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【製作年 : 1970年代 抽出】 >> 製作年レビュー統計
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1.  ハンガリアン 無表情の長回しで、じっくりじっくり進行する。ちょっと気分が「俺は何でこの人たちに付きあってるんだろう」と離れそうになってきたあたりで、ロシアの捕虜を殺せなかった兵士が草の中で射殺される場面になり、のめりこんじゃった。カメラが行きつ戻りつして、じかに現場に立ち会ってるようなあっけなさ。リアルだった。あるいはひと夏のよき日、上等なタバコを吸って草笛吹いてのスケッチ。自転車を買う海への旅もいい。みなが適度に散らばって海へ歩いていく厳粛さ(ハンガリーは海がない。忘れないうちに書いとくと、これ戦時下のドイツへ出稼ぎに来たハンガリー農民たちの話)。雨が降ってきて自転車を濡らさぬように小屋に逃げ込めば死体があり、そういう時代なの。ドイツの人々の描写もよく、地主が息子のおもかげを農民に見るあたり実に優しい。「ドイツもハンガリーなんかと組まなけりゃ良かったのに」なんて農民がぼやく。自虐的ってわけでもない。淡々と感想を呟くだけ。音のみによる空襲シーンも良かった。露出過剰による夢のシーン、さかんに“マジャール”とか言ってて「ハンガリーとは何ぞや」についての結論的エピソードらしかったが、白地に白の字幕でまったく読めなかった。かえって言葉によるマトメがなくてよかったかも。[映画館(字幕)] 7点(2013-08-21 09:25:09)

2.  ハンガリアン狂詩曲 アンゲロプロスの最近の映画はセレモニー中継みたいになってるな、という不満を持ったことがある。そのときちょっと思い出したのがこのヤンチョーで、セレモニーのような世界でもとても魅力的に撮る監督はいたぞ、と。ヤンチョーで見られたのは二本だけで、それもそれぞれ一回きりの観賞なので、とにかくもう一度確認したい作家の最右翼だ。広い野で、ハンガリー民族史が展開する(いちおう第一次世界大戦の時代の物語があるらしいが理解不能)。展開してるのはあくまでセレモニーの「ような」世界であって、オリンピックの開会式の退屈な出し物とは根本的に違っていたと思う。だからもう一度見てみたい。歴史を、因果を通した山あり谷ありのドラマにはせず、ギリギリの瞬間の連続として、過去の結果でも未来へ向けての伏線でもない、その時その時の連続として構成させてたのではないか(抽象的な言い方になってしまうけど)。やたら広い野に整列した人々、馬、なぜか裸の女性たち(『密告の砦』でも出てきた)、それらの中をカメラが長回しで漂っていく。アンゲロプロスだと、カメラは何を見るか確固とした意志を持っているのに対し、こちらはうろうろ眺め回してる感じ。そのかわり、すべてが「この見える範囲内で起こっている」。“悪い奴は見えないところにいて、その一握りの悪のためにこの民族は不幸になったんだ”という、よく邦画で見られるような逃げを封じてしまっている。野にいるすべての人物が平等に歴史に加担し責任を負っている、そんな印象を持った。だいたい自国の民族史を描くとなると可憐な被害者の視点になるものだ。まして常に強大国に翻弄されてきたあの民族なら、その資格は十分あるのに、逃げない厳しい視線が感じられた。もう一度確認したい。[映画館(字幕)] 8点(2013-04-29 10:03:18)

3.  話の話 ソ連末期の映画人って、映画史上一番デリケートな人たちって気がする。ハッキリ言えないからこうなるのか、ハッキリ言えないことがもう習性になり、こういう世界を作るの専門になってしまったのか。ノスタルジアの世界。牛が縄跳びをする、永遠に失われた世界。戦争があってタンゴの場から男たちが狩り出され、ある者は不具になって帰ってくる、ある者は帰らない。そしてもう一度あの懐かしい世界へ狐が忍んでいく。赤ん坊に時代を越える何かを託しているよう。それらがデリケートにデリケートに綴られていく。風に吹かれるテーブルクロスの美しいこと。雪の中に落ち続ける梨。[映画館(字幕)] 8点(2013-01-10 10:00:36)

4.  バリー・リンドン 《ネタバレ》 よく映画の宣伝で「感動のあまり席を立てませんでした」ってのがあるが、そうそうあるもんじゃない。私の人生では2回だけ。キートンの二本立て(『セブンチャンス』と『蒸気船』)観たとき「もっかいもっかい」と半日映画館から出られなくなったのと、あとこれ。こっちは幸い最終上映で観てたので、掃除のおばさんに追い出されたが、そうでなかったらこっちも映画館から出られなくなったに違いない。人の世の愚かしさとそれゆえの厳粛さを描いて完璧だと思った。一つ一つの画も完璧と言わざるを得ず、観終わった途端にもう一度ひたりたくなった。監督は「ナポレオン」を撮りたかったそうだが、成り上がって没落していく物語としてはもうこれが完成しているのだから、気合いが抜けてしまったのだろう。いちいちの感動シーンについて記すのは面倒なので省く。第三者の眼で語られ、視点は誰にも加担せず、誰も結論めいたことを言わない(ただ文章が出るだけ)。しかしここには地球上に一時期存在した人類という種族の典型が精密に記録された、しかもその愚かな人類はなんと美しい世界を織り成してきたことだろうか。この作品では美が愚かさと必死で拮抗している。母親や家庭教師など、脇役の顔の選択も見事だ。そして音楽。バリーの運命が大きく変わるときに流れ込んでくるヘンデル、それと対になるようなレディ・リンドンのテーマとしてのシューベルト、どちらも的確。完璧という言葉は軽々に使いたくないが、この映画の美にかけた執念には、その言葉を使って褒め称えるより仕方あるまい。[映画館(字幕)] 10点(2011-06-23 10:04:39)(良:2票)

5.  幕末 時代劇と歴史劇のあいだで困っているような映画。史実にのっとって吉永小百合は「眉そり・お歯黒」で出てくるが、やっぱり現代人にはヘン。明治の観客というのが存在すれば、「なかなか正しくやっておる」と満足するかも知れないが、時代考証というものの精度は適当にだんだん崩していってもらわないと、時代劇になり切れない。いっそ『バリー・リンドン』みたいに歴史に徹底してみれば、その「ヘン」が味わいにもなるんだろうが、暗殺のところは時代劇的にくどく、瓦を這いのぼったり、手のアップがあってズルズルと滑ったりと、歴史劇とは言えない雰囲気。竜馬って史実では即死だったんだろ? 酔ってヌルヌルと斬る感じとか、左手だけでのチャンバラとか、全体、見せ場は「時代劇」している。明治の歌舞伎でも同じような問題はあって、江戸時代の芝居は荒唐無稽すぎたということで、史実にのっとった「活歴もの」ってのがさかんに作られたが、その多くは消え去り、現在は「荒唐無稽」なものが残っている。映画も同じ悩みを経て、しかし「マゲもの」というジャンルそのものを衰退させてしまった。賀津雄君のまんじゅう屋の悲憤なんてのは良かったな。やっぱこの兄弟は陽と陰の対象を見せてほしい。後期の錦ちゃん、力んで暗くなっちゃうんだ。[映画館(邦画)] 6点(2010-11-23 09:54:15)

6.  パンと裏通り 《ネタバレ》 なんかこれ、最も純粋なキアロスタミの世界なんじゃないか。ほとんどサイレント映画の精神。でももちろんトーキーで、オブラディオブラダに乗って、少年がカンを蹴りながら歩んでいく。犬の登場。陽気な音楽はゆるゆると消え、犬の目つき。その距離。無関係な自転車の通行人。老人(イヤホン)が登場。リズムに乗って一緒にいくと、犬の寸前で老人は左折してしまう。犬にパンを少しやると懐いてついてくる。一緒に並んでいく。門での別れ。犬はそこにうずくまる。犬はこうやって少しずつ歩んでいるのかも知れない。続いてミルクを持った少年がやってくる。…とこう書いていっても仕方がないんだけど、なんか書きたい気分にさせる映画なんだ。処女作でその作家の立脚点みたいのが分かるっていうけど、ほんとにそう。影の輪郭のはっきりした裏通りの気分を背景に、少年の心の変化をていねいに綴っている。おつかい帰りの浮き浮きした気分から緊張、そして友だちの発見、後ろ髪引かれる気分、と来て、しかしここで不意に犬の心に移るとこがすごい。等価なんだね。ここでワッと世界が広がる。映画における純度の高さってこういうのを言うんだろうなあ。[映画館(字幕)] 7点(2010-01-25 12:04:07)

7.  博奕打ち いのち札 やくざの弱さを鶴田浩二が口にしてしまう。女が一緒に逃げましょうと言うのに「俺には、この岩井一家しかない」と言う。やくざというものが、けっきょく家を飛び出して自立できぬ者たちの共同体=偽家であることがよく分かるが、鶴田浩二には女にそんな弱音を吐いてほしくはなかった。それを覚悟して受けとめるから荘重な悲劇になるのであって、『総長賭博』も、家を守ろうとして出す手出す手が次々と家の崩壊を導いていくところに感動があったのだ。でも本作も最終的には運命悲劇の線は守られていて、任侠映画史の到達点シリーズとしての価値はある。海辺を女がフラフラ歩いたりして、ちょっと流れてしまうところもあるが、全体としていい。若山富三郎の役どころが重要で、家の代表でもあり、また世間の噂の代表ということで内在する外界でもある。ラストの血の海の花道は、私はあまり買わない。あくまでリアルな情景で様式美を追求したのが仁侠映画だったはずだ、まあそれだけ仁侠映画がもう熟し切ってそれ以外の表現を必要とするまでになってしまった、ということでもあるのだが。それにしても当時の東映映画俳優陣の厚みは素晴らしいものだった。これ以後彼らは実録路線に合ったもの(文太やピラニア軍団)と合わなかったもの(高倉健や鶴田浩二)にと分離し、他ジャンル映画でも活躍の場を広げていくが、仁侠映画における自在な輝きはもひとつ感じられない。[映画館(邦画)] 7点(2009-11-13 12:08:29)

8.  万事快調 72年かあ。共産党と新左翼の離反、なんてモチーフが懐かしいところ。まず食肉工場のストライキだ。窓の外の暮れていく気配と部屋割りは、さながら『ロープ』と『裏窓』。経営者が戯画化されて語っている「資本主義ばんざい」の言説は、今では戯画化すらされず、もっともらしく語られるようになったわけだ。このセットの横移動はそれだけで楽しいもので、ラストのスーパーマーケットと対比されるのだろうが、労働者の側もばらばらになってるという感じでもある。妻のストに協力的でない夫というのが電話のシーンでスケッチされたり。工場の場が閉じ込められていたのと対照的に、スーパーは広く、外から新左翼は突入してくる。共産党のパンフレットを安売りしてるのもおかしい。手前を走ったり、奥のほうを走っていったり。で二度目の横移動で略奪が始まり、機動隊も入っている。これは本当に楽しい。身近な場所が混乱していく興味、ってこともあるんだろうけど、この滑らかな変化ってのが大事なんだろうな。横移動というものは、異質のものを滑らかに連続させてしまうんだ。[映画館(字幕)] 6点(2009-07-23 12:03:36)(良:1票)

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