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プロフィール
コメント数 2628
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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1.  ボクたちはみんな大人になれなかった 昨年(2021年)暮れにティザームービーを観た時点で、“予感”はあった。 ただそれ故になかなか観られず、Netflixのマイリストに入ったまま数ヶ月。ようやく鑑賞。 結論として、“予感”の通りに、少なくとも自分にとっては「特別」にならざるを得ない映画だった。 40代半ばの主人公が辿ってきた二十数年間を遡ってつぶさに描き出された映画世界は、同じ年代、同じ時代を過ごしてきた者として、まさにタイムスリップしたような感覚に包み込まれる。 僕自身は、東京という街でずっと暮らしてきたわけでもなく、二十歳前後の数年間をあの街で過ごしただけだけれど、それでも、この映画の主人公と同じ時代にあの場所で感じた空気感を思い出し、希望、欲望、羨望、絶望、あらゆる感情をひっくるめた感覚が蘇ってくるようだった。 実際は、「絶望」なんて感じるよりも前に、僕は夢半ばであの場所から去ってしまったが、「もし」あのまま憧れと願望にしがみつき、留まっていたならば……と考えると、主人公が辿った人生模様とどこか重なるようで、正直心が乱れて落ち着かなかった。 映画を彩る環境や美術や衣装、小道具に至るまで、映し出される画面のディティールを追っていくだけでも懐かしく、感慨深い。 安いラブホテルを探した夜、シネマライズの行列、「スワロウテイル」のポスター、浅野忠信が表紙の雑誌「H」、“グリコ”の娘の娼婦役と歌声、野猿、BiSH……、この映画世界の「時代」に散りばめられたすべてが、堪らなくエモーショナルだった。 つらつらと懐古的なことを並べると、世代的にドンピシャの40代のおじさんがノスタルジーに浸るだけの映画のようにも聞こえてしまいそうだが、そうではない。(と思う) 本作は、「普通の人生」という普遍的な概念の中で、思い悩み、時にもがき、時に抗うすべての人間のための映画だったと思う。 人間誰しも「フツー」というフレーズに少なからず拒否感や嫌悪感を覚える時期があるものだ。 「自分は他人とは違う」「何かができるはず」「こんなはずじゃなかった」と、焦りや後悔は、人生を通じて常に付き纏う。 でも、結果的に、ほぼすべての人は、フツーに人生を送り、フツーにその終着を迎える。 そこには、諦めもあれば、妥協もあるだろう。そして、悲劇にもなろうし、幸福でもあろうと思う。 それが即ち「人生」だ。 気が付けば46歳になっていた主人公が、コロナ禍で静まり返る深夜の東京の街で、ふと昔を振り返り、そして気づいたことは、「フツー」であることを、無意識的に恐れ、拒絶し、ないがしろにし続けてきた反面、実は知らず識らずの内に受け入れてしまっていた「現実」と、見過ごしていたその「真価」だったのだろう。 ラストシーンで主人公が発する「ホント、フツーだわ」という言葉には、過ぎ去ってしまった時間に対する後悔、「フツー」を直視することを避け続けてしまったことへの悔恨、そして、それらと同時に確実に存在していた自らの“フツーの人生”の“フツーの輝き”を愛おしむ思いに溢れていた。 「ホント、フツーだなあと思って」と悲しげに背を向けた最後の夜の彼女。 「うれしい時、悲しい気持ちになる」と涙を浮かべた最初の夜の彼女。 そこに、主人公が若かりし日に汲み取りきれなかった何かがあったのかもしれないし、無かったのかもしれない。 ボクたちはみんな大人に“なれなかった”のか、“ならなかった”のか、“なってしまった”のか、それとも……。鑑賞者一人ひとりの人生とその時の心情によって、その末尾は変わり続ける。[インターネット(邦画)] 10点(2022-05-07 00:34:48)(良:1票) 《改行有》

2.  暴走パニック 大激突 いやはや、なんともトンデモナイ。 大胆で、猥雑で、非常識。時代を越えた昔の映画に対して、現在の倫理観と照らし合わせることはナンセンスだと思うが、あまりに自由で、あまりに奔放でエキサイティングな映画世界には、いまや「羨望」の眼差しを向けざるを得ない。 先日鑑賞した「狂った野獣」に続いての渡瀬恒彦主演作(同年製作)だったが、やっぱりこの時代のこのスター俳優の存在感と“アクション”は唯一無二であったろうことがギンギンに伝わってくる。 80年代生まれの者としては、渡瀬恒彦という俳優を認識した頃には、すでにサスペンスドラマに多数出演する好感度の高いテレビ俳優という印象が先行しており、渡哲也の実弟という立ち位置もあり俳優としてそれほど強いインパクトを感じたことはなかった。 しかし、この時代の彼の佇まいと雰囲気は、アクの強いダークヒーローであり、あらゆるアクションシーンを自分自身でこなしたという逸話も伝説的だ。 本作においても、決して正々堂々としたヒーローではなく、姑息さや残酷さも持ち合わせた犯罪者であるというキャラクター性が、ダークヒーローとしての存在感と哀愁を際立たせている。 そしてそこに「深作欣二」という巨大な劇薬が混ざり、映し出された映画世界は娯楽の混沌と化している。 中盤、本筋と外れたところで、或る変態医師のアブノーマルプレイがじっくりと映し出された時には、思わず「一体何を見せられているんだ」と困惑し呆然としてしまったが、それすらも最終的には娯楽の混沌の一要素としてまかり通してしまう圧倒的なエンターテイメント力にひれ伏すしか無かった。 クライマックスで待ち受けていたのは、タイトル通りの大暴走と、大パニック。 主人公のみならず、川谷拓三、室田日出男ら演じるこれまたアクの強い脇役たちや、通りすがりの端役に至るまで、それぞれが孕んでいた狂気性が爆発し、泥と爆音と共に入り乱れる様はまさしく阿鼻叫喚。 この時代を生きるすべての人間たちの鬱積が撒き散らされているようだった。 現代の最新カーアクション映画の筆頭といえばご存知「ワイルド・スピード」シリーズだが、50年近く前のニッポンに“元祖ワイルド・スピード”と呼ぶに相応しい映画が存在していたことを、ハリウッドの映画人たちは知っているだろうか。 あ、クエンティン・タランティーノ以外でね。[インターネット(邦画)] 8点(2022-04-16 00:39:11)《改行有》

3.  ポーラー 狙われた暗殺者 まずは、マッツ・ミケルセンの“佇まい”一発で、ノックアウトは必至だ。 これまでも出演作を幾つか観てきたつもりだったが、どうやら私は、彼の本当の魅力を理解していなかったらしい。 「北欧の至宝」と称されるその俳優としての存在感は、通り一遍な男前感やダンディズムでは収まりきらない「異質」なものを感じた。 それはもはや変質的と言っても過言ではなく、その特異な雰囲気が、今作の引退間際の最強暗殺者“ブラックカイザー”役と奇跡的なマッチングを見せていたと思う。   会社組織化された暗殺者集団という馬鹿みたいな設定(好き)や、引退予定の伝説的暗殺者に集団で襲いかかるという展開に対しては、言わずもがなキアヌ・リーブスの「ジョン・ウィック」が頭に浮かぶ。 主人公のキャラクター性や、対峙する暗殺者集団のエキセントリックさ、諸々の小ネタに至るまで、「ジョン・ウィック」との類似点は多く、下手を打てば「二番煎じ」と揶揄されることは避けられなかっただろう。   しかし、確かに「ジョン・ウィック」をはじめとするこの手のジャンル映画と似通っている作品ではあるけれど、同時に圧倒的な独創性も揺るがない娯楽映画だったと断言したい。   主演俳優の稀有な特異性に牽引されるかのように、映画そのものが少々、いや随分と常軌を逸している。 バイオレンスアクションとハードボイルド、そしてブラックユーモア、それらがミックスされた破綻気味なアンバランス感が、オリジナリティを創出している。   そして、やはり何と言っても主人公“ブラックカイザー”ことダンカン・ヴィスラのキャラクター性が抜群だった。 圧倒的に強く、全身からほとばしる男の色香は、言うまでもなく魅力的。 その一方で、ただ渋くて格好良いだけではなく、悪夢にうなされ飼い始めたばかりの愛犬を撃ち殺してしまったり、渋ってた割には小学生相手にドヤ顔で世界を股にかけた暗殺講座を繰り広げちゃったり、とっくにハニートラップであることは気付いているにも関わらずギリギリの瞬間までヤルことはヤッちゃったり……。 “ジョン・ウィック”もどこか頭のネジが抜け落ちている男だが、それ以上にこの人も何本もネジがぶっ飛んでしまっていることは明らかだ。   ストーリーの収束の仕方も的確であり、忘れがたきエンターテイメントを堪能した充足感と、まだまだこのイカれた殺し屋の暗躍を観たいぞ!という期待感に包まれる。 ここまで似通ったキャラクター性と世界観であれば、「ジョン・ウィックVSダンカン・ヴィスラ」という夢の競演を妄想してしまうな。[インターネット(字幕)] 8点(2021-04-04 17:16:01)(良:1票) 《改行有》

4.  星の王子ニューヨークへ行く2 30年ぶりの続編。30年の月日を経ても変わらない“エディ・マーフィ”というエンターテイメント力が圧巻で、懐かしさを存分に携えた爆笑は、次第に週末の夜のささやかな多幸感へと変わっていった。 30年後の続編という企画において、敢えて新しいことに積極的に挑まず、オリジナル作品のキャラクター性や映画的な雰囲気の「再現」に努めた制作陣の意向は正しかったと思う。 必然的に“新しさ”なんてものはなく、ほぼオリジナル作品のファン層のみをターゲットにした“同窓会映画”であることは否めないが、そうすることが、この映画が持つエンターテイメント性を過不足無く引き出していると思える。 何よりも嬉しかったのは、エディ・マーフィをはじめとするオリジナルキャストが勢揃いしていたことだ。 主人公の親友役セミを演じたアーセニオ・ホールは勿論、ヒロインのシャーリー・ヘドリー、父国王のジェームズ・アール・ジョーンズ、バーガーショップ経営者(義父)役のジョン・エイモスら、懐かしい顔ぶれが見られただけでも、感慨深いものがあった。 そして勿論、エディ・マーフィとアーセニオ・ホールによる“一人四役”も健在で、楽しかった。 新キャラクターでは、主人公の婚外子として登場するラヴェルのビジュアルが、完全に「ブラックパンサー」の“キルモンガー”パロディで愉快だったし、3姉妹の娘たちもフレッシュな魅力を放っていたと思う。 そして、隣国の独裁者として登場する“イギー将軍”に扮するのはウェズリー・スナイプス。鑑賞前にクレジットを見ていなかったので、90年代を代表する黒人アクションスターの登場には、益々高揚感を高められた。演じるキャラクターのバカぶりも最高すぎた。 繰り返しになるが、二つほど時代を越えて制作された「続編」として、何か新しい発見や挑戦がある類いの映画ではないし、オリジナル作品のファン以外が観てもピンとこない要素も多いのかもしれない。 ただ、かつて週末の民放ロードショーで「星の王子ニューヨークへ行く」を観て、エディ・マーフィというエンターテイメントを楽しんだ世代としては、問答無用に爆笑必至だった。 今作はパンデミックの影響で劇場公開が断念され、Amazonでの配信と相成ったとのこと。 制作陣やキャスト陣にとっては残念なことだっただろうけれど、かつてオリジナル作品を観たときと同様に、週末の夜、自宅で、“日本語吹替版”で観られたことは、ファンにとってある意味幸福な映画体験だったと思うのだ。[インターネット(吹替)] 7点(2021-03-15 12:14:15)(良:1票) 《改行有》

5.  僕たちの嘘と真実 Documentary of 欅坂46 《ネタバレ》 まず率直に感じたことは、良い悪いは別にして、彼女たちの“本音”が表れている映画ではなかったなということ。 「嘘と真実」というタイトルが表していたものは、秘められていたコトがこのドキュメンタリーでつまびらかにされるということではなく、この映画で語られる言葉そのものが、「真実」でもあり「嘘」でもあるということだったのではないかと思う。 彼女たちが発する「言葉」は、今まで数々のメディアで発信されてきたものと同様に、やはりどこか拙く、意識的にも、無意識的にも、本当のコトを吐き出しきれていない印象を覚えた。 それに相反するように、劇中で映し出される数々のライブパフォーマンスでは、彼女たちの内情が激しく吐き出されているように見えた。 そして、気付く。この映画のタイトルが「僕たちの嘘と真実」であるということの意味に。 “私たち”ではなく、“僕たち”である。 即ち、このドキュメンタリー映画で映し出されているもの、または映し出そうとしたものは、「欅坂46」というアイドルグループを構成する“彼女たち”のありのままの姿などではなく、彼女たちが作品の中で表現してきた「主人公=“僕”」の真の姿だった。 平手友梨奈というカリスマを象徴的に中心に据え、「欅坂46」という群れが一体となって作品の中で体現し続けてきた「僕」。 作品に登場する「僕」とは、どのような存在だったのか? 彼女たちにとって「僕」とは、どのような存在だったのか? この映画が突き詰めようとしたことは、そういうことだったのだ。 メンバーたちの虚空を掴むようなどこかぼやけた言葉の理由も、ライブパフォーマンス描写の中でのみくっきりと浮かび上がってくる輪郭も、その対象が「僕」であったことを踏まえると途端に腑に落ちる。 ただ、そこに「意味」はあっただろうか。 少なくとも、この“終幕”のタイミングで遂に公開されたドキュメンタリー映画として、このアプローチが意義深いものだったとは思えなかった。 なぜなら、多くのファンにとってこの映画で伝えられたことは、既に理解しつくしているコトだったからだ。 作品の中に登場する「僕」の存在性と、彼が内包する葛藤と矛盾、それらすべてを体現する平手友梨奈の苦悩、そして「欅坂46」との関係性。 それらは、「欅坂46」の作品やパフォーマンスを通じて、表現され続け、伝えられ続けてきたものであり、もはや概念的なものである。 5年という年月の中で、「欅坂46」が作品を通して表現し創造してきた概念。 ファンの一人一人がそれぞれに受け取り、理解してきたその真理を、敢えてドキュメンタリー映画の中で伝える必要があっただろうか。 それは、彼女たちが文字通り魂をすり減らして生み出してきた作品の世界観と、それに共鳴してきたファンの心情を侵害するものではなかったか。 ならばドキュメンタリー映画なんて観なければいいと言われそうだが、それも少し違う。 個人的に、このドキュメンタリー映画で観たかったものは、やはり、「欅坂46」というアイドルグループを表現してきた彼女たち一人一人の「声」であり、人間としての「姿」だった。 卒業・脱退メンバーも含めて、彼女たちのこの5年間における表立っていない「声」や「姿」をもっと反映してほしかったと思う。 無論、そうしたからと言って、彼女たちの“本音”のすべてが聞こえるとは思わない。 それでも、「黒い羊」のMV撮影終わりに、他のメンバーと乖離するように一人立ち尽くす鈴本美愉しかり、インタビュー中「ここでは話せない」と吐露する小林由依しかり、センターに君臨する平手友梨奈のカリスマ性を嫉妬と敬意をにじませながらじっと見つめる今泉佑唯しかり、表現しきれていない彼女たちの何かしらの思いは、今作の端々からも伝わってくる。 ファンが欲したのは、「僕たちの嘘と真実」ではなく、「私たちの嘘と真実」だったと思うのだ。 このドキュメンタリー映画鑑賞後の数日間、複雑な感情が入り混じりながら、「欅坂46」の5年間に思いを巡らせた。 「発信力」という観点に絞るなら、良い意味でも、悪い意味でも、彼女たちは作品を通じた“パフォーマンス”がすべてだった。 そのことがアイドルグループとしての“ひずみ”や“鬱積”、そして危ういバランスに繋がっていったことは否めない。 それは、類まれな才能に酔ってしまい、「運営」としてコントロールすることを放棄した大人たちの責任でもあろうし、一つのイメージから殻を破ることが出来なかった彼女たち自身の責任でもあろう。 ただ、その危うい偏りが、あのエモーショナルを生んだのであれば、それは圧倒的に正しいことであり、やっぱり「正義」だったと思うのだ。[映画館(邦画)] 6点(2020-09-06 23:54:09)《改行有》

6.  ぼくの名前はズッキーニ “ズッキーニ”のぼんやりとした表情が、だんだんと我が息子のぼんやり顔に見えてきて、彼の一つ一つの言動に涙腺を緩ませずにはいられなかった。 ストップモーションアニメは好んでよく鑑賞するが、評価の高い作品であっても、案外鑑賞後の個人的な“好み”が分かれることが多い。 クレイアニメのアーティスティックな精巧さや、アニメーションとしてのクオリティの高さに感嘆することは多いが、だからといってそこで息づくキャラクターたちにちゃんと感情移入できるかどうかは別問題。 ただ、今作においては、主人公“ズッキーニ”が只々愛らしく、その憂いに溢れた瞳に冒頭から引き込まれた。 66分と尺が短いこともあり、物語の冒頭から主人公のあまりに過酷な運命が突きつけられる。 起こってしまったことよりも、それによって彼が抱えた心の傷を思うと、とても不憫で、悲しい。 ズッキーニは終始ぼんやり顔で、感情の起伏をわかりやすく表情には表さないけれど、彼が心の中で大切にする両親への思いは最初から最後まで決して揺るがない。 時に感情をさらけ出す理由も、常に両親に対する大切な思いを蔑ろにされたからであり、その彼の心情を思うとまた切ない。 主人公に限らず、親に対する思いは、この作品に登場する孤児院の子どもたち全員に共通するものである。 自分を不遇に至らしめている両親に対して怒り、憎んではいるけれど、やはり彼らは親を愛さずにはいられない。 主人公のみならず、彼ら一人ひとりのそういう心情を慮ると事程左様に切なくて、涙が溢れた。 尺の短さがシンプルなストーリーラインとなり、極めてストレートな感動を紡ぎ出しているのだと思うが、主人公ズッキーニは勿論、キャラクターの一人ひとりがとても魅力的で情感に溢れているので、もっと彼らの物語を深堀りして観てみたかったとは思う。 “シモン”ら孤児たちのその後や、警察官“レイモン”の過去など、まだまだ描き出すべき物語が詰まった良作だ。[インターネット(字幕)] 8点(2019-12-19 22:22:01)《改行有》

7.  ボーダーライン: ソルジャーズ・デイ 「面白え」と、飾りのない満足感がじわじわと滲み出てくる。 善悪の境界線など遠く通り越して、虚無的な憎しみの螺旋の中で争う様には、この世界の愚かさの極みが溢れかえっていた。 この映画世界で描かれていることが、どれだけリアルに近いのかは判別できないが、おそらく現実にはもっと陰惨で、絶望的な事実が、無慈悲に渦巻いているのではないかと思う。 現実世界の闇を根底に据え、その闇の中で生きざるを得ない人間たちの苦闘を、前作同様映画的な娯楽性もしっかりと加味しながら描き出す見事な映画だ。 前作「ボーダーライン」をようやく鑑賞した翌日に、公開中のこの続編を観たが、立て続けに観たことで、より一層二作の連なりと、描き出される「視点」の明確な違いを顕著に感じることができたと思える。 前作では、エミリー・ブラント演じる主人公を敢えて“部外者”の立ち位置のままストーリー展開をさせることで、正義と悪、この世界の光と闇の境界線を如実に表していた。 この続編では主人公の視点を、“部外者”から“当事者”にチェンジすることで、前作で朧気にだったこの世界の闇の本質がよりくっきりと映し出される。 同時に、前作では正義と悪の両者をコントロールしているように見えた“当事者”であるCIAエージェントらも、実のところ極めて混沌とした血みどろの境界線上を進まざるを得ない状況であることが描き出され、行き場のない絶望感を叩きつけられる。 キャストにおいては、前作に続きベニチオ・デル・トロの存在感が圧倒的だ。 前作においても、実は物語の真の主人公はベニチオ・デル・トロが演じるアレハンドロだったわけだが、このキャラクターが抱える憎しみと怒りと悲しみを全身で体現する演技が素晴らしい。 これ以上ない嵌り役を完璧に演じきっていることで、彼は名優として一つの高みに登ったと思える。 脚本を担うテイラー・シェリダンによると、どうやら三部作構想のようである。 文字通り死の淵から甦った“Sicario=殺し屋”は、果てしない憎しみの螺旋に終着を見いだせるのか。 完結編の製作を心して待ちたい。[映画館(字幕)] 9点(2019-01-13 21:15:35)《改行有》

8.  ボーダーライン(2015) 公開時から観よう観ようと思いつつタイミングを逃してしまい、各種配信サービスにおいてもウォッチリストに必ず入れながら観られていなかった今作を、続編公開のタイミングでようやく鑑賞。 評判通りに物凄く面白かった。さっさと観ておけば良かったと只々後悔。 この映画を一言で表現するならば、「闇の淵」という感じだろうか。 邦題「ボーダーライン」が表す通り、エミリー・ブラント演じる主人公は、メキシコ麻薬カルテルを枢軸とした巨悪と、そこに渦巻く絶望的な「闇」に呑み込まれるか否かの“境界線上”に立たされる。 FBI捜査官の主人公は、得体の知れない強大な闇の一端に触れ、覗き込もうとする程に、その深さに絶望し、自らが信じ命を懸けててきた「正義」がいかに表層的なものだったかということを突きつけられる。 エミリー・ブラントは、“こちら側”の代表として、この世界の“向こう側”に巣食う悪の理を目の当たりにするFBI捜査官を熱演している。相変わらず、この女優は芯の強い女性像を演じきることに長けていて、今作においても魅力的な人物像を体現している。 ただし、この映画が面白い最大のポイントは、その主演女優が演じる魅力的な主人公が、ストーリーテリングの中心に存在していないということだ。 主人公は終始、知り得なかった別世界の闇の存在を感じ続けはするけれど、結果的にその深層に入り込むことを許されない。あくまでも“部外者”のまま、物語は進行し、終幕する。 では、この映画世界の真の主人公は誰であり、真の闇の中で生き続けている人物は誰だったのか。その巧みな映画的構図と、研ぎ澄まされたストーリーテリングが、上質なリアリティとエンターテイメント性を生み出しており、圧巻だった。 ドゥニ・ヴィルヌーブ監督による、絶望的なまでに美しく、神々しい映像感覚と音楽も素晴らしかった。 原題「Sicario」はスペイン語で「殺し屋」の意。 闇の淵に主人公を置き去りにし、一つの目的を果たした“殺し屋”は、闇の更に奥深くに突き進んでいく。[インターネット(字幕)] 9点(2019-01-12 23:58:25)《改行有》

9.  ボヘミアン・ラプソディ 嗚呼、なるほど。この作品は、もう「映画」という領域の範疇を超えているのだと思った。 世代も、無知も、趣向も、もはや関係ない。 この映画と、描き出された人たちのことを何も知らなくても、スクリーンを通じて目の当たりにしたものに、只々、涙が止まらなくなる。 これは、そういう映画だ。 1981年生まれの自分は、クイーンのことを殆どよく知らないと言っていい。 もちろん、バンド名や、フレディ・マーキュリーという固有名詞は、どこかしらで幾度も耳にしたことはあるし、幾つかの代表曲についても耳馴染みはある。 ただし、どの楽曲もフルコーラスで聴いたことは無かったし、クイーンというバンドと、フレディ・マーキュリーという人物が、「時代」にとってどれほど重要で、どんなに愛されていたかということを、認識していなかった。 今作のインフォメーションを見聞きしても、昨今立て続けに製作されているバンドの固定ファン向けの半ドキュメンタリー的な映画なのだろうと、まったく興味を惹かれなかった。 たが、国内公開からしばらく経ち、各種報道番組で特集が連発される“過熱”ぶりを見るにつけ、一映画ファンとして流石に無視できない心境になり鑑賞に至った。 そして冒頭の所感にたどり着く。想定を大いに超えて、圧巻の映画体験であったことは間違いない。 無論、大前提として、クイーンという唯一無二のバンドが実際に存在し、彼らの音楽がそのまま使用されていることが、この映画の価値の9割以上を占めていることは明らかだ。 だが、その稀有な存在性の何たるかを、映画世界の中で“再現”しきったことが、やはりあまりに奇跡的なことだったのではないかと思える。 “再現”という言葉を使ったが、それはこの映画で描き出されたことの総てが“リアル”だというわけではない。 随所において、事実とは異なる経緯だったり、人物たちの言動を創作し、巧みに散りばめている。 だがしかし、その事実に対する改変が、イコール「虚偽」ということにはならない。 それは、クイーンというバンドの存在性、そしてフレディ・マーキュリーという人間を描く映画を生み出す上で、必要不可欠な“脚色”であり、だからこそ、今作は映画としてもきっぱりと優れているのだと感じる。 時代を越えて、国境を越えて、価値観を越えて、偉大な音楽がより一層多くの人に愛されていく。 映画に限らず、音楽に限らず、「表現」を愛する者にとって、それは何よりも幸福なことで、その多幸感にまた涙が溢れ出る。[映画館(字幕)] 9点(2018-12-15 19:46:56)《改行有》

10.  僕らはみんな生きている くたくたに疲れた出張帰りの機内で、ひっさしぶりにこの映画を観た。 バブル期の日本映画独特の滑稽な欺瞞に溢れてはいるのだけれど、無性に胸に迫るものがあった。 曲がりなりにも“日本のサラリーマン”を10年続けてきて、彼らの悲哀としぶとさが身に染みる。 真田広之、山崎努、岸部一徳、嶋田久作という存在感たっぷりの4人の演者が、海外赴任のサラリーマンのある種の軽薄さと狡猾さと哀愁を体現している。 4人が織りなす文字通りの“サバイバル”である処世術の様が時に笑えて、時に笑えない。 発展途上国の内戦に巻き込まれた主人公たちが映画の中で繰り返し叫ぶ。 「私たちは、日本のサリーマンです!」 それは、はじめは銃撃戦をすり抜けるための「逃げ口上」であった。 それがストーリー展開に伴い、自分と日本の企業文化に対する「怒り」となり、終いには「誇り」として高らかに宣言される。 ぶっとんだコメディのように見えるけれど、今の時代でも星の数ほどの“日本のサラリーマン”が、世界のあちこちで汗を流し続けていることだろう。[ビデオ(邦画)] 8点(2017-08-27 00:58:22)(良:1票) 《改行有》

11.  ポテチ 伊坂幸太郎の短編小説の映画化。 原作が短編小説とは言え、一本の映画にするには物語構造自体が薄すぎたように思う。 このお話自体が嫌いなわけではないけれど、醸し出されるポップさが少々あざとすぎるようにも見え、登場するキャラクターたちに総じて実在感がなかった。 現代劇として映画化する以上は、一定以上のリアリティは不可欠なわけで、その部分を担保できなかったことは大きな敗因と言えるだろう。 ストーリーテリングの中心に「野球」が存在するわけだが、そうである以上、「野球」をもっと象徴的に描く最低限の巧さがほしかった。 勿論、低予算の中編であるから贅沢は出来なかったのだろうが、ラストの球場シーンがまったくもって「プロ野球」に見えなかったことには失笑を禁じ得なかった。 流行作家としての伊坂幸太郎の小説は好きだし、いくつかの映画化作品も概ね面白く観ている。 今作も決して全く面白くないということではないけれど、他の作品と比較して捻りと毒気が弱いことが、大いに物足りぬ。[インターネット(邦画)] 4点(2017-07-20 23:33:15)《改行有》

12.  ホビット/決戦のゆくえ 正月三が日の中日深夜に鑑賞。正月休みも残り1日となり、気負うことなく豪華絢爛な映画を観たい気分で鑑賞。そういう意味では是非はともかくとしてちょうどいい映画だった。 「ホビット」三部作の最終作。「ロード・オブ・ザ・リング」の前日譚として、前シリーズ同様にピーター・ジャクソンが全監督を務め上げただけあって、世界観の統一感は文句無しに保たれていて、その映像世界の作りこみは全作品通じて圧巻だったと思える。 ただし、当然ながら、もはやファンタジー映画史の頂点に君臨する作品である「ロード・オブ・ザ・リング」の物語性と比べると物足りなさは否めない。 「ロード・オブ・ザ・リング」の熱心なファンであれば、そのストーリー性により深みを与えるために“追加”された豪華なスピンオフとして、存分に楽しめる映画シリーズだったとは思うが、そうではない者にとっては、それなりに楽しめる反面、ストーリーの面白さに欠ける作品として映ってしまっただろう。 英国人俳優マーティン・フリーマンを主人公に配したことは大正解だったと思う。この俳優の持つ“謙虚な存在感”は、やはり特別なもので、“前日譚の主人公”であるビルボ・バキンズというキャラクターが持つ性質にとても合っていたと思う。 ともかく、全6作品に及ぶあまりに膨大な映画世界を描き切ったピーター・ジャクソンには敬意を表したい。[CS・衛星(字幕)] 7点(2016-01-06 15:34:30)(良:1票) 《改行有》

13.  ホビット/竜に奪われた王国 三部作の最終作公開のタイミングを知り、一年前の公開時にスルーしたままになっていたこの第二作目をようやく鑑賞。 「ロード・オブ・ザ・リング」(以下LOTR)は全作を劇場にて高揚感たっぷりに観たタイプなので、同様に繰り広げられる大ファンタジーの壮大な世界観には、やはりアガる。 ただし、生じた高揚感の矛先は、この“前日譚”を通り越して、やはり「LOTR」に向いていることは否めない。 前日譚であることの宿命とはいえ、「LOTR」と比べてしまうと物語規模の圧倒的な小ささを感じてしまう。そして、ストーリーテリングの推進力も、圧倒的に弱い。 「LOTR」は、常に別の道程を辿る各パーティーの冒険が並行して描かれ、それがストーリーテリングに厚みを持たせていたが、今作は基本的に主体であるドワーフ一行の冒険のみが延々と続くので、どうしても飽きてしまう。それぞれのキャラクターに華がないことも痛い。 最終作を観ていないので明言はできないが、無理に三部作などにする必要はなく、単作で纏め上げたほうが良かったと思う。 大スクリーンで観てナンボの作品であることは間違いないので、自宅の小さなテレビで観たことは大いにマイナス要因だっとは思うけれど、現状の期待値では最終作を観るために劇場に足を運ぶことは正直難しい。 英BBCの「SHERLOCK」の大ファンなので、マーティン・フリーマン(ホビット)とベネディクト・カンバーバッチ(スマウグ)の「対峙」は、ちょっと胸熱だったけれどね。 最後にこれだけは言いたい。 前作では敢えて突っ込まなかったが、“ずんぐりむっくり”が身体的特徴のはずのドワーフなのに、“王”や“恋愛担当”は結局細身のイケメンであることが、なんだか納得いかない。[CS・衛星(字幕)] 5点(2014-12-08 16:58:13)(良:1票) 《改行有》

14.  ポセイドン(2006) 《ネタバレ》 ご存知1972年の傑作パニック映画「ポセイドン・アドベンチャー」のリメイク作品。 このリメイクにおいては、巨匠ウォルフガング・ペーターゼンの威光の残像にすがったのかもしれないが、映画自体は残念ながら「B級映画」の範疇に“しっかり”とおさまっている。 まあしかし、そのこと自体はある程度予想出来たことなので、パニック映画ファンとしては、序盤から繰広げられるこのジャンルの「予定調和」を逆に楽しむことに決めた。 そう開き直れば、全編通してそこそこ楽しめるB級パニック映画であったと思う。 オリジナルに対してストーリーテリングやキャラクター設定があまりに稚拙であることは目をつぶるしかない。 主人公をはじめ各キャラクターの人物背景の描写があまりに乏しいことも、少数パーティーに至るまでの半ば強引な展開も、まだ笑って済ませられる。 が、しかし、最終的には一つの顛末が大いなる違和感として突きつけられてしまった。 すなわち、「おい、おーい!アンタ何で生き残っちゃってるの!?」ってことである。 パニック映画において誰が死に、誰が生き残るという顛末は最重要の娯楽性でもあるので、勿論ネタバレは避けたいが、“死亡フラグ”完全無視のまさかのラストに面食らってしまった。 当該俳優が「絶対に死にたくない!」と言い張ったとしか思えない……。ラストのスクリューのシーンは絶好の“死に場”だったろうに……。 このあり得ない展開は、当然マイナス要因ではあるけれど、予想外であったことは間違いない。良い悪いは別にしてこの「予想外」は、ある意味観た価値があったとも言える。 ともあれ“お口直し”は絶対必要。近々、名作「ポセイドン・アドベンチャー」を観直そうと心に決めるには、充分な映画だった。[CS・衛星(字幕)] 4点(2014-10-11 01:26:03)《改行有》

15.  ホワイトハウス・ダウン はっきり言って「サイコー」だった。まずそれを断言したい。 久しぶりにローランド・エメリッヒ監督らしい大仰でどストレートな娯楽映画を心から堪能出来たことに、満足感を超えて幸福感すら覚える。 1996年公開の「インデペンデンス・デイ」を観て以来、誰が何と言おうと僕はこのドイツ人映画監督のファンだ。そのことを再確認出来たこともまた嬉しかった。 ホワイトハウスがテロリストに襲われ、そこに偶然居合わせた主人公が現職大統領とタッグを組みつつ絶体絶命の危機に挑むというプロット。実際に描かれるストーリーの大筋にそれ以上のひねりなどは正直無い。おそらく大抵の人が容易に予想できる大団円を迎えて映画は終幕する。 だが、「サイコー」なのだから仕方ない。ストーリーの顛末が読めようが予想通りだろうが、それでも面白いのだから何の問題もない。 僕が長らくこの大味なエンターテイメント映画ばかりを作り続ける監督が好きなのはまさにその部分で、「娯楽」の王道を貫き通した愛すべきベタ映画を見せてくれるからに他ならない。 それは言い換えれば、「俺たちが観たいアメリカ映画」を見せてくれるということだとも思う。 「インデペンデンス・デイ」と同様に、今作も紛れもない“アメリカ万歳”映画である。 自国が発端で巻き起こった世界的な危機を、世界中の誰が見ても“分かりやすい”崇高なる意地とプライドで挑み、駆逐する。 「どうだい、やっぱりこの国は凄いだろう!?最高だろう!?」と極めて直接的に訴えてくる。 その工夫の無い娯楽性、あまりに現実的ではない映画世界に対して、現実の世界情勢などを引き合いに出しつつ否定し嫌悪感すら覚える人も多々いることは理解できる。 ただし、そういう否定的感情と同時に、それでも世界中の人々がこの超大国に対して多大な“あこがれ”を抱いていることも事実。 映画を観て、空想と現実の狭間で揶揄しつつも、心の中では「こういうアメリカであってほしい」「アメリカはこうでなくちゃ」という感情が少なからず存在するのだと思う。 このドイツ人映画監督が長いフィルモグラフィーを通じて、“アメリカ万歳”の娯楽映画をひたすらに作り続けている意味は、まさにそういうことだと思える。 ともかく、小難しい感情は一旦抜き去って、馬鹿らしいアクション映画の世界にただ浸ることが、この映画に対しての正しい在り方だ。[ブルーレイ(字幕)] 9点(2014-03-22 01:53:46)(良:1票) 《改行有》

16.  ホッタラケの島 遥と魔法の鏡 充分に予想出来たことではあったが、いかにもフジテレビらしい表面的なポップさが、“際立つ”というよりは、“鼻に付く”ファンタジー世界の映像的なクオリティーの高さは認めつつも、やっぱりハマれなかった。 可愛らしさとユニークさを押し売られているようなこの感じは、このキー局から発せられる“娯楽”すべてに共通するもので、個人的にこの数年特に嫌悪感を覚えてしまう。 ストーリーは極めてありきたり。「不思議の国のアリス」的な導入から始まって、他の作品で何度使い古されてきたか分からない“死別した家族との心の交流”が、特に何の工夫も無く描き出されていた。タイトルからしていかにもでダサ過ぎる。 ありきたりでも何でも、お話として説得力が備わっていれば、充分に観れる筈だが、主人公をはじめとするキャラクター達の言動における「理由」が非常に曖昧で、薄っぺらい。 完全に、「そういうストーリーだから」という理由が先行する形で、アドベンチャーが繰り広げられるので、感情移入をすることが出来なかった。 娘をもつ一人の親としては、ラストのくだりに対してはどうしても涙腺が緩んでしまったけれど、それはもはやこの映画によるものではなく、あまりに普遍的な親の心情によるものでしかない。 その他諸々注文をつけたくなる部分は数多い。 いくらなんでもあれだけ危険な目にあって無傷ということに違和感を感じる。 「不思議の国のアリス」的な導入なのだから、むしろがっつりと“夢オチ”にしてしまって良かったと思う。 「夢だったのかもしれない」と思わせた方が、主人公自身が自らの中で心の成長を遂げたことが際立つし、押し付けがましい世界観にも幾分納得がいったと思う。 最終的には、綾瀬はるかが声優を担当したヒロインの、微妙にエロい短いスカートの丈の印象だけが残る「不純」なアニメ映画に仕上がってしまっており、残念なような、嬉しいような……。[インターネット(字幕)] 3点(2013-06-05 23:36:31)(良:1票) 《改行有》

17.  ボーン・コレクター 猟奇殺人サスペンス映画ブームの90年代に量産された凡作の一つと言わざるを得ないのが正直なところ。 雰囲気としては、新米捜査官+殺人のプロフェッショナルコンビのパートナー感は「羊たちの沈黙」のそれを、そして、主人公らの身近に潜む殺人鬼設定は「セブン」のそれを狙っているのは明らか。 ただ、この映画の到達点は、比較に出すことがはばかれるくらいに、そのどちらの名作にも遠く及んでいない。 「駄作」と評してしまっても差し支えはないけれど、個人的に「凡作」と留めたいのは、まだまだ若くてかわいいアンジェリーナ・ジョリーの瑞々しさに免じて。 同じく主演のデンゼル・ワシントンの安定した存在感もあり、脇役も含めてキャストのパフォーマンスに何とか助けられている部分は大きい。 犯罪学の天才だが寝たきりの師匠と、素人同然だが天賦の才を持った弟子とのコンビによって、事件の真相に迫っていくという構図は面白かったが、肝心の当人同士の心理描写があまりに唐突で、この二人が互いに信頼していくくだりに説得力が無さ過ぎた。 もっと長いスパンをもって、幾つかの難事件を解決していくプロセスの中で、主人公コンビが連携と信頼を深めていくという「必然性」があれば良かったのにと思う。 また、捜査に携わるその他の警察スタッフや主人公の面倒を見る介護士ら、主人公二人以外の面々のキャラクターも立っており、彼らが醸し出す“チーム感”に好感が持てただけに、この映画の素材はテレビドラマシリーズの方がハマったのではないかと思う。 真犯人が誰か?ということについても、途中ふいに差し込まれる無意味なシーンによって容易に想像がついてしまう。それが伏線となっているというわけでもなく、本当にただ無意味なシーンでしかないので、興は冷める一方だった。[インターネット(字幕)] 3点(2013-03-24 21:20:16)《改行有》

18.  ホビット/思いがけない冒険  「壮大」というよりは「膨大」な映像の“物量”に気圧された。 それがそのままエンターテイメント大作の質としてのパワーに直結して感じられたなら良かったのだけれど、鑑賞日は三が日の最終日、年末年始の疲労の蓄積がピークに達した状況では、正直呆然と眺めるしかなかった。 コンディションを整えられていなかったことに対しての自責を感じつつも、"見慣れた”映画世界に「退屈」を感じてしまったことは否めない。    「ロード・オブ・ザ・リング」(以下「LOTR」)三部作が映画史に燦然と残るファンタジー映画の傑作であることは間違いないと思っている。 その“前日譚”を同じピーター・ジャクソンが描き出すということに対しては、大いなる期待と同時に、「二番煎じにならないのか?」という危惧はどうしたって拭いされなかった。 結果として言えることは、やはり危惧した通り、何だか見慣れた映画世界がまた一からスタートしたのだなという印象に帰結してしまったということだ。 世界観の作り込みは当然ながらもの凄い。ただし、そこに前三部作を超越した何か“新しいスゴさ”があるかというと、そういうものは感じられなかった。 ガンダルフをはじめとしてお馴染みのキャラクターが登場するシーンは、かつての高揚感が彷彿とされ確かにアガる。ただそのアガり方も、あくまでスピンオフ的な盛り上がりに過ぎず、「前日譚」である以上「LOTR」を越える程の物語性は望めまいという固定概念が先行するため、今ひとつ高揚感に浸ることが出来ない。 またキャスティングの地味さも厳しい。俳優の名前で客を呼ぶタイプのエンターテイメント作品ではないということは分かっているが、新キャラクターの殆どが無名俳優ばかりで印象が薄いので、登場人物の多さがただの雑多さに繋がってしまっている。 たとえ現時点での知名度は低くとも、たとえばヴィゴ・モーテンセンやオーランド・ブルームクラスの実力やスター性を備えた俳優を起用してほしかったところだろう。 とはいえ新たな“三部作”は始まったばかり。顧みてみれば、「LOTR」の一作目を初めて観た時の印象もそれほど良くはなく、二作目、三作目の盛り上がり方で一気にシリーズ全体が昇華していった。 とりあえず前三部作を観直しつつ、次作「スマウグの荒らし場」の公開をじっくり待つことにしよう。[映画館(字幕)] 6点(2013-01-03 22:24:53)(良:1票) 《改行有》

19.  ボーン・レガシー アクション映画として“見所”は確実にある映画だとは思う。しかし、あまりに"巧くない”映画であるということも確実に言え、故に著しく面白味に欠ける映画に仕上がってしまっている。 “ボーンシリーズ”は好きだったし、主人公に抜擢されたジェレミー・レナーは昨今の再注目株だし、レイチェル・ワイズは大ファンだし、エドワード・ノートンの絡みにも期待していた。 が、終わってみると、すべてが「中途半端」という言葉に尽き、“本筋”には遠く及ばない「番外編」という印象に終始した。 敗因は色々あろうが、序盤から最も気になったのは、テンポの悪さだ。 “ボーンシリーズ”は、決してド派手なだけの描写に頼らないスピーディーでリアルなアクションシーンが魅力だったが、アクションシーンの質そのものは一定の水準を保ってはいるものの、全体的なテンポがあまりに鈍重で間延びしてしまっている。 更には、組織に追われる主人公がヒロインと共に逃避行を繰り返すという、お決まりであまりに工夫の無いストーリーテリングが、退屈さに拍車をかける。 アクションシーン自体も、他の映画で何度も観たことがあるようなシーンが繰り返されるばかりで、目新しさがまるで無かった。 そしてストーリーそのものは単純なのだろうが、作戦名等の専門用語が無駄に羅列されたり、所属がよく分からない存在感の薄い登場人物が続々と登場したり、ふいに過去の描写が挿入されたり、“ボーンシリーズ”とのリンクが無意味に強調されたりと、ストーリー構成をいたずらに難解にしているように思えた。 脚本家出身の監督なのだから、アクションシーンの多少の劣化はまだしも、ストーリーそのものがあまりに稚拙なことには、言い訳の余地はないと思うし、“ボーンシリーズ”を描き出した人だけに残念な限りだ。 もしこのまま再シリーズ化しようというのならば、再び脚本家に専念することをお勧めする。[映画館(字幕)] 4点(2012-10-06 17:03:19)(良:2票) 《改行有》

20.  北海ハイジャック 《ネタバレ》 ロジャー・ムーアの「007」映画を観ようと物色していたら、今作のパッケージが目にとまり、イントロダクションを読む限り面白そうだったので鑑賞に至った。 女嫌い+猫好きという主人公のキャラクター性の妙だったり、作戦実行に至るまでの心理戦を映画の大半に渡って展開させる等、特徴的な面白味はあったと思うが、残念ながらそれらが娯楽性に直結していない印象を受けた。 全体的に説明不足だったり、結局は場当たり的な展開が、興を冷ましてしまったことは否めない。 クライマックスに至るまでずっと百戦錬磨の知将ぶりを誇示する主人公だが、結局お前の作戦“穴”だらけじゃん!と突っ込みを入れたくなってしまった。 自分の部下に敵と間違えられて襲われ、その部下を海にたたき落とすシーンには笑ってしまった。 その他にも、そもそも主人公の私設部隊が、黙々と訓練を繰り返してきた理由は何だったのか?など、根本的な設定に対しても説明がなく、腑に落ちない部分が大きい。 ラスト、実は主人公は犯人一味だったとか、逆転的な展開を用意してほしかったと思う。 主人公の窮地を助ける“少年”役の女優が可愛かった。彼女のキャラクターは、この手のアクション映画において、現場に居合わせた女性キャラが主人公を手助けする活躍を見せるという定番要素の走りだろうか。 また悪役を演じるアンソニー・パーキンスの存在感があり、良かったと思う。 見るべき部分がある映画であることは確かだが、総合的には褒められた映画ではなかった。 さてこのままでは、ロジャー・ムーアに対する印象が悪いので、当初の意向通り「007」を借りに行こう。[DVD(字幕)] 4点(2012-09-20 15:16:33)《改行有》

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