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プロフィール
コメント数 2597
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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221.  ねらわれた学園(1981) 2020年4月10日、大林宣彦監督が亡くなった。 遺作となるのであろう最新作の公開予定日(感染症拡大の影響で延期)に合わせるようにこの世を去った巨匠を偲びつつ、本作を初鑑賞。 数多くの彼の監督作品をつぶさに観ているわけではないけれど、この監督の映画ほど作品に対する表面的なパブリックイメージと、実際の映画世界の中に孕む“異常性”とのギャップに戸惑うものはない。 大林宣彦監督自身の風貌や人間性から、ノスタルジックでファンタジックなファミリームービーを多く手掛けている印象を持っている人も多いと思う。 無論、そういう側面を持った作品も多いのだけれど、それはあくまでも個々の作品における一側面であり、彼が生み出す映画世界の本質は、もっとアバンギャルドであった。 もっと端的な言い方をすれば、ずばり“イカれている”と言ってもいいくらいに、その映画世界は変質的だった。 本作「ねらわれた学園」も、言い切ってしまえば、完全にトンデモ映画であり、イカれている。 決して大袈裟ではなく、最初から最後までクラクラしっぱなしの映画世界に唖然とし、呆然とする。 1981年当時の映像技術やエフェクト技術が実際どの程度で、この映画の頭が痛くなるほどのチープさが、どれほど許容されるレベルのものだったのかは、同じく1981年生まれの自分には判別つかない。 しかし、狙い通りかどうかはともかくとして、この確信犯的な“歪さ”は、この映画世界に相応しい。 多感で未熟な高校生たちの心模様と、1981年という時代性、そして超能力という題材。 それらが持つアンバランスさと稚拙さが、チープを通り越して“困惑”せざるを得ない映像表現と相まって、グワングワンと押し寄せてくるようだった。 そして、その中で唯一無二の存在として可憐に輝く「薬師丸ひろ子」というアイドル性が、イカれた映画世界を問答無用に成立させている。 角川春樹(製作)の「薬師丸ひろ子の“アイドル映画”を撮ってくれ」というオーダーに対して、破天荒な映画世界を支配するまさに“偶像”として主演のアイドル女優を存在させ、見紛うことなき「アイドル映画」として成立させた大林監督の感性は凄まじい。 更には、未成熟な高校生たちの“畏怖”の象徴として登場する峰岸徹演じるヴィラン“星の魔王子”の存在感も物凄い。 変質者的に主人公に目線を送る初登場シーンから、クライマックスの直接対決(+「私は宇宙!」のキメ台詞)、そして最後の“宵の明星ウィンク”……いやあ、まさにトラウマレベルの存在感だった。(クライマックスシーンの撮影現場を想像すればするほどそのカオスさにクラクラする) と、どう言い繕っても“トンデモ”で“ヘンテコ”なカオスな作品であることは間違いなく、この映画を観た大多数の人は「何だこりゃ…」と一笑に付したことだろうとは思う。 だがしかし、公開から40年近くの年月が経ち、時代が移り、創造主である映画監督も亡くなってしまった今、一周まわって「何だこりゃ!」と目が離せなくなる作品になっていることも間違いないと思える。 ともあれ、日本が誇るイカれた巨匠のご冥福を祈りたい。彼が残したフィルムは決して色褪せない。[インターネット(邦画)] 5点(2020-04-11 23:34:22)(良:1票) 《改行有》

222.  ザ・ランドロマット -パナマ文書流出- 「パナマ文書」とは結局のところ何なのか? その知見を得ることを目的としてこの映画を観たならば、もしかすると逆効果かもしれない。 なぜならば、ストーリー展開に伴いその「真相」が詳らかになるほどに、関連する人物や物事はぐちゃぐちゃに入り組んで、わけが分からなくなることが必至だからだ。 それくらいに、この「パナマ文書」と称される機密文書に絡む一連の租税回避行為は、悪意に溢れた巧妙な責任転嫁の上に成り立っていて、その実態が見えてくればくるほど、怒りを超えた虚無感を覚える。 世界を股にかけたペーパーカンパニーを用いたマネーロンダリング。 その“合法行為”がもたらした「悲劇」と「裏切り」に対する怒りと虚無感が、稀有な映画手法で見事に描きつけられている。 呆れて失笑してしまうくらいに煩雑な相関関係も、それ故に入り乱れるストーリー展開も、本作の狙い通りであり、そこには明確な「意思」があった。 ラストカットでは、主演のメリル・ストリープが、劇中で演じたキャラクターを“二段階”で越え、更には“第四の壁”までも越えて、大女優メリル・ストリープとして断固たるメッセージを発する。 彼女は、観客である我々に向けて「まずは疑問を紐解くこと」の重要性を諭す。そして、自由のシンボルを模した姿と強い眼差しで、今この瞬間にも蔓延る“危機”を訴える。 事件当事者である実在の人物と狂言回し、そしてメッセンジャーとしての女優本人が、次々と立ち代わり入り乱れるストーリー展開は、前述の通り非常に分かりづらい。 ただし、だからこそ生じる愚かさや可笑しみも含めて、この映画のつくり手達の目論見通りであろう。 この世界の“真相”に対しては、大女優と同様に怒りに打ち震えるが、その感情も含めて面白味に溢れた作品だった。 それにしても、こんなにも時事的であると同時に実験的な映画を、こんなにも豪華なキャストで作り上げた監督は誰だ? と、思いきや、なんだスティーブン・ソダーバーグか。只々納得。[インターネット(字幕)] 8点(2020-04-07 22:53:06)《改行有》

223.  斬、 「死」自体を含めた「生」に対する“衝動”。 そのあまりにも荒々しく、場面によっては酷く稚拙にすら見える映画世界は、とてもじゃないが、世界に名を知れた還暦間際の映画監督の作品だとは、“普通”思えない。 池松壮亮や蒼井優が画面に登場していなければ、どこかの映画学校の学生が制作したのかと誤解してしまう“雰囲気”が無くはない。 が、しかし、これが「塚本晋也」の映画作品である以上、“普通”という言葉で収まるわけもなく、その稚拙さも含めた荒々しさに、只々、心がざわめく。 この映画は、幕末の農村を舞台とした時代劇ではあるが、一般的な「時代劇」という価値観に言い含められる様式や整合性、論理性などはまるで通用しない。 そこに存在したものは、60歳手前にして、相変わらずイカれた目をしている鬼才監督自身の「衝動」であった。 「1本の刀を過剰に見つめ、なぜ斬らねばならないかに悩む若者を撮りたいと思った」 と、塚本晋也監督はこの作品の発端について言及している。それは、監督自身のインサイドで発生した衝動に他ならない。 ある時、真剣を見つめた彼は、衝動的にその刃を振り下ろしてみたくなり、そこに纏わる「生」と「死」を描き出さずにはいられなかったのだろう。 そして、その衝動は、監督自身が演じた“澤村次郎左衛門”というキャラクターの狂気に集約されている。 当然ながら、真っ当な「時代劇」を期待して本作を鑑賞すると面食らい、最終的には呆然としてしまうことは避けられないだろう。 明確な「死」に直面した主人公の侍は、無意識下で拒否する体調に苦しみ、その一方ではリビドー(性衝動)を抑えきれない。 そして、文字通り精も根も尽き果てる。 それは「時代」の急激な変動を目の当たりにして、“生き方”を変えざるを得ない人間そのものに生じた本能的な「拒否反応」のようにも見えた。 その繊細な心情を身一つで表現するに当たって、主演の池松壮亮は適役だったと言えよう。 そういえば、彼の初出演作映画は「ラストサムライ」(当時12~13歳)。あの映画も、幕末の農村が舞台となっていた。 全く関係ない映画作品ではあるけれど、両作のキャラクターとそれを演じた一人の俳優の成長を通じて、何か運命めいたものも感じる。 そして、蒼井優が久しぶりに“ブチ切れた”演技を見せてくれており、長年この女優の大ファンの者としては、彼女が体現するあどけなさ、危うさ、妖しさ、その全てが印象的だった。 山奥を彷徨う“視点”でのエンドロールを経て、果たして主人公は「生」を繋ぎ止めることができたのか否か。 「死をも克服している可能性すらある」と、“澤村次郎左衛門”と全く同じ風貌の“学会の異端児”の台詞が、どこからか聞こえてきそうだ。[インターネット(邦画)] 7点(2020-03-20 23:13:32)《改行有》

224.  ザ・サークル トム・ハンクスが新型コロナウイルス感染との報を受け、映画ファンとして少なからず不安が深まる今日この頃。 世界的スターや著名人における感染の報を聞くと、いよいよ“パンデミック”の様相だなと流石に危機感は募る。 そんなわけで、名優トム・ハンクスを“応援”する意味も込めて、本作を鑑賞した。 基本的に、人格者の“善人”しか演じない印象のトム・ハンクスが、何やら悪意に満ちた人物像を演じている様は、公開時から気になっていた。 描き出されるテーマ的にも、2010年代以降世界を席巻し、もはやサーバースペースという領域を超えて、現代社会を“支配”しつつある“GAFA(Google、Amazon、Facebook、Apple)”を筆頭にした巨大IT企業に対して、ほぼ名指しでその「功罪」を追求していることは明らかで、実際に各社のサービスに“依存”してしまっている“1ユーザー”として非情に興味があった。 が、鑑賞後の率直な感想としては「ひどく中途半端だな」というところ。 “社会風刺映画”として、消化不良感は否めないし、きっぱりと面白くはなかった。 いろいろと問題はあろうが、最たる弱点は、お話としての踏み込みの甘さだろう。 現実社会に君臨する“GAFA”に対して、ほぼ直接的に言及し、警鐘を鳴らしているわりに、肝心な部分で希薄さを感じてしまった。それは創作に当たっての「尻込み」と言ってもいいだろう。 最先端企業の革新的な価値と華やかさを魅力的に映し出しつつ、その巨大企業が生み出したツールやサービスを“ユーザー”である我々人間の一人ひとりがどう「活用」するのか?という問題提起。 そのストーリーの本筋は間違っていないし、やはり興味深い。ただストーリーの中で息づくキャラクターたちの描写があまりにも類型的で軽薄だった。 主演のエマ・ワトソンも、トム・ハンクスも、演者としてキャラクターにマッチしていたとは思うし、精力的な演技を見せていたとは思うけれど、人物描写の軽薄さが響き、人間としてまったく魅力的に映らなかった。 それはその他の脇役についても同様で、ジョン・ボイエガ(「スター・ウォーズ」シリーズ)やカレン・ギラン(「アベンジャーズ」シリーズ)ら割と豪華なキャスト陣が、何やら意味深で印象的な佇まいは見せてくれるが、言動や心理描写が尽く浅いので、「結局、何がしたかったの?」と思ってしまう。 トム・ハンクスは人間力の高いパブリックイメージを表面的には活かしつつ、行き過ぎた企業戦略を強行するCEO役を演じていたが、悪役に徹することができず、終始あまりにも中途半端な立ち位置だった。 ラスト、主人公の行動により、辣腕のCEOはどのような帰着に至ったのか。結果的に善人であったとしても、悪人であったとしても、その顛末はきちんと描くべきだったと思う。 一方で、ある意味“放りっぱなし”なエンディングを選んだ意図は理解できる。 詰まるところ、巨大なIT企業の英知と戦略がもたらした「未来」はもはや避けられるものではない。 現実社会においても、“システム”が進化していくことは止められないし、止めるべきではないだろう。 そこで頼らざるを得ないのは、結局、人間の「善意」だということ。爆弾も、核エネルギーも、その「発明」自体に罪はないわけで。罪の対象は、常に「人間」そのものである。 そういうこの映画の核心を、もっと深く抉り出せていたならば、この映画はこんな中途半端な“円”ではなく、もっと“尖った”作品になっていただろう。 エンドロールで、“ビル・パクストン”の名前を見て、難病を抱えた主人公の父親役だったことに気づいた。 が、その直後に「For Bill」の文字。この作品の直後に61歳の若さで亡くなったそうで。「アポロ13」「ツイスター」をはじめ、僕自身が映画を本格的に鑑賞し始めた90年代のハリウッド映画を彩った俳優の一人だったので、悲しい。 兎にも角にも、とりあえずトム・ハンクスは、コロナを治そう。[インターネット(字幕)] 4点(2020-03-14 23:57:49)《改行有》

225.  映画ドラえもん 新・のび太の日本誕生 《ネタバレ》 1989年のオリジナル版「ドラえもん のび太の日本誕生」は、僕自身が小学校低学年時に劇場公開されたこともあり、その後小学生の間に繰り返し鑑賞したことも含めて、ドラえもん映画シリーズの中でも特に馴染み深い作品の一つだ。 劇場公開前のスペシャル番組で、主題歌を歌った西田敏行と作曲を担った堀内孝雄がレコーディングスタジオでインタビューを受けている映像まで鮮明に覚えている。 タイムマシンで大昔の世界にやってきたのび太たちが、その時代の人たちと交流を深めつつ、共に横暴な未来人と闘うというプロットは、「ドラえもん」のお話の中ではどちらかと言うと“ありがち”な部類であり、ストーリーラインそのものに驚きや斬新さがあるというわけではなかった。 けれど、のび太たちが“7年前の日本”を目指したきっかけは「家出」であり、そのあまりにも小さな理由から広がる時空を超えたあまりにも壮大なアドベンチャーが、とても「ドラえもん」らしく、F先生らしい“SF”性に満ち溢れている。 そして、黒幕である“精霊王ギガゾンビ”の悪役としての存在感が非情に大きいことも特徴だった。 その正体は23世紀の科学力を駆使して、人類史の“塗り替え”を成し遂げようとする未来人なわけだが、その「犯罪行為」の恐ろしさには説得力があった。 もし本当にはるか未来のイカれた科学者が、同じような犯罪行為を繰り広げたならば、僕のこの世界はどうなってしまうんだ、と幼気な少年だった僕は恐怖を感じた。 “タイムパトロール隊”の内偵により、文字通りの歴史的大犯罪が未然に防がれるという顛末も含めて、やはりF先生らしいストーリーテリングだったと思う。 長々と30年も昔の過去作の回顧録を綴ってしまったが、そのリメイク版である本作も、概ねストーリーラインに変化はなく、良い意味でも悪い意味でも、新しいドラえもんたちによる“焼き直し”に留まっている印象は否めない。 オリジナル版や原作漫画と比べると、“子どもたちの家出”という要素に少し踏み込み、子は親を思い、親は子を思う「情感」は加味されてはいたが、「改変」というレベルではなかったと思う。 同じく、過去のオリジナル版をリメイクした「のび太の恐竜2006」や「のび太の新魔界大冒険」、「新・のび太と鉄人兵団」等の改変部分が、とても挑戦的な現代的アレンジに溢れていたこともあり、そういう新しい解釈が本作には無かったことはいささか残念だった。 (面白半分で遺伝子を弄んでしまったのび太の功罪や、実際は圧倒的暴力に従わざるを得なかったクラヤミ族の悲哀など、新解釈を加味できる要素はあったように思う。) そして、個人的に最も不満だったのは、前述のタイムパトロール隊による「内偵捜査」のくだりが本作では存在しなかったことだ。 本作においては、ギガゾンビの謀略はドラミちゃんの「通報」により発覚するようになっており、それによりのび太たちが自分たちだけで危機を乗り越えるようには描き直されているけれど、一方でストーリー的な機知とカタルシスには欠ける印象を覚えた。 もしも、のび太たちが「家出」をせずに、古代人たちとの奇跡的な邂逅を果たさなければ、ギガゾンビの「歴史破壊」は成就してしまっていたわけで。 そう考えると、本作のタイムパトロール隊には苦言を呈したくなる。 が、しかし、本作もとい、本作のタイムパトロール隊には、そんな「苦言」を帳消しにし得る小粋な演出が用意されていた。 最後に登場するタイムパトロール隊の隊長が、原作漫画やオリジナル版では恰幅のいい“おじさん”だったのに対し、本作では妙齢な女性隊長に変更されている。 そして、そのキャラクターは、明らかに、同じく藤子・F・不二雄先生原作のSF漫画「T・Pぼん」に登場する“リーム・ストリーム”ではないか! 「T・Pぼん」では一介のタイムパトロール隊員だった彼女が、立派に成長を遂げ、「ギガゾンビ 歴史破壊未遂罪で逮捕する!」なんて颯爽と言い放つ姿を見せられては、共に観ていた5歳の息子の頭の上で、黙って親指を立てるしかないわけで。 そりゃあズルいよ。[インターネット(邦画)] 6点(2020-03-08 16:51:12)《改行有》

226.  永い言い訳 「後悔先に立たず」とは言うけれど、何かが起きて、すぐさま後悔できたのなら、それはまだ健全で幸福なことなのかもしれない。 後悔すらもすぐにできなくて、永い時間と、永い言い訳を要する。人間の人生なんてものは、往々にして無様で、愚かだ。 そんな“愚かさ”を肯定するつもりはないけれど、その有様を、辛辣に、そして優しく描き出したこの映画は、間違いなく傑作だと思えた。 主人公の男(本木雅弘)は、“自己憐憫”をこじらせ抜いており、ファーストシーンから只々“言い訳がましい”。 その男の髪の毛を、慣れた手付きでカットする美容師の妻(深津絵里)。 彼女の表情は、呆れているようにも、嘆いているようにも、嫌気が差しているようにも見えるし、それでもこの駄目な男のことを愛しているようにも見えなくはない。 妻は手早くカットを済ませ、親友とのバス旅行に出かける。その一方で、夫は不倫相手を家に呼び寄せる。 そして、ふと悲劇が起きる。 冒頭のその一連のシーンを観るにつけ、この映画が良作であろうこと明らかだった。 西川美和の監督作を観るのは、「夢売るふたり」を観て以来7年ぶりだったが、彼女の作品世界が益々成熟していることは明白で、「これは覚悟して観なければ」と姿勢を正した。 とはいえ、描き出されるストーリーラインは有り触れたものであり、主人公をはじめ登場人物たちの造形も、極めて類型的なものだと言えよう。 有り触れたストーリーに、類型的な人物描写、だからこそ紡ぎ出される感情の“容赦無さ”が殊更に突き刺さる。 本木雅弘演じる主人公の「行為」は勿論擁護できないし、妻の死後に訪れた“父子”との出会いによる“輝いているような”日々も、彼の自己憐憫の延長線上の「逃避」であることは否定できない。(池松壮亮演じるマネージャーは尖すぎるぞ……) けれど、自己憐憫であれ、逃避であれ、その時間が、誰かの救いとなり、何かしらの“気づき”に至らしめたことも明白な事実だ。 ひどく痛々しくて、極めて愚かしいけれど、そういうことも含めて「生きる」ということだということは、この世界の誰しもが否定できないことだろう。 僕自身、主人公の人間性を肯定できないと言いつつも、バッサリと断罪することもできず、どこか彼の心情に寄り添ってしまうのは、他ならぬ自分自身が、弱く、愚かな男の一人であることの証明だ。 そんな一鑑賞者の“男”の心情にまで踏み込み、掻き乱し、より一層に背筋を正させるこの監督の「視線」は、つくづく“厳しい慈愛”に満ち溢れている。 西川美和監督の力量もさることながら、出演する俳優陣が、みな素晴らしい。 主演の本木雅弘は、各シーンにおいて「ああ、これは駄目な男(人間)だ」と観る者に確信させる絶妙な表情を見せつけ、主人公の心の機微を表現しきっている。 主人公と同じく、男やもめとなった父親を演じた竹原ピストルは、独特な風貌とフレッシュな間合いで、主人公と正反対のキャラクターを好演していた。 黒木華、池松壮亮、山田真歩ら脇を固める俳優陣、そしてストーリーの核となる幼い兄妹を演じた子役たちにも、隙が無かった。 そして、夫役である本木雅弘とはほぼワンシーンの共演ながら、その短い出演時間で、全編通して“妻”の存在感を保ち続けた深津絵里も無論素晴らしかった。 命を落とした妻の映像的な描写は、その後のシークエンスにおいて回想シーンすら挟まれず、主人公の想像上のワンシーンとラストの写真のみの登場に留められている。 それでも、彼女は夫の心に居続け、後悔すらもできなかった男の心情に「風穴」を開ける。 すべてを見通していたのだろう妻の“未送信メール”を目の当たりにして、それでも彼女は夫を愛していた………なんて思いたいのはやまやまだけれど、そんなものは情けない男の“エゴ”に過ぎない。 “永い言い訳”を言い終えた夫は、出かける妻に言われたとおり、粛々と「後片付け」をしながら、気がつくのが遅すぎた「愛」を只々悔やむのだ。[インターネット(邦画)] 9点(2020-03-07 23:56:16)(良:2票) 《改行有》

227.  シャークネード カテゴリー2<TVM> 「1時間に50ミリの“降サメ量”となるでしょう」と、NYのお天気お姉さんが真剣な表情で伝える。 フツーなら「“降サメ量”ってなんやねん!」と突っ込みたくなるところだが、そのシーンの頃にはそんな「大馬鹿」なキラーフレーズすら思わず受けれてしまっている自分がいた。(“積サメ量”というフレーズも続く) “Z級映画”史上屈指のムーブメントを引き起こし、カルト的に人気を勝ち得た“禁断”のサメ映画シリーズ第二弾。 パート1も確かに言葉を失ってしまうくらいに“どうかしている”作品だったけれど、このパート2にして完全なる“イカれ映画”として堂々爆誕している。 おそらくは、このパート2の弾けっぷりこそが、今シリーズをある意味「神格化」させた起爆剤だったのだろうと思う。 まず、前作と比べると、明らかな映像的クオリティアップに驚く。 勿論、一般的な大作映画と比較すれば、CGにしても特撮にしても“お粗末”の範疇を出てはいないのだが、それでも前作の見るからにチープな映像表現を思えば、バジェット(製作費)が倍増していることも明らかだった。 そういう部分を目の当たりにすると、どんなにクオリティの低いバカ映画だろうと、ヒットした作品には、わかりやすくちゃんと“金”が回ってくるアメリカの映画界は、ある意味健全だなと思う。 バジェットの増大は映像的なクオリティアップに留まらず、キャスト陣の顔ぶれにも大いに影響している。 パート1では、見たことがある俳優といえば、主人公の店の常連客役の故ジョン・ハード(「ホーム・アローン」のパパ役)くらいだったが、本作では、個人的に大好きな「インデペンデンス・デイ(ID4)」シリーズのジャド・ハーシュの出演がアツかった。 主人公たちの焦りや悲壮感をよそに喋りまくるタクシー運転手役は、「ID4」で演じた主人公の父親役を彷彿とさせ、とても懐かしかったのだが、特徴的なキャラ設定のわりに“死に様”はあっさりとしていて残念。 まあ、脇役キャラやモブキャラの死亡シーンの“テキトー”な感じもZ級映画のお約束なのだろうと、だんだん理解してきたよ。 ただキャスト的に最も驚いたのは、主人公の昔の恋人役として登場する黒人女性“スカイ”を演じたのが、ヴィヴィカ・A・フォックスだったということ。 ってそれ誰やねん?と、映画ファンであっても多くの人が疑問だろうけれど、ヴィヴィカ・A・フォックスといえば、これまた「インデペンデンス・デイ」でウィル・スミスの恋人役を演じた女優ではないか。 「ID4」では、キュートな風貌と華奢な体つきで、セクシーなストリップダンサーでもあり、一人息子を持つシングルマザーでもあるヒロイン役を好演していたものだが、あれから20年、随分と巨漢に……いや逞しくなられて。 ウィル・スミスに「君の脚は鶏ガラ」なんてからかわれていたものですが、本作では“セリーナ・ウィリアムズ”並の貫禄で、主人公をバッチリサポートしてくれます(そして切ない!)。 そんなわけで、パニックムービーとしての映像的クオリティも格段に向上し、キャスト陣的にも見応えのある本作であるが、兎にも角にもクライマックスにおける映画作品としての「暴走」が半端ない。 何の因果か知らないけれど、2作目にして完全に“シャークネード”にとり憑かれてしまっている主人公は、“最終決戦”を前にして、ついに脳内のどこかの“線”が切れてしまったようだ。 表面上は、NY市長をはじめとするニューヨーカーたちを前にしてヒーロー然と振る舞っているけれど、その精神状態は完全なる怒れるイカれ野郎。無論、そんな男でなければ、こんなイカれた災害に打ち勝てるわけがないわけで。 意味不明に体を反り返しながら巨大鮫をチェーンソーでぶった切るお約束シーンを皮切りに、バカ、馬鹿、大馬鹿シーンのオンパレード。 前作ではそんなバカシーンの連続に対して開いた口が塞がらなかっただけだったが、本作ではそんな状態を超えて、一抹の「高揚感」を覚えていることにはたと気づいてしまった。 最終的には、元妻の“喰われた左腕”から指輪を抜き取り、エンパイアステートビルのてっぺんで再プロポーズをするという、本当にどうかしているラストシーンをも受け入れてしまっているシマツ。 嗚呼、ズブリズブリと沼に落ち込む音が聞こえる。[インターネット(吹替)] 6点(2020-03-01 23:40:21)(良:1票) 《改行有》

228.  オーシャンズ8 休日の真っ昼間から赤ワイン片手に、豪華絢爛な大女優だらけの泥棒映画を観る至福。 110分の間、その「至福」を堪能出来ただけで、個人的には娯楽映画としての価値は揺るがないし、実際のところ存分に楽しめた。 スティーヴン・ソダーバーグ監督が手掛けた「オーシャンズ11」がもう20年近く前の作品であることにはショックを受けざるを得ないが、再び映し出された「娯楽」は、良くも悪くも「オーシャンズ11」の映画世界そのもので、その“感覚”がもはや懐かしくもあった。 「豪華キャストを揃えただけの映画」 とは、2001年の「オーシャンズ11」公開当時から、この映画シリーズを通じて、最も多く発された否定的な感想だろう。 そして、それは概ね間違いない意見だ。 ただし、僕はそれこそがこの映画シリーズの最大の娯楽要素であると思うし、その“キャスティング”の凄さをちゃんと堪能することが、こういう映画の正しい観方であろうと、20年前から思っていた。 そしてこの最新作は、監督はスティーヴン・ソダーバーグではないし、ジョージ・クルーニーもブラッド・ピットもマット・デイモンも出演していないけれど、れっきとした“オールスター映画”である。 冒頭でも述べた通り、まさに世界屈指の宝石のように美しい大女優たちの競演を観られるだけで、只々“楽しい”。 サンドラ・ブロック、ケイト・ブランシェット、アン・ハサウェイのアカデミー賞ウィナーの三者を筆頭に、彼女たちに劣らぬ大女優の一人であるヘレナ・ボナム=カーター、トップシンガーのリアーナらを揃えた「8」の顔ぶれは、「11」に劣らぬ豪華さであり、文字通り華々しい。 だがしかし、いくら彼女たちがハリウッドを代表するスーパースターであっても、女優のみが主演のエンターテイメント大作を映画企画として成立させるには、まだまだ足かせや困難が付き纏うのが、虚しく悲しい現実である。 エンターテイメントの世界に生きる世界中の名女優、大女優たちが声高に「待遇」と「機会」の改善を訴えるようになって久しいが、それでも、この世界の“男”と“女”は、まだまだ「平等」には程遠い。 そういう意味でも、人気シリーズの新たな続編として、キャスティングの根本から刷新した本作の試みとその成果は、非常に価値があるものだと思う。 サンドラ・ブロックやケイト・ブランシェットが、撮影の合間に気軽に電話をすれば、ジョージ・クルーニーやブラッド・ピットはたとえノーギャラでも喜んでゲスト出演しただろうけれど、それをせずに、女性だけで“キャッキャッ”と「勝利」する映画として貫き通したことが、彼女たちの「矜持」だったのだろう。(「女友達が欲しかった」という大女優役の大女優のセリフがすべてだ) 見事に盗み出した世界一の宝石を身に着けて、颯爽と現場を後にする彼女たちそれぞれの表情には、映画世界のキャラクター設定を超えた「女性」としての“気品”と“プライド”が満ち溢れていたように見えた。 とはいえ、しつこいくらいに「死亡」したことが語られるダニー・オーシャン(ジョージ・クルーニー)が絶対に死んでいないことは明らかであり、それならば、ラストシーンの一瞬でもいいから存在を垣間見せてほしかったなあ、というのが映画ファンの正直な感想ではあるけれどね。[インターネット(字幕)] 7点(2020-02-24 15:29:58)《改行有》

229.  シャークネード<TVM> いやはや……。ウワサには聞いていたが、もはやどう形容すべきか分からん。 “Z級映画”とはうまく言ったもので、確かにAとかBとかCとかいうレベルでは測りきれない。 圧倒的なチープさと一抹の魅力が癖になるというムーブメントも分からなくはない。 もはや映像的なチープさや、ストーリー展開の幼稚さを突っ込むべきものではない。 相応の「覚悟」を持って観始めたつもりだったが、それでも特に序盤の低レベル加減には、なかなか耐えきれぬものがあった。 低予算のテレビ映画だとはいえ、よくもまあこの程度の映像作品を大の大人が作り出すものだ。 ただ、逆に言うと、その限られた予算の中でも、何かしら面白味のあるモンスター映画を作ろうという、作り手たちの気概というか、“真剣な馬鹿さ”みたいなものは伝わってくる。 そして、この手の最低レベルのテレビ映画が、アメリカではずうっと昔から量産し続けられているわけで、そこには製作者側にも、視聴者側にも、芳醇で寛容な文化の幅のようなものを感じる。 こういう低予算映画の文化と需要が存在し、売れていない俳優やスタッフらを含めた“映画人”たちに、可能な限り「仕事」が分配され、下支えされているからこそ、彼の国の映画産業は強大なのだとも思う。 全編通してあんぐりと口を開けっ放しにせざるを得ない“サメ映画”だったが、流石Z級映画としては異例のシリーズ化もされ、一つのムーブメントを生み出した作品だけあって、べっとりと拭い去れない娯楽性は感じられた。 特にクライマックスの怒涛のトンデモ展開は、この作品のシリーズ化を確定させた要素なのだろう。 無論、そういうトンデモ映画は嫌いじゃないわけで。 シリーズ最新作のトレーラーを観てみると、更に更に常軌を逸した世界観が広がっていることは明らかだった。 「沼」にハマるのは怖いが、恐る恐る踏み入ってみようか。 こういう低予算映画の文化と需要が存在し、売れていない俳優やスタッフらを含めた“映画人”たちに、可能な限り「仕事」が分配され、下支えされているからこそ、彼の国の映画産業は強大なのだとも思う。 全編通してあんぐりと口を開けっ放しにせざるを得ない“サメ映画”だったが、流石Z級映画としては異例のシリーズ化もされ、一つのムーブメントを生み出した作品だけあって、べっとりと拭い去れない娯楽性は感じられた。 特にクライマックスの怒涛のトンデモ展開は、この作品のシリーズ化を確定させた要素なのだろう。 無論、そういうトンデモ映画は嫌いじゃないわけで。 シリーズ最新作のトレーラーを観てみると、更に更に常軌を逸した世界観が広がっていることは明らかだった。 「沼」にハマるのは怖いが、恐る恐る踏み入ってみようか。[インターネット(字幕)] 3点(2020-02-24 01:25:35)《改行有》

230.  MEG ザ・モンスター 「B級モンスター映画」と呼ばれるジャンル映画を、長らく愛してきた。 僕自身が映画を観始めた1990年代は、モンスタームービーの一つの隆盛期とも言え、数多くの同ジャンル映画が生み出され、興奮と恐怖、そして酷評が渦巻いていた。 “B級モンスター映画”の不朽の名作としてもはや誉れ高い「トレマーズ」を始め、「ザ・グリード」「アナコンダ」はその代表格と言えるだろう。 ローランド・エメリッヒ版「GODZILLA ゴジラ」や「ジュラシック・パークⅢ」も優れた“B級モンスター映画”だと言って間違いない。 そして90年代のモンスター映画として忘れてはならないのが、1999年の「ディープ・ブルー」だ。 “人喰いザメ”を描いた映画といえば、勿論その筆頭に挙げざるを得ないのは、スティーヴン・スピルバーグの「ジョーズ」だろう。 しかしながら、“B級モンスター映画”のジャンルに限った上での“サメ映画”と言えば、スピルバーグ御大の名作を差し置いて「ディープ・ブルー」を思い浮かべる映画ファンはとても多いだろう。 生体実験によって生み出された巨大で利口なサメたちが、凶暴に、そして知性的に、実験施設の人間たちを襲う。 アクション映画の雄、レニー・ハーリン監督が描き出したこのサメ映画は、映像的な迫力もさることながら、誰がどの順番で死亡するか予測不可能で、その破天荒なストーリーラインが魅力的なモンスター映画の名作だった。 そして本作は、その「ディープ・ブルー」のテイストを多分に孕んだ、良い意味でも悪い意味でも、「B級モンスター映画」と呼ぶに相応しい娯楽映画として仕上がっている。 未知の海溝探査を行う海洋研究施設を舞台にし、太古の巨大鮫“メガロドン”が施設の人間たちに襲いかかるというプロットは、「ディープ・ブルー」ととても似通っており、主人公がいざとなったら自ら海中に飛び込み巨大鮫と直接対峙する“筋肉バカ”であるところも共通している。 ただし、この映画において最も注意すべき要素は、その“筋肉バカ”の主人公を演じるのが、我らがジェイソン・ステイサムであるということだ。 この要素を正確に捉えて鑑賞できているかどうかで、鑑賞後の満足感は大いに変わってしまうと思う。 この映画は、“B級モンスター映画(サメ映画)”であると同時に、紛れもない“ジェイソン・ステイサム映画”である。 詰まるところ何が言いたいかというと、いくら規格外の巨大鮫が襲ってこようが、海中で絶体絶命の一騎打ちになろうが、ジェイソン・ステイサム演じる筋骨隆々の主人公が死亡するということは絶対に無い。ということ。 この映画の主人公は、「無理やり連れてこられた」的なことを言いはするが、端から自分自身をより危険な状況に追い込んでおり、最終的には“メガロドン”との「対決」を一人楽しんでいるフシすらある。 それは普通のモンスター映画の主人公であれば鼻白むキャラクター設定だろうけれど、演じるのがジェイソン・ステイサムであるのならば、話は全く別。 クライマックスにかけてどんどんと馬鹿っぽくなる映画全体のテンションは、“ジェイソン・ステイサム映画”として極めて真っ当で、良い。 最終的な“決着シーン”では、非現実的すぎて大笑いしてしまったことも、ステイサム映画ならではだろう。 と、当代随一のアクション映画俳優のスター性に溜飲を下げる一方で、“B級モンスター映画”としてはもう一つ振り切れていないことは否めない。 せっかく巨費を投じた大作映画なのだから、もっとビジュアル的に大胆な“画”があってしかるべきだったろうし、古代鮫の規格外の巨大感も今ひとつ表現しきれていなかった。 またジェイソン・ステイサムの脇を固める俳優陣も、大富豪役のレイン・ウィルソン、リーダー役のクリフ・カーティスと味のあるキャスティングができていたので、新鮮な人物描写や、小気味いいストーリーテリングがあれば、もっと面白味は深まったろうと思う。 “サメ映画”のジャンルの深層には、「Z級映画」と呼ばれる更に常軌を逸したモンスタームービーがおびただしい群れをなしているとも聞く。その中では本作で登場した“メガロドン”などはもはや使い古されたネタらしい。 僕はまだおっかなくてその世界に足を踏み入れていないのだけれど、これを機にちょっとその深い海の底を覗いてみようかと思う。[インターネット(字幕)] 6点(2020-02-23 00:19:27)(良:2票) 《改行有》

231.  1917 命をかけた伝令 《ネタバレ》 まさしく、「臨場感」の境地。 戦場の瞬間を途切らすことなくつぶさに映し出した映画世界にあらわれたものは、虚無と望郷、そして幻想が入り交じった一人の兵士の“混濁”だった。 実寸規模の何kmにも及ぶ巨大セット(というか“戦場”そのもの)を作り出し、“ワンカット風”の演出で描き出した映像世界は流石に凄い。 “戦場の臨場感”という観点から言えば、クリストファー・ノーラン監督の「ダンケルク」も記憶に新しいところ。 あの作品も「本物」の撮影にこだわり抜いた意欲作であり、傑作だったと思うけれど、本作も、サム・メンデス監督が全く異なるベクトルの“主観”によって映し出した戦争映画の新たな傑作だと言えるだろう。 「臨場感」という表現を用いたが、この映画におけるその言葉の意味は、映像的な“没入感”のみを指すものではない。 「全編ワンカット映像」という触れ込みがイントロダクションとして大々的に伝えられていたので、映像的に「見せる」映画なのだろうというイメージが先行していた。 勿論、前述の通り超巨大セットによる映像的な迫力と説得力の高さは言わずもがなだが、この映画の醍醐味は、視覚的な体感を超えて、画面に映り続ける「兵士」の心理状態や精神状態をも体感できるということだろう。 この映画は、休憩中に微睡んでいる或る兵士がふいに上官に起こされるカットから始まる。 わけも分からず司令官に呼び出された兵士は、或る重大な指令を受け、すぐさま最前線に直行し、突如として明確な「死」に直面する。 その間、時間にしてわずか数十分。 “微睡み”から“死”まで、リアルタイムに映し出されたこの数十分に、一兵士の心理と戦場の無慈悲が表れている。 サム・メンデス監督がこの映画で示したかったことは、戦場のリアルを単に映像的に「見せる」ということではなく、そこに渦巻く兵士たちの無数の感情を含めて「魅せる」ことだったのだと思う。 それを表すように、“ワンカット風”、“リアルタイム風”に映し出される映像世界は、終盤に差し掛かるにつれ、幻想的に、非現実的に表現される。 敵兵の銃弾を受けブラックアウトした主人公の兵士が目覚めた時、彼が目にしたものは、戦火に照らされた幻想的な廃墟の街並みだった。 厳かで、神々しいまでに美しく照らされたあの光景は、果たして「現実」だったのか? もしかしたら、彼は敵と相討ち、その場で絶命してしまったのかもしれない。 あの光景の先で描かれる、母子(疑似)との慈愛に満ちた邂逅も、絶体絶命のアクロバティックな逃走も、砲弾をかいくぐる奇跡的な疾走も、すべては死後の幻想であり、我々は彼の深層心理を垣間見ていたのではないか。と、そんな思いに駆られる。 某映画評論でも触れられていたが、この映画で描き出されたような「伝令」が実際に実行され、無意味な突撃が阻止されたなんてことは無かったに等しいだろう。現実の戦場では、無意味な作戦と、無駄死にが延々と繰り返されていたに違いない。 本作では、ベネディクト・カンバーバッチ演じる最前線の指揮官が、「伝令」を素直に受け入れるけれど、劇中マーク・ストロング演じる将校が示唆していたように、実際は軍人の「意地」で愚かな突撃を強行した指揮官が殆どだったのだろうとも思う。 そういう「現実」や、垣間見える兵士の「幻想」を思うと、この映画には表面的な感動の裏に、極めて混濁した真理が潜んでいるように感じるのだ。[映画館(字幕)] 8点(2020-02-15 19:29:43)(良:2票) 《改行有》

232.  マリッジ・ストーリー 「いやあ、ちょっと、ぐうの音も出ない。」 と、鑑賞直後に呟いてから一週間が経とうとしているが、その後も紡ぐべき言葉が中々出てこなかった。 “ブラック・ウィドウ”と“カイロ・レン”の「リアル」なバトルを目の当たりにして、只々身につまされ、ひたすらに打ちのめされた感覚のまま、数日間、思考が止まっている。 もう軽く受け流して、目を背けたい気持ちでいっぱいだけれど、なんとか“鑑みてみよう”と思う。 主人公夫婦と、僕たち夫婦の境遇はとても良く似ている。 結婚して10年、共に働き、長子は8歳。(そして、妻はダンスが上手く、腕っぷしが強い。) どうにかこうにか今のところ「離婚」というプロセスは辿ってはいないけれど、喧嘩はしょっちゅうするし、甲斐性のない僕に対する妻の不満の蓄積は認めざるを得ない。 勿論、僕は妻を愛しているし、たぶん…、おそらく…、願わくば…、彼女もそうであることは変わりないと思うけれど、だからと言って、最初の「約束」通りに、連れ添い続けることが「絶対」ではない。 ある意味ひどく“曖昧”で、とても“脆い”関係性が「夫婦」というものだろう。 この映画の「夫婦」にしたって、最後の最後まで、互いに思い合い、愛していることは明らかだ。 それでも、ささいなすれ違いは極限まで広がり続け、「離婚」という選択を避けられなくなっている。 滑稽で、愚かしくもあるけれど、それはあまりにも普遍的な悲哀だろう。 世界中の何千、何万、何億という夫婦が、まったく同じようなプロセスを日々歩んでいる。 描き出される“ストーリー”が、現実世界でありふれているからこそ、「夫婦」というものの当事者である僕たちは、胸が痛くて痛くてたまらなくなる。 そして、「夫婦」として連れ添い続ける以上、その不安や恐れは、ずうっと無くなったりせず、この道の真ん中に常に在り続けるのだ。 そのことを考えると、まあ面倒であり、心細くもあるけれど、同時にエキサイティングでもあるし、そういった諸々の感情を含めて、豊かで芳醇な人生というものなのだろうとも思える。 兎にも角にも本作は、「アベンジャーズ」や「スター・ウォーズ」とは全く別のベクトルではあるが、同等、いやそれ以上に圧倒的な“バトル映画”であった。 スカーレット・ヨハンソンとアダム・ドライバーによる、“怒り”と“悲しみ”と“愛”に満ちた感情の応酬の様は、白眉の名シーンであり、同じように“夫婦喧嘩”で感情をむき出しにしてしまった経験が少しでもある人であれば、グッサリと大きな棘が胸に突き刺さることであろう。 果たして、どこまで続いているのか分からないけれど、僕は僕で、このストーリーが紡ぐ道をこれからも歩んでみようと思う。[インターネット(字幕)] 9点(2020-02-09 00:50:58)(良:1票) 《改行有》

233.  キャッツ 本格的な舞台ミュージカルを観劇した経験が無いので、勿論「キャッツ」というミュージカルを観たことはない。 無論、タイトルくらいは聞き馴染みがあるけれど、どのような物語なのかすら無知な状態で、映画鑑賞に至った。 映画作品として食指が動いた理由は、ミュージカル映画そのものは好きであるということ、「レ・ミゼラブル」のトム・フーパーが監督であるということ、そして何よりも“猫”の造形に言葉にならない“異様さ”を感じたからだ。 「キャッツ」が猫の世界を描いていること自体は物語を知らなくても何となく想像できていたけれど、予告編で流れた映像から、キャラクター造形が常軌を逸していることは明らかであり、そのビジュアルはある意味衝撃的だった。 絶妙なセクシーさと、絶妙な気味悪さ、総じて言える「奇妙」さは、何かフツーじゃない映画を観させてくれるのではないかという期待感を生んだ。 結果的に言うと、その期待感は決して外れてはいなかった。 全身CG処理された“猫人間”が繰り広げるパフォーマンスは、予告編を観た時と同様に衝撃的だったと言える。 世間一般では、そのCG合成による“気味悪い”レベルの艶めかしさに対してストレートに嫌悪感を抱く人も多いようだが、個人的にはその行き過ぎた感じがキライじゃなかった。 アレが「猫」かどうかは置いておいて、人間界以外の世界を描く物語として、生々しい“別モノ”の生物感を表現しようとした試みは、方向性的に正しかったと思える。 ただし、明確な難点の一つとして、映像世界全体をCGに頼り過ぎてしまっている印象は覚える。 CGとリアルな撮影素材の境界が混濁してしまっていることにより、演者たちのパフォーマンス自体もどこまでが生身の動きなのかの判別が付きづらくなっている。 つまり、リアルなダンサーたちのライブ感がエモーショナルに伝わってこないのだ。 それはミュージカル映画が孕むべき「熱量」の欠落に直結することであり、決して小さくないマイナス要素だったと思う。 そして、個人的に何よりも衝撃的だったのは、「物語」がほぼ「物語」としての形を成してなく、「狂騒劇」とでも言うべき、理性が消失した“騒ぎ”の中で終止するということだ。 主人公の若猫がとある猫コミュニティに迷い込み、年に一度の“舞踏会”の狂騒に巻き込まれたかと思えば、入れ代わり立ち代わり“お披露目”される「演目」が延々と繰り広げられる。 そこには分かりやすい成長譚もなければ、恋愛模様や対立劇も無い。(実際は無いことはないが、どうでもいい感じで流される) ただひたすらな猫たちの宴。まさに、猫の猫による猫のための猫映画。 ストーリーらしいストーリーが無いまま、どんどんとクライマックス的な展開に進んでいく常軌を逸した映画世界に対して、“マタタビ”を嗅がされたかのように茫然自失状態であった。 面白かったか面白くなかったかで言うと、きっぱりと「面白くない」し、極めてバランスの悪い失敗映画だろうとは思う。 ただ同時に圧倒的に「変な映画」であったことも間違いないし、予想通りにその「奇妙」さはフツーじゃなかった。(ネズミとゴキブリを調教する“おばさん猫”のくだりとか最高にイカれてる) 大団円のラストシーンでジュディ・デンチ御大が“カメラ目線”で我々に宣言してくる通り、要は「(私たち)お猫様の映画にとやかく言うんじゃないよ!」ということなのかもしれない。[映画館(字幕)] 4点(2020-02-01 22:42:43)《改行有》

234.  この世界の(さらにいくつもの)片隅に 正月などに親族で集まると、決まって、もう何年も前に亡くなった祖母の話題になる。 孫から見ても、なかなかパワフルな人だったので、エピソードには事欠かないのだけれど、このところは特に、戦中戦後のあの時代に、農家の嫁として苦労したであろう話を、父や伯母連中からよく聞かされる。 祖母は農家に嫁ぎ、子を授かったが、生まれたのは3人続けて女子だった。 「時代」と「環境」を踏まえると、肩身が狭かったことは明らかで、あらゆる角度からあらぬ非難も受け続けただろう。 4人目でようやく長男(父)が生まれたことによる祖母の喜びというよりも、「安堵」は想像に難くない。 ものすごく理不尽で、愚かしいことだけれど、当時の女性にとって、特に“嫁”として嫁いだ女性にとって、“跡取り”を生むことは「義務」であり、社会にとっても、女性本人にとっても、その価値観の絶対性は揺るがないものだったのだと思う。 現代の価値観で、当時のその“常識”を非難することは容易だけれど、それこそ、「時代」も「環境」も異なる“ものさし”で推し量ったところであまり意味はない。 ただ唯一確かなことは、“農家の暗い納屋の片隅”で、“小さな借家の狭い炊事場の片隅”で、いくつもの世界の片隅で、涙を流し続け、それでも生き抜いた「彼女」たちの人生の上に、僕たちは生かされているということ。 映画の中の“すずさん”も、その「時代」に嫁いだ女性の一人として、自分の中にも知らず識らずの内に根付き、蔓延っていた“常識”にぶつかり、思い、悩む。 生来の呑気な性格も手伝って、ゆらゆらと風の吹くまま気の向くまま生きてきた彼女だったけれど、“リン”という一人の女性との邂逅を通じて、自らの女性としての存在意義に対して目を向けざるを得なくなる。 そこには、疑念や嫉妬や怒りを含んだ感情も渦巻くけれど、喜びや慈しみも生まれ、一人の女性として人生を深めていく様がありありと映し出されていた。 「この世界に居場所はそうそう無うならせんよ」 と、遊女のリンは、すずに語りかける。 人は誰だってこの世界で必要な存在であろうし、たとえどんなに辛くても人は“生き続けるための場所”しか与えられていない。 友に対する“優しさ”も、自身の生い立ちを踏まえた“厳しさ”も、等しく含んだこの台詞は、彼女たちの人生の機微を雄弁に物語り、深く深く、心に染み入ってきた。 この映画は、「この世界の片隅に」で意図的に“間引かれていた”エピソードを追加し、前作の「行間」に在った感情を紡ぎ直した「新作」である。 「この世界の片隅に」は“完璧な映画”だった。 そして、この「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」は“また別の完璧な映画”だった。 人間が人間らしく、ただ「生活」を営むということの、強さと、儚さと、眩さ。 それはあまりにも普遍的な輝きだからこそ、強引に奪われたことによる闇はより一層に深まり、傷つく。 悲しかったでしょう、悔しかったでしょう、怖かったでしょう、痛かったでしょう、辛かったでしょう。 でも、それでも、泣いて、怒って、笑って、「貴女」が生き続けてくれたから、僕たちは“今”生きている。 そのすべてをひっくるめたこの映画の高らかな愛しさに、また涙が止まらない。[映画館(邦画)] 10点(2020-02-01 22:40:52)《改行有》

235.  ジョジョ・ラビット 《ネタバレ》 強く美しい母親が、愛する息子に向けてカチッと独特の“ウィンク”をする。 もしかしたら、あのウィンクは所在不明の夫が、彼女に対してよくしていた“仕草”なのかもしれないな。と、思った。 そんなことを暗示する描写は特に何もないのだけれど、非情な戦乱の中、優しく、明るく、息子を愛し、「できること」をし続けるこの気高き女性は、きっと壮絶な経験と、深い愛情に包まれた、濃密な人生の上に立っているのだろうということを想像させた。 そういうことを何よりも先んじて言及したくなるくらいに、スカーレット・ヨハンソン演じる主人公“ジョジョ”の母“ロージー”のキャラクター造形が素晴らしく、この映画の根幹を担っていたことは間違いない。 詰まるところ、彼女の一つ一つの言動こそが、息子に対する“愛情”と“導き”であると同時に、この映画のテーマに対する「真理」であった。 「愛は最強の力よ」と、母親は息子に言う。 戦禍の混乱と、人間の心の闇が渦巻く状況下でのその彼女の台詞は、字面のみを捉えれば、無責任で能天気な印象を受けるかもしれない。 しかし、母親であり、一人の女性であり、信念を持って生きる人間である彼女が放つその台詞には、彼女の「人生」そのものに裏打ちされた言葉以上の重みと意味が内包されていた。 彼女はその言葉を息子に向けて発してはいるが、彼に対して背を向けており、目線はどこか遠くを見ているようでもあった。 その他の数々の台詞や行動においても、その一つ一つが魅力的かつ説得力をもって、息子と、我々観客に突き刺さるのは、それらの言動の裏に見え隠れする彼女の人生に、ドラマ性と真実味を感じるからだ。 劇中、主人公の母親についての描写は、敢えて意識的にぼかされている部分が多い。 2年間音信不通の夫の正体、長女の死の真相、サム・ロックウェル演じるクレンツェンドルフ大尉(最高!)との関係性、そして「できること」をする理由と、“あのようなこと”になってしまった事の顛末。 そこには、メインストーリーとして描かれる主人公の少年の葛藤と並行して展開していたのであろう重厚なサイドストーリーがあるに違いない。 (そのサイドストーリーの映画化も充分にあり得るのではないか。そのためのスカーレット・ヨハンソン起用だったことも充分に考えられる。) 随分と主人公の母親の話を長々と綴ってしまったが、無論この映画は10歳の純粋な少年の目線から描き出される確固たる「戦争映画」である。 ただし、その表現方法はまったくもってオリジナリティ豊かなイマジネーションに満ちあふれていた。 その特異な映画世界には、「マイティ・ソー」を次元を超越した“極彩色映画”に転じさせてみせたタイカ・ワイティティ監督の異才がほとばしっている。 今まで観てきたどの戦争映画よりも“可笑しい”。そして、だからこそあまりにも“悲しい”。 混乱の最果て、“滑稽さ”が極まる戦禍の只中に放り込まれる少年。 戦場シーンは数多の映画で観てきたけれど、少年が信じた全てのものが、脆く、愚かに、崩壊していく様を目の当たりにして、只々涙が止まらなかった。 そこに映し出されていたものは、通り一遍的な激しい戦場の凄惨さではなく、10歳の少年の心を蝕み覆い尽くす「絶望感」そのものだった。 “世界の終わり”を、その小さな身体一つで受け止めて、あまりにも大切なものを失い、深く大きく傷つき、それでも少年は命をつなぐ。 結べなかった靴ひもをぎゅっと結び止め、“独裁的”なイマジナリーフレンドを窓の外に蹴り飛ばす。 それは「鏡」に映った自分が、本当の意味で大人になった瞬間でもあった。 ジョジョよ、さあ踊ろう。好きなだけ、自由に、踊ろう。[映画館(字幕)] 9点(2020-01-23 22:35:49)《改行有》

236.  ラストレター(2020) 《ネタバレ》 遅すぎた邂逅は、それでも何かを癒し、未来を生む。 いびつで、拙く、寓話のように非現実的だけれど、それは僕自身が「Love Letter」から25年来、愛し続けた世界観そのものであり、“優しい嘘”は、あの時と変わらずに心を揺らした。 僕が中学生の頃、「スワロウテイル」を観て、岩井俊二という映画監督の存在を初めて知った。 「映画」というものを自身の趣味として積極的に観始めたばかりの頃で、見識が浅い子供だった僕は、映し出されている映画世界のどこまでが現実で、どこからが非現実なのか、その境界線を判別できなくて、大きな戸惑い共に衝撃を受けた。 無論それは、あの“イェン・タウン”という異世界に対してリアリティを感じたというわけではなく、エキセントリックな「寓話」として映し出された空間に妙な生々しさと、現実世界と地続きの真理めいたものを感じたからだと思う。 以来僕は、二十数年に渡り、この映画監督が生み出す“世界”の虜になり、憧れ続けてきた。 時間は瞬く間に過ぎ去り、中学生の男子は、アラフォーのおじさんになった。 2016年の「リップヴァンウィンクルの花嫁」以来4年ぶりの最新作に対しては、少々気が引けていた部分があった。 「Love Letter」の二番煎じとまでは言わないまでも、何となく懐古的な雰囲気を携えたイントロダクションに懸念を感じていたこともあるが、何よりも僕自身が、“ラブストーリー”というものに対して、とんと縁遠くなってしまっていたことの影響が大きい。 四十路前のおじさんになってしまった自分が、中学生時代から憧れ続けてきた映画監督が新たに生み出したラブストーリーを目の当たりにして、照れずに、素直に受け入れることができるだろうか。そういう「危惧」が無意識下にあったように思う。 でも、そんな危惧や懸念は、序盤の何気ないシークエンスに触れた途端に消え去っていった。 少年少女たちの他愛もない台詞回し、どこか無防備な役者たちの自然体の演技、ただひたすらに美しい映像世界、ファーストカットからの一つ一つに対して、「ああ、岩井俊二の映画だな」とストンと腹に落ちる感覚を覚えた。 松たか子、福山雅治が演じる主人公たちは、奇しくも高校卒業から二十数年を経た“おばさん”、“おじさん”。 この上なくセンチメンタルで、ロマンティックなラブストーリーであることは間違いないけれど、この映画は、まさに「Love Letter」から25年が経った“僕たち”のための作品だった。 二十数年の年月は、劇中の登場人物たちにとっても、現実世界の僕たちにとっても、同じように長く、一口で語れるものではない。 色々なものを失い、色々なものを得るには充分な時間であろう。 過ぎ去った時間のあまりにも眩い「光」を愛するあまりに、逆にその呪縛から抜け出せずにいた売れない小説家の男。 不意に訪れた邂逅により、彼が突き付けられた“現実”はあまりにも厳しく、尽きせぬ悔恨と共に容赦なく「闇」の中に突き落とされる。 けれど、その邂逅は、男を呪縛から解き放ち、「闇」の中から新しい「光」へと導いてもいく。 “幻影”のように美しく光り輝く二人の少女に対峙した彼は、決して取り戻すことができない時間の無情さを痛感したと同時に、悔恨も、贖罪も、悲しみも、感謝も、すべてひっくるめて歩むべき「未来」を見出したのだろう。 “信奉者”としての贔屓目は多分にあろうとは思う。 ただ、岩井俊二の映画作品と共に、僕は僕なりに、二十数年の“紆余曲折”を経てきたわけで。 その上で得られたこの新たな感動を否定することなどできやしない。[映画館(邦画)] 9点(2020-01-18 23:31:44)(良:1票) 《改行有》

237.  パラサイト 半地下の家族 《ネタバレ》 金持ち家族に「寄生」することで、束の間の“優越感”を得た半地下の家族たちは、今までスルーしてきた家の前で立ち小便をする酔っ払いを、下賤の者として認識し、“水”をかけて追っ払う。 その様をスマートフォンのスローモーションカメラで撮りながら、軽薄な愉悦に浸ってしまった時点で、彼らの「運命」は定まってしまったのかもしれない。 世界中に蔓延する貧富の差、そして生じる「格差社会」。世界の根幹を揺るがす社会問題の一つとして、無論それを看過することはできないし、自分自身他人事じゃあない。 ただし、この映画は、そういった社会問題そのものをある意味での「悪役」に据えた通り一遍な作品では決してない。 確かに、“上流”と“下流”、そして更に“最下層”の家族の様を描いた映画ではあったけれど、そこに映し出されたものは、富む者と貧しい者、それぞれにおける人間一人ひとりの、愚かで、滑稽で、忌々しい「性質」の問題だったように感じた。 どれだけ苦労しても報われず、働いても働いても豊かになるどころか、貧富の差は広がるばかりのこの社会は、確かにどうかしている。 でも、自分自身の不遇を「社会のせいだ」「不運だ」と開き直り、思考停止してしまった時点で、それ以上の展望が開けるわけがないこともまた確かなことだろう。 そう、どんなにこの社会の仕組みがイカれていたとしても、どんなに金持ちが傲慢で醜かったとしても、この主人公家族の未来を潰えさせてしまったのは、他ならぬ彼ら自身だった。と、僕は思う。 千載一遇の機会を得た半地下の家族たちは、能力と思考をフル回転して、或る「計画」を立て、実行する。そしてそれは見事に成功しかけたように見える。 しかし、彼らの「計画」はあくまでも退廃的な“偽り”の上に存在するものであり、「無計画」の中の虚しい享楽に過ぎなかった。 “無計画な計画”は、必然的に、笑うしか無いスピード感でガラガラと音を立てて崩壊し、大量の濁流によって問答無用に押し流される。 そして同時に、己をも含めたこの世界のあまりにも残酷で虚無的な現実を突き付けられて、父子は只々愕然とする。 本当に裕福な者たちは、自らが“上流”に居ること自体の意識がない。 “下流”に住む貧しい者たちの存在などその認識から既に薄く、蔑んでいることすら無意識だ。 “臭い”に対して過敏に反応はするものの、その正体が何なのかは知りもしないし、知ろうともしない。 勿論、大量の“水”で、押し流していることに対しての優越感も、罪悪感も、感じるわけがない。その事実すら知らないのだから。 なんという「戦慄」だろうか。 そのシークエンスの時点で、観客として言葉を失っていたのだが、もはや「世界最高峰」の映画人の一人である韓国人監督は“水流”を緩めない。 「惨劇」の果てに、計画どころか「家族」そのものが崩壊し、消失してしまった父と息子は、それぞれに、「無計画」であり得ない逃避と、あり得ない希望に満ち溢れた「計画」を立てる。 すべてを失った者たちが、それでも生き抜く力強さを表現している“ように見える”描写を、この映画は、最後の最後、最も容赦なく押し流す。 父親が言ったとおり、「計画」は決して思い通りにはいかない。父と息子は、地下と半地下でその短い命を埋没させていくのだろう。 完璧に面白く、完璧に怖く、完璧におぞましい。だからこそこの映画は、完膚なきまでに救いがない。 とどのつまり、このとんでもない映画が描き出したものは、「格差社会」などという社会問題の表層的な言い回しではなく、その裏にびっしりと巣食う際限ない人間の「欲望」と「優越感」が生み出す“闇”そのものだった。 世界中に蔓延するこの“闇”に対して“光”は存在し得るのだろうか。 金持ち家族の幼い息子がいち早く感じ取った“臭い”。 彼はその“臭い”に対して、どういう感情を抱いていたのだろうか。 “トランシーバー”を買ってもらうことで自らの家族と距離を取ろうとした彼の深層心理に存在したものは何だったのか。 このクソみたいな世界の住人の一人として、せめて、そこには一抹の希望を見出したい。[映画館(字幕)] 10点(2020-01-15 21:59:02)(良:2票) 《改行有》

238.  男はつらいよ 気がつけば、僕自身が30代後半。“アラフォー”なんて実感はまるでないが、人生の時間なんてものは、そんな感覚などお構いなしに瞬く間に過ぎていく。 時間は往々にして無情だけれど、それでも人間として歳を重ねるからこそ見えてくるものや、感じられるものは確実にあり、それはそれで悪くないなあとようやく思え始めてきた。 この映画「男はつらいよ」シリーズの第一作に登場する主人公“車寅次郎”は35歳。 まさに自分自身がこの国民的主人公の年齢に追いついた頃合いで、初めての鑑賞に至った。 数年前から観よう観ようとは思っていたのだが、いざ観てみたならば、やっぱり「最高」の一言に尽きた。 ただし、この充足感は、若い頃に観ても感じ取れなかっただろうなとも思う。自分自身がこの映画を楽しむにあたり「年相応」になったのだなということを同時に感じた。 大満足の初鑑賞を終えて、知ったことが二つある。 一つ目は、“車寅次郎”という男が、想像以上に圧倒的な「大馬鹿者」であるということ。 20年ぶりに会った親族や知人が、尽く「ほんとに馬鹿だねえ」と嘆き続ける通り、この男の“ダメ人間”ぶりは正直目に余る。こんな男が親族に居たらそりゃあ大迷惑だろうと同情せずにはいられない。 だがしかし、だ。 それでもこの主人公は「寅さん」「寅ちゃん」と愛され、慕われている。 その大いなる「矛盾」を内包しつつ、キャラクターとして成立していることがまさにこの作品の“奇跡的”な娯楽要素であり、国民的映画シリーズとして何十年にも渡って描き続けられた理由に他ならないと思う。 その奇跡的娯楽を己の身一つで体現しているのが「渥美清」という名優であることは言うまでもない。 実際、どこまでが台本通りで、どこからがアドリブなのか、その境界線がまったく判別できないくらいに、この偉大な俳優は“寅さん”という稀有なキャラクターを、あくまでも自然体で息づかせている。 だからこそ、作中の「とら屋」の面々同様に、我々観客も、寅さんの言動に対して「馬鹿だねえ」と連呼しつつも、何だか安心して、愛着を持って、いつまでも観ていられる。 そして、二つ目は、妹“さくら”を演じる倍賞千恵子の、これまた“奇跡的”な可愛らしさだ。 「幸福の黄色いハンカチ」や「遥かなる山の呼び声」など他の山田洋次監督作品で、その薄幸の美しさは存じ上げていたが、今作の倍賞千恵子もとい“さくら”は只々キュート過ぎる。 言っちゃいないが、「僕の妹がこんなに可愛いわけがない」と再会時に目を丸くする寅さんの気持ちがひしひしと伝わってくる。まさに「アニメかよ!」と言いたくなるくらいに常軌を逸した可愛さである。 この「男はつらいよ」という映画は、“寅さん”の悲哀に泣き笑いする映画であると同時に、“さくら”を愛でる映画であるということを痛感した。 兎にも角にも、笑いと涙のつるべうち。 名優と名監督による「偉大」な娯楽映画であることを思い知った。 公開されたばかりの“まさかの最新作”を含めて同映画シリーズは全50作。 全作鑑賞までの道のりは長いけれど、これから自分の人生と重ねつつ、“同年代”の車寅次郎を追っていくのも悪くない。[インターネット(邦画)] 10点(2020-01-11 17:51:23)《改行有》

239.  6アンダーグラウンド “セミプロ版”スパイ大作戦(大暴走)!!by マイケル・ベイ 「007」にしても、「ミッション:インポッシブル」にしても、主人公のスーパー諜報員の超人的活躍が目立つが、その裏ではやっぱり「組織力」が彼らの諜報活動の精度を上げているんだなということを痛感させられる。 それくらい、この映画の主人公(大富豪)が“自警団”的にはじめたスパイチームの暗躍は、綻びだらけで、世界にとっては甚だしく大迷惑だ。 ただし、この映画の大暴走+大迷惑ぶりは完全に確信犯であり、映画作品としての是非以前に、終始一貫して“マイケル・ベイ節”が全開である。 ファーストシーンのカーチェイスから、“ギア”の入れ方が常軌を逸している、というよりも、あるべき“ギア”自体がどこかへ飛んでいってしまっているようだった。 ストーリーテリングなど端から放棄していて、ただただ問答無用の盛々のアクションシーンと、過剰に露悪的なゴア描写が繰り返される。 マイケル・ベイ監督は、「トランスフォーマー」シリーズの後半から既に“開き直っていた節”があったが、「Netflix」というある種の無法地帯に降臨し、益々暴走が止まらなくなっている(ギリギリ褒めている)。 えーと、結局ライアン・レイノルズ演じる主人公がその人間性も含めて何者で、何が“真意”なのかまったく分からないけれど、そんなストーリーの粗なんて突っ込むことすら馬鹿馬鹿しいし、実際どうでもいい。 色々な意味で「非常識」な物量のアクションシーンをあんぐりと口を開けて堪能しつつ、エンドロールが始まった瞬間に何も記憶に残さずに鑑賞を終える。それが今作に対する正しいスタンスだろう。[インターネット(字幕)] 6点(2020-01-10 23:30:22)(良:1票) 《改行有》

240.  アイリッシュマン 一言、凄い。 「映画」という“表現”と“歴史”が内包する「過去」と「現在」と「未来」を濃縮したような凄い映画だった。 この映画の“凄さ”は幾層に折り重なっていて、とてもじゃないが一度の鑑賞のみで語り尽くすのは困難に思う。 マーティン・スコセッシ監督が、自身のフィルモグラフィーにおける盟友(+名優)たちを集めて、ある種“懐古的”に製作されたギャング映画かと思っていた。 無論、その想像通りに、老いたデ・ニーロがスコセッシ作品で再びギャング役を演じるだけだったとしても、映画ファンとしての興奮は揺るがず、きっと良作になっていたに違いない。 だがしかし、この映画作品が孕むテーマとクオリティは、そんな安直な想像を容易に飛び越えて、遥かに高尚で、圧倒的に面白い映画の境地を見せてくる。 “マーティン・スコセッシの新作で老いたロバート・デ・ニーロがギャング役を演じている” そのこと自体に間違いは無い。が、そこに映し出されたものは、決して単なる懐古主義などでは留まるわけもない“新しい映画表現”そのものだった。 CG技術によって俳優の実年齢を大幅に変えて若返らせたり、老け込ませたりする“映像処理”の手法自体はもはや珍しくもなんともないことだけれど、今作のそれは、“映像処理”などという表面的な範疇を遥かに超えて、監督の演出と、俳優の演技に密接にリンクする「表現」として昇華されている。 そこで感じられたものは、ビジュアル的に違和感が有るとか無いとかのレベルではない。 稀代の名優たちが、スコセッシ監督が言うところの「CGによるメイク」を施されることにより、それぞれのキャラクターの人生を圧倒的な演技力で表現しきっていることに他ならない。 きっと、この映画を観た若い俳優たちは、驚きと共に、“恐れ”と“喜び”で、震え上がったに違いない。 なぜなら、避けられぬ老いと共に、一線から引いていたに見えた偉大な名優たちが、映画の新しい表現方法により再び新たな可能性を得たことを目の当たりにしてしまったのだから。 それは俳優としての機会損失の危機であると同時に、映画史の過去と未来が現在進行系で入り交じる、より多様性を孕んだ新しいキャスティング時代の幕開けに他ならないと思える。 そしてこの新しい映画表現が「実現」したフィールドが、「Netflix」という新時代のメディアであることも、当然ながら看過できない。 今の時代、通常の映画興行では“3時間半”に及ぶ長尺で、“ギャング映画”を製作し、公開するなんてことはほぼ不可能だろう。 巨額の製作費的にも、観客側のニーズ的にも、インターネットによる世界同時配信だからこそ成立した映画企画だったことは明らかで、この作品の“勝利”をきっかけとして、世界の映画人たちの“軸足”は益々変遷していくに違いない。 映画ファンの一人として、映画を「映画館」で鑑賞することの幸福は決して揺るがない、と思いたいけれど、本当に面白い映画を観ることができる「場所」が変わってしまうのならば、僕たち観客も“軸足”を変えざるを得ないだろう。[インターネット(字幕)] 9点(2020-01-03 00:51:38)(良:1票) 《改行有》

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