みんなのシネマレビュー |
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1. 犯罪都市 THE ROUNDUP 韓国が誇る世界的豪腕俳優、マ・ドンソクが、ビジュアル的な印象そのままに腕っぷしのみで凶悪犯を叩きつける型破りな刑事を演じるアクション映画第二弾。 前作の流れや脇役・端役のキャラクターたちもそのまま踏襲し、二作目にして“ジャンル映画”としての立ち位置を確立している。 このあたりのテイストが、昭和時代に量産された日本のジャンル映画の娯楽性ととても類似してて、昭和娯楽映画好きとしては大変楽しい。時代が違っていれば、日本の警察組織やヤクザ組織から菅原文太や高倉健が登場しそうだ。 世界的に“アクションスター”というポジションが軽視され、脇に追いやれ気味である昨今、個性的にすぎるキャラクター性を発するマ・ドンソクという俳優の存在感は、やはり唯一無二であり、貴重だと思える。 今作でもそんな豪腕俳優が、文字通り所狭しと暴れまくる。ベトナムの狭いアパートの一室での攻防や、路線バス内での最終決戦など、この俳優の巨躯に対して敢えてあからさまに狭い舞台設定をチョイスしているのがまた面白い。 とはいえ、主人公自身はあくまでも所轄の警察署の一刑事に過ぎないので、対峙する悪役も超凶悪ではあるけれど、それほど巨悪というわけではない。故にストーリー的にも極端に大仰にならないことが本シリーズの特徴でもあろう。 ストーリーを振り返ってみれば、所轄刑事と地元のヤクザものとの丁々発止に終止するのだけれど、鑑賞中はそれを忘れさせる「圧力」に圧倒される。 無論その「圧力」は、主演俳優のそれがそのまま映画世界全体に反映されていることに他ならない。 シリーズ作も続々製作されているようなので、豪腕俳優の活躍をまだまだ楽しみたい。[インターネット(字幕)] 7点(2024-09-08 23:46:35)《改行有》 2. バニー・レークは行方不明 《ネタバレ》 長年観たかった映画をようやく鑑賞。兄妹の哀しき異常性がおぞまくしも切ない。[CS・衛星(字幕)] 8点(2024-08-16 23:46:10) 3. ハート・オブ・ストーン 終始一貫して、スパイ映画シリーズの“米英の両巨塔”のいくつもの過去作、あらゆるシーンのオマージュ、焼き直し、丸パクリのオンパレードではあった。特に、もはや「神」と化したAIを巡る攻防は、「ミッション・インポッシブル」の現在公開中の最新作そのままだったとも言えよう。 ただ、全編通して“二番煎じ”ではあったが、繰り広げられるアクションシーンの質は総じて高かったと思う。 そして、何と言っても、我らが“ワンダーウーマン”が、相変わらず強く、美しいので、良しとしたい。 Netflixのオリジナルアクション映画において全般的に言えることだが、良い意味でも悪い意味でも感じる“ライトさ”は、インターネット配信で楽しむには、個人的にちょうどいい。 これが、紛れもなく重厚で面白い娯楽大作の傑作であったとしたら、映画ファンとして劇場公開されないことを口惜しく思うことだろう。 僕自身が子供の頃は、週末のロードショー番組で放映されるアクション映画やSF映画を、特に何も考えずに気楽に観ていたものだが、Netflixオリジナルの娯楽映画はちょうどそんな感じがする。 週末の余暇時間に、特に期待せずに観始めて、「意外と面白かったな」とエンドロールを迎える。それくらいの映画がちょうどいい時もある。[インターネット(字幕)] 6点(2023-08-20 00:33:26)《改行有》 4. バービー(2023) 小学6年生の娘はブルーやグリーンが好き。小学3年生の息子はピンクやイエローが好き。 自分の好きな“色”に対して、子どもたちが違和感を持つことはないし、親の僕自身も好きな色を選べば良いと心から思うけれど、一方で、こうやって敢えて言葉にすること自体が、僕自身が古い価値観を抜け出しきれていない証明なのだろうとも思う。 ただ、時代の変遷とともに移り変わり様変わりする価値観そのものを「古い!」と言って一概に否定したり、拒否したりすることは容易なことだけれど、あまり意味のないことだとも思う。 なぜなら、一つ一つの価値観には、それぞれの時代や環境において、何かしらの「意味」と「役割」を持っていただろうから。 本作の主題である“バービー人形”は、その顕著な事例であり、価値観という概念を象徴するものだったのだと思えた。 それまで少女たちの“ままごと”の子守相手に過ぎなかった人形が、バービー人形の登場により、夢や理想を投影する存在となった意味。 そして、少女(=女性)たちに、“定番”の夢と理想を与えて、“現実”から目を背けたかった意図。 なぜ少女たちは、金髪の白人人形に自らの夢を投影したのか、なぜ女性たちは非現実の世界に逃げ込まなければならなかったのか。 そこには、「功罪」が等しく存在していて、一方的な否定も肯定もできないと思う。 時代の変化、社会の変化に伴い、価値観の象徴であるバービー人形の存在意義そのものが問われることは必然だろう。 ただし、だからといってそれまでの価値観をそっくりそのまま“反転”できるかというと、無論そうではない。 「時代が変わった」「価値観が変わった」とただ声高に叫んで、バービーたちの女性社会を、ケンたちの男性社会に逆転させてみたところで、本末転倒で結局何も変わらないということ。 本作の最も素晴らしいところは、そういったこの世界の“価値観”の今現在の有り様に対して、極めてフラットな視点に立ち、そのことを偏った価値観の象徴であった“定番バービー人形”の変化の中で顕わにし、笑い飛ばしていることだ。 “定番”であり、世界の女性たちの夢と理想の権化であると信じていた“彼女”が、いつの間にか古臭い旧時代の女性像の象徴であると突きつけられるシーンは、つまるところ、今この瞬間に是とされている価値観すら常に変容していくものだということを物語っていると思えた。 いつからか世界は「完璧」を求めすぎている。 それは決して皆が一様に完璧な自分になりたいわけではなく、完璧でなければ許容されない現代社会の風潮に振り回されているからだろう。 そして、その“風潮”自体にも、必ずしも真っ当な信念があるわけではなく、ただ耳障りのいい“トレンド”に過ぎないことが、この世界の悶々とした息苦しさに繋がっているように思える。 本作は、ピンク一色のイカれた世界観の中で、浅はかな見識や無責任な正義感によって、“ポリコレ”や“ジェンダーレス”という言葉の嵐に振り回される現代社会に対する痛烈な批評性と風刺に満ち溢れていた。 “バービー人形”の中に、今この瞬間の世界で描き出すべきテーマの本質を見出し、映画化を実現し、この狂気的な映画世界の中で終始“バービー”としての存在感を貫き通したマーゴット・ロビーが、映画人として、女優として、そして一人の現代人として、本当に素晴らしい。[映画館(字幕)] 8点(2023-08-18 23:18:01)《改行有》 5. 花束みたいな恋をした 《ネタバレ》 この2年あまりの間、いつ観ようかいつ観ようかとずうっと思いつつも、そのタイミングを逸し続けていた恋愛映画をようやく観た。 巷の評判から想像はしていたけれど、やっぱりものすごく堪らない映画だった。 公開当時、最初にこの映画の予告をテレビCMで観たときは、何とも甘ったるいタイトルと、人気の若手俳優を配置した安直なキャスティングに対して、なんて安っぽい映画なんだろうと嘲笑してしまった。 実は個人的に、菅田将暉と有村架純という本作の主演俳優の両者をあまり好んでいなかったこともあり、全く興味を持てなかった。 ただその直後、脚本が「最高の離婚」「カルテット」他数多くのテレビドラマの傑作を生み出している坂元裕二であることを知り、各方面からの評判が耳に入ってくるようになり、次第に「あれ、まずいな」と思うようになった。さてはこれは「未見」は不可避な作品なんだろうと。 そうして鑑賞。僕は結婚をして12年以上になる。「恋愛」という概念からはもう遠く離れてしまったれっきとした中年男性の一人としても、本作が放つ短く淡い輝きは、儚く脆いからこそ、忘れ難いものとなった。 最初のシーン、カフェに居合わせた主人公の二人が、同じ価値観のもとにある行動を起こそうとしてふいに目を合わせる。 そのさまは、誰がどう見ても恋の“はじまり”に見える。 そこから紡がれる二人の5年間の恋模様と到達点が、美しく、切なく、愛らしく描き出される。 決して、特別な恋愛を描いた作品ではない。 本作の終盤でも描き出されるように、世の中のあらゆる場所、あらゆる時代において、まったく同じように若い男女は出会い、花束みたいな恋をする。 ただし、その恋は、両者の成長や変化と共に形を変え、次の全く別のステージへと両者を促す。 花束は、次第にしおれて枯れてしまうこともあろうし、別の場所で根をはることもあろう。 彼らの道のりはとても美しかった。あと一歩だった。 それ故に、あまりにも瑞々しくて輝かしい新しい“花束”を目の当たりにしたとき、もうあの時と同じには戻れないということを思い知り、届かない一歩の大きさを痛感したのだ。 はじまりは、おわりのはじまり。 有村架純演じる絹は、自らの恋のはじまりに、その言葉を思い浮かべる。 菅田将暉演じる麦は、自らの恋の終わりのその先に、ささやかな奇跡を見つける。 そう、この映画の終わりが、“おわり”なのか“はじまり”なのかは、実は誰にも分からない。[インターネット(邦画)] 9点(2023-05-22 10:59:04)(良:1票) 《改行有》 6. 犯罪都市(2017) “張り手”一つで傍若無人なヤクザどもを制圧するという説得力。 こんな刑事を演じられるのは、世界を見てもマ・ドンソクしかいないだろう。 文字通りの圧倒的な“腕っぷし”を唯一無二のアイデンティティとして、韓国映画を飛び出して世界的にも愛され、ついにはMCUにも進出したこの俳優の魅力を存分に堪能できる作品だった。 2004年に実際に起きた事件を題材にした、まさに韓国版「県警対組織暴力」。 実録的な映画世界だけあって、描き出される登場人物たちの描写が、警察側もヤクザ側も絶妙に生々しく、滑稽な様が、映画としての面白味を生んでいる。 韓国映画総じて言えることだが、演じる俳優たちの顔つきの実在感が、映し出される世界の空気感のリアルを生み出しているだとも思う。 時に目を覆いたくなるバイオレンス描写も繰り広げられる中で、ドカンと構える主演俳優マ・ドンソクの存在感のみが圧倒的な娯楽に振り切っていて、ちょっと他の犯罪映画や暴力映画には無いエンターテイメント性に繋がっている。 凶悪なヤクザの面々を豪腕で叩きつけつつも、女性や子供には弱く、どこかドジでおっちょこちょいなマ・ドンソクそのものを愛でるべき作品だろう。 昨年公開された続編も早速観ようと思う。[インターネット(字幕)] 8点(2023-03-03 23:55:21)(良:1票) 《改行有》 7. バビロン(2022) “映画史”そのものが混濁とした映像の渦となって映し出されるラストシーン。 映画という表現の「革新」と「核心」を目の当たりにして、積年の感情が満ち溢れる主人公を大写しにしたラストカットで、スクリーンに映写された画面がぴたりと止まった。 3時間に渡って映画がもたらす魔法と虚構、そして狂気を見せつけられてきた私は、その“フリーズ”状態に困惑しつつも、デイミアン・チャゼル監督による何らかの意図だと信じ切って、体感にして10分以上、そのまま静止したスクリーンを観続けた。 暗がりの中、他の観客がみな席を立ち、ひとり取り残される格好となっても、その真意を探ろうと、映画世界を思い返しながら、微動だにせず凝視していたところ、おずおずと劇場スタッフが現れた。 なんと、映画館側の映写トラブルだった。 映画館に通うようになって30年以上経つが、こんな経験は初めて。こんなことが、この映画の、このラストカットで発生するとは。 無論、映画館側の失態であることは明らかで、今後無いようにしてほしいが、これはこれで稀有な映画体験だったと思う。残念な気持ちも無くはないが、何かの奇跡が働いて、イカれた映画世界に取り残されてしまったような感覚も覚えた。 「世界で最も魔法に満ちた場所」 ブラッド・ピット演じる無声映画時代の大スターは、映画製作の現場(セット)を「世界で最も魔法に満ちた場所だ」と言う。それは、本当に間違いないことだ。 どれほど狂気と非常識が渦巻いていても、フィルムに写し込まれた虚構がもたらす感動が、そのすべてを凌駕する。 その様はやはり「魔法」という言葉が相応しい。 だがそれが「魔法」である以上、非情な“リミット”と共に解けてしまうことも必然。シンデレラは夢のような一夜の後、冷酷な継母の元へ戻らなければならない。 まさしく栄枯盛衰。本作が、かつてメソポタミアに存在した世界最大の古代都市の名称を冠されていることは、そのあまりにも盛大な虚構の儚さを、ダイレクトに表している。 だがしかし、だ。 たとえ魔法のような“一時”であったとしても、そこで輝くことの業と意義を、この映画は奇声のごとく叫ぶ。 ゴシップ誌の記者が諭すように、一瞬だろうとなんだろうと、一度フィルムに焼き付けられた輝きは、時代を超えて残り続け、生まれてもいない見ず知らずのどこかの誰かに感動を与え続ける。 そう、それが「映画」なのだと。 冒頭のイカれたパーティーに象徴されるように、正直、というか絶対的に、“綺麗”な映画ではない。 “文字通り”クソとゲロに彩られた汚物まみれの映画であることは間違いない。 作品的も支離滅裂な要素が多々あり、全世界的に渦巻く賛否両論も多分に理解できる。 でもね、その汚物まみれの映画世界を描きぬいているからこそ、これほど“映画愛”に満ち溢れ、逆流しているような映画も他にないと思える。 「映画」を構築するすべてが、嘘や欺瞞、虚栄と虚構で成り立っているという本質を、この映画に登場するすべての人物、作品の作り手、そして我々鑑賞者の全員が「理解」している。 それでも、私たちは、映画を作り続け、映画を観続け、映画を愛し続ける。 「映画」はクソだ!でも、なんて素晴らしい! “奇跡的”にも、時間が静止した10分間のラストカットで、私はその映画愛にまんまと侵食されてしまったようだ。[映画館(字幕)] 9点(2023-02-19 06:51:10)《改行有》 8. 花と嵐とギャング 「バカヤロー」と高原の只中で叫ぶ高倉健の悲しみとも喜びとも受け取れる表情で本作は終幕する。 正直、唖然としてしまうというのが健全な印象だと思う。 おおらかというか、テキトーというか、1960年代の昭和真っ只中の国産娯楽映画のエネルギーが、良い意味では満ち溢れ、悪い意味ではダダ漏れしている。 鬼才・石井輝男監督作で、端から「喜劇」と割り切っている作品なので、破天荒なストーリーテリングに対して真剣にダメ出しをするのは野暮だろう。 登場するギャングの面々の滑稽さも含めて、ハットとスーツに身を包んだその佇まいを堪能するべき作品だと思う。 ただ、とは言っても、あまりにもキャラクター造形やストーリー展開がおざなりには見えてしまい、娯楽映画として「楽しい!」とは、中々思えなかった。 主演の高倉健、鶴田浩二の当代きっての二大俳優は、その風貌は流石に渋く、格好いいけれど、演じているキャラクターの人間性が浅く、魅力的に思えなかった。 そういう演出なのか、意図的な演技プランなのか判別がつかなかったが、彼らの演技自体もあまりにも“大根”で、終始半笑いを禁じ得なかった。 まあそれらも含めてキュートに感じたり、60年以上前の時代を感じて、カルト的な楽しみ方をする作品なのだろう。[インターネット(邦画)] 3点(2023-01-07 23:07:51)《改行有》 9. バイオレンスアクション チープなアクション表現と、安っぽくて素人臭いカット割りに編集。冒頭数分のシーンのみで、絶望的な「これじゃない感」を感じると共に、「駄作」であることを確信した。 既刊の単行本を前作保有しているれっきとした原作ファンとして、このあまりにもお粗末な映像化は噴飯ものだった。 そもそも本作の制作陣は、この原作漫画の魅力を全く理解していない。 ピンク髪のゆるふわカワイコちゃん銃を振りかざしてアクションを繰り広げればいいと思っているようだが、まったくもってお門違いだ。 主人公ケイを実写化するに当たって、最も注力すべきは、そのビジュアル的なキュートさ以上に、溢れんばかりの狂気性とサイコパス性だ。 ケラケラしながら「現場」にデリバリーされ、まるで散歩でもするかのように苛烈な“殺し”を遂行するその異常な様こそが、原作漫画の醍醐味であり、ヒロインの魅力だろう。 タイトルが端的に示している通り、ゆるふわの描写の中で急角度に挟み込まれる“バイオレンス”が、この作品の核心でなければならなかったと思う。 そういった表現が殆ど皆無なまま、アイドル女優による只々ゆるいばかりのアクションを見せられては、原作ファンとしてがっかりせずにはいられなかった。 百歩譲って、上映規模の問題から、バイオレンス描写を抑えてレイティングを広げなければならなかったのだとしたら、せめてアクション描写のクオリティは一定以上のレベルを備えてほしかった。 昨今、「ザ・ファブル」や「ベイビーわるきゅーれ」等、同じく殺し屋が主人公の国産アクションの良作が生まれ続けている中で、本作のレベルの低さは明らかに制作陣の怠慢だろう。 漫画よりもマンガみたいなバカバカしいアクションシーンの羅列、滑りっぱなしのギャグ描写、期待していた映画化が散々な仕上がりであまりにも残念。 この映画化は無かったことにして、Netflixあたりで遠慮なしのバイオレンス映画に再挑戦してくれないかなと、希望を持ちたい。[インターネット(邦画)] 2点(2022-12-24 17:48:40)《改行有》 10. バットマン・フォーエヴァー 個人的に初めて観た「バットマン」の映画は、本作の直接的な続編である「バットマン&ロビン Mr.フリーズの逆襲」だった。1997年に映画館で鑑賞したあの映画は、イロイロな意味でどうかしている作品で、当時高校一年生だった僕に、偏ったバットマンのイメージを植え付けてしまった。 その結果、前作であった本作はおろか、ティム・バートン版の2作品も観ることなく、2005年のクリストファー・ノーラン監督作「バットマン ビギンズ」が公開されるまでバットマンに触れることは無かった。 そして更に時が経ち、ティム・バートン版に触れつつ、ノーラン監督の三部作を終え、ベン・アフレックがバットマンとなった「ジャスティス・リーグ」を経て、今年また新たなバットマン映画が公開される矢先に、ようやくこの「フォーエバー」の鑑賞に至った。“Mr.フリーズ”から実に25年、無駄に感慨深い。 僕の中では“残された”バットマン映画だったが、率直な感想としては、今まで鑑賞に至らなかったことを少し後悔するくらいに、魅力的な娯楽映画だったと思う。 クリストファー・ノーランが描いたバットマンや、サム・ライミが描いたスパイダーマン以降のアメコミ映画ファンとしては、良い意味でも悪い意味でも極めて“マンガ的”な本作のテイストは、一周回ってフレッシュで、ヒーロー映画の原点を観たような感覚さえ覚える。 監督こそ異なるが、一応はティム・バートン版からの流れを汲むシリーズ3作目という位置づけもあり、余計な説明描写は差っ引いて、冒頭からいきなりメインのヴィランとの攻防を描く展開が、アクセル全開という感じで小気味いい。 各アクションシーンを彩るケレン味たっぷりの美術や装飾も90年代のヒーロー映画の味わいを象徴しており、シンプルに観ていて楽しい。 そしてなんと言っても、キャスト陣がみな良かったと思う。 先ずは、トミー・リー・ジョーンズ&ジム・キャリーが演じるヴィランズのイカれっぷりがサイアクでサイコー。それぞれのキャラクターがヴィランに落ちた経緯やバックグラウンドなんてそこそこにして、名優二人が嬉々として狂人を演じるさまが素晴らしかった。 ヒロインを演じるのは、こちらも大女優ニコール・キッドマン。当時既にスター俳優だったとは思うが、その風貌はまだまだ瑞々しく、麗しいヒロイン像を体現していたと思う。 そして、個人的に最も不安視していたのは、バットマン役に抜擢されたヴァル・キルマーだったけれど、想像以上にバットマン=ブルース・ウェインというキャラクターにマッチしていたと思う。 本作では、ヒーローとヒロインのキスシーンが繰り返し映し出されるけれど、それも納得のセクシーな口元が印象的だった。何故次作の「Mr.フリーズの逆襲」ではバットマン役が交代になったのか、少々疑問が残る。 と、想定外の満足感と共に鑑賞。この流れで「Mr.フリーズの逆襲」も25年ぶりに観てみようかな。[インターネット(字幕)] 7点(2022-03-13 01:07:03)《改行有》 11. ハウス・オブ・グッチ “GUCCI”を手にしたことも無い僕は、本作の鑑賞後、このブランドが辿ってきた歴史を取り急ぎググらなければならなかった。 それは、映画が描き出したストーリーの背景が分からなかったというよりも、“GUCCI”というブランドにまつわるあまりにも苛烈で悍ましい人間模様に対して興味を抑えることができなかったからだ。 「HOUSE OF GUCCI」 そのタイトルの通り、この映画は、壮絶にして残酷な“或る家族”の物語だった。 「事実に着想を得た物語」と冒頭にクレジットされていたが、エンドロールを迎え、この映画が描き出された顛末のどこまでが「事実」なのかと戸惑いと驚きを隠せなかった。 手にしたことがなくとも、「GUCCI」というブランド名は、無論世界中の誰もが知っている名称であり、個々人の趣向に関わらず、一つのステータスの象徴だろう。 そんな世界的ブランドの創業家において、これほどまでに衝撃的な御家騒動が巻き起こり、文字通りの“崩壊劇”を経ていたとは。しかもそれが、80年〜90年代という極めて近しい時代の出来事であることに愕然とした。 殺人という明確な「重罪」をも含めたこの壮絶なスキャンダルを、すべての固有名詞を実名で描ききる豪胆さ。 この手のノンフィクション的な物語に対するアメリカの映画産業は、常に意欲的で、その強さを改めて思い知った。 そして、当のGUCCIは、作品に対して“猛反発”をしているとは言うが、それでも間接的に許容していなければ、劇中のすべての固有名詞、そして必然的に映し出されるブランドの製品、デザイン、アイコンを使用することは不可能だろう。 そういう意味では、本作に対する現在のGUCCIの世界的ブランドとしての気概と、過去の歴史との“決別”に対する強い思いも感じる。 御年84歳の大巨匠リドリー・スコットのクリエイティビティは、衰え知らずというよりも、ここにきて益々冴え渡っているようにすら思える。 一つの家族における暗鬱とした人間模様を、いたずらに重くしすぎることなく、ドライに、ユーモラスに、エキサイティングに、圧倒的なエンターテイメント性を孕みながら創造している。 そこに集ったオールスターキャストも、華やかであると同時にあまりにも愚かな“親戚一同”を表現しきっている。 その中でも特筆すべきはやはりレディ・ガガだろう。 現実に起こったこの華麗なる一族の崩壊劇の中で、唯一無二の「悪女」として人々に記憶されているパトリツィア・レッジアーニという女性。 すべての“元凶”とされた彼女が主人公であるこの映画世界の中で、演じたレディ・ガガは、あらゆる意味で「支配」しており、圧巻の演技を見せている。 冒頭の登場シーンから、ラストの「グッチ夫人と呼びなさい」まで、表現者としてのその支配力は圧倒的だった。 最終的に紛れもない「重罪」を犯したこの女性に対し、擁護の余地はないだろう。しかし、すでに凋落の一途を辿っていたグッチ家にとって、パトリツィアという一人の女性の存在は、避けられない分岐点だったように思えた。 パトリツィアがもたらした功罪によって、結果的にグッチ家は崩壊したが、何かが少し異なれば、全く別の顛末もあったのかもしれない。 一族の崩壊の中心に存在した悲しき“夫婦”。 冒頭のシーンでは、燃え上がる愛情の赴くまま壁に叩きつけるような激しいセックスを見せる。そして時が経ち、今度は冷え切った愛情の表現として、夫は妻を壁に叩きつける。 彼らが見せたその“愛”の有り様は、あまりに無情で、心が締め付けられた。 暗殺の直前、あらゆるものを失ったグッチ家の男は、オープンテラスでエスプレッソを飲みながら何を思い、何を思い出して微笑んだのだろう。 あのセックスの激情に偽りは無かった。でも、どこかで何かを間違えてしまった。 それは、世界中のどの夫婦、そしてどの家族にも起こり得ることだろう。[映画館(字幕)] 9点(2022-02-03 21:58:43)(良:1票) 《改行有》 12. ハーレイ・クインの華麗なる覚醒 Birds of Prey 2016年の「スーサイド・スクワッド」は、その年の期待値No.1クラスのエンターテイメント大作だったけれど、率直な感想としては、「“ハーレイ・クイン”に扮したマーゴット・ロビーがサイコーなだけの映画」であり、もし彼女の存在が無かったとしたら年間ワースト級の作品として記憶されていたに違いない映画だった。 恐らくその感想は、世界中の多くの映画ファンにとっての共通認識だったようで、映画作品としての失敗をよそに、割と早い段階で、“ハーレイ・クイン”の単独映画の企画は持ち上がっていたような気がする。 そういうわけで、今作に至っては、問答無用に「ハーレイ・クインがワルくて、カワイイだけでサイコー!」な映画になるはずだった。 そして、概ね、そのような映画に仕上がっているとは思う。 映画の鑑賞中は、作品の主人公らしく終始大立ち回りを繰り広げる我らがダークヒロインの活躍を楽しく見ることができた。 ただ、エンドロールを終えて芽生えていた感情は、一抹の物足りなさだった。いや、一抹では足りないかもしれない。時間が経つほどに、二抹も、三抹も、“求めていたもの”との乖離に気づき、不満として膨らんでいる。 ある程度時間が経ち、冷静になってみると、不満の出どころは明確だった。 詰まるところ、前作「スーサイド・スクワッド」に登場した“ハーレイ・クイン”と比較して、今回の彼女はその“悪辣さ”がまったくもって希薄になってしまっている。 前作のハーレイ・クインは、もっと悪く、もっとイカれていて、だからこそそこに同居する文字通り悪魔的なキュートさが堪らなかった。 そもそもが「バットマン」に登場するヴィランズの一人であるわけだから、悪くてナンボ、イカれててナンボのキャラクターだろう。 しかし、今作では主人公らしく振る舞いすぎており、彼女の感情が露わになるほど、その魅力が半減していくように感じた。 いくら原作アメコミとは一線を画する単独のスピンオフ映画だとはいえ、キャラクターとしての性質そのものがブレ過ぎだったのではないかと思う。 ただ、彼女がそういう“らしくない”キャラクターに陥ってしまった理由も至極簡単で明らかだ。 ずばり、“ジョーカー”との破局により、恋狂う対象が不在だったことにほかならない。 “ハーレイ・クイン”というキャラクターは、立ち位置が悪役だろうが、正義の味方だろうが、主人公であろうが、先ず第一に悪のプリンス“ジョーカー”に恋し、狂っていなければ、成立しないのだ。 もしこのスピンオフ映画の企画において、昨今の映画のストーリーテリングにおける一つの潮流とも言える、独立した女性像、男に媚びない女性像、そういう類のテーマを定型的に掲げていたのだとしたら、それはお門違いで、ナンセンスだったと思う。 たとえディズニーのプリンセス映画が、「王子様不要!」「ありのままで!」と力強く氷の牙城を建てたとしても、ハーレイ・クインだけは、誰に馬鹿だと言われようと、誰に愚かなだと言われようとも、ひたすらに恋に溺れ、乱れ、破滅的に暴れまわり、ひたすらに“王子様”の愛を求める。 それこそが、僕たちが彼女に求めた「娯楽」だったのではないかと思う。 「恋愛至上主義」という生き方が小馬鹿にされる時代だからこそ、悪も正義もないがしろにして、只々惚れた男のためにバットを振り回す姿を見たかったなと。 来年(2021年)公開予定のリブート版「ザ・スーサイド・スクワッド」においても、マーゴット・ロビーは“ハーレイ・クイン”役として続投が決定しているとのこと。そして監督はジェームズ・ガン! 過剰に品行方正を求めるちょっと窮屈な時代だからこそ、ぶっ飛んだダークコメディ、そして、また悪魔的に魅力的なハーレイ・クインを観たい。[インターネット(字幕)] 6点(2020-12-06 00:30:14)(良:1票) 《改行有》 13. パターソン “パターソン”とは、バス運転手の朴訥な主人公の名前であり、彼が住む街の名前。 この映画は、“彼”と“彼が住む街”の「7日間」を極めてシンプルに映し撮っただけの映画、のように見える。 何か“特別なコト”が巻き起こるわけではない。慎ましく、平凡に生活する男と妻と愛犬の日常が、淡々と綴られる。 でもね、と、この映画を観ていた多くの人々はふと立ち止まり、思うだろう。 「“特別なコト”とは何だろうかと」 大災害に遭遇してサバイバルを余儀なくされるコト?殺人事件に巻き込まれて無実の罪で追われるコト?宇宙人襲来に脅えるコト?大恋愛をして人生を変えてしまうくらいに感情を爆発させるコト? 数々の映画的娯楽の中で表現されてきたそれらのコトは、無論“特別なコト”に他ならないだろうけれど、果たしてそういうことだけが「特別」なのだろうか。 裕福でもなく、貧困でもない普通の小市民が、何気ない日常生活を決まったルーティーンで繰り広げるということ。 決まった時間に起床し、たまに寝過ごし、妻にキスをし、シリアルを食べて出勤し、同僚の愚痴を聞き、決まったバスルートを運行し、帰宅し、妻の料理を食べ、愛犬を散歩させつつ馴染みのバーに立ち寄って、一日を終える。 そんな当たり前のことが、「特別」であるということを、この静かな映画は雄弁に伝えてくるし、今この世界の私たちは、事程左様に深く感じ入る。 そして、そんな普遍的な「生活」の中で、忘れてはならないことは何か? それは「表現」をするということだ。 「表現」とは、何もこの映画の主人公やその妻のように、「詩」を創作したり、「アート」や「料理」や「音楽」に没頭したりするような“クリエイティブ”な活動に限ったことではないだろう。 「愛してる」「美味しい」「ありがとう」「大丈夫?」「お前なんか嫌いだ」……生活の中の様々な事象に対して、ちゃんと自分の感情を相手に伝えるということ。 それが、もっとも大切な「表現」だと思えるし、そういうことを積み重ねていくからこそ、代り映えなく見える「生活」そのものが、何にも代えがたいものになり得るのだろうと思う。 半ば強制的に自らの「生活」に対して向き合わざるを得ないこのご時世。 ささやかな生活の中のささやかな喜びや多幸感を感じ、それを表現するコト。 このさざ波のような映画には、今この世界にもっとも必要なコトが満ち溢れている。[インターネット(字幕)] 9点(2020-05-02 23:26:13)《改行有》 14. パラサイト 半地下の家族 《ネタバレ》 金持ち家族に「寄生」することで、束の間の“優越感”を得た半地下の家族たちは、今までスルーしてきた家の前で立ち小便をする酔っ払いを、下賤の者として認識し、“水”をかけて追っ払う。 その様をスマートフォンのスローモーションカメラで撮りながら、軽薄な愉悦に浸ってしまった時点で、彼らの「運命」は定まってしまったのかもしれない。 世界中に蔓延する貧富の差、そして生じる「格差社会」。世界の根幹を揺るがす社会問題の一つとして、無論それを看過することはできないし、自分自身他人事じゃあない。 ただし、この映画は、そういった社会問題そのものをある意味での「悪役」に据えた通り一遍な作品では決してない。 確かに、“上流”と“下流”、そして更に“最下層”の家族の様を描いた映画ではあったけれど、そこに映し出されたものは、富む者と貧しい者、それぞれにおける人間一人ひとりの、愚かで、滑稽で、忌々しい「性質」の問題だったように感じた。 どれだけ苦労しても報われず、働いても働いても豊かになるどころか、貧富の差は広がるばかりのこの社会は、確かにどうかしている。 でも、自分自身の不遇を「社会のせいだ」「不運だ」と開き直り、思考停止してしまった時点で、それ以上の展望が開けるわけがないこともまた確かなことだろう。 そう、どんなにこの社会の仕組みがイカれていたとしても、どんなに金持ちが傲慢で醜かったとしても、この主人公家族の未来を潰えさせてしまったのは、他ならぬ彼ら自身だった。と、僕は思う。 千載一遇の機会を得た半地下の家族たちは、能力と思考をフル回転して、或る「計画」を立て、実行する。そしてそれは見事に成功しかけたように見える。 しかし、彼らの「計画」はあくまでも退廃的な“偽り”の上に存在するものであり、「無計画」の中の虚しい享楽に過ぎなかった。 “無計画な計画”は、必然的に、笑うしか無いスピード感でガラガラと音を立てて崩壊し、大量の濁流によって問答無用に押し流される。 そして同時に、己をも含めたこの世界のあまりにも残酷で虚無的な現実を突き付けられて、父子は只々愕然とする。 本当に裕福な者たちは、自らが“上流”に居ること自体の意識がない。 “下流”に住む貧しい者たちの存在などその認識から既に薄く、蔑んでいることすら無意識だ。 “臭い”に対して過敏に反応はするものの、その正体が何なのかは知りもしないし、知ろうともしない。 勿論、大量の“水”で、押し流していることに対しての優越感も、罪悪感も、感じるわけがない。その事実すら知らないのだから。 なんという「戦慄」だろうか。 そのシークエンスの時点で、観客として言葉を失っていたのだが、もはや「世界最高峰」の映画人の一人である韓国人監督は“水流”を緩めない。 「惨劇」の果てに、計画どころか「家族」そのものが崩壊し、消失してしまった父と息子は、それぞれに、「無計画」であり得ない逃避と、あり得ない希望に満ち溢れた「計画」を立てる。 すべてを失った者たちが、それでも生き抜く力強さを表現している“ように見える”描写を、この映画は、最後の最後、最も容赦なく押し流す。 父親が言ったとおり、「計画」は決して思い通りにはいかない。父と息子は、地下と半地下でその短い命を埋没させていくのだろう。 完璧に面白く、完璧に怖く、完璧におぞましい。だからこそこの映画は、完膚なきまでに救いがない。 とどのつまり、このとんでもない映画が描き出したものは、「格差社会」などという社会問題の表層的な言い回しではなく、その裏にびっしりと巣食う際限ない人間の「欲望」と「優越感」が生み出す“闇”そのものだった。 世界中に蔓延するこの“闇”に対して“光”は存在し得るのだろうか。 金持ち家族の幼い息子がいち早く感じ取った“臭い”。 彼はその“臭い”に対して、どういう感情を抱いていたのだろうか。 “トランシーバー”を買ってもらうことで自らの家族と距離を取ろうとした彼の深層心理に存在したものは何だったのか。 このクソみたいな世界の住人の一人として、せめて、そこには一抹の希望を見出したい。[映画館(字幕)] 10点(2020-01-15 21:59:02)(良:2票) 《改行有》 15. ハンターキラー 潜航せよ 昔、ある高校の同級生に好きな映画のジャンルを聞くと、「原子力潜水艦モノ」とピンポイントな返答が返ってきた。こちらとしては、“アクション映画”だとか、“ホラー映画”だとかの大別したジャンルを聞いたつもりだったので、一笑に付してしまったが、今思い返してみると、とても潔く、的を射た返答だと思える。 詰まるところ、“原潜モノ”というジャンルに区分けされる映画には、一定の娯楽性が担保されていて、大ハズレが少ない。 1981年生まれの自分の世代だと、ショーン・コネリーの「レッド・オクトーバーを追え」を皮切りに、ジーン・ハックマン、デンゼル・ワシントン競演の「クリムゾン・タイド」、そしてキャスリン・ビグロー監督の「K-19」などの骨太なエンターテイメントを孕んだハリウッド映画の印象が強い。 どの作品も、それぞれの時代背景を踏まえて、必然的な閉鎖空間の中で、艦長をはじめとする乗組員たちが選択と決断を迫られる様がスリリングであると共に、決死の覚悟で任務遂行を果たそうとする姿に極上のドラマを感じられる。 潜水艦内という空間には、物理的にも、状況的にも、そもそも緊張感や緊迫感が付随していることに加え、極めて限られた空間描写で済むという点において製作費的な負担も少なくて済むので、映画との相性が良いのだろうとも思う。 ただ状況設定が限定的な分、映画として描き出せるストーリーとしても限られていることも事実。“ネタ切れ”のためハリウッドでは長らく大作映画が作られてこなかった。 そんな中で満を持してのハリウッド産原子力潜水艦映画に対しては、“原潜モノ”ファンでなくとも、高揚感を覚えずにはいられなかった。 そして主人公の艦長役にはジェラルド・バトラー!こりゃあ暑苦しいまでの男のドラマを見せてくれるに違いないと身構えて鑑賞に至った。 まず言いたいのは、「これはしっかりと良い原子力潜水艦映画だ」ということ。 前述の定義にもれず、久しぶりに観た“原潜モノ”はやはり映画娯楽との相性が良く、全編通して存分に楽しむことができた。 ただこの映画には“想定外”の要素がいくつかあり、その点もより一層映画としての娯楽性を高めていたと思う。 まずは、ジェラルド・バトラー演じる主人公が思ったよりも「冷静」で、ちゃんと優れた艦長だったということ。 主人公のそのキャラ設定が想定外だったというのがおかしな話だが、昨今の彼の主演映画での無頼漢ぶりを見るにつけ、今作においても原潜艦長であるのをいいことに、常軌を逸した豪胆さで危機を弾き返すのだろうと高を括っていた。 しかし、今作の主人公は極めて冷静で、我慢強く、圧倒的な精神力の強さで絶体絶命の危機を回避してみせる。 驚くことに、彼がこの映画の中で、明確な“暴力”を行使することは直接的にも間接的にも只の一度も無く、ひたすらに我慢と、対話を繰り返す。(そういえば冒頭のハンティングシーンでも彼は鹿を殺していない) そのキャラクター描写は、この映画が描き出す危機に対する姿勢として極めて真っ当であり、映画としての魅力にも直結していると思う。 そしてもう一つ想定外だったのは、陸上の潜入作戦を描く“特殊部隊モノ”の要素がどーんと並行して展開されるということ。 下手を打てば、完全な蛇足ともなり得たその陸上シーンだが、これまた娯楽性が存外に高く、嬉しい“大盛り”だったことは間違いない。 原潜映画に限らず、過去の様々なミリタリー映画の要素を盛り合わせていると言えなくは無く、「傑作」とは言えないかもしれないが、はっきり言ってこれだけのものを食らわせてくれれば申し分は無い。[ブルーレイ(字幕)] 7点(2019-10-26 21:18:03)《改行有》 16. バーフバリ 王の凱旋 国内での初公開からまだ2年余りだが、もう既に、日本のボンクラ映画ファン界隈においてもマスターピースとして崇められている脅威のインド映画の完結編をようやく観ることができた。 前編(前作)の勢いそのままに、豪華絢爛ら超娯楽が縦横無尽に駆け巡る。 続編のため、基本的なキャラクター紹介が不要な分、序盤から古代インドの王国絵巻が、良くも悪くも躊躇無く豪胆に展開される。 出生が謎に包まれた主人公の成長譚と冒険譚の要素が強かった前編は、ストーリー的にはありきたりな展開ではあったが、それがまさに文字通りの「王道」そのものでもあり、インド映画ならではの絢爛で艶っぽい娯楽世界を純粋に堪能できた。 主人公が大滝を登っていく序盤のくだりや、ヒロインからの攻撃を華麗にかわしながら求愛をする様などは、エンターテイメントを超越して神々しくすらあったと思う。 続編である本作は、大河の奔流がさらに激しさを増すかのごとく、序盤から怒涛のエンターテイメントが繰り広げられる。無論、心底熱く、盛り上がることは請け合いである。 だがしかし、全編通して存在するある要素が、溢れ出ようとする高揚感を妨害し続けたことも否めない。 それは即ち、“王族たちの愚かさ”である。 特に、父バーフバリの母親である王妃シヴァガミの“惑い”と“脆さ”が目に余り、個人的には“雑音”としてすっきりしない印象を持ってしまった。 前編では、父バーフバリの一粒種である赤子を文字通り命がけで守りきり、回想シーンにおいても、慈愛と威厳に満ちた 名君主ぶりを見せてくれたシヴァガミだったが、本作では、対峙する悪しき王族たちの嫉妬と謀略にまんまと嵌り、愚かな決断を繰り返してしまう。 勿論、その王族間の陰謀と裏切りこそが本作の本筋ではあるので、そういうストーリーテリングがメインになること自体は致し方ないと思うが、前作通じてそもそもが短絡的な物語なので、謀略を巡らす側も、それに陥る側も、ただただ短絡的で浅はかに見えてしまい、愚か者というよりも、只の阿呆に映る。 結果的に、裏切りにより命を落とす父バーフバリ自身が、絶大な英雄像を誇ると同時に、能天気な馬鹿に見えてしまう。 ストーリー上、父バーフバリが絶命すること自体は避けられないだろうが、母王をはじめとする王族たちの愚かさと、裏切りをとうに認識していた上で、自ら死を受け入れる様を明確に描くべきだったと思う。 そして、本作のクライマックスでは、父バーフバリの死の残念な真相に怒り心頭の息子バーフバリが、ほぼ強引な力技で宿敵を打ち倒す。 それはそれで色々な意味で熱量たっぷりなアクションシーンだったけれど、息子バーフバリの主人公性を際立たすまでには至らず、物語の畳み方としても強引と思わざるを得なかった。 インド映画が世界に誇る圧倒的娯楽大作であることは無論否定しないし、存分に楽しい映画であることは間違いない。 おそらく、この一抹の“消化不良”は、前後編とも「完全版」を観れば、問答無用に呑み込まされるのだろう。[インターネット(字幕)] 7点(2019-08-15 01:18:11)《改行有》 17. パラノーマン ブライス・ホローの謎 「フランケンウィニー」と「グーニーズ」を掛け合わせたような娯楽性豊かなストップモーションアニメだったと思う。 丹精込めて作られているのであろう、主人公をはじめとするキャラクター造形と、その言動の一つ一つが味わい深く、この手法のアニメーションならではの魅力が滲み出ている。 今や飛ぶ鳥を落とす勢いのアニメーション制作会社ライカの力量を見せつける作品であることは間違いないだろう。 ただし、個人的には、お話的に通り一遍な印象を否めず、物語がクライマックスに突き進むほどに際立った新しさが無かったように思う。 ストップモーションアニメという伝統的な手法を、新たな技術力、表現力で追求しているからこそ、紡ぎ出される物語にも、新しい視点や価値観を加味してほしい。 そうすれば、このアニメーション制作会社の作品が、群雄割拠の業界内でトップに立つことも決して夢物語ではないだろう。[インターネット(字幕)] 6点(2018-12-23 23:40:23)《改行有》 18. バッド・ジーニアス 危険な天才たち 《ネタバレ》 基本的に「試験」と名のつくものを避けてこれまでの人生を歩んできたタイプの人間なので、国内も含めアジア各国から時折伝わってくる“カンニング”をはじめとする不正入試や、受験戦争に伴う社会の混乱のニュースを見聞きするたびに、「なんて馬鹿馬鹿しい」と思ってしまう。 本末転倒とはまさにこのことで、何のための勉強であり、何のための試験なのかということを、理解しようともせず右往左往する社会の様子は、なんとも無様だ。 そういった問題提起も無論根底に敷きつつ、このタイ王国版「That’s カンニング!」(観たことないが)は、世界に通用する確固たる娯楽映画として展開されている。 進学校の高校生たちが繰り広げるカンニングの様を、あたかもスパイムービーかケイパームービーのようにスリリングに繰り広げる映画表現としての水準の高さが先ず光る。 タイ語で書かれた試験のマークシートが押し迫る“時間制限”の中で塗りつぶされていくシーンは、試験のシーンとしてごく当たり前のカットの筈だが、スタイリッシュかつ緊張感たっぷりに映し出され、とてもフレッシュなエンターテイメント性を感じることができた。 出演するタイの若い俳優たちも、それぞれが個性的な魅力を放っており、一様に光っていたと思う。 これからもタイ映画界からは、国境と文化圏を超えた良作が量産される可能性を大いに感じる。 ただ、目新しく、楽しみがいのある映画であることは確かだが、一方でストーリー的にもやもやと気が晴れず、腹に落ちない部分もあった。 もやもやとする最たる要因は、最終的に主要登場人物の誰にも感情移入が仕切れないことだ。 特に主人公の言動を理解しきれないことが大きい。 彼女は、友人に懇願されているとはいえ、ほぼほぼ“首謀者”であることは疑いようもなく、「自業自得」という一言に尽きる。 家庭環境的にも、裕福ではないとはいえ、それほど劣悪なわけでもないため、彼女があのような行動を繰り広げた必然性が見当たらない。父親の彼女に対する愛情は一貫して揺るがないので、同じ親の立場からすると、只々父親が不憫でならない。 ラストシーンにしても、やけに清々しく正々堂々感を醸し出しているが、彼女の行動がすべて安直で浅はかなので、それが果たして正しい「責任」の取り方なのかと疑問符を払拭できなかった。 一方で、主人公と鏡像関係のライバルとなる天才苦学生の描かれ方は、是非はともかくとして容赦がなかった。映画の中で最も生真面目で清廉潔白だった彼を、これ程までに容赦なく“ダークサイド”に落とし込んでいくストーリーテリングには、この国の人々が抱えているのであろう社会における無慈悲や不合理に対する怒りとジレンマを感じた。 果たして、最も罪深い人物は誰で、その功罪はどのような形で示されるべきなのか。 その明確な“解”を映画内で示す必要はないけれど、“問”自体はしっかりと明示されるべきだったと思う。[映画館(字幕)] 7点(2018-11-15 08:32:12)《改行有》 19. バーニング・オーシャン 人間が、「地球」を削り、築き上げてきた文明の上で被る災害のすべては、何がどうであれ「人災」と言えるのかもしれない。 この映画で描かれる実際に起こった“災害”にしても、もし人間以外の者が傍から見ていたならば、「自業自得」と断罪されても致し方あるまい。 ただ、たとえそうだとしても、生き抜くことに執着して、妻子の元へ戻ろうとする権利は誰にだってあり、そのために力を尽くすことこそが、我々人間の正しい在り方だと思う。 炎が燃え盛る海の上、ほんの数十分の間、それをやり遂げた“普通”の人間たちの、良いも悪いも人間らしい姿に胸を打たれた。 2010年にメキシコ湾沖で実際に発生した原油流出事故を描いた作品なので、良い意味でも悪い意味でも映画世界の表現は制限されている。 前述の通り、登場する人物は石油採掘施設で働く作業員をはじめとするごく普通の人々であり、絶体絶命の危機を奇跡的に打開するスーパーヒーローなどは存在するわけもない。 休暇が明け、至って日常的に現場業務に戻り、普通に就労する中で突如として事故が発生する。 マーク・ウォールバーグ演じる主人公は、献身的な言動をするけれど、決して過度ではなく、あくまでも現場の責任者の一人としての一般的な救出作業に留める。 一方、一応の悪役として存在するジョン・マルコヴィッチ演じる発注企業側の責任者も、分かりやすい悪人などではなく、自社の利益とその達成を任されている企業人としての役割を全うする“嫌われ役”程度に描かれる。 そういう展開的な派手さや、極端な人物描写が全くない分、事故そのものの原因と現実的な危険性が明確になり、とてもリアルだったと思う。 当たり前の光景を描きつつも、吹き出す炭酸飲料や、車のエンジントラブル、不吉な色のネクタイなど、ささやかな描写を連ねて、これから起こるであろう“不穏さ”をさり気なく表現した冒頭シーンも巧かった。 一方で、当然ながら特筆すべき劇的な展開が訪れないことも事実。 もしこの映画を、「災害パニック映画」として観てしまったならば、大いに肩透かしを食らうだろう。 冒頭からのストーリー展開はまさに災害パニック映画的だけれど、事実を描いている以上、似て非なるものと理解すべきだ。 故に、果たして商業映画として成立するほどの題材だったのかという疑問符は生じる。 マーク・ウォールバーグ、カート・ラッセル、ジョン・マルコヴィッチとスター競演のスペクタクル映画として宣伝したのであれば、物足りなさが残ることは否めない。 事実を歪曲する必要は全く無いけれど、例えばクリント・イーストウッドが旅客機の不時着事故を映画化した「ハドソン川の奇跡」のように、事故後の当事者たちの葛藤や人生模様まで描きこまれていたならば、今作はもっと良い映画になっていたと思う。 まあそういう“行儀のいい”ドラマ描写を極力避けて、石油プラントの大爆発炎上シーンに心血を注ぐあたりに、ピーター・バーグ監督の“らしさ”を感じるけれど。[CS・衛星(字幕)] 7点(2018-11-04 23:10:19)《改行有》 20. バーフバリ 伝説誕生 話題の超大作インド映画をようやく鑑賞。評判に違わぬ豪華さ、熱さ、美しさを堪能できる「流石、インド映画!」という仕上がり。 物凄い映像的物量を目の当たりにしながら、感覚としては、超豪華絢爛な舞台劇を観ているような特殊な娯楽的迫力が、この作品のパワーであり、あらゆる文化圏を飛び越えて観客を魅了する理由だろう。 インド映画の愛すべきところは、その「躊躇」のなさだと思う。 この国の映画は、描き出そうとする娯楽性に対して、てらいもためらいもない。 当然、今作も冒頭から躊躇はない。 ファーストシーン、祖国を追われた瀕死の女王が、激流に呑み込まれながら命をかけて赤子を守り切るのだが、その描写がいきなりぶっ飛んでいる。過酷な運命を強いる神に対して啖呵を切ったかと思えば、赤子を片手で水面から掲げて、なんとその姿勢のまま溺死する。「なんじゃそりゃ!」と思ってしまうが、この冒頭のシーンなどは文字通りの序の口なので、気にしてなどいられない。 その後も全編通して、主人公“バーフバリ”の3世代に渡る熾烈な宿命が、豪胆に、破天荒に描き連ねられる。 ストーリー展開においては、手塚治虫の「火の鳥」のようなダイナミズムと世代を渡って展開される運命模様も感じる。特に序盤の大滝を登っていくくだりは、「火の鳥 黎明編」のラストに着想得ているのではないかと思わせた。 アドベンチャーシーンから大合戦シーンまでアクション描写は多様で勿論迫力満点だが、今作で個人的に最も白眉だったのはロマンスシーンだ。 大滝を登りきり、見たこともない愛しき君にようやくめぐり逢えた主人公が、戦士であり激情的なヒロインの警戒心を華麗にかわし、包み込むように、美しき女性に導いていくシーンが何とも「素敵」だった。 躊躇なくあらゆる娯楽性を増し増しで盛り込んでいるからこそ、この映画は老若男女が様々な側面から楽しむことが出来得るのだろうと思う。 今作だけでも、物凄いエネルギーを見せつけてくれるが、それでもまだ二部作構成の続編に向けて「本領」を抑えていることは明らか。 俄然、完結編の鑑賞が楽しみになった。[CS・衛星(吹替)] 8点(2018-11-04 11:19:08)(良:1票) 《改行有》
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