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【製作年 : 1970年代 抽出】 >> 製作年レビュー統計
評価順123456
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1.  バリー・リンドン 《ネタバレ》 よく映画の宣伝で「感動のあまり席を立てませんでした」ってのがあるが、そうそうあるもんじゃない。私の人生では2回だけ。キートンの二本立て(『セブンチャンス』と『蒸気船』)観たとき「もっかいもっかい」と半日映画館から出られなくなったのと、あとこれ。こっちは幸い最終上映で観てたので、掃除のおばさんに追い出されたが、そうでなかったらこっちも映画館から出られなくなったに違いない。人の世の愚かしさとそれゆえの厳粛さを描いて完璧だと思った。一つ一つの画も完璧と言わざるを得ず、観終わった途端にもう一度ひたりたくなった。監督は「ナポレオン」を撮りたかったそうだが、成り上がって没落していく物語としてはもうこれが完成しているのだから、気合いが抜けてしまったのだろう。いちいちの感動シーンについて記すのは面倒なので省く。第三者の眼で語られ、視点は誰にも加担せず、誰も結論めいたことを言わない(ただ文章が出るだけ)。しかしここには地球上に一時期存在した人類という種族の典型が精密に記録された、しかもその愚かな人類はなんと美しい世界を織り成してきたことだろうか。この作品では美が愚かさと必死で拮抗している。母親や家庭教師など、脇役の顔の選択も見事だ。そして音楽。バリーの運命が大きく変わるときに流れ込んでくるヘンデル、それと対になるようなレディ・リンドンのテーマとしてのシューベルト、どちらも的確。完璧という言葉は軽々に使いたくないが、この映画の美にかけた執念には、その言葉を使って褒め称えるより仕方あるまい。[映画館(字幕)] 10点(2011-06-23 10:04:39)(良:2票)

2.  三里塚・第二砦の人々 シリーズ4作目。前々作のラストは、農民が要塞を掘るその穴掘りシーンだった。彼らが土に帰っていく・土に沈んでいくといったちょっと現実を離れた寓話的イメージがあり、その掘り進めている土の壁に延びていた植物の根のアップが印象深い。で本作に至って根のモチーフは大きく膨らみ、農民が掘り進めていく抵抗の根としての地下壕のイメージにつながっていく。あくまで散文的な記録性を保持しながらイメージが豊かに広がっていく。おそらくスペクタクルとしての迫力はシリーズ屈指だろう。野外戦の興奮。権力の横暴といった理屈以前の、その場の高揚がフィルムを覆ってしまっている。農婦二人が自分たちを鎖で縛り合わせているところをじっくり写していたカメラがぐるりと振り返ると、タイヤを燃やす黒煙がもうもうと立ち込め、坂を下ってくる機動隊や、回り込んでいく学生たちが激しくうねっている。そこにかぶさってくるヘリコプターの騒音、拡声器の割れ声、耳をつんざく笛の響き、とにかく映画はその場を実感させ、体験させる。バリケードの隙間から火炎瓶を投げるタイミングをうかがっている学生など、へんに生々しい。またユーモラスなシーンも活きている。シリーズ常連の柳川のオバチャンが、自分の作戦を語るところ。「ベターッともうダメになったふりしててよ、あのジジイ(公団職員)が来たらよ、縛ったふりしてたこん鎖でもって殴ってやんだ」。緊張したところでふっと息を抜かせ、少し画面に近づき過ぎてしまっていた観客の気持ちを、微調整する働きがこういうシーンにはある。しかし本作の重要さは、農民が自分たちの手応えの分かる形で抵抗しようとしているところにあると思う。火炎瓶などといった今までの暮らしと無縁なものは学生にまかせ、自分を木に縛り付けたり、土に穴を掘ったり、彼らが一番手応えの分かっているもののそばに戻っていく。そのときに彼らが浮かべるちょっと晴れがましい表情。換気口つきの地下壕を作り上げた農民の照れくさそうな自慢げな笑顔。自分の技術を生かして何かを作り上げる楽しさ。三里塚で起こっていることは、単に土地を巡る争いなのではなく、農民から農業技術を生かして働く楽しみを奪うことなのだ。それはここ三里塚で密度濃く現われてはいるが、日本全国で緩慢に進行している農業の死という問題にほかならず、小川は以後に続く重要なテーマにたどり着いたわけである。[映画館(邦画)] 10点(2010-01-21 12:16:52)

3.  ブルジョワジーの秘かな愉しみ たぶんブニュエルでは、メキシコ時代の作品群が最も充実しているだろうが、どれが好きかと言うと、私はこれ。自在な語り口の妙。不安と妄想とトボケた笑いが渾然一体となって、「作者は何を言いたいのか」なんて要約されることをきっぱり拒絶した、まさに映画でしか表わせない世界。映画でしか表わせないものというと、とかく美的な構図やスリリングな移動の効果などに多くの監督は工夫を凝らしてきた、でもブニュエルはそうはしない。ごく普通のカットを織り合わせるという基本で、映画が表わせるものを突き詰めた、いや拡大したと言うべきか。道を主人公たちがただ歩いていくシーンがポンとはいる。意味を考えりゃ、車に乗っていないブルジョワジーたちの頼りなさとか、周囲の農作物と隔てられた食欲だけの存在とか、いろいろ出てくるが、妄想と夢が氾濫した後にポッとその屋外シーンになると、もう意味がどうのではなく映画のリズムとしてまことに効果的で、こうして歩き続けていく彼らが映画を貫いてまとめ上げていくそのさまを、感じ入って見守るしかなくなる。あのシーンで感じる気分を、映画以外で味わうことは不可能だ。繰り返されるごとに夢の状況は悪くなっていくし、やたら発砲も起こる。喫茶店での軍人の話と神父のエピソードが重なってくる。それでも彼らは映画を貫いて歩き続ける。意味と無意味の境のような道を、あてがあるんだかないんだか歩き続ける。こちらは落語家の名人芸に立ち会っているように、ただただ話術に身を任せていればいい。[映画館(字幕)] 10点(2009-07-08 12:09:30)(良:1票)

4.  デカメロン 若いころ名画座ではイタリア映画が元気溌剌で、フェリーニの『サテリコン』『ローマ』『アマルコルド』あたりが繰り返し上映され、ヴィスコンティは配給権が当時あったのはそれだけだったのか『地獄に堕ちた勇者ども』と『ベニスに死す』の二本だけが繰り返され、若手監督ではベルトルッチの『暗殺の森』と『ラストタンゴ・イン・パリ』(私がサントラレコードを買った唯一の作品)、ヒネたのではフェレーリの『最後の晩餐』も好きだった(これのフィリップ・サルドの音楽に陶酔させられ、『ソドムの市』のモリコーネと合わせて「えげつないニ大名画の二大陶酔曲」として脳に刻印された)。そしてそのパゾリーニにも溺れ続けた。最近の人は分からないかもしれないが、ビデオやDVDのなかった昔は外国映画は配給権てのに縛られてて、配給会社が権利を買ってる間だけ上映できたの(たぶん今でもフィルムはそうなんだろう)。それが切れるとフィルムを返さなくちゃならないので、気に入った映画はとにかく日本で見られるうちに脳に焼き付けるまで繰り返し見ねば、という気持ちになってたわけ(あのころの観賞の気合いは、もう今では出来ない)。そんなころの思い出映画が『デカメロン』『カンタベリー物語』『アラビアンナイト』の三部作で、フランコ・チッティ、ニネット・ダボリなんて役者の名前を聞くともうそれだけでワクワクしちゃう。そして無名の役者さんたち。歯並びの悪い男、ニタニタ笑っている男、変に無理してるような・卑屈なような・不敵なような男たちの笑い顔。ひとつひとつの艶笑譚も楽しいんだけど、とにかく彼らに逢えるのが嬉しかった、それで見続けた。なんかほかの映画と違う広々した世界だった。[映画館(字幕)] 9点(2014-01-15 10:12:04)

5.  男はつらいよ 寅次郎夢枕 《ネタバレ》 長期にわたったシリーズもののベストを判断するのは難しいが、それぞれの作品を観たときのトキメキの記憶で比べてみると、私は本作で一番ときめいた。寅の恋路がうまくいくってのの最初で、恋路でもないんだよな、ラッキョは緊張しないでいられる女性だったわけ、そして他人(米倉斉加年)の恋を優位に立ってクスクス笑いながら見ていた寅が、突然当事者になってしまいガクガクッとなってしまう。この転換に唸りましたな。パターンの引っくり返しでありながら、ただそれだけでなく、すごくキャラクターとして納得がいく。寅の悲劇の核がここにある。寅という人物がしっかり確立された一編であり、また八千草薫でなければならないマドンナだった。彼女のほうもすんなり納得できる。ラストのとらやで「あたしが振られたのよ」とか言って、まわりが冗談だと笑っていると「なんでおかしいの」と言うその語り口が(あくまで社交の範囲内の会話でありながら、本当にどうして理解されないのか、と思っているのが半分、理解されないことに対する苛立ちが半分)絶品だった。八千草さんてテレビの「岸辺のアルバム」では、スルッと不倫に走ってしまう貞淑な人妻をリアリティみっちりで・しかも不潔感皆無で奇跡のように演じたし、だいたい「ちょっと普通でない人」をやらせると凄いんです。[映画館(邦画)] 9点(2013-12-31 09:31:52)(良:1票)

6.  ざくろの色 私のノートには文章の合間にいろいろ図が描きこまれていて、言葉だけで記録をとるのが難しい映画だったのが分かる。階段の図に矢印が二つ(上っていくのと通過するのと)描きこまれてたり。壁画のタッチ、黒から白へ変わる、ということも何度も繰り返し書かれている。びしょ濡れの本、枠を持って歩く人たち、ろうそくの原に倒れている老いた主人公、なんてイメージが延々と綴られている。おそらく伝統に根ざしたイメージなんだろう。仕種や表情なんかもそうで、一人よがりになっていなかった。人形劇を見ている清潔感がある。やぎ、ロバ、鶏、羊、といった家畜の匂いも、頭だけでこしらえた宇宙じゃなくしている。もちろん伝統は格闘すべき対象であるべきなんだけど、差し迫った敵に対するときに団結する土台にもなるもので、グルジアの一般民衆がこの映画をどういうふうに受け止めたのか知りたい。黒いものが白くなっていくって、浄化のイメージでいいのかな。[映画館(字幕)] 9点(2013-09-13 09:46:05)

7.  草迷宮 おそらく寺山が一番自由にイメージを氾濫させた作品。一応構造みたいなものを取り出してみると、母の記憶の代表として“失われた手毬唄”があり、青年になって自由を得た代わりにそれを失った、ってなことか。でもこの映画の魅力はあくまでイメージの輝き。たとえば「毬」の球体が繰り返されていく。ときに囚人の重しとなり、ときにガラスの浮き(?)となり、子さずけ石、スイカのバケモノ、さらにはらんだ母の腹へとつながっていく。球体という「何かを包み込む・囲い込むもの」が反復される。最後の魔の跳梁は、スラプスティックぎりぎりで、若松武が刀を振り回したりするが、シラけないのはユーモアでフェイントを掛けてるから。女相撲の土俵入なんか絶品でしたなあ。あそこに母の首があるので、魔の勝どきのような凄味も加わり、その首が「いつまでもお母さんの子よ」とか言うんだよね。逃げても逃げてもお前をはらみ続けてやる、って感じか。鏡花のモチーフに寺山のテーマが被さっていく。「母・故郷・記憶」との闘争史であり「母・故郷・記憶」からの逃走詩。主人公を誘う少女の手毬の身振りが凄くエロチックで、右手で毬を突いてて(くっついてる)左手は後ろに跳ね上げるような仕種。ああいう細かな動きの正確さは、演劇人としての鍛錬のたまものだなあと思う。二人がかりでものを運ぶ、ってのも繰り返されてた。祭のような苦役のような。[映画館(邦画)] 9点(2012-11-01 12:39:24)

8.  水俣 患者さんとその世界 胎児性の患者さんがこちらを振り向くところからラストまでは、とりわけ凄い。私たちはいままで水俣病を知っているつもりになっていたけど、それはたとえば支援団体の膜越しだったりした。その膜を破って、じかに水俣病に触れ得たという実感がある。このドキュメンタリーだって「支援団体」とさして違わないはずなのに、距離感が違うのだろうか。患者にこちらの眼=カメラをいじるに任せているカット、やっと患者と触れ得たという感動がたしかにあった。漁民の生活を丹念に描いたことも大きい。味噌とバターでの餌づくり、蛸採りの美しい水中撮影。自然と一体となった生活があったのだ。それをずっと続けていけたと言うのは理想論すぎるけど、そういった生活への懐かしさや憧れは、やはり暮らしの方向を考える上で大事なのではないか。あるいは患者のためにオルガンやステレオなど家に似合わないハイカラな物が置かれている光景もジーンとさせる。親の贖罪の気持ちがそこに凝縮している。水銀を食べさせたのは親の責任ではないのに、その申し訳なさはこういう形でしか表せないのだ。スピーカーの振動を手で感じている耳の聞こえない弟。けっきょく優れたドキュメンタリーとは、当事者との距離を正確に知っているということだろう。患者とその家族との苦痛に触れられないということで、観客もチッソと同じ側についている。その認識が安易な同情や哀れみを禁じていて、知らず知らず観客はより積極的に患者の側に身を乗り出さざるを得なくなる。限りなく近づこうと想像力を使役させなければならなくなる。だからたとえば総会で支援団体の人が壇上に上がってきた行為などは浮わついて見えてきてしまうのだ。患者たちの御詠歌の迫力には、薄っぺらな行為は吹き飛んでしまう。伝染病かもしれないと思われて子どもを引き離されたエピソードや、町の発展を妨げるものとして排斥された動きなど、これまでに描かれてきた細かい棘の数々がここで裏返され、あの御詠歌になってごうごうと唸り立てているのだ。[映画館(邦画)] 9点(2012-01-28 12:40:09)(良:1票)

9.  狩人 アンゲロプロスの映画では、しばしば歴史から伝説へと登場人物が漂い流れていったが、この作品では逆に現代の中に伝説が一個の死体となってドンと置かれるところから始まる。わずかな青空がゆっくりと雲に閉ざされていく冒頭、その雪原の中で狩人たちは四半世紀前のゲリラの死体を発見してしまう。苛烈な歴史に生き残った者たちの前に、生き残れなかった者が闖入してくる。『旅芸人の記録』が歴史を下から眺めていた「演じる者たち」の物語とするなら、これは上から眺めている「椅子を並べ観劇する者たち」の物語だ。栄光館のロビーで彼らは互いが演じた過去の歴史を見物し検証し批評することになる。見えるはずのないゲリラの死体に見守られながら、見えない国王と踊るまでの二十数年の歴史がこの一室で繰り広げられていくのである。見事なシーンの連続だが、あのテロシーンの密度はどうだろう。新聞記者や車が排除され道が静まる。車が去ったところから「踊りながら」やってくる右翼たち、表情は読み取れない、平和行進のデモ隊とのにらみ合い、デモのリーダーが歩み寄ってきたところで不意に画面に飛び込んでくる車、そして銃撃、すぐに死体を確保してしまう警察。この数シーンワンカットの迫力はリアリズムから来ているのではない。出来るだけ静けさを引き伸ばしておいてから一気に畳み込んでいく演劇的なクレッシェンド。ギリシャ現代史のやりきれなさを監督の心の中でじっくりと圧力を掛け続けた果てに、ワンカットの中に沸騰して流し込んでいる。そのとき彼の映画は限りなくミュージカルに近づいているようなのだ。あの右翼が示した踊りながらやってくる動き、彼らのふてぶてしさなり民主化を願う人々を小馬鹿にしたような気分が、表情を持たないロング映像の中で、生々しく匂い立っていた。彼の映画では歌がよく歌われ、音楽が演奏される。楽団が登場しない作品があっただろうか。しかし個人の恋愛を歌うハリウッドミュージカルと違うのは、それがしばしば集団の歌なのだ。個人を覆い隠してしまう音楽、明るく響けば響くほどその中心点がウツロになっていくような音楽(大島渚との近親性)、ハーモニカやアコーディオンといった鄙びた音色への偏愛も特徴的。アンゲロプロスはギリシャの陰鬱な空を発明し、長回しの技法を洗練してロングの雄弁さを再確認させてくれた。しかしそれにもまして私が興味あるのはミュージカル作家としての彼なのだ。[映画館(字幕)] 9点(2011-08-01 10:10:24)

10.  ゲッタウェイ(1972) 《ネタバレ》 ペキンパーでは「男の美学」的なコッテリした作品が尊重され、たしかに『ガルシアの首』など傑作だと思うが、本作のサラッとしたイキのよさも好きだなあ。主人公はけっこう心に鬱屈を抱えているけど、なにせマックィーンだから、立ち居振る舞いはサラッとしている。もっぱら脇筋がコクを担当。追い続けるルディのしつこさはペキンパーの真骨頂だし、それに絡む倦怠期の獣医夫婦は笑いを担当しながらも、主人公二人の対照物として重要な存在。ベッドサイドで縛られている医者の亭主と、女房、ルディの図ってのは、牢屋にいたときのマックィーンと、アリ・マッグロー、ベン・ジョンソンの形と相似で、しかし女の心情が決定的に違うところが対比によってハッキリする。同じ「車の中の不自由」という状況、主人公二人はゴミにまみれてもなぜかベトベトした生ゴミはよけられるのに、獣医夫婦は人間用の車の中にいてさえスペアリブのベトベトまみれになっている。医者は拘束された後にカタストロフを迎えたが、こちらの夫婦はゴミ回収者という拘束から解放され愛の回復を確認する。だいたいアクションもので男女を描いた部分なんてオマケ的要素が強いんだけど、これは夫婦愛の回復が話の本筋になっていて、しかもそのことがアクションの醍醐味を薄れさせていない。またロッカーコソドロのカウボーイハット男、これももっぱら笑い担当なんだけど、鞄の中を見てウキウキするところなんか、チンケな野郎の束の間の夢がいじらしくさえ感じられて、記憶に残る。そしてラストの銃撃戦、銃声と静寂・リアルスピードとスローモーションのカットつなぎの名人芸。大好きな映画です。[CS・衛星(字幕)] 9点(2010-11-09 10:11:37)(良:3票)

11.  無常 実は見直したらそれほどでもなかったんだけど、若いころ入れ込んだ一本で悪口言う気になれない。記憶の中でいつのまにかワイド画面になってたのは、横移動の記憶がフレームを横に広げていたのだろう。斜めの移動も好きなんだ。私がかってに“背後霊の構図”と名付けている監督お得意の構図があって、こちらを向いている人が、画面の中央下ぎりぎりのところに顔だけ収まってたり、左を向く人を画面の左端に寄せておいたりする。つまりその人物よりも、その人物の背後に広がる空間をたっぷり取っている。するとなにかその人物を本人に気づかれずに操っているものの気配・あるいはその人物をじっと黙って観察しているものの気配が、背後にあやしくわだかまって感じられてくる。それが日本家屋の暗さとあいまって、独特の味わいを作っていた。主演女優の選択の趣味の悪さっていうのにも、この監督独特のものがあったなあ。[映画館(邦画)] 9点(2008-06-15 12:12:56)

12.  三里塚 辺田部落 三里塚シリーズでとりわけ好きなのが、成田闘争の最前線にカメラを据えた「第二砦の人々」と、地域の死をじっくり記録していく本作。隣人が消えていく、民俗行事が消えていく、墓もどこかに移さなければならない。村を構成していたものの消滅を一つ一つ数え上げることで、闘争の現場の奥を見せてくれる。雨の音の中での寄り合いのシーンでは、語られる言葉よりも、重苦しい沈黙のほうをより深く記録していた。生活そのものが消えようとしている重苦しさ。これと対照的なのが、野良でのカミサンたちのおしゃべり。岩山の部落は大変だべな、逮捕されてしょんぼりしてっだべな、なんて話をずるずるしてるだけなんだけど、生活が本来持っている生き生きした姿、いま奪われようとしている美しい時間を、完璧に記録してくれていた。記録するというフィルムの機能の基本をあらためて思い出させてくれる名作だと思う。[映画館(邦画)] 9点(2007-11-27 12:18:10)(良:1票)

13.  ひまわり(1970) 駅での別れが3回あったのか。出征、ロシアでの再会(ソフィアが探して、ソフィアが汽車に乗る)、イタリアでの再会(マルチェロが探して、マルチェロが汽車に乗る)。この映画、タイトル曲が有名なんだけど、ソフィアが異国の地を探し回るときの、6拍子のテーマもいいんだ。ロシア民謡のような引きずるようなメロディ。「岸壁の母」より心に沁みる。メインテーマもいいけど(おびただしい死者がイメージの中で重なる画面いっぱいのひまわり!)、思い出そうとすると、ビリーバンバンの「さよならをするために」が混ざってきちゃうんだ。[地上波(吹替)] 8点(2014-03-04 09:41:10)

14.  悪魔の手毬唄(1977) これが白石加代子の映画デビューだとずっと思い込んでたが、今確認したらこの前に「さそり」シリーズの一本で出てるのね。なんか「王女メディア」を連想させるような凄まじい役で、見てないけど彼女の狂気演技が想像できる。で本作だが、当時私は動いて演技をする彼女を見るのが初めてだったので、おそるおそる期待とともに観賞した記憶がある。雰囲気充満だけど、意外におとなしい印象。「白石加代子」を突出させず、崑さんの作り物の世界にピタリはめた、と感じた。日本的怨念をジワッと過剰に滲ませる人で、崑さんがもっぱら日本的な装置にバタ臭い女優(岸恵子とか草笛光子とか)を配置する趣味なのに、さらに逆の方向からアクセントを一つ加えてアンサンブルに厚みを出している。草笛光子はこのシリーズを通しての助演女優賞ものだと思っているのだが、おどろおどろしい日本的情念の世界に和服の草笛光子を配置すると、全体の「作り物」感が際立つ。そこにさらに背景であったおどろおどろしさいっぱいの白石加代子を置くと、調味料に砂糖と塩を混ぜて入れたようで、コクが出るんですな。[CS・衛星(邦画)] 8点(2014-03-01 09:20:08)

15.  男はつらいよ 寅次郎恋歌 酔っ払いを連れてきた寅が、さくらに唄を歌わせる。あの後の自責の念が募るあたり、いいなあ。唄のうまい身内を自慢したい軽い気持ちで呼び込んだことから、自分が妹に対して迷惑ものであると悟り、「俺はこの店の空気と違うんだ」と身に沁みてしまう。内と外の切り替えがうまく出来ない人なんだな、基本的に彼は。そういうモチーフはシリーズを通してしばしば現われるが、このエピソードなんかはとりわけ哀切。あとヒロシの母親の死が重いモチーフとして本作の中心にあるが、寅が焼香に現われる場や、さくらが義父宅に電話すると寅が出るあたりで笑いに代えている。池内淳子が経済的にきつい目にあっても、仁侠映画のように殴り込みにいけない寅であった。このシリーズは東映の仁侠映画のパロディとして始まったものだったが、社会悪に対する怒りを行動にすることの無力をしみじみ知らされた70年代の雰囲気を記録してもいた。[映画館(邦画)] 8点(2014-01-24 09:39:26)(良:1票)

16.  男はつらいよ 柴又慕情 渥美・おいちゃん(ここでは松村達雄になってしまったが)・おばちゃんの演技と、倍賞・前田の演技の質の違いをうまく使ってるんだなあ。こういう異質な要素が混在するって、コメディを作るときは難しいと思うんだが、それをうまく使っている。寅がヒロシをからかうと「ひどいこと言うなあ、にいさんは」なんてあたり。ヒロシのマジメくささを微笑ましく見せるような笑いの場に変えて、二つの世界のズレを生かしている。たぶん前田吟は「若者たち」の山本圭に連なるキャラクターで、60年代だったらそのままで堂々と主役を張れたはずだ、マジメさだけを売り物に。ところが69年に断層が出来、プログラムピクチャーの本通りが東映の仁侠映画から寅さんシリーズに移ったように、マジメがマジメだけじゃ使えなくなってしまった。マジメの前田吟を、異質な要素としてときにからかい・ときに逆にとらやの人たちを対象化する存在として、とらやに呼び込んだよう。寅の恋の物語としては、ベースの形を味わえる。「また来るって、また来るって」とか「ヨシッ」とかウキウキするかと思うと、二人っきりになるとオロオロしてしまい、さくらが帰ってくるとホッとしてすがるあたり。ほんと子ども。だから大人の相談に入れてもらえない。本シリーズでは『七人の侍』の面々が、“男らしさを無理に貫く寂しい人”として登場するが(あと志村喬や三船敏郎)、今回の宮口精二も良かった。監督の『七人の侍』へのオマージュであり、また批評でもあるんだろう。[映画館(邦画)] 8点(2014-01-13 09:40:14)(良:1票)

17.  あさき夢みし これは本当に美しい映画だった。スクリーンでなければ味わえないぎりぎりの暗さの美で、のちにDVDで再見したら全然違う映画のようになってたので、ここでは映画館で観たときの記録で書く。今様伝授の場。花ノ本寿と東野孝彦の烏帽子のシルエットのゆがみとか、ピン送りによる枝の撮影、膨らんだり縮んだりする感じ。外の宴の画面の上半分のにじみ。湖面のさざなみ。それを断ち切る舟の漕ぎ渡ったあと。こう書いていくと神経質っぽい映画と思われるかもしれないが、そういった神経質っぽい画像を塗り重ねることで、中世の宮廷の脱力感が出たように思う。勃興しつつある民衆の圧力への憧れもあるが、いまさら宮廷を飛び出す意志もない公家たち。その淀み切った気分が見事に美としてスクリーンに満ちた。志ん朝は定家のせがれをやっていた。偉大な父の跡取りの役。[映画館(邦画)] 8点(2013-12-19 09:17:45)

18.  男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け 《ネタバレ》 最近『ジョーズ』を再見したら、夢がジョーズの寅があったな、ということが気になり、調べたらこれだった。逆の流れでなく、夢づたいに思い出させる力があるのが寅シリーズの強さだ。これは「芸術とは何ぞや」を軸に語った一編。のちに『あじさいの恋』でも芸術(陶芸)と金銭の関係に触れるが、これでは酔った宇野重吉がちょろちょろっと描いて7万円の愕然から始まる。名前を有り難がる芸術市場への皮肉のようでもあるが、そこまでは言えないか。ついで龍野の旅になり(この風景の美しいこと)、宇野重吉と同行することで「車先生」になるあたり、やはり「名前で尊重される社会」への皮肉で通じ合っているような。宴会の里芋コロコロ。このシリーズでは食べ物のギャグが不思議と印象に残る。芸者ぼたん。この突き抜けた明るさがいかにもコロッと騙されそうなキャラクターで、また騙されることが美質に感じられるのが大事。後半で騙されたぼたんに一緒に付いていく社長もいい。工場の宴会に来てもらった返礼になっている。名前で有り難がるのではなく、相手の実質の行為に実質で応えようとする。寅はこういう現実社会の悪にはまったく無力で、池内淳子の『寅次郎恋歌』以来いつも傍観せざるを得ない。ただし本作では最後に宇野画伯の牡丹の絵を持ってきてきれいに締める。「金銭に代えられない芸術の価値がある」と言葉にすると愛想がないが、それを軸にして一編の人情話に見事に仕立てている。[映画館(邦画)] 8点(2013-11-28 09:14:16)(良:2票)

19.  犬神家の一族(1976) 推理小説の映画化は、どうしても言葉に頼る部分が多くなり成功しづらいのだが、崑さんはそれを逆手にとって会話の場面で面白がらせる。前作『吾輩は猫である』がそうだった。いわばサロンの仲間うちの会話で成り立っているような原作から、会話のリズムと画面を顔で埋める映像で楽しめる映画にしてしまった。その延長にこの金田一シリーズが出来たのだろう。解決篇の部分が推理ものにとっては鬼門で、どうしても説明になってしまう。そこが本シリーズでは面白い。事件のフラッシュバックを挿入する勘どころ、言い募りあう人物を時間を少しずつずらして短いカットでつないでいく緊迫、顔の部分アップを折り込んだり、コラージュを楽しんで作っている。そして崑の終生のモチーフである女のドラマにもなっていた。本シリーズは『男はつらいよ』とは別のスタイルで、当時の大女優名鑑になった。シリーズを通しての脇役チームとなる俳優たちの顔を見るのも楽しく(本シリーズの坂口良子は忘れがたい)、それにしてもつい最近の映画と思っていたのにずいぶん多くの役者が故人になってしまっているものだ。[CS・衛星(邦画)] 8点(2013-11-17 09:34:15)

20.  JAWS/ジョーズ 水面上でのはしゃいだ世界と水面下の低音弦がうごめく世界、この対比って以後の監督の作品でもしばしば見られ(恐竜ランドの柵のあっちとこっち)、遊園地のはしゃぎが恐怖に転換するのが好きで、またそれがうまいんだ。そもそもが最初の犠牲者が海面ではしゃいでいるとツーッと横に動くのが、なにか新式の遊具のような不思議さがある。遊ばせていた犬が戻ってこない、捕まえようとしつらえた罠のエサが桟橋ごと持っていかれる、どれもレジャー気分が恐怖に転換する。その裏返しのようにふざけた子どもの偽鮫が銃で囲まれたりもする。海開きのはしゃいだ気分が(はしゃがねばいけないような気分が)恐怖の背景として最適。後半は舞台が海に移って社会が恐怖に対面する装置はなくなってしまうが、ドレイファスとショウの「男の張り合いもの」で楽しめる。これもアメリカ映画の好んだ設定だ(あるいは『黄金』など、男三人ものか)。ショウが空缶を片手で潰すと、ドレイファスも紙コップを潰す。船のなかでの傷自慢も楽しい。冒頭の若者たちの描写に、70年代の映画だったな、と思った。[CS・衛星(字幕)] 8点(2013-11-11 09:43:39)(良:1票)

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