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【製作年 : 2000年代 抽出】 >> 製作年レビュー統計
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1.  イングロリアス・バスターズ 《ネタバレ》  大傑作。 スクリーンに映し出される多量の空薬莢とその前に積み上げられたナイトレイト・フィルム。 フィルムが発火し、スクリーンが燃え上がり、観客は撃ち殺され、映画館は爆破される。 映画そのものが燃えて、すべてが灰と化していくのだ。 映画への冒涜、あるいは尊崇。 崩壊していく館内、ショシャナの高笑いだけがサウンドトラックを通して響き渡る。 しかし映画は決して死なない。 やがてスクリーンがあった場所にかつては映画であった残骸たちが白煙となり舞い上がる。 そして蒼白な光が投影される。 そのショシャナの顔は幽霊そのものであるが、またそれと同時に優麗でもある。 これは彼女の復讐劇であり、映画の復讐劇でもある。 糞ったれた史実を、バット一本で完膚なきに滅多打ち、血生臭いフィクションをその上に張り付ける。 生と死の上に積み上げられた、新たなる歴史という名のフィルムは正に映画である。 間違いなくこれが彼の最高傑作。[映画館(字幕)] 10点(2009-12-01 19:15:49)(良:4票) 《改行有》

2.  グラン・トリノ 《ネタバレ》 俳優クリント・イーストウッドの死が、ベッドの上で静かに迎えられるのではなく、丸腰で無数の銃弾を撃ち込まれ地面に仰向けとなり(しかも十字架!)、それを俯瞰で撮らえるという形で迎えられるならば、それは最もふさわしい最期だ。 ウォルトはフォード社の自動車工場で働き、朝鮮戦争にも従軍し、年老いた今日では家の軒先で星条旗がはためいている、正にアメリカ栄光の時代を生きてきた男だ。だからこそ日本車に乗る息子も、次々と近所に越してくるアジア人も、何もかもを訝しく思う。 そんな彼が妻を亡くし、周囲を疎外することで、自らも疎外され、孤立することで自身の誇りや威厳を守ろうとする。 ある時ウォルトは、モン族のパーティーに招かれ、彼らの伝統を重んじ継承する精神に親近感を寄せるようになる。 それと同時に自身の死が近いことも悟り始める。 彼がやり残したこと、それは息子たちにすらしてやることが出来なかったこと、自分の魂を継承することだった。 やがてスーが暴行されるが、それは自分に原因があったと苦悶し涙する。彼は暗闇の中、椅子にどっしりと腰を据え無言のまま一点を見つめる。選択と決意の瞬間だ。 そして彼は立ち上がる。暴力の真の恐ろしさを知らない平和惚けした糞ったれの悪党どもに鉄槌を加えるのではなく、あえて彼らの暴力を噴き上がらせることにより、己の暴力を抑制し自らに鉄槌を加えることで贖罪とするのだ。だから十字架なのだ。 戦争を知らない世代にも罪はなくとも責任はある。罪は個人に関わり、責任は集団に関わるからだ。ウォルトがタオに継承したグラン・トリノは正にその責任だ。アメリカ栄光時代の魂としてのグラン・トリノ。これは人種的問題や血縁的問題などということを超越したところで感染する魂の継承だ。そしてそれは大きな責任の継承でもある。 タオがハンドルを握りしめ走り抜ける海岸線沿いの道、グラン・トリノの後ろを何台もの日本車(あるいは他国の車も含まれているだろう)が走り抜けていく。多民族国家アメリカは、真のアメリカの魂さえ継承され続けるならば、もはや白人の国である必要はないのだ。 俳優クリント・イーストウッドは死んだ。ではもし彼がスクリーンに帰ってくることがあるのならば、それは果たしてどの様な姿として戻ってくるのだろうか。彼のしゃがれ声が、まるで幽霊の歌声の如く劇場内に響き渡っていた。[映画館(字幕)] 10点(2009-04-26 12:14:04)(良:7票) 《改行有》

3.  チェンジリング(2008) 《ネタバレ》 「ママに会いたかった、パパに会いたかった、家に帰りたかった」という台詞だけでもう十分すぎるほどに心を撃ち抜かれた。そしてそれをガラス越しに見つめるアンジーが、まるでスクリーンを見つめる我々観客のようで、そのイーストウッドの客観性に追い打ちをかけられ震え上がった。 そして「希望」を口にするアンジーの赤く染まった口元の優しさ、これほどまでの愛情・・思い出すだけでも感慨深いものだ。 もちろん真のアメリカ映画は昔からアメリカや社会と戦ってきた、しかしこの映画はそれだけのアメリカ映画ではない。それはロス市警の不正を徹底的に追及する映画ではないし、ましてや殺人狂への遺恨を描いた映画でもないからだ。 息子と映画を見る約束を仕事の忙しさから果たすことが出来ず、家を後にするアンジー、そして家に取り残された息子。この時の描き方が、既にこの親子は二度と再会することはないという永遠の別れを物語っている。窓越しに母を哀しく見つめる息子をキャメラがトラックバックしていく、これがあまりにも決定的だ。 更には仕事が長引いてしまった彼女がようやく帰路に着こうとするのだが、赤い路面電車は彼女に車体を幾度となく叩かれるも、そんな彼女の左手など触れてもいないかのように知らぬふりを決め込み走り去ってしまうのだ。そして彼女が「なんてこと・・」というような表情を浮かべた時の少し望遠気味のショット、先ほどの路面電車を正面から捉えていたのが縦位置だとすれば、横位置に回ったショット、この瞬間こそが、彼女の表情から不安感を滲み出させ、後戻りなど出来ない道へと踏み出してしまったと告げているのだ。 この導入部を見れば、これこそが真の映画であると気付くのだし、登場人物の視線、キャメラの視線ということの重大さ、強さ、そしてその真意にはっとさせられるのだ。 アンジーの潤んだ視線や憤りを露にした視線の先には、不正や殺人狂などを越え、いつも必ず息子ウォルターがいるのだ。 「チェンジリング」は圧倒的な視線劇で、徹頭徹尾、愛情を描き貫いている。[映画館(字幕)] 10点(2009-02-24 23:08:57)(良:3票) 《改行有》

4.  ヒストリー・オブ・バイオレンス 《ネタバレ》 ラストシーンのあまりの素晴らしさ。 愛情の欠片もない無慈悲な兄との関係を、暴力によって断ち切った(かの様に見える ─ というのは暴力は暴力を生むというこの映画の法則に従えば、ここで断ち切ったとは言い切れない)トム・ストールは、愛情の消えかけた(かの様に見える ─ この後の展開がそうでなかったことを明白にしている)我が家に辿り着く。キッチンのテーブルの上には3人分の食事が用意されており、妻と子供ふたりが夕食をとっている。誰も何も語ろうとはしない。そこに苦悩するトムが帰ってくる。妻エディはうつむき、息子ジャックは戸惑う。トムは項垂れつつもキッチンに入ってくる。沈黙。エディはうつむいて、ジャックは戸惑っている。ここで、娘のサラがふと席を立ち上がり、後ろを向く。そしてふいとサラがこちらを向いたとき、(恐らくエディが用意しておいたであろう)真っ白な大きな皿とフォーク、ナイフが、か弱い手にしっかりと握られているではないか。サラはそれらをそっとテーブルの上に置き、席に着く。それを見たジャックは、大皿に盛ってあったチキンか何かをその真っ白な皿によそってやるのだ。この子供たちの愛情に答えるかのように、トムは静かに席に着く。そして目線の先にいるのは、勿論うつむいたままのエディだ。ここからは純粋な切返しが始まる。やがてエディの顔は上がり、二人は見つめ合う。そしてふと何かを見つけたという顔のトムのショットでこの映画は幕を下ろす。 「君の目を見たときに好きだということがわかった」トムはチアガール姿のエディを抱いてそっと呟く。つまりラストのトムが見つけたものは「それでもまだ愛している」というエディの愛情のまなざしだったのだろう。だからこの映画のラストに台詞は必要がないわけだし、この切り返しだけで、映画になっている。 ただしかしこの結末が、安易に愛情の安堵感だけで締め括られているとは到底思えない。この映画の根底には暴力は暴力である、暴力は暴力を生む、ということがあるからだ。暴力を愛で乗り越える映画では決してないのだ。ただエディのまなざしには「許し」が存在する。それは暴力の中にあるのではなく、やはり愛の中にあるのだ。許すこと。[映画館(字幕)] 10点(2008-10-02 01:49:05)(良:3票) 《改行有》

5.  ブロンド少女は過激に美しく 《ネタバレ》 まず、この女はどこを見ているのだろうかって思う。しかしそれは実はやはり単純なことで、男はこの物語を語る人、女はこの物語を聞く人、つまり彼女のやるべきことは男に視線をおくることなんかじゃなくて、彼に耳を貸すこと。ただそれだけ。女の耳はいつも必ず物語が紡ぎ出される男の方を向いている。故に女の視線はまるで盲目のそれのような妙ちくりんなものとなってしまった。 そしてやはり、ルイザの脚だ。ルイザの片脚がぴょんとなる。それはキスするのに身長が足りなくて、背伸びして、片脚立ちになるから。これをオリヴェイラは、ごくありふれたキスをするふたりというショットなどよりも、その脚のみを選択し可愛らしく切り取るわけだけど、それって実はラストへの布石だった。 ルイザが大股開きでソファーに浅く腰を据えぐったりと項垂れる。この風景の威力というのはかなりのものだ。この映画が60分をかけて描いてきたものをすべて崩壊させてしまう。これというのは彼女が唯一ひとりになったときに見せる彼女の本性であり、「ちっくしょー、やっちまったなぁ・・」っていう態度だ。実は柄の悪いお嬢様だったと(本当にお嬢様であったかすらもよくわからなくなってくるわけだけど)。 この真逆といえる人格を、片脚ぴょんと大股開き、という脚だけで、しかもふたつのショットで描いてしまうというのは、単純でありながらも、これこそが映画の豊かさなんじゃないのかって、オリヴェイラの映画を観ると毎度のことながら必ず気付かされるのだ。[映画館(字幕)] 9点(2010-10-20 03:12:17)(良:1票) 《改行有》

6.  息もできない 《ネタバレ》 暴力を振るう者はいつしか必ず暴力を振るわれる側になるのだということを、この映画はタイトルが出る前で既に語り、そして台詞として語り、そして全編を通して語り尽くす。暴力は暴力を生むこと、暴力の連鎖を食い止めることの困難さを示す。暴力を捨てたサンフンに彼が今まで振るい続けた暴力がまとめて返って来るのだし、それは実質的な暴力のみならず、辿り着きたい所に辿り着けなくなるという、暴力より遥かに過酷な罰となり我に返って来る。この映画もやはり暴力を振るった者である場合、愛や家族、そういったものであれど、彼を暴力という柵からは解き放つことは出来ないと示す。 しかしそれはそれであるが、そうであって欲しくはないというのが、希望や許しであり、勿論この映画もそれを描かずにはいられない。 ヨニはサンフンが何故泣くのか理由を知らないのだし、またサンフンもヨニが何故泣くのかを知らない。互いの理由を知らぬふたりが、全く違う理由のようで、根底は実は同じである理由で、共に涙をする姿をワンショットで撮る。つまりワンショットの中には結果のみが集約されているのだが、それと同時に観客のみがそのどちらの理由をも知っているということがこの漢江でのシーンの美しさを際立たせる。 そして焼肉店でのクロースアップ、クロースアップ、クロースアップ・・の連続は、サンフンの視点である。彼の姿形こそそこには存在し得ないのだが、彼の望んだ結末を、彼が望んだ光景を、彼に代わり、我々観客が目の当たりにする。その幸福感を共有した我々は涙を流さずにはいられない。その涙は勿論我々の涙だが、同時にその涙はサンフンの涙となる。この瞬間、映画はスクリーンなどというものを飛び出し、観客と一体化するのだ。傑作。[映画館(字幕)] 9点(2010-04-19 23:57:41)(良:3票) 《改行有》

7.  3時10分、決断のとき 《ネタバレ》 何という素晴らしさなのだろうか。正に、視線の、まなざしの映画だ。 何よりも、人々が向けるまなざしを見ているだけで、すーと吸込まれてゆきそうで、そしてそこから伝わってくる彼らの気持が体内に染込んでくる。だからこそ、単純なカットバックが幾度となく繰り返されるのだが、それだけでも充分なくらいの物語が構築されている。 ラッセル・クロウ演じるベン・ウェイドがクリスチャン・ベール演じるダン・エヴァンスに馬乗りになりながら首を締め付けるのだが、ダンの、金ではなく妻や息子たちに自分の誇りある姿をもう一度示したいのだ、という本心をベンは知り、物語はそこから一転し、彼らが屋根の上を伝いながら、ユマ往きの汽車が滑り込んでくる駅舎まで駆け抜けて行く様などは、もはや涙なくしては見ていられない。この瞬間、善悪などというものなど一切断切れ、あえて言うのであれば、それは絆や友情、そして誇りというものを懸けて、男ふたりが激しい銃撃のなかを駆け抜けて行く。このふたりが何かひとつのものを目指して共に駆け抜けて行くということなど、映画の中盤からでは想像だにつかない。にもかかわらず、ひとつのフレームの中でふたりが駆け抜けて行く姿たるや、見事という他ないだろう。 ラスト、息子のウィリアムがベンに銃口を向ける。この時の彼のまなざしの変化がまた素晴らしい。彼はベンと知り合ってからベンを憧れのまなざしで見つめていた。しかし、この時のまなざしは怒りそのものであり、いつ引金を引いてもおかしくはないのだ。しかしウィリアムは、無法者ベン・ウェイドをユマ往きの列車に乗せた父を心から誇りに感じた。だから撃たないのだ。何故なら、彼はまたその誇り高き父の継承者だからだ。 ただ、ふたりが対峙した瞬間、ベンはウィリアムにまなざしという拳銃で撃たれていたのだ。 だからこそ、そのまなざしを受けたベンのまなざし、この素晴らしさには計り知れないものがある。 ベンは誇りという絆で結ばれたダンの敵を暴力に任せ解決してしまうのだが、また同じく父と漸く誇りで結ばれたウィリアムはその暴力を自ら抑制する。ダンはその時思うだろう、誇りという事の尊さを。 そしてダンとの絆、あるいは彼の誇りに懸けて、ベン・ウェイドは、3時10分、ユマ往きの列車に自ら乗り込んで行くのだ。[映画館(字幕)] 9点(2009-08-10 02:46:54)(良:3票) 《改行有》

8.  トウキョウソナタ 《ネタバレ》 映画で人が走っている瞬間は素晴らしい。 この映画の主人公三人は、もう一度やり直したい、どうすればこの柵から抜け出せるかということをきっかけに、唐突に走り出す。 オープンカーの屋根を開けることで女の決意となった瞬間の美しさや、妻に見つかったことでの後ろめたさで狼狽する醜さや、大人に対する嫌悪感や子供であることの無力感、それらが一気に膨れ上がり映画そのものも走り出す。 そして彼らは「どこか」に向かう。家族という社会での最小単位のコミニュティから、救いがあるかもしれない「どこか」に辿り着くために外へ出る。しかし小泉今日子演じる佐々木恵が目にしたものは、海であり、海の向こうには陸だか船だかそれがあるのかもわからないくらいにまだ海が広がり続ける。 結局、三者とも、どこかに辿り着けそうで、どこにも辿り着けないのだ。 実際に存在したかもわからない橙色の光を見つめ涙したり、一度は死んでみたり、子供ながらに大人と同じ扱いを受けてみたり、果たしてそれが何か救いになるのか。 そして彼らは結局もとの位置に戻るしかないのだ。 恵は、自身を傷つけようとしている役所広司演じる泥棒に、最後に信じられるのは自分自身でしかないと言う。 井川遥が演じるピアノの金子先生は離婚するのだが、もともと他人だったのがまた他人同士に戻ったと言う。 所詮、個人は個人、他人は他人に過ぎない。自分ですらもうひとりの他人である。しかし一番信じられるのは自分でしかない。 この三人は静かに自分を信じ始めたからこそ家に帰り、お母さん役が作った朝食を食べたのだ。 確かに個人は個人で、自分の悩みなど自分で解決するしかないのだし、家族と言っても所詮は他人同士のコミュニティだ、でも違うんだよ、そうなんだけど違うじゃん、それだけであって欲しくないじゃんという、前向きな希望があの象徴的なラストシーンにはある。 それこそが救いだろう。許しや救いというのは愛の中にしかない。あの愛情に溢れた(ように見える)家族は陽の当たる中を、カーテンがたゆたうほどのそよ風に乗りながら、そうだけどもそうだけであって欲しくないじゃんというアカルイミライへ歩んでいくのかもしれないし、あるいはそうじゃないのかもしれない。 しかしながら、すべてはあの海だ。あの横一直線に光る白波と小泉今日子、そして朝日を目一杯浴びる。まるで生き返っていくようだ。[映画館(邦画)] 9点(2008-12-31 23:59:22)(良:3票) 《改行有》

9.  LOFT ロフト(2005) 《ネタバレ》 黒沢清は常に死を撮り続けてきた。『回路』では「死は永遠の孤独だ」といい、見た者に底知れぬ不安感と恐怖感を滲み上がらせた。この『LOFT』という映画もまた、その死と孤独、そして永遠についての映画だ。 中谷美紀演じる女流作家春名礼子と豊川悦司演じる大学教授吉岡誠のふたりは周囲の人々との関係を保つものの、どこか孤立して生きている。 そんなふたりが風吹き荒ぶ嵐の晩に、何の前触れも無しに、突如破綻したように結ばれてしまう。この瞬間、物語は立ち上がり、そして物語が機能し、また消えていく。 その繰り返しがこの映画だ。ひとつの物語を語り続けるのではなく、その瞬間瞬間に物語が立ち上がり、そして消失していく。 礼子が柱陰に見る黒い服を纏った女の件などはほぼどこにも連鎖しているようには思えず、あの瞬間にサスペンスが沸き起っているだけだ。 そんな物語の集積でこの映画は形作られているのではないか。それがショット間の断絶にも繋がり、とてもちぐはぐなショットとショットの繋がりを見せている。これもまたショットの集積と言うべきか。 これらはひとつの物語を語っていくには、映画の限界に近い、際どい表現方法であると思う。しかし思いっきり大胆に言えば、映画の豊かさを最大限にまで活用した贅沢な表象なのではないだろうか。 ラストシーン、それは最高に美しく映画的な瞬間に溢れたものだと信じてならない。 礼子と吉岡は抱き合い、ふたりで「永遠に互いを離さない」と誓った瞬間、吉岡は死を遂げたもはや魂の篭ってはいない肉体によって、沼へと連れ去られる。ふたりの永遠は一瞬のうちに完全に放棄され、生きている限り、しかもふたりでなど永遠は迎えられるわけがないのだというごくごく当たり前のようで、実は大きく勘違いをしているその永遠ということの恐ろしさと孤独感がここで瞬時に解き放たれる。礼子を俯瞰で撮らえるクレーンショットは礼子の孤独の表象ではない。つまり彼女はまだ姿を残しているのだ。いつか滅びる肉体を保持している礼子は永遠ではなく、またその後ろにぶら下がる人間としての形だけを留めたミイラは未だに死にきることの出来ぬ切なさの塊だ。 永遠の孤独、それはもはやラスト、スクリーンには映し出されることすらなくなった、沼に沈んでいった、吉岡の死のことだ。あのクレーンショットは吉岡の孤独の表象だ。[映画館(邦画)] 9点(2008-11-03 04:46:53)《改行有》

10.  石の微笑 《ネタバレ》 クロード・シャブロルはここ数年も撮り続けているはずだが、全く日本に入ってこない。困ったものだ。この映画を見ればクロード・シャブロルが枯れ果てた爺様になってなどいない、むしろ年を重ねますます映画が冴えてきているとさえ思えるだろう。こんなにも無駄を排した濃密な映画はなかなかない。 終盤、警察署内の扉が幾度となく開閉され、それを性急なまでに移動し、細かくモンタージュしていく。この辺りからこの映画の終幕へ向けての極度の緊迫感は高まっていく。 「もうしばらく会うのはよそう」とブノワ・マジメル演じるフィリップは、ローラ・スメット演じるセンタ(決して美人とは言えずとも、この怪しげな色香は一体何事か・・)に電話を通して言う(ここでも単純ながらも秀逸なカットバック)。しかしフィリップの衝動は抑えきれない。キャメラは浮遊感たっぷりにセンタの家へと入っていく。自然と玄関の扉は開き、半開きとなっていた地下への扉をくぐり抜け、左へ穏やかにカーブした階段を下りると裸電球がぶら下がっている。この緊迫感に唸りをあげない人などいないだろう。しかしセンタは地下の部屋にはいない。フィリップは階段を上り、義理の母とその恋人がタンゴを踊っている2階を通過し、悪臭が漂う3階へと足を踏み入れる。そしてまたひとつ扉を開けると、そこには椅子に腰掛け、前屈みになり煙草をふかすセンタがいる。この時の戦慄、もはや説明するまでもあるまい。そしてまたひとつ扉を開けると、そこには腐ったネズミではない、あの誘拐されていた少女の死体があるのだ。 この終幕までの10分から15分足らずで、幾度とない扉が開け放たれ、そこにはフィリップが虚構の世界に止めておきたかったものが現実となって広がっていく。勿論、このラストだけではない。この映画は常に扉が開かれること(あるいは閉ざすことで)、そしてその中を、その空間を移動することで物語が展開し、極度の緊迫感を醸し出している。この扉を開ける、閉めるで映画は作られ続けてきた。この扉というたった一枚の板に蝶番がついた装置が、ここまで機能してしまう。映画って凄いな、素晴らしいな、と感じる濃密なサスペンス。[映画館(字幕)] 9点(2008-10-31 02:26:03)(良:1票) 《改行有》

11.  百年恋歌 《ネタバレ》 電球、ランプ、蛍光灯、手紙、メール、自転車、船、バイク、高速道路、手を繋ぐ、服を着せる、服を脱がす、音楽、そしてサイレント・・そして舒淇・・様々なものがこの映画の中ではとても感動的に作用しているが、最も感動的で、なお官能的でもあり、そして躍動と流動と静と動を兼ね揃えた、もう一度言うが、最も感動的な瞬間の連続、それがファーストショットだ。まだ灯りの点かぬ電球から、キャメラは静かに下がっていき、ビリヤードの球のささやかな揺れと回転を、李屏賓のキャメラは優しく優しくフォローし続ける。この球とキャメラのあまりにもしなやかな動きに、もはや涙を堪える必要などない。恐らくビリヤードの球が転がっていくだけの様を見て泣けるなどということは、そうそう在ることではない。だからこの瞬間の連続に涙を流せばいいのだ。何故ならそれだけ美しく、そして官能的だからだ。そしてこのショットの続きをわざわざ説明する必要もないだろう。どうしてあんなにも人物を動かしておきながら、最後にふたりが完璧な形で、完璧な位置でフレームの中に存在しているんだろうか。驚愕。 第一話、張震が舒淇を探している様をずっと描いている。この場合、本来的に重要なのは恐らく張震が舒淇を見つけたという瞬間だろう。つまり張震側にてこの再会を描くのだろうが、侯孝賢はその選択をしない。再会の瞬間を、勿論、ワンショット内にてすべてを描いているが、先ず映っているのが舒淇だ。どこだかのビリヤード場で働いている。そこに、奥のほうから張震が入ってくるのだ。これが決定的に素晴らしい。つまり侯孝賢はふたりの中に我々観客を入り込ませないのだ。あえて一歩引いた立場でこの再会シーンを描いている。重要なのは張震の舒淇を見つけたという感情なのではない、その瞬間の風景なのだ。このあえて一歩引いた立場があるからこそ、ラストの、あのあまりにも唐突に現れる手を繋いだヨリのショットが感動的に見えるのだろう。[映画館(字幕)] 9点(2008-09-28 02:19:41)《改行有》

12.  ローラーガールズ・ダイアリー 《ネタバレ》 何も新しいことなどない。このフィルムがスクリーンに映し出すもの殆どが既にどこかで観たことのあるようなものであり、その物語も驚くべき何かがあるものでもない。しかし、それでいいのだ。そこにはアメリカ映画が培ってきたアメリカ映画としての、そして映画そのものとしての喜びに満ち溢れているから。 人間の感情というのは複雑でありながらも単純なものでもあり「喜怒哀楽」などという四つの漢字を複合することで表現することもできる。しかしながらやはりその四つの間は複雑さという幾層ものグラデーションとなり、それを映画に於いて描くことがどれだけ困難であるかは過去の成功には至らなかった映画たちが雄弁に物語っている。しかしながらこの映画はそんな映画たちを尻目に、満ち溢れた幸福感から途方もない絶望感へという途轍もなく広いふり幅を限りなく単純ながら繊細に描き切ってしまう。そしてそのふり幅をも圧倒的に振り切る喜びと爽快さをこの映画は魅せつける。それがアメリカ映画の素晴らしさだ。 そう、アメリカ映画の素晴らしさ、それは勝つことでの感動ではなく、「We are No.2!」という負けても自分たちを肯定する美しさを描くこと。つまり負けても、それは本質的な負けではないということ。だからこそより感動的なのだ。[映画館(字幕)] 8点(2010-06-12 23:51:25)(良:2票) 《改行有》

13.  コロンブス 永遠の海 こういう映画こそが、豊かな映画だなぁって思えるのは、潤沢なバジェットだとか、一流の役者の起用とか、大規模なオープンセットや海外ロケとかとは無縁なところで、時間と大陸を軽々と飛び越えてしまうからで、それが正に映画の魔術とか奇跡とか、まぁなんでもいいんだけど、映画ってそういうもんじゃんってことだと思う。 学のない自分なんかは、この映画って一体何の映画なんだかさっぱりわからんわけで、ハネムーンの前くらいまではこの映画って何についての映画なんだったけかと本当に疑問だったりして、コロンブスはコロンって呼んでねとか、ポルトガルの偉人の像を建てようぜだとか、更にはご老人たちのロマンスまで絡まっちゃって、最後はノスタルジアな曲を歌い出して、でも根本的にはアメリカ映画なんじゃないのかって思えたりして、でも本当にこれ何の映画なんですかって聞きたくなるのだけど、まぁそんなことは実際にはどーでもいいっちゃどーでもよくて、ちゃんと物語もやってるし、というのも、基本的にオリヴェイラの映画は歴史を物語るというよりは、歴史が物語ってくれるという感じで、それっぽいけど、出鱈目な風景の連続を映画の中に落とし込むことで、それで事実としちゃってるから、いつも、映画なんてそんなもんでしょって納得させられちゃうのだ。 101歳(撮影時は98歳か?)の老体が車を運転している姿が映画になるっていうのも恐ろしいことだし、霧の処理の仕方とか、信号の件とか、まぁ終始驚かされっ放しだったというのが正直なところだし、やっぱ笑っちゃうよね。[映画館(字幕)] 8点(2010-05-30 11:35:16)《改行有》

14.  インビクタス/負けざる者たち 《ネタバレ》 久しぶりに死の影をほとんど感じさせないクリント・イーストウッドの映画であったわけだが、彼の映画における「幽霊」という存在はこの映画でも健在であった。マット・デイモン演じるフランソワが皆を引き連れてロベン島に行くが、そのときに独居房や採掘上に現れるモーガン・フリーマン演じるマンデラは、生きる魂、正に生霊的である。そう、肉体を魅せるのではなく、魂を描くことこそがイーストウッドの映画なのだ。 冒頭、黒と白という二項対立構図を一本の道を挟んだだけの俯瞰ショットで描き、その黒と白は徐々に混ざり合っていくのだが、それが決して図式的に陥らず(肉体ではなく魂を描くからこそ図式的に成らない)、さも現実的であるかのように描き切ること、それもまたやはりイーストウッドである。しかし実際、全く現実的とは思えない。例えば、過労で倒れるマンデラや負傷してしまったチェスターが、何のきっかけもなく突如として全快してしまうという全く真実味を感じさせない流れ。しかしその流れに何も違和感を感じさせない力があるのは一体何なのだろうか。それは本作がとにかく簡潔であるからだ。無駄なものなどすべて根こそぎ削り取られ、そこには出来事のみが集約されている。彼がカメラを向けた瞬間にそれはさも現実的であるかのように立ち上がり、出来事が起こり、フィルムに定着し、映画と成り、そしてそれは「あったこと」となってしまう。それは力強く、そして熱く、凛として感涙的な事実と成ってスクリーンに投影されるのだ。 それにしても最後の試合のシーンは凄い。選手たちの動きのみならず、審判が時計を確認して笛を吹き鳴らす瞬間までハイスピードで撮影している。更には選手たちがぶつかり合う音までもが間延びしているのだから凄い。ここまで間延びさせると逆に躍動感を失いそうなものだが、平然とそれを乗り越えて、心震え上がるようなシーンに仕上げてしまう手腕にはやはりただ驚愕するばかりだった。[映画館(字幕)] 8点(2010-02-22 23:53:57)(良:3票) 《改行有》

15.  アバター(2009) 殆どのことを棚上げし、「アバター」という映画をIMAXデジタル3Dで観るという体験についてのみを書こう。 創成期、映画は体験された。リュミエール兄弟が初めて「ラ・シオタ駅への列車の到着」を上映したとき、観客は列車がスクリーンから飛び出てくるのではないかと驚いて逃げ出しだという逸話がある。これの真偽は確かではないが、正に映画を体験するという言葉通りの話である。 現代、そういう逸話が産まれることは決してないだろう。しかしこの映画にはそれに匹敵するような圧倒的な映像がある。それは実に映画的な体験として観た者の感性に刻み込まれるに違いない。 この映画はほぼ実写ではない。だから映画ではない、ただのお絵描きだといういうような愚言などは正直どーでもよい。問題は映画を魅せつけるための、アングル、引き画、寄り画、トラヴェリングショット、カット割り、光と影があるかということだ。この「アバター」にはそれが映画史百年が培ってきた証として刻まれている。これはお絵描きをしてきただけで到達でるものではないのだ。 映画はついに実写と(モーションキャプチャーによる役者の演技があってこそ成り立つ)CGIが何の違和感もなく同じフレームに収まり、感動的な出逢いをする瞬間を迎えたのだ。CGIが実写を抱え上げ、涙し、実写はCGIの頬をそっと撫で、また涙する。これはあるひとつの映画の到達点だ。 (物語などはさて置)誰もが圧倒的な映像に打ちのめされ感嘆させられるだろう。これを単なるCGIだと言うのであれば、それは自分の感性を呪詛するべきだ。 IMAXデジタル3Dで観るという体験はひとつの体験として実に新鮮であり、破格のものである。[映画館(字幕)] 8点(2009-12-26 04:04:08)(良:1票) 《改行有》

16.  パブリック・エネミーズ 《ネタバレ》 フィルムのみならず、小さなビデオカメラも手にしたマイケル・マンのカメラワークは自由自在で狭い部屋の中も縦横無尽に動き回る。冒頭の脱獄シーン、車で仲間の手を離すまでの一連のカット割なども見事であり、そういう角度にカメラを入れるのかと感嘆する。勿論、熱を持った銃声だけが響き渡る森の中での銃撃戦の音響処理はいつも通り見事であり、マイケル・マンの映画である烙印だ。この銃撃戦のシーン、音楽も一切排し、緩慢に間延びしきっている。しきってはいるが、それが退屈へと陥らず、ぎりぎりのところでサスペンスとして完璧に成立しているのだ。これもまたマイケル・マンの烙印と言っていいだろう。そして単純ながらもジョニー・デップ演じるデリンジャーとマリオン・コティヤール演じるビリーのカットバックを撮ること。これがこの映画のすべてなのだ。 だからこそ最後が泣きなのだ。 デリンジャーは映画館でクラーク・ゲーブルが演じるブラッキーの潔い死に際を目にする。これは「男の世界」という映画だが、電気椅子を自ら選ぶブラッキーに、ウィリアム・パウエル演じるジムが「Bye Bye Blackie」と言うのだ。デリンジャーとブラッキーというカットバック、デリンジャーは何を想い、映画館の席を立ったのだろうか。そして彼は最期を迎える。彼の死に際のひとことをスティーヴン・ラング演じるウィンステッドがビリーに伝えにやってくる。「Bye Bye Blackbird」。これがアメリカ映画の本質的な泣きの瞬間だと信じてならない。そして涙を流すビリーのクロースアップ。映画はそこで幕を降ろすと思わせるが、最後にもうワンショットある。ビリーのPOV。素晴らしいではないか。[映画館(字幕)] 8点(2009-12-23 20:04:30)(良:2票) 《改行有》

17.  スペル 《ネタバレ》 サム・ライミという監督が登場した当時のUNIVERSALのロゴマークで始まる本作は、彼がこの映画で何を描きたいのかということの表明だ。「死霊のはらわた」が処女作の彼は、ホラーというジャンル映画の監督の枠で収まることなく、西部劇や野球ものを描き、そして「スパイダーマン」という大衆向け商業映画を大成功に導いた。そうやって培ってきた映画的感性を自分の原点にフィードバックさせた、原点回帰がこの映画である。 風や物音、カーテンに映るシルエット、蠅などの虫や、体内から吹き出るどろどろな液体の数々など、もはや使い古された手段ばかりがスクリーンを駆け巡るが、彼の円熟の域に達した演出力は決してそれを飽きさせない。 白い封筒の中に丸い何かが入っているというそれだけでラストのサスペンスを盛り上げていく巧さなど見事だ。車中でアリソン・ローマン演じるクリスティンが誤った封筒を手にした瞬間、誰もがそれに入っているのはボタンではないくコインであると気付く。その真実を知るのは観客のみであるというところにサスペンスの巧さがある。つまりコインは重要で、だからこそ、ジャスティン・ロング演じるクレイと彼の父親との会話の中にもさりげなく登場させ、その存在を決して観客に忘れさせないのだ。 またクリスティンがローナ・レイヴァー演じるガーナシュ老婆の口に白い封筒を突き刺す泥々のシーンを雨で浄化させていき、そのままフェードでシャワーシーンに移行するところから始まり、彼女のハッピーエンドを期待させるような明るいシーンの連続はホラー映画だけを撮り続ける監督では出来ない晴れ晴れしさであり、また、地獄への素晴らしい前ふりであった。 そして彼女がいきなりコートを買う。これがおかしい。このシーンを見ているとき、何故ここでこんなシーン挿むのか不思議でならなかった。確かにとても大切な旅行だ。しかし突拍子もない。だがそれは、ボタンが入った封筒を出すきっかけへの絶妙な伏線だったのだ。あざとさをまったく感じさせない巧さだ。 そして謝れば許されるという結論には決して辿り着かせない潔さ。何があってもクリスティンを守ると誓ったはずなのに、彼女を守れなかったクレイのクロースアップ。そしてスクリーンいっぱいに映し出される「DRAG ME TO HELL」の文字。「俺も地獄に連れて行ってくれ!」素晴らしいではないか。 真のアメリカ映画とはこういう映画のことだ。[映画館(字幕)] 8点(2009-11-29 01:47:24)(良:4票) 《改行有》

18.  リミッツ・オブ・コントロール 《ネタバレ》  拳銃を使わない映画 セックスをしない映画 携帯電話を使わない映画 復讐すらも無意味な映画 そこにあるのはふたつのカップに注がれたエスプレッソ そして幾度も同じ台詞が繰り返される 目的はひとつ「自分こそ偉大だと思う男を墓場に送る」こと そんな殺し屋の映画 物語の起伏となる要素をすべて排し ただただ淡々と時間だけが直線上に流れていく イザック・ド・バンコレ演じる孤独な殺し屋は 仕事中の堕落を一切禁じる またパス・デ・ラ・ウェルタ演じるヌードの女は すべてを破滅に導くファム・ファタールのような素振りだが ファム・ファタールとしてはまったく機能していない そしてティルダ・スウィントン演じるブロンドの女は 「上海から来た女」の話をし始める しかしラストのビル・マーレイと対峙するシーン 一面鏡張りの部屋にしたりはしない つまりこの映画はフィルム・ノワール的要素を散りばめながらも それらを一切禁欲する 新たなるフィルム・ノワールと言えるだろう ジム・ジャームッシュのスタイリッシュさはとても正しく どのアングルも どのカットの繋ぎも どのハイスピード撮影も どの音楽の挿入も すべて納得させられるものだ 想像力さえあれば 映画には限界はないし 映画の行く路を決めることなどできない[映画館(字幕)] 8点(2009-10-01 16:40:52)(良:3票) 《改行有》

19.  クリーン (2004) 《ネタバレ》 駅の中でマギー・チャンがニック・ノルティを探し回るシーン、長玉で軽く修正移動をかましながら、カメラが彼女を追っかけ回すが、とても素晴らしい。あれを李屏賓がやると超絶にうまいのだけど、ゴーティエは(彼の場合彼自身がオペレートしてるのかはわからないが)決して丁寧とはいえないし、寧ろ、雑、というか下手上手いというか、味があるとでもいったらいいのだろうか、あれがいいのだ。「イントゥ・ザ・ワイルド」でも長玉、手持ちとかでぶんぶん振り回すのだけど、それもまた雑でありながら、どこか味があってよい。 そのことはさておき、マギー・チャン演じるエミリーが友人の家に居候をするのだが、その友人が犬を連れ家を出て行くが、忘れ物をして家に戻ると、エミリーが涙を流しているというシーンなどは格段に素晴らしく優しい。ただひとりぼっちになってしまった孤独感で泣くというシーンだが、友人が外出し気が緩んだというこの見せてはいないが見えるワンクッションこそが素晴らしいだろう。このシーンまでは常にマギー・チャン、あるいはニック・ノルティを切り取るカメラが、ふいに友人を主軸に動き出すのだが、映っていないところでのエミリーの感情というのが友人が扉をそっと開けた時に一気に動き出すということだ。これこそが映画の巧みな演出だ。 そしてこの映画のニック・ノルティのまなざしこそがアサイヤスのまなざしで、見守るよという、やはり他のアサイヤスの映画同様にこの映画もまた優しさに溢れている。[映画館(字幕)] 8点(2009-09-16 17:31:08)《改行有》

20.  サブウェイ123 激突 《ネタバレ》 デンゼル・ワシントンが笑顔で我が家の門を押した瞬間にすべてが終わるが、またしてもストップモーションで幕を閉じてしまうという潔さだ。 結局ガーバーと彼の妻はこの映画で一度たりとも同じフレームに収まることはなかった。何故、最後、ふたりは抱擁しないのか。そんなことはこの映画においてどーでもいいことだからだ。ミルクを買って家に帰るという約束を果たせるか果たせないかということが重要で、ふたりの愛を確認し合う作業などトニー・スコット含め我々観客も全く興味がない。だからこそ、帰り道にミルクのパックが入っているであろう白いビニール袋を右手に持って歩くデンゼル・ワシントンというショットと彼のクロースアップのストップモーションが感動的なのだ。その後の抱擁し合うふたりなど幾らも感動的ではない。これこそがトニー・スコットなのだ。 また市長の描き方など絶品で、いかにも金の虫のような風体を晒しながらも、憎めない人の良さも醸し出し、犯人の割り出しも自らやってしまう、善でも悪でもない人物を平然と登場させる。罪悪感からか正義感からかで突っ走りだすガーバーや、金だけのライダーなどに比べ、あまりにも平凡な人物という描き方が素晴らしい。故に不倫というワードこそが現実的で必要不可欠なものとなり、そのためには市長を囲むマスコミすらもトニー・スコットには重要な登場人物たちなのだ。 現金輸送中のパトカーの事故、鼠のせいの誤射、PCによる映像、こんなものほとんど無駄な羅列にも見えるが、それらはただ「偶然」あるいは「運命」という得体の知れない厄介なものによって、ペラム123に連結され地下を疾走しているに過ぎない。だからこそその連結をいつ切り離そうが所詮それは「偶然」や「運命」であり、そうなったという事象のみがそこには存在することとなるのだ。 ガーバーとライダーの橋の上での対峙なども素晴らしい。いくらガーバーが警察官たちを呼べども全くもって近づいている感じがしない。その都合の良さこそ映画であり、その都合の良さが、ライダーのいつものカウントダウンでガーバーに極限の選択を迫らせるのだ。そしてこの時の単純なふたりのカットバックが見事な物語を構築している。 それでいての106分。スクリーンに映し出されるすべてを必要な情報として処理し、途轍もないスピードで走り抜ける、この潔さはトニー・スコットが唯一無二の存在になっていく証だ。 [映画館(字幕)] 8点(2009-09-05 02:41:00)(良:5票) 《改行有》

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