さを笑えるのは、人間の貴重な利点だ。[映画館(字幕)] 8点(2012-09-16 09:26:16)(良:1票)
2. 忠次旅日記
子分が強盗になっているのを知った忠次の苦衷。活劇としてよりも日本風悲劇としてのトーンが満ちている。悲壮さへの誘惑もある。大きな樽を入れた構図、暖簾を分けて立つ娘お粂、など印象深い。呼びかける声がだんだん大きくなるのは、そのまま字幕が大きくなることで表現される。フィルムの断片だけが発見された「信州血笑篇」の方は、どうも気分がつながらなくて困ったが、「御用篇」はかなりまとまった部分が残されたので大丈夫。戸板に乗せられたまま夜の川を渡るあたりの悲壮の極み。日本映画は敗者への共感を描くと特別味わいが深まるんだ。伏見直江(ポスターには「新入社」と書かれていた)が密告者を調べる蔵の中のシーン。これはサイレントならではの緊張ある場面で、名前を呼ぶ字幕と影のある顔とのリズムがだんだん切迫していく。で最後の捕り物。ここが残ったので、作品の活劇としての味わいがうかがえた。上下に動く蔵の戸を、開けよう・閉めようとしている争いを内側から眺めるカット。隙間から見える足だけの活劇というアイデアだが、アイデア倒れになっていなかった。追い詰められ密閉された場所での覚悟が画面をうずめる。おそらく三部作全編を通して観られれば、滅びへ向かう巨大な下り斜面が見えてくるのだろう。フィルムの欠損部分でリズムを崩されるのがすごく気になるってのが、オリジナルのリズム感の洗練を思わせる。[映画館(邦画)] 8点(2011-12-30 10:59:21)(良:2票)
3. 血と砂(1922)
この監督は活劇で名を成した人のはずなのに、闘牛シーンがぜんぜん面白くなくて、盛り上がらない。あるいはいいところをカットされた版で見てしまったのか。イタリア系であるヴァレンチノの異国情緒をかもすスター性にだけ頼った映画。しかしただ美貌だけをウリにしてたスターってのは、時代が過ぎてしまうと辛いものがある。すねた不良って感じを含んでるところがウケてたのか。ヴァレンチノって同時代の日本のオペラ歌手藤原義江にちょっと似てることを発見した(って言っても若い方は知りませんか。溝口の初期のなんかにも出てる人。こんな名前だけど男よ)。藤原義江も異国情緒の人だったし、時代のそういうエキゾチック趣味を確認することはできた。[ビデオ(字幕)] 5点(2008-02-26 12:16:15)
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