みんなのシネマレビュー
やましんの巻さんのレビューページ[この方をお気に入り登録する

◆検索ウィンドウ◆

◆ログイン◆
メールアドレス
パスワード

◆ログイン登録関連◆
●ログインID登録画面
●パスワード変更画面

◆ヘルプ◆
●ヘルプ(FAQ)

◆通常ランキング◆
●平均点ベストランキング
●平均点ワーストランキング
●投稿数ランキング
●マニアックランキング

◆各種ページ◆
●TOPページ
●映画大辞典メニュー
●アカデミー賞メニュー
●新作レビュー一覧
●公開予定作品一覧
●新規 作品要望一覧照会
●変更 作品要望一覧照会
●人物要望一覧照会
●同一人物要望一覧照会
●関連作品要望一覧照会
●カスタマイズ画面
●レビュワー名簿
●お気に入り画面
Google

Web www.jtnews.jp

プロフィール
コメント数 731
性別
自己紹介 奥さんと長男との3人家族。ただの映画好きオヤジです。

好きな映画はジョン・フォードのすべての映画です。

どうぞよろしくお願いします。


…………………………………………………


人生いろいろ、映画もいろいろ。みんなちがって、みんないい。


…………………………………………………

投稿関連 表示切替メニュー
レビュー表示レビュー表示(評価分)
その他レビュー表示作品用コメント関連表示人物用コメント関連表示あらすじ関連表示
コメントなし】/【コメント有り】
統計メニュー
製作国別レビュー統計年代別レビュー統計
要望関連 表示切替メニュー
作品新規登録 / 変更 要望表示人物新規登録 / 変更 要望表示
要望済関連 表示切替メニュー
作品新規登録 要望済表示人物新規登録 要望済表示
予約関連 表示切替メニュー
予約データ 表示

【製作年 : 2000年代 抽出】 >> 製作年レビュー統計
評価順1
投稿日付順1
変更日付順1

1.  マイアミ・バイス マイケル・マンの映画は、文字通り「男(マン)」を描いたものだと、よく言われる。が、実はそれ以上に「プロフェッショナル」たちの姿、ただそれだけを描こうとしたものなのだと思う。刑事であろうと犯罪者であろうと、彼らは、自らの成すべき「仕事」をただ果たそうとする。「仕事」のためなら、彼らは臆することなく死地へと向かう。プロである彼らにとって「よく生きる」ことは、「よく死ぬ」ことと同義なのだ(唐突だが、武士もまた「仕える者(=プロ)」であるなら、『葉隠』の「武士道とは死ぬことと見附たり」とは、何とマイケル・マン的な定義であることだろう!)。 映画は、そんなプロたちが「プロ」たるゆえんを凝視する。銃や武器の鮮やかな扱い方、車の転がし方、あるいは敵地へと潜入する時の物腰、表情・・・。そして主人公たちが一撃(ワンショット)で相手をしとめるように、マンの映像(ショット)は、そのひとつひとつの〈所作〉を、恐ろしいほど的確(クール!)に捉えていく。それ自体がプロフェッショナルな〈所作(=演出)〉によって、マンは、“巨大麻薬組織に挑む潜入捜査官たち”という「物語」とは別の次元で「映画」を成立させるのである。すなわち、プロたちが自分たちの「仕事」を遂行する姿、その〈所作〉だけによって。 一方でマイケル・マンの映画が男と女ののっぴきならない“関係”を描くのは、彼らもまた一介の男であり女であることを示すためだろう。その時この、「プロ」であることと「人間(マン)」であることの葛藤もまた、いかにもマイケル・マン的な主題であるだろう。が、しかしあくまでも主人公たちにとって、「仕事」を完遂することが最優先される。“情”は、常に「その次」なのだ(・・・ただ、たぶんこの『マイアミ・バイス』に唯一“瑕疵”があるとしたら、コリン・ファレルとコン・リーの刹那的な恋愛部分がいささか端折られ過ぎている、ということだろう。たぶん、再編集の段階によるカットで?)。 確かに、トニー・スコットやマイケル・ベイあたりの映画のように新奇(珍奇?)なスペクタクルもなく、「劇(ドラマ)」的な面白味に配慮のない無愛想(!)な映画かもしれない。けれど〈所作〉の英語訳が「アクション」なら、この映画は、言葉の真の意味において完全無欠の「アクション」映画に違いない。COOL![映画館(字幕)] 10点(2006-09-08 20:07:03)(良:2票) 《改行有》

2.  真夜中の弥次さん喜多さん 《ネタバレ》 見終わって、しばし絶句。思わせぶりなモノクロ映像から始まるものの、その実まるで陰影のないペラペラの画面。もはや“破綻”などということ自体が空しくなるほど、いきあたりばったりの展開。意味深のようで、いきなりナ~ンチャッテと足下をすくわれるだけでしかないエピソード。テレビの最悪な部類のバラエティ番組に比べても「笑えない・面白くない・痛い」コント風の意味不明なシーンの数々…。なんだコリャ、悪い冗談か? と思われても仕方あるまい。 しかし、ここまで見る者に居心地の悪い思いをさせつつ、その“居心地の悪さ”には、一方で不思議な切実さというかなまなましさがある。そう、もはや失笑すら出ないような、ほとんど“不愉快”なまでのこの映画が持っている<感触>を、ぼくたちはすでに知っているじゃないのか。何故なら、それはぼくたちがこの「現実」を生きていく上で多かれ少なかれ常に感じている<感触>、笑えないコントの連続めいたリアリティの希薄なこの「現実」そのものの感触に他ならない…。 主人公の弥次さん喜多さんが、何を求めて旅を続けていたかを思い出そう。彼らは、すべてがナンセンス(=無意味)な“この世”にあって本当の「リヤル」を探していたのだった。その時、そんな二人をとりまくナンセンス(=馬鹿馬鹿しい)な事件や脱力ものの展開は、カタチこそ違えど、家庭で、学校で、職場で、あるいはこの社会のどこであれ、日々ぼくたちが遭遇し、感じているあの「気分」…リアルなものの薄っぺらさや嘘っぽさを、これ以上なく「リヤル」に表象したものとして迫ってくるのだ。 監督・脚本のクドカンは、はじめから「良い映画」なんて撮ろうなんて思っちゃいない。彼はこのフィルムに、この今という「現実」そのもの(の「気分」)だけを切り取り(=撮り)、映し出そうとした。不快で不愉快でまったりと希薄なその<感触>を、そのままこの男の「天才」はフィルムに描きとったのだ。…もしアナタがこの映画を見て不快や不愉快な思いにとらわれたなら、それは間違いなくこの映画における「正しい」見方なのです。ぼくたちは、こんな不快で不愉快な「現実」を生き、でもどこかで本当の「リヤル」を夢見て生きている。そう考えると、とても「泣ける」映画じゃありませんか…いや、マジで。[映画館(字幕)] 10点(2005-04-19 21:47:26)(良:2票) 《改行有》

3.  マイ・ボディガード(2004) トニー・スコットという男、何となく「リドリー・スコットの“不肖”の弟」だの「ジェリー・ブラッカイマーの御用監督」だのと簡単に片づけてしまえるほど、実は馬鹿にしたもんじゃない。彼は、プロデューサーが期待した通りの「娯楽映画」を撮る技量において、少なくともマイケル・ベイあたりの、やたらキャメラを何台も使ってフィルムを浪費し、編集で誤魔化すばかりの「撮影のイロハも知らない」輩とは一線を画す。少なくとも役者の動かし方(たとえば本作で何度か繰り替えされる、デンゼル・ワシントンがあてがわれた部屋にダコタ・ファニングやその母親が訪れる場面。それが、どれも同じような構図でありながら、役者たちの立ち居振る舞いの的確な押さえ方によって、それぞれにまったく異なる主人公の感情を、その内面の動きを観客に伝える。確かに↓の【まぶぜたろう】さんのご指摘の通り、「やる時にはやる」んである)において、トニーはリドリーをはるかに凌駕しているとすらぼくは信じている。 けれど、タランティーノが「旬」となればそのセリフのグルーヴィ感やら香港映画テイストを。今回なら『アモーレス・ペレス』や『21g』のアレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ監督の時制を前後させたストーリーテリングや映像の質感を頂戴する。といった、そのときどきの最新流行の“意匠”を取り入れる「軽薄さ」がまず恥ずかしい。そこに断じて必然性はなく、単なる“ファッション(衣装)”でしかないんである。そして言うまでもなく、単なるものマネであることでその作品は、観客の眼にふれる時には決定的に「古い」のだ。いったい、古くなった「流行」にどれだけの価値があるだろう? さらに決定的なのが、ワイドだろうがヴィスタサイズだろうが、彼の映画は常に構図が画面の中心を基点に収められ、ちっとも空間的な広がりを感じさせないこと。及び、人物を撮る時の、ミディアムショットとクローズアップの中間みたいな位置取りが、実に居心地悪いってこともある。もちろん、それはぼく個人の感覚というか生理的なものかもしれない。ただ間違いなく言えるのは、かれの映画がテレビ用にトリミングされても、ほとんど影響がない(!)ってことだ。逆に言うなら、彼の映画はテレビのモニターこそがふさわしいスケールとして矮小化されている…。 でも、そうかぁ、ハスミシゲヒコ先生は「高く評価」してるんすかぁ。6点(2005-01-29 18:00:02)《改行有》

4.  マスター・アンド・コマンダー 混乱の極致といった海戦シーンで、しかし、当時の戦い方がどんなもので、乗員たちはどう行動したのかをきっちりと描いているあたりに感心。物語の時間軸が今イチ分かりにくいという難点はあるものの(いったいラッセル・クロウ扮する艦長の船は、どれくらいのあいだ敵のフランス艦と追いつ追われつしていたんだろう…)、この手の「海洋戦記もの」としては、ベストの出来でしょう。一方で、自分の“弱さ”ゆえに海に身を投げた青年将校が、ゆっくりと暗い海の中を沈んでいく姿や、ガラパゴス諸島でのシークエンスに見られるほとんど「崇高さ」に達した詩情は、やはりピ-タ-・ウィア-監督ならでは。この人、限りなく「芸術(アート)」に近く、しかしあくまで『娯楽(スペクタクル)」としての“矜持”を失わない商業(エンターテインメント)映画の担い手として、おそらく現代屈指の監督でしょう。そう、ウィアーならどんな題材でも、素晴らしくハイブロウな、そして「面白い」映画に仕立て上げられる。この〈作家性〉と〈職人〉の完璧な均衡が、逆に彼の才能を見えにくくしている面は確かにあるかもしれない。そう、この監督は「物語」や、時には「映画」すらも超えてしまうような「天才たち」のひとりではないでしょう。が、今のハリウッド映画の水準(!)を真に支えているのは、同じ“ピーター”でも決して『ロ-ド・オブ・某』の監督じゃなく、このオーストラリア出身のピーター・ウィアーの方だってことを、ぼくは声を大にして言いたい。…興行的に失敗し、アカデミー賞でも完全にアテ馬扱いにしたことへの憤りを込めて、満点献上。10点(2004-03-19 14:39:25)

5.  マトリックス レボリューションズ マシンシティーに向かうネオとトリニティーが、群がる機械生物を振り切るために雷雲に突入する。そして雲を突き抜けたそこには、青い空と太陽が。「Beautiful!(美しい…!)」と思わずつぶやくトリニティー。…この壮大(にして空虚)なSFトリロジ-(3部作)で、ぼくが唯一ハッとさせられ、「感動」したのがこの一瞬だった。言い換えるなら、このヴァーチャルな「虚構」を拒否して「現実」を志向する人間たちの苦闘を描く物語自体が、徹底的にヴァーチャルなイメージデしかない中にあって、このワンシーンだけが「リアル」を感じさせてくれたという…。とりあえず、このシーンと出会えたことだけで、ぼくは(不遜な言い方ですが)このシリーズを「許そう」と思ったのでした。実際のところは、ぼくもまた『1』のところでSTING大好きさんが書かれていたレビューにまったく賛同するものです。あれ以上に見事な『マトリックス』批判(と同時に映画を擁護する文章)を、ぼくは知らない。僭越ながら、皆さんもご一読をお薦めするしだいです。5点(2003-12-08 19:16:49)

6.  マトリックス リローデッド ビデオでも良い感じ、とはまさにこのシリーズにあるような評価。小賢しい設定の凝り方も鬱陶しいだけだし(所詮、コケおどかしでしかない「知」的な意匠の数々…。但し、出典はどれもパルプ雑誌のSFか、日本のアニメと思しい)、香港映画を西洋人がサル真似したら、いかにトホホな代物になるかを思い知らされるフヤケた格闘シーンも、いい加減にしろ! と言いたい。唯一、高速道路でのチェイス場面だけはたいしたものでしたが。キャリー=アン・モスも、老けちゃったしなあ…それが何より悲しい…。以上、ウォシャウスキー兄弟は、ジャック・ショルダー監督の『ヒドゥン』みたくヒネッたB級映画こそがよく似合う、と。5点(2003-05-21 13:13:36)

全部

Copyright(C) 1997-2024 JTNEWS