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Web www.jtnews.jp

プロフィール
コメント数 2627
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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21.  グランツーリスモ 同名の“ゲーム”はプレイしたことはなく、ゲームファン向けに製作されたプロモーション色の強い映画なのだろうと高をくくって、劇場公開時は完全にスルーしていたのだが、ネット界隈の各映画レビューの評価がこぞって高く、気になっていた。 個人的に自宅リビングのテレビを買い替えたので、グレードアップして大きくなった画面での初の映画鑑賞を何にするか思案した結果、本作をチョイス。結果、最適な選択だったと思う。 まず端的な所感としては、想像以上に王道的なスポ根映画であり、レーシング映画だったなと思う。 “ゲームの映画化”という表面的なレッテルを貼ってしまっていたのか、もっとリアリティを度外視したぶっ飛んだ映像表現だったり、破天荒なストーリー展開が繰り広げられるのかと思っていが、しっかりと地に足のついた映画世界が構築されていた。 よく考えてみればそれは至極当然のことで、本作は実際にゲーマーからプロレーサーになった実在の人物ヤン・マーデンボローを描いた作品であり、現実の彼の成功譚をベースにして描いているのだから、リアリティラインが「現実」から逸脱することなく、真っ当に描き出されていたのだと思う。 併せて、ゲームに対して門外漢の僕には、「グランツーリスモ」というゲームの性質そのものに対する無理解が大いにあったのだと思う。 すなわち、このゲームは単なるレーシングゲームではなく、“レーシングシミュレーションゲーム”であるということ。 劇中主人公の台詞でも言及されている通り、このゲームは現実のレースを極限まで追究し、仮想現実に近いゲーム世界を構築していくことで、全世界的な人気シリーズになったということを、レースゲームと言えば「マリオカート」しかやったことがない僕は全く理解していなかった。 この題材自体が、実は極めて現実的で堅実なものだったということを、本作を実際に観てようやく理解した。だからこそ本作はとても王道的で真っ当なスポーツ映画として昇華されていたのだと思う。 また、スポーツ映画としての王道をしっかりと敷いた上で、唯一無二のレーシングシミュレーションゲームの映画化という要素を最大限活かし、映像的にも創意工夫をこらした表現が成されていた。 レース中における主人公や競争相手の車体の位置や順位、ラインをゲーム的に表現し、直感的な分かりやすさを実現したことは、この映画だからこそ可能な映像表現だった。 評判通り、満足度の高いレーシング映画だったとは思う。ただしその一方で、映画ファンとしては一抹の消化不良も残る。 それは本作の監督があのニール・ブロンカンプであるということ。 「第9地区」で一躍世界的成功を収め、その後も良い意味でも悪い意味でもアクの強いSF映画を生み出しているこの映画監督の作品として、本作はあまりにも“フツー”過ぎた。 実話ベースの映画製作において極端な“コースアウト”は無論避けるべきだったのだろうけれど、それでももう少しアクの強いキャラクター造形や、歪なストーリー展開が、この映画監督であればできただろうし、本当は彼自身やりたかったアプローチがあったのではないか。 才気ある映画監督が、スケールアップするキャリアの変遷に伴い、様々なしがらみによって低迷していくことはとても多い。ニール・ブロンカンプ監督がこの先再び自身のアイデンティティを貫く独創的な映画世界を構築できるかどうか、彼自身クリエイターとしての“分岐点”に立っているように感じた。[インターネット(字幕)] 7点(2024-09-22 08:32:55)《改行有》

22.  ビートルジュース ティム・バートン監督作として無論認識はしていたし、印象的な作品ジャケットのビジュアルも記憶に焼き付くほど目にしてきた作品だが、この度初鑑賞。ハロウィーンをひと月後に控える初秋に観るには適したホラー・コメディだった。 ティム・バートンのフィルモグラフィーから見るに、本作は彼にとって最初のヒット作と言えるようで、明らかに低予算ながらもしっかりとこの奇才監督の世界観が反映されていた。 味わい深いミニチュアによる画づくりや、奇怪なクリーチャーの造形、そして“ガイコツの花嫁”など、彼がこの後に生み出す膨大なクリエイティブの源泉が、本作において既に満ち溢れていた。 正直なところストーリー展開を楽しむというよりも、次々に飛び出してくる奇々怪々のユニークやおぞましさを純粋に堪能すべき映画世界であり、その点においてもティム・バートンの創造の源という印象が強い世界観だと言えよう。 キャスト的にはやはりマイケル・キートンのエキセントリックなキャラクター表現が印象的。この名優のキャリアとしても、本作の出演がその後のキャリアアップの契機となっているようで、スタンダップコメディアンらしい“しゃべくり”を駆使して、強烈な怪演を見せている。 個人的には、若きアレック・ボールドウィンの風貌も印象的だった。近年の恰幅の良さからは目を疑うようなスマートな風貌は、まるでクリス・ヘムズワースとクリス・エヴァンスのアベンジャーズコンビを足して2で割ったような印象を覚えた。 そしてもちろん、少女時代のウィノナ・ライダーのアイコニックな魅力も、本作に華を添えていた。 想像以上に楽しい映画世界だったので、公開間近の“まさかの続編”も観ようと思う。 僕自身は、本作に対して完全な“にわか”だけれど、36年の年月を経て果たされるビートルジュース(マイケル・キートン)とリディア(ウィノナ・ライダー)の邂逅は、世界中の映画ファン、ティム・バートンファンの胸を熱くさせることだろう。 P.S.本作の日本語吹き替え版では、ビートルジュース役を西川のりおが演じたらしい。何だそりゃ、観たすぎるやろ。[インターネット(字幕)] 7点(2024-09-21 08:38:10)《改行有》

23.  101匹わんちゃん 物心ついた頃から、ディズニー映画は録画されたVHSが擦り切れるほど観てきた。 「白雪姫」から昨年の最新作「ウィッシュ」に至るまで、ディズニー長編アニメーション映画の主だったところはほぼほぼ鑑賞してきたのだけれど、どういうわけか「101匹わんちゃん」を四十路を越えた今に至るまでスルーしていた。 幼少時に母が用意してくれたビデオコレクションの中に、本作が含まれていなかったことと、「単に101匹のダルメシアンが騒動を繰り広げる映画だろう」という表面的な先入観が、歳を重ねるほどに興味が離れる要因となっていた。 先日鑑賞した、本作に登場するヴィラン“クルエラ”の若き時代を描いた実写映画「クルエラ」が、自分の想像以上にフェイバリットな一作となったので、ようやくそのオリジンの鑑賞に至った。 ディズニーアニメ映画史の時代的には、「眠れる森の美女(1959)」と「王様の剣(1963)」の間に位置する本作。この両作は逆に何度も観た作品だったので、まず本作の作画の風合いにとても懐かしさを覚えた。 そしてこの時代のディズニーアニメーションの芸術性の高さに、改めて感嘆した。 無論すべてが手描きの作画であり、現代のアニメ技術の精巧さとはまったく別物、その性質は乖離している。だからこそ生まれる“画”そのものの味わい深さが堪らない。 言語化が難しいが、とても芸術性の高い“絵本”が動いている感覚で、アニメーションであることを認識しているはずなのに、映し出されるその現象がとても不思議に思える。そこには、まさにディズニー映画による“マジック”が存在していることを実感した。 全編通してアニメーションのクリエイティブは素晴らしいが、特に白眉だったのは、「明かり」の表現。当時のロンドンの街並みの中で光るネオンサインだったり、一つ一つの住宅に灯される明かりの表現が今の感覚で見ても、とても素晴らしく、見事だった。 そして当然ながら、“101匹のダルメシアン”を一匹一匹を個性的に描き分けて、同時に躍動させるそのアニメーション力にはシンプルに舌を巻いた。99匹の子犬たちが雪崩のように逃げ回り、走り回るシーンなど、現在に通じるディズニーアニメの真骨頂だと思う。 また、主人公のダルメシアン家族をはじめとする動物たちのアクションが楽しい作品ではあるが、人間のキャラクターの造形や言動も娯楽性に溢れていた。 やはり前述のヴィラン“クルエラ”を筆頭に、悪党一味たちの描写が特に見事だった。ダルメシアンたちを執拗に追い詰めるその恐ろしさと、随所に見せる本質的な滑稽さのバランスがこれまた素晴らしかった。 長きディズニー映画史の中でも「名作」という呼称に相応しい作品だったと思う。 「ピーターパン」や「ダンボ」と同様に、幼少時からVHSを繰り返し観ていたならば、きっと本作もフェイバリットな一作になったに違いない。[インターネット(吹替)] 8点(2024-09-21 08:35:10)《改行有》

24.  クルエラ ずっと観ようと思っていた本作をようやく鑑賞したことで、エマ・ストーンは個人的に今年最も印象的な俳優となった。もともと大好きな女優の一人だったけれど、今年のはじめに観た「哀れなるものたち」の“ベラ”の衝撃性は今なお薄れることなく、本作 の彼女のパフォーマンスがそのインパクトをさらに複合的に増強させたと思う。 ディズニー映画は古典も含めて小さい頃から“ほぼすべて”と言っていいほど鑑賞してきていたのだが、なぜか「101匹わんちゃん」については未鑑賞のまま四十路を越えてしまっていた。 さらには、本作の一応の後日談と関連づけられるグレン・クローズ主演の「101」と「102」も完全スルーとなっていて、必然的にディズニー映画のヴィランを代表する一人でもある“クルエラ・ド・ヴィル”というキャラクターに対する知識がほとんど無かった。 そのことが、観よう観ようとこの数年間思いつつ、つい後回しにしてしまっていた要因かもしれない。 長々と言い訳めいたくだりを綴ってしまったが、つまるところ、もっと早く本作と“クルエラ”というキャラクターを堪能するべきだったという話である。 近年ディズニー映画やアメコミのヴィランを単独で描いた作品は数多く製作されているけれど、ヴィランの前日譚として、これほどまでにエキサイティングで、ファッショナブルで、エモーショナルな映画は他にないと思えた。 何を置いても、“クルエラ”というディズニーヴィラン界きってのアイコンを演じたエマ・ストーンの表現と立ち振舞のすべてが最高だった。 本作は、過酷な運命を背負った少女が、悪意と虚栄まみれのこのクソ美しい世界で生き延び、成長し、自らが孕む才覚と狂気性のみで“生き残る”という人生賛歌だと感じた。 エマ・ストーンはその主人公像を、あらゆる表情と、あらゆる声色と、あらゆる出で立ちで体現し、映画内外の大衆を魅了している。彼女の存在を観ているだけで終始心の震えを覚える感覚。そこには映画世界を超越した絶対的悪女の「支配力」があった。 後悔と絶望、希望と復讐を経て、元々“エステラ”という名だった少女は、“クルエラ”として文字通り“生まれ変わる”。 ブラック&ホワイトの奇抜な髪色は、アンビバレントな彼女自身の人間性と、闇と光、汚れと美が混濁するこの世界そのものを象徴するものだった。 おそらくは、本作を鑑賞した人たちの心象も、相反していたり、全く異なる感情を持つこともあるだろう。実際、アニメ映画の実写化だったり、勧善懲悪のダークヒーロー映画だったり、究極のファッション映画だったりと、様々な側面を持つ作品である。 いずれにしても、その「多様性」こそが、本作が導き出すテーマの本質なのだと思う。(そのテーマ性も「哀れなるものたち」に通ずるものを感じる) 兎にも角にも、僕にとっては、個人的な趣味趣向にダイレクトに突き刺さるフェイバリットな一作となったことは間違いない。[インターネット(字幕)] 10点(2024-09-16 00:06:03)《改行有》

25.  犯罪都市 THE ROUNDUP 韓国が誇る世界的豪腕俳優、マ・ドンソクが、ビジュアル的な印象そのままに腕っぷしのみで凶悪犯を叩きつける型破りな刑事を演じるアクション映画第二弾。 前作の流れや脇役・端役のキャラクターたちもそのまま踏襲し、二作目にして“ジャンル映画”としての立ち位置を確立している。 このあたりのテイストが、昭和時代に量産された日本のジャンル映画の娯楽性ととても類似してて、昭和娯楽映画好きとしては大変楽しい。時代が違っていれば、日本の警察組織やヤクザ組織から菅原文太や高倉健が登場しそうだ。 世界的に“アクションスター”というポジションが軽視され、脇に追いやれ気味である昨今、個性的にすぎるキャラクター性を発するマ・ドンソクという俳優の存在感は、やはり唯一無二であり、貴重だと思える。 今作でもそんな豪腕俳優が、文字通り所狭しと暴れまくる。ベトナムの狭いアパートの一室での攻防や、路線バス内での最終決戦など、この俳優の巨躯に対して敢えてあからさまに狭い舞台設定をチョイスしているのがまた面白い。 とはいえ、主人公自身はあくまでも所轄の警察署の一刑事に過ぎないので、対峙する悪役も超凶悪ではあるけれど、それほど巨悪というわけではない。故にストーリー的にも極端に大仰にならないことが本シリーズの特徴でもあろう。 ストーリーを振り返ってみれば、所轄刑事と地元のヤクザものとの丁々発止に終止するのだけれど、鑑賞中はそれを忘れさせる「圧力」に圧倒される。 無論その「圧力」は、主演俳優のそれがそのまま映画世界全体に反映されていることに他ならない。 シリーズ作も続々製作されているようなので、豪腕俳優の活躍をまだまだ楽しみたい。[インターネット(字幕)] 7点(2024-09-08 23:46:35)《改行有》

26.  落下の解剖学 男は事故死したのか、自殺したのか、それとも殺害されたのか。その真相は、主人公である女性(作家であり妻であり母親)の胸中で静かに眠る。 まさに「真相は藪の中」。黒澤明監督の「羅生門」よろしく人それぞれの見え方や、考え方、捉え方によって、複数の「真実」めいたものが浮かび上がっては、食い違い、先の見えない藪の中に追い込んでいく。 “羅生門方式”でストーリーが展開される作品だが、個人的には、1961年の日本映画「妻は告白する」を思い出した。登山中にザイルを切って夫を死に追いやった妻の行為が、やむを得ない事故だったか、故意の殺人だったかを追求するサスペンス映画で、主演の若尾文子の演技が強烈だった。 今年鑑賞した韓国映画「別れる決心」や、西川美和監督の「ゆれる」も、同様の手法で、主要人物が孕む「本心」が、捜査や裁判を通じて詳らかにされ、真相が明らかになるという展開は共通している。 ただし、本作の場合、そういうストーリー展開の性質は類似しているけれど、本当に描き出したいテーマはまったく異なっていたとも言える。 そこには、一人の女性が孕む「本心」以上の、彼女を取り巻く人間関係や家族関係の本質、もっと言えば現代社会の本質的な病理がにじみ出ていたように感じた。 人間一人ひとりが抱える本心や感情は、決して一つの側面で捉えられるものではない。人間同士分かりあえているつもりでも、交錯しているのはほんの一点で、大部分は乖離し、平行線を辿るのが常なのかもしれない。 本作において、フランス語と英語が行き交う法廷劇は、真実と疑念が交じっては行き違うこの社会の構図を巧みに表現していたのだろう。私自身は、語学力の乏しい日本人なので、その様を字幕で追うしかなく、おそらく本作の脚本の根幹的な価値を汲み取りきれていないのだろうなと、少し悔しい思いがした。 交わらない価値観は、事件の“第一発見者”である主人公の一人息子が視覚障害者であることでも、巧みで描き出されている。 彼が見えていないものと、彼が感じ取れるもの、そして導き出された“より良い”結論。その変遷こそが、この映画のストーリーの肝でもあり、他の映画にはないソリッドな情感と、言葉に言い表せない余韻を生み出しているのだと思う。 前述で例に出した過去の類似作の多くが、男女の愛憎を描き出しているのに対して、本作がたどり着くテーマ性が全く異なるのも、まさにその息子の存在に所以する。 対象となる事件のあらまし、そして法廷劇の争点は「夫婦」の関係性に焦点を当てられるけれど、そのもっと奥に存在していたものはこの家族全体が抱えていた綻びだった。 主人公の“母親”は、終始一貫して息子を愛する気持ちを表現していて、もちろんそれは彼女の「本音」だろうけれど、果たして深層心理にそんざいしていた感情はどういうものだっただろう。息子に対して何か疎ましい思いや、嫉妬、ジレンマみたいなものがなかっただろうか。そもそも、この母と子には健全な“絆”があっただろうか。 映画を振り返ってみると、各シーンの端々に、彼らの親子関係に小さな疑念を覚える言動や空気感が見え隠れしていたことに気づく。 いずれにしても、この母と息子は、きっと元には戻れない。それぞれが“藪の中”の真実をひた隠し、別々に眠り、人生を歩んでいくのだろう。主人公はそれすらも実は覚悟していたようにも思えてくる。 そして最後に、この物語の真実を最も如実に表してた存在に気づく。飼い犬の“スヌープ”である。 冒頭の現場検証時、そして最後のカット、彼が“主人”として認識し、寄り添っていた対象がが誰だったか。それは、本作の“支配者”を暗に指し示していたのかもしれない。[インターネット(字幕)] 8点(2024-09-08 00:50:24)(良:1票) 《改行有》

27.  バニー・レークは行方不明 《ネタバレ》 長年観たかった映画をようやく鑑賞。兄妹の哀しき異常性がおぞまくしも切ない。[CS・衛星(字幕)] 8点(2024-08-16 23:46:10)

28.  リメンバー・ミー(2017) “死後の世界“を描いた作品は、古今東西多々あるけれど、メキシコ文化のそれは新鮮で芸術的だった。 ディズニーは近年、多様な人種や民族をルーツに持つ主人公を創造し、新たな価値観や世界観を携えた物語を多数生み出している。それは“大帝国“ディズニーだからこそ取り組めるクリエイティブであり、今追求するに相応しい使命だろう。 秀麗なアニメーションによる映像美は見事だったけれど、描きされるストーリーとキャラクター造形は、鑑賞後よくよく考えると、類型的で浅はかな印象が残った。 特に腹に落ちなかったのは、「悪役」とされるキャラクターにおけるアンバランスさだった。 結果的に主人公の曾々祖父さんを殺したヴィランであることは間違いないし、断罪されるべきキャラクターであるけれど、同時のこの悪役キャラクターの存在が、主人公の音楽に対する憧れやリスペクトの象徴であった事自体は揺るぎない事実だ。 かつてバディだった曾々祖父さんの音楽を盗用した盗人であり、殺人者ではあるが、この悪役がプレイヤーとしては超一流であったことは否定できない。 そうなってくると、死後の世界まで押しかけて、その悪事を陽の下に曝け出す事自体が、なんだかすっきりしない。功罪の振れ幅があまりにも大きすぎて、一人のキャラクターの中に収めるには無理があるように思えた。 この悪役自身、大鐘に押しつぶされるという実はかなり残酷な死に方をしているわけで。 もう少し適度なバランスのキャラクター設定があったのではないかと思える。[地上波(吹替)] 6点(2024-08-16 23:44:43)《改行有》

29.  ミニオンズ フィーバー 本来の主人公グルーを差し置いて、すっかりと世界的なキャラクターとして定着した“ミニオンズ“。一昨日開幕したパリ五輪の開会式においても、割と長尺の時間を使って、開会式用にオリジナル制作されたミニオンズのアニメーション場面が映し出されていたことからも、このキャラクターたちが確固たる“世界的地位“を得ていることは明らかだろう。 本作は、グルーの幼少期の1970年代を舞台にして描かれる。人々のサイケな服装や、オールディーでキュートなデザインのガジェットが溢れていて、本シリーズの造形や空気感にとてもマッチしていたと思う。 ミニオンズたちが誘拐された少年グルーを救い出すために、カンフーマスターに師事してハチャメチャなアクションを繰り広げる様もユニークだった。 そもそも鑑賞者が理解できる言語を有さないキャラクターが主役の映画なので、ストーリー性を求めること自体ナンセンスだと思うが、それでもミニオンズたちのユニークな言動のみで「娯楽」を構築し、ストーリーを紡ぎ出していたと思う。 このあたりのアニメーション表現は、「トムとジェリー」の時代から、スラップスティック・コメディを追求してきたアメリカアニメの真髄だろう。 少年グルーがなぜこれほどまでに悪事に信奉しているのかは、相変わらず不明確だけれど、黄色い謎の生物たちが織りなすエンターテイメントの力のみで押し通す力技は嫌いではない。[地上波(吹替)] 6点(2024-08-16 23:43:13)《改行有》

30.  アステロイド・シティ 結論から言うと、好きな映画だと言っていい。 メインストーリーを極彩色豊かな劇中劇として映し出し、舞台劇のように描き出した現実描写を挟み込んだ入れ子構造は、意図的に難解で、映画世界に没頭しづらい。 けれど、その感情移入のしづらさそのものが、本作におけるウェス・アンダーソン監督の思惑でもあり、最終的には彼の生み出した世界に心地よく包みこまれていたことに気づく。 30年以上に渡ってハリウッドの第一線で、偏執的なまでの自分の世界観を描き出し続けるウェス・アンダーソンのクリエイティブがとにかく素晴らしい。 1955年のアメリカ南西部の砂漠の中の小さな街を舞台にしたストーリーテリングには、当時のアメリカ社会を投影した様々な要素が盛り込まれている。 エスカレートしていく冷戦を背景にした軍拡前提の科学者育成、女性蔑視が色濃く残る社会や、その中で苦悩する人気女優。揃いも揃って風変わりな登場人物たちが、実は孕んでいる人生模様の中で、そういった要素が、割とダイレクトに表現されていた。 映画作品の文脈として特に興味深かったのは、同時期に製作・公開されたであろう「オッペンハイマー」との類似性だ。 砂漠の中の小さな街“アステロイド・シティ”の舞台設定は、「オッペンハイマー」で原爆開発のために作られた街“ロスアラモス”ととても似通っていたし、キャラクターたちの人生観においても、共通要素があったと思う。 公開時「オッペンハイマー」と対峙するように話題となった「バービー」の主演マーゴット・ロビーが出演していることも興味深い関連性だろう。 と、時代設定を背景にして色々な社会的要素を詰め込み、宇宙人も登場するハチャメチャな映画世界ではあるけれど、その一方で本質的なテーマはシンプルだ。 詰まる所、主人公である父親とその長男である息子の視点を主軸にした、妻(母)を亡くした父子の喪失とリスタートの物語だったのだと思う。 おそらくは、主人公の父子も、劇中劇を演出する監督や脚本家も、ウェス・アンダーソン監督自身の自己投影であり、やっぱり本作は首尾一貫して、彼の極めてパーソナルな心象風景を描き出した映画世界だった。 描き出された時代背景や、物語構造を推察して様々なテーマ性を考察することも一興だろうし、思考を止めてただただお洒落な映画世界をファッション誌をめくるように堪能することも、本作の正しい観方だろう。 脳天気なコメディにも見えるし、シニカルなブラックコメディにも見えるし、社会性を踏まえた重い悲劇のようにも見える。鑑賞者によっては、傑作にも、凡作にも、駄作にも見えるだろう。 そういった様々な側面を踏まえて、とても懐の深い映画だと思える。[インターネット(字幕)] 8点(2024-06-09 10:12:35)(良:1票) 《改行有》

31.  マッドマックス:フュリオサ 衝撃の“Fury Road”からはや9年。究極の“行きて帰りし物語”を文字通り牽引したキャラクター“フュリオサ”の前日譚は、世界中の映画ファンが待望していたことだろう。 前作でシャーリーズ・セロンが演じた、この映画史上に残る女性キャラの若かりし時代を、今度は、現在のハリウッドを代表する“ミューズ”の一人と言って間違いないアニャ・テイラー=ジョイが演じる。そりゃあ、高揚感は是が非でも高まるというもの。 結論から言ってしまうと、ずばり主演女優アニャ・テイラー=ジョイの“眼力”で押し通した映画だった。 前作に引き続き圧倒的に破天荒な終末世界が展開されるけれど、最終的に印象に残ったのは、各シーンにおける彼女の“眼差し”のみだったと言っても過言ではない。だが、それで良いし、それが良かったと思える。 前作がただただシンプルに行って帰ってくるストーリーだったように、本作はその表題に相応しく、あらゆるものを奪われ失った一人の少女“フュリオサ”の「復讐心」のみを表現した映画だったと思う。 故郷から引き離され、母を奪われ、人生を奪われ、そして腕を奪われたフュリオサが、復讐心の一念のみで生き続け、仇とこの世界に対して逆襲をしかける。そのシンプルで、ある意味純粋な感情が、主演女優の眼差しに宿り、明確なエンターテイメントして確立されていた。 アニャ・テイラー=ジョイは、全世界のボンクラ映画ファンが期待を最大限高めた役柄に対して、その眼差し一つで見事に応えてみせたと思う。 彼女のファンとして、とても満足度の高い映画であったことは間違いない。そして、「マッドマックス 怒りのデスロード」の前日譚としても申し分ない作品だった、とは思う。 ただその一方で、「ああ、紛れもない前日譚だったな」という印象は拭えない。それはこの作品の立ち位置として全く問題無いことではあるけれど、前作以上の映画的パワーがあったかというと、そこは当然ながら「NO」と言わざるを得ない。 本作をIMAXシアターで鑑賞したその日の夜、前作「マッドマックス 怒りのデスロード」を自宅で再鑑賞した。 劇場鑑賞以来9年ぶりの鑑賞だったが、やっぱりその強烈すぎる映画世界に改めて驚愕した。 ああ、そうだ、こんなにもイカれた映画だったと思い出した。 すると、昼間に観たこの最新作の印象が極端に薄まってしまっていることに気づいた。 前作と同じくジョージ・ミラー監督が手掛けた同じ世界観の映画作品のはずだし、製作規模的にも極端に目減りしている印象はないのだが、何か絶対的な“物足りなさ”を覚えていた。 それが具体的に何なのか明確には言語化できないけれど、前作と直接比較した所感としては、作品に対するもう一歩踏み込んだ「情念」や、ディティールに対する偏執的な「執着」が、ほんの少しだけ希薄に感じられた。 そう、詰まる所、前述の“イカれ”具合そのものが足りていなかったということなのかもしれない。 自宅で鑑賞した前作のBlu-rayに収録されていた特典映像を観ていくと、ジョージ・ミラー監督をはじめとする製作陣が、本当に嬉々として、自分たちが大好きな世界観の創造に没頭していることがよく分かる。 無論、本作においてもその情熱に陰りは無かっただろうけれど、全世界でカルト的人気を築いたオリジナルシリーズから30年の時を経て、製作された前作には、もっと無謀で、もっと純粋なチャレンジ精神が溢れかえっていたのだろう。 とはいえ、繰り返しになるが、「前日譚」として本作のテイストと仕上がり自体は、正解であり、成功していると思う。 御大シャーリーズ・セロンに負けず劣らず、若かりしフュリオサを体現してみせたアニャ・テイラー=ジョイは見事だったし、もっと彼女のフュリオサを見たいという気持ちは強い。 前日譚に続編があっても全然問題ないと思うので、引き続き彼女がこの先どう人生を送り、闘い続け、“Fury Road”へ向かう「決心」へと繋がっていくのか。是非観てみたい。[映画館(字幕)] 8点(2024-06-02 18:37:48)《改行有》

32.  デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション 後章 《ネタバレ》 原作漫画の第一巻を購読したは、ちょうど10年前。その後単行本を6巻まで買い進めたところで、購読がストップしていた。そして今年アニメ映画化された本作の「前章」を鑑賞。前章で描かれたストーリー展開は、ほぼ原作で読み進めていたところまでだったが、ラストは映画独自の前倒し展開もあり、「後章」への期待が最大限に高まっていた。 「後章」の鑑賞前に、未読だった単行本の残りを最終巻まで読み切ってしまおうかとも逡巡したけれど、「前章」のアニメ映画としての出来栄えは想像以上に素晴らしかったので、このまま原作漫画の結末を知らぬまま、映画作品としての「後章」を堪能しようと思い至った。 ……実はこの映画レビューを書き始めた時点では、既に単行本を最終巻まで買い揃えて、原作を読み終えている。 そのことを踏まえて、映画「デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション 後章」に対する結論をまず言ってしまいたい。 正直、「残念」の一言に尽きる。 アニメーション作品としての全体的なクオリティは、「前章」と同様に精度が高く素晴らしいと言っていい。作画的な素晴らしさは勿論、やっぱり特筆して良かったのは、二人の主人公を演じた幾田りら&あのちゃんの表現力だろう。漫画作品のアニメ化として、そのクリエイティブにおいては間違いなく成功していたと思う。 だからこそである。もう一度言うけれど、「残念」だ。 浅野いにおによる原作漫画を読み終えた後では、この「後章」に対して、「デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション」の漫画世界を描ききっているとはとてもじゃないが言い難い。 単行本の最終巻(12巻)を読み終えた瞬間、ちょっと整理がつかない「呆然」とした脳裏の中で渦巻いたものは、独創的なSF青春群像劇の帰着に対する充実感と、映画の結末に対する圧倒的な不可解さだった。 映画の結末は原作と異なるということは知っていたし、漫画と映画という性質がことなる媒体において表現方法やアプローチに差異が生じてしまうことはある程度仕方のないことだとは思う。 それにしても、何故、どうして、原作漫画の最終巻をほぼ丸ごとカットしてしまうという「暴挙」に至ってしまったのか。 原作漫画の後半の顛末を未読状態で「後章」を観終えた後も、「ああそういう終わり方なのか」と、いくばくかの尻切れトンボ感はあった。 世界の終末と多元宇宙を描き、大風呂敷を広げたストーリーの収束としては、やはり物足りなかったし、この映画の結末をハッピーエンドと捉えるべきなのか、それともバッドエンドと捉えるべきなのか、とてもモヤモヤした感情が残った。 原作漫画ではもう少し納得のいく結末があるのかもしれないと読破し、前述の「呆然」に至る。 そこにあったのは映画の結末に物足りなかった“ストーリーの収束”どころではなかった。 少女から大人になる“彼女たち”の過程における“ありえたかもしれない未来”、または、“今この現実の裏側に何層にも存在する別の現実”、そのすべてに存在する“彼女たち”の刹那的な輝きが溢れ出していた。 見紛うことなき世界の終末と、一人の少女の中に存在する多元宇宙の中で、無限に広がる彼女たちの絶望と希望に打ちのめされた。 それは、この物語が終始描き連ねてきた醍醐味であり、「見事」と言っていいSF的な帰着だった。 というわけで、原作漫画を読んでしまい、その結末に衝撃を受けてしまった以上、それを「無視」してしまったこの映画を評価するわけにはいかなくなった。 どういう意図や経緯で、「後章」の結末に至ってしまったのか、そうせざるを得なかったのかは知る由もないけれど、もし可能性が少しでもあるのならば、「新章」として原作の結末をこのアニメーションで描ききってほしい。と、切望する。[映画館(邦画)] 5点(2024-06-02 18:36:00)《改行有》

33.  シティーハンター(2024) 体現している人物が「冴羽獠」であることを信じて疑わせない鈴木亮平は、奇跡的ですらあった。それは、一般的な漫画の映画化作品における“忠実”とは一線を画していると言っていいくらいに、正真正銘の“実写化”だった。 何がスゴいって、漫画版、アニメ版の両方世界観における「冴羽獠」という架空のキャラクターを統合して一つの人格の中で表現していることだ。 男性でも惚れ惚れするしか無い肉体美を惜しげもなく披露したかと思えば、その“ほぼ全裸”状態のまま、ちょける、はじける。 普通、漫画やアニメの世界のテンションのまま実写版でふざけても、大体の場合は白けるし、失笑を避けられない。 けれど鈴木亮平の“獠ちゃん”は、漫画世界のキャラクター性とテンションそのままに、現実描写を成立させてしまっている。更に驚いたのは、ちょけたシーンの声色がアニメ版の声優・神谷明のそれにそっくりだったことだ。 そこには、実写版を観ていながら、アニメ版や漫画世界の境界線を超えて、三様の「シティーハンター」の世界線が入り混じり、違和感なく共存しているような感覚があった。 無論、真に迫っていたのはコメディシーンばかりではない。 説得力を伴った身体能力による格闘シーンもガンアクションも、世界最高のプロスイーパーである“シティーハンター”を過不足なくクリエイトしていた。 苛烈な過去を背負っている裏社会No.1のスイーパーが醸し出すハードボイルドと、“もっこり”がトレードマークの新宿の種馬という、あまりにも相反する両面のキャラクターを持つ主人公を、これほどまでに説得力を持って演じきれたのは、鈴木亮平という俳優自身が演じてきた役柄の振れ幅の広さに起因するだろう。 「HK 変態仮面」でお下劣なヒーローを演じたかと思えば、「孤狼の血 LEVEL2」では鬼畜の最凶ヤクザを狂気のままに演じきる。彼自身インタビューで語っていた通り、これまで決して型にはまることなくありとあらゆるキャラクターを演じきたことが、本作において圧倒的な説得力を伴った「冴羽獠」に繋がったことは明らかだ。 また「シティーハンター」という作品において、主人公と並んで重要度を持つヒロインであり相棒である「槇村香」を演じた森田望智も素晴らしかったと思う。 彼女は世代的に「シティーハンター」を知らなかったと言うが、おそらくはしっかりと原作やアニメを叩き込んで撮影に臨んだのだろう。ボーイッシュなビジュアルの再現はもちろん、重い荷物を担ぐ仕草だったり、ラストのジャケット&ジーンズ姿のフォルムに至るまで、こちらも鈴木亮平同様に細部に至るまで完璧に「香」を体現していた。 現在放映中の朝ドラ「虎に翼」でも印象的な役柄を好演しており、一躍いま最注目の女優の一人となっている。 兎にも角にも、過去最高に原作愛、アニメ愛に溢れた見事な実写化作品だ。 80年代生まれの生粋の原作ファンとして、ここまでのクリエイティブを見せてくれれば、もう文句は言えない。 まあ唯一注文をつけるとするならば、ラストかエンドクレジット後のカットで、“ラスボス”である「海原神」の存在をシルエット程度でいいので匂わしてほしかった。 要は、それくらい「続編」の存在を明示してほしかったということ。“海坊主”、“ミック・エンジェル”、この実写化で観たいキャラクターはまだまだ沢山いる。自信と確信を持ってシリーズ化してほしい。[インターネット(邦画)] 8点(2024-06-02 18:33:31)《改行有》

34.  劇場版 からかい上手の高木さん 「からかい上手の高木さん」は、原作を長らく漫画アプリで無料で読んでいたのだけれど、四十路を超えた立派なおじさんである私は、次第に二人が織りなす甘酸っぱさと眩しさにたまらなくなってしまい、先日ついに単行本を購入し始めた。 動画配信サービスでも観られるTVアニメシリーズも気になってはいたのだけれど、アニメシリーズを観る習慣があまりないので、スルーしてしまっていた。 この劇場版で同作のアニメーションを初めて観て、瑞々しい二人の日常がアニメで観られる事自体は嬉しかったけれど、世界観の性質上、やはり長編作品には向いていないかもなという印象を覚えた。 原作自体がショートストーリーの連作なので、やっぱりアニメシリーズで展開される方が適していたのだろう。 授業中に教師の目を盗んでコソコソとするやり取り、放課後に一緒に帰る時間、休みの日に偶然出会った束の間、そんな短くて他愛もないささやかな“時間”を、丁寧に描き、連ねているからこそ、原作漫画は、何にも代え難い“価値”を創出しているのだと思う。 私自身の中学生時代に、彼らのようなキュートな記憶は無いはずだけれど、それでも遥か遠くに過ぎ去った大切な時間に思いをめぐらし、高木さんの“からかい”に対して西片目線でドギマギするのも悪くない。[インターネット(邦画)] 5点(2024-04-28 23:39:41)《改行有》

35.  ドミノ(2023) 《ネタバレ》 「インセプション」や「マトリックス」をはじめ、“既視感”は否定しないけれど、ロバート・ロドリゲス監督らしい良い意味でも悪い意味でもB級テイストに振り切った映画作りには潔さを感じるし、好感が持てる。 巨匠監督の作品や超大作に出演すればしっかりと存在感を放つ役どころを演じる一方で、こういうジャンル映画でもある意味きちんとそのレベルに合った主人公像を演じるベン・アフレックは、やっぱり信頼できる映画俳優だと思う。 娘の“眼力”一発で、すべてを納得させてみせたことで、このトンデモ映画はちゃんと成立している。[インターネット(字幕)] 7点(2024-04-28 00:10:35)《改行有》

36.  名探偵コナン 紺青の拳 相変わらずというかなんというか、繰り広げられる事件、アクション、サスペンス、すべてにおいて「なんだそりゃ…」の連続。娘と二人で観ながら、終始ツッコミっぱなしだった。 映画作品に限らず、原作漫画の展開ももれなくそうだが、「名探偵コナン」というコンテンツは、もはやミステリーを楽しむものではなく、半笑いのツッコミを放ち続け、観終わった後もそれを共有した人たちと「いやーひどかったなあ」と言い合うまでが“セット”の娯楽なんだろう。 本作はシンガポールが舞台だが、例によって大仰なスペクタクル展開によって観光の象徴たるマリナーベイ・サンズがほぼ「崩壊」する。 最近では、映画の舞台に選ばれた街が、その崩壊を含めて観光PRとして歓迎しているフシすらある。 映画シリーズとしての品質はまったく評価できないけれど、1997年から劇場版を公開し続け、2コロナ禍真っ只中の2020年のただ一回を除いて、27作も連ねてきたことは純粋にスゴいと思う。 なんだかんだ言って単行本は全巻揃えているくせに、今までは積極的にコナン映画を避け続けてきたけれど、改めて“ツッコミ映画”として観ていこうかなとも思ったり思わなかったり。[地上波(邦画)] 3点(2024-04-14 15:21:10)《改行有》

37.  デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション 前章 多様性という言葉のみが先行して、それを受け入れるための社会の成熟を成さぬまま、問題意識ばかりが蔓延する現代社会において、私たちは、いつしか見なければならない現実から目を背け、まるで気にもかけないように見えないふりをしている。 空に街を覆い隠すような巨大円盤が浮かんでいたって、仕事が大事、受験が大事、友情が大事、恋が大事、体裁やステータスが大事と、問題をすげ替える。 このアニメ映画は、本当は直視しなければならない「日常」の中に潜む「非日常」を、具現化して、切実に茶化して、女子高生たちを中心にした群像劇に落とし込む“くそやばい!”寓話だ。 今だからこそ多少ジョーク混じりに「闇落ちしていた」なんて思い出せるけれど、20代の私は諸々の環境が辛くてしんどくて、滅入っていた。専門学校を卒業して、フリーターを経て、ニートじみた時間を過ごして、ようやく就職した営業職に辟易とした日々を送っていた。 そんな折、いつも傍らにあったのは、浅野いにおの漫画だった。 「素晴らしい世界」「ひかりのまち」「ソラニン」「虹ヶ原ホログラフ」「世界の終わりと夜明け前」……と彼の作品はほぼ読んできた。 漫画作品としての面白さももちろん堪能していたけれど、特にその当時の私のフェイバリットになった「理由」は、同世代の作家が生み出してくれた「共感性」だったのではないかと、20年たった今思える。 自分と同じ20代の漫画家が、己の人生や社会に対する鬱積やジレンマを吐き出すように、そしてその先に一抹の光や希望を必死に求めるように、生々しく創造された漫画世界に、共感せずにはいられなかった。 そんな浅野いにお作品の初のアニメ映画化。そりゃあ観ないわけにはいられない。 「デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション」は、単行本を買っているけれど、途中で購入がストップしてしまっていた。(作品自体は非情に面白く、無論好きな世界観なのだが、ここ数年漫画本を購入する行為自体がすっかり消極的になってしまい、本屋に行かなくなってしまったことが最たる要因だろう) 既に完結している原作を読まずして、本作を観るのはいかがなものかとも逡巡したけれど、前章・後章構成ということもあり、とりあえず前章の鑑賞に至った。 原作ファンとしての警戒心はもちろんあったけれど、この前章を観る限りでは、ものすごく見事なアニメ映画に仕上がっていたと思える。 物語的には、おそらくは全体のストーリーの序盤から中盤に差し掛かるくらいの地点で終了してしまうので、尻切れトンボ感は拭えないが、それでもこの先何が起こるのかというワクワクドキドキは十二分に表現されていた。 何よりも、漫画世界の中で、特異なテンションと表情で悲喜こもごもの感情を爆発させていたキャラクターたちが、アニメーションの中でとても魅力的に躍動していたことが、素晴らしかったと思う。 主人公二人の声を演じた幾田りら&あのちゃんも、素晴らしい表現力と存在感で、門出とおんたんに息を吹き込んでいた。 この映画のストーリーが「後章」でどんな結実を見せるのか、まったくもって予想できないけれど、こうなればこのまま映画で結末を迎えたあとに、残りの単行本を買い揃えようと思う。 もちろん今も私の背後の本棚の一番近い段には、浅野いにおの作品が並んでいる。「後章」公開までは、保有済みの「デデデ」を読み返しながら、はにゃにゃフワーッと待つとしよう。[映画館(邦画)] 8点(2024-04-09 20:37:57)《改行有》

38.  オッペンハイマー 並行世界のように異なる時間軸が入り混じって描き出されるストーリーは、「事実」のあり様を敢えて意図的に混濁させ、多角的な“視点”と“認識”を創出している。 「原爆の父」として、特に我が日本にとっては、切っても切り離せない人物として存在するJ・ロバート・オッペンハイマーの目線と人生観を、一つの視点として描き出した本作は、紛れもない傑作である。そして、やはり日本人こそが、腰を据えて観て、様々な感情を生むべき作品だろうと思った。 瀬戸内エリアで生まれ育ったこともあり、広島の平和記念資料館や原爆ドームへは、何度も行ったことがある。訪れるたびに、人類が生み出した「業火」の残酷さに愕然とし、胸が掻きむしられるようだった。 そこに展示されているおびただしい数の残骸と残穢、その一つ一つに残る悲痛な記憶に、涙が止まらなかった。 そして、あの「爆弾」を生み出した人物の所業を呪わずにはいられなかった。 ただ、その当人のことを決して積極的に知ろうとしてこなかったことも、また事実だった。それは多くの日本人にとって共通する事実ではないだろうか。 この国で、戦後の現代社会に生まれ成長してきた者として、必然的に原爆投下の事実と、それがもたらした文字通りの“地獄絵図”は、子供の頃から学校の授業で、漫画で、映画で、写真で、そして被爆者の経験談で、繰り返し見聞きしてきた。 しかし、それをもたらした一人の科学者の人生模様と、彼が生きた社会及び世界の実態に対する認識はほとんど皆無だったと言っていい。 本作を観終えたあと、NHK「映像の世紀 バタフライエフェクト」のオッペンハイマー回を観て、彼が天才科学者として辿った人生の、その一端を垣間見た。 “一端”ではあるけれど、その人生を知って思ったことは、彼が本当に得たもの、最終的に心を埋め尽くしたものは、栄光でも苦悩でも無かったのではないかということ。 そんな都合の良い“言葉”では、彼が“生み出してしまったもの”に対する功罪は推し量れないと思えた。 ブラックホールの研究に傾倒し、時代の流れのままに原爆開発の中心に突き進み、文字通り世界の在り方そのものを変えてしまった男がたどり着いた境地は、あらゆる感情を呑み込まざるを得ない「虚無」そのものだったのではないか。 キリアン・マーフィーが演じたオッペンハイマーの瞳には、野心や後悔すらも呑み込む深い漆黒が広がっていた。それは奇しくもすべてを呑み込むブラックホールを彷彿とさせた。 実は鑑賞から一ヶ月近く経っても、なかなかこの映画に対する感想がまとめきれなかった。いろいろな感情が渦巻いて整理しきれなかったからだ。 題材故に、日本公開が随分と先延ばしになった経緯があるが、もし本作が日本公開に至らなかったならば、それこそあまりにも愚かなことだったろう。 繰り返しになるが、この映画は、世界で唯一の被爆国であり、原子爆弾による死屍累々の上に生きる日本人だからこそ、しっかりと鑑賞して、様々な感情を巡らせるべき作品だと思う。 劇中、ヒロシマ、ナガサキの惨状そのものを映し出さなかったことに対する是非が問われていたようだけれど、それを描き出さなかったことが、必ずしも本作の主題において無責任なことだとは思わなかった。 むしろ直接的な地獄絵図の描写がないからこそ、オッペンハイマーをはじめとする当時の全世界の科学者たちの宿命と、彼らを含む社会のエゴイズムと狂気の様が際立っていた。 そしてその全世界的に渦巻いたエゴと狂気こそが、彼らを踏みとどまる余地すらない無間地獄へと誘い、その地獄は今なお続いているとういことを、この意欲的な映画は雄弁に語り尽くしていたと思う。 原爆開発に限らず、歴史や人間の功績は、常に闇と光を併せ持つ。様々な“視点”によって、断罪と称賛はとめどなく入れ替わり続ける。 “毒林檎”をすんでのところでゴミ箱を捨てた男も、世界を滅ぼす力を持つ爆弾を生み出した男も、ただひたすらに科学に邁進した一人の人間なのだ。 そして人類は、今なお世界の終焉そのものを天秤にかけて、あまりにも危うい葛藤を続けている。 “毒林檎”は、今この瞬間も、アンバランスな天秤の片側でその重みを増し続けている。 果たして、人類は自ら生み出してしまったその禁断の果実を、ゴミ箱に捨て去ることができるのだろうか。[映画館(字幕)] 9点(2024-03-31 22:17:15)《改行有》

39.  DUNE デューン/砂の惑星 PART2 SF映画史、いや世界中で生み出される“SF”そのものを巻き込みながら、紆余曲折を経て、ついに超大作として日の目を見た“PART1”の公開から4年。個人的には、「待望」していたと言って間違いないし、近年においては屈指のワクワク感を持って鑑賞に臨んだと言える。 圧倒的な映像世界、骨の髄まで響き渡るような音響表現が、前作以上の大スペクタクルと共に繰り広げられる。その映画世界のクオリティは、SF映画史のあらゆる文脈の起点でもある“DUNE”の世界観に相応しく、無論称賛を惜しむものではない。正直、「文句のつけどころがない」と言うしか無い作品だろう。 超大な画角で切り取られたダイナミックな映像世界は、全編どこを抽出しても世界最上級のクオリティに埋め尽くされている。そして、音響は砂の一粒一粒を伝わってくるように精細かつパワフルに、我々の鑑賞体験を包みこんでくる。 いやあ、なんてすごい映画なんだろうと、自分自身に努めて言い聞かせるようにこの一大叙事詩を観終えた。 ……と、ぽつぽつとこのレビューを書き進めながら、奥歯に物が挟まったような言い回しに、我ながら気持ち悪くなってくる。 ううむ、なんだろうと?と、鑑賞から数日経った現時点で、もやもやと明文化されない感情が、実は今この瞬間も渦巻いている。 語弊を恐れずにあえて端的に言ってしまうと、「これは、面白いのか?」ということ。 いやいや、こんなに凄い映画、「面白い」に決まっている。と、すぐさま別の自分が否定してくるけれど、また次の瞬間では熱くなりきれない空虚さみたいなものが襲ってくる。そんな自己問答を何ターンも繰り返してみて、この感情の在り方自体は概ね正しいのだろうと思い至る。 物凄く壮大で美しいSF超大作であると同時に、空虚な“渇き”が映画世界全体を包み込む英雄譚。それが、ドゥニ・ヴィルヌーブが生み出した“DUNE”なのだと思う。 圧倒的なスペクタクルを見せつけながらも、英雄の成長譚+復讐劇という“王道”を、安直なカタルシスに結び付けない映画アーティストとしての矜持が、本作の根幹にはそびえ立っているように思えた。 そして、この実世界や、人の世は、一辺倒な想像や予測、予知なんてものがまかり通るほど優しくはできていないということを、寓話的な映画表現の中でぎょっとするほどのリアリティと共に突きつけてくる。 それは、映画史上において多くの先人たちが挑戦し、時に頓挫し、時に酷評を浴び、高い高いハードルとしてそびえ立っていた“DUNE”を、「ドゥニ・ヴィルヌーブの映画」として完成させてみたことの証明なのだろうと思える。 ドゥニ・ヴィルヌーブの「作品」として、本作は思惑通りであり、成功しているのだろうと思う。 ただし、それがそのまま世界を熱狂させるほどの「面白い映画」かというと、そうはならない。 それは本作で監督自身が描きつけた“王道”に対するアンチテーゼにそのまま通じる。 この世界も、映画表現も、ときに非情なほどにシンプルではない。 誰よりもヴィルヌーブ監督自身が、その事実を承知しているからこそ、本作はこのPART2で“終焉”を許さなかったのだろう。 この映画は、成功しているが、完成はしてない。“王道”を否定して、その上でたどり着くべき物語の終着点を監督をはじめとする製作陣は、明確なビジョンと共に「予知」していることは間違いない。 ならば、どのような結末が用意されているのか。映画ファンとしては、ただただ待ち続けるしかなかろう。[映画館(字幕)] 7点(2024-03-24 23:06:07)(良:1票) 《改行有》

40.  アルキメデスの大戦 結論から言うと、とても面白い映画だった。 太平洋戦争開戦前の旧日本海軍における兵器開発をめぐる政治的攻防が、事実と虚構を織り交ぜながら娯楽性豊かに描き出される。 若き天才数学者が、軍人同士の喧々諤々の中に半ば無理矢理に引き込まれ、運命を狂わされていく。 いや、狂わされていくというのはいささか語弊があるかもしれない。主人公の数学者は、戦艦の建造費算出という任務にのめり込む連れ、次第に自らの数字に対する偏執的な思考性と美学をより一層に開眼させていく。そこには、天才数学者の或る種の「狂気」が確実に存在していた。 一方、旧日本海軍側の軍人たちにおいても、多様な「狂気」が無論蔓延っている。 旧時代的な威信と誇りを大義名分とし、戦争という破滅へと突き進んでいくかの時代の軍部は、その在り方そのものが狂気の極みであったことは、もはや言うまでもない。 強大で美しい戦艦の新造というまやかしの国威によって、兵や国民を無謀な戦争へと突き動かそうとする戦艦推進派の面々も狂気的だし、それに対立して、航空母艦の拡充によって航空戦に備えようとする劇中の山本五十六も軍人の狂気を孕んでいた。 数学者の狂気と、軍人の狂気が、ぶつかりそして入り交じる。 史実として太平洋戦争史が存在する以上、本作の主題である戦艦大和の建造とその末路は、揺るがない“結果”の筈だが、それでも先を読ませず、ミスリードや新解釈も含めながら展開するストーリーテリングが極めて興味深く娯楽性に富んでいた。 避けられない運命に対して、天才数学者のキャラクター創造による完全なフィクションに逃げることなく、彼自身の狂気性と軍人たちの狂気性の葛藤で物語を紡いでみせたことが、本作最大の成功要因だろう。 主人公を演じた菅田将暉は、時代にそぐわない“違和感”が天才数学者のキャラクター性に合致しておりベストキャスティングだったと思う。 新たなキャラクター造形で山本五十六を体現した舘ひろしや、海軍の上層部の面々を演じる橋爪功、國村隼、田中泯らの存在感は流石だった。特に主人公側と対立する平山造船中将を演じた田中泯は、圧倒的な説得力で各シーンを制圧し、本作の根幹たるテーマ性を見事に語りきっていた。 若手では、主人公のバディ役を演じた柄本佑がコメディリリーフとして良い存在感を放っていたし、ヒロインの浜辺美波は問答無用に美しかった(そりゃ体のありとあらゆる部位を計りたくなる)。 そして、山崎貴監督のVFXによる冒頭の巨大戦艦大和の撃沈シーンが、このストーリーテリングの推進力をより強固なものにしている。 プロローグシーンとしてはあまりにも大迫力で映し出されるあの「戦艦大和撃沈」があるからこそ、本作が織りなす人物たちの狂気とこの国の顛末、そして、「なぜそれでも大和は建造されたのか」というこの映画の真意がくっきりと際立ってくる。 数多の狂気によって、かつてこの国は戦争に突き進み、そして崩壊した。そこには、おびただしい数の犠牲と死屍累々が積み重なっている。 ただ、だからと言って、誰か一人の狂気を一方的に断罪することはできないだろう。なぜなら、その狂気は必ずしも軍部の人間たちや政治家、そして一部の天才たちだけが持っていたものではないからだ。 日本という国全体が、あらゆる現実から目をそらし、増長し、そして狂っていったのだ。 今一度そのことを思い返さなければ、必ず歴史は繰り返されてしまう。 平和ボケしてしまった日本人が、失われかけたその「記憶」を鮮明に思い返すために、山崎貴監督によるVFXが今求められているのかもしれない。 誰得のCG映画やファンタジー映画で茶を濁さずに、意義ある「映像化」に精を出してほしい。 。[インターネット(邦画)] 8点(2024-03-10 00:07:07)《改行有》

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