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301. 勇気ある追跡 《ネタバレ》 J・ウェインの西部劇ってんで漠然と想像してたよりもっと後の作品で、おじいさんになっていた。リメイクを見てたんだから分かりそうなものだったのに。映画全体がもう来たる70年代の気分を醸している。小屋で怪我してた小悪党はD・ホッパーで、『イージー・ライダー』と本作と完成はどちらが先だったんだろう。悪党はR・デュヴァルだし、マティやった娘は次に『いちご白書』の活動家の女学生になる(年長者に口答えする本作のイメージからつながる)。なんせアポロ月着陸の年、ベトナム反戦と学園紛争の年で、ウェインは過去の人になりつつあった。あるいはなっていた。そういう時代を背景に思って見ると、この映画の挽歌的味わいが深まる。ロケが荒野ではなく、冬へ向かう大自然で美しい。映画そのものはリメイクを先に見てしまったせいもあるか、スカスカ感があり十分に楽しめなかったが、最後にダゲット弁護士が姿を見せるあたり、アメリカ映画シナリオ術の手堅さは残っていた。[CS・衛星(字幕)] 5点(2013-05-19 09:28:06) 302. ゴッホ 群像ものではなく兄弟もの。困った兄さんをとことん尊敬しぬく弟、で彼も兄と同じようにだんだん閉じていき、妻も追い出し、兄の絵だらけの部屋に閉じこもる。徹底した社会への不信。でもこの病む兄弟に対して弟の妻はやたらに食べて健康。彼女がいたからヴィンセントの絵は残ったんだなあ。弟テオは自分の「家庭」よりも、兄との「家族」に拘束されてしまっていたんだ。芸術の狂気の物語でありつつ、現代の投資としての芸術とどこかで対比させていた。カラスがワッと飛び立つとき、麦畑に隠れて合図を待っていたスタッフたちのことを想像してしまってはいけない。[映画館(字幕)] 6点(2013-05-18 10:26:07) 303. 道成寺(1976) これより前に『鬼』という作品があり、こちらの習作の感じ。繁みの中を歩いていくとき、太棹三味線に合わせたり、人形浄瑠璃のノリ。画面の手前に金粉散らしたりしてるのはガラス越しに撮ってるのか。同じように物狂いに至る女の話だが、まだ「日本的な美」に寄りかかったものを感じた。しかしこちら『道成寺』はそういう日本的なものを使いながらも、それを越えられたという気がする。たしかに絵巻物風の構図はあるが、清姫が日高川に飛び込んで波に炎がチラつき出すあたりのリズムは人形浄瑠璃ではなく「映画」だ。ベッタリとした平面で蛇が鐘へ向かう図も面白い。情熱を抑えに抑えている気配が生きてくる。おそらく監督ピークの作品。[映画館(邦画)] 8点(2013-05-17 09:42:42) 304. ロビン・フッド(1991・ケビン・レイノルズ監督作品) 車も銃も出ない活劇の基本を楽しんだ。人物造形がちゃんとしてることね。複雑な内面の個性は持たせないが、特色は持たせる。悪役(『ダイハード』のA・リックマン)をちょいと三枚目にしたのもいい。ナイフをカカカカってやるところなんか。混乱の中でまず結婚式を挙げようとする律儀さとか。C・スレイターの翳りもポイント。これが実は…ってあたりも嬉しい。まとまって吊るされてた人々を台を倒して助けちゃう、とか。活劇にいちいち工夫があって、ただ火薬を多くすればいい、ではないの。盗賊の息子が、父と命の恩人との戦いを楽しげに眺めてるような気のいい連中、ってのも大事だね。リチャード王の特別出演S・コネリーは、昔ロビンをやったことがあるってだけじゃなく、K・コスナー(『アンタッチャブル』)、C・スレイター(『薔薇の名前』)二人の師をやったことがある、ってのも響いていそうだ。[映画館(字幕)] 8点(2013-05-16 09:54:19) 305. チャップリンの殺人狂時代 戦前『独裁者』を撮ったチャップリンとしては、戦後反対方向から眺める必要を感じたのだろう。あの時代の狂気を生み出した責任を独裁者一人に負わせてはいけない、それの協力者であった我々社会の“妻や子を養うための「ビジネス」”を分析しよう、という姿勢。この態度は間違いなく正しい。撮影当時始まっていた冷戦下では、資本主義への疑いは当然レッドパージに引っかかるものとなった。本作で一番とんがった部分は、かつて貧困から救った娘が軍需会社で立ち直っている、という皮肉だったと思うんだけど、そこを描くチャップリンの切れ味が弱いんだ。裁判を彼女が涙ながらに傍聴しているシーンが入り、センチメンタリズムに流されてしまう(彼の映画で繰り返される「美女に感謝される」というモチーフは、切り捨てられないほど心の根になっていたらしい)。そもそも最後の演説から逆算して作られたような映画で、いつもの切れ味がなく、会話体のシナリオがうまく書けない欠点もハッキリした。結婚式場での逃げ隠れの出入りなど、サイレント的な部分でのみイキイキする。作品評価としては悪くなるが、テーマに対する作家の誠実さも考慮するなら、点数はもっと上げなければならない。[CS・衛星(字幕)] 5点(2013-05-15 09:43:58) 306. 路 三重の苛烈さがある。風土が苛烈。体制が苛烈。そして血族の掟が苛烈。この血族の掟は風土の苛烈さから来ているんで、よそ者が簡単に「封建的だ」と非難することは出来なく、それだけに内部の人間が告発する声は、いっそう真実が籠もる。映画の焦点もこの掟の苛烈さにあったと思われ、それを乗り越えようという意思がもう祈りになっていて、この息苦しさのなかに清澄さも感じた。義兄を見殺しにした男のエピソード、列車のシーンが素晴らしい。血族の掟の一方に夫婦のやむにやまれぬ愛があり、掟渦巻く世界で小さな個室のみが自由になる。単刀直入にほとんど無機的に訪れる決着、それがかえって夫婦の愛を昇華していた。ゲリラの死体検分のときほんとに蝿がたかってたのは、なんか臭うものを使ったのか。あと焼けた針金での虫歯の治療も、これまた苛烈。[映画館(字幕)] 8点(2013-05-14 09:49:51) 307. 詩人の生涯 人形ではなく切り絵アニメ。沈んだタッチが美しい。その分ラストの赤いジャケツが鮮やかになる。母の血の色。唐突に巻き込まれていく母。脇で疲れ果てて眠っている若者。「その糸は持っていかれては困るような気がするんだけどな」。そして凍りついていく描写の数々が素晴らしい。赤いジャケツが若者の背に負ぶさっていくところ。老婆や糸買いの女の顔がいい。何度もチェコのアニメに賛辞を寄せるなどアニメーション好きだった安部公房は、自作の映画化のなかでも本作を気に入っていたらしい(やがて川本がチェコでアニメを撮ることになるのだが)。労働者が液体人間になっていく「洪水」などと同じく、プロレタリアSFとでも呼べる初期の傑作短編が原作で、独特の終末が進行していくイマジネーションの奔放さが圧倒的。[映画館(邦画)] 8点(2013-05-13 12:38:15) 308. 櫻の園(1990) 「最後の夏」もの、ってのはあるけど、「最後の春」は珍しい。夏の終わりはもうそれだけで「抒情」なんだけど、春の終わりなんてすぐ次に生命力あふれる夏が来るんで、ほんとなら味わいないんだよね。でもつまりそこなんだな、まどろみの季節の終わり、あわあわとした気分がここで終わるということ、の気分。卒業の櫻じゃなくて、最後の一年が始まるところの櫻なんで、このゆとりが「最後の夏」ものにはない透明感ある味になった。部長中島ひろ子が良かった。こういう子、確実にいるんだけど、今までの青春ドラマではライトが当てられることがなかった。しっかり者であんまり目立たなくて、でも突然パーマかけてきちゃう。大袈裟に言えば「生きよう」と決意した子なんです。部長が実に新鮮だった。映画の最後は誰もいない部室に、部長が開けた窓から櫻の花びらが…。[映画館(邦画)] 8点(2013-05-12 09:25:03) 309. ナック ポップだなあ。怒れる若者たちの時代、大人たちの視線を折り込みつつ、老大国イギリスの自意識でもあろうけれど、若者たちを街に走らせる。ベッドを走らせるあたり、イキイキしてる。いつもどこか開いてしまうコインロッカーのドア、コーヒー販売機のボタンで閉まる。あと路地の出入り、とかギャグもいろいろ。この監督アメリカ生まれなのね(たしかJ・アイヴォリーもそう)。根っからの英国人でないことも、この視点に関係しているか。伝統を背負う責任がない。若者たちの子どもっぽさを肯定する空気がある(いや、それこそイギリス的なのかも)。ジョン・バリーのジャズっぽい音楽が(つまり大人っぽいってこと)、若者たちとの間に距離を作ってる。彼らの明るさに対する翳り、この世は無常ですぞ、といった雰囲気。[映画館(字幕)] 6点(2013-05-11 09:15:32) 310. アマデウス 舞台だと日本人が日本語であちらの芝居をやってても気にならないのに、映画だと同じ西洋人がやってるのにヨーロッパ言語であるべきところが英語だと気になってしまうことがある(気にならないときもあるんだ)。フィルムの記録性に対する信頼がどこかに残ってるのかなあ。本作のモーツァルトやコンスタンツェのしぐさや口跡なんか、意図してアメリカ風にしてたんじゃないか(『ヘアー』のヒッピー?)。現代アメリカとの対比みたいな狙い。亡命者の視線がどうしても出てしまい、それが作品をややしぼめていた気がする。「神の悪意」というテーマだけで面白いんだから。サリエリを少年時代から回顧したのは良く、モーツァルトの楽譜を見たときのショックが生きた。面白かったところ。医師がアイネクライネをサリエリの作曲かと思ってホッとして口ずさむとこ。空中ブランコや馬が壁破って出てくる「ドン・ジョバンニ」の舞台。俗と聖の関係を一番単純にやってたのは、義母ががみがみ怒鳴ってるのが「魔笛」の夜の女王のアリアになっていくところ。精神病院好きの監督だ。今回は神による拘禁からの自由ということか。[映画館(字幕)] 7点(2013-05-10 09:57:46) 311. マーニー 《ネタバレ》 ヒッチコックが好んだ「心の闇」もののサスペンスはこれが最後となった。掉尾を飾るとはいかなかったが、味わいはある。いいとこが一つでもあれば可と思っており、これは三つはある。①無人となった会社で金を盗むとこ。画面を壁で分割し、左側に掃除婦が入ってくる緊張。ずっと無音のところ、ポケットに忍ばせた靴が落下。入れ替わりに入ってくる男とマーニーがぎりぎりですれ違う。彼の掃除婦への呼びかけの声の大きさで、掃除婦耳が遠かったと分かる。そんなシーン。②旦那の家のパーティに次々に客が訪れ、カメラがゆっくりゆっくりドアに近づくと、最初の事件の会社の経営者が立つ。これはもうヒッチお得意の段取りで、昔はチック症のドラマーに迫ったりしてた。いいんだ、この「じわじわ接近」。③終盤の怒鳴り声の応酬で盛り上げた頂点で、マーニーが突然子どもの声になるとこ。彼女のトラウマを一瞬のうちに提示し、女の子に母の愛を奪われたと嫉妬していたシーンなども思い出させ、ドキドキしつつ哀切。[CS・衛星(字幕)] 6点(2013-05-09 09:22:01) 312. ダンス・ウィズ・ウルブズ 白人にとっては輝かしいフロンティアの時代、インディアンにとっては楽園の終わりの恐怖の時代、その向こう側からフロンティアを見てしまった白人の物語。システムから逃げるように果てに行ってしまう。馬と狼のみを友として(ここらへん突っ込めばカフカ的物語になったかもしれない)。でこの馬と狼を奪うのが開拓者側の人間なんだ。ま最後は家族を守るために、ってのが出てくる。これを膨らますと民族的ナショナリズムになってしまう微妙なところ。巨大な社会が小さな共同体を潰していく歴史への悲哀、っていう点で納得しました。ツー・ソックスに象徴されるもの、アメリカが殺してしまったもの。インディアンが白人を殺すシーンに溜飲が下がるアメリカ映画、という特異な作品になった。[映画館(字幕)] 6点(2013-05-08 10:05:59) 313. 無言歌 《ネタバレ》 仲間が吐いたゲロを摘まんで食べるシーンで、ヤバイと思った。ドキュメンタリー出身の監督なら絶対に撮らないクソリアリズム映画なのか、と心配になった。でもそこらへんは、まだ劇映画に慣れてなくて試行錯誤していたときに撮った部分だったのかもしれない。次第に立ち直り、ドンさんの妻が来てからは、ドキュメンタリーの手法が生きた劇映画になった。いつも隙間から外光が漏れている室内(というより坑内)、そういう光は映画ではだいたい「外への希望」を象徴させるものだった。だけど、この坑内に入ってくる光はそうではない。夫の死を知らされて悩乱した妻が外の光に導かれるように出て行く。しかし外に広がっているのは風吹きすさぶ荒野なのだ。希望さえ吹き飛ばされてしまうような黄砂の世界。このだだっ広い閉塞感こそ、中国反右派闘争時代の犠牲者が味わった絶望の映像化だろう。「これからは百家争鳴だ」と言われて発言したところ反動分子と決められ、「思想改良」のために荒野に送られた人々の絶望。もうこれからは絶対喋るまいと決めた人々の、無言の歌が吹き荒れている。ここに埋められたくない、という最期の願いも無視され、柔らかい尻の肉を食われたあと荒野の塚になっている人々。圧迫してくる広さの力が圧倒的で、ドキュメンタリーでつちかわれた腕が十分に発揮されていた。王兵ワンビン監督。[DVD(字幕)] 7点(2013-05-07 09:59:02) 314. スウィッチ/素敵な彼女? プレイボーイの悪夢、ってあるんでしょうなあ。いつか贖罪のときが来るのではないか、いう恐れ。そういう妄想によってチャラにしてもらおう、てな下心もちょっとあったりして。冒頭、青空に雲、スローテンポで「青春の光と影」が流れ出すと、ある世代は確実に泣ける。男声と女声が対位法的に絡んで。主人公が行方不明と知らされると秘書が喜びのあまり泣き出しちゃうなんて、ほんと被虐的な妄想。プレイボーイが怨みによって女たちに殺されるんだけど、なぜか女としてこの世に送り返されちゃうの。レディーってどうしてもハイヒールはかないといけないのかな、とか。やっぱりそういう結論に落ち着いちゃうのか、という物足りなさはありますな。監督・音楽は『ティファニーで朝食を』のコンビ。[映画館(字幕)] 6点(2013-05-06 09:39:03) 315. 客途秋恨 《ネタバレ》 香港中国返還のころって、いい映画が多かった。故郷というものに敏感になってたんだろう。家族が離れ離れになったり、神経が研がれていた。まして監督は母が日本人で、さらに複雑になる。ふしだらでわがままで奔放な母と娘の物語、っていうジャンルがあるな。たとえば日本なら『香華』とか。やや黄色みを帯びたマカオ時代の回想が美しい。おじいちゃんのおなかでの昼寝。ゆっくりと後退していくカメラ。まるで子どもを起こしてしまわないように。そして南由布への旅。街全体が記憶の中に沈んでいるような美しさ。イギリスの大学院を卒業して、を会う人ごとに繰り返す母。鬱陶しい母であるが、母の別の面も次第に見えてくる。山口百恵のポスターのあるビリヤードでの和解。そしてハンコを作るのが泣ける。小さな楕円形の故郷、墓のようでもある。で香港に残り、テレビ局に勤めることになり、これで終わるかと思っていると、とっておきのラストシーンが待っていた。病気のおじいちゃんのとこへ行くの。青っぽい色調。詰めた息をゆっくり吐き出すようなフェイドアウトが繰り返される。もうおじいちゃんのおなかの上には乗れない。失われた良きものが凝縮している。しかしそれは失われねばならないものでもあるという認識があって、脚本が孝候賢チームの呉念真なんだ。ラストは橋、どこかとどこかをつないでいる一本の橋。マカオ、香港、台湾、日本と東アジア全体をつなぐように。[映画館(字幕)] 8点(2013-05-05 09:38:42) 316. ニーチェの馬 《ネタバレ》 ラシドミドシ、ラシドミドシといううねりに乗ってド~~シ~~ラ~~と下降するモチーフが否応なく陰気。息を切らせる馬の映像とあいまって、もう映画のトーンが定まる冒頭。前作『倫敦から来た男』では、話の内容とスタイルが合ってない、という不満を持ったが、本作は合い過ぎるほど合った。中風の後遺症か、右手の不自由な父とかしずく娘、老いた馬、荒天の外を窓から眺めるのが日課の日々。やがて馬は病み、井戸は涸れ、ここを離れようとしてもなぜか戻ってしまい(単に行くあてがないことを映像で表現したのかもしれないが、そう思いたい)、どうもここらあたりから何かが起こり始めている。ランプの火が消え、灯そうとしても着かない。娘は「何が起きてるの」と呟く。外の風は止むのだが、娘は馬が食べるのを止めたようにじゃが芋を食べず、「食わねばならん」と言っていた父もじゃが芋を食べる手を止め、静かにフェイドアウト。何かが起きている。人生を放擲してしまうまでの無力感なのか、もっと宗教的な終末観なのか。この終盤の「何かが片付きつつある感じ」はホラーに近い。この家族の絶望だったのかもしれないが、もっと大きなレベルでの推移だったと思いたい。日常を包む大きな世界を垣間見た気にさせる映画だった。[DVD(字幕)] 7点(2013-05-04 09:15:56) 317. ぼくらの七日間戦争2 宮沢りえのような目玉がないのがつらいところ。また本作は戯画化が紋切り型になっていて、大人たちがトンマすぎないか。敵側にも、一人ギラリとした参謀が必要だろう。内藤剛志がそうだったのかなあ。眼鏡を掛けたパソコン少年ってのもウンザリ。渋谷琴乃嬢のタラタラとした喋り方はちょっといい。空き缶を蹴り合いながら気持ちがまとまっていく。「君たち自然保護派なら空き缶が落ちてたってことがそもそもいかんじゃないか」。沖縄の街に戦闘機の爆音がちゃんと入ってたのは正しく、嬉々とはしゃぎながら「失敗」へ向けて旅立っていくというところが、ミソと言えばミソか。[映画館(邦画)] 5点(2013-05-03 10:55:31) 318. ゾンビ大陸 アフリカン ゾンビ映画最初のころは、なぜ死者が蘇るのかいちいち説明してたよな。化学物質による汚染だったり、特殊な宇宙線の照射だったり、「科学的」な説明が付いていた。そのうち面倒になったのか、見るほうも「そいうのはいいから早くやれ」という無言の圧力を強めたのか、最近は自然現象のように死者が蘇ってくる。ゾンビ映画という世界中で作られるジャンルが一つのシリーズもののように、後続は細部を説明しなくなった。これって映画史的に見て珍しいことなんじゃないか。自然現象となったゾンビ発生は、とうとう人類の故郷アフリカにまで広がった。主人公が白人男性なので、なんか植民地時代の差別観が根底に来るかと思ったが(海岸で襲われるあたりは「人食い土人の島への漂流もの」をほうふつ)別にそうでもなく、今はアフリカなら内戦多発地帯ということで、死体がごろごろしてるのが自然なんだ。昔風のゆっくり歩くゾンビが嬉しく、主人公の車がエンコしたりすると、近所の村人たちが暑さしのぎに散策してるような感じで、ジワジワとやってくるのが風情。グチャグチャドロドロの描写はあるが、全体爽やかなサバンナの風に吹かれていて、腐臭が漂う感じがない。湿度が低い。腐肉をあさる猛獣や猛禽類の存在を思うと、早晩ここのゾンビは絶滅するのではないかと心配だ。[DVD(字幕)] 5点(2013-05-02 09:45:12)(笑:1票) (良:1票) 319. おもひでぽろぽろ 《ネタバレ》 都会のOLが有機農業青年と出会う話なんだけど、その悪意のなさが、けっこう心地よかった。こういう話だと定番である「都会にウンザリしている描写」もない。子どものころの憧れのままで、田舎を思っている。ちょっと単純すぎるかと思いながら、その単純さが気持ちいいのも確かだった。おはなはんのテーマや、ひょっこりひょうたん島や、わが世代をストレートに狙っている(ただ電信柱のトクマ文庫はスポンサーへの配慮優先で時代違いだろう)。学級会も懐かしかった。廊下を走った人を委員は走っていって掴まえていいのか、というようなことを議論するの。分数の割り算、3分の2のリンゴを4分の1で割るとはどういうことか、とか学校のあれこれ。給食の時間に流れていたハンガリアン舞曲は、のちのハンガリー民謡の伏線か。OL篇の丁寧さは、ある限界にまで来てて、ここまで来たら実写と違わないじゃないか、と思ったが、アニメだからって非現実的な世界でなければならないことはなく、雨あがりのしずくや朝日の差すとこなんか、いいんだ。確信犯的な狙いか。都はるみが「ローズ」歌い出したときは、何が始まったんだ、と思っていると、昔の友だちが湧き出してきて、まあ、泣けますわな。[映画館(邦画)] 7点(2013-05-01 09:45:44)(良:1票) 320. ライトスタッフ 科学の先端での「職人気質」を賞揚する。人間臭さの連帯感みたいなこと。最後のドンチャン騒ぎのバーベキューパーティで最も優れたパイロットの名を言いかけて、あとはマスコミ向けのジョークに変えてしまう。副大統領に会わないグレン夫人をめぐるゴタゴタで一致団結する。この「誇り高い職人たち」を、夫人たち女の理論がさらに対象化して笑えればもっと良かったんだけど。室内がやたら暗いのは、青空の勇気の世界と対照させているのか。瑣末なエピソードの堆積こそが歴史である、という考え方。出来事を全体で捉えようとする。宇宙ものはSFと決まっていたのに、本作あたりから「歴史」になった。へー、これアカデミー作曲賞とってんのか。チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲もどきで、宇宙に出ると「惑星」の火星や木星が鳴って、かなり安易と思ったが。[映画館(字幕)] 7点(2013-04-30 09:27:28)
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