みんなのシネマレビュー |
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361. メカニック:ワールドミッション 「お粗末」という言葉がこれほどしっくりくる映画も久しぶりである。 個人的に前作は想定以上の満足度を得られた快作だっただけに、極めて残念だ。 往年のスター俳優チャールズ・ブロンソン主演による1972年の同名作のリメイクだった前作は、現役アクションスター界のトップランナーであるジェイソン・ステイサムの抜群のアクション性と独特の男臭さが、孤高の暗殺者という役柄にマッチした意外なほどに上質なアクション映画だった。 ステイサム版鑑賞後にブロンソン版を鑑賞したが、リメイク版の方がアクション映画としてのクオリティは高かったと思う。 前作の最大の面白味は、なんと言っても超一流の暗殺者である主人公が貫く“殺し方の美学”だ。 出来る限り「暗殺」であることを周囲は勿論、殺される当人にすら気づかせないように、「仕事」を遂行する。 マシーンの綿密な設計図のような計画表を打ち立てつつ、それを淡々と速やかに実行する様は、まさに“メカニック”。 己の生活空間を含め、あらゆる物事の細部に至るまで徹底した拘りを見せる主人公の佇まいは、一見無骨なように見えるけれど、どこか気高さと気品を併せ持つこの英国俳優だからこそ表現し得た存在感だった。 しかし、残念なことに今作では、その最も重要視すべき主人公のキャラクター性が、尽くないがしろにされている。 計画性が全く無いとは言わないが、前作で堪能できた殺しの美学は早々に影を潜め、行き当たりばったりの雑なアクションが繰り返される。 そもそもストーリーテリング自体が極めて陳腐。序盤に展開される“バケーションシーン”は全くもって無意味であり、前作の成功により得られたであろうバジェットを垂れ流していると言わざるを得ない。 やはり、先ず何よりも初めに、前作同様に主人公の完璧な“仕事ぶり”を見せて、暗殺業を引退した筈の彼が一体なぜそんな仕事をさせられているかを遡って見せれば、この主人公のキャラクター性を再確認させられたし、ストーリー展開としてもスマートだったと思う。 これもバジェットの増大によりキャスティングできたのであろうが、ジェシカ・アルバも、ミシェル・ヨーも、トミー・リー・ジョーンズも、使われ方が尽く雑であり、勿体ないの一言に尽きる。 ジェイソン・ステイサムは、アクションスター苦難の時代にあって存在感を放っている数少ないスター俳優の一人だと思うが、必然的に低予算の出演映画が多いため、決して良作揃いの俳優というわけではない。 そんな中で、前作の成功ポイントを全く理解していない愚かなスタッフにより、期待の続編が低レベルのお粗末映画に終始してしまったことはあまりに残念だ。 散々な映画だが、ジェシカ・アルバ嬢のカワイイお尻に免じて+1点。この女優も相変わらず作品に恵まれないな。[インターネット(字幕)] 3点(2018-10-07 19:11:51)《改行有》 362. グーニーズ 1985年公開のこの有名すぎるアドベンチャー映画を、1981年生まれの自分がこれまで観ていなかったことには、何とも縁がなかったものだなと思う。 公開当時は4歳。劇場で観ることは出来なかったとしても、当然ながら何度もテレビ放映していただろうし、レンタルビデオで観る機会もいくらもあっただろう。全く縁遠いまま随分と大人になってしまったものだ。 先ず感じたことは、この映画をもし自分が4〜5歳の頃から繰り返し観ていたならば、きっと自分にとってもっと特別な映画になっていただろうなと思う。そういう可能性は大いに感じた映画だった。 スティーヴン・スピルバーグとリチャード・ドナーが組み、更にはクリス・コロンバスが脚本を担った今作は、オープニングクレジットから極めてテンポの良いエンターテイメント性に溢れている。 娯楽映画の玄人たちが生み出したそのテンポの良さは最初から最後まで一貫して、飽きさせることなく観客を映画世界に引き込む。 物語自体は、まったくもって荒唐無稽な絵空事でありながら、少年たちの葛藤を礎にしたジュブナイルとアドベンチャーを全面に描き出し、映画世界を成立させていることは、ひとえにスピルバーグをはじめとする超一流の映画作家たちだからこそなせる業だろう。 登場人物たちも、善玉悪玉問わずみな愛らしい。 特に、主人公のマイキーを演じるショーン・アスティンが何ともキュートだった。 この映画の往年のファンは、「ロード・オブ・ザ・リング」のサム役でショーン・アスティンが再び大冒険を繰り広げる様を見て、殊更に感慨深かったことだろう。 風貌はだいぶ変わってしまったけれど、彼が放つ仲間たちに愛される存在感は変わっていないもの。[インターネット(字幕)] 7点(2018-10-07 16:22:52)(良:1票) 《改行有》 363. エスター 《ネタバレ》 長年に渡って各方面からの好評は当然耳に入っていたものの、ホラー映画が大の苦手なので、常に“鑑賞予定リスト”に入りっぱなしだった今作をようやく鑑賞。 当然ながら序盤からビクビクしっぱなしで、恐怖感と不穏感をこれでもかと煽る演出と、卓越した画作りは際立っていたと思う。 基本的なプロットとしては、ホラー映画の傑作「オーメン」を彷彿とさせる。ただ、描き出される物語の本質は、現代社会と、或る夫婦間における普遍的な「鬱積」を炙り出しており、主人公と同様に二人の子を育てる同世代の者としては、殊更に映画世界が醸し出す居心地の悪さと不気味さを感じずにはいられなかった。 決して著名な監督が手がけていたり、有名な俳優が出ているわけでもない極めてミニマムなバジェットのホラー映画でありながら、評判通りに独自性に溢れた恐怖感を生み出す映画ではあったと思う。 しかし、ある意味致し方ないことではあるのかもしれないが、“ネタバレ”以降のクライマックスにおける恐怖感は、それまでに比べて著しく急降下してしまっていることは否めない。 “エスターは実は○○でした!”という真相は確かに衝撃的だけれど、それを突きつけられた途端、得体の知れない不穏な恐怖感は一気に霧散した。 その真相は、ある意味では確かに恐ろしいけれど、裏を返せば、ただただ“イタい”浅はかな狂った女の凶行にしか見えず、一旦そういう見え方をしてしまうと、この映画が行きつく顛末も容易に想像できてしまう。 作風に同じ匂いを感じた「オーメン」は、“オーメン”の天性的な悪魔性と表現した演出同時に、彼を「悪魔」の権化として捉えてしまう要因が、主人公夫婦をはじめとする周囲の人間の精神的な脆さにも起因するのではないかという疑念を絡ませたストーリー展開が極めて巧かった。 今作に隠された「真相」の部分が決して悪いとは思わないが、そういうことなのであれば、もっとエスターの言動は天才的に狡猾なものとして描き出されるべきだったのではないか。 すべての言動があまりにも子ども臭く、そもそも狂人であったとしても、もう少し上手く世渡りしろよと、いらぬ感情を抱いてしまう。 “ネタバレ”された瞬間に、そういった点での符号が成されなかったことが、ホラーとしても、サスペンスとしても、非常に残念だったと思う。 まあ、同じ人の親として口幅ったく言わせてもらうならば、実子たちの瞳に滲み出ている明確な「恐怖」を感じ取れていない時点で、主人公夫婦は「親失格」だったと断言せざるを得ない。 そういう意味では、不気味すぎるエスター役の子よりも、勇敢なマックス役の子の女優としての表現力の確かさの方が凄いと思える。[インターネット(字幕)] 6点(2018-09-24 01:02:33)(良:1票) 《改行有》 364. ゲット スマート よくあるタイプのスパイ映画パロディのコメディ映画だろうなと思いつつも、方々から意外な程の好評も耳にする作品だったので、期待を膨らませてようやく鑑賞した。が、正直な感想としては、“よくあるタイプのスパイ映画パロディのコメディ映画”だった。 公開から10年間に渡って、無意味に期待感を膨らませ過ぎてしまったのかもしれない。 そもそも映画という娯楽においてほとんどのジャンルは、良作であればあるほど、国や文化の違いを超えて受け入れられるものだが、「コメディ」というジャンルだけは、時に良作であればあるほど、文化の違いによりウケ方が全く異なることは多々ある。 繰り広げられるコメディ描写に対して、愉快ではあったけれど、心から笑いきることができなかったことは、この映画の敗因ではなく、僕自身の敗因だろう。 映画の中で殆ど笑顔を見せない演技で観客を笑わせるスティーヴ・カレルは優れたコメディ俳優だと思うし、もはやスキンヘッドの印象しかないドウェイン・ジョンソンの“髪型”にも笑ってしまった。 そして、個人的には、この映画のアン・ハサウェイだけはずっと見ていたい。[インターネット(字幕)] 6点(2018-09-17 01:15:57)《改行有》 365. 続・深夜食堂 漫画「深夜食堂」と、ドラマ版「深夜食堂」の大ファンである。 一人飲みの際には、最高の「肴」となる世界観を映画化してくれたこと自体は嬉しかったが、必然的な物足りなさを前作には感じた。 深夜帯の限られた時間の中でまさに“つまむ”ようにミニマムな人間模様に触れられることが「深夜食堂」の醍醐味であり魅力であると思う。 しかし、映画化により長編となることで、その醍醐味が明らかに薄れてしまう。 前作はそれでも、多部未華子というこの作品世界に相応しい“華”や、舞台が“めしや”の「2階」の描写により、世界観が文字通り立体化したという映画的な価値があった。 でも、この続編ではその映画ならではの舞台設定を闇雲に広げすぎてしまっており、肝心の“めしや”の外でのストーリー展開が多すぎる。ファンとしては、これでは「深夜食堂」で描く意味がないなと思わざるを得ない。 必然的に、ストーリー上においても、“めしや”のマスターが作るメニューが主体になっていないので、このシリーズならではの「味わい」が殆ど無くなってしまっていると思う。 詰まる所、一見では人情映画を作るのに最適な素材のように見えるけれど、数ページの漫画や、30分以内のドラマ枠だからこそ、その味が深まる世界観なのだと思う。 それは、他愛のないメニューであっても、あの空間で、あのマスターが作るからこそ、「美味い!」と足を運ぶ“めしや”の常連客たちがもっとも理解することだと思う。[CS・衛星(邦画)] 4点(2018-09-16 18:14:46)《改行有》 366. エージェント・ウルトラ 公開前に予告編を観たときは、とても興味をそそられた。ヒョロガリのコンビニ店員が実は殺人マシーンでした!という設定は、良い意味で馬鹿らしくて、それだけでイントロダクションとしての娯楽性は備わっていると思えた。 そしてそれを演じるのがジェシー・アイゼンバーグというのも注目ポイントだった。この若手実力派の最筆頭とも言える俳優であれば、完全なダメ男ぶりと、実は秘められた狂気性を、一人の人物像の中に同居させ表現し得ることは容易に想像できた。 想像通り、ジェシー・アイゼンバーグの滲み出る狂気性は、主人公のキャラクター設定と合致しており良い。 陰謀によって生み出された悲しき“殺人マシーン”と、彼を支える恋人との逃避行は、古典的でありふれたアイデアのようにも感じるが、ストーリーの紡ぎ方自体には新しさがあった。 少なくとも、個人的には嫌いじゃない映画的雰囲気が醸し出されていたとは思う。 ただし、最終的に面白い映画だっとは言い難く、この手の映画でそういう印象を持たせてしまった以上は、「失敗作」と言わざるを得ない。 つくり手の思惑としては、「ボーン・アイデンティティ」的なキャラクター設定をベースにしつつ、「キック・アス」的な悪ノリのバイオレンスアクションを展開し、「スーパー!」的なマンガ的で悪趣味なポップさを充満させた映画世界を構築したかったのだろう。 その趣向自体は伝わってくるし、部分的には理解できる。 が、結局の所、映画としてのクオリティの低さが致命的だったと思う。 そもそもの発端となる陰謀めいたものと、黒幕であるCIAの首謀者たちの愚行ぶりが、あまりにもおざなりで目に余る。 悪ノリだろうが、悪趣味だろうが、根本的な話作りが滅茶苦茶なので、致命的な雑音となりストーリーに入っていくことができなかった。 娯楽映画として面白ければ、当然続編にも期待したい終わり方だったけれど、このクオリティの映画にジェシー・アイゼンバーグを続投させることはあまりに勿体ないので、止めたほうがいい。[インターネット(字幕)] 5点(2018-09-16 15:39:28)(良:1票) 《改行有》 367. マリアンヌ 《ネタバレ》 戦争の狂気と愚かさの中で生まれた儚くも本物の愛。 諜報員としての「業」を背負った彼らは、おそらくはじめからこの平穏が永く続かないことを、心の奥底では覚悟していたのだろう。 冒頭から二人の瞳には深い闇が宿っていて、それは戦火の混沌の中を生き抜くために、彼らがそれぞれに犯してきたであろう「罪」を暗に示していた。 そんな彼らが、共に生存する可能性はほぼ皆無だったあの“出会いの作戦”で、必死に手繰り寄せた安息の日々。 それは、モロッコの砂嵐の中で愛し合った二人による、己の運命に対する抗いだったのだ。 極めて古典的なプロットを敢えて今の時代に映し出したロバート・ゼメキスの巨匠ぶりが冴え渡っている。 当初はおおよそゼメキスらしくない作品のチョイスに思えたが、近年の監督作品の系譜を振り返ってみれば、そのテーマ性は一貫している。 「フライト(2012)」にしても、「ザ・ウォーク(2015)」にしても、主人公が自らの人生の業と向き合い、運命に挑む様を描いた力作だった。 決して清廉潔白ではない主人公の生き様を、卓越した画作りと共に映し出し、見事な映画世界を構築し続けている。 主人公の夫婦を演じるブラッド・ピット、マリオン・コティヤールの演技も素晴らしい。 自らの運命に対する抗いを内に秘め、終始疑心と不安を携えつつも、それらをすべてひた隠し、必死に平穏を追い求める悲しき夫婦像を演じきっている。 サスペンスとラブロマンスを巧みに散りばめたストーリーテリングは、映画という娯楽の極みのようであり、「いい映画を観たな」という率直な満足感に満たされた。 物語は悲劇的な終焉を見せるけれど、マリアンヌが死の間際に思い描いた父娘の姿は、きっと深い愛を噛み締めて「生」を紡いでいたと思う。 彼女は、その充足感と多幸感に包み込まれながら、引き鉄を引いた。そう信じたい。[インターネット(字幕)] 9点(2018-09-16 13:15:31)《改行有》 368. 響 HIBIKI 今年、36歳にして初めて“アイドル”にハマってしまった。 アイドルという存在そのものに対しては、軽んじているつもりはなく、むしろ広義の意味の“エンターテイメント”としてリスペクトしている。 ただ、“モーニング娘。”も、“AKB48”も、興味がなかったわけではないけれど、没頭するなんてことはなかった。 が、今現在、「欅坂46」には絶賛没頭中である。このアイドルグループが表現するエンターテイメント性は、少なくとも僕の中では、エポックメイキングなものとなっている。 その特異なアイドルグループの中でも、特に異彩を放ち続けている存在が、「平手友梨奈」である。 つまるところ、今作は、個人的にはジャストなタイミングでの、平手友梨奈の初主演映画というわけである。 結論から言うと、この映画は、れっきとした“アイドル映画”として仕上がっている。と、思う。 前述の通り、アイドルはもちろん、アイドル映画というジャンルについても揶揄するつもりは毛頭ない。 往年の、薬師丸ひろ子、原田知世、宮沢りえらの主演映画はもちろん、現在に至るまでアイドル映画の忘れ難き名作は山のようにある。 今作も、その系譜の中に確実に記されるであろう。平手友梨奈というアイドルの“現在地点”を切り取った作品であり、その「価値」は大きい。 主人公「響」の強烈なキャラクター性と、平手友梨奈のアイドルとしての特異性も、奇妙なまでに合致していたと思う。 ただそこに存在しているだけで醸し出される“異彩”と、故に生じる周囲の人間関係と社会における“不協和音”的な存在性は、この二人の少女の間で発生したシンクロニシティのようにも感じた。 17歳の平手友梨奈が、「響」を演じたことはまさに必然的なことだったろうと思える。 欅坂46のファンとして、そして平手友梨奈のファンとして、この映画のバランスは極めて絶妙で、満足に足るものだったことは間違いない。 が、しかし、映画ファンとしてはどうだったろうかと、本編が終了した瞬間にふと立ち返った。 面白い映画だったとは思った。ただし、もっと“凄い”映画にもなり得たのでないかと思わざるを得なかった。 サイレントな世界である「文学」という舞台に降り立ったバイオレントな「天才」という題材と、主人公のある種の悪魔的なヒーロー感は、アンビバレントな価値観と独自性に溢れている。 その天才のエキセントリックな言動の周囲で右往左往せざるを得ない我々凡人の生き様にこそ芳醇なドラマが生まれたのではないかと思う。 そういったドラマ性の片鱗は確かにあった。 芥川賞候補止まりの売れない作家も、傲慢な新人作家も、天才小説家の娘も、越えられない壁(=才能)を目の当たりにし、失望と絶望を超えて、己の生き方を見つめ直す風な描写は少なからずある。 ただそれらは、あまりに表面的で、残念ながら深いドラマ性を生むまでは至っていない。 「天才」の強烈な個性と、不協和音としての彼女の存在が巻き起こす社会風刺と人間模様の混沌。 それが、この映画が到達すべきポイントだったのではないかと思う。もしそれが成されていたならば、この映画自体がエポックメイキング的なエンターテイメント映画になり得た可能性は大いに感じるし、監督の狙いもそういうところだったのであろうことは垣間見える。 でも、出来なかった。その要因もまた「平手友梨奈」に尽きる。 17歳のアイドルの稀有な存在感に、監督の演出も、映画全体の在り方も、引っ張られている。 必然的に、このアイドルがそもそも放っている表現力の範疇を出ることなく、「平手友梨奈のアイドル映画」として仕上がっている、のだと思う。 それこそ、もっと天才的で破滅的な映画監督が、この作品を撮っていたならば、既存のエンターテイメントの枠を超越したとんでもない映画になっていたのではないかと、映画ファンとしての妄想は膨らむ。 しかし、もしそうなった場合、平手友梨奈自身も、現時点のアイドルとしてのガラスを割られ、表現者としての次のステージに進まざるを得なくなっただろう。 無論、それはそう遠くない将来に確実に迎えざるを得ない場面だろうけれど、それが今でなくて良かったと思う。 好意的な見方をするならば、月川翔監督も、現時点のアイドルとしての平手友梨奈の価値を鑑み、彼女の自然な在り方を優先すべきと判断したのかもしれない。 というようなことを巡らせながら、エンドロールを見始めた。 すると、この9ヶ月間聴き馴染んだ「声」がこれまたエモーショナルな歌詞を発している。主演アイドルが未公開の主題歌を歌っているということを知らなかった僕は、途端にいつもの“一言”に埋め尽くされた。 ああ、なんて“エモい”んだ。[映画館(字幕)] 7点(2018-09-15 17:17:08)(良:1票) 《改行有》 369. 検察側の罪人 《ネタバレ》 俳優人生の分岐点を迎えている木村拓哉が、新境地を開くべく力を込めた演技を見せている。 その“熱演”そのものに対しては時代を築き上げてきたアイドルとしての、俳優としてのプライドを感じたし、これからの出演作にも期待したいと思わせた。 が、同時に、役作りの上で力を入れすぎているようにも感じ、木村拓哉演じる主人公が、映画世界の中で空回りしているようにも見えた。 対する二宮和也が、映画俳優として軽やかな立ち回りと芸達者ぶりを見せるだけに、余計に、木村拓哉の必死さが硬さとなって滲み出ていたようにも思える。 同事務所の後輩との「競演」がプレッシャーになったとは言わないけれど、少なくとも「映画」という舞台においては、先輩後輩の立場を逆転させてしまうくらいの「経験値」の差が露呈してしまっていることは否めない。 映画としては、十分に面白みのある映画だったと思う。 ただ、木村拓哉の主演映画として「無理」なことかもしれないが、彼の出演シーンはもっと少なくてよかった。 それは映画俳優としての演技が他の俳優と比較して拙いからではない。もっと少ないシーンでも彼は主人公として存在感を放てたと思うからだ。 歳をとろうが、SMAPが無くなろうが、木村拓哉は木村拓哉であり、この国のスターである。 そのスター性を映画俳優としてどう生かしていくのか、そのことを木村拓哉本人がもっと正確に理解し、表現する必要があるのではないかと思う。 前述の通り、木村拓哉の演技は決して悪かった訳ではない。 しかし、あのような役どころであるのならば、もっと最後の最後まで主人公の「真意」と「罪」をひた隠しにしたストーリーテリングだった方が、彼の存在感が特別なものになったのではないかと思う。 木村拓哉と二宮和也の両者のファンに対する不必要な目配せがあったのかもしれないが、二人の描写が同等の分量で構成されているので、この映画のストーリーが追い求めるべきテーマ性がぼやけてしまっているように感じた。 ストーリーの軸としては二宮和也を据えて、彼の役どころを主人公然として話運びをすればよかったのだと思う。 そして、新米検事からも観客からも「完全無欠」に見えていた男が、最後の最後で見事に汚れ、堕ちる様を見せてくれたならば、どんなにニノが場馴れしたいい演技を見せようとも、この映画は“キムタクの映画”になっただろう。[映画館(邦画)] 7点(2018-09-03 23:20:39)《改行有》 370. ミッション:インポッシブル/フォールアウト このスパイ映画シリーズが、アクションエンターテイメントの最先端となって久しい。 毎年、数多のアクション映画が量産され続けているが、特に2011年の「ゴースト・プロトコル」以降は、“THE 娯楽活劇”のトップランナーであることは間違いないだろう。 そして、その要因はあまりにも明確だ。 唯一無二の主演俳優であり、製作者でもあるトム・クルーズが、心からの敬意を込めて「馬鹿」と付けたくなるほど、映画人としての努力と挑戦を惜しまずに、このシリーズ作を作り続けているからだ。 前作「ローグ・ネイション」で、彼と、今シリーズに対する信頼性は極まり、スタッフとキャストがほぼ続投となったこの最新作も、必然的に信頼に足る最高級のアクション映画に仕上がっている。 サブタイトル「Fallout」は、“仲違い”や“悪いことが起こる”、そして「死の灰」という意味を持ち、ストーリー展開をうまく表現したものだったと思うが、シンプルに「落ちる」というニュアンスも含まれているように思う。 そのサブタイトルが示す通り、「落ちる」という演出に固執したアクションとストーリーテリングが、もはや“偏執的”ですらあり、ひたすらに盛り込まれる“落下アクション”の連続には、相変わらず“映画馬鹿”な大スターの気概を感じずにはいられない。 シリーズ過去作をきっちりと踏まえたストーリーはよく練られており、主人公イーサン・ハントというスパイの男が持たざるを得ない宿命と辿らざるを得ない運命を、哀しく、切なく、ドラマティックに紡いでいると思う。 前作の顛末と地続きのストーリーラインも上手く作用しており、IMFメンバーとのチーム感、敵役との関係性等、より深い描き込みが胸熱だった。 ただし一方で、前作「ローグ・ネイション」の映画としての纏まりがあまりにも素晴らしかっただけに、その見事さと比較すると大仰でとっ散らかっているようにも感じる。 個人的には、目新しいギミック描写が殆ど無く、お約束のドレスアップシーンも無かったことは、マイナス点として挙げざるを得ない。 とはいえ、55歳を超えた稀代のスター俳優が、またもや全力で疾走し、実際に大怪我をする程のアクションを体現し、満身創痍になりながら、最後には世界を救って笑ってみせる。 その笑顔一発で、些細な難点などは霧散し、最終的には映画人としての尊敬と、圧倒的娯楽に対する感謝しか残らない。[映画館(字幕)] 8点(2018-08-15 21:20:10)《改行有》 371. 皆はこう呼んだ、鋼鉄ジーグ 一風変わったイタリア産ヒーロー映画。 ハリウッドにおける“マーベル”、“DC”の二大コミックそれぞれのユニバース作品群は隆盛期のピークを迎えているが、所変わればヒーロー像も変わるもので、癖と雑味が激しいイタリアンヒーローの立ち振舞は、とても興味深かった。 社会のど底辺に生きるどチンピラが、突然“超人パワー”を手に入れたらどうなるか。 当然ながら突如として「正義」に目覚めるわけもなく、豪胆にもATM強盗を犯す様がまず潔い。 その後も、ヒーロー映画らしい颯爽としたシーンなどまるで無く、苦痛と苦悩にのたうち回りながら、本当に少しずつ己の運命を見定めていく愚か者の不器用さが何とも切ない。 “ヒーロー”である主人公以外の登場人物たちも、皆どこか心を病み、こじらせている。 ヒロインは陰惨な生い立ちの過去を覆い隠すかのごとく、何故か実在の日本産のロボットアニメ「鋼鉄ジーグ」に心酔し、心の拠り所にしている。 一方の悪役も、歌手になりきれなかった夢を引きずりつつ、狂気的な凶暴性を増大させていくという、ワケのわからないキャラクター像を構築している。 主要キャラクターに限らず、登場人物たちの全員が何かしらの“屈折”を抱えているように見え、それは即ち現在のイタリア社会が根底に抱えている病理性に通じているようにも感じた。 心身ともにズタズタに傷ついた愚かなヒーローは、ようやく運命を受け入れ、無様で愛おしい毛糸のマスクを身につける。 そして、眼下に見下ろす夜の街にジャンプし、映画は終幕する………が、飛翔能力があるわけではないので、きっと彼はいつものように地面に叩きつけられたことだろう。 アイアンマンやスーパーマンには敵うはずもないけれど、こんな“鋼鉄の男”がいたっていい。[CS・衛星(字幕)] 7点(2018-08-15 08:35:23)(良:1票) 《改行有》 372. カメラを止めるな! 昔、映画学校の学生時分、脚本家志望だった僕は、「サバ缶」というシナリオを書いた。 またカリキュラムの中で、短編作品の撮影もどこかしらの民家を一泊借りて行った。 もう随分と遠い昔の思い出となってしまったけれど、その時の記憶がありありと思い出される。 そして、月日は経って、地元に帰り、結婚をして、娘が生まれ、父親になった。 何が言いたいかというと、そんな僕が、この「映画」を愛さないわけがないということだ。 いや、参った。これは、日本映画史上待望の「ゾンビ映画」の傑作だ。 巷で話題沸騰となっていたことは知っていたけれど、あまり精力的な情報収集をせぬまま、地元の級友たちとの飲み会前の空き時間にフラリと観に行った。「情報」を最小限に留めたまま鑑賞に至れたことが、極めてラッキーだったと思う。 古今東西「ゾンビ映画」というものは、生み出された実社会の閉塞感や鬱積を、血と狂気の混沌の中で描き出してきた。 したがって、そのジャンルは、もちろん「恐怖映画(ホラー)」ではあるのだが、同時に「風刺映画(コメディ)」でもあると思う。 今作は、そのホラーとコメディというアンビバレントな要素を絶妙なバランスで混ぜ合わせ、驚くべきアイデアで纏め上げて見せている。 ただし、一言で「風刺」と言っても、この映画で描き出されるテーマ性は極めてミニマムだ。 核家族における父性のあり方、あらゆるしがらみにがんじがらめの働き方、そして、一個人レベルに至るまで蔓延する虚構と実像の葛藤。 この映画は、現代のこの国の社会の中で、あまりにも普遍的なそれらの鬱積を根底に敷き詰め、呆れて笑うしかない「暴走」と共に、爆発させ、解放させている。 一つ一つの描写はとてもくだらなくて、チープだけれど、それをあまりのもチャレンジングな試みの中で、「本気」になって叩きつけているからこそ、今作はとてつもない“面白味”と“感動”を生み出しているのだと思う。 映画館で、あんなにも臆面もなく手を叩いて笑った記憶はない。 観客のその反応を誘い出し、エンターテイメントとして成立させたアイデアとチャレンジに脱帽する。 散々笑わせといて、最後の最後でホロリとさせるなんて、ズルい。[映画館(邦画)] 10点(2018-08-13 08:06:53)(良:6票) 《改行有》 373. ゴースト・イン・ザ・シェル アニメ映画の「GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊」と、その続編である「イノセンス」は“一応”観ている。が、しかし、押井守監督が生み出したアニメーションの独特の質感と、鬱々とした世界観が、個人的にどうにも肌に合わず、面白いとは言い難かった。 人間と、電脳、アンドロイド、サイボーグが混在する近未来の混沌を描き出すにあたり、描き出されるテーマがどんどんと陰鬱に、インサイドの更にインサイドへと突き進んいくストーリーの構図が、精巧に感じる反面、酷く“ひとりよがり”にも感じてしまったことが、拒否感の最たる要因だったと思う。 そんなわけで、満を持してのハリウッド映画化の報を知っても、特段興味はそそられず、本来東洋人設定であるはずのヒロインにスカーレット・ヨハンソンを配したキャスティングにも安直さしか感じなかった。 “ビートたけし”の主要キャスト起用にも、キアヌ・リーヴス主演の往年のトンデモSF映画「JM」を彷彿とさせるばかりで、観る前から“やっちまった感”を覚えた。 だがしかし、だ。そうやってハードルを下げきって実際に観てみたならば、いやいやどうして、フツーに面白かった。映画とは、本当に厄介な娯楽である。 少なくとも、アニメ映画「攻殻機動隊」の非ファンとしては、想像以上に面白かったと言える。 考えてみれば、これだけ世界的なファンと非ファンを持つ作品の映画化にあたっては、どれだけ完成度を上げて仕上げたところで、どこかしらの角度からの「否定」は避けられないわけで。 そんな火中の栗を拾うようなプロジェクトに無謀に、いや果敢に挑み、統一された価値観で纏め上げて見せていることには、今作の製作陣のプライドを感じた。 当然ながら原作のファンなのであろうスタッフ陣が、原作はもとより「日本文化」そのものに対してのリスペクトをしっかりと掲げて映画の世界観を構築してくれていることも、この国の映画ファンとして意気に感じる。 また、懸念材料だったキャスティングも、強引ではあるが辻褄は合っているストーリー設定で整合性を保っているし、想像以上に主要キャラクターだったビートたけしと、桃井かおりの存在感が光っていたことも誇らしかった。 今一度、アニメ版「GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊」を見直してみようと思う。[CS・衛星(字幕)] 7点(2018-08-12 00:20:01)《改行有》 374. 未来のミライ 子どもが育つということは、ただその事実のみであまりにもドラマティックだ。 それは、どんな形であれ、子どもを育てた経験がある人、もしくはその真っ最中の人ならば尚の事、身に沁みて感じることだろう。 ただ、そのドラマは普遍的であるからこそ、映画表現としてそのまま描くばかりでは、退屈なものになってしまうことは避けられない。今作の序盤はまさにそんな感じだった。 「あ、やっちまったか?」と、序盤から中盤、いや終盤近くまで正直思った。 個人的に、細田守監督の前作「バケモノの子」の満足度が、それまでの過去作と比較すると随分と下回っていたこともあり、今作については鑑賞前の危惧が大いにあった。 予告編等のインフォメーションを見ても、今ひとつ「面白そう」だとは思えなかった。タイトルやキャラクターの台詞から、なんとなくありきたりなストーリーラインを思い浮かべてしまっていたのだと思う。 そんな思いの中で展開されたものが、想像以上に間延びした幼児の成長譚だったものだから、「危惧が的中したのだ」と意気消沈してしまったことは否定できない。 しかし、だ。この作品は、終盤にある種「異様」とも言える転じ方を見せる。 即ち、退屈と困惑からの、カオスとエモーション。 アニメーションは秀麗ではあるけれど間延びし、ありのままの幼児像に少なからずの不快感すら覚え始めていたそれまでのストーリーテリングが、時空と概念を超えて“ファミリー・ツリー”として集約され、眼の前がぱっと明るくなり何かしらが覚醒したような感覚に包み込まれる。 気がつけば、抱えていたはずのフラストレーションは霧散し、特異な充足感を感じていた。 冒頭から山下達郎の爽やかなテーマソングが流れ、いかにもなファミリームービー的な導入で始まる映画ではあったが、今作は決して万人受けするアニメ映画ではないだろう。少なくとも、大いに困惑し、最終的に腑に落ちない点も多々あると思う。 しかし、この映画が語るものが「家族」であることはやはり間違いなく、その主題を“根幹”に据え、「子が育ち、命を継いでいくこと」の意味と価値を示したこのいびつなアニメ映画は、結局のところこの季節に相応しい。 やっぱり、細田守のアニメーションは、夏がよく似合うと思える。 我が家の娘と息子も、笑いながら、泣きながら、文字通りすくすくと成長している。 その日々が、「未来」につながり、ファミリー・ツリーの枝葉を伸ばしていくのだと思うと、胸を熱くせずにはいられない。 うちも庭先に何か木を植えようか、と思うのだ。[映画館(字幕)] 9点(2018-08-03 23:36:18)(良:1票) 《改行有》 375. ジュラシック・ワールド/炎の王国 ラスト、貫禄たっぷりに年老いたマルコム博士が、「ようこそジュラシック・ワールドへ」と強い眼差しで言い放つ。 前作では「テーマパーク」の呼称だった“world”が、真の意味の“world”に転じた瞬間、前作で生じていた消化不良感は消化され、シリーズを通じた高揚感を覚えた。 原題「fallen kingdom」が指し示す真意がラストに際立ち、腑に落ちる。多少トンデモ展開であることは否めないけれど、こういうSF的暴走は、個人的に大好物なのだ。 至極当然なことではあるが、「ジュラシック・パーク」シリーズは「SF映画」であるべきだと思っている。 SF作家のマイケル・クライトンが著し、スティーヴン・スピルバーグが蘇らせた「失われた世界」には、常にSF的主観があり、物語に登場する科学者や博士の目線によって綴られるからこそ、あたかもフィクションの境界を超えた“実像”として、僕たちの目に映ったのだと思う。 その“博士の目線”が薄れ、単純なヒーロー&ヒロインもののアドベンチャーに終始していたから、僕は世界的大ヒットとなった前作に今ひとつ乗り切れなかったのだと思う。 今作も、主演コンビが続投となり、主要キャラクターの中に明確な科学者や博士は存在しないが、前述の通り、冒頭とラストのみにカメオ出演的に登場するマルコム博士の存在感が利いている。 彼が如何にも意味ありげに博士的見解を発するからこそ、良い意味でB級的なSF映画色が際立っている。流石はジェフ・ゴールドブラム(ファン)である。 また、日本語タイトルの「炎の王国」を軽くいなすように展開される“舞台チェンジ”も見事だ。 噴火する孤島を舞台に大仰だけれどありきたりな大スペクタクルが展開されるのだとばかり思っていたが、“ゴシック屋敷”への大胆な舞台変更により、映画のテイストはまさかの“ゴシック・ホラー”に転じる。 改造人間ならぬ“改造恐竜”が、大屋敷内を所狭しと暴れまわったかと思えば、雷光を浴びた恐ろしげな影がじわりじわりと少女に迫りくる。 前半の火山島シーンも含めて、映画的なビジュアルセンスに優れた気鋭のスペイン人監督(フアン・アントニオ・バヨナ)に、この最新作の舵取りを担わせたことは、大ファインプレーだったと思える。 生命の理を超越して蘇り、生き延び、進化した恐竜たちは、生命として進むべき新たな道を辿る。 一度放たれた生命を“檻”で囲うことなど不可能だ。 T-REXの咆哮は、その真理を高らかに宣言しているようだった。 かつて偉大な恐竜映画は、一人の恐竜ファンの少年を興奮で包み込んだ。 あれから25年、36歳になった少年は、彷彿とされる興奮と共に、あの1993年の夏を思い出す。[映画館(字幕)] 8点(2018-07-21 22:01:28)《改行有》 376. ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅 「ハリー・ポッター」シリーズは、全8作を“一応”鑑賞している。最終作「ハリー・ポッターと死の秘宝 PART2」は満を持して劇場で鑑賞したが、結局最後の最後まで乗り切れなかったというのが正直なところだ。 児童文学の映画化シリーズとして致し方ないし、むしろ真っ当なことなのかも知れないが、話運びや登場人物たちの言動に対して“子供向け”の範疇を超えたものを感じることが出来ず、シリーズを通じて成長した主人公がどんなに必死の形相で呪文を唱えても、滲み出る“お遊戯感”を受け入れることが出来なかったのだと思う。 ただし、この映画シリーズが、老若男女世界中の人々に愛され人気を博した映画史に残るシリーズであることは否定しようもないし、原作ファンでも無い者が否定する余地はないと思う。 そんな個人的なスタンスのため、このスピンオフ作品についても、それほど興味を持てぬまま続編となる最新作の公開を間近に控えた今の今までスルーする形になっていた。 本シリーズに通づる“お遊戯感”にプラスして、ファンタジックな生き物たちが登場するファミリー向け映画なのだろうと高を括っていた部分もあった。 が、しかし、実際に観てみたならば、いやいやどうして想像よりもずっと好きな映画だった。 珍妙な魔法生物たちが続々登場するファンタジックな映画であることは間違いないけれど、映画全体のテイストが決して子供だましなわけではなくて、“オトナの可愛らしさ”が随所に散りばめられた良いファンタジー映画だった。 思うに、「ハリー・ポッター」シリーズは、「子供」が主人公であることによる避けられない幼児性や稚拙さが、話運びのまどろっこしさに繋がっていたのではないかと思う。 しかし今作は、主人公のニュート・スキャマンダーをはじめ、登場人物たちはみな既に何かしらの人生の機微を味わっている「大人」たちだ。 大人ゆえのまどろっこしさも勿論あるが、そういう部分も含めて、彼らが織りなす人生模様が物語の奥ゆかしさとして表れている。 1920年代の古式ゆかしきニューヨークの物語舞台と魔法との相性も極めてよく、秀麗なビジュアルを見せてくれていると思う。 一転して、公開を控える最新作が俄然楽しみになってきた。 今作でサプライズ登場したジョニー・デップに加え、若きダンブルドア役にジュード・ロウ!パリ・ロンドンを舞台にした映像世界にハマらないわけがない。[CS・衛星(字幕)] 7点(2018-07-17 00:07:58)《改行有》 377. パイレーツ・オブ・カリビアン/最後の海賊 前作「生命の泉」から7年も経っていることに唖然とする。そして、7年も間を空けた上で、前作の流れを引き継ぐわけでもなく、まるでシリーズ第一作目かのようなベタな焼き直し的ストーリーを展開したのは如何なものか。 もはや忘却の彼方だったが、前作で新登場したペネロペ・クルス演じる女海賊アンジェリカが、引き続き登場する流れだった筈だが、この最新作では触れられもしなかった。 敵役として、二番煎じ、三番煎じなキャラクターをハビエル・バルデムに演じさせるくらいなら、妖艶な女海賊と対峙する様をしっかりと描いてほしかった。まあ7年も間が空いてしまった時点で、ペネロペ側としてもNGだったのだろうけれど。 キャストを一新した“リブート”だと言うのならば、まだ理解は出来よう。だが、ジョニー・デップに頼り切りの製作陣からはそんな考えは毛頭あり得なかったようだ。 であるならば、新世代を主軸に据えた新展開を繰り広げれば良かったのではないかと思う。 ウィル・ターナーの息子を主人公にして、新世代の新キャラクターを活躍させつつ、随所でジャック・スパロウやキャプテン・バルボッサの存在感を際立たせる「エピソード7」的なアプローチが展開できたならば、シリーズ全体の魅力を昇華させる新作になり得た筈だ。 オーランド・ブルーム演じるウィル・ターナーを海の底から復活させて、更なる続編を目論んでいるようだが期待は出来まい。 おそらくは、ひたすらに繰り返されるプロットで、ジャック・スパロウがバタバタと暴れまわるのだろう。それを観たいファンが喜んでいるのならば、もはや何も言うまい。 そして、海に沈んだくらいであのバルボッサが死んだとは、誰も信じていまい。[CS・衛星(字幕)] 4点(2018-07-16 21:47:17)《改行有》 378. 湯を沸かすほどの熱い愛 冒頭の朝ごはんのシーンから、この映画の主人公である“母娘”の存在感に、何だか“違和感”を感じた。 ただし、その“違和感”は、決して不快なものではなくて、何気ない会話を交わす母娘の佇まいに実在性の曖昧さを感じ、彼女たちの発する空気感が妙に心地よく、不思議な浮遊感を覚えたのだった。 宮沢りえと杉咲花が演じるその母娘像は、勿論実像としてそこに映っているのに、感覚的にはまるで秀逸なアニメーションを観ているようだった。 その不思議な感覚の正体は、ストーリーが連なり、織り重なるドラマの流れの中で、徐々に明らかになっていく。 詰まるところ、この映画は、ありふれた人情物語ではなく、母娘の機微に溢れた愛すべき“ファンタジー”だったのだ。 神々しいまでに強く慈愛に満ちた母親、その厳しく熱い愛を一身に受け止める娘。彼女たちが発する時にエキセントリックにさえ見える「激情」の意味と意図が、“ファンタジー”という言葉に集約される。 それは決して非現実的な絵空事を描いているという意味ではない。 少々現実離れしていようが、常軌を逸していようが、ありのままに描きつけたかった「母の愛」。 その表現の手段として、現実的な“しがらみ”を廃すためのファンタジー性だったのだと思う。 「母の愛」と一言で言うけれど、そのありふれたテーマ性を、こんなにも真っ直ぐに、深く、強く、愛おしく、そしてファンタジックに描いた日本映画があったろうか。 冒頭で感じた違和感を早々に通り越し、この映画世界に息づく母娘の言葉と表情がダイレクトに心に突き刺さるようになってからは、琴線が震えっぱなしだった。 この物語が素晴らしいのは、テーマである「母の愛」と、それにまつわる「母娘の機微」が、決して主人公母娘だけの事柄ではなく、ストーリーに絡む多面的かつ多層的な“母娘像”の中で描きつけられていることだ。 そして、描き出されるそれらの殆どは、決して安直な美談としてではなく、胸が締め付けられるような辛辣な現実と共に映し出される。 自らの病を押し隠し、まさに「聖母」のような美しさと強さを見せる“母親”自身にも、自らの“母親”に対する拭い去れない心傷があり、その傷は安易に癒やされることはなく、より一層深く刻まれる。 むしろ、この映画の中で語られる幾つかの「母娘」の関係性においては、一つとして“幸福”のみで綴られているものはない。 どの母娘も、何かしらの深い後悔と失望に苛まれ、恨みや怒りを孕み、苦しみ、泣き濡れる。 それでもだ。 それでも、心のどこかで、母親は娘を愛し、娘は母親を愛し続ける。幸か不幸か、そこから逃れることなんてできないのだ。 「でも、まだ、ママのこと、好きでいてもいいですか?」 母親に置き去りにされた少女が振り絞るように発するその吐露に、この映画に登場するすべての「娘」の感情が表れているのだと思えた。 いや泣いた。少なくとも、この1〜2年の間では一番泣いた。 宮沢りえは、最強だ。杉咲花は、最高だ。 ラストシーンは、銭湯での葬式。その一寸エキセントリックに見えるシーンから、「風呂桶」と「棺桶」という言葉に見え隠れする密接な関係性を知ったこの幸福な映画体験は、暫く心から離れそうにない。[CS・衛星(邦画)] 10点(2018-06-30 16:48:49)《改行有》 379. 映画ドラえもん のび太の新・魔界大冒険 7人の魔法使い 「のび太の魔界大冒険」は、藤子・F・不二雄原作の「大長編ドラえもん」シリーズの中でも屈指の名作である。 故にその原作を忠実に映画化した「ドラえもん のび太の魔界大冒険」も、必然的にドラえもん映画の傑作であると思っている。 F先生お得意の“パラレルワールド”を駆使したストーリーテリング力と、「魔法世界」というファンタジー性を見事に融合させた想像力と創造力は「流石」の一言に尽きる。 そして、その漫画世界を独特の語り口と、子供向け映画としては一寸ぎょっとする不穏さで描き出してみせたアニメーションが見事だった。 とまあそんな感じでオリジナル作品を愛するオールドファンなので、2007年にそのリメイクである今作が公開された際も、さほど興味を示すこともなく、“7人の魔法使い”なんていかにも子供だましな副題の功罪も手伝って、完全にナメていた。 が、しかし、先日観た「のび太の恐竜2006」同様、鑑賞し終えた今となっては、ナメていたことをまず平謝りするしか無い。 想定を大いに超えた“傑作”だった「のび太の恐竜2006」程の驚きは無かったが、今作も、押さえるべきところをちゃんと押さえつつ、新しい世代に向けてただの“焼き直し”にはならないように仕上げた良いリメイク作だった。 「のび太の恐竜2006」と同じく、オリジナルのストーリー性をちゃんと踏まえた上での、精力的な「改変」の姿勢が素晴らしく、ストーリー的にも概ね上手く練り上がっている。 まず分かりやすい改変ポイントから言うと、なんと言っても“メドゥーサ”の取扱い。オリジナルではシンプルに恐ろしい使い魔だったこの悪魔キャラを、ああいう形でピックアップしてくるとは。このキャラクター性の大きな改変により、ゲストスターである美夜子の抱える傷心とドラマ性が深まっている。 そして、最も特筆すべき改変ポイントは、パラレルワールドと現実世界の相互関係がさり気なくもちゃんと描かれていることだ。オリジナルでは、“もしもボックス”によって論理的な説明はないまま生まれた世界に過ぎなかった「魔法世界」だったが、今作では現実世界と並行する世界という、SF的常識にのっとったパラレルワールドとして、双方の出来事が影響しあっていることがきちんと描写される。このSF映画的には真っ当な追求は、F先生の原作にも描ききれてなかったことで(ページ数の関係上致し方ないことだが)、極めて秀逸だった。 現実世界では、美夜子の存在自体がまるで無いもとされるという原作のウィークポイントを、今作ではしっかりとフォローしているのだ。 すなわち、あの“フェイクエンディング”のまま元の世界に戻ったとしても、謎の天体の衝突により地球は滅亡を免れなかったわけで、のび太の「英断」の価値と意味が殊更に高まっている。 その他にも、魔界星の悪魔たちがなぜこれまで地球を攻めあぐねていたかの理由だったり、絶体絶命の状況でドラミが助けに来ることの論理的な説明だったりと、オリジナルでは都合よくぼかされていた部分を改変しSF的な整合性を加味していたことは、本当に見事だったと思う。 ただ一方で一抹の物足りなさもあった。それはやはり、オリジナルに対して、おどろおどろしい不穏さが激減していたことだ。今作ではカットされた“出来杉による魔法に関する講釈”のシーンで顕著だったように、オリジナルもとい原作漫画では、F先生の「魔法」や「悪魔」という文化そのものと、それが人類史に及ぼした歴史的背景に対する愛とイマジネーションが溢れていた。 メジューサの恐ろしさをはじめ、肉食角クジラの巣窟へ誘う人魚の歌声、帰らずの原の恐怖と魔界のハイエナetc…と、「魔界」という異世界の創造性とアイデアは、圧倒的にオリジナルの方が秀でていた。 とはいえ、そんなことはオールドファン特有の“難癖”の範疇だろう。 新しい世代の新しいマーケティングに対して、しっかりと戦略的に練られたアプローチであったことは理解せざるを得ない。なぜなら、自分自身も幼い我が子たちと鑑賞しながら、「メジューサの登場シーンで泣き出すんじゃないか」という不安を回避してくれたことへの安堵感を否めないのだから。[CS・衛星(邦画)] 8点(2018-06-23 22:15:36)《改行有》 380. 犬ヶ島 「日本」という国は、なんて奇妙で、ユニークで、興味深い国なんだろう。と、思う。 日本人でありながら、この映画を観ていると、この国の「異質」さに頭がクラクラしてきた。 それは、決してこの映画がいわゆる“トンデモ”日本描写に溢れているというわけではない。 日本の文化と風土を愛してくれている稀代のクリエイターが、懇切丁寧にこの国の本質を表す描写を積み重ねている。 その結果として、こんなにもエキセントリックな映画が出来上がるのだから、それは即ち、やはりこの国そのものが本当にエキセントリックということなのだろう。 “今から20年後”という時代設定も巧い。この表現により、この先いつどの時代に今作を観たとしても、近未来を描いたディストピア映画のように見える。 そして、映し出される映画世界は、過去も未来もあらゆる時代が混濁している。それは、この物語がどの時代にも当てはまる悲哀と戒めを秘めていることの暗示でもあろう。 権力と暴力により虐げられる対象を「犬」としてこの物語は綴られているが、その光景はまさに今なお続く人間の負の歴史そのものだった。 もしこれがそのまま「人間」が虐げられる話として描き出されていたならば、とてもじゃないが直視できない。 けれど、人間の“隣人”である「犬」に置き換えて、独特の風合いのストップモーションアニメで映し出すことで、映画としての可笑しみが生まれ、同時に胸に刺さる悲しみや辛辣さも孕むことに成功している。 ウェス・アンダーソン監督ならではのフェティシズムに溢れたユーモラスでブラックな快作である。 コレ程偏執的な「日本愛」を示されては、日本人として、映画ファンとして、ニマニマしながら観るしかなかった。[映画館(字幕)] 8点(2018-06-21 09:23:39)《改行有》
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