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プロフィール
コメント数 2627
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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181.  ブラック・ウィドウ(2020) 兎にも角にも、まずは、「おかえり、ナターシャ」と心の中で唱えずにはいられない。 コロナ禍の影響も重なり、実に2年ぶりのMCU映画の劇場鑑賞。 スクリーンに映し出される「MARVEL」のお決まりのオープニングクレジットを目の当たりにした瞬間、高揚感が一気に高まり、思っていた以上に自分がMCUの新作映画を“欲していたこと”を痛感した。 正直なところ、その高揚感を感じつつ、MCU“フェーズ4”の幕開けを迎えられただけで、一定の満足感は得られたことは否定できない。 このブラック・ウィドウ単独主役作品を、ドラマシリーズとしてではなく単体映画作品として製作し、コロナ禍により数々の映画作品が劇場公開を諦めネット配信に切り替わっていく中においても、何とか劇場公開(+プレミア配信)にこぎつけたのは、何と言ってもブラック・ウィドウ(a.k.a ナターシャ・ロマノフ)というキャラクターのMCUシリーズを通じた貢献度の高さと、演じたスカーレット・ヨハンソンに対するリスペクト故だろう。 MCUシリーズ作の中で都度垣間見えたブラック・ウィドウの過去を踏まえると、彼女を主役にした単独映画が、シリアスな女性スパイ映画になるであろうことは想像に難くなかった。 壮絶かつ残酷な生い立ちや、スパイとしての成長描写を踏みつつ、スタイリッシュなスパイ・アクションを期待していた。 結果的に、その想像と期待は、半分当たり、半分外れたと言える。 まず意外だったのは、思ったよりもコメディ演出が多かったことだ。 主人公のナターシャも、フローレンス・ピュー演じる“妹”のエレーナも、そのあまりにも非人道的な生い立ちに反比例するかのように、自らの半生をシニカルに半笑いで語る。 そして、こちらも壮絶な人生観と業を孕んでいるはずの、“父”と“母”のキャラクター性も、どこか間が抜けていて、思わず吹き出してしまうシーンが多々あった。 その映画的テイストは、近年各国の映画作品で表現されている女性スパイ映画の悲愴や苛烈さというよりも、ずばりスパイ映画の王道である「007」シリーズの系譜だった。 MCUの中で描き出される女性スパイ映画として、そのバランス感は結果的に適していたと思う。 スパイ映画としての娯楽の本流を貫きつつも、現代的な問題意識を根底に敷き詰めたストーリーテリングに対しては、「流石MCU」の一言に尽きる。 ただし、だ。 今作を、MCUの大河の中で、アベンジャーズの面々の中でも常に中心に存在し続けたナターシャ・ロナマノフ(=ブラック・ウィドウ)の映画であることを捉えると、どうしても腑に落ちない要素も大きい。 最も納得できないのは、「インフィニティ・ウォー」の後、「エンドゲーム」冒頭の彼女の孤独感についてだ。 サノスに敗れ去り、完全に崩壊したアベンジャーズが、彼女にとっての“唯一の家族”だとナターシャは孤独感に苛まれつつも、光の見えない可能性を模索していた。 でも、今作の結末を踏まえると、彼女には“もう一つの家族”が確実に存在していたことになり、「エンドゲーム」の冒頭で描かれていた孤独感が揺らいでしまう。 サノスの“指パッチン”により、実は存在していた「家族」たちも同時に失ったという風にも捉えられるかもしれないが、どうしても後付感が拭えない。 要は、今作の結末が、ちょっと“ハッピーエンド”過ぎるのではないかと思うのだ。 今作は、主人公が過去に失った「疑似家族」と再び巡り合うと同時に、そこの孕む罪と罰と向き合い、贖罪を誓う物語であるはずだ。 であるならば、その業を背負った“家族”全員が結果的に無事に存在し続けるというのは、少々都合が良すぎるのではないかと思えてしまう。 特に、“父”と“母”は、どう取り繕ったとしても“悪”の根幹を担っていたことは否定できない事実であり、何かしらの「禊」が描き出されて然るべきだったのではないか。 今作の結末で、その然るべき“悲しみ”を背負っていたのならば、ナターシャの「インフィニティ・ウォー」に臨む悲壮感も、「エンドゲーム」おける孤独感も、もっと説得力のあるものとして高まったと思う。 とはいえ、冒頭にも記したとおり、ブラック・ウィドウの最後の勇姿をしっかりとスクリーンで堪能できたことは満足だ。 どうやらこれで完全にスカーレット・ヨハンソンはMCU卒業ということのようなので、トニー・スターク同様に、ナターシャ・ロマノフにもこの言葉を捧げたい。 Thank you Natasha,3000[映画館(字幕)] 6点(2021-07-15 23:49:13)(良:1票) 《改行有》

182.  名探偵ピカチュウ 日曜日の昼下がり、インドア派(出不精とも言う)の小1の息子と映画鑑賞をすることが多くなってきた。 親としては、好奇心旺盛に外に出かけたがってほしいとも思うが、映画ファンとしてはもちろん嬉しい。 外に出るばかりが好奇心旺盛ではなかろうし、アニメや映画を観たがることだって無論立派な「好奇心」だろう。 とはいえ、放っておくとこれまた同じアニメ映画ばかりを観る我が息子(それはそれで悪いことではないけれど)。「スポンジ・ボブ」の映画を知らぬ間に5回以上観ていたのには驚いた。 もう年齢的に実写映画もイケるんじゃないかと思案し、自分自身も未鑑賞だったこのハリウッド版ポケモン映画をチョイス。 現在配信中のTVシリーズも毎週楽しみにしていて、目下ポケモンブーム真っ只中の彼にとっては、丁度いいエンタメ作品なのではないかと思った。実際、良好なハリウッド映画初体験になったのではないかと思う。 自分の子ども時代にも既に「ポケモン」は存在していたけれど、僕自身は全くと言っていい門外漢で、“ピカチュウ”以外のモンスター名も、子どもたちがハマっているのを横目で見ながら最近ようやくその幾つかを認識しだした程度だ。 ただ今作のエンターテイメント映画としてのクオリティーは、正直想像よりもずっと高く、ハリウッドのファミリームービーとして充分に及第点だったと思う。 ちょっと驚くくらいに、フルCGを駆使した映像的クオリティーは高品質だった。そして何と言っても、体毛のモフモフ感がたまらないピカチュウが可愛すぎた。 動物的なアニメキャラクターの実写化って大体失敗するものだけれど、ピカチュウをはじめとする今作のキャラクターたちは、リアル化によって気持ち悪くなることはなく、同時にアニメーション時のキャラクター造形も崩さない極めて絶妙なクリエイトに成功していると思う。 そんな可愛らしいピカチュウが、その風貌に反して“おじさん”の声で話すというアイデアも結果的には中々良かった。 最初に「ライアン・レイノルズがピカチュウを演じる」と聞いたときは、「なんだそりゃ」と一笑に付したけれど、今作のテーマに直結するその設定は、ストーリー的な整合性もあり、娯楽性も高めていたと思える。 今回は6歳児との鑑賞のため必然的に日本語吹き替え版で観たので、ライアン・レイノルズのピカチュウ役は楽しめなかったのだけれど、日本語版の西島秀俊も、殊の外ピカチュウ役を楽しんで演じていて良かった。 さて、次は何を観ようかな。子どもと一緒に観るための映画を考えるのもまた楽し。[インターネット(吹替)] 7点(2021-07-12 23:19:34)《改行有》

183.  トゥモロー・ウォー 「Amazon Prime Video独占配信映画」として、連日TVCMでパワープッシュされているこのSF超大作は、クリス・プラット主演&製作に相応しい“脳筋馬鹿”なブロックバスター映画だった。 元従軍科学者(現高校教師)というキャラ設定にも関わらず、「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」の“スター・ロード”まんまな愛され馬鹿にしか見えない主演俳優のキャラクター性も相まって、なんだか憎めない娯楽映画に仕上がっていたと思う。 エイリアンに侵略されて滅亡の危機に貧している未来の人類が、時間を逆行し、過去の人類に救いを求めるという導入から、全人類総動員のSFサバイバルが展開される。 そのプロットからも伝わってくる通り、ストーリーテリングは極めて大味で雑多だ。もはやさもありなんと言わんばかりに、“ツッコミどころ”のオンパレードだ。 そもそも、時間移動を可能にしたテクノロジーを手にしていながら、導き出された戦略が、人口密度が高い時代に遡っての「地球人総動員」て、第二次世界大戦当時の大日本帝国よりも酷い。 時間移動という“反則技”を使えるのだから、地球規模の「徴兵」なんてせずとも、もっと本質的な解決策はいくらでもありそうなものだ。 という難癖を終始巡らせながらも、全編通して飽きること無く、また白けることもなく、エンドロールを迎えることができたのは、今作が娯楽映画として抑えるべきポイントをきちんと携えているからだろうと思う。 それは、前述の主演俳優の魅力であろうし、エイリアンの絶妙に気持ち悪く悍ましい造形だったり、馬鹿馬鹿しくも大胆でユニークなアクション描写だったり、一転して普遍的な父娘のドラマだったりと多岐にわたる。 何と言っても、クライマック前に訪れる、父親と未来の娘が迎える終着。 膨れ上がった絶望と一抹の希望が介在するあまりにも恐ろしくて、あまりにも美しいあの圧倒的なビジュアルを映し出したことが、今作のハイライトだろう。 例によってコロナ渦の影響を受け、劇場公開に至らず、Amazonが権利を買い取った今作。 大仰なスペクタクルシーンの数々をスクリーンで鑑賞したかったとも思うが、このクラスの大バジェット映画を独占配信で観られるという贅沢感は存分に堪能できたなと。[インターネット(字幕)] 7点(2021-07-12 22:11:46)《改行有》

184.  ゴジラvsコング 《ネタバレ》 今作は、或る意味、正統で真っ当な1962年の東宝映画「キングコング対ゴジラ」のハリウッド映画化と言えるだろう。 思い起こしてみれば、“モンスターバース”と銘打たれたこのハリウッド版“GODZILLA”シリーズは、“アメリカ”という国ででゴジラ映画を愛し続けてくれた映画人たちが、その“オタク魂”を遺憾なく発揮し続けたシリーズとも言える。 だからこそ僕は、これまでのシリーズ作において、“核の取り扱い”の一点において拭い去れない「嫌悪感」を示しつつも、製作陣のゴジラ映画やそれに付随する数々の特撮映画に対する「愛」を感じずにはいられなかったし、本多猪四郎や円谷英二、伊福部昭ら、東宝特撮映画のクリエイター達に対する尊敬の念に裏打ちされた映像世界に圧倒されたことを否定できなかった。 そういう意味で捉えるならば、この最新作もとい“モンスターバース”の一つの終着作とも言える今作も、ゴジラ映画や東宝特撮映画に対する「愛」に溢れた映画だと言えるだろう。 ただし、だ。今作の場合、その表現方法が、あまりにも「馬鹿」過ぎた。 その“馬鹿さ加減”も含めて、1962年の「キングコング対ゴジラ」だと言われれば、全くその通りなのだけれど、ただただひたすらに、その馬鹿さ加減のみが、地球3周くらい回って勢いがついた挙げ句にひっくり返って、無様にのたうち回っているようだった。 SF映画や怪獣映画として、“ストーリー”と呼べるものはまるで無く、「馬鹿」といか言いようがない登場人物たちが織りなす行きあたりばったりなストーリー展開が延々と続く印象を覚えた。 ゴジラとキングコングの文字通りの「肉弾戦」のビジュアルは流石に凄まじかったけれど、本当にどうかしていると思えるくらいにストーリー的な上手さやドラマ性が皆無なので、決戦描写が激しくなればなるほどに、どこか鼻白んでしまった。 クライマックスである香港決戦の描写や、地球空洞説を踏まえた空想科学要素は、個人的に好ましいエンターテイメント要素ではあったけれど、よくよく考えてみれば完全に「パシフィック・リム」の二番煎じでもあり、決してフレッシュではなかった。 そして今作のストーリーテリング上では“サプライズ”として登場する“メカゴジラ”も、何とも不格好でダサく、あまりにも魅力的でなかったことが傷口に塩を塗り込んでいる。 モデリングの醜悪さもさることながら、それを創り出し操っている人間が馬鹿すぎるので、メカゴジラの存在意義自体があまりにも希薄だった。 そもそも前作で登場したキングギドラの骨(DNA)をベースにしているのならば、“メカキングギドラ”でいいじゃん!と、「ゴジラVSキングギドラ(1991)」の大ファンとしては思わざるを得ない。 (そして、小栗旬の役柄の不憫さったらない……) と、呆れて物が言えないくらいの不満を覚えながら、改めて思い知ったことは、アメリカ人にとっての「ゴジラ映画」とは、まさに今作のベースである「キングコング対ゴジラ」以降の、“怪獣プロレス”を延々と繰り広げた昭和ゴジラシリーズに尽きるのだろうということ。 彼らにとって「ゴジラ」とは、どこまでもいっても“核が生み出したヒーロー”であり、それは即ち自らが生み出したこの星の“都合のいい守護神”なのだ。 実際に、プロレスブーム全盛の昭和ゴジラシリーズが存在し、アメリカのオタクたちが愛した怪獣映画がそれらである以上、その結果生み出された映画を「否定」することはもはやお門違いなのかもしれない。 それでも、日本のゴジラ映画ファンの一人として、この映画が、馬鹿馬鹿し過ぎる作品であることは否定できないし、玉石混交のゴジラ映画シリーズの中においては、或る意味今作もその系譜に相応しい作品と言えると思う。 この「落胆」は、この国のゴジラ映画ファンとして、むしろ「安堵」と言えるものかもしれない。 「シン・ゴジラ」を特異点として、日本国内のクリエーターたちにおける“ゴジラ”に対する創造性は、「新解釈」と共に益々多様的に展開している。 アニメ映画版三部作や、今年(2021)Netflix配信されたアニメシリーズ「ゴジラ S.P」はその顕著でエキサイティングな産物だろう。 どれだけ莫大な予算や映画的人材を駆使したとしても、「ゴジラ」だけは、日本でしか描きぬくことができない。それは、この国の映画文化が最も誇るべきアイデンティティの一つなのではないかとすら思える。[映画館(字幕)] 2点(2021-07-03 12:05:09)(良:1票) 《改行有》

185.  スポンジ・ボブ/スクエアパンツ 「僕はグーフィーグーバーさ♪君もグーフィーグーバーさ♪」と、息子(小1)が謎の歌を歌っていた。 何の歌かと聞いてみると、“スポンジ・ボブ”の映画だと言う。 息子はこの映画を既に5回以上観ているらしく、一部の台詞を空で言えるようになっていた。 日曜日の午前中、また観ると言うので、一緒に観てみることにした。 「スポンジ・ボブ」は、テレビ放映を何度か観たことがある程度で、アメリカのアニメらしい不条理でナンセンスなコメディだなという印象だった。 数話しか観ていないけれど、社会風刺や下ネタも散りばめられたブラックユーモアの強烈さは明らかで、NHKも中々攻めるなあと思っていた。 キャラクターのビジュアルや、キャラクター性も当然ながら強烈で、クセが強いので、「コレ、日本の子どもにウケるのか?」と懐疑的な印象も持っていたが、何のことはない我が息子がハマっているのだから、子どもの向けアニメとしてのコンセプトも間違っていないのだろう。 どうしても“大人”は、「子どもはかわいくてふわふわしたものが好き」というレッテルを貼りがちだけれど、実際そうとも限らない。 もちろん、“ふわふわしたもの”も大好きだけれど、もっと別の“ギラギラ”したものも、“トゲトゲ”したものも、区別せずにどんどん触れていくし、広く興味を持って大好きになり得るのだ。 そういう嗜好性の柔軟さと広さが、子どもの可能性そのものなんだなと思える。 で、今作はというと、主人公のスポンジ・ボブが、窮地に陥った仲間のために冒険に旅立ち帰ってくるという王道的なお話。 ベタなストーリーテリングではあるけれど、やはりそこにはこのアニメらしい毒々しさと禍々しさが随所に溢れている。 息子が「好きだ」という、前述の“グーフィーグーバー(パブ的なレストラン)”でアイスクリームを食い漁るシーンなど、スポンジ・ボブが完全に酔いつぶれたジャンキーと化していて、「これ子どもに見せていいのか?」と自問しつつも笑ってしまう。 アメリカでは日本以上に大人気のアニメらしく、キャスト陣も想定外に豪華だ。 今回は当然ながら吹替版での鑑賞だったが、オリジナル版では声の出演にスカーレット・ヨハンソンやアレック・ボールドウィンという名だたるハリウッドスターも名を連ねていた。 そして、実写との融合シーンにおいては、往年のスター俳優デヴィット・ハッセルホフが本人役で登場し、スポンジ・ボブらアニメキャラの強烈さを凌駕するほどの破天荒な役柄を演じてくれている。 繰り返しになるが、全編通してブラックユーモアに溢れ毒々しいので、必然的に大人でも充分に楽しい。 そして、息子は歌唱シーンやダンスシーンになると意気揚々と歌って踊っていた。 日本で「子どもから大人まで楽しめる作品」という触れ込みだと、大体そのテイストは「感動」という方向性に絞り込まれてしまう。 しかし、アメリカの娯楽作品の場合は、只々「楽しい」というエンタメの本質を追求している。 そういう懐の“深さ”、そして“吸収力”の強さが、この作品にも内包されていると思った。 深海に住むスポンジが主人公のアニメだけにね。[インターネット(吹替)] 6点(2021-06-28 00:11:07)《改行有》

186.  地下室のメロディー 《ネタバレ》 ロートルと青二才の悪党がコンビを組んで、或る犯罪計画に挑む。 今作の後に製作された多くのケイパー映画(強盗映画)で、同様のプロットが幾度も用いられてきたことからも、公開当時この映画がとてもセンセーショナルだったのだろうなということは充分に感じられる。 基本プロットのみならず、エレベーターの天井裏に潜むサスペンスだったり、エアダクトからの侵入のスリリングさだったり、後世の様々なサスペンス映画やアクション映画で登用され続けているアイデアの数々が印象的だった。 また久しぶりに古いフランス映画を観たけれど、この国の映画表現の手法や感覚は、日本映画のそれととても近しいものを感じた。 冒頭の老犯罪者とその妻のぬったりとしたやり取りや、良くも悪くもある鈍重なストーリーテリングなど、特に古い日本映画とは空気感的な類似性を強く感じる。 フランスで、日本のアニメや、北野映画が愛される理由が、改めてよく分かる。 60年代の犯罪映画として、とても味わい深い作品だとは思う。 ただ、娯楽映画単体として面白かったかというときっぱりとそうは言い切れない。 やはり、内容のわりにストーリー展開が鈍重に感じてしまったことは否めないし、クライマックスからラストシーンに至る一連の話運びにおいても、唐突で希薄な印象を受けてしまった。 犯罪行為の愚かさと無常さは、印象的なラストシーンによって如実に感じることはできたけれど、全体的にもう少し歯切れよく展開してくれた方が、今作の物語性には合っていたように思える。 主演したジャン・ギャバンとアラン・ドロンは、両者とも流石の存在感を放っていたと思う。 アラン・ドロンは、中々特異な人生経験の上で俳優になり一気に世界的スターになったようで興味深い。 彼の主演映画は「太陽がいっぱい」くらいしか鑑賞していないので、引き続き他の作品も観てみようと思う。[インターネット(字幕)] 6点(2021-06-27 12:30:50)《改行有》

187.  映画大好きポンポさん 映し出されるアニメーションを食い入るように見つめながら、なぜ、涙が出るのかよく分からなかった。 ただ、その「理由」を認識するよりも前に僕は、奮えて、泣いていた。 この世界のすべての映画フリーク、そしてあの世界に憧れ、夢破れ、今なお“表現”することを秘め続けている人たちにとって、このアニメ映画は“唯一無二”になり得る。 映画館を出て、しばし呆然と立ち尽くす中で、かろうじてそういうことを思った。 原作漫画「映画大好きポンポさん」を読んだのは数年前になる。 僕の嗜好性をよく知っていて、誰も知らないようなマニアックな映画漫画(映画を題材にした漫画)をよく貸してくれる友人から、単行本を借りた。 他の映画紹介系漫画とは異なり、ハリウッド(作中では“ニャリウッド”)の映画製作現場を描いたアプローチが新鮮で、とても楽しく読んだ。 キャラクター造形のポップさと真逆を行くような、王道的な舞台裏モノのストーリーテリングが、驚くほどに芯を食っていて興味深かった。 面白い漫画ではあった。ただ、結果的に各漫画賞にも入賞しているとはいえ、元々は漫画投稿サイト「pixiv」に掲載され沸々とビュー数を伸ばした“マイナー漫画”である今作が、まさか“映画化”されるとは思っていなかった。 だから、映画館で大判のタペストリーを見つけて、今作の公開を知った時は、驚きつつも、「酔狂なことをするものだ」と、完全に舐めきっていた。 そんな“舐めきった”映画に完全ノックアウトされてしまうのだから、まったくもって「ざまぁない」。 コミックの1巻のストーリーをほぼ忠実に描いたストーリーテリングは、やはり王道的な内幕モノ+シンデレラストーリーであり、そこに特別な工夫や斬新さがあるわけではない。 ただそこには、主人公ジーンの偏執的なまでの「映画愛」と、彼がそこに至らざるを得なかった人生模様が、より強く、より深く刻み込まれていた。 なぜ僕たちは映画を観るのか、なぜ私たちは映画を作るのか。 その理由や経緯は、実際様々なのだろうけれど、少なからず僕たちは、スクリーンに映し出された“光”を通じて、自らの人生を「投影」している。 そのあまりに本質的な真理に辿り着いた主人公は、自らの存在のすべてを叩きつけ、削り込むように、“映像”を切り取り、そして“映画”として繋ぎ合わせる。 「ようこそ、夢と狂気の世界へ」 というポンポさんの台詞が、クライマックスの展開と共に、より深く突き刺さってくる。 そして同時に、僕にはそのイカれた世界に突き進む「覚悟」が無かったのだなと思い知った。 ちょうど一年くらい前から、趣味で動画作成をするようになった。 今の仕事とか、コロナ禍の生活とか、様々な状況が重なって始めた趣味だったけれど、やっぱり僕はこの“行為”が好きだったのだなと思い知った。 幸か不幸か、僕はこの作品の主人公のように、映画制作に命を懸けているわけではないけれど、それでも彼がPremiere Pro(編集ソフト)の画面を睨みながら、もはや半狂乱的に編集作業に臨む姿には共感を覚えた。 気の遠くなるような膨大な作業量を目の当たりにして、ゾッとすると同時に、さあどう仕上げてやろうかとほくそ笑む。 ヘタクソで冗長な撮影素材の中から、2秒前後のカットを選び取り、1フレームレベルで調整する。 その作業を延々と繰り返して、「作品」と呼ぶにはおこがましいたった数分間の映像を作り出す。 極めてマスターベーション的な行為ではあるけれど、かつての夢の残り香を追うように、僕は動画を作成している。 「才能」も、「覚悟」も無かった自分には、到底辿り着けなかった世界だったろうし、今現在の自分自身の人生に後悔があるわけではないけれど、漫画であれ、アニメであれ、その世界で「自分」を貫き通した人間の姿には、感動を越え、尊敬をせずにはいられない。 その主人公をはじめとする「映画製作」という狂気的な世界の中で生きる人間たちの様相に対して、僕は、色々な感情が渦巻き、高まり、奮えたのだと思う。 映画館から出た直後、すぐさまこの漫画を紹介してくれた友人にメッセージを送った。 「控えめに言って、傑作だった」と。[映画館(邦画)] 10点(2021-06-19 23:23:50)(良:1票) 《改行有》

188.  るろうに剣心 最終章 The Beginning 予想通り、ビジュアルは爆発している。 「雪代巴」のあまりにも美しく、あまりにも残酷な斬殺の様。雪景色の白と、血しぶきの赤の、無慈悲な色彩。 あのシーンを、実写映画の中で表現しきったことが、この映画における唯一無二の価値だろうと確信した。 原作漫画の「人誅編」の中で主人公緋村剣心によって語られる“回想シーン”の映画化というよりは、やっぱりTVアニメシリーズの放送終了後にOVA作品として制作された「追憶編」の実写映画化という位置づけが相応しい今作。 個人的に、「追憶編」を観た翌日に今作を鑑賞したこともあり、それぞれの作品の良さや、再現性、そして難点も含め比較しつつ堪能することができた。 まずこの映画シリーズ通じての最大の強みでもあるキャスティングのマッチングについては、今作もその例にもれず良かったと思う。 ストーリー展開上、過去作と比べると登場人物自体がそれほど多くはないが、新たに登場する主要キャラクターを演じた俳優陣は、皆それぞれ素晴らしかった。 高橋一生演じる桂小五郎は、倒幕を掲げる長州藩の長としての非情さと、人心を掌握する人間味の深さを併せ持っており、この俳優らしい“あやしさ”を放っていた。 安藤政信が演じた高杉晋作も、「るろうに剣心」に登場するキャラクターらしい良い意味での実在性の無さが、史実における高杉晋作という人物の傾奇者的なイメージとも相まって魅力的だった。 アクションの見せ場を盛り上げてくれる「新選組」の面々も、ビジュアルのアンバランス感がとても漫画的で良かったと思う。 新キャラではないが、斎藤一役として主演の佐藤健以外では唯一の皆勤賞を果たした江口洋介のダンダラ羽織姿もセクシーだった。 そして、キャスト陣の中で最も印象的だったのは、冒頭にも記した通り、雪代巴の美しさと儚さを表現しきった有村架純だろう。 実はこれまで有村架純という女優に対してあまり好印象を持つ機会がなかったのだけれど、今作の有村架純は、まさに雪代巴そのものだと思えた。 何を考えているか分からない表情の無さ、名が表す通りまるで雪のような儚さと美しさ、そしてその中でふいに垣間見える慈愛と強さ。 有村架純の女優としての存在感と、雪代巴というキャラクター性が見事にマッチしていたのだと思う。 映像作品としてのビジュアル、そしてキャスティングには物凄く満足した。 ただその一方で、ストーリー展開、物語の起伏において、もう一つ物足りなさ無さを感じてしまったことも否めない。 それは、OVA版の「追憶編」を観終わった後にも少なからず感じたことだった。 その要因は明確で、即ちこの二つの作品(「追憶編」と「The Beginning」)で描き出されるストーリー展開が、原作漫画における緋村剣心の“回想シーン”の範疇を出ていないということに他ならない。 もちろん、主人公をはじめとするキャラクターたちの心理描写は、より深く掘り下げて表現されている。 ただ、話運びおいては、どうしても中途半端で、感情的に盛り上がりきれない状態で終わってしまう印象を受けてしまう。 それは、必ずしもハッピーエンドや、分かりやすい大団円で終えてほしいとうことではない。 原作においては、この“回想シーン”を「発端」として、怨念と復讐の権化と化した雪代縁との壮絶な戦いの末に、剣心が時代を越えて長らく抱え続けた悲痛と後悔が、本当の意味で“雪解け”を迎えるという展開に帰結する。 言わば、クライマックスに向けての“前フリ”なわけで、そのストーリーだけを単体で捉えてしまうと、どうしても尻切れ感が拭えないのだと思う。 (「追憶編」はOVAという形態であることもあり、「番外編」という位置づけだったのでまだ受け入れやすかった) この前日譚を敢えて映画シリーズの最終作に据えた試み自体は、面白いと思えたし、決して間違っていなかったと思う。 連作として先に公開された「The Final」や、第一作「るろうに剣心」を思い起こして、今作の後の物語を鑑賞者側が補完することは可能だろう。 けれど、10年も続いたシリーズの最終作とするからには、今作単体で高揚感を極める何かしらのエッセンスがあっても良かったのではないかと思う。 安直だが、倒幕を果たし血塗られた刀を戦地に突き刺して去った緋村剣心の足元が、次第に“るろうに”として新時代の道を歩む姿になり、「おろ?」と振り返る様で終幕する。 そんな1シーンがポストクレジットでもいいので映し出されたなら、それだけでも、この映画シリーズを追ってきた原作ファンとしては十分に高揚できただろう。[映画館(邦画)] 7点(2021-06-06 23:04:10)《改行有》

189.  資金源強奪 溢れ出る「昭和」のギラつく雑多感。 人からも、服装からも、街並みからも、すべてから放たれるそのギラギラに圧倒される。 展開される犯罪アクションの卓越したエンターテイメント性もさることながら、映し出される「昭和」そのものが揺るぎない「娯楽」だった。 ムショ帰りの主人公(北大路欣也)が、塀の中で知り合った仲間と共に、自身の組が主催する賭場の資金強奪を謀る。 計画は見事に成功するが、そこから報復と裏切りが織りなす容赦ない強奪金争いが始まる。 ハリウッド映画などでは、玉石混交に描きつくされたプロットであるが、それがこの時代の日本映画で、これ程まで娯楽的な完成度の高い作品として存在していたことにまず驚く。 ストーリーテリングのテンポの良さとユニークさ、そして何よりも、登場するキャラクターたちの個性がそれぞれ際立っていて、そのアンサンブルが娯楽映画としての質を高めていると思う。 北大路欣也の決してヒーロー然としてはいない悪党としての男臭さ。梅宮辰夫演じる悪徳刑事の軽妙さと曲者ぶり。そして何と言っても、川谷拓三の泥臭すぎる雑草魂。 最終的に“三つ巴”となって、「金=命」を奪い合う三者のキャラクター性が、俳優本人の個性とも掛け合わさり、特に印象的だった。 匂い立つような昭和娯楽の匂いにクラクラしっぱなしだった。 各種動画配信サービスの普及に伴い、これまでその存在すら知り得なかった“昭和映画”にも容易に触手を伸ばすことができるようになった。今一度、昭和娯楽の真髄を掘り起こす沼にハマっていきそうだ。[インターネット(邦画)] 8点(2021-06-05 14:55:59)《改行有》

190.  るろうに剣心 最終章 The Final 《ネタバレ》 原作者の和月伸宏が自他共に求めるアメコミファンであるが故に、今作は原作の段階からアメコミ色が強い。 僕自身は、アメリカン・コミックスそのものへの造詣が深いわけではないが、アメコミ映画は大好き。その自分の根本的な趣向が週刊ジャンプ連載当時からの「るろうに剣心」ファンに至らしめているのだろうと、今となっては思う。 そして、この実写映画化シリーズも、原作漫画が持つ趣向をビジュアル的にはきっちりと再現しているからこそ、MCUをはじめとするアメコミ映画に最も近い日本映画になり得ていると思える。 原作ファンとしても、アメコミ映画ファンとしても、それはとても嬉しいことではあるが、だからこそ口惜しい部分も大いに感じるシリーズであり、この最新作においてもその惜しさは拭いきれなかった。 公開を心待ちにしていた、というわけではないけれど、実は密かに期待はしていた。 原作ファンとしては、今作で描かれる“人誅編”も無論実写で観てみたかったし、このエピソードを「二部作」で描くことは、映画の連なりとして効果的に作用すると思えたからだ。 原作のストーリー展開を正確に映し出すとしたら、「前編」となるであろう二部作のうちの一作目は、見紛うことなき「悲劇」で幕を閉じるであろうことが一原作ファンとしては想定できた。 そして、圧倒的「絶望」によって文字通りのどん底に叩き落されたヒーローが、再び立ち上がることができるのか、否か。 それは「後編」として控える次作に向けての極上の前フリであり、それこそアメコミ映画の最高峰「アベンジャーズ インフィニティ・ウォー」から「エンドゲーム」に向けての連なりを彷彿とさせるに違いなかった。 が、しかし、実際に映し出されたこの二部作“前篇”のストーリーテリングは、その想定から大きく外れていた。 そもそも、今作においては一言も「前編」という表記はなく、「The Final」と銘打たれていたわけだから、当たり前といえば当たり前なんだが、今作は原作漫画で言うところの“人誅編”の「前編」という位置づけではなく、あくまでもシリーズの「完結編」として、この一作のみで物語の終幕まで描ききってしまった。 ヒロインの○○シーンを今か今かと身構えながら、クライマックスに臨んでいた者としては、「アレッ?」と肩透かしを食らったことは否めない。 原作の“あの展開”をすっ飛ばしてしまったことは、敵役である雪代縁のキャラクター性や、彼の動機・目的を踏まえても、整合性と説得力に欠けた。 また、ストーリー展開が性急に感じてしまうと同時に、ドラマ的にあまりにも味気ないものになってしまっているとも感じた。 ヒロインの「悲劇」に伴うヒーローの「絶望」の様は、このエピソードのみならず、「るろうに剣心」という物語の根幹に関わる部分だけに絶対に描くべきだったと思う。 ただその一方で、現在の日本映画きってのエンターテイメントシリーズとしてしっかりと楽しめたことも確かだ。 “チャンバラ”というよりは“ワイヤーアクション”のテイストが強い縦横無尽のアクションシーンは、これまでのシリーズ作同様にケレン味に溢れ、素直に楽しい。 日本の時代劇というよりも、亜細亜全体の異国情緒や文化をミックスしたような世界観も、原作漫画の副題にもある“明治剣客浪漫譚”に合致していると思える。 そして、これも今映画シリーズを大ヒットに至らしめた大きな要素であるが、キャスト陣のキャラクターへのマッチング抜群だったと思う。 今作においては、やはり雪代縁に扮した新田真剣佑がちゃんとハマっていた。 父親(千葉真一)譲りの体躯の素晴らしさと美貌は、大いに心をこじらせたシスコン武闘派キャラクターを見事に体現していた。 また、神木隆之介演じる瀬田宗次郎を再登場させて、剣心(佐藤健)と背中合わせて戦わせる映画オリジナルシーンは、同じくジャンプ漫画の映画化作品「バクマン。」の主演コンビでもあり、そういうメタ的要素も含めて胸熱だった。 というように、なんだかんだ言いつつも娯楽映画として堪能している。 そして、「The Beginning」と銘打たれた次作は、言わずもがな、アニメファンのみならず、時代劇ファンからも評価の高いOVA「追憶編」の実写化という位置づけなのだろう。 そういうことならば、この「完結編」を無理くりにでも一つにまとめて、敢えて先に公開したことも理解はできる。 おそらくは、「The Beginning」の撮れ高が想定よりもずっと良かったものだから、公開順を逆にしたんじゃないかとすら思えてくる。 未見のOVAも鑑賞してみつつ、ひとまず次作を楽しみにしておこう。[映画館(邦画)] 7点(2021-05-08 17:37:04)《改行有》

191.  おとなの恋は、まわり道 高校生の頃、自室に初めてハリウッド女優のポスターを飾った。それがウィノナ・ライダーだった。 あれから20年余りの年月を経て、画面に映る主演女優は、流石に老けてはいたけれど、その分自分自身も老けているわけで、感慨深さを覚えると同時に、久しぶりの主演映画で振り切ったキャラクターを演じる彼女は魅力的だったと思う。 「おとなの恋は、まわり道」なんてユルい日本語タイトルがつけられているけれど、このラブコメが描き出すストーリーと人物描写は、決してユルくもヌルくもなく、極めて痛々しく、辛辣だ。 そしてだからこそこの上なく、可笑しい。 おそらく、映画史上、最も無様であけすけで何のロマンティックも感じさせないSEX。 その様を大笑いで見届けながら、「人間」の動物としての本質的な滑稽さと、イロイロあって「恋」というよりも人間関係そのものに対して面倒になり、臆病になる“おとなたち”の愚かさと愛らしさを等しく感じた。 その痛々しい主人公二人を、30年に渡ってハリウッドきっての美貌を保持しつつも、皆から“変わり者”のレッテルを貼られてきた二人のスター俳優が演じることの醍醐味。そのキャスティングセンスが何よりも見事だったと思える。 キアヌ・リーブスに至っては、風貌的には近年の大ヒット作「ジョン・ウィック」そのままなので、かの映画の劇中でも確実に“変人”の部類であるジョン・ウィックのプライベートを見ているような錯覚にも陥る。 植物に二酸化炭素を吐きかけて「光合成して〜」と語りかけ続けるウィノナ・ライダーの様も、なんだかんだあって精神的に追い込まれた彼女のリアルな私生活を見ているようで、苦笑いが止まらない。 そういう具合に、主演俳優それぞれのメタ的な要因も絡み合いながら、シンプルだからこそ人間模様の芳醇さを感じることができるラブコメに仕上がっていたと思う。 30年に渡ってハリウッド映画を観てきた一映画ファンとして、この映画と、“まわり道”しつつも第一線で輝き続ける主演俳優たちを愛さずにはいられない。[インターネット(字幕)] 8点(2021-05-03 23:32:00)《改行有》

192.  愛がなんだ たぶん、この映画を観たほとんどの人たちは、登場人物たち(特に主人公)に対して、痛々しさと、ある種の嫌悪感を覚えるのだろうと思う。 恋の沼に溺れ(どっぷりと沈み込んでいる)、自分を好いている人に都合よく甘え、相手を悪者にしたくないと物分りいい風に恋を諦める“彼ら”の様は、正直目も当てられない。 でもね、僕たちのほどんどは、その彼らの無様な姿から目を離すことができない。そして、嫌悪感を示しつつも、否定もしきれない。 それは、誰しもその無様さと自分自身の経験とを重ね合わさざるを得ないからだ。 誰だって、「正論」とは程遠い恋に溺れたことがあるだろうし、「不誠実」なセックスで誰かを傷つけてしまったこともあるかもしれない。 なぜそうしてしまうのか? それは、劇中でも吐露される通り、本当は誰も自分自身に対して「自信」なんて持てず、弱さや情けなさを隠しつつ、寂しさに覆い尽くされてしまわないように必死に生きているからだ。 主人公のテルコは、恋に溺れ沈み込む自分の愚かさも、相手の男の情けなさも、友人たちの弱さもズルさも、みんな分かっている。 それがもはや「恋」でもなければ、「愛」でもないことも。 それでも、彼女は、“沈没”を止めない。止められない。 友人に現実を突きつけられても、無垢な少女時代の自分自身に疑問を呈されても、「は?何それ」とすべてをシャットアウトする。 彼女は無意識下で知っているのだ。 それがどんなに愚かで精神的に不衛生な選択であろうとも、沈んで沈んで沈み込んで、“底”に足をつけなければ、浮き上がることができないことを。 この映画が描き出していることは、必ずしも色恋を主体にした恋愛模様ではなく、もっと泥臭くて滑稽な人間模様だった。 脳天をガツンと叩かれた感じ。この感覚は、2年前に鑑賞した「勝手にふるえてろ」を彷彿とさせる。 打ちひしがれた主人公が唐突に歌いだして心情を吐露するシーンなど類似点も多かったと思う。 そして、「勝手にふるえてろ」鑑賞時に松岡茉優を発見したことと同様に、また一人大好きになるべき女優を発見した。 主人公テルコを演じた岸井ゆきの。この女優がまた素晴らしかった。 不安定なキャラクターを演じきったその表現力もさることながら、個人的にツボだったのは彼女の風貌だ。 とても美人にも見えるがよく見るとそうでもなかったり、とびきり可愛らしくも見える時もあればまったくそうじゃない時もある。一つの映画の中でビジュアルがくるくると入れ替わるようだった。 例えるならば、“のん”のようなキュートでコミカルな繊細さ、“田畑智子”のような儚げな芯の強さ、そしてBiSHの“セントチヒロ・チッチ”のような秘めた熱さをかけて混ぜ合わせたようなマーブル柄。それが様々な表情を見せているようなそんな感覚を覚えた。 要するに女優としてどストライクだったということ。 「会社辞めたら象の飼育員になるわ」 と、動物園の象を見ながら、馬鹿な昔の男が馬鹿なことを言っていた。 それを聞いて泣いた私は、もっと馬鹿な女だったな。 と、彼女は、彼(象)に餌をやりながら懐かしむ。[インターネット(邦画)] 10点(2021-05-03 00:23:09)(良:1票) 《改行有》

193.  メン・イン・ブラック:インターナショナル 「メン・イン・ブラック」を初めて映画館で観た1997年から24年も経ったかと、勝手に感慨深い。 同シリーズは、トミー・リー・ジョーンズ演じる“K”と、ウィル・スミス演じる“J”によるバディ感のバランスが抜群で、そのキャスティングが成功要因の大部分を占めていると言って過言ではなかろう。 そして、肩の力を抜いたアクションコメディを大映しにしつつも、きちんとSF的なアイデアも盛り込み、「映画」としてしっかりと仕上がっていることを観るたびに噛みしめることができる。 流石は、スティーヴン・スピルバーグを筆頭にした当時のハリウッドのトップランナーたちが集結してクリエイトされた大エンターテイメントだと思う。 パート2もパート3もそれぞれ面白く、クオリティーの高い人気シリーズだったが、パート3にて“K&J”のストーリーは綺麗に収束していたので、この新作においてキャストが一新されたこと自体に否定的な気持ちは無かった。 むしろ、クリス・ヘムズワース&テッサ・トンプソンという、“アスガルドの神々”コンビのキャスティングに対して、MCUファンとしてニヤリとせずにはいられなかった。 “K&J”が、人種と年の差を超えたバディムービーを構築していたことに対して、今作の“H&M”は、人種と男女差を超えたバディムービーを構築するという趣向も、新世代の「MIB」として相応しかったと思える。 オープニングクレジットのフォントスタイルをはじめ、久方ぶりの「MIB」の世界観は懐かしさもあり、楽しかったとは思う。 ただし、映画全体としての完成度を俯瞰すると、あらゆる面における“中途半端感”が否めない。 新しい主人公コンビは、前述の通りフレッシュで魅力的だったけれど、それぞれのキャラクター性があまりにも弱い。 比較するのはお門違いだろうが、エージェントHは“ソー”と比べると「脳筋バカ」な愛らしさに欠けているし、エージェントMも“ヴァルキリー”と比べると王子を凌駕するほどの颯爽さに欠けているなど、キャラ的な物足りなさが際立ってしまっている。 その点においては、旧シリーズの“K&J”がいかにバランス良くふざけきった名コンビであったかを思い知った。 脇を固める配役も中々豪華なのだが、リーアム・ニーソンにしても、レベッカ・ファーガソンについても、おざなりなキャラクター造形を否めず、両俳優のファンとしては残念だった。 ストーリー展開においても、「インターナショナル」というタイトルが示すように、スパイ映画よろしく世界中を駆け巡りはするが、そこにストーリーテリング上の必要性を感じず、無駄な場面展開で製作費と尺を浪費しているように感じてしまった。 どうやら、製作過程において、監督とプロデューサー間で揉めに揉めた現場だったようで、当初の脚本から大幅に様変わりしてしまっているらしい。 当初の脚本では、昨今の「移民問題」に対する提起も含まれていたというから、そういうテーマがしっかり描ききれていたならば、世界を股にかける話運びも効果的に機能したのであろうし、“アスガルドからの移民”である主演コンビによるメタ的な面白味も増幅されていたに違いない。 巨額の製作費を扱う大バジェット映画になればなるほど、それに携わる人間同士の問題が、作品の出来栄えにむしろ顕著に表れるのかもしれないなと、一組織人としては身につまされたり。 さて、気を取り直して、1997年の第一作でも見直そうかなと。[インターネット(字幕)] 3点(2021-04-25 00:03:47)《改行有》

194.  LUPIN THE IIIRD 峰不二子の嘘 《ネタバレ》 「峰不二子の嘘」というタイトルが、センスが良いように見えて、実はあまり上手く無いなと思った。 なぜなら、峰不二子ってそもそも“嘘をつく”キャラクターであるし、もし劇中で彼女が嘘をつかなかったとしたら、そんなの峰不二子ではない。 つまりは、峰不二子というキャラクターにおいて「嘘」は必須ファクターであり、そこには意外性もなければ、どんなストーリーが描かれるのであろうという期待感もあまり生まれなかった。 そして、タイトルでそう明言されている以上、劇中において峰不二子が何らかの「嘘」をつくことは明らかであり、そうなると大体の話も端から読めてしまう。 そんなタイトル設定の稚拙さが、全体的な話運びにも如実に表れてしまっている。 実際、「嘘」と銘打つ割にはストーリーテリング的にも上手くなく、キャラクターの言動や一つ一つの台詞回しに至るまで陳腐さを感じたことは否めない。 キャラクター造形においても、峰不二子ら主要キャラクターは良いとしても、キーパーソンとなる子どもや、悪役の描かれ方があまりに類型的でおざなりに思えた。 当シリーズは、「次元大介の墓標」以降、“大人向け”のルパン三世シリーズとしての“意欲”は大いに買っているけれど、前作の「血煙の石川五エ門」然り、もう一歩も二歩もチャレンジングに踏み込み切れていないのが残念に思う。 このシリーズ化の直接的な“きっかけ”になったであろう前段のTVシリーズ「LUPIN the Third -峰不二子という女-」の、圧倒的に淫靡で過激な正真正銘の“アダルティ”と比較してしまうと、シリーズの目論見に反してどうしても“子供騙し”思えてくる。 正直、終盤までの稚拙な展開のまま終幕していたなら、もっと酷評は避けられなかっただろう。 ただ、ラストの峰不二子による“肉弾戦”が何とか救いとなっている。 峰不二子が“真っ向勝負”の肉弾戦を挑むという意外性、そして彼女ならではの決着方法と、残酷とエロティシズム。 このラストのシークエンスのみは、峰不二子というキャラクターを主人公とした作品に相応しい味わいを残せていると思う。 尺の短さや、随所に垣間見える作画のチープ、製作期間の空き方から察するに、中々資金集めに苦労している企画なのだろうけれど、キャラクターデザインや声優陣は非常に良い雰囲気を醸し出しているだけに、何とか“あの怪人”までは辿り着いてほしいものだなと。[インターネット(邦画)] 4点(2021-04-18 00:38:31)《改行有》

195.  マ・レイニーのブラックボトム 《ネタバレ》 二人の黒人の若者が、闇夜を逃げ惑うように疾走するオープニング。 そのシーンが彷彿とさせるのは、言わずもがな、逃亡奴隷の悲壮感。 しかし、そんな観客の思惑を裏切るかのように、彼らがたどり着いたのは、ブルースの女王のライブだった。 多幸感に包まれながら、多くの黒人たちが、彼女の歌に魅了されている。 ブルースの起源は、奴隷時代に自由を奪われた黒人たちが労働中に歌っていた音楽らしい。 時代は1920年代。そこには、「人種差別」などという表現ではまだ生ぬるい、「奴隷制度」の名残がくっきりと残っていた。 人類史上に、闇よりも深い黒で塗りつぶされた怒りと、悲しみと、憎しみ。 登場人物たちの心の中に色濃く残るその「黒色」が、全編通して、ブルースのリズムに乗るような台詞回しの中で表現されていく。 その「表現」は、まさに黒人奴隷たちの悲痛の中から生まれた音楽のルーツそのものだった。 テーマが明確な一方で、この映画が織りなす語り口はとても特徴的だった。 前述の通り、時にまるでブルースの一節のように、熱く、強く、発される台詞回しも含め、人物たちの感情表現が音楽の抑揚のように激しく揺れ動く。 あるシークエンスを経て、登場人物たちの感情が一旦収まったかと思えば、次のシーンでは再び抑えきれない激情がほとばしる。 そしてその激しい感情の揺れの様が、ほぼ小さな録音スタジオ内だけで展開される。 今作は、舞台作品の映画化ということで、監督を務めたのも演劇界の巨匠であることが、このような映画作品としては特徴的で、直情的な表現に至ったのだろう。 特徴的ではあったが、その演出方法こそが、“彼ら”の抑えきれない怒りと悲しみを如実に表現していたと思う。 主人公となるのは、“ブルースの母”と称される伝説的歌手と野心溢れる若手トランペッター。 二人の思惑とスタンスは一見正反対で、終始対立しているように見える。ただし、彼らが白人とその社会に対して抱いている感情は共通しており、その中で闘い生き抜いていこうとするアプローチの仕方が異なっているに過ぎない。 そこから見えてくるのは、白人に対して根源的な怒りと憎しみを抱えつつも、それを直接的にぶつけることすらできない彼らの精神の奥底に刷り込まれた抑圧の様だ。 行き場を見いだせない怒りと憎しみの矛先は、本来結束すべき“仲間”に向けられ、物語は取り返しのつかない悲劇へと帰着する。 ようやく開いた開かずの扉の先にあったもの。将来に向けた希望の象徴として購入した新しい靴。 若きトランペッターが抱き、必死につかもうとした“光”は、無残に、あっけなく潰える。 そして、もっとも愚かしいことは、この映画で描きつけられている描写の一つ一つが、決して遠い昔の時代性によるものではないということだ。 交通事故処理に伴う警官とのトラブルも、白人プロデューサーによって奪われる機会損失も、収入格差と貧困も、彼らに向けられる“視線”すらも、今現在も明確に存在する「差別」の実態そのものだ。 アメリカの黒人奴隷制度が生み出した250年に渡る「闇」。時を経てもなお、憎しみの螺旋は連なり、悲劇と虚しさを生み出し続けている。 この映画が本当に描き出したかったものは、100年前の悲劇ではなく、今この瞬間の「現実」だった。 最後に、今作が遺作となってしまったチャドウィック・ボーズマンの功績を讃えたい。 この物語が表現する怒りとそれに伴う虚しさを、その身一つで体現した演技は圧倒的だった。 がん治療の闘病の間で見せたその表現は、文字通り「命」を燃やすかのような熱量が満ち溢れていた。 この世界が、若く偉大な俳優を失ってしまったことを改めて思い知った。[インターネット(字幕)] 8点(2021-04-16 23:43:41)(良:1票) 《改行有》

196.  ポーラー 狙われた暗殺者 まずは、マッツ・ミケルセンの“佇まい”一発で、ノックアウトは必至だ。 これまでも出演作を幾つか観てきたつもりだったが、どうやら私は、彼の本当の魅力を理解していなかったらしい。 「北欧の至宝」と称されるその俳優としての存在感は、通り一遍な男前感やダンディズムでは収まりきらない「異質」なものを感じた。 それはもはや変質的と言っても過言ではなく、その特異な雰囲気が、今作の引退間際の最強暗殺者“ブラックカイザー”役と奇跡的なマッチングを見せていたと思う。   会社組織化された暗殺者集団という馬鹿みたいな設定(好き)や、引退予定の伝説的暗殺者に集団で襲いかかるという展開に対しては、言わずもがなキアヌ・リーブスの「ジョン・ウィック」が頭に浮かぶ。 主人公のキャラクター性や、対峙する暗殺者集団のエキセントリックさ、諸々の小ネタに至るまで、「ジョン・ウィック」との類似点は多く、下手を打てば「二番煎じ」と揶揄されることは避けられなかっただろう。   しかし、確かに「ジョン・ウィック」をはじめとするこの手のジャンル映画と似通っている作品ではあるけれど、同時に圧倒的な独創性も揺るがない娯楽映画だったと断言したい。   主演俳優の稀有な特異性に牽引されるかのように、映画そのものが少々、いや随分と常軌を逸している。 バイオレンスアクションとハードボイルド、そしてブラックユーモア、それらがミックスされた破綻気味なアンバランス感が、オリジナリティを創出している。   そして、やはり何と言っても主人公“ブラックカイザー”ことダンカン・ヴィスラのキャラクター性が抜群だった。 圧倒的に強く、全身からほとばしる男の色香は、言うまでもなく魅力的。 その一方で、ただ渋くて格好良いだけではなく、悪夢にうなされ飼い始めたばかりの愛犬を撃ち殺してしまったり、渋ってた割には小学生相手にドヤ顔で世界を股にかけた暗殺講座を繰り広げちゃったり、とっくにハニートラップであることは気付いているにも関わらずギリギリの瞬間までヤルことはヤッちゃったり……。 “ジョン・ウィック”もどこか頭のネジが抜け落ちている男だが、それ以上にこの人も何本もネジがぶっ飛んでしまっていることは明らかだ。   ストーリーの収束の仕方も的確であり、忘れがたきエンターテイメントを堪能した充足感と、まだまだこのイカれた殺し屋の暗躍を観たいぞ!という期待感に包まれる。 ここまで似通ったキャラクター性と世界観であれば、「ジョン・ウィックVSダンカン・ヴィスラ」という夢の競演を妄想してしまうな。[インターネット(字幕)] 8点(2021-04-04 17:16:01)(良:1票) 《改行有》

197.  騙し絵の牙 《ネタバレ》 “斜陽”という言葉を否定できない出版業界の内幕を生々しく描きながら、その小説そのものが「映画化」を前提とした“大泉洋アテ書き”という異例のアプローチで執筆・刊行された原作「騙し絵の牙」を読んだのは去年の秋だった。 劇中の出版業界と現実社会のメタ的要素も多分に絡めつつ重層的に物語られた原作は面白かったけれど、それよりももっと前に見ていた映画の予告編を思い返してみると、「あれ?こんな話なんだ」と小説のストーリー展開に対して一抹の違和感も覚えていた。 映画の予告編が醸し出していた斬新でトリッキーな雰囲気に対して、原作のストーリーテリングは、極めてミニマムな内幕ものに終始しており、語り口自体も想定していたよりもオーソドックス(悪く言えば前時代的)な印象を脱しなかった。 「真相」を描いたラストの顛末もどこか取ってつけたような回想録となっており、やや強引で雑な印象も受けた。 そうして、コロナ禍による半年以上の公開延期を経て、映画化作品をようやく鑑賞。 案の定、原作のストーリー展開に対しては、映像化に当たり大幅な“アレンジ”が加えられており、そこには全く別物と言っていいストーリーテリングが存在していた。 その“アレンジ”によって、前述のような原作のウィークポイントは大幅に解消されていて、映画単体としてシンプルに面白かった。 程よく面白かった原作小説を、より映画的にブラッシュアップし、見事に映画化しているな、と思った。 が、そこではたと気づく。果たして本当にそうなのだろうかと。 そもそもが、出版業界全体の低迷と、活字文化の凋落を念頭に置いて、「小説」と「映画」が同時に企画進行した作品なのだ。 であるならば、通常の「小説の映画化」という構図はそもそも成立しないのではないか。 この企画において、「小説」と「映画」は、まったく対の存在として最初からあり、相互に作用するように創作されたに違いない。 となれば、原作小説の存在そのものが、この“騙し”を謳った映画化作品の大いなる布石であり、小説を読み終えた時点で、“読者=鑑賞者(即ち私)”は、まんまとミスリードされてしまっていたのだと思える。 そしてそれは全く逆のプロセスだったとしても成立し、この映画を先に鑑賞した人は、映画作品によるミスリードを抱えて小説世界に踏み入ったことだろう。きっとそこにはまた別の“騙し”と“驚き”が生まれるはずだ。 その体験はまさに、小説と映画、メディアミックスによって創出された立体的な“騙し絵”そのものだ。 この映画のクライマックスにおいて、主人公の大泉洋が、豪腕経営者役の佐藤浩市に対して「遅すぎた」と非情に言い切るシーンが象徴的なように、“新しい斬新なアイデア”は、無情な時間の経過により瞬く間に、“古臭いアイデア”となってしまう。 常に新しい“面白いコト”を求められ続けるこの世界は、あまりにも世知辛く、厳しい。 そう、つまりは、原作小説で描かれた「結末」すら、この映画化の時点ではきっぱりと「古い」のだ。 そういうメディア業界全体の現実を端から想定して、このメディアミックス企画は練られ、小説家も、映画監督も、俳優も、編集者も、そこに身を置くすべての者達の、苦悩と虚無感を込めて生み出されているのだと感じた。 コロナ禍による大幅な公開延期、それと並行して半ば強制的に変わらざるを得なかった時代と価値観の変化、そういうものすら、このメディアミックスの目論見だったのではないかと、過度な想像をせずにはいられなくなる。 無情な時代の移ろいに苦悶しながらも、それでも彼らは追い求める。結局、今何が一番「面白い」かを。[映画館(邦画)] 7点(2021-03-27 23:15:44)(良:2票) 《改行有》

198.  星の王子ニューヨークへ行く2 30年ぶりの続編。30年の月日を経ても変わらない“エディ・マーフィ”というエンターテイメント力が圧巻で、懐かしさを存分に携えた爆笑は、次第に週末の夜のささやかな多幸感へと変わっていった。 30年後の続編という企画において、敢えて新しいことに積極的に挑まず、オリジナル作品のキャラクター性や映画的な雰囲気の「再現」に努めた制作陣の意向は正しかったと思う。 必然的に“新しさ”なんてものはなく、ほぼオリジナル作品のファン層のみをターゲットにした“同窓会映画”であることは否めないが、そうすることが、この映画が持つエンターテイメント性を過不足無く引き出していると思える。 何よりも嬉しかったのは、エディ・マーフィをはじめとするオリジナルキャストが勢揃いしていたことだ。 主人公の親友役セミを演じたアーセニオ・ホールは勿論、ヒロインのシャーリー・ヘドリー、父国王のジェームズ・アール・ジョーンズ、バーガーショップ経営者(義父)役のジョン・エイモスら、懐かしい顔ぶれが見られただけでも、感慨深いものがあった。 そして勿論、エディ・マーフィとアーセニオ・ホールによる“一人四役”も健在で、楽しかった。 新キャラクターでは、主人公の婚外子として登場するラヴェルのビジュアルが、完全に「ブラックパンサー」の“キルモンガー”パロディで愉快だったし、3姉妹の娘たちもフレッシュな魅力を放っていたと思う。 そして、隣国の独裁者として登場する“イギー将軍”に扮するのはウェズリー・スナイプス。鑑賞前にクレジットを見ていなかったので、90年代を代表する黒人アクションスターの登場には、益々高揚感を高められた。演じるキャラクターのバカぶりも最高すぎた。 繰り返しになるが、二つほど時代を越えて制作された「続編」として、何か新しい発見や挑戦がある類いの映画ではないし、オリジナル作品のファン以外が観てもピンとこない要素も多いのかもしれない。 ただ、かつて週末の民放ロードショーで「星の王子ニューヨークへ行く」を観て、エディ・マーフィというエンターテイメントを楽しんだ世代としては、問答無用に爆笑必至だった。 今作はパンデミックの影響で劇場公開が断念され、Amazonでの配信と相成ったとのこと。 制作陣やキャスト陣にとっては残念なことだっただろうけれど、かつてオリジナル作品を観たときと同様に、週末の夜、自宅で、“日本語吹替版”で観られたことは、ファンにとってある意味幸福な映画体験だったと思うのだ。[インターネット(吹替)] 7点(2021-03-15 12:14:15)(良:1票) 《改行有》

199.  映画ドラえもん 新・のび太の大魔境 ペコと5人の探検隊 新ドラ世代(声優陣が一新された新シリーズ)の劇場版第9作品目は、“旧世代”にも懐かしい「大魔境」。 オリジナル映画である1982年公開「ドラえもん のび太の大魔境」は、無論子どもの頃の何度も観た作品の一つだ。 のび太たち主要キャラに限らず、出来杉君の「ヘビースモーカーズフォレスト!」という言い回しに至るまで、記憶の中に染み込んでいる。 ストーリーそのものは、例によってアドベンチャーに憧れるのび太たちが、アフリカの秘境を探検するというドラえもん映画としてはシンプルなものだが、そこに盛り込まれたF先生のアイデアがやっぱり素晴らしい。 行き着く先が、大昔の地殻変動によって独立した進化を辿った犬の世界という設定や、絶体絶命の窮地を救うのが“10人の外国人”だというタイムパラドックス的趣向が、実にドラえもんらしいSF性とファンタジー性に溢れている。 そしてそんなストーリー展開の中で、ほぼ主人公的な立ち回りをするのがジャイアンであるという点も、オリジナル作品から変わらず、ガキ大将故の不器用さや葛藤を抱え込みながら、作中随一の感涙ポイントである「男気」をしっかりと見せてくれた。(ちなみにジャイアンはこの映画の中で5回位確実に死にかけている) 全体的にほぼ忠実なトレースをしたリメイク作なので、特に不満もないが、同時に特筆すべき新しい発見や表現も無かったことは否めない。 「のび太の恐竜」や「魔界大冒険」などその他のリメイク作が、傑作であるオリジナル作品に対して果敢に改変に挑み、新たな傑作として生まれ変わっていたことを踏まえると、そういった要素が無かったことはやや残念だった。[インターネット(邦画)] 6点(2021-03-14 23:40:52)《改行有》

200.  劇場版ポケットモンスター ココ 息子があと1ヶ月ほどで小学生になる。 休日は自宅でアニメを観るのが好きで、一丁前にAmazon Prime VideoやNetflixを駆使して、TVアニメやアニメ映画を延々と観ている(ただの出不精のような気もするが……)。 世の中のトレンドの例に漏れず「鬼滅の刃」の熱狂が一段落した後、このところは「ポケットモンスター」に、姉(9歳)と共にご執心だ。 そんな息子を隣に、僕自身初めて“ポケモン映画”を劇場鑑賞した。 “ポケモン”自体、もはや歴史の長いエンターテイメントなので、僕自身ギリギリ触れていてもおかしくはない世代ではあるが、ゲーム、アニメとも殆ど接した機会がなく、完全なる無頼漢だった。 現在放送中のアニメシリーズ最新版を子どもたちが熱心に観るようになって、ようやく“ピカチュウ”以外のモンスターたちの固有名詞を幾つか覚えた程度である。 そんなわけで、僕自身は“ポケモン”自体にさほど興味があるわけではないのだが、今作は、プロモーションを見る限り、シリーズの大筋のストーリーラインとは少し独立した物語のようであり、紛れもなく親子の物語を描いていることは明らかだったので、せっかくだし子どもたちと一緒に観てみたいと思った。 そして映画は、想像通り、てらいなくあまりにもド直球な“親子”の物語を描いていた。 そこにストーリー的な工夫や、目新しい踏み込みはほぼ無く、話の筋としては王道であり、ベタベタであったと言えよう。 映画ファンとして、「面白かった!」と言える作品ではないかも知れない。だがしかし、だ。 愛情とそれ故の対立。尊敬と敬愛。そして、旅立ち(巣立ち)。 父と息子、その普遍的なストーリーを、己の息子と共に目の当たりにして、涙せずにはいられなかった。 またアニメーションとしてのクオリティは想像していたよりもずっと高品質で、木漏れ日や、水しぶきや、空気の揺れに至るまで、ジャングルを舞台にした映画世界を見事に表現していたと思う。 この映画に登場する「父親」と同じく、僕自身、まだまだ本当に父親になりきれているのかは甚だ疑問だし、不安に思うことも多い。 おそらく、この思いは僕が父親であり続ける限りずうっと存在するものなのかもしれないし、子に限らず、親も様々な状況からの巣立ちを重ねて成長していくものなのかもしれない。[映画館(邦画)] 6点(2021-03-04 12:55:16)《改行有》

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