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【製作年 : 2000年代 抽出】 >> 製作年レビュー統計
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21.  BALLAD 名もなき恋のうた 《ネタバレ》 井尻又兵衛が向こう岸から川を走り抜けて来、山賊たちとの殺陣を繰り広げ、それを一気に畳み掛けるワンショット 又兵衛が部屋を出、簾姫が引き止める、又兵衛軽く会釈してその場を立ち去ろうとするが、真一がカメラ前を横切り又兵衛を説得すると踵を返し簾姫のもとへと戻って行くワンショット 櫓から降りてきて門を抜け、坂道を下り、走り続けるも、銃声が鳴り響き、脚を止めてしまう簾姫が一気に小さくなっていくワンショット 自転車に跨がり、坂道を下り、大声を上げ、性急なパン、びゅーんと駆け抜けて行く真一とともに幕を降ろすワンショット どの長回しのワンショットも見事に撮れている。そこに映し出される人物たちの感情を見事に切り取っている。長回しのワンショットは時間と空間の証明だ。断絶されない時間と空間、それは我々に流れている時間と空間と同じものであり、だからこそ長回しのワンショットが美しく撮れたとき、映画においての豊かな表現となるのだ。 この映画の主題は溝口健二「近松物語」的であり、香川京子というキャスティングはそういうことだ。 何故そういうことになるのかと言えば、思い起こせば3年前、没後50年溝口健二国際シンポジウムに登壇した山崎監督、あの姿を思い出すわけで、つまりそれが結実した今作のはずなのだ。 もし、水面、すすき、長回しのワンショット、そんなもので溝口健二を表現する気だとすれば、それは所詮溝口的クリシェが山積みとなっただけの凡作だ。 ただ今回の一番巧かったところは実は溝口とはあまり関係のないところであった。 それは簾姫が自動車に乗り、その後ろを又兵衛が馬で追い掛けるも距離は広がり、追いつくことが出来ないというシーンだ。この時誰もが、もはやこのふたりは永遠に結ばれることはないのだろう、という暗示に気がつくはずだ。この距離感の問題というのは要するにイーストウッド的であるということだ。そして、あの銃声、立ち止まる簾姫、カメラは止まることなく彼女を突き放して行く、実に立派な連鎖が起きているだろう。 山崎監督のやりたいことは充分に伝わるが、いまいちのれないのはあまりにも幼稚なシナリオだからなのか。あらゆるところに巧さは見えるが良い映画なのかとなると話は別だと言わざるを得ないだろう。[映画館(邦画)] 5点(2009-09-15 02:38:51)(良:1票) 《改行有》

22.  ノウイング 《ネタバレ》 過去の50年間でありとあらゆる災害、戦争やテロ、事故などにより、数多くの人々の命が瞬く間に失われて来た。この映画はそれは総て定められた事象であり、偶然の確率などではないと言っている。だからこそ避けられない人類の滅亡も待ち受けている。しかしそれを知る全知全能の神たち(宇宙人たち?)は、新たなるアダムとイブを選ぶ。宗教性溢れた終末思想が露顕し過ぎてはいるものの、充分楽しめる。 アメリカ映画の現在が、終末世界からの回避ではなく、決定された終末世界からの新たなる芽吹きというほうに向かっているのが非常に興味深いところだ。要するに「一度すべてなかったことにする」ということだ。 総てには責任が付いて回り、我々人間がその責任を負い、皆で力を合わせて解決していかなければならない(特にアメリカが中心となって)、という映画を量産し続け、アメリカの強さを誇示し続けているようにも感じられたが、もはやそれは無理よと。こういう考え方になったのはやはり9.11があったからなのだろうか。一回リセットしなきゃもう無理だよと。だからこそ「一度すべてなかったことにする」。 恐ろしい映画と言えば恐ろしいわけで、一回のリセットに伴う犠牲が過去の50年間のありとあらゆる死者たちとも考えられるわけで、このあたりは実に曖昧に描かれているとも言える。 ニコラス・ケイジが最後、舟に乗らなかったのは、責任の部分であり、リセットされる新たな世界に過去の責任は無関係であり、すべてを断絶しなければならないという意思なわけだ。そういう意味では責任を果たしたということにもなるだろうし、親子の継承ともなるのだろう。 それにしてもニコラス・ケイジを久しぶりにスクリーンで見たが、この人は出ているだけで、何か納得させられる部分がある。この人の情けない表情とか、禿げてしまった頭皮が、人間味溢れていて、存在として説得力がある。[映画館(字幕)] 6点(2009-09-13 21:06:12)《改行有》

23.  サブウェイ123 激突 《ネタバレ》 デンゼル・ワシントンが笑顔で我が家の門を押した瞬間にすべてが終わるが、またしてもストップモーションで幕を閉じてしまうという潔さだ。 結局ガーバーと彼の妻はこの映画で一度たりとも同じフレームに収まることはなかった。何故、最後、ふたりは抱擁しないのか。そんなことはこの映画においてどーでもいいことだからだ。ミルクを買って家に帰るという約束を果たせるか果たせないかということが重要で、ふたりの愛を確認し合う作業などトニー・スコット含め我々観客も全く興味がない。だからこそ、帰り道にミルクのパックが入っているであろう白いビニール袋を右手に持って歩くデンゼル・ワシントンというショットと彼のクロースアップのストップモーションが感動的なのだ。その後の抱擁し合うふたりなど幾らも感動的ではない。これこそがトニー・スコットなのだ。 また市長の描き方など絶品で、いかにも金の虫のような風体を晒しながらも、憎めない人の良さも醸し出し、犯人の割り出しも自らやってしまう、善でも悪でもない人物を平然と登場させる。罪悪感からか正義感からかで突っ走りだすガーバーや、金だけのライダーなどに比べ、あまりにも平凡な人物という描き方が素晴らしい。故に不倫というワードこそが現実的で必要不可欠なものとなり、そのためには市長を囲むマスコミすらもトニー・スコットには重要な登場人物たちなのだ。 現金輸送中のパトカーの事故、鼠のせいの誤射、PCによる映像、こんなものほとんど無駄な羅列にも見えるが、それらはただ「偶然」あるいは「運命」という得体の知れない厄介なものによって、ペラム123に連結され地下を疾走しているに過ぎない。だからこそその連結をいつ切り離そうが所詮それは「偶然」や「運命」であり、そうなったという事象のみがそこには存在することとなるのだ。 ガーバーとライダーの橋の上での対峙なども素晴らしい。いくらガーバーが警察官たちを呼べども全くもって近づいている感じがしない。その都合の良さこそ映画であり、その都合の良さが、ライダーのいつものカウントダウンでガーバーに極限の選択を迫らせるのだ。そしてこの時の単純なふたりのカットバックが見事な物語を構築している。 それでいての106分。スクリーンに映し出されるすべてを必要な情報として処理し、途轍もないスピードで走り抜ける、この潔さはトニー・スコットが唯一無二の存在になっていく証だ。 [映画館(字幕)] 8点(2009-09-05 02:41:00)(良:5票) 《改行有》

24.  3時10分、決断のとき 《ネタバレ》 何という素晴らしさなのだろうか。正に、視線の、まなざしの映画だ。 何よりも、人々が向けるまなざしを見ているだけで、すーと吸込まれてゆきそうで、そしてそこから伝わってくる彼らの気持が体内に染込んでくる。だからこそ、単純なカットバックが幾度となく繰り返されるのだが、それだけでも充分なくらいの物語が構築されている。 ラッセル・クロウ演じるベン・ウェイドがクリスチャン・ベール演じるダン・エヴァンスに馬乗りになりながら首を締め付けるのだが、ダンの、金ではなく妻や息子たちに自分の誇りある姿をもう一度示したいのだ、という本心をベンは知り、物語はそこから一転し、彼らが屋根の上を伝いながら、ユマ往きの汽車が滑り込んでくる駅舎まで駆け抜けて行く様などは、もはや涙なくしては見ていられない。この瞬間、善悪などというものなど一切断切れ、あえて言うのであれば、それは絆や友情、そして誇りというものを懸けて、男ふたりが激しい銃撃のなかを駆け抜けて行く。このふたりが何かひとつのものを目指して共に駆け抜けて行くということなど、映画の中盤からでは想像だにつかない。にもかかわらず、ひとつのフレームの中でふたりが駆け抜けて行く姿たるや、見事という他ないだろう。 ラスト、息子のウィリアムがベンに銃口を向ける。この時の彼のまなざしの変化がまた素晴らしい。彼はベンと知り合ってからベンを憧れのまなざしで見つめていた。しかし、この時のまなざしは怒りそのものであり、いつ引金を引いてもおかしくはないのだ。しかしウィリアムは、無法者ベン・ウェイドをユマ往きの列車に乗せた父を心から誇りに感じた。だから撃たないのだ。何故なら、彼はまたその誇り高き父の継承者だからだ。 ただ、ふたりが対峙した瞬間、ベンはウィリアムにまなざしという拳銃で撃たれていたのだ。 だからこそ、そのまなざしを受けたベンのまなざし、この素晴らしさには計り知れないものがある。 ベンは誇りという絆で結ばれたダンの敵を暴力に任せ解決してしまうのだが、また同じく父と漸く誇りで結ばれたウィリアムはその暴力を自ら抑制する。ダンはその時思うだろう、誇りという事の尊さを。 そしてダンとの絆、あるいは彼の誇りに懸けて、ベン・ウェイドは、3時10分、ユマ往きの列車に自ら乗り込んで行くのだ。[映画館(字幕)] 9点(2009-08-10 02:46:54)(良:3票) 《改行有》

25.  アマルフィ 女神の報酬 《ネタバレ》 木村大作はこれを見て「劔岳」が失敗であることに気付くべきだ。アマルフィが美しかろうがオールイタリアロケだろうが、その風景に物語が引き摺られては駄目だ。イタリアが舞台でもイタリアを撮りに行ったわけではない。そんな「劔岳」のような失敗をこの映画は見事に回避している。 正直言ってそんなに悪くないのだ。織田裕二演じる黒田の人間性や天海祐希演じる母親の心情もそつがなく描かれている。だからか、織田裕二の眉間に皺を寄せた顔も、木偶の坊みたいで映えない天海祐希も許せる。登場人物の出し入れもそつがない。戸田恵梨香演じる安達の登場のタイミング、出過ぎは邪魔臭いイタリア人刑事と他の日本人は程よく出す、このようなところは弁えられている。 物語は、ありきたり、説得力に欠ける、阿呆らしいと言ってしまえばそれまでだ。しかしながら、その脚本がこの映画ではそつがなく演出され、そつがなく出来上がっているのが良い。だからこその125分。名所の実景ばかり挿んで間延びして140分近くになったら目もあてられない。 そして映画はそつがなく進んでいくが、ある時、一気に破綻する。黒田が刑事に銃を突きつける。これを悪いとは思わない。そんなアメリカ映画などいくらでもある。それが銃社会かどうかということで、日本だと成立しないのだが、イタリアが舞台だからいいじゃんとも思える。ただそこから破綻し続けないから駄目だ。破綻することで物語は加速度を増すのだから、強引でも納得できちゃえばそれでいい。映画なんて所詮嘘っぱちだ。 巻頭とラストの大使館でのミーティングのシーンが同構図のショットの同じ繋りで出来ていること、つまり事件を挟んでも大使館の日常は続くという表象、こういうこともそつがなくやれている。 ただ残念なことがある。映画の必然性として、黒田はやはり本当の父親になるべきだ。映画はそれを許す。そしてそうならなければ成立しないショットがふたつある。佐藤浩市演じる藤井は最後に黒田を呼び止める。クロースアップ。無言で何かを伝える。黒田のクロースアップ。わかったと頷く。藤井は黒田に会う度に言う「紗江子さんを宜しくお願いします」「紗江子さんを最後まで支えてやって下さい」と。つまり藤井の無言のクロースアップはそういうことだ。そして黒田はそれに頷いた。だから彼は日本に帰らなければいけない。続編を作ろうなんてフジテレビは考えてはいけないのだ。[映画館(邦画)] 6点(2009-07-30 00:28:01)(良:2票) 《改行有》

26.  それでも恋するバルセロナ 《ネタバレ》 ここ数年、といっても「さよなら、さよならハリウッド」ぶりくらいに素晴らしいと思う。 ウディ・アレンの映画についてあれやこれや書いても、結局すべてが元通りになってしまう、ということに尽きるのだが、ファンとヴィッキーとクリスティーナの三人の関係がファンとクリスティーナとマリアの三人の関係へとスライドしていく様は見事で、ファンとマリアの関係がいつも同じことの繰り返しであるのと同じように、アレンの映画もすべてが同じことの繰り返しだということだ。ヴィッキーとクリスティーナはバルセロナにていつもの自分とは違う経験をするのだが、それはやはりいつもの自分とは違うのだと悟り、帰国する。微妙な変化はあれど、結局はすべてが元通りになるのだ。 なので、今回はあるひとつのことだけを書いておこうと思う。 とにかくハビエル・バルデム演じるファンの登場のさせ方が素晴らしいのだ。スカーレット・ヨハンソン演じるクリスティーナが「あの赤い服の男?」と最初から狙いを定めたかのように聞くのだが、すぐにその赤い服の男のワンショットを挿入するのではなく、パトリシア・クラークソン演じるジュディが「違うわ、あの人は誰だったかしら?」となり「そうそう、あの人は妻に殺されかけた画家で、美術界ではスキャンダラスになった人よ」という一通りの紹介を経て始めてスクリーンに登場する。 例えば「あの赤い服の男?」でワンショット挿入した場合、どちらにしろ彼の紹介の後に繰り返し彼のワンショットを挿入しなければ成立しなくなるだろう。しかしアレンはそんな無駄なことはしない。最初のワンショットの抜きなど無くても充分だと知っている。 また最初にワンショット入れなかったことにより、観客は彼の紹介すべてを聞いてから、このシーンの最後のショットとなった赤い服の男のワンショットを見ることになり、そのショットがより強調されることになるのだ。この赤い服の男はそういう男なのだという観客の理解が深くなるということだ。これが映画作りの巧さだ。[映画館(字幕)] 7点(2009-07-16 00:19:59)《改行有》

27.  ディア・ドクター 《ネタバレ》 井川遥が良い。膝を抱え涙を堪えながら俯いている瞬間々々が素晴らしい。 しかし残念ながらこの映画の他の瞬間はほとんど駄目だ。 登場人物たちの感情は隠され、生きている感じすらせず(実際、玄関で笑福亭鶴瓶演じる伊野を送る八千草薫演じるお婆ちゃんもガラス越しに手を振る変なお婆ちゃんも、まるで死んでいるか幽霊のように映る。それは凄くいいが映画に対して何の作用もない)、また彼らのその表情には裏腹さが潜む。それは脚本上の彼らの感情であり、その時々、映画としての瞬間の感情ではない。だからこそ何の裏腹さも含まない、ただ母を心配するだけの瞬間は素晴らしい。 つまり西川監督が描く人物たちは脚本上の人物であり、映画としての人物ではない。 どんなに台詞や物語が良くとも、映画としては昇華されていない。 伊野が何故「ああ、やめた」になったかということだが、結局は責任の放棄だが、むしろただの約束の放棄にも見える。八千草薫演じるお婆ちゃんとの約束は「医者として」の約束というよりは「人として」の約束だったろう。しかし告知への恐怖から「娘には絶対に言わない」という約束への後悔は起ったが、医者を始めたことへの後悔は起きていない。最後に病状だけを伝えたのはただの恐怖心からだ。つまりライセンスを持たず治療をし続けたことへの慚愧の念はこの映画にはないのだ。「医者として」の責任の重圧から逃れる為に「人として」の約束を破った、となればこの映画に描かれた伊野は「医者として」の資格も「人として」の資格もないということだ。 医療をやるには絶対的な「覚悟」が必要だろう。それは人の命に関わる仕事だからだ。にも関わらずこの映画は、そういった「覚悟」の必要性には無頓着で、伊野は弱いけど優しい人なんだよという呑気でどーでもいいことを提示して終わる。本物よりも偽物でいることのほうがよっぽど「覚悟」がいるはずだ。それを理解していないからこそ、またしてもお茶汲みの偽物に扮して伊野を登場させてしまう。 この映画は医療や過疎化に触れるがそんなことはどーでもいいようだ。ただ、本当に人を救い支えるとはどういうことかを描きたいだけなのかもしれない。それはそれでもいい。映画なんて啓蒙的である必要はない。しかし、医者を「ああ、やめた」という男だけど優しい人という、30歳過ぎて無職だけど優しい彼氏みたいなどーしょもない人を2時間もかけて描く必要もない。[映画館(邦画)] 5点(2009-07-15 04:58:18)(良:1票) 《改行有》

28.  レスラー 《ネタバレ》 ミッキー・ローク演じるレスラーのランディとマリサ・トメイ演じるストリッパーのキャシディは、どちらも年齢を重ね、自らの職業に限界を感じ始めていた。 ランディがリングに上るのを背後から追い掛けるカメラは、彼がスーパーの接客業に始めて挑む時にも彼を背後から追い掛ける。またある時そのカメラは、キャシディがストリップ小屋の舞台に立つとき彼女を背後から追い掛ける。人生はいつでも戦いであり、誰もが人生の舞台というリングに上り、戦っている。 しかし、大概、誰にでも限界は訪れるのだ。ランディやキャシディのように世間から見たときに、軽視されがちであったり、偏見の目で見られがちな職業についている場合、そこから引退することは、同時に様々な困難に立ち向かうことを意味するだろう。 だからこそ、ひとは選択をしなければならない。ランディの選択、キャシディの選択、それはどちらも間違った選択などでは決してないのだ。 ランディは自分の生きる道がやはりレスラーにしかないのだという選択をする。自分の居場所は、ファンの前に立つ、リングの上に立つということ、そこでしか自分の存在価値を見いだせないことに気付いてしまう。だから彼はいつもの戦いの場を選ぶのだが、それは同時に自らの死を選ぶことになることを彼は気付いている。即ち、彼は正に決死の覚悟でリングに滑り込む。 そしてもはや立っていることすらも侭ならないにも限らず、コーナーにのぼり、必殺技ラム・ジャムを放つ。 しかしそれは死ぬこと。 死ぬなら自分が一番輝いている場所、リングの上で死ぬ。これはほとんど自裁であり、リングという彼の聖域に自らの命を捧げるということだ。正に不器用な男の、不器用な覚悟なのだ。それがランディの生き様だ。 そういう生き様をミッキー・ロークという適任者で、ただただ愚直に描く。それもまたランディの生き様のごとく、なんの捻りもなく、もちろん巧さなんてなく、ただ愚直に描くのだ。それで充分ではないか。 自分はこの男を愛するべき人間であったと深く思えた。[映画館(字幕)] 7点(2009-07-12 01:17:34)《改行有》

29.  トランスフォーマー/リベンジ どんなに眉間に皺を寄せても前作の記憶を呼び起こせず、どうやって教室の日陰廊下側男子と日向窓側後方女子が結ばれたのかとか謎だらけで、自分は本当に前作を見たのか自身を疑ったが、兎に角本作を見ようとIMAXデジタルシアターに駆け込んだ。 通常のDLPよりは輝度もありコントラストも高く、そのせいもあってか通常のDLP上映時のピント合ってんのプロジェクターという疑念も浮ばず見ていたが、何故前作の記憶を喪失したのか理解した。それは自分には責任はなく、明らかにマイケル・ベイの責任だった。こんな阿呆らしい映画覚えてるわけない。 しかしそれと同時に前作がマイケル・ベイの最高傑作だと思ったことを思い出した。 とにかく爆発、爆発でぼーん!ばーん!どーん!ってそればっかで笑った。ちまちました銃撃戦よりぼーん!ばーん!どーん!ってやってる。爆発の数は史上最高だ、きっと。 それにしても長い、と思っていたが、最後、サムがオプティマスに辿り着くまで、たった数キロの距離をあそこまで時間をかけて描く馬鹿はマイケル・ベイしかいないと半笑いになった。だからやはりこれもマイケル・ベイの最高傑作だと思った。 彼は少し変だ。少なくとも物語に興味がない。人間というよりは動物としての本能を曝け出したような主人公が爆発する中を走って叫べばいいと思ってる。オバマはシェルターの中に放り込み、米の陸海空軍総動員でとにかく当たって砕けろ、なんとかなるさっていう能天気加減が素晴らしい。最後のシルエットみたいなシーンの連続は彼の映画ではもう飽きるくらいに見た。でもそれはそれで良い。愛などを表現をしたい時にはストレートに羞恥心もなく、これかっこいいでしょ?みたいな軽い感じでああいうのを撮っちゃう。すべてがそんな感じだ。純真過ぎる子供みたいに。 この人の映像やVFXの使い方は徹底している。それは必ず良く晴れた青空であり、VFXの背景は必ず実写で撮っている。フランスだかもピラミッドや森も、すべて実写で撮って(しかもピラミッドと森はIMAXカメラで撮影してるし)、その上にCGをのっけている。これをずっとやってる人は彼くらいだ。 この映画の凄さは、はっきり言って、マイケル・ベイのあまりの変貌の無さだ。そしてただこういうかっこいいのを撮ろうという意気込みだけが充分に伝わって来くる。それがむしろ爽快だ。[映画館(字幕)] 6点(2009-06-30 10:37:33)(笑:1票) 《改行有》

30.  夏時間の庭 《ネタバレ》 アサイヤスはきっと優しすぎるんだろうと思う。美術館に展示されるような価値あるものの中で生きている人々のごく普通の家族の集いであったり、親の死であったり、遺産の相続であったりするわけで、すべては我々が生きている日常の生活と何も変わらない。それを優しすぎるくらいのまなざしでアサイヤスは切り取っていく。 しかしエリック・ゴーティエのカメラは優しくはなくて、むしろ過酷。それはデプレシャンの映画を見ているとよくわかる。デプレシャンは常に過酷だから。それは映画に何を求めるかという話になると思うが、個人的には映画に優しさを求めてはいけないと思っている。映画は常に過酷でなければならないと思っている。 これをゴーティエの問題とするかは疑問が残るが、アサイヤスとデプレシャンのカットバックはどこか似ている気がする。人物の位置関係がはっきりとせず、どこか忙しない。これは決して優しいとは言えないのではないか。むしろ過酷に映る。そういう面で、アサイヤスは優しすぎるからこそどこか損をしているように思う。 ただ若人たちが集まってくると、過去(歴史)と現実(現代)が混ざり始めて混沌としてくる。ああアサイヤスはこれがやりたかったんだっと思ったのだが、それと同時にゴーティエのカメラも急に活き活きとしてくる。娘がノスタルジーに浸かりだすと、それは正に混沌として何やら過酷で素晴らしい。 ラスト、俯瞰で、緑生い茂る中を手を繋いだ若いカップルが駆け抜けていくだけで、もうそれでいいよねって思えてくる。だって最初だって子供たちが走り抜けていくところから始まるわけだし。 結局、何がしたかったかっていうと祭りがしたかったのかなと思った。過去や今を背負いながらも、寂しくならず、いつでも楽しい祭りがしたいのかもしれない。そういう風景を撮りたかったのかもしれない。 アサイヤスの素晴らしいところは、何でもないごくごく普通の人々を、またはその行動を風景の中に溶け込ませて、また別の風景を産み出してしまうところだ。[映画館(字幕)] 7点(2009-06-27 00:35:49)(良:1票) 《改行有》

31.  劔岳 点の記 自然の美しさや恐ろしさを描くとは何か。その美しい恐ろしいと思える風景をフィルムに定着させられることが重要なのか。それは違うだろう。それはただの映像だ。映画はその美しいと恐ろしいと思っている感情を描かなければならない。少し話はずれてしまうが、ヒッチコックの「北北西に進路を取れ」のラシュモアの崖のシーンが今見ればあのチープ感であれだけサスペンスなのは何故か。それは見事なまでの感情が撮れているからだ。モーションピクチャはエモーションピクチャでなければならないというダジャレを言うつもりはないが、正にそういうことだ。世に言われる美しい映像というのは映画にとってさほど重要なことではない。映画においての美しさあるいは恐ろしさとはひとの感情が露呈して初めて見ることが出来るからだ。 極論を言えば、役者は何もあの山に登らなくてもよいのだ。映画に何故セットが生まれ書割が生まれCGが生まれたのか。実現困難な世界観のために死を省みずに映画を撮りにいくなんて馬鹿げているからだ。機材が壊れ、人が怪我をする。ハリウッドではこの企画が通ることは難しいだろう。たかが映画じゃないか。測量に行くのではない。 物語自体にも大きな問題はある。一番言いたいのは、何故人が死なないのか。自然の過酷さを前に人の命の儚さを見せてはくれないのか。 しかしこの映画の俳優たちは、皆、素晴らしい演技を見せている。それは確かだ。特に宮崎あおいに関しては、彼女の登場シーンの安堵感は一体なんだ。勿論、他の俳優たちも素晴らしい。浅野忠信のいつも通りの何を考えているか全くわからない感じも、香川照之の泥臭さも、この映画を通して静かながらも一番変貌を遂げていく浅野の真似でもしているかの松田龍平も、何を演じても役所広司は役所広司でそれで納得できてしまうところも、仲村トオルの相変わらずの嫌味な奴っぷりもすべて立派だ。これだけの名優たちに支えられながらも、この映画は何かを欠いている。それは美しい恐ろしいと言われる風景映像と、彼らのそれらの感情が表裏一体ではないからだ。俳優たちがどんなに熱演しようとも木村大作はひとになんか興味がなく、興味があるのは山という風景ばかりだ。ひとと風景が表裏一体となった別の風景をフィルムに定着させることは出来ていない。 そういった風景が生まれることで、彼らの情熱が伝わってくるのではないだろうか。[映画館(邦画)] 4点(2009-06-26 15:11:20)(良:1票) 《改行有》

32.  ターミネーター4 《ネタバレ》 やたらマーカス・ライトの心臓であーだこーだやるなと思っていた。川辺では鼓動も聞いた。半分マシーン半分人間ということの強調かと思った。ところがジョン・コナーの胸部にT-800が金属片を突き立てた瞬間に移植という展開が一気に露呈した。 そして終盤、スクリーンに映し出されるすべてを疑った。この戦争の指導者は死ぬわけにはいかないから心臓を移植しましたでは、マシーンと人間との差異を描いてきたこのシリーズの根底を覆すことになるだろ。マシーンのパーツ交換じゃねーんだよ。「2」では修理すれば生きれたシュワちゃんだって自ら死を選んでんだぞ。シリーズを通しての物語の整合性など興味はないが、本質的に何を描くのかを見失っているのではないか。 そして「1」「2」の不安感は一体どこへ行ったのか。「1」「2」には、日常世界に見た目は人間だが中身がマシーンの殺戮兵器が未来から来て、反撃しようともくたばらず、執拗なまでに寡黙に追い掛けてくるという、底知れぬ恐怖とサスペンスが滲み出ていた。審判の日を経たため日常世界は消滅したのだから、同じことを求めるのは阿呆な話だが、あまりにも無意味で能天気なアクションシーンに緊迫感や不安感はなく、何よりもターミネーターに対する恐怖感が皆無だ。サラ・コナーが半狂乱になってまで恐れた終末世界ってこんなもんなのか。 これは戦争映画だ。それは正しい。マシーンは離脱や融合を繰り返し人々を襲う。これも正しい。しかし恐怖はない。ただの迫力のあるシーンだ。でかいマシーンはスピルバーグの「宇宙戦争」のトライポッドと同じ音を発し、これもまたトライポッドと同じ行動だが、人々を掴み籠へと入れるが、「宇宙戦争」にはあった不安感がここにはない。ジョンがカイルを救出するために端末をいじりながら侵入するが「ミッション:インポッシブル」のイーサン・ハントかと思う。モトターミネーターの目を使うところなどは「マイノリティ・リポート」じゃん。ジョンをトム・クルーズがやったらとんでもなかったろうに。 T-800とのバトルで、高低差のある工場内のような場所をわざわざ選んだのは「2」のバトルシーンへのオマージュだが、ここでの緊迫感はジェームズ・キャメロンのあのシーンには到底及んでいない。 悪いところばかりではないが、「ターミネーター」はシュワちゃんと、だっだっ、だっ、だだん!があればいいわけではない。[映画館(字幕)] 4点(2009-06-15 23:58:11)(笑:1票) (良:4票) 《改行有》

33.  重力ピエロ 《ネタバレ》 感染する癖なども含め、真の家族とは遺伝子的な繋がりではない、と充分なほどにこの映画は家族の絆の強さを描いているのかもしれない。ただ問題は家族の絆ではなく、家族の社会における位置だ。 この秩序ある社会でひとを殺した時、どんな理由があろうとも罪となり罰を受ける。それを社会が正当化することはあり得ない。もし正当化出来るとすれば、唯一それはひとそれぞれの思考の中でだ。それはエゴイズムとも呼べるだろう。 個人的な感情からすれば、主人公たちの殺人を許せるだろうし、罰を受ける必要性も疑うだろう。しかし倫理観に基づく社会の秩序は決してそれを許さない。感情論だけで最も正しい道徳を歪めることなど許されないのだ。ひとはひとを殺してはいけない、これが事実だ。 この映画はそういった秩序に対してエゴイズムで押し切ることに抵抗を感じている。だから社会の秩序を逆なでしないよう泉水がすべてを台詞で説明した上で春の自首を否定する。しかしこれは大きな無駄だ。何故なら、これは新聞やテレビなどでしか事件の側面を知らない現実ではなく、映画であり観客はすべてを見て知っているのだから、春と泉水の行動や感情を知っているし、彼らの感情論のエゴイズムをも理解しうるだろうからだ(勿論理解出来ない人もいる。そしてそれが正しい社会の秩序だ)。だからこれは明らかに社会の秩序に対して予防線を敷いた上での生温い結末なのだ。 母親を強姦した男(この男が殺されるべきだと徹底された悪として具象化され過ぎだ)を殺したことを開き直れということではない。ひとを殺したという事実を背負った重力を感じずに生きることなど不可能であるということの表象が見たいのだ。重力を無視した清々しい結末などいらない。家族の絆としての重力でこの物語の幕を閉じていいのだろうか。(この地上で生活している限り=この社会の中で)ひとは重力に逆らって生きることなど不可能だ。その重力を無視することはこの社会や秩序から逸脱して生きることを意味する。 彼らは「最強の家族」ではなく、この社会から最も「孤立した家族」となった。もしそいう結末ならば、それすらも恐れず生きていくのだという強さが必要となるだろう。しかしそういう映画にもなっていない。結果、生温い家族の絆の映画となった。 また、映画は時にエゴイズムで社会の秩序を押し潰せるのだと思う。[映画館(邦画)] 5点(2009-06-14 00:34:04)《改行有》

34.  消されたヘッドライン 《ネタバレ》 (結果的に全く違う映画だったのだが、軍事産業というキーワードだけで考えたときに)これなら「ザ・バンク」のほうが圧倒的に面白いだろう。 答えに辿り着けそうで辿り着けない世界というのは確実に存在しているという「ザ・バンク」に対して「消されたヘッドライン」は友情とかいうことに縛られてしまって紆余曲折して辿り着いた世界が実は足許だったという落胆にも値するほどのあっけないものとなってしまった。しかもその殺人はベン・アフレック演じるスティーヴンが望んだものではなく、歪んだ愛国心が生んだ勘違いの悲劇だったということ。 真実に辿り着いてしまったことに不満があるわけではなく、その真実に辿り着いたラッセル・クロウ演じるカルの絶望感が、新聞記者としてのものでなく、友情であるということがこの物語を一気に尻すぼみにしているだろう。 新聞が舞台となり、政府も巻き込んで、巨大な組織と対峙したにも限らず、結末が勘違いだの友情だのでは、結局ゴシップニュースレベルの話だったということだ。そもそもそんな展開など誰も望んではいないと思うのだが。 そして何よりも微妙な揺れが気になる。手持ちなのかスタビかましてるのかわからないが、微妙に揺れてる。全くこれの意義がわからない。[映画館(字幕)] 5点(2009-06-08 21:10:17)(良:1票) 《改行有》

35.  スター・トレック(2009) 《ネタバレ》 シリーズもののマンネリ化を払拭するために、過去のシリーズとは一線を画したものにすること、それは「バットマン」シリーズ、更には「007」シリーズにおいて成功を収めた。過去のシリーズやファンに対する敬意を忘れず、新たな展開を用意し客層を拡大する。 このとき、一番の手っ取り早いことは、バットマンの、ジェームス・ボンドの、誕生を描くことだった。往年のファンは興味を抱かずにはいられず、はじめてシリーズに触れることとなる観客たちにとっては入り易い。 それらを踏まえた上でこの「スター・トレック」は新たなシリーズを華々しく迎えた。 J・J・エイブラムスという人は兎に角端折る、無駄をすべて削ぎ取る。この展開の速さは少し尋常ではない。カークの母親など、産んだときにしか出て来ない。こういった映画にあるであろう定番の訓練シーンなども一切ない。宇宙船がワープするように、話もワープする。 しかしこれくらいの展開の速度が実は丁度いいのだ。いつまでもだらだらとやって3時間くらいのかったるい映画を作るハリウッドなど誰も望んではいないのだ。 言葉と暴力と接吻という最小限の感情表現手段を用いて、強引で調子がよい展開という映画における特権を最大限までに活かして、それでこの映画が大スペクタルとして成立するならばそれで良いではないか。 素早いモンタージュを繰り返すせいか、もはや実写とVFX、CGの違和感など問題ではない。むしろこの映画のそれらは圧倒的なまでに素晴らしく良く出来ている。 カークという男はどんな時でも崖っぷちでぶら下がって生きている男だ。 この映画では彼は三度も何かの端に必死に両腕二本でぶら下がっている。しかし彼は決して落ちない。 彼にスポックが「死に対する恐怖を理解しろ」というようなことを言うのだが、そもそも彼は死んでもおかしくない状況で産まれてきているし(母親の胎内から産み落されるのと同時に、父親の船からも産み落されるという構造が良いではないか!)、常に両腕二本でぶら下がって生きている男なのだから、そんな奴に死の恐怖もへったくれもないわけだ。だからこそあっけなく彼はキャプテンの席に着くこととなる。 この映画のそのあっけなさは、決して落胆するようなものではなく、むしろ痛快ささえも感じるあっけなさだった。 [映画館(字幕)] 7点(2009-06-03 21:54:18)(良:2票) 《改行有》

36.  チェイサー (2008) 《ネタバレ》 観客にはすべて提示されていく。犯人は誰で、何故殺すのか、ミジンは生きているのか、どこにいるのか、我々観客は何も謎を抱えぬまま、すべてを知っている。その観客が知っていることと、登場人物たちが知っていることの、情報量の違いがこの映画の見せ方であり、こっちは知っているが、あっちは知らない、という映画の構造としては単純だけども、だからこそ、10分先はどうなるのか、1分先は、じゃあ10秒先はどうなるのか、というサスペンスが展開されていく。 幼い娘がいるのにも限らず売春なんてするのか、という意識の問題がある。だからといって殺されるのは致し方ないということにはならない。売春なんてしているからこういう事件に巻き込まれるのだという問題もまた、確率の問題であって、理由にはならない。結局、彼女が殺されなければならなかった理由なんてのはひとつもなくて、だからこそ、刑事崩れのチンピラは徐々にだがどうにかして彼女を救い出したいと奔走する。フロントガラスに打ち付ける雨の中、泣きじゃくる少女とその横で電話越しに怒鳴り続ける男の描写はとても良くて、何も罪のない少女が孤児になるという理不尽さを回避しなくてはならないということだ。汗まみれになりながら走り回ったチンピラはいつの間にかまるでミジンと少女の家族の様にすら映る。誰かを本気で救いたいと思う気持、それだけが溢れ出てきた瞬間だ。しかし現実は理不尽なので、ミジンは殺されてしまう。あの時電話に出れていればという後悔が彼を襲う。 しかし、彼はその後悔からあの幼き少女の病室に向かったのではなく、彼は既に保護者の欄に自分の名前を記入していたからだ。あの瞬間に彼は契約をした。保護者になることは決定づけられていたことであり、そこからの回避は不可能なのだ。だからこそ、彼は彼女の病室に行くことは必然であり、これからもふたりで生きていくのだろう。 最も残念なことは犯人のキャラクターが散漫で、敬虔なクリスチャンであるというような設定は蛇足過ぎるのではないだろうか。[映画館(字幕)] 7点(2009-05-31 02:30:46)(良:1票) 《改行有》

37.  ミルク(アメリカ映画) 《ネタバレ》 「エレファント」と「ラストデイズ」の残滓のような「パラノイドパーク」で、クリストファー・ドイルよりも、やはりガス・ヴァン・サントはハリス・サヴィデスなのだと感じた。 「ミルク」はガス・ヴァン・サントがインデペンデントの世界から舞い戻ってきた商業的映画だ。であるからこそ、ヴィスタサイズで撮られている。しかしファーストショット、キャメラはハーヴェイがいるキッチンの手前の部屋に据えられ、ヴィスタの両サイドに映る扉やら壁やらは光を失い暗部へと落ち込み、もはやスタンダードになっている。この時、構図自体が明らかにスタンダードを意識しているだろう。このショットを見て、いくら商業的になろうとも、彼の映画に対する精神は揺るぎないのだろうと感じた。 そして、この映画にはハーヴェイのクロースアップを真横から撮らえたショットがふたつあった。あまりにも印象的なので、恐らく誰もが記憶に留めているだろう。それはスコットと出会ったときと、死に際である。このふたつのショットに通じ合う大きな意味というのは感じられないが、8年間の始点と終点となっていはいるだろう。 デビュー作「マラノーチェ」から始まり、ゲイを描き続けているガス・ヴァン・サントにすれば、このハーヴェイ・ミルクを描くことは彼にとってみれば、あるひとつの到達点だったのかもしれない。 男同士のラブシーンの恍惚さや、ガラスやホイッスルの反射など、これらもまた彼の映画に対する精神の揺るぎなさと言えるだろう。 生の中で垣間見えてくる死を描くことで、生きることの美しさを描くのがガス・ヴァン・サントだ。 ハーヴェイの「40歳になってもなにひとつ誇れることがない」という言葉から始まるこの映画は、ゲイムーヴメントを担い、自分が必要としたものを追い求め、自分を必要としてくれる人たちのために、最期の8年間を誇りに満ち溢れるばかりに美しく生き抜いていく彼の姿が躍動的に描かれていた。[映画館(字幕)] 6点(2009-05-16 01:24:06)《改行有》

38.  レイチェルの結婚 《ネタバレ》 家族や仲間というのは小さなコミュニティであり、時に世界の縮図的でもある。白人黒人も入ればアジア人もいるし、生まれていくる子供はハーフとなる。しかしこの映画は、それはこの世ではもはや当たり前の事実であり、もはやいちいち議論するには至らないことだと流している。現に父親はレイチェルの旦那を快く迎え入れ妊娠をも無邪気に喜ぶ。 この家族の中で重要なことは、家族でありながらも、その家族という社会に置ける最小単位のコミュニティから一度脱落した、脱社会的人間の帰還をどう迎え入れるかということのほうにある。それは人種問題よりも、時に複雑なことかもしれない。 社会から逸脱した人間の場合、同じ経験をしたもの同士でなければシンパシーを感じ得ることは出来ないのではないかとこの映画は言っている。しかし、シンパシーの問題ではなく、「つながり」を持ち続けたいかどうかという点において、それは家族であれば、どんなに厄介であろうとも、理解に苦しもうとも、根底では決して「つながり」を断ち切りたいと思わないであろうという、時に固く、時に幽かな絆を描く。もちろん家族であっても断ち切れる瞬間が訪れる場合もある。それも当たり前の事実だ。しかし、この家族は小さなもうひとりの家族を失ったというシンパシーでつながっている以上、その「つながり」を断ち切ることが出来ないのだ。 アン・ハサウェイ演じるキムはデブラ・ウィンガー演じる母のアビーと喧嘩をし、その後に車の事故を再び起こしたことで、施設から女性が迎えに来る。これはこの映画の中で起きる事実だ。それは見える事実だが、もうひとつ見えていない事実というのがある。キムは何故施設に戻らなければならないのか。それは母のアビーにひとこと謝ることが出来なかったからだ。幾らでも機会はあったとこの映画は言っている。しかしこの映画は様々な機会がいつも断ち切れてしまう映画だ。断ち切りたくない「つながり」はあるのに、その意思を伝えたい時に断ち切れてしまう機会。いくらでも転がっているようで、実は見えている間に捕まえないとすぐ消えてしまう機会、その瞬間の大切さを知る為にキムはまた施設へと戻っていくのだ。[映画館(字幕)] 7点(2009-05-07 22:00:16)(良:1票) 《改行有》

39.   《ネタバレ》 この映画の幽霊の表現があまりにも大胆であることに驚く。 結果的に小西真奈美演じる春江は幽霊だったのだが、映画における幽霊という存在は大概が誰か、つまりある登場人物が見た幽霊という存在としてはじめて幽霊は存在するのが一般だが、この映画ではその幽霊が階段をひとりで降りて、道をひとりで歩いている。しかも真っ昼間にだ。誰に見られているわけでもない(あえて言うならキャメラを通してスクリーンにて我々観客が見ている)独立した存在の幽霊ということだ。まるで春江という幽霊がごく日常の中に生身の人間の如く存在していているようなのだ。これはかなり際どい表現であると思うし、今までの幽霊が出てくる映画ではこのような表現はほとんどない。 そもそも葉月里緒菜演じる最も幽霊らしい幽霊ですらおかしい。律儀に扉から出て行く幽霊というのは一体何だ。 結局、この映画における、というより黒沢清における幽霊の解釈が以前の彼の作品より遥かに自由になり、生身の人間の意識と平行して存在するわけでなく、彼女ら自身もそれとして意識を確立し日常にごく普通に溶け込んでいるという大胆な解釈になったのだ。 なのだから、この映画の幽霊は恐くない。生きている人間と死んでしまった人間というくらいの差異しかない。 ただ葉月里緒菜演じる最も幽霊らしい幽霊の迫り方は、「DOOR III」と全く同じだが、この表現方法はやはりなかなか怖い。 すべての過去はなかったことになどできない。過去は迫ってくるのだし、責任を負わなければならない。[映画館(邦画)] 7点(2009-05-06 05:07:36)《改行有》

40.  GOEMON 《ネタバレ》 単純にかっこ悪い。 映像も言ってることも空虚でかっこ悪い。ぺらぺらなCGは迫力ないし、繊細さもないし、ただスピーディーにして誤魔化してるだけじゃん。人が飛び上がって月とか太陽をバックにするのは本当に止めて欲しい。失笑だよ、あれ。 「CASSHERN」の時と同じことになるが、何故この映画に生身の俳優を起用する必要があるのかがわからない。 人件費しかり、美術セットや衣装や持ち道具やらにお金を掛けないでCGにお金を費やせばいい。そして撮影する時間があるなら部屋に籠ってパソコンだかMacだかに一日中面と向かってCGを描き描きしてたほうがよっぽど有意義だろう。 鈴木清順の「オペレッタ狸御殿」にはフルCGの美空ひばりが出てくるがこれは誰が見ても美空ひばりだ。しかし「GOEMON」に出てくる戸田恵梨香とか佐藤江梨子なんかはほとんど誰だかわからない。グレーディングでコントラストつけまくって、色足しまくって俳優を誰だかわからなくするくらいなら、最初から俳優なんか使わなければいいじゃないか。こんなの俳優に対しての冒涜だろ。敬意もへったくれもない。 割腹の瞬間を後ろから撮るってどういうことなんだ。しかも五右衛門がそれを見ているという設定であるなら、余計それは前から撮るべきだろ。その瞬間を脳裏に刻ませなければ、その過酷さは伝わらない。ホラー映画ではないし、レイティングの問題もあるだろうから、決してかっ捌いている腹を見せろと言っているのではない。その顔だけでも見せなければ、その過酷さは伝わらない。 更にはりょうの死に様も駄目だ。あれは首を刎ねるべきだ。障子越しなのだからそれは可能なはずだ。障子に飛び散る血飛沫なんてどーでもいい。そんなものでは過酷さは伝わらない。 ってことで、結局何にも響いてこない。 化学調味料、着色料、保存料を含有しまくったアメリカンフードみたいな映像の洪水はぎとぎとべたべたしつこく大味。こんな映画が溢れたら、映画もテレビ化していき、どんどん思考停止していくだけだ。 一瀬たん、こんなのに尽力注いでていいのか?とりあえず紀里谷先生にはもう撮らせちゃ駄目だよ。[映画館(邦画)] 2点(2009-05-05 01:15:28)(良:1票) 《改行有》

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