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プロフィール |
コメント数 |
2609 |
性別 |
男性 |
ホームページ |
https://tkl21.com |
年齢 |
43歳 |
メールアドレス |
tkl1121@gj8.so-net.ne.jp |
自己紹介 |
「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。 映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。 |
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1. 湯を沸かすほどの熱い愛
冒頭の朝ごはんのシーンから、この映画の主人公である“母娘”の存在感に、何だか“違和感”を感じた。
ただし、その“違和感”は、決して不快なものではなくて、何気ない会話を交わす母娘の佇まいに実在性の曖昧さを感じ、彼女たちの発する空気感が妙に心地よく、不思議な浮遊感を覚えたのだった。
宮沢りえと杉咲花が演じるその母娘像は、勿論実像としてそこに映っているのに、感覚的にはまるで秀逸なアニメーションを観ているようだった。
その不思議な感覚の正体は、ストーリーが連なり、織り重なるドラマの流れの中で、徐々に明らかになっていく。
詰まるところ、この映画は、ありふれた人情物語ではなく、母娘の機微に溢れた愛すべき“ファンタジー”だったのだ。
神々しいまでに強く慈愛に満ちた母親、その厳しく熱い愛を一身に受け止める娘。彼女たちが発する時にエキセントリックにさえ見える「激情」の意味と意図が、“ファンタジー”という言葉に集約される。
それは決して非現実的な絵空事を描いているという意味ではない。
少々現実離れしていようが、常軌を逸していようが、ありのままに描きつけたかった「母の愛」。
その表現の手段として、現実的な“しがらみ”を廃すためのファンタジー性だったのだと思う。
「母の愛」と一言で言うけれど、そのありふれたテーマ性を、こんなにも真っ直ぐに、深く、強く、愛おしく、そしてファンタジックに描いた日本映画があったろうか。
冒頭で感じた違和感を早々に通り越し、この映画世界に息づく母娘の言葉と表情がダイレクトに心に突き刺さるようになってからは、琴線が震えっぱなしだった。
この物語が素晴らしいのは、テーマである「母の愛」と、それにまつわる「母娘の機微」が、決して主人公母娘だけの事柄ではなく、ストーリーに絡む多面的かつ多層的な“母娘像”の中で描きつけられていることだ。
そして、描き出されるそれらの殆どは、決して安直な美談としてではなく、胸が締め付けられるような辛辣な現実と共に映し出される。
自らの病を押し隠し、まさに「聖母」のような美しさと強さを見せる“母親”自身にも、自らの“母親”に対する拭い去れない心傷があり、その傷は安易に癒やされることはなく、より一層深く刻まれる。
むしろ、この映画の中で語られる幾つかの「母娘」の関係性においては、一つとして“幸福”のみで綴られているものはない。
どの母娘も、何かしらの深い後悔と失望に苛まれ、恨みや怒りを孕み、苦しみ、泣き濡れる。
それでもだ。
それでも、心のどこかで、母親は娘を愛し、娘は母親を愛し続ける。幸か不幸か、そこから逃れることなんてできないのだ。
「でも、まだ、ママのこと、好きでいてもいいですか?」
母親に置き去りにされた少女が振り絞るように発するその吐露に、この映画に登場するすべての「娘」の感情が表れているのだと思えた。
いや泣いた。少なくとも、この1〜2年の間では一番泣いた。
宮沢りえは、最強だ。杉咲花は、最高だ。
ラストシーンは、銭湯での葬式。その一寸エキセントリックに見えるシーンから、「風呂桶」と「棺桶」という言葉に見え隠れする密接な関係性を知ったこの幸福な映画体験は、暫く心から離れそうにない。[CS・衛星(邦画)] 10点(2018-06-30 16:48:49)《改行有》
2. 遊星からの物体X ファーストコンタクト
ジョン・カーペンターの傑作「遊星からの物体X」の“前日譚”というコンセプトではあったけれど、実際のところはほとんど“リメイク”だったように思う。
それくらい、ストーリー展開が酷似していて、あまりに目新しさが無かったことは否めない。
前日譚と言うからには、1982年の公開時に世界に恐怖とトラウマを与えた“物体X”の「正体」に少なからず踏み込んでいってほしかった。
前作と同じ舞台の極地で、“宿主”の宇宙人を掘り出した地球人チームが、前作同様に紛れ込んだ“物体X”との死闘を繰り広げるだけでは、工夫がなさ過ぎる。
「何おんなじこと繰り返してんねん」と、前作主演のカート・ラッセルに、お門違いなツッコミを入れたくなってしまう。
ジョン・カーペンター監督が生み出した世界観を出来るだけ壊さないようにした製作意識は好感が持てる。
しかし、残念ながら続編としてもリメイクとしても、作品としてのオリジナリティーを付加するには至っていない。
この映画の見所である“人体変形”描写に“思い切りの良さ”はあったが、決してクオリティーが高いとは言えず、新しい観客を惹き付けるだけの“センス”も無かった。[ブルーレイ(字幕)] 3点(2013-06-30 11:35:16)《改行有》
3. 夢売るふたり
どこにでもいる普通の夫婦。そんな彼らの両の瞳の黒が、展開と共にじわじわと深まっていく。
映画は、序盤コメディタッチで描かれるが、ふいに垣間見えるその瞳の深い黒色が、安易な笑いを拒絶するようだった。
誰が見てもおしどり夫婦だった二人が、突然訪れた一つの“不幸”により、そのままの関係性を維持出来なくなってしまう。
それは決して劇的なことではなくて、世の中のどの夫婦にも内包されている普遍的な危険性の表れのように思えた。
自分自身、結婚をして3年半になるが、つくづく「夫婦」という関係性が一つの形に定まり続けるということはないと感じる。
結婚は決して“ゴールイン”などではなく、あらゆる試練の“スタート”だ。
その試練が幸福なものになるか、不幸なものになるか。そこには、本人たちの多大な努力と、それに匹敵するくらい大きな「運」が必要なのだと思う。
映画の中でこの夫婦が営む料理屋は、結果的にどの店も客入りが良い。
それは、この夫婦が本当に相性が良くて、その関係性に相応しい男女だったということの表れに他ならない。
でも、ほんの少しの行き違いによって、彼らは互いの相性の良さを信じ切れなかった。
それは本当に些細なタイミングのずれに過ぎなかった筈なのに、その小さなずれが大きな悲劇を生んでしまった。
ただし、だ。先に述べたように夫婦という関係性が続く以上は、その形に終わりは無い。
映画のラストで示される二人の表情には、悲劇のその先で、それでも離れ切れない夫婦の悲哀が滲み出ていて、そこには一抹の救いがあったように思う。
ストーリー展開においては強引な部分があることは否めない。しかし、それを補って余りある役者の演技力が随所に光っている。
主演の松たか子と阿部サダヲは、「普通」の夫婦の中にこそある「危うさ」を見事過ぎる程に体現していたと思う。特に、松たか子の体と心を張った演技は、彼女が女優としてまた一つ高みに上がったことを確信させた。
また豪華なキャスト陣の中にあって、風俗嬢を演じた安藤玉恵、女子ウエイトリフティング選手を演じた江原由夏、この決して有名ではない二人の女優の“実在感”が素晴らしかった。
そして、役者の印象的な演技を引き出した上で、西川美和監督は細やかな演出で纏め上げている。
長編映画4作目にして、日本映画界におけるこの女性監督の存在感は不動のものとなったと言える。[ブルーレイ(邦画)] 8点(2013-06-26 00:15:51)《改行有》
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