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プロフィール
コメント数 418
性別 男性
ホームページ http://onomichi.exblog.jp/
年齢 55歳
自己紹介 作品を観ることは個人的な体験ですが、それをレビューし、文章にすることには普遍さを求めようと思っています。但し、作品を悪し様にすることはしません。作品に対しては、その恣意性の中から多様性を汲み取るようにし、常に中立であり、素直でありたいと思っています。

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241.  ニューヨーク・ニューヨーク 個人的にはデニーロの役が結構魅力的で改めて彼のカッコ良さにうなった映画。ストーリーも悪くない。演出もいい。ただ、ライザ・ミネリとのミスマッチングがなぁ。。。何とかならなかったのかなぁ。 9点(2002-01-19 01:03:06)

242.  君たちはどう生きるか(2023) 『君たちはどう生きるか』は、「宮崎駿が高畑勲に掛けられた呪いから自らを開放する物語」と確かに読める。そうであれば、彼は少なくとも、呪縛が解かれた自分としてもう1作品作りたくなるのではないか。 呪いとは何かは、二人の間のことなので正確には分からない。しかし、高畑勲が『火垂るの墓』『平成狸合戦』の人であれば、彼は教養の人であると共に哲学的意味において「精神」とその獲得の為の闘争の人だったのだろうと感じる。それは「どう生きるか」において呪縛となるであろう。[映画館(邦画)] 8点(2024-09-05 22:27:18)《改行有》

243.  映画 夜空はいつでも最高密度の青色だ 石橋静河。人間的な魅力溢れるヒロインが印象的な映画だった。悩んでいて、ささくれだっているけど、どこか清々しい。愛すべきキャラクターでした。 彼女の魅力はその身体性。バレエ仕込の所作と言っていいかな。動きの強弱とか。タタッーと踊りながら近づき、パッと抱きついて、耳元でボソッと呟き、ニカッと笑う。これは『東京ラブストーリー』のリカ役の時だったけど、とても印象に残った。私は好きな女優です。[インターネット(邦画)] 8点(2024-09-05 22:25:42)《改行有》

244.  福田村事件 《ネタバレ》 『福田村事件』は、利根川流域の村人達が9人の日本人同胞を朝鮮人と見做して虐殺した事件。殺された人の中には2歳、4歳、6歳の3人の子供達と2人の女性(内1人は妊婦)がいた。何十人もの村人が竹槍や鳶口、日本刀で子供達を切り刻んだ上に川に投げ捨て、その現場を多くの者が目撃した。犯人は捕まったが、直ぐに恩赦で全員釈放され、その後村人は口を閉ざした。 千葉県野田の普段は農家や工場で働く人々。善良な村人達が何の躊躇もなく、3人の子供達を虐殺できたのは何故か?彼らが無知だったからか?当時、避難してきた多くの朝鮮人を凶暴化した群衆から匿った日本人の警察署長もいた。彼は正しい情報を得ていた為、デマに踊らされることはなかった。限られた情報の中で、危機に瀕した人々の集団は容易にヒステリー状態に陥り、時に凶暴化する。あなた(私)がその集団にいたとして、どのように振る舞えるか?そういう想像力が試される。 現代社会は情報に溢れているように見えて、島宇宙化した領域では情報が偏り、いつの間にか限定されてしまうこともある。気が付けば集団の中で加害者側にいる自分。その可能性を想像し、集団心理にのみ込まれないよう(ノリに流されないよう)、常に個であり、俯瞰的であり、逆張りでいる自分を手放さないようにしたいと思う。 森達也の映画も良かったが、その原案に位置づけられる辻野弥生のルポも読み応えがあった。[映画館(邦画)] 8点(2024-09-05 22:24:27)《改行有》

245.  サラリーマン一心太助 《ネタバレ》 中村錦之助の一心太助シリーズ現代編。一心太助から二十三代目の魚屋兼サラリーマン石井太助を演じるのは錦之助ではなく、弟の中村賀津雄。賀津雄は前作『家光と彦左と一心太助』で徳川忠長を演じ、錦之助の太助/徳川家光と共演していて、これがなかなか良かったのだが、今作ではサラリーマン太助だけではなく、ご先祖様として現れる本家の一心太助も演じている。一心太助は中村錦之助の役と姿も声もそっくりで、ほとんど見分けがつかないのだが、そこはかとない小物感、そっくりさん感があって、そこに拭いがたいB級性が漂う。 大久保彦左衛門の子孫、大久保彦造を演じるのは前作『家光と彦左と一心太助』に続いて進藤栄太郎。ここも月形龍之介でないところがB級的。徳川家光の子孫、徳川の末裔かどうか分からないけど、葵食品三代目社長を演じるのは、なんと渥美清。一心太助の伴侶たる、お仲、中原ひとみが渥美清の奥方役。サラリーマン太助のマドンナは三田佳子。この辺りの入れ替え感も本家との違いを強調するのだけど、結局、この作品の位置付けを一心太助のパロディと考えれば上記の入れ替え感、B級感はとてもしっくりくるのである。実にいい感じで。 本家の一心太助と言えば、とにかくコミカルで、ズッコケが過ぎているけど、それでいて精悍で、威勢のよい啖呵がもの凄く格好いい。一方で、サラリーマン石井太助はズッコケだけで精悍さが全くない。お得意の正義感や厚い人情、仲間思いの行動力も決意も全くない。最後の最後までダメ人間で、ご先祖に憑依されて何とか持ちこたえる始末。これまでの一心太助の勧善懲悪ストーリーとは違うのでその点は期待外れかもしれないけど、そもそも江戸初期と戦後高度成長期の時代性、人間性の違い、このストーリーに込めた風刺や警鐘の表現として、その規格違い、期待外れ感は、意図された入れ替え感と併せて必然とすら感じて、私は逆に現代版の一心太助にかなり好感を持っている。実際、観ていて妙に感心し、そして大いに笑った。若き三代目葵社長の渥美清の存在感、彼特有の喜劇口調が最初から最後まで素晴らしく、そこに曲者の田中春夫や千秋実が絡んでくるのだから堪らない。そのやり取りを観ているだけですごく楽しい。 一心太助恒例のエキストラ総出のお祭り騒ぎや盛大な立ち回りは、ここでも健在。都心?の道路を封鎖して、多数の車やトラック、大人数の大衆が入り乱れる。葵食品による誤情報によって大損害を与えられた人々、大勢の激高した大衆に追いかけられ、もみくちゃにされる太助と葵社長。ここは画面に迫力があって、圧巻のシーン。結局、太助は、機械、コンピュータの誤情報に振り回され、社会を混乱させ、大衆に吊し上げられて、逮捕までされてしまうのだけど、それも最後には突然なかったことになる。夢か幻かって訳ではないが、それらの失敗も単なる教訓として捉えられ、水爆システムの故障による誤爆でなくて良かったなどと演説されて、会社として、個人として、再出発して普通に終わる。そのあっけなさ、能天気さはあまりにも手のひら返しすぎで唐突すぎるけど、実は大戦前後の日本の大衆そのもの(主体性の無さ、お上意識、故の唐突な転向)を風刺しているようにも感じた。実は、その唐突さを本当に善きこととして見ていない、本来あるべき自主的でボトムアップなルールの訂正と更新を未来に託し、現代の主体性の無さを物語として風刺していると観れば、全く笑顔のない太助のラストカットの意味も納得するのである。 この映画で騒動の中心となる電子計算機は、今で言う「人工知能による(ビッグ)データのアルゴリズム解析」のことだろう。そこを少し読みかえれば、SFコメディとしてもそれなりに楽しめる、かな。[インターネット(邦画)] 8点(2024-07-14 00:47:41)《改行有》

246.  一心太助 男の中の男一匹 《ネタバレ》 シリーズ3作目『一心太助 男の中の男一匹』。太助とお仲の結婚式での喧嘩大騒動から始まり、今回は進藤栄太郎演じる悪徳旗本の神尾備前守が相模屋と結託して魚河岸乗っ取りを図るという天下の一大事が本筋となっている。 中盤で彦左が倒れ、そのまま亡くなってしまう為、騒動終結のお上側の立役者は彦左から松平伊豆守に代わる。山形勲のセリフ回しもなかなか重厚で、悪役よりもこういった正義の伊豆の方がぴったり合うように思える。 今回も喧嘩シーン、お仲との夫婦愛を感じるシーン、お約束の大立ち回りがあり、見せ場満載である。ここぞという時に、正義の老中伊豆が駆け付け、間一髪、魚河岸の親方が救われる。スリリングな展開で、そうなるのは分かっているが、最後に一件落着で留飲を下げる。富士裾野での家光と彦左の遠乗りシーン、ラストの家光とのやり取りもよかった。[インターネット(邦画)] 8点(2024-07-14 00:41:55)《改行有》

247.  生きる LIVING 《ネタバレ》 黒澤の『生きる』を洗練した感じではある。『生きる』のモチーフはちゃんと引き継がれている。違いがあるとすれば、主役のビル・ナイに志村喬のような切羽詰まった感じがなかったこと、途中で元部下の女性に決定的に気味悪がられたりもしない。 黒澤版『生きる』後半のあのグタグタした葬儀の後の喧々諤々は、列車内の率直なやり取りに変わっている。実は、私が『生きる』で一番感銘したのは葬儀の後のグダグダの喧々諤々なのである。それが黒澤らしさでもあった。 イシグロらしさは何だったのかなと、『浮世の画家』『日の名残り』『夜想曲集』を思い浮かべる。特別な境遇にある人間が彼らの理路によって普遍を語りながら、全く普遍的な共有感が見いだせないような、それでいて、共有の欠落感に共有感を感じてしまうような不思議な感覚。そんな捻くれた感じは完全に抑えられていたように思う。 黒澤らしいある種の分かり易い社会的グダグダ感をより捻れたニンゲン的グダグダへと昇華できればもっと面白かったかなと。でも、率直に素直に感動はした。[映画館(字幕)] 8点(2024-04-30 22:24:15)《改行有》

248.  落下の解剖学 《ネタバレ》 この映画は「おとなのけんか」である(ポランスキーにそういう映画があったが)。夫婦が喧嘩するだけでなく、裁判での検察官と被告、証人、弁護人とのやり取りも口喧嘩のようなもの。言葉尻を捉える子供じみたソレである。そういえば、冒頭にキャストの子供の頃の写真が出ていたなと。 被疑者の女はドイツ人で、転落死した夫はフランス人。裁判ではフランス語の質問に英語で答える。言葉の壁に子供っぽい心理が加わり、共通のコードを持たないコミュニケーション不全が前提であれば、それは言語ゲーム(ウィトゲンシュタイン!)となる。 言語ゲームとは、言葉と意志が通わないところに起こる本来的な他者との邂逅。結局のところ、彼らの子どもで、おとなになろうとする盲目のダニエルにこそ全能性が宿るラストが象徴的であった。 転落死した男は自殺か他殺か? 彼は落下する。私には、それもダニエルに見透かされたように、言葉を失いながら、言葉を紡ぐしかない作家の子供っぽさ所以の自作自演の典型のように思えた。 『ある言葉の根拠を示そうとして、いくら言葉を尽くそうとも、その説明のための言葉すら、根拠のないルールをもとに述べられているにすぎない。自分自身で決めたルールのなかで、自分自身を正しいとしているのだから、つまるところ「論理」というものは、すべて「自作自演」となる』 飲茶「哲学的な何か、あと科学とか」より[映画館(字幕)] 8点(2024-03-05 19:21:31)(良:1票) 《改行有》

249.  ブラス! 《ネタバレ》 イギリス・ヨークシャーの炭鉱町のブラスバンドが全英コンテストを勝ち抜いていく素晴らしきミュージカル映画、、、ではない。この映画は、とてもポリティカルな作品であり、その全てがダニーの最後の演説にあったのではないか。 ロイヤル・アルバートホールでの大会決勝戦。炭鉱の閉鎖、失業、借金、家族離散、闘病、自殺騒動など、幾多の困難があり、それでも音楽を自らの誇りとして、バンドメンバー達は決勝の舞台に立つ。最高の演奏をして、優勝を手にした彼らの喜びは本物であったに違いない。バンドが生き甲斐であり、全てだったダニーが観客を前に言う。「以前は音楽が大事だったが、人間の大切さには及ばない」と。炭鉱が閉鎖され、失業し、生活の糧を失って、それでも彼らは音楽を続けていくことができるか? 答えはノーだと。 1984年の全英ストから10年。イギリスはサッチャー首相の元、「小さな政府」を政策の根本として財政を立て直し、様々な民営化や規制緩和を進めた。その結果、新自由主義、経済至上主義の中で地方経済はズタズタとなり、失業者が溢れることになった。そういうイギリスが抱える背景の中に、この物語はある。 アルバートホールでの決勝戦、彼らは素晴らしい演奏をして優勝した。しかし、音楽は彼らの生活を救わない。その将来に明るい希望は見えない。最後の演奏は彼らの音楽に対する信と自らの誇り、そのギリギリの成果であったが、将来に生きる希望がなければ、その意志は持続しないのだと。状況は、正にBrassed Off (うんざり)なのだ。 それでも、僕は思う。この映画の素晴らしさは、やはり音楽にこそあると。ダニーの病室の前で、メンバーたちがヘッドライトを付けながら演奏する「ダニー・ボーイ」。テナーホーンを失ったアンディが口笛を吹く。音楽は、言葉や政治、諍いを超えた感動をもたらす。それが何かを生み出すという可能性。ダニー親子を救い、彼らをギリギリのところで繋ぎとめたのは音楽だった。そういう音楽の力を感じさせる素晴らしきミュージカル映画、、、かな。やっぱり。[インターネット(字幕)] 8点(2012-07-23 08:14:35)(良:1票) 《改行有》

250.  おとなのけんか 《ネタバレ》 メチャメチャ笑えた。4人の関係が徐々に険悪化していき、エゴ剥きだしで体裁も何もなく、ハチャメチャになっていくのに、笑いは止まらない。但し、ポランスキーにしては珍しく、ただそれだけのコメディ作品とも思える。。。いや、この監督だからこその、ある意味で現代人の本質を醜悪に捉えた秀逸なブラック・コメディか。 題材的には、三谷幸喜あたりの舞台劇にもなりそうだが、日本ならば、喧嘩両成敗で、最後は全て水に流して、丸く収まるというのが落としどころで、あんな収拾がつかない終わり方にはしないだろう。さらに現実には、日本のこども同士の関係性って、おとなの世界の縮図だから、こどもの方がおとなを差し置いて先に仲直りしているということもないだろう。 おとながこどもみたいに自分や自分の周りだけを優先して自己保身と責任追及(転嫁)に執心する世の中で、こどもはそんなおとなに倣うわけだから、いつまでたっても日本に「いじめ」なんかなくならないよ。 ※日本でも『大人は、かく戦えり』のタイトルで2011年に舞台上演されているようです。大竹しのぶ、段田安則、秋山菜津子、高橋克実出演。。。[DVD(字幕)] 8点(2012-07-16 10:41:52)(良:1票) 《改行有》

251.  再会の時 《ネタバレ》 原題を"The Big Chill"という。ロスマクならば"The Chill"。ハードボイルド的には「大いなるさむけ」とでも言うべきなのだろうけど、その意味は、「死や臨死、或いは死にたい程に悲惨な体験」ということらしい。(answerbag調べ) 日本では団塊の世代。アメリカではBaby Boomerという。戦後生まれで人数が多く、68年の大学闘争を経験した世代である。物語はそれから15年後の1983年、自殺した仲間の葬儀にかつての学友、男女7人が集まったことから始まる。 日本で言えば、柴田翔の『十年の後』の世界だろうか。それとも80年代中期の『男女7人夏物語』だろうか? 学生の頃に反体制を叫んでいたケヴィン・クラインも今では会社の経営者となっている。他のメンバーも雑誌記者、俳優、医者に弁護士と、それぞれが社会の中で確固たる地位を築いているわけだ。その中でウィリアム・ハートだけが定職も持たず、コカイン中毒で、いまだにベトナム体験を引きずっている。(身体的にも戦争によって生殖機能を損傷したからか) 彼らが久しぶりに一同に会して週末を過ごす。友人の死、彼は何故死んだのか? そして友情の行方、今の生活について、彼らの語らいはとてもライトである。最終日の夜にはいくつかのセックスまで行われる。15年越しの告白であり、共助の精神であり、再出発へのふれあいである。 能天気と言えば、そうかもしれない。確かにそれは80年代という時代の軽チャーを象徴しているように思える。しかし、それは"The Big Chill"でもある。1968年の熱狂とその後の挫折との対比として、それはある。彼らの世代が80年代のポップカルチャーを作った。そして僕はその80年代に青春時代を過ごした。だから分かる。この作品があってこそ、『男女7人夏物語』があり、『セント・エルモス・ファイアー』や『愛という名のもとに』が作られたことを。時代がその根底に"The Big Chill"を抱いていたことを。[DVD(字幕)] 8点(2012-07-16 10:40:29)《改行有》

252.  僕たちは世界を変えることができない。 But, we wanna build a school in Cambodia. 《ネタバレ》 アカルイミライな現代の「僕たち」がカンボジアの子供達の為に学校を建てようと奮闘する姿を捉えた半分ドキュメンタリーっぽい青春映画。なかなか面白く観ることができた。満ち足りない大学生活の中で何かをしたい。そうだ!カンボジアに学校を建てよう!その為の資金をパーティによって集めよう!動機は単純で、発想は唐突である。彼らは募金だけではなく、実際にカンボジアという国を知る為に視察(ロケ)にも行く。そこで、カンボジアが長期の内戦によって辿った悲惨な歴史、クメール・ルージュによる70万~300万人と言われる大虐殺の実態、戦争の負の遺産(地雷原やHIVの蔓延など)によって今でも苦しめられている人々の姿を知る。 そこには、ベトナム戦争を背景にアメリカと北ベトナムの対立を軸としたカンボジア内戦の経緯があり、共産主義政党クメール・ルージュの台頭と中国の介入、毛沢東主義者ポル・ポトが行った大虐殺の実態がある。(都市居住者、技術者、知識人が財産をはく奪、農村で強制労働させられ、最後には処刑される。映画『キリング・フィールド』に詳しい) その後、ベトナム軍介入によるポル・ポト政権の崩壊と中越戦争による中国の敗退を経て、今度はソ連を後ろ盾としたベトナム軍による支配が続くことになる。80年代後半から、ベトナムの開放路線による駐留軍の撤退があり、東西冷戦の瓦解と共にようやく内戦が終結する。今、ネットで検索すれば、その辺りのことを調べるのにさほど時間はかからない。 実話をベースにした映画である。実際の主人公たちは、その後も継続して学校の維持やボランティアに関わっているという。素晴らしいことである。映画自体はかなり軽い作りになっているし、最後の『青空』は自己満足的ですごく違和感があったけれど、結局のところ、この物語は、若者達が自己実現とか、自分探しなどという幻想からボランティアを始めつつ、自立や自助が難しい世界の実態を知ることで、共生・共存、公共の意識に目覚めるという至極真っ当なお話であると僕には感じられた。というか、そう信じたい。実際、その動機が主人公たちとカンボジアの人々との間に築かれた人間関係所以であるのは事実だが、そもそも、それが世界というものの基本だと僕は思う。[DVD(邦画)] 8点(2012-07-16 10:39:01)《改行有》

253.  赤い砂漠 モニカ・ヴィッティの存在、彼女が放つ美の重力が世界を歪ませるのだろうか。それは、美と孤独の関係を思い起こさせる。美が必然的に引き寄せる孤独と美に惹きつけられる孤独。孤独と孤独が紡ぐ性愛は人を何処にも連れて行かないが、その圧倒的な力に人は逆らうことができない。重力に身を任せながら、男は回転儀のようにバランスしつつ、美の周りを廻り続けるしかない。そして女も。彼女自身の美しさ故に、その外部の力が彼女の心のバランスを崩していく。 美は永遠でない。世界は移ろい、絶対的な信などない。発電プラントのコンクリートやラックの鉄骨、配管の硬質性、排蒸気の規則性のみが単純で線形的、重厚長大な存在感を残す。登場人物達が醸し出す不安感、非線形性とのコントラストが美の在り方を浮き彫りにし、映像としてフィルム(物質)に焼き付けられる。こうして美は、その在り方と共に永遠となるべきなのだと言わんばかりに。 同時に、男が信じることとして挙げた「人間性」「正義」「進歩」「社会主義」、それらの線形的なイデーが脆く崩れ去っていくのを僕らはこの映画の裏側に観ているのかもしれない。[DVD(字幕)] 8点(2012-07-08 22:35:30)《改行有》

254.  私が、生きる肌 《ネタバレ》 途中で「まさか...それだけは勘弁して...」と思ったが、その通りになってしまった。。。そうであれば妥当なラストかなと思う。(未見の人にはなんのこっちゃって感じですが) 愛する人を不慮の事故で失った時、もう一度、彼、彼女に会いたいと思う。それって、歌(♪会いたい)にもあったけど、人間にとっては至極自然な欲望である。但し、死んだ彼、彼女を再生したいとなると、これは禁断の欲望。自分の子供だったら、鉄腕アトムの悲劇(天馬博士に捨てられる)であり、スティーブン・キングならホラー小説になる。本作も同じ。アントニオ・バンデラス演じる医師は、自らの特殊技能により、死んだ妻の再生を目論む。それが犯罪であり、許されない倫理の超越だとしても、欲望を抑えることができない。それを愛と呼ぶなら、彼は、その為に悪魔と手を組むこともできる。 他人である「誰か」を整形と皮膚の合成という再生医療的処置により妻に仕立てあげる。確かにそれは「狂気」であり、「倒錯の愛」ではあるけど、発想としては「究極」でも「斬新」でもなく、手塚治虫の漫画に出てきてもおかしくない、ありふれたプロットである。 ペドロ・アルモドバルの世界において、禁断の二人の関係は「倒錯の美」となり、その変態的な世界観からすれば、そういう愛も有り得るのか、と錯覚するのだけど、実際は、そうではなく、無理強いされた側に最初から倒錯の愛もクソもなかったのである。当たり前か。でも、その姿で言われたら、やっぱり信用してしまうんだな。それは致命的に避け難い成行きだったのかも。 ラストで『私が、生きる肌』(The Skin I Live in)というタイトルの意味が分かる。外見の完璧さ、倒錯の愛、その有り得なさに期待した僕らこそ、完全にうっちゃりを食らわせられる。そして、少しホッとしたりもする。 そもそもアルモドバルの描く愛って常に一方的な自己愛の反映で、だからこそ本質的なところで僕らに響いてくるのだ。[映画館(字幕)] 8点(2012-06-16 23:47:45)(良:2票) 《改行有》

255.  しあわせの隠れ場所 《ネタバレ》 邦題以外はとても好感のもてる作品。アメリカ南部、メンフィスの白人富裕層、プロテスタント、共和党員、ライフル協会会員。絵に描いたような保守系白人の金持ち一家に、スポーツは優秀だが、身寄りのないスラム地区の1人の黒人少年が関わる。家族の一員となり、その支えによって、生活の目的を得た黒人少年はアメフトで成功し、多くの優秀な大学からスカウトを受けるまでになる。。。この作品は、実話の映画化であり、それが本作の大きなポイントだと僕は思う。 実話の映画化故に、この物語は、格差の問題をあくまで個人の善意にしか還元せず、アメリカ(特に南部)の社会構造に到達させることはない。実際のところ、この家族のような善意と勇気をもった人々はアメリカにも多くいて、また、貧しくても優秀な黒人少年も多くいるだろう。ただ、その接点がないのである。本作は偶然に偶然が重なって実ったひとつの美談でしかない。しかし、この事実/映画が多くの人々の心にフォローアーとしての小さな意識を植え付ける可能性はある。それが社会構造を変える可能性だってある。(アメリカ的な個人主義に留まる可能性ももちろんある) アメリカ南部の格差社会の現実は、僕らが思う以上に今も厳しい。格差や差別の問題であれば、ある意味で日本も同じ。僕らだって当事者になり、それを引き受ける立場になるかもしれない。その場合の正義と善意の行方に想いを馳せる、そういう可能性の映画だと考えることができるのではないか。[DVD(吹替)] 8点(2012-05-16 00:26:52)(良:3票) 《改行有》

256.  テルマエ・ロマエ 《ネタバレ》 面白かった。原作未見で、予備知識なく映画を観られたのが良かったのかもしれない。とにかく、序盤のギャグがことごとくハマった。終盤のシリアスな展開も良かったな。僕って結構単純なのね。 話自体は荒唐無稽だし、上戸彩がラテン語を理解したり、温泉旅館のおやじ達がタイムスリップして主人公たちに合流したり、日本に皆一緒に戻るところなど、ご都合主義も甚だしいけど、それはそれ。そこがまた笑えるところだったりして。。 単なるギャグ映画としても面白かったけど、古代ローマとテルマエの歴史を絡めた物語としてもよく出来ていたと思う。この映画、イタリアの映画祭で大爆笑の大絶賛だったらしいけど、イタリア人はこの映画の日本人たちをどう見たのかな? 日本のおやじ達が率先して湯治場建設に協力する姿に古代ローマ人の阿部寛が感心して言う。「それにしても何故彼らは手伝っているのだ?自分の名誉にもならないことを。彼らは常に行動を共にし、個人と言うものを犠牲にする。彼らには自分の名誉などよりも優先すべきことがあるというのか?」 これって日本人の集団主義と奴隷根性を言い当てているよね。これが美徳として好意的に伝われば、世界に紛争がなくなり平和が訪れるのだけど。。。 「日本人は髪の毛が黒いという以外、殆どその容姿に共通した印象を持たない。肌の色、髪の毛の質、体型、一重/二重まぶたなどの多様性。日本人は単一民族どころか、かなり幅広い人種の集合体である」というようなことを最近読んだけど、この映画の阿部寛を見ていると「なるほど」と納得してしまう。彼は古代ローマ人を演じられるように容姿がかなり日本人離れしていると言われるけど、だからこそ、彼は日本人なのだ。 ※原作漫画も読了。こっちも面白かったけど、漫画で表現されている様々なギャグが映画で的確に(いや、それ以上に面白く)再現されていることに改めて感心した。[映画館(邦画)] 8点(2012-05-13 10:55:52)(良:1票) 《改行有》

257.  男はつらいよ 寅次郎紅の花 《ネタバレ》 男はつらいよのシリーズ最終作である。最後を飾るマドンナはリリーこと浅丘ルリ子。 元々49作で満男と泉が結婚するストーリーが予定されていたというから、いみじくも最後となってしまった作品と言った方がいいのだろう。リリーと寅さんはいつもと違って、とらや(くるまや)でのケンカ別れもなく、2人連れ立って奄美大島のリリーの家に向かうのだが、結局のところ最後に別れてしまうので、シリーズとしては未完なのだ。 渥美清本人の病状がかなり悪化していたこともあり、寅さんの体の衰えぶりが目に付いて仕方がなかった。呆けたような表情、かろうじて演技しているといった体。仕方がないとは言え、その姿が痛々しく、観ていて辛いものがあった。 ゴクミシリーズ、満男と泉の久々の共演。満男の行動は少し過激ですごく無様だったけど、最後にお互いの気持ちが通じ合うことができてよかった。二人が清々しく、爽やかでよかった。 ということで、『男はつらいよ』もこの辺でお開きということに。。。[DVD(邦画)] 8点(2012-04-30 23:44:16)《改行有》

258.  男はつらいよ 寅次郎の青春 《ネタバレ》 ゴクミシリーズの第4作目。 渥美清の病状が悪化したこともあり(肝臓がんの発覚)、寅さんの表情が硬く、声が掠れ、動きも鈍い。その分、満男が活躍し、ゴクミとの新幹線の別れのシーンなど、なかなか魅せるのだけど、やっぱり寅さんに元気がないのが気にかかってしょうがなかった。初期作と続けて観た為にその衰えぶりが否応なく目についてしまう。寅さんのマドンナ役、風吹ジュンとの恋愛模様にリアリティがなかったのも致し方ない。 満男のシーンに流れる徳永英明の音楽が妙に印象的だったな。[DVD(邦画)] 8点(2012-04-30 23:44:08)《改行有》

259.  男はつらいよ 寅次郎の告白 《ネタバレ》 ゴクミシリーズの第3作目。 今回の舞台は鳥取倉吉。ゴクミシリーズの満男の奮闘ぶりはなかなか面白い。以前はしっかりものという印象の満男であったが、ゴクミシリーズ以後はダメダメぶりがすっかり定着。さくらや博をやきもきさせて、ちゃんと寅さんの代役を務めております。恋をする人間は何故無様なのか? 恋愛はみっともなく、時に悲しい。そのことに気付き、寅さんの生き様を理解する満男。彼の最後の独白が胸を衝きます。 時代はバブルも後半(というか実際はもう弾けているのだが)。ついにとらや(くるまや)にもバブルの余波が。。人手不足を嘆くタコ社長や寅さんの姿に時代を感じるなぁ。あと、寅さんのマドンナ役には吉田日出子。甘い声が魅力的でした。[DVD(邦画)] 8点(2012-04-30 23:30:53)《改行有》

260.  男はつらいよ 寅次郎の休日 《ネタバレ》 ゴクミシリーズの第2作目。 前作同様に寅さんと主役を分け合うのは満男と泉である。40作前後の寅さんの低迷ぶりを思えば、上り調子の満男を中心とした展開もシリーズとしてアリなのかなと思う。今回のテーマは泉の父親探し。大分の日田にいる父親を探す旅に出る泉。それを追う満男。このパターンが以後のゴクミシリーズの定番となる。 そして、最後に満男の独白。幸せとは何か? 妻子を捨て新しい人生を生きる泉の父親は幸せなのか? 皆から能天気と思われている寅さんは本当に幸せなのか? そんな寅さんを心配し続けるさくらは? 成長しつつ大人になりきれない満男がそんな大人たちの姿を理解しようと思いあぐねる様子が心痛い。 ちなみに今回の寅さんのマドンナ役は夏木マリ、、、なのかな?[DVD(邦画)] 8点(2012-04-30 23:30:50)《改行有》

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