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プロフィール
コメント数 407
性別 男性
ホームページ http://onomichi.exblog.jp/
年齢 55歳
自己紹介 作品を観ることは個人的な体験ですが、それをレビューし、文章にすることには普遍さを求めようと思っています。但し、作品を悪し様にすることはしません。作品に対しては、その恣意性の中から多様性を汲み取るようにし、常に中立であり、素直でありたいと思っています。

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21.  再会の時 《ネタバレ》 原題を"The Big Chill"という。ロスマクならば"The Chill"。ハードボイルド的には「大いなるさむけ」とでも言うべきなのだろうけど、その意味は、「死や臨死、或いは死にたい程に悲惨な体験」ということらしい。(answerbag調べ) 日本では団塊の世代。アメリカではBaby Boomerという。戦後生まれで人数が多く、68年の大学闘争を経験した世代である。物語はそれから15年後の1983年、自殺した仲間の葬儀にかつての学友、男女7人が集まったことから始まる。 日本で言えば、柴田翔の『十年の後』の世界だろうか。それとも80年代中期の『男女7人夏物語』だろうか? 学生の頃に反体制を叫んでいたケヴィン・クラインも今では会社の経営者となっている。他のメンバーも雑誌記者、俳優、医者に弁護士と、それぞれが社会の中で確固たる地位を築いているわけだ。その中でウィリアム・ハートだけが定職も持たず、コカイン中毒で、いまだにベトナム体験を引きずっている。(身体的にも戦争によって生殖機能を損傷したからか) 彼らが久しぶりに一同に会して週末を過ごす。友人の死、彼は何故死んだのか? そして友情の行方、今の生活について、彼らの語らいはとてもライトである。最終日の夜にはいくつかのセックスまで行われる。15年越しの告白であり、共助の精神であり、再出発へのふれあいである。 能天気と言えば、そうかもしれない。確かにそれは80年代という時代の軽チャーを象徴しているように思える。しかし、それは"The Big Chill"でもある。1968年の熱狂とその後の挫折との対比として、それはある。彼らの世代が80年代のポップカルチャーを作った。そして僕はその80年代に青春時代を過ごした。だから分かる。この作品があってこそ、『男女7人夏物語』があり、『セント・エルモス・ファイアー』や『愛という名のもとに』が作られたことを。時代がその根底に"The Big Chill"を抱いていたことを。[DVD(字幕)] 8点(2012-07-16 10:40:29)《改行有》

22.  僕たちは世界を変えることができない。 But, we wanna build a school in Cambodia. 《ネタバレ》 アカルイミライな現代の「僕たち」がカンボジアの子供達の為に学校を建てようと奮闘する姿を捉えた半分ドキュメンタリーっぽい青春映画。なかなか面白く観ることができた。満ち足りない大学生活の中で何かをしたい。そうだ!カンボジアに学校を建てよう!その為の資金をパーティによって集めよう!動機は単純で、発想は唐突である。彼らは募金だけではなく、実際にカンボジアという国を知る為に視察(ロケ)にも行く。そこで、カンボジアが長期の内戦によって辿った悲惨な歴史、クメール・ルージュによる70万~300万人と言われる大虐殺の実態、戦争の負の遺産(地雷原やHIVの蔓延など)によって今でも苦しめられている人々の姿を知る。 そこには、ベトナム戦争を背景にアメリカと北ベトナムの対立を軸としたカンボジア内戦の経緯があり、共産主義政党クメール・ルージュの台頭と中国の介入、毛沢東主義者ポル・ポトが行った大虐殺の実態がある。(都市居住者、技術者、知識人が財産をはく奪、農村で強制労働させられ、最後には処刑される。映画『キリング・フィールド』に詳しい) その後、ベトナム軍介入によるポル・ポト政権の崩壊と中越戦争による中国の敗退を経て、今度はソ連を後ろ盾としたベトナム軍による支配が続くことになる。80年代後半から、ベトナムの開放路線による駐留軍の撤退があり、東西冷戦の瓦解と共にようやく内戦が終結する。今、ネットで検索すれば、その辺りのことを調べるのにさほど時間はかからない。 実話をベースにした映画である。実際の主人公たちは、その後も継続して学校の維持やボランティアに関わっているという。素晴らしいことである。映画自体はかなり軽い作りになっているし、最後の『青空』は自己満足的ですごく違和感があったけれど、結局のところ、この物語は、若者達が自己実現とか、自分探しなどという幻想からボランティアを始めつつ、自立や自助が難しい世界の実態を知ることで、共生・共存、公共の意識に目覚めるという至極真っ当なお話であると僕には感じられた。というか、そう信じたい。実際、その動機が主人公たちとカンボジアの人々との間に築かれた人間関係所以であるのは事実だが、そもそも、それが世界というものの基本だと僕は思う。[DVD(邦画)] 8点(2012-07-16 10:39:01)《改行有》

23.  赤い砂漠 モニカ・ヴィッティの存在、彼女が放つ美の重力が世界を歪ませるのだろうか。それは、美と孤独の関係を思い起こさせる。美が必然的に引き寄せる孤独と美に惹きつけられる孤独。孤独と孤独が紡ぐ性愛は人を何処にも連れて行かないが、その圧倒的な力に人は逆らうことができない。重力に身を任せながら、男は回転儀のようにバランスしつつ、美の周りを廻り続けるしかない。そして女も。彼女自身の美しさ故に、その外部の力が彼女の心のバランスを崩していく。 美は永遠でない。世界は移ろい、絶対的な信などない。発電プラントのコンクリートやラックの鉄骨、配管の硬質性、排蒸気の規則性のみが単純で線形的、重厚長大な存在感を残す。登場人物達が醸し出す不安感、非線形性とのコントラストが美の在り方を浮き彫りにし、映像としてフィルム(物質)に焼き付けられる。こうして美は、その在り方と共に永遠となるべきなのだと言わんばかりに。 同時に、男が信じることとして挙げた「人間性」「正義」「進歩」「社会主義」、それらの線形的なイデーが脆く崩れ去っていくのを僕らはこの映画の裏側に観ているのかもしれない。[DVD(字幕)] 8点(2012-07-08 22:44:38)《改行有》

24.  きみに読む物語 《ネタバレ》 胸がじーんとなった。 ジーナ・ローランズとジェームズ・ガーナーの2人が良かった。そして、もちろん若い2人、レイチェルとライアンも最高にハマっていたね。 ストーリーは最初からミエミエ(あっちの2人がこっちの2人に重なれば、そりゃそうなるよね)なのだけど、それでも感動した。僕って、こういうベタなラブストーリーにめちゃめちゃ弱いのです。 レイチェル・マクアダムスがとにかく可愛かった。特別に美人!って感じではないんだけど、表情が豊かで、素直に感情が迸るところなど、すごく愛嬌があって、思わず抱きしめたくなる感じ。 ライアン・ゴズリングも生真面目で一途な感じがよく出ていた。少し憂いがある目元もいい。彼の言葉、"I want all of you, forever, you and me, every day!"... しびれました。 ジーナ・ローランズ。『グロリア』の彼女もすっかりおばあちゃんになってしまったけど、最後に見せた笑顔がとても可愛くて、救いがあったよ。 そして、ジェームズ・ガーナー。『大脱走』カッコよかったなぁ。あの精悍なアメリカの調達屋がすっかり好々爺になっていて。。。でも、ラストシーンにはとてもグッときた。昔の写真の2人もキマっていたよ。(敢えてこっちの2人の写真にしたところが僕はよかったと思う)[DVD(字幕)] 9点(2012-07-02 22:36:46)《改行有》

25.  マイレージ、マイライフ 《ネタバレ》 これは面白かった。主人公に共感できるところが多くあり、身につまされるというか。。。映画の評価って、そういうところが大きいよね。 主人公の生き方。孤独を愛し、同時に人を愛する。矛盾しているように感じるかもしれないけど、生活という拘束、結婚という制度を否定すれば、それは達成可能である。マイレージ(1000万マイル!)を生き甲斐とする考えは、ある意味で意地のようなもの。確かにアメリカの航空会社のマイレージって有効期限もなく、格付けによる利便性が高いので、それを自らのステータス、生活スタイルの象徴としてしまう心情も分からなくはない。但し、彼自身もそのこと、それが意地にすぎないことは分かっていて、だからこそ、最後にそれをあっさり否定してみせる。 アフリカを舞台にした30年前のレッドフォードとメリル・ストリープの映画を思い出した。人は恋愛によって変わる。恋愛はこれまで貫いてきた彼の「自由」な生活、孤独という名の自己愛と自然愛を脅かし、献身は自己の不安を呼び起こすが、それでも彼、彼女は否応なく惹かれ合う。彼らは、「恋愛」を知っている。故に、それに纏わる喜びや哀しみを繰り返し受け入れられる余地を持っている。いつでも、いつまでも。。。それなのに、何故、結婚しようとする? 人の重荷まで一緒に受け入れる必要がある? 結婚を否定する考えは反社会的、反倫理的で間違っている、という意見は正しい。なぜなら、人は老いる。結婚こそは人を老いの恐怖から救う制度、短い生涯を有効に生きる、人類社会の英知でもあるから。レッドフォードは若くして都合よく人生を終えてしまうけど、本作の主人公の人生は、これからもずっと続く。 現代的な現実としても考えさせられるけど、それ以上に胸にぐっとくるものがあった。それがいいのか、悪いのか、境遇が近いと、感想も書きづらいなぁ。人生万歳。。。[DVD(字幕)] 9点(2012-07-02 22:34:45)《改行有》

26.  ザ・ローリング・ストーンズ/シャイン・ア・ライト 高校生の頃(85-7年頃)、僕はストーンズに夢中だった。ロックと言えばストーンズ、ストーンズこそがロックだと思っていた。但し、それは60年代後半から70年代のストーンズ。その頃のアルバムは何度も繰り返し聴いた。当時のライブやスタジオ演奏の映像でみるミックとキースのなんと精悍でカッコよかったことか。。。 80年代に入り、ストーンズは僕らに急激な老いを感じさせるようになる。それを打ち消すようなパフォーマンスをみせた81年のライブ映像。ミックのフットボーラー姿は今でこそミックらしいエンターテイメントを十分に感じさせる微笑ましいものであるが、当時は何か間違った歌謡曲的な演出を見せられたような気がした。キースはシャープさが失われ、急激に老けこんでいた。 そして、2006年のストーンズ。それはまさに"The Kids are Alright"で33歳のピート・タウンゼントが叫んだ「オヤジのロック」を通り越して、「おじいちゃんのロック」である。ミックとキースは還暦をとっくに越えた63歳である。 皺皺のミックは以前と変わらない身のこなしでロックを歌い続ける。20代も30代も60代も変わらないロックというのはミックの思想そのもの。彼の中では全く違和感のないロックのあり方なのである。健康的でセクシー。バディ・ガイを前に悪ガキっぽさをアピールしつつ、若い女性シンガーに対してはセクシーに迫ってみせる。年齢を感じさせない、中性的でとても現代的なセクスである。 60年代から変わらず発散しているミックの魅力がそこにある。63歳になってもそのロックは死なない。健康的な生活を感じさせる見事にシェイプアップされた体。長いステージでも疲れを感じさせないエンターテイナー。 でも、僕の心は死んだロックの方に今でも引き寄せられる。60年代、70年代という時代にとり残され、囚われの身となったロックの魂たち。ミックを見ているとそういう魂はもう過去の遺物にすぎないように感じられる。彼にとっては子供や孫の代にあたるような若いオーディエンスと見事に一体化したステージパフォーマンス。笑顔の絶えないキースの立ち姿。彼は本来、70年代にドラッグで死んでいたはずの男である。 僕の中で80年代と共に死んだストーンズは、2006年、まだまだ健在だった。彼らは70歳になってもストーンズでありつづけるだろう。そのスタイル故に、彼らのロックは永遠なのだ。[映画館(字幕)] 8点(2012-06-30 00:49:18)(良:1票) 《改行有》

27.  ミッドナイト・イン・パリ 《ネタバレ》 前作『人生万歳』に続くウディ・アレンの傑作映画。 夜12時の鐘と共に現れる幻想のパリ。タイムスリップ? 死者たちの徘徊? それとも壮大な夢オチ? まぁ、そんなことはどうでもいいか。旧き良きロマンをこよなく愛する主人公が迷い込むのは1920年代のパリ。当時のパリは狂騒の街と呼ばれ、禁酒法のアメリカから多くの異邦人がやってきて、毎夜のどんちゃん騒ぎが繰り広げられていたという。芸術家達が集うカフェで生まれる新しい時代の潮流。シュール・レアリズムからアール・デコ。そして、エコール・ド・パリ。その舞台に登場するのは、フィッツジェラルド夫妻、パパ・ヘミングウェイ、ピカソ、ダリ、ルイス・ブニュエルといった著名な若き芸術家達。主人公は、そんな魅惑の世界の中、芸術家達に愛されるファム・ファタール的な美女アドリアナに恋をする。恋する2人のタイムトラベルはさらに時代を下り、ベル・エポックのパリへ。伝説のマキシムに集うのは、ロートレック、ゴーギャンにドガ。彼らはそこで古き良きルネサンスの時代を語り始める。 主人公は悟る。古き良き時代への憧憬はどの時代にもあるファッションのようなものだと。そして、彼は現代のパリを生きていく決心をする。ロマンだけはしっかりと胸に携えて。。。(主人公が古い時代を生きられない理由がウディ・アレンらしくて笑ってしまった) なんだかんだ言いつつ、主人公は3人の女性に恋をする。レイチェル・マクアダムス、マリオン・コティヤール、そして、レア・セドゥー。それぞれに魅力溢れる女性たち。いやはや、人生万歳。何でもアリだ。最後に主人公は、レアとアレクサンドル三世橋の上で再会し、雨が降り始める中、傘もささずに2人して歩き出す。別れがあって、出会いがある。切なくも希望に満ちた、とても素敵なシーンだった。 ウディ・アレンは、ニューヨークの街とそこに住む人々の風景を撮り続けてきた人。最近はNYを飛び出して、すっかり世界のアド街ック、街の観光案内的な映画を撮り続けているのだけど、街そのものが主役ならば、それもまた良し。次回作はロンドン。次々回はローマとのこと。これらも楽しみ。[映画館(字幕)] 10点(2012-06-25 08:18:04)(良:1票) 《改行有》

28.  幸せへのキセキ 《ネタバレ》 テーマを超えて、全編に溢れるロックテイストが心地よい映画だった。 音楽も60年代後半から80年代の名曲たち。ボブ・ディラン、トム・ペティ、ランディ・ニューマンにニール・ヤング。"Cinnamon Girl"が流れた時はなんかすごく嬉しくなった。 キャメロン・クロウと言えば、僕の中ではやっぱり『初体験/リッジモント・ハイ』(” Fast Times at Ridgemont High”:キャメロン原作・脚本作)である。言わずと知れた80年代ロック全開のハチャメチャ青春映画。(決してエロ映画ではない。ポロリはあるけど) ジャクソン・ブラウン、ドン・ヘンリー、Go-Go’sなど、80年代のロック&ポップに彩られた楽曲たち。そして、初監督作『セイ・エニシング』。カセットデッキから流れるのは、ナンシー・ウィルソンの”All For Love”。 ナンシー・ウィルソンは80年代に流行ったロックバンド、ハートの中心人物、ウィルソン姉妹の妹の方。綺麗でスタイルがよくて、ムチムチした衣装でギターを掻き鳴らす姿がすごくセクシーだった。彼女がキャメロン・クロウと結婚したのが86年頃だから、ちょうどハートの絶頂期。ナンシーが82年のリッジモン卜・ハイに「車を運転する美女」で出演したのはどういう経緯だったのだろう? 当時、新進気鋭の若手ライターだったキャメロンとロック界のミューズ、ナンシー。 キャメロンとナンシーは2010年に離婚しているんだけど、僕にはどうしても、この映画の最後のシーン、カフェでの「20秒の勇気」のところは、キャメロンとナンシーの現実の出会いを思い起こさせる。年上の美女に勇気の告白。”Why not?” ナンシーならきっとそう言っただろうな。あんなに仲の良い二人だったのに。別れがあって出会いがある。スカーレットみたいな女の子との出会いだったら、それもまた良しか。人生万歳![映画館(字幕)] 9点(2012-06-17 23:43:44)《改行有》

29.  11.25 自決の日 三島由紀夫と若者たち 《ネタバレ》 三島の人物造型について、楯の会と11.25の自決事件に関する史実を中心に描くと、本作のように一面的な描写に終始してしまうのだろう。小説、例えば、『金閣寺』や『春の雪』で描かれる彼の文学性と自決事件での行動が現実の中でうまく整合しない。故に三島の文学性が如何に彼の行動にリンクしていたのかがいつも切り捨てられてしまう。三島自身が楯の会や自衛隊の体験入隊等の行動の中で、彼自身の文学性を自ら否定してみせるので、それも致し方ないのかもしれないが。三島文学や三島事件について、これまで多くの言説が弄されてきたが、彼の文学と事件が融合して語られない、文学者は事件に触れず、事件記者は文学に触れない。それこそが三島の特異な二面性として、事件から40年以上経った今でも、三島由紀夫という人物の本質を未だに捉えきれない要因なのだと思う。 三島の作品の中で、『憂國』や『英霊の聲』にこそ、彼の美意識の極点として、美しき日本の文化を象徴する幻想としての天皇主義の萌芽があった。その思想は彼の遺作ともなる『豊饒の海』によって完成することになる。1965年から自決の前夜まで。楯の会の行動と並行して著された『豊饒の海』にこそ、彼の行動と思想の全てがあるのだと僕は思う。その分析を抜きにして、三島事件を語ることはできない。『春の雪』の究極の禁忌としての恋愛があり、『奔馬』におけるテロルと自死への強烈な憧憬がある。『暁の寺』で唯識と煩悩の狭間で迷界を通過し、そして、『天人五衰』のラストに至る。三島も小説の本多と同様に、最後に月修寺の寂漠を極めた庭に佇み、門跡と対話して、無の境地としての豊饒の寂漠に辿りついたのだ。 映画の三島はヤサオトコ過ぎて、また、彼の文学的な側面がストーリーからすっぽりと抜け落ちている為、実際の三島から発散される(覆い隠すことができない)自意識の匂いが全くしない。彼の実際の姿を今やyoutube等で簡単に観ることができる。彼の強さと弱さが同居したような肉体と言葉には、押し出しの強さと共に躊躇いと抗いが常に見え隠れしている。 本作は、若松孝二が60-70年代の若者達を捉えた学生運動や思想がどのように先鋭化し、追い詰められ、最終的に「事件」に行きついたのかを総括した作品だといえる。前作同様、実録として、心理劇としての見応えはあるけれど、その文学的/観念的な側面を含めた事件の本質を描き切るまでには至っていない。[映画館(邦画)] 7点(2012-06-17 00:15:17)《改行有》

30.  私が、生きる肌 《ネタバレ》 途中で「まさか...それだけは勘弁して...」と思ったが、その通りになってしまった。。。そうであれば妥当なラストかなと思う。(未見の人にはなんのこっちゃって感じですが) 愛する人を不慮の事故で失った時、もう一度、彼、彼女に会いたいと思う。それって、歌(♪会いたい)にもあったけど、人間にとっては至極自然な欲望である。但し、死んだ彼、彼女を再生したいとなると、これは禁断の欲望。自分の子供だったら、鉄腕アトムの悲劇(天馬博士に捨てられる)であり、スティーブン・キングならホラー小説になる。本作も同じ。アントニオ・バンデラス演じる医師は、自らの特殊技能により、死んだ妻の再生を目論む。それが犯罪であり、許されない倫理の超越だとしても、欲望を抑えることができない。それを愛と呼ぶなら、彼は、その為に悪魔と手を組むこともできる。 他人である「誰か」を整形と皮膚の合成という再生医療的処置により妻に仕立てあげる。確かにそれは「狂気」であり、「倒錯の愛」ではあるけど、発想としては「究極」でも「斬新」でもなく、手塚治虫の漫画に出てきてもおかしくない、ありふれたプロットである。 ペドロ・アルモドバルの世界において、禁断の二人の関係は「倒錯の美」となり、その変態的な世界観からすれば、そういう愛も有り得るのか、と錯覚するのだけど、実際は、そうではなく、無理強いされた側に最初から倒錯の愛もクソもなかったのである。当たり前か。でも、その姿で言われたら、やっぱり信用してしまうんだな。それは致命的に避け難い成行きだったのかも。 ラストで『私が、生きる肌』(The Skin I Live in)というタイトルの意味が分かる。外見の完璧さ、倒錯の愛、その有り得なさに期待した僕らこそ、完全にうっちゃりを食らわせられる。そして、少しホッとしたりもする。 そもそもアルモドバルの描く愛って常に一方的な自己愛の反映で、だからこそ本質的なところで僕らに響いてくるのだ。[映画館(字幕)] 8点(2012-06-16 23:47:45)(良:2票) 《改行有》

31.  しあわせの隠れ場所 《ネタバレ》 邦題以外はとても好感のもてる作品。アメリカ南部、メンフィスの白人富裕層、プロテスタント、共和党員、ライフル協会会員。絵に描いたような保守系白人の金持ち一家に、スポーツは優秀だが、身寄りのないスラム地区の1人の黒人少年が関わる。家族の一員となり、その支えによって、生活の目的を得た黒人少年はアメフトで成功し、多くの優秀な大学からスカウトを受けるまでになる。。。この作品は、実話の映画化であり、それが本作の大きなポイントだと僕は思う。 実話の映画化故に、この物語は、格差の問題をあくまで個人の善意にしか還元せず、アメリカ(特に南部)の社会構造に到達させることはない。実際のところ、この家族のような善意と勇気をもった人々はアメリカにも多くいて、また、貧しくても優秀な黒人少年も多くいるだろう。ただ、その接点がないのである。本作は偶然に偶然が重なって実ったひとつの美談でしかない。しかし、この事実/映画が多くの人々の心にフォローアーとしての小さな意識を植え付ける可能性はある。それが社会構造を変える可能性だってある。(アメリカ的な個人主義に留まる可能性ももちろんある) アメリカ南部の格差社会の現実は、僕らが思う以上に今も厳しい。格差や差別の問題であれば、ある意味で日本も同じ。僕らだって当事者になり、それを引き受ける立場になるかもしれない。その場合の正義と善意の行方に想いを馳せる、そういう可能性の映画だと考えることができるのではないか。[DVD(吹替)] 8点(2012-05-27 07:50:53)(良:3票) 《改行有》

32.  わが母の記 《ネタバレ》 感動した。主人公の役所広司、その母親の樹木希林、素晴らしいキャストだった。 父親の死を境に徐々に痴呆の症状が顕在化していく母親の姿。その演技は、あまりにも自然で、人間味あふれていて、多くの人が自らの歴史の中の自分の祖母、或いは母親の姿を思い出したのではないだろうか。『歩いても 歩いても』でもそうだったけど、自然体で人間の凄味のようなものを醸し出せる樹木希林の姿は本当にすごい。それは悪意とか善意とかに区別できない、単純ではない、人間の得体の知れなさの断片であり、言葉の網の目から零れ落ちて、言い澱んだり、躊躇ったり、言い間違えたりしつつ出てくる感情でもある。人間の自然って本来そういうものなのだな。 主人公が子供の頃に書いた詩を思い出すシーン。何故、自分が湯河原に残されたのか。母親が夜中に誰を探していたのか。彼は全てを理解し、母親を赦す。そして涙を流す。しかし、主人公が母親に捨てられたという意識こそが彼の文学的源泉だったということも確かなのだ。夏目漱石も「母親に捨てられた子供」だった。愛情に対するある種の不幸な思い、その傷は、文学性を養う。 沼津の海のシーンもよかった。お互いがお互いを理解し赦しあうこと。何と感動的なことだろうか。母親を背負う主人公。その名前を呟く母親。とても幸福なシーンに涙が溢れた。[映画館(邦画)] 10点(2012-05-20 11:08:46)(良:1票) 《改行有》

33.  ヤング≒アダルト 《ネタバレ》 この手のキャラクターや設定って、今や普通にリアリティがあるから、単純にそれを描くだけなら映画としての面白みにならないと思う。『ブルー・バレンタイン』もそうだったけど、同じようなことは僕らのまわりにありふれていて、その状況に対する作品としての批評が弱ければオチの付きようがない。本作も物語としての驚きや発見がなく、コメディなのに設定を相対化できずに笑えない。結局のところ、メイビスというキャラクター(大人になりきれない大人)をどうしたいのか僕にはよく分からなかった。そこが大事なんじゃないかと思うのだけど。。。(そもそも彼女を勝ち/負けで括れるようなキャラだとは全く思わないし) キャラクターや設定がリアルなわりに単純すぎるのだ。特にメイビスを強調する為にまわりの人間を平板にしすぎている。実際は、ママさんグループにもメイビス的な要素はあるだろうし、もちろんその逆もしかり。普通、メイビスのような美人に言い寄られたら、最後までいくかどうかは別にして、男はあんなにあっさりと断らないよ。元カレなら特に。人間って、もっと、多面的で、自己中心的故に、いろいろと躊躇ったり、悩んだりして行動するはず。子供っぽい主人公と対比する為に周囲の同世代の人間を大人にしすぎだと思う。大人にも大人なりの茶目っ気があるでしょう。 この映画、作品自体がキャラ解説に走りすぎでいて、あまりに子供っぽい。そこがすごくヤング・アダルト。邦題『ヤング≒アダルト』というのも一面的すぎる。そもそもヤング・アダルトって成人期前期のことで、それを「大人になりきれない大人」という意味に拡大しているのだと思うけど、そういう意味で、僕の中でヤング・アダルト的なイメージと言えば、『男はつらいよ』の寅さんなので、単なるキャラクター映画を超えた奥深さを期待しちゃうのだ。[DVD(吹替)] 7点(2012-05-20 09:18:14)《改行有》

34.  ロボジー 《ネタバレ》 爺さんにロボットの衣装を着せて、本物のロボットにみせかける。現代のハイテクノロジーの時代には有り得ない「設定」故に多くの人々がロボジーの正体を見抜けない。 漫画的な発想として、このアイディアは「有り」かもしれないけど、実際の映像を見てしまうと、やっぱりこれは設定として「有り得ない」。いくらなんでも、バレるでしょう。あのロボジーの動き。訳の分からないセンサーの説明。意味のない制御用パソコン。不自然な設定ばかりが気になって、話に集中できなかった。(僕のような)理系の人間に夢を与えない、そんなのファンタジーじゃないよ。それ以外は面白かったけど。。。[DVD(邦画)] 7点(2012-05-16 00:58:55)《改行有》

35.  イントレランス 《ネタバレ》 本作品は、当時、フランス戦線が始まっていた第一次世界大戦を想定した反戦映画として位置づけられる。その意図はラストシーンで挿入される現代の戦争シーンでも分かるだろう。バビロン陥落とサン・バルテルミの虐殺劇は、それぞれ、大量虐殺の象徴としての戦争の実態を表している。そして、各々の戦争の経緯と共に、ある女性と青年に焦点を当てた悲恋のストーリーが同時に語られるのであるが、彼女らは戦争という歴史の犠牲者として、最後には殺戮されてしまう。(バビロンでは、山ガールと詩人、フランスでは、ブラウンアイズと傭兵がそれに当たる) 新約から引用されるイエスのシーンは、本作を構成する物語というよりも、「不寛容」の象徴としてある。イエスこそは、人間に対する「不寛容」を一身に背負って磔刑となったキリストなのだと。 3つの歴史の物語が「不寛容」な結末を迎え、現代篇が最後に残る。青年は無実にも関わらず裁判で死刑の判決を受ける。彼の可愛い妻は彼を助けようと懸命に奔走する。目まぐるしく入れ替わる展開はスピード感に溢れ、僕らは手に汗を握り、画面にくぎ付けとなる。(ラストの列車追跡シーンは本当に素晴らしい) そして、青年の運命は如何に。。。その伏線がバビロンとフランスの2つ悲恋物語にある。 162分に及ぶ長大で矮小な物語。それは僕らに「不在の神」という概念を思い起こさせる。「不寛容」とは、創世の後、自ら退いた神の人間に対する基本的な態度であり、イエスが自らの死と引き換えに人間に託した教え、「キリスト教」が人々に必要とされる由来でもある。イエスの教えとは、人の人に対する「寛容」であり、隣人愛なのだから。 中世のキリスト教より、サン・バルテルミの虐殺に繋がる宗教戦争という歴史の悲劇。しかし、グリフィスは、そこに男女の矮小な純愛を対峙させることで、全くの個人を出発点とした「寛容」を説いてみせる。そのバックグランドには、バビロンの山ガールと詩人、フランスのブラウンアイズと傭兵、彼らの愛と死があって、そして、イエスがいる。この物語はそういう物語としてあるのだと僕は思う。 いろいろな意味で映画の可能性を問うた作品であり、壮大なる反戦映画。その意義が映画史に燦然と輝く、と同時に、僕らのイマジネーションを掻き立てる素晴らしい映像世界であった。[DVD(字幕)] 10点(2012-05-16 00:52:31)(笑:1票) 《改行有》

36.  遥かなる山の呼び声 《ネタバレ》 『幸福の黄色いハンカチ』へ繋がる前章という位置づけもできるが、倍賞千恵子を中心として見れば、民子3部作の最終章であり、『家族』から10年目の続編という見方が妥当だろう。 この物語は、民子の物語である。 民子(倍賞千恵子)と武志(吉岡秀隆)親子の元に現れる一人の男。高倉健。彼は、70年代を貫く山田洋次作品の中のゲストであり、主役はあくまで民子である。民子は、これまで家族の中の妻と母という立場であり、女ではなかった。今回、『遥かなる山の呼び声』で、高倉健という適役を得て、彼女は初めて女になった。この物語はそういう物語としてある。そこにこそ心動かされる。 高倉健は当時、40代後半。個人的には、この頃(70年代後半から80年代前半)の作品が高倉健の最も「健さん」らしい味わいに溢れていると思う。傑作も多い。男も惚れる。子供も女も皆健さんに惚れてしまう。本作でも寡黙だが実直、男気に溢れ、喧嘩も強い。逃亡犯という陰を持つが頼れる男、「健さん」がそこにいる。 高倉健が別れを告げた夜、「どこにも行かないで、私寂しい」と彼にすがりつく民子。そのシーンの切実さを想うと涙が出る。そして、別れの朝のシーン。列車内でのハナ肇とハンカチ。僕らは2度の号泣を覚悟しなければならない。この映画は山田洋次監督の70年代の作品群の最後に結実した大きな結晶のような作品である。『家族』から始まった民子の受難はここでもまた続くことになるけれど、それは愛という結晶を得ることによって、希望へと結実したのである。 とにかく素晴らしい映画。何度でも繰り返し観られる。実際、昔はテレビで何度も観た。今はDVDで何度も観る。北海道の大自然、時に厳しい自然の姿があり、それを含めた美しさに圧倒される。 本作は、山田洋次作品の金字塔であり、日本映画、不朽の名作である。[DVD(邦画)] 10点(2012-05-05 19:34:01)(良:2票) 《改行有》

37.  男はつらいよ 寅次郎紅の花 《ネタバレ》 男はつらいよのシリーズ最終作である。最後を飾るマドンナはリリーこと浅丘ルリ子。 元々49作で満男と泉が結婚するストーリーが予定されていたというから、いみじくも最後となってしまった作品と言った方がいいのだろう。リリーと寅さんはいつもと違って、とらや(くるまや)でのケンカ別れもなく、2人連れ立って奄美大島のリリーの家に向かうのだが、結局のところ最後に別れてしまうので、シリーズとしては未完なのだ。 渥美清本人の病状がかなり悪化していたこともあり、寅さんの体の衰えぶりが目に付いて仕方がなかった。呆けたような表情、かろうじて演技しているといった体。仕方がないとは言え、その姿が痛々しく、観ていて辛いものがあった。 ゴクミシリーズ、満男と泉の久々の共演。満男の行動は少し過激ですごく無様だったけど、最後にお互いの気持ちが通じ合うことができてよかった。二人が清々しく、爽やかでよかった。 ということで、『男はつらいよ』もこの辺でお開きということに。。。[DVD(邦画)] 8点(2012-05-03 12:52:09)《改行有》

38.  男はつらいよ 拝啓車寅次郎様 《ネタバレ》 マドンナはかたせ梨乃。 46作と47作はゴクミが出ないゴクミシリーズ。満男の旅と旅先での出会いが物語の中心となる。今回の舞台は琵琶湖の畔、長浜である。考えてみれば、『男はつらいよ』とは、第1作目で満男が生まれ、彼の成長と共にあった。1969年。それは僕の生まれた年でもあり、彼の成長と共に画面に映し出される時代の風景は、僕と共にあったものでもある。だから僕はこのシリーズが好きなのかも。 46作以降の寅さんは動きが緩慢で表情も硬く、常に眉間にしわを寄せている姿はまるで生き仏のよう。しかし、彼の培ってきた魂はしっかりと満男に受け継がれていることが最後のシーンで分かるのである。満男の最後の独白。彼が最近、寅さんに似てきたと言われていることに対して、「他人の悲しさや寂しさがよく理解できる人間」だから彼は伯父さんを認めるのだと言う。満男は世間よりも寅さんに心を寄せる。彼は成長しつつも、世間に染まりきらない、ある意味で「常識」の象徴たる博やさくらと対立する人間(寅さんと同様)として描かれているのだと僕には感じられた。 ゴクミ不在のゴクミシリーズはなかなかいい。牧瀬里穂も可愛かった。。。[DVD(邦画)] 9点(2012-04-30 23:44:14)《改行有》

39.  男はつらいよ 寅次郎の縁談 《ネタバレ》 マドンナは2回目の松坂慶子。 ゴクミシリーズもゴクミは不在。今回、家を飛び出すのは就職試験に落ちて自分に自信を失ってしまった満男である。但し、自分に自信を失ったという見方はあくまで博やさくらの親側からのものであり、満男としては、伯父の寅さんの生き方を常に見てきたことで、自分の目の前にせまるサラリーマン人生に疑問を持っていたことが根本にある。(当時の感覚としてそれは僕にもよく分かる。サラリーマンとして定職に就くというのは一種の喪失感として捉えられていたから。) 今回は満男も瀬戸内海の琴島で人から頼られる経験をし、ちょっとした恋(浮気?)もあり、人間として成長する。そして、柴又に帰ってくる。話だけからすると、島での満男は都会から来た「まれ人」であり、結局は都会という現実に帰っていくわけで、あくまで現実は都会の側にあるという風に見えるかもしれない。しかし、今回のドラマの白眉なところは、島の人々の生活をリアルに描いたことにあるのだと僕は感じた。生き生きとした島の生活があり、それは満男にとっても夢ではない、確かな手ごたえのあるものとして受け止められたはずである。生きるということそのものの対象として、山田洋次監督はそのリアリティをしっかりと伝えようとしている。[DVD(邦画)] 9点(2012-04-30 23:44:11)《改行有》

40.  男はつらいよ 寅次郎の青春 《ネタバレ》 ゴクミシリーズの第4作目。 渥美清の病状が悪化したこともあり(肝臓がんの発覚)、寅さんの表情が硬く、声が掠れ、動きも鈍い。その分、満男が活躍し、ゴクミとの新幹線の別れのシーンなど、なかなか魅せるのだけど、やっぱり寅さんに元気がないのが気にかかってしょうがなかった。初期作と続けて観た為にその衰えぶりが否応なく目についてしまう。寅さんのマドンナ役、風吹ジュンとの恋愛模様にリアリティがなかったのも致し方ない。 満男のシーンに流れる徳永英明の音楽が妙に印象的だったな。[DVD(邦画)] 8点(2012-04-30 23:44:08)《改行有》

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