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321.  夫たち、妻たち 今回の趣向は、ドキュメント風の手持ちカメラで押し通すこと。ドキュメントと言うよりもニュースタッチか。二組の夫婦から始まって、少しずつほかの人を巻き込んで広がっていくおかしみ。人間関係は、より安定を求めて動いていそうでいて、実はより不安定なほうへ流れている。ミア・ファーロウのタイプを元の旦那が「受動的攻撃性」と言ったのがおかしかった。受身のポーズでけっきょく自分の思い通りにことを運んでいく、って。人間関係への期待と幻滅。灰色の帽子をかぶって妥協してしまう。笑いとしては女学生レインが身の上を語るあたりか。役者ではジュディ・デイヴィスがピタリ。険があって魅力的ってのは難しいのではないか。ヴァンプとか貴婦人なら分かるけど、普通の人間らしい魅力に仕立てている。[映画館(字幕)] 6点(2011-09-30 13:26:02)

322.  プロヴァンス物語/マルセルの夏 モノローグの多用でサイレント的な味を出す部分あり。父への尊敬が人としての愛着へ変わっていくある夏の休暇でありました。オジサンの前で情けない父さんが、しかし大きな鳥を撃ち落とす。父さんの獲物を両手で掲げて崖上に立つ少年の晴れ晴れとしたロングカット。『生れてはみたけれど』の苦みとはまたちょっと違う。大人は嘘をつくってことを受け入れて(あるいは妥協して)成長していく、ってあたりは似通っているか。仙人になって暮らせるほど自然は甘くない。猛禽類のイメージ。鷲やミミズク。獲物を下げて神父とも和解する父を、受け入れていく。父親との関係の中での成長史。音楽ウラジミール・コスマ、いかにも「映画音楽」って感じだが、堂々としていて合っている。[映画館(字幕)] 7点(2011-09-26 09:51:59)

323.  イン・ザ・スープ この監督は海と父との取り合わせが好きらしい。ジョー(シーモア・カッセル)は友だちと言うよりも父的になっている。ニコニコ笑いながら悪いことに誘っていくジョーがなかなかいい。サンタのかっこして車を盗んだり。ブーシェミがキートン的な困惑に落ちいっていくあたり『ミステリー・トレイン』の彼を思い出させる。車の席の構図なんかも。おっかない男との対話、心の声に対してエッと言われたり。こういう被害妄想的ユーモアってこのころの流行のようでもあり、サイレント時代から連綿と続いていたようでもある。ジャームッシュの匂いが強い。本人も出てるし。前作『父の恋人』では男のオカマ役だったJ・ビールス(「こいつ女じゃねえ、男だぜ」って言われる役。ついでに言っとくとこのひどい役を設定した監督とビールスは結婚したが、やがて別れた)が今回は女性役。作品として面白い気分はあるんだけど、ちょっと物足りない。この監督はいっそセンチメンタリズムに徹したほうが、ジャームッシュとの違いを出せたか。[映画館(字幕)] 6点(2011-09-25 10:12:32)

324.  秋菊の物語 今まで家に閉じこもっていた田舎の普通の主婦が、訴訟を起こしたことで世界の手応えを知って生き生きする話。村落共同体のなかでナアナアで済ませていたことから、自己の確立を打ち立てる、という前向きなストーリー、とまずとれる。でも別に、互いの顔を識別し合っていられた村の中に、国家の法の論理が侵入してきて共同体内の「いい感じ」が次第に壊れていく物語、ともとれる。裁判中毒になった主婦によって村が破壊されていく。おそらくこの映画の面白さは、その二面が描かれていることにあるわけで、近代が入り込んできた村社会の問題は、現代にまで続いているんだろう(高速鉄道の事故でも、もう中国人はナアナアでは黙っていなくなった)。村の共同体の拘束からの自由と、その外側に広がって待ち構えているもっと大きなものの気配。最初は「一言謝ってほしい」だったものが、だんだんと拡大していく展開に、どことなく民話の味わいがある。巡査が自分で買った土産を持って収めようとするのがおかしい。[映画館(字幕)] 7点(2011-09-24 10:01:26)

325.  フォートレス 《ネタバレ》 夢の中にまで立ち入られちゃうってのが、ちと怖い。Don’t dream、ってね。SFもサイコスリラーの流行りと連動していて、なにか心理的なものへの関心が高まっていた時期だったんでしょうなあ。でもこの所長、ぬかりすぎてますよ。逃げる場所メキシコが存在してるってのも甘いなあ。その他のものをみな死なせても、自分の子どもが無事出産されれば、それで「よかったよかった」になるの。あちらの映画に出てくる有色人種はだいたい「いい人だけどけっきょく白色人種の最終的勝利のための犠牲になって邪魔にならず退場していく」という役割りが多い。[映画館(字幕)] 5点(2011-09-22 10:51:49)

326.  サラフィナ! 映画の感動が類型によって阻害されている恒例。類型から突出しかかるものがあると、ことごとく棘を抜いて、均衡をとることにばかり気を使っている。たとえば、あの白人の下で威張ってる警官なんか突っ込めば面白くなれそうな要素なんだけど(アパルトヘイト下で生活することの苦しい選択)、哀れな目をして殺され、こちらの学生側の過激な奴が兵に撃たれるのと釣り合わされる。拷問の報告から銃を捨てるサラフィナとの間にこそ最も大きなドラマがあるはずなのだが、もひとつ説得力がないのではないか。何か作者が思ってもいなかったものがググッと突出し、作者自身が途方に暮れてるようなものが欲しいんだけど、そういうものはことごとく芽のうちに摘み取って、こういう「感動作」として未整理なところが一つも残らないようにきれいに掃除をしてしまっている。作者が自分で問題を見つけようとしてないんだな。そういった傷のない類型化がテーマを鈍くさせている。ミュージカルとしての演出も下手で、カットを割りすぎてダンスの面白味は皆無(これは全盛期以降のミュージカルすべてに言えることだけど)。歌が始まる瞬間のトキメキもなかった。ネルソン・マンデラが神様になってることはよく分かった。アパルトヘイト反対の趣旨にのみ同意の点数。[映画館(字幕)] 5点(2011-09-21 10:08:08)

327.  アサシン(1993) 『ニキータ』のシナリオ上の不満が、アメリカ映画の合理主義によっていくらか解消されるかと思っていたが、ほとんどそのままであった。恋人を隣室において、プロポーズされつつの暗殺シーンは、やはり滑稽。歌舞伎の、世話ものふうの中に「実は」で時代ものが見えてくる、みたいな感じで観賞すればいいのかな。組織ってこんなに甘くないと思うよ。主人公の設定は面白いものを生み出せそうなのに、けっきょく「組織」を描けてないので、個人のほうもヘンテコリンになってしまう。こんな個人を組織が泳がせるとは思えない。女のほうだって、レストランのあと、本部へノコノコ帰ってくるのがヘン。それでも役者はおおむね良く、ガブリエル・バーンはアホな役なのに、いい味。掃除人のハーベイ・カイテルも不気味に殺伐としている。アン・バンクロフトは、アメリカのジャンヌ・モローであった。[映画館(字幕)] 6点(2011-09-17 10:01:57)

328.  セント・オブ・ウーマン/夢の香り この「セント」には、香りっていうよりも、猟犬が嗅ぎ分けていくにおい、っていうようなニュアンスがあるらしい。それなら分かる。この副題の「夢の香り」はまずいやね。傲慢無礼な退役中佐、世の中を排除しきっているようでいて、女に対する嗅覚にだけは敏感なところが面白い。世界との関係の回復、良好だったときの想い出を、「女の匂い」という一点からうかがわせていく。最後の歓楽としてのタンゴ、フェラーリの疾走、触覚と嗅覚と身体感覚。人生は踊り続けられる、たとえ脚が絡まっても、そのまま踊り続けられる、って。ヒネクレモンと盲導犬としての純真な青年の組み合わせ。A・パチーノは少しツクリが浮いてたような気もするが、まあ熱演。ラストの演説なんか、思わずかけ声を掛けたくなる間合いがある、そういった種類の熱演。その他の演者の質をガクッと落としているので、より目立つ。一応青年は「見てしまったこと」によって窮地に立たされたりして盲人と対照されてるんだが、役者が釣り合ってないんで。[映画館(字幕)] 6点(2011-09-15 10:43:43)

329.  エーゲ海の天使 《ネタバレ》 題名から予想するよりは面白い映画。すべての国の国民は自国民をお人好しだと思いたがっているところがあり、これ下手すると被害者意識からグロテスクな排他主義にもなっていくんだけど、でもそういう「お人好し意識」を下地にして世の中を受け入れていこうっていう、穏健な心理手段にも思われ、自然に人間の集団に備わっている安全装置なのかもしれない。少なくとも、そういう「お人好し」として他者に対そうとする礼儀が生まれる。このイタリアの兵士たち、ギリシャ人にもトルコ人にも「トモダチ、トモダチ」って体よく扱われ、ドイツ人の猛々しさもなく、馬鹿にされてるのかもしれないけど…、というイタリア人の自画像。不意に子どもたちが現われ、敷布の向こうにギリシャ人の日常生活が現われる滑稽味。二年間の休暇ならぬ三年間の休暇。そうか、戦争ってのは「生活」からの休暇という一面もあったのかも知れないな。再建に燃えていた軍曹も、ラストではこの休暇の島に逃げ帰っている。なんか岡本喜八が好みそうな設定。[映画館(字幕)] 7点(2011-09-11 09:43:26)

330.  毎日が夏休み お父さんのキャラクターがユニーク。会社へ行かなくなるのは、それ以後の時代の映画だったらリストラなんだけど、「出社拒否」であって、あくまでこっちがあっちを拒否したの。全然敗北感がなく、自信たっぷりで会社を蹴ってる。それが娘にも伝染し、イジメにあってる学校を完全にやめるときも、敗北感がなく、こっちが学校を蹴飛ばしてスキップしながら去っていく。この明朗さはとかく湿っぽさをよしとする邦画では貴重で、もうちょっと洗練されてほしい部分はたくさんあるが、ライトコメディという日本では苦手な分野に挑んだ姿勢をたたえたい。舞台となった新興住宅街のコギレイで厚みのない世界とうまくマッチした。原作が女性である本作で、ファザーコンプレックスってものが生理として感じられた。義父(いちいちギフと発語する)という他人のような父にしつらえて、娘にとって恋の対象にもなりうる理想の「お父さん」を造形している。なるほど、ファザコンとはこういう感じなのか、と実感として納得できた。『晩春』なんかファザコンの映画と言われても、やはりどこか男たちが頭で作った世界という感じだった。頼もしいだけでなく「かわいい」お父さんを、娘たちは期待しているんだ。お父さんの側にとっては、いつも驚いたように大人を観察している佐伯日菜子の一本調子がとてもかわいい。[CS・衛星(邦画)] 6点(2011-09-09 10:09:07)(良:1票)

331.  野性の夜に 愛というロマンチックに傾きがちなものに、エイズは即物的に障害を与える。エイズを映画で取り上げるにはそこらへんにポイントが生まれてくると思うんだけど、これはけっきょく最後にはさして突き詰めないまま精神性に走ってしまい、つまんなかった。ロマンチックから離れるには性の滑稽味を対比させるという手もあるが、実際エイズになっていた作家に、そういうゆとりを期待するのは残酷かもしれない。しかしどうも自分勝手な二人に見え、この映画のつまらなさは、死病と関係なくこの二人の個性としてのだらしなさに由来しているようで、彼らにつきあい続けても何らかの普遍性に至れるとは思えなかった。ヒステリーで表現してしまうことのつまらなさ。自分の病気を記録していこう、といったドキュメンタリー的な視点があったら価値のあるフィルムが生まれただろうが、自分の死を目前にしたら、まあ自分の生がロマンチックなものだったと総括したくなるのは分かるな。[映画館(字幕)] 5点(2011-09-03 10:03:52)

332.  チャーリー(1992) 伝記ものってのは、すでに巷間に流布しているイメージから、いかにナマなものを削り出してくるかってとこが勝負。といってただ裏返しただけの偶像破壊もつまらない。けっこう難しい。これだけ大きな人物を対象にすると、やはりビビってしまうのか、けっきょく当たりさわりのないものになってしまった。「愛されるチャーリー」「センチなチャーリー」はある一方、初期の作品に見られる「単なるからかいを越えた悪意を感じさせるチャーリー」「凶暴で殺伐としてさえ感じられるチャーリー」は割愛されてしまった。この両者の兼ね合いにチャップリンの魅力はあったのに。おもだった作品に触れていく中で『殺人狂時代』には言及しない。あれはチャップリンの女性遍歴(少女遍歴)のネガとして興味深い作品だろうになあ。はじめてセネットのとこを訪ねて、編集というものの面白さと怖さを知るエピソードはなかなかよかった。ヒットラーとの対比なんかもっと執着しても面白かったのでは。20世紀の二人の独裁者として。チャーリーの名場面集で幕にするってとこに、偶像に寄りかかってる情けなさが現われている。大部の「チャップリン自伝」を2時間半で読めたと思えばオトク。[映画館(字幕)] 6点(2011-09-02 10:05:32)

333.  赤い薔薇ソースの伝説 《ネタバレ》 家庭料理は怖い、いう話。家に縛られた女の情念が凝り固まって料理となっていく。食べることのおぞましさの映画としては『最後の晩餐』などがあるが、これは調理のおぞましさ。大量の涙(塩)を流しつつ生まれた娘、ティタ。彼女の涙が一滴料理に入ると、食べたものがみな泣き出してしまうんだな。娘は、家の料理人であり子守であり家事一般を生涯にわたって受け持つよう母親によって運命づけられているの、それと交換されるのが彼女の料理なんだ。彼女が唯一キッチンにいながら社会に作用できるもの。ソースで興奮させて上の姉は革命党へ走っていく。そういった現実と伝説が混交しているような設定自体は、いかにも中南米的で面白い。憧れる男がそれほどのものに見えないとか、画調が暗すぎるとか、音楽がうるさいとか、後半ヒロインが狂って焦点が揺らぐとか、不満はあるけど。[映画館(字幕)] 7点(2011-09-01 09:42:40)

334.  ジャイアント・ベビー 泣く子と母の愛には勝てぬ、いう話。珍発明の家庭シーンてのがまずあり、変わり者を尊重するアメリカ。少しずつ段階を追って大きくなっていくってのが味わい。追い掛け回すとこなんか、セットを二つ作ってやったんだろう、メイキングのほうが面白い種類の映画かもしれない。まあラスベガスに出てからが見せ場で、エレキの伏線なんかが生きてくる。車(ブーブー)で無邪気に遊ぶあたりが見どころ。巨人となった赤ん坊が泣き出したところで群集が静まり返るあたり、一瞬抒情が漂いました。『ミクロキッズ』『ジャイアントベビー』と、もしガリバー路線で来たのだとすると、次は「飛ぶ子ども」だったはずだな。[映画館(字幕)] 6点(2011-08-31 09:35:01)

335.  靴をなくした天使 《ネタバレ》 人間ってのはいいもんだ、と人は思いたがっているのだけど、シラけずにそう思わせるにはある種の技術がいる。その技術を洗練させるのに最も成功したのは、実はアメリカ映画なのではないか。チャップリンやキャプラや、面白いことに外国から渡ってきた作家によって生まれた作品群に洗練の極みが見られるが、本作もイギリス生まれの監督によってその伝統が受け継がれている。まずどうしようもなく卑小な人間が造形される。バーニーというコソ泥。自分の裁判の最中でもつい手が動いてしまう男。別に世間に反抗してやろうなんて積極的な意志を持ってるわけではなく、食えりゃいい、というところ。息子には「目立たないように生きるんだ」と教訓を垂れている。次に出てくるのがゲイルというテレビの女性レポーター。彼女はニュースなんて自由に演出できると思っているやり手で、世間を自分の手のなかで動かせるのが楽しくてたまらない。この正反対の二人が、飛行機事故で一瞬の接触を得てドラマが動き出す。バーニーがついゲイルの救出者になってしまうのだ(ちゃんと財布を抜き取っていくところが頼もしい)。ここからマスコミの狂騒ぶりがイキイキと描かれていく。消えたなぞの救出者の捜索を一大イベントに仕立て上げていく。ここに三番目の登場人物ジョンが関わる。タイプとしてはバーニー側の人間だが、彼ほど枯れていない。チャンスがあるなら、世間の中でほどほどの成功はしたいと思っている男。そこで救出者としてマスコミに名乗り出る。そのあと彼が祭り上げられ、理想化・聖化されていく過程がコメディとして見応え十分のところで、とうとう本人たちによる再現ドラマまで企画される。ジャーナリズムが今ではイベント屋になってしまったとこへの徹底した笑い。しかしこう人間の集団に対する幻滅や不信をたっぷり描きながら、映画は個人の中に存在しているであろう人間性に対する期待を静かに引き出してくる。つまりここがアメリカなのだ。他人たちがぎっしり詰まった社会の中で、最後は個人を信頼していくしかない、という健全な個人主義がここにある。ヒーローになってしまったジョンの感じる疚しさ、つい善行をしてしまった自分に戸惑うバーニー、百パーセントの善人も百パーセントの悪人もいない、そういう個人たちで出来ている社会だと認識すること、これらのアメリカ映画に感じる気持ちのよさは、そういった認識の潔さなのだと思う。[映画館(字幕)] 8点(2011-08-28 09:39:23)

336.  ホッファ なんかフランチェスコ・ロージあたりが好みそうな題材。喜劇人は、ほんとの僕はお笑いとは違うんだよ、と言いたがる。D・デヴィートの監督作。アメリカ人には、ホッファと聞いただけでもうイメージが出来てるような人なのかな。人を組織する楽しさにのめり込む男。労働者労働者と叫びつつ本人は労働者と一線を引いている男。組合を大きくしていくためにはマフィアの手も借りるが、決して企業側・経営側と裏取引きはしない男。まあ、J・ニコルソンが演じてるってだけで、そういうアクの強い男だってのは分かるけど。組合のプレジデントたることを目指し、そしてそこから転落する哀愁。哀愁でもないか、じたばたしながら没落していく。クレーンで動いていたカメラがそのまま狭い倉庫の中に入り込んできたり、と演出はやたら凝る。イメージのディゾルヴ。雪の足跡→ゴルフボール、水たまり→雨上がりの月、壁の影→デヴィート、テーブル→ダーツの的と、ちょっとくどかったかな。アメリカ映画はこのころ「実録・男の世界」が流行ってたんだ。[映画館(字幕)] 7点(2011-08-25 09:53:29)

337.  ブレインデッド 《ネタバレ》 スプラッターってのは演出じゃなく細工で怖がらせるわけで映画としては二流だよな、と思っていた私。でも「いかにして人体を破損していくか」という唯一のテーマの元に様々なアイデアを盛り込み、億劫がらずにせっせと陳列している本作のゾンビ退治、最初のうちはヤレヤレと見ていたが、まだやってるまだやってると見つめているうちに呆れると言うより感動してしまった。基本は大雑把に二つ、『分解』と『突き抜け』であろう。『分解』パターンでは顔の上顎部がちぎれて蹴り回され床をツーツー滑っているのが印象深い。首で切れるより上顎と下顎で分離されるほうが理に適っていそうだ。「ばらばら」がもちろん『分解』の究極形だが、人体の部分がこんもり山になっているキッチンのシーンなぞ感動させる。予想を越える量が感動の質に変換するのだ。ジューサーによる撹拌や芝刈り機によるミンチ化も『分解』の一種、主人公が血糊でツルツル滑って死体の頭を踏み潰しつつ逃げるといった活用も工夫を感じる。顔の皮膚がすっぽり脱げてしまうのも『分解』に分類しておこう。剥がれた顔の皮膚を接着剤で貼り付けるというのもあった。『突き抜け』は『分解』に比べると地味であるが、ひと手間かけることによって味わいが出てくる。首の裏側から手を突き入れられて口から出てくるなどというのが基本のパターンだが、その死体を電球に引っ掛け顔が内側から照らされるようにするというひと手間でだいぶ印象が良くなる。顔面を二つに割って悪魔の赤ん坊が顔を出すのは『分解』と『突き抜け』両方を兼ねたパターンだろう(ゾンビ同士の間に邪悪な赤ん坊が生まれるってのはいかにも西洋。東洋の幽霊はこの世に残してきた赤ん坊に乳を与えるために出没したりするのだから何という違いであろうか)。しかし問題はなぜ「こういったこと」が面白いのだろう、ということだ(少なくとも面白がる人がある程度いるから商品として成立している)。実際に向かい合って食事している人から膿が垂れてスープに広がったりしてたら、たぶんあまり楽しくない。何で笑って見てられるんだろう。食事をさせると傷口からドロドロしたものが漏れ出てきてしまうおかしさは何なんだろう。昔の人が美女の死体が腐っていく変容図をまじめに描いた精神と、どこかで細~くつながっている気がしないでもない。これ時代が57年と監督が生まれる以前に設定されてい(以下字数制限のため割愛)[映画館(字幕)] 9点(2011-08-24 09:52:48)

338.  レザボア・ドッグス 《ネタバレ》 白人の男だけの世界。一見仲間うちの食事風景(マドンナ論)のようでいて、何やら緊張がある。チップ払わねえ、とか。パッと事件後に跳ぶんだな。事件そのもの、一番映画にしやすいところは描かないキザ。で、ほとんど舞台劇のノリでアジトの空間の中の男たちを煮詰めていく。裏切り者は誰か。そして三人でピストルを構え合うの。オレンジを信ずるために命を落とすホワイト、それに告白するオレンジ、再び銃を向けるが撃てないホワイト、男の世界だなあ。監督もどう見てもワルガキの顔だし。裏切りの中の友情。…とこれがタランティーノ初見参だったわけだが、あの人のポイントがすべて出ていた。だらだらとした会話の中で紡がれる緊張、時間の処理、閉じた空間で煮詰められていく男たち、銃を向け合って硬直する人々、って。[映画館(字幕)] 7点(2011-08-19 11:09:02)

339.  まあだだよ 黒澤が最後にまた師弟関係を描いた。そしてそれは成功したのかというと、その判断は下しづらい。私はいままで黒澤映画を観てきて驚くほど世代の違いを感じなかった。優れた古典が同時代性を持つ証明として観ていられた。それが今回初めて、明治生まれの人の映画を感じたのだ。正直に言うと、ここで描かれる師弟関係があんまり麗しく感じられないのだ。先生が何か言うごとに「こりゃまいったなあ」とか「先生にはかなわないや」などと言うのが、お世辞や追従笑いにしか見えない。『椿三十郎』の三船敏郎と金魚の糞たちに一番近く見えてしまう。でも監督はそれを麗しいと示している。こちらは微笑ましさを強制されているようでたまらなかったし、摩阿陀会のはしゃぎぶりはほとんど恐怖であった。肯定とか否定とか言う以前の「わからない」というのが正直な私の反応である。純粋な先生を保護したくなる気持ちがポイントのようなのだけど、小さな集団の中に閉じてただ先生が上機嫌であるように動き回る人々、先生をお神輿のように担ぎ上げるのが敬愛ってもんじゃない、と思った。といってきっぱり否定も出来ないのだ。何かそれなりの倫理がありそうなのだが、実感として納得できない中途半端な気持ち。これは映画の出来不出来と言うことではなく、世代のギャップなのかもしれない。監督自身はこれに似た師を持つことが出来たのだろう。その麗しい関係をフィルムに残したかったのに違いない。しかしそれを麗しいと感じられる文化そのものが変質してしまった。監督がこういう師弟関係を麗しいと思っているその熱気だけは伝わってくるのだけれど、それは空回りを続け、ただ明治に生まれた人の遥けさだけが心に残ってくるのだ。黒澤は終戦直後の時代をリアルタイムで記録していってくれた。この時代を過去として描いたのは本作だけである。先生と弟子たちが野良猫を探し回っていたころ、町の反対側では志村喬と三船敏郎が、刑事の先輩後輩として野良犬を探し回っていた。時代の理想を探し回っていた。そして今その時代へ向けて逆の方向から、監督は明治の理想を振り返りに戻ってきた。そう思うと、この和気あいあいとした作品に、明治の人の伝達不可能になってしまった社会への幻滅が感じられなくもない。なぜか複数の鬼に対して一人でかくれんぼをしている少年の心象風景、友だちに発見される期待から目をそらし、夢の夕焼けに溶け込んでいく孤独な少年…。[映画館(邦画)] 7点(2011-08-15 10:05:10)

340.  飛べないアヒル 『スラップ・ショット』の少年版ということか。男の世界の味わいから教育問題の世界になる。少年時に受けた誤った教育が、健全なスポーツ精神によって矯正されていく、ってな話。弁護士は心がいびつで、マイナーのホッケー選手はマットウいう構図。進むべき道から一歩も踏み外さない段取り通りの展開に、安心してもいいし物足りなく感じてもいい。テーマが「教育」だから、フェアプレー精神が基本。悪いチームのユニフォームが黒っての、マルコムXが見たら怒るだろうなあ。頑張れば栄光があるって精神は大事かも知れないけど、そう簡単にはいかないぞ、って気を観客に起こさせないようにするのが芸の見せどころなんだけどなあ。インチキを断わった少年に謝るところがアメリカの良さ。[映画館(字幕)] 6点(2011-08-14 09:44:18)

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