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プロフィール
コメント数 407
性別 男性
ホームページ http://onomichi.exblog.jp/
年齢 55歳
自己紹介 作品を観ることは個人的な体験ですが、それをレビューし、文章にすることには普遍さを求めようと思っています。但し、作品を悪し様にすることはしません。作品に対しては、その恣意性の中から多様性を汲み取るようにし、常に中立であり、素直でありたいと思っています。

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【製作年 : 2010年代 抽出】 >> 製作年レビュー統計
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1.  ブルーバレンタイン 《ネタバレ》 厚生労働省が毎年発表している「人口動態統計の年間推計」によれば、2011年時点で、日本では3組の結婚に対して、1組の離婚が発生している。(ちなみに35年前までは10組の結婚に1組の離婚だった) この数値は10年前から変わっていないので、今さら驚くに値しない。離婚原因の1位は性格の不一致。所詮他人同士が一つ屋根の下で暮らすのだから、いろんな不一致はある。そんな不一致への不満が同居人としての気安さから我慢できないものとなり、衝突を生む。その繰り返しが2人の溝を深める。結婚の理想と現実、それは常にリアルなものとしてあるだろう。しかし、あるカップルで破局の原因となったことでも、あるカップルでは我慢できることもある。心理学的に言えば、「好き」は「嫌い」に容易に反転する。「好き」が「無関心」へとゆっくり移行すれば、家庭は平和になるのかもしれない。 『ブルーバレンタイン』が描くカップルの諍いは何を表現しているのだろう?お互いのプライドが共存の可能性を閉ざし、また学歴や職種の格差そのものが人生観/生活観の衝突を避けがたいものにする。恋愛のコツは相手を甘く見ること。そう言った女性作家もいたっけ。ある種の格差が共依存の関係を生み出し、まるで鋳型のようにぴったりとした相性となることもある。まぁそれはそれとして、僕は『ブルーバレンタイン』の描き出す夫婦の光景(ある意味で凡庸な出会いと諍いと別れのリアルな光景)にどのような意図があるのかがよく理解できなかったし、意図を超えた感動も覚えなかった。 旧来、ラブストーリーは、人々に恋愛という可能性を与え、家族を巡る物語(例えば小津映画)は、生活という類型を支えた。この映画のリアルが幻想や類型を否定してみせたとして、そのこころは? 一体何なのだろう? それもまた類型でしかない。 結局のところ、僕はこの作品に映画として心に響くものを感じることができなかった。[DVD(字幕)] 7点(2012-01-18 00:51:53)《改行有》

2.  ブラック・スワン 《ネタバレ》 『ブラック・スワン』は、ナタリー・ポートマン演じるバレリーナの自己自身をめぐる物語である、という解釈はその通りだと思う。さらに言えば、この物語は、彼女の自己分析的な記憶そのものである。彼女が精神科医への告白の中で紡ぎだした彼女自身の経験と妄想の交錯した記憶こそが、『ブラック・スワン』の物語である、と僕は思う。 映画は、いくつかの視点によって物語を追う。ある時、それは彼女自身の視点として、そして、ある時、それは彼女の背後からの視点として彼女自身を含めた風景の中で捉えられる。演出家のトマも、ライバルとなるリリーも、彼女の記憶により、その性格を改変させられている。 映画とは「他者の視線から見られた世界の風景」である。だが、それはいったい「誰の視線」から見た風景なのだろう。(内田樹『映画の構造分析』) 『ブラック・スワン』の場合、それは彼女自身の視覚記憶に基づく視線であり、風景であり、物語である。それが映像の意味を決定している。私は、私の記憶(脳)によって完璧に騙される。彼女は、最後にPerfectと呟くが、ホワイト・スワンたる彼女が最後の最後でブラック・スワンに変身し、彼女の中の善と悪、可憐さと妖艶さ、超自我とエス、エロスとタナトスが融合することで得られた恍惚こそが彼女にとってのPerfectだったのだと思う。 最後のバレエシーン。彼女は、ホワイト・スワンの演技で決定的な失敗を犯し、ここで挫折してしまうのかと思いきや、楽屋でリリー(の幻想)を殺戮することにより、衝動的にブラック・スワンそのものに変身する。リリー(の幻想)を殺戮することで得たものは何か? 解放したものは何か? 彼女が求めたものは「美しさ」である。バレエとは、常に自分自身を鏡で映すことで紡ぎだされる肉体運動の美しさであり、自己規律訓練的、反自然的な「美しさ」への自己希求であり、その希求は、結局のところ、他者の承認を求めざるを得ない飽くなき欲望となる。それが彼女自身の変身願望に繋がる幼少時代からの無意識の抑圧であり、妄想の源泉だった。彼女がホワイト・スワンとして死を迎える時に彼女の視線が捉えるのは彼女の母親の姿である。母親の喜ぶ顔を瞼に浮かべながら、その承認を得て、彼女はPerfectと呟くのである。[映画館(字幕)] 10点(2011-05-31 22:27:36)(良:4票) 《改行有》

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