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221.  ラヴィ・ド・ボエーム 《ネタバレ》 この人の映画では、ついてない人がやたら出てくる。その自分の「ついてなさ」にうんざりしているのに、「ついてなさ」を過剰にどんどん受け入れていってしまう。その勢いに奇妙な爽快感すら感じられる。少なくとも彼らは、同情してほしいような素振りを見せない。まるでそれらの不幸が、自分が自由であることの証拠とでも思っているのか、人出に渡るのを惜しむかのように手あたりしだい受け入れていく。で本作、「若くて貧しい」芸術家のメロドラマが、カウリスマキの手にかかると、「もう若くなくてしかも貧しい」に変換されてしまうのだ。芸術家として名を成せるかどうかもう自信も挫けてきたころの、ふっと華やいだ一場面を掬い上げたよう。ピクニックのシーンがいい。これを若い連中がやってたらハナモチならない気分になったかも知れない。それをもっさりした中年男たちと、反メロドラマ的としか言えないミミというキャスティングでやられると、なんとも切なくていいのである。繰り返し現われる「花」のモチーフも彼らが冴えないからこそ生きてくる。まっとうな連中なら仕事をしているような時間に、中年の男女が花を摘んだりしていることが、ユーモラスであると同時に、どうしようもない切実さも伴って観客の前に展開するのだ。これを観ていると「貧乏なんて若者には贅沢すぎる」とつい思ってしまうのだ。[映画館(字幕)] 7点(2010-01-31 12:12:08)

222.  愛の地獄(1994) 《ネタバレ》 いわゆるオセロ症候群てヤツか。それでいて実際に妻が不貞をはたらいている余地を残しておき、曖昧に断ち切る。いかにもフランスらしい、キレよりもコクの世界。結局中心にあるのは「深まる疑い」という一本のベクトルだけなんだけど、それこそサスペンスだ、ってんでしょうね。尾行をする場面で、映画は生き生きする、個人的な視点だからか。嫉妬というのは、すべての材料を悪いほうへ悪いほうへととめどなく勘繰っていく装置で、ひとたび作動すると、そのとめどのなさがスリラーになっていくんだ。ラストで冒頭の風景が繰り返されるが、もう自転車はやってこない。水上スキーのシーンって、おそらくボートのおしりで撮影するんだろうけど、撮影シーンを想像するとおかしい。[映画館(字幕)] 7点(2010-01-26 11:57:59)

223.  ミンボーの女 伊丹監督の情報映画というか、手口紹介映画というか、“現場主義”がよく表われた作品。こう複雑になった社会では、背景を分析していってはキリがなくなってしまう。そこで何事かが起こっている現場だけに好奇心を絞り込んでいく。現場のレベルでナマなものだけが、現代では確実な手応えを与えてくれるもので、そこに固執しよう、と割り切った姿勢が感じられる。暴力団と警察と企業、それらの関係を構造として見、解剖していくのではなく、それらが接触する面だけを剥がしてスクリーンに広げていく。暴力団と警察の背後にある政界での癒着などには思いを馳せず、このホテルのロビーだけの限られた中での正義を描く。もちろんこれは大きな弱点で、社会を捉える映画として最も重要である批評性を捨ててしまう訳である。でも、この世の中を大局的に分かったように扱うよりは、まず確実な部分だけでつかんでみたい、という作者の姿勢も尊重してみたいのだ。大局的な論は、突き詰めると抽象性の幕によって時代との間に境が作られてしまっているような感覚が残る。この幕に対するいらだちを監督は強く意識していたのではないか。日本の社会派映画の、とかく大局の論に走りがちな欠点を、もしかすると乗り越える役割りを担うのではないか、とこのころの伊丹監督には期待してたんです。手口の陳列として面白かったし、いつもながらの過剰なサービス精神にはゲンナリさせられるところもあるが、「暴力団は他人に屈辱を与えるから嫌だ」ということはあまり日本の映画ではちゃんと描かれてこなかったことで、そこを買います。仁侠映画好きな私が(フィクションと割り切って楽しんでるんですが)時々思う後ろめたさを贖罪する意も込めて。[映画館(邦画)] 7点(2009-12-23 12:08:42)(良:1票)

224.  クイック&デッド 《ネタバレ》 早撃ち大会トーナメントという趣向。つまり決闘シーンが繰り返されるわけだが、そこにいろいろ趣向を凝らすのが見どころ。最初は「立っていられなくなったら負け」だったのが「死ぬまで」にエスカレートしていく。タマが一発しかなくて相手が生き返っちゃったりとか、親子かも知れぬ、とか、その次々の趣向でけっこう見せちゃう。時計台のある広場で、死を刻み続けていた時計台がラストで爆発するのも正しい。そうそう、馬車につないでおいた悪漢が、車を引きずって生きているのもおかしい。ジーン・ハックマンが自分の影を見ると胸のところに光が丸く開いている、といった昔話やホラ話を語っているような調子の演出で、なかでシャロン・ストーンひとりが大マジメに演じていた。[映画館(字幕)] 7点(2009-12-14 09:07:14)

225.  デスペラード かっこいいということがおかしくもある、ってことを知ってしまった者が、開き直って半分コメディとして活劇を仕立てるスタイル、っていうののハシリのころか。撃ち合いの果て、手近の銃を拾っては撃つが、カラ、カラ、カラ、とか。第一、撃って人が飛んじゃうってのがもうユーモアだわな。派手であるってことは、それだけでもうおかしい。ラテン音楽にそもそも似たユーモアがあるのかも知れない、やたらかっこつけ過ぎるおかしさ。タランティーノがいい顔していることに、この映画で初めて気がついた。[映画館(字幕)] 7点(2009-11-15 11:56:10)

226.  (ハル)(1996) インターネットの匿名世界は、トイレの落書き化したり誹謗中傷が渦巻きスラム化する、ってところに興味があったんだけど、これは本人同士が出会うまでの恋愛もの。映画の大半は字幕を読むことになるわけだが、サイレント映画とは違って、字の部分と映像の部分が拮抗してるわけ。心の部分と社会の部分と。どちらかというと写真や図表入りの小説の裏返しに近い。相手の姿かたちがないということの気安さが、しだいに手応えをほしくなる・見たくなる、って経過。そして『天国と地獄』的シーンを経て、抽象的だった会話の相手が「現実に存在してるんだ」という不思議な気分を味わうことになる。電光掲示の文字もしばしば挿入され、文字情報がしだいに表情を持つことの面白さを映像で見せようとした作品でもある。ラストで白黒になったのは、これから文字だけではすまない生身のヤヤコシイ世界に入っていかなければならないんだよ、ってことを言っているのだろうか。…と、これはまだ私がパソコンに触れてもいないころに観た映画の、当時の感想。こうして自分自身が匿名広場に参加することになるとは思ってもいなかった。[映画館(邦画)] 7点(2009-10-28 11:59:48)(良:1票)

227.  眠る男 今までの“原作もの”というフタがはずされて、ワーッとイメージが大空の大気のなかへ拡散した感じ。「拡大」ならもっとよかったんだけど、「拡散」。不意に飛び立つ鳥、眠る男の鼻から出てくる虫、魂呼びの音がこだまし、はずされた屋根瓦を越えて、やはり大空へ広がっていく。天井がなく拡散していく感覚に通じていく。常に湯気が沸き立っている感じにも通じ、その中心で眠り続ける男、と男のほうは何となく理解できるんだけど、「南の女」のほうはちょっと分からなかった。一種の桃源郷さがしなのか。あと言葉がときどき固くなるのが気になる。メナムの語の講釈や赤ん坊が進化をなぞってる、なんてとこがややシナリオとしてこなれ不足のような。能が出てくるのも引っかかったが、青空の下ってのが薪能よりはいい、やはり天井がない感じで。ここで田村高広がまた講釈をしてしまうんだ。全体、音が良かった。倒木シーンも映像よりひび割れていく音の予感のほうが美しかった。決してこの地が桃源郷なのではないが、そこへ向かって開かれている、って話なのかな。個人的には、この監督は原作でフタをした映画のほうが圧力が高まっていいんじゃないかと思うけど、こういう自分のイメージを十分に拡散したものを作りたかったという気持ちも大事にしたい。[映画館(邦画)] 7点(2009-10-12 11:59:08)

228.  パイナップル・ツアーズ 沖縄がのんびりしていることの全面的な肯定、ゆるんでいることの謳歌である。のんびりしていることがただ怠惰で非効率とされる本土に対して、これはこれで一つの文化なんだと歌ってみせた。たとえば第2話。居着いてしまった本土の青年がずるずると土地の娘の婿に仕立てられていく話。60年代前半なら『砂の女』のような鋭角的な手触りの作品になったモチーフ、60年代後半なら『神々の深き欲望』のようなコッテリとした味の大作になったモチーフ、それを90年代あたまの沖縄人がサラリと風土に合ったトーンで描き直している(もっとも中江監督は実は京都生まれで、後天的ウチナンチューと自称しているそうだ、そういう来歴がストーリーに生かされたかも)。今村の視線は、やはりヤマトの側から南の風土に吸い込まれていくヤマト人を眺めるものだった。その豊穣な風土への畏敬の念が、どこかおぞましさとつながって感じられてくるところに、今村の正直な感性があったと思う。南でしだいにゆるんでくるヤマト人の変貌は、既知のものが未知の中に引きずり込まれていく、魔に魅入られていくといった印象があって、しかし本作にはそれがない。今村の描いた壮麗な神々の風土を「過大評価です」と笑っているような人間臭い世界がある。映画は主人公ヒデヨシ君にちょっと同情しながらも、途方に暮れる彼を祝福し歓迎していく。那覇へ逃げ出そうとするところを連れ戻される望遠鏡のカットの穏やかなユーモアなど楽しい。ヒデヨシ君個人に密着して考えれば、老人たちの無邪気さは共同体の不気味さと裏表のものであって、『砂の女』のテーマは現在でも有効なはずだ。しかしそれらのことを考えても、ついついヒデヨシ君を祝福してしまうのは、その底に作者ののんびりゆるんだ自分たちの暮らしへのはっきりとした自信があるからに違いない。それが爽やかさになっている。[映画館(邦画)] 7点(2009-10-06 12:11:13)

229.  歌舞伎役者 片岡仁左衛門 期待したのは映像による具体的な芸談だった。もちろんそういうシーンもある。『四谷怪談』の髪すきの場で大事なのはお岩よりも宅悦の方なのだそうで、その宅悦の“いい驚き方”と“悪い驚き方”を実演してくれるところなど面白い。しかしそういう興味だけだったとしたら、カメラの動きがおかしい。演出の指導をしている場面では、それでどう演技が変わったのかを比較しなければならない筈だ。でもカメラはほとんど指導している仁左衛門ばかりを捉えている。羽田澄子が興味を持ったのは芸ではなく、仁左衛門の人物を凝視することで見えてくるものの方だった。つまり滅びゆく上方歌舞伎ではなく、滅びゆく上方人そのものだったのではないか。仁左衛門は戦後滅びかけていた上方歌舞伎を何とか復興した人である。しかし上方歌舞伎は復興したのだろうか。映画の中で何度も彼の愚痴が聞かれた。今では下座音楽も、大阪公演の時は東京から連れていくのだそうだ。研究生たちへの教育風景でも、どうしても公卿の雅びなイントネーションが出来ないことに眉をしかめる。なぜ上方歌舞伎は衰えたのか。戦後日本全国が東京化したことと無縁ではあるまい。この映画に感じるのは、最後の上方人である仁左衛門をまず記録しておかねば、という衝動である。彼のまわりに漂っている上方人としての風韻をこそカメラは捉えようとしたのであり、その試みは成功している。仁左衛門は家族だけでお茶屋遊びをする時でもキチンとネクタイをしめている。それでいてこの室内には外界を遮断した内輪だけで閉じているやや淫靡で濃密な気配も漂う。このキチンとした感覚とネットリした感覚との併存に、関東人である私などは上方的なものを感じた。芯のところに気難しさが感じられるのだけど、けっして声を荒立てない姿勢。千年の間じっくりと漉し続けられた文化が一人の人間の形となって現われている。大げさに言えば羽田はそのような千年分の記録を撮る意気込みで、カメラを回したのではないだろうか。それともう一つ、老いの問題がある。目が見えなくなりつつある老役者としての被写体。『新口村』の舞台、目隠しをして息子と対面する場面がそのまま、盲目の師と息子の弟子という現実に重なって見えてくる。彼の「老いると芸がリアルになる」という言葉、実感としてはよく分からないのだが、この場など、こういうもんかなあ、と微かにつかめた気にもなったのだ。[5部作版での鑑賞][映画館(邦画)] 7点(2009-09-28 12:19:29)

230.  レディバード・レディバード 《ネタバレ》 世間・当局が彼女に繰り返すのは「落ち着いて、落ち着いて」という言葉。これが最もいらだたせる言葉なわけ。落ち着いた市民の良識へのいらだち。落ち着いた市民たちの無言の圧迫が怖くて、彼女はさらに反発していく。落ち着いている当局の者たちが、落ち着いたまま子どもを連れていく怖さ。チャップリン以来の永遠のテーマなのだろう。ただたしかに児童虐待という問題もあって、家庭をあまり聖域視することは最近とみに難しくなっている。まあこの場合外国人への偏見もあったりするんだけど。彼女を一目で同情できるようには造形してなく、正直言ってあんまり近くにはいてほしくないタイプとしてズルくなく描いているのが立派で、そのためにかえってドラマに説得力が出た。最初の二人の子どもが連れていかれる場が充実していたが、二人目の子どもを産み落とそうとしたくなくて抵抗するところも凄い。腹の中に入れたままにしておきたいのだ。題材からして、もうちょっとユーモアを入れてほしいという注文は無理かも知れないが、もとの旦那の不意の暴力など息苦しすぎるので。[映画館(字幕)] 7点(2009-09-19 11:55:59)

231.  いつか晴れた日に ジェームズ・アイボリーにしろカズオ・イシグロにしろ、けっこうイギリス的な気分てのは非イギリス人によって継承されていて、台湾の監督がジェーン・オースティン撮ったって不思議はあるまい。クラシック音楽の担い手が西欧に限らなくなっているのと同じことだ。でイギリス的とは何ぞやというと、馬車の似合う風景、婚期を逸した娘、大団円の満足感、といったところか。ささやかな不幸とささやかな幸福の家庭劇、分別過多の娘も多感な娘も、それぞれ幸せを得ましたとさ、って。とかく“いいかげん”と見なされがちなハッピーエンドも、“大団円”としか呼べないようなツボにはまる正確さを伴えば、よしよし、と心が満ちる。一度陰った気持ちが曇りなく晴れ渡る。二度目に大佐に抱かれて雨の中を戻ってくる次女、反復の妙。画面の遠くの庭師たち、あるいは働く下僕らの足音など。もひとつハッとする瞬間がほしいという気もするが、そういうことするとレースの手触りのようなトーンの傷になってしまうのかも知れず、エドワードが女性二人を見るとこなども、実に淡々と、笑いを取ろうとしてないのが、かえって好感。イギリス的だ。[映画館(字幕)] 7点(2009-09-06 11:59:49)(良:1票)

232.  ベイブ 豚と心を通わすのが子どもでなくてじいさんというのがいいな。これでずいぶん奥行きが出せた。食われるための豚も牧羊犬も、つまるところ人間の奴隷ではあるんだけど、「尊厳」というモチーフを持ち込めたわけだ。そしてあくまで動物の世界が主で、人間の世界を背景にしたのもスッキリしている。目覚まし時計始末のあたりの演出もなかなかのもので、引っかかって揺れるペンキや転がる毛糸玉、それに足を引っ掛けそうになるところなど十分緊張を高めといて、その瞬間は見せない。あとの乱れた室内と足跡で笑わせる仕掛け。猫の嫉妬による告げ口がポイント。母犬が、そんなことはないのよ、でなく、そうよ、と言うところが立派。豚は食べられるために存在する社会、これを諦念とするか、革命への心準備とするか。おそらくドラマとしてこれ以上突っ込むと、娯楽作品の枠を壊してしまうので、けっきょく「けなげなヤツが尊厳を見せる」といった地点でまとめてしまうんだけど、たとえばこれを見た子どもが、その先を考えるきっかけにはなっただろう。子ども向け映画はそれでいい。でコンテスト、それが豚であるというだけで場内は笑いに包まれ、そのなかでけなげなベイブを見ていると、やっぱり涙ぐんでしまうのであった。[映画館(字幕)] 7点(2009-08-12 12:06:30)(良:2票)

233.  白い風船 あくまでおつかいに出た少女の心理に寄り添いつつ話を進めていき、ラストでパッと三人称になる手際。ある意味では残酷だが、しかし少女の世界がパッと開けて、仕立て屋の徒弟やら兵士やら風船売りやら都会で独りぼっちで暮らしていた周囲の星々が輝き出す、という感じ。もしかすると彼らの対極にあるのは、家で怒鳴っている父親(とうとう姿を見せない)なのかもしれない。第三世界の映画というと「家族の愛」とか「地域の親和」とかのテーマを読み取りがちだが、「都会の孤独」だってやっぱりテーマになるのだ。大人の社会に触れる子ども。おばさんには愛想よかった仕立て屋が、子どもだけになると無視する。大人は大人の客とのケンカで頭がいっぱい。そして変なオジサンっぽい相手には用心しなくちゃいけないし。そういう緊張があって初めて、子どもたちがガムをくちゃくちゃやり、目を見かわし、なんとなく笑ってしまう、なんてスケッチが生きてくるわけだ。[映画館(字幕)] 7点(2009-08-11 11:56:23)(良:1票)

234.  橋のない川(1992) 《ネタバレ》 これでいいのは「ヤーイヤーイ」と囃し立てる式の分かりやすい差別ではなく、制度に組み込まれている「微笑のなかの差別」が描かれていること。たとえば地主の稲刈りの手伝いをしたとき、部落の者だけは駄賃を裏にまわって渡される、それがさも自然なことのように微笑のなかで進行していく。誰もそれがおかしいことだとは思わないその静かな微笑の怖さ。あるいは駅頭のシーン。友人が自殺し動揺している部落の少年たちが、駅で小学校の時の女先生に会う。ものわかりの良かった先生だ。その出来事を心の深いところで理解してもらおうと語りかけるのだが、その先生はあくまで親切な語り口で「そんな自殺の仕方するなんてやっぱり普通の子やないんね」と感想を述べただけで、入ってきた汽車に乗って去ってしまう。悪気で言っているのでないだけに「やっぱり普通でない」という言葉の残酷さが際立ってくる。女先生の親切げな微笑がかえって壁の厚さを意識させる。微笑というものが、もともと排除の機能を持っているらしいのだ。異質のものに出会ってそれに深く関わりたくないとき、あいまいな微笑を浮かべてやり過ごそうとする。人間集団の機能として、微笑と偏見は表裏一体らしい。あと頬をぶたれる少女のエピソードも好き。部落の少年が学校の集会のとき、隣の女の子からそっと手を握られる。悪い気はしない。でもそれが「部落の人間は手が冷たいそうだ」という噂を確かめてみたものだと人づてに知らされ、その女の子の頬をぶってしまう。ここまで部落の子の側から描いてきたエピソードが、ここで一転し、少女が何かをじっと考えながら川の水で頬を冷やしている場面になる。おそらくこの少女が考え込んでいる表情は、大人たちの微笑の対極にあるものだろう。深いところで希望を感じられるいいシーンだった。差別が被差別者だけでなく、すべての人の心を傷つけてしまうことが、文字に書かれた教訓でなく実感として伝わってくる。そして岩波映画出の記録作家としての経歴が、農作業風景で生きている。部落の人々の自信を支えるものとしての、背景以上の意味を持っていた。こういう生真面目な映画は「笑い」ほどシャープには問題点の切り口を捉えづらい。でもこういう生真面目な映画をきちんと作り上げられる才能は、「笑い」をゆたかに笑う技能とどこかで通じあっているような気もする。[映画館(邦画)] 7点(2009-08-02 12:14:09)

235.  夏物語(1996) 《ネタバレ》 この人の映画は見ていてごく自然に口もとがほころんできて、その気分が好きだな。どう見てもかわいいマルゴから声をかけられても、最初のうちのガスパールはレナのことしか頭にないから焦点を結ばない。お互いに恋人を待っている男女がえんえんと日を待ちつつ、毎日一緒に過ごす。この前半の設定が最高で、つまり口もとがほころぶいい感じ。ソレーヌが絡んできてややこしくなり、さらに不意にレナが訪れ、後半はこのややこしさのコメディになっていく。これはこれで楽しい。優柔不断のゆえによりややこしい状況を選んでしまう男。でもこれは結局ガスパールがマルゴを発見する話と見ていいんだろうな。代役がいつのまにか主役になっていた、って。恋の報告をする相手のほうが大事になっていく、恋のおかしさ。[映画館(字幕)] 7点(2009-07-15 11:59:29)

236.  東京兄妹 《ネタバレ》 鬼子母神の古い家を受け継いでしまった兄妹は、家に見合うようにしっかりしなければならないと、戸主らしい夫婦のようなたたずまいを見せざるを得ず、古風なスタイルに傾斜していく。ここらへん、いじらしいのだ。兄妹でじゃれあいをしない。自転車で兄を追い越すときも「おにいちゃん」などとじゃれない。だから終わりのほう、都電の中で兄妹が兄妹らしく脚の上げっこをするシーンが光る。墓参りの帰りで、家を守る“夫婦”の役割りを離れ、子ども時代の兄妹に戻れたのだろう。兄が座椅子を買ってくるが、妹はどうも使いたがらない、というエピソードもあった。コタツに前屈みになりたいんだな。二人のこの“夫婦”の関係が危うくなると時計が止まる。ゼンマイを巻く妹を、見上げる兄の目には女が映っているような。妹がいなくなって初めて、テレビを見るシーンが出た。天気予報という外部が映っている。帰ってきた妹に「風呂にはいれよ」と言う。で、いいのはラストだ。楽園に戻ったところで終わってはいけない。自分から退去していくとこで終わるのがいい。チリと鳴りかける鈴、ふと家事の手を止める妹、静かに門を閉め直し、振り向く兄でストップモーション、にくいね。[映画館(邦画)] 7点(2009-07-11 12:00:23)(良:1票)

237.  午後の遺言状 俳優にそれぞれ彼らの実人生を投影しているのがミソで、俳優だったり、能役者だったり、不倫の恋だったりをダブらせてる。脱獄囚とのやりとりのあたりからベテランシナリオ作家の弾みが感じられ、あのファルスのタッチをラストまで維持できなかったかなあ。新藤兼人は、日本映画黄金期に、多くの重要な監督たちにせっせとシナリオを提供していたことはもっと評価されていいと思っているのだけど、そういう他人に提供したシナリオのほうが自分の監督作のよりも肩に力がはいらず、映画作法としての純度の高さを感じることが多かった。この作品で、初めて自分の映画のシナリオで、そういった“軽み”を描けたのではないかな。表彰式のシーン、あるいは杉村・乙羽のやりとりの場など。背景を若々しい新緑が埋め、そこで老人が老人を使って描く老年の世界という貴重な映画が展開している。[映画館(邦画)] 7点(2009-06-27 11:55:02)

238.  ニクソン この人の映画は締まりがいいほうではなく、ブワブワと始まるが、語っていくうちに熱を帯び、ゴチャゴチャしながらもある感動の時を迎える、ってのが多いけど、これもそうだった。『JFK』の時のように、言いたいことがあってそれに集中していくのではなく、なんとかニクソンという魅力的な人物を掴まえたいが掴まえ切れない、という悪戦苦闘ぶりが面白い。まず、ケネディコンプレックスがある。ほとんど『アマデウス』のサリエリのようで、ラスト、ケネディの肖像を見つつ「国民はケネディには理想のみを見、私には現実のみを見る」って言わせるのが一つの結論。理想の最たるものはリンカーンだったが、映画は南北戦争の死者とベトナム戦争の死者とを重ねて、彼にも皮肉な目を向けていた。そしてベトナム戦争は、ハト派のケネディによって始められタカ派のニクソンによって終わったという事実もあるわけだ。あるいは、成り上がって失墜していく『バリー・リンドン』的な悲劇として捉える見方。制御できぬ野獣のごときものとしての権力の不思議さを、遠くから眺めた映画でもある。時間をあちこちするシナリオだったけど、これなんか時代通りに順にやったほうが良かったのではないかな。[映画館(字幕)] 7点(2009-06-16 12:02:01)

239.  ファイナル・プロジェクト 《ネタバレ》 クールで泰然自若としたアクションスターの系譜もあるが、ジャッキー・チェンは、オロオロしながらコトを為していくキートンやロイドの喜劇の系譜の人で、水中カンフーなどどうしたってキレがなくなるのを、逆手にとってギャグにしてしまうのが偉い。サメはじっとしていると襲わない、というネタで、闘っていた二人がサメが近寄ってくるとそのままジッと停止するおかしさ。あるいは血の匂いを出さないために、傷を受けた指を口にくわえる、その合い間には酸素ボンベの口を取り合ったりと無駄がない。ほかにも、タケウマをしたままのケリを何度かやって、はずした後も長いつもりでケリを空振りする、とか。このころは年齢的にアクションは厳しくなってきているのに、それをカバーしようという工夫が随所に見られて、けっこう感動的だった。白装束白マントの悪漢どもがスキーで追いかけてくるあたり、ああ悪漢とはやはりこうでなくちゃならない、と懐かしい興奮が胸に満ちたものだった。[映画館(字幕)] 7点(2009-06-10 12:07:38)(良:2票)

240.  リディキュール エスプリってのは、単にちょいと気のきいたことを言う、って程度のものじゃないんだ。実にナマナマしい、丁々発止の武器なの。日本の王朝時代の和歌に近いのかも知れない。自分で笑ってはいけない、とか、駄ジャレはいけない、とか決まり事がきちんとある世界。本筋は、田舎貴族がエスプリを武器に、しかしそういう社交とは正反対の干拓事業を目的としてノシていく展開。ロシュフォールが、エスプリを言うチャンスをのがして悔しがるのが、おかしくも真剣で、確かに馬鹿馬鹿しい時代ではある、革命直前の頽廃感もあるが、こういう時代がモーツァルトの音楽を生んだのも事実で、そこらへんの愚劣と愚劣が織りなす華麗との対比が、たぶんこの映画の味わいなのだろう。貴族と対照されるのが聾唖者で、しゃべる武器を持たない者たち、彼らがまた映画を広げている。[映画館(字幕)] 7点(2009-05-25 12:00:40)

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