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【製作年 : 2010年代 抽出】 >> 製作年レビュー統計
1. とらわれて夏 《ネタバレ》 ケイト・ウィンスレットのどうしようもないくらいの中肉中背具合に、 あのぼろぼろのブロンドの巻き髪が包む疲れきった表情、 昔は美人であっただろうという、いかにも田舎の年増の女具合が絶妙なんだな。 それというのも、あの冒頭の寝起きに息子と一緒に鏡に映り込んだ姿が、その息子との対比もあってか、 やけに浮き彫りとなって、ああ正にそれだと思わせる。 そしてジョシュ・ブローリンは、髭を蓄えて登場する最初は、 いかにもアウトロー感があるが(登場の仕方が好い)、 別人が演じている回想を抜きに想像しても、いかにも堅く誠実な男を思わせる匂いを放ち、 また髭を剃り落とし、髪の毛も整えれば、正にその通りの男になる(その登場も好い)。 しかもだ、てきぱきと料理を作り、タイヤの交換をし、日曜大工仕事までも難なくこなす。 そしてまるで実の息子のようにヘンリーと打ち解ける。これらの描写がもう絶妙なんだな。 ジェイソン・ライトマンは、こういう人物が放つ、その人物の匂いみたいなもんを的確に導き出し、 そして切り取ることに非常に長けているんだろうな、きっと。 そのライトマンの冴え渡り方は、別に人物描写だけではなくて、冒頭のタイトルバックからの、 横移動でのあのボロ一軒家の見せ方ではっきりわかる。 この家で起こる何かというサスペンス性が確実にある、あのショットは。 的確なショットと的確なモンタージュは映画の「リズム」を作る。 「リズム」を刻めば映画は兎に角弾んで面白い。 3人でピーチパイを作るシーンの得体の知れない感動は後々になり再び呼び起こされる。 アデルの「A」、時間を越えて、必然か偶然か、想いは伝わる。 これが映画の「リズム」だと思うのだ。 これはアメリカ映画それもメロドラマの正統な継承であるというところだろうか。 更には繊細な視線劇でもあって、特に息子ヘンリーの視線、 大人への憧憬が繊細かつ見事に描かれているわけで、 というかヘンリーが軸なわけで、まぁ好い。 好いというか、もう感嘆した。素晴らしい。[映画館(字幕)] 9点(2014-05-04 22:44:47)(良:1票) 《改行有》 2. トゥルー・グリット 《ネタバレ》 父の復讐という正当さを盾にしようとも、幾つもの骸を生み出す契約を結んだ彼女に、契約の代償という名の矛は突き刺さるのは当然であり、またそれを受け入れること、それを受け入れた力強さこそが、あのラストショットの背中なのだ。 彼女が蛇に咬まれた以降こそがこの映画で最も重要であることは誰にでもわかるだろう。彼女はコグバーンに馬に乗せられ、幾つもの骸を見つめ、峠を越え、そして愛馬をも失う。果たして復讐とは一体何なのかと自問自答するのだ。正当な交渉と契約をも無効にしてしまう復讐に意味はあったのであろうかと。 しかし過去は取り返せない。復讐を果たした彼女の宿命、それは片腕を失い、孤独となり、また過去の戦友と再会することをも許されない。それでも彼女は凛と力強く歩いて行ける。そんな彼女をいつまでも見守っているかの様にコグバーンの墓石が彼女の背中を見つめている。この時のショットの力強さに圧倒され、この力強さにはイーストウッドと似たものを感じた。[映画館(字幕)] 8点(2011-04-13 11:27:56)(良:6票) 《改行有》 3. 時をかける少女(2010) 《ネタバレ》 走るという運動の美しさに勝る運動は映画においてはないんじゃないかって毎度のことの様に思うのだけど、やっぱりこの映画を観ててもそれはそうで、あかりが駆けると、それは何やら美しくて泣けてくるもんだ。 そもそも映画における感情とか物語とかありとあらゆるそれらの整合性にあんまし興味がない自分としては、この映画のあまりにも割り切った出鱈目っぷりが好きで、それはあかりが合格発表の時に鞄の中からありとあらゆるものをぶちまけたにも関わらず次のカットではそんなの無視して立ち上がちゃう。何を描きたいか、今何を見せるべきなのかに重きを置き、あの鞄から出したあれらどーしたんだということなど、まぁそれはジャンプカットってことで繋がるってことでいいでしょと、すっとぼける。あそこで鞄にあれらを戻すショットを入れていたなら、あかりの感情は半減してこちらに届いていただろう。冒頭からその出鱈目っぷりさが目につき、これはそういう映画なのだと納得したのだ。 そしてラストはいい。亮太が作った映画のラストショットがあかりの背中だったのに対して、この映画のラストショットは背中を見せたあとの正面、更にはクロースアップのストップモーション。後ろとは亮太からの視線、つまり過去からの視線だ。前からの視線、それはあかりのこれからを予感させる視線。つまりラストショットの彼女の素晴らしい笑顔のストップモーションは、きっと素晴らしいであろう彼女の未来を予感させてくれるのだ。つまりたったふたつのショットであかりの未来を描いている。[映画館(邦画)] 6点(2010-04-12 01:03:49)(良:1票) 《改行有》 4. トロン:レガシー 《「トロン:レガシー」に見る3D映画》 CGと3Dという「トロン」にとって最高の素材が整ったであろう今、続編を作る意義はわかる。しかし、これを全く聞いたこともないジョセフ・コシンスキーとかいう新人監督に撮らせたことは疑問だ。また脚本の2人はテレビドラマの「ロスト」などの脚本を手掛けているようだが、何故その2人なのかも疑問だ。展開と情感を会話とフラッシュバックに任せるのはいいが、それが全く駄目という下手糞さは退屈な時間で、無駄に映画を間延びさせる。現実世界を2D、ゲーム内を3Dと使い分けるというのは3D映画として正しい姿勢だと思うが、この3D感の無さ、使い分けの駄目さは何だろう。めっちゃ3D!って感じにしなければ、この使い分けの効果など無効になる。ただこういった使いわけ故に3Dのみ上映にした勇気は買うが、まぁ失敗だな。 3D映画に求めるものというのは、大概の場合が飛び出して来る何かだ。本編上映前の「パイレーツなんチャラ」の予告編では扉を突き抜けてくる剣が見事に飛び出して来た感があった。確かにそれもいいが、3Dってそれだけじゃない。「アバター」の冒頭近くの宇宙船か何かの中のシーンで、手前、浮遊する人物、奥、という奥行き感が半端なくてこれは立体映像だと思えた。今回実写3Dを観て改めて思うのは、やはり立体感を出すのに、ボケ過ぎは駄目だということ。2Dの映画におけるボケとピントがきている箇所というのは、立体感や奥行き、そしてそこを見せたいという作り手の意図だ。そういった作り手の意図を、3Dでは飛び出ている部分と奥の部分で表現出来る。その時に奥がボケているというのは3Dにおいては意味がないというか、立体感を損なう要素になる気がする。本作にはそういった奥行きを活かした部分は皆無と言って過言ではない。個人的には飛び出してきそうな何かでなく、そういった奥行きとしてどういう表現になるのかに期待しているんだが、もしかしたら3D映画の見方としては的外れかもしれない。 そして現時点で実写3D映画はCGありきであって、早く奥行きを駆使した実写のみの3D映画が観たいが、まぁ無理だな。 詰るところ本作を観て改めて思うのは、実写の3D映画に今後も期待などしても無駄だと。だからこそ「トイ・ストーリー3」と併映された本作同様に2D・3Dを織り交ぜた短編「デイ&ナイト」は観ておくべきだったと後悔している。[映画館(字幕)] 3点(2011-01-03 18:13:32)《改行有》
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