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プロフィール
コメント数 2598
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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【製作年 : 2020年代 抽出】 >> 製作年レビュー統計
評価順12345678
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21.  THE FIRST SLAM DUNK 《ネタバレ》 実際に映画鑑賞に至るまで、正直懐疑的だったことは否めない。 「完成」されている原作漫画を四半世紀以上経過した今(1996年連載終了、え、マジ?)、敢えてアニメーション化することの意義があるのだろうかと思ったし、原作者本人の手によってそれを侵害するようなことになれば、悲劇でしか無いと思った。 が、鑑賞し終えた今となっては、多大な満足感とともにこう断言したい。 紛れもない、完全な、「漫画の映画化」だった、と。 それはかつてのTVアニメシリーズでは遠く到達する余地も無かった領域だった。 桜木花道の跳躍、流川楓の孤高、宮城リョータの疾走、三井寿の撃手、赤木剛憲の迫力……、「SLAM DUNK」という漫画世界の中心で描きぬかれた“バスケットマン”たちの一コマ一コマの“躍動”を、まさしくコマとコマとの間を無数の描写で埋め、繋ぎ合わせ、動かす(Animation)という崇高な試み。 敢えて語弊を恐れずに言うならば、この映画作品に映し出されたものは、いわゆるアニメーションではなく、稀代の“漫画家”が己のエゴイズムを貫き通した先に到達した漫画作品としての極地だったのではないかと思える。 「THE FIRST」と銘打ち、まさかの“切り込み隊長”のバックボーンを描いた本作。 殆どすべての原作ファンにとって、そのストーリーテリングは、是非はともかく驚きであったことは間違いないだろう。 賛否が大きく分かれていることからも明らかなように、その追加要素が雑音として響いてしまったファンも少なくないのだろうと思う。 ただ、個人的には、この加えられた物語こそが、連載終了から四半世紀経った今、井上雄彦が描き出したかった物語であり、「SLAM DUNK」という漫画をもう一度クリエイトする理由に他ならなかったのだと思う。 例えばもっとシンプルに「山王戦」のその激闘のみを精巧に描き出した方が、特に原作ファンのエモーションは更に高まったのかもしれない。 でもそれでは、井上雄彦本人が監督・脚本を担ってまで本作に挑む価値を見い出せなかったのだろうし、そもそもこの企画自体生まれていなかったのだろう。 井上雄彦は、時代と価値観の変化と混迷の中で、「バガボンド」、「リアル」という彼にとってのライフワークとも言える作品を、その終着点を追い求めるかのように描き続けている。 漫画家という立ち位置を崩すことなく、ただひたすらにその表現力を進化させ、思想を発信し続けるクリエイターの矜持が、本作には満ち溢れていた。 そのすべてを井上雄彦自身が生み出している以上、無論これは後付などでは決してなく、原作漫画「SLAM DUNK」の研ぎ澄まされた1ピースであろう。 いや、四半世紀前から知っちゃいたけど、「天才」かよ。[映画館(邦画)] 9点(2022-12-12 21:37:35)《改行有》

22.  ブレット・トレイン “ニッポン”は、世界中の外国人にとって、我々日本人が思っている以上に、唯一無二の「娯楽」の塊なんだと思う。 サムライ、ニンジャ、フジサン、アニメ、コスプレ、そしてシンカンセン。時代を越えて積み重ねられたその累々とした娯楽要素こそが、この国を愛する多くの外国人が求めるモノであり、憧れなのだ。 長年、そういった“ニッポン”を愛する外国人が生み出す映画を観ていると、日本人が見せたい“JAPAN”と、外国人が見たい“ニッポン”とでは、そもそものベクトルが異なるということをつくづく感じる。 昔は、そんな“トンデモ”日本描写に対して鼻白むことも多かったけれど、今は、逆輸入の新しい娯楽性として純粋に楽しめるようになったし、それほどまでこの国を愛してくれている海外クリエイターたちに感謝を覚えるようになった。 そう、そこにあったのは、日本文化に対する「無理解」ではなく、圧倒的な「愛」だったのだ。 結論を言うと、本作「ブレット・トレイン」(a.k.a「弾丸列車」)は、想像を遥かに超えた“トンデモバカ映画”だったが、紛れもなく日本がルーツのこの作品は、日本人にとっても圧倒的娯楽だった。 ずばり、エンターテイメント大作として“ケッサク”である。 私は伊坂幸太郎の小説のファンなので、原作「マリアビートル」も既読。 というよりも、ブラッド・ピット主演で映画化という情報を聞き入れてから、一年ほど前に読んだ。 伊坂幸太郎らしい軽妙さと人生観を孕んだ楽しい娯楽小説で、読了時点から本作を鑑賞するのが楽しみだった。 小説のストーリーラインを忠実に映画化しているというわけでは勿論なく、ハリウッド映画化にあたって文字通り大いに「脱線」していることは間違いない。 でも、その「脱線」こそが、ハリウッド映画化の意義であり、ブラッド・ピットが主人公を演じ、デビッド・リーチ監督がクリエイトすることによる付加価値だろう。 小説の語り口と比較すると、全く別のお話のようにも見えるかもしれないが、原作が描くテーマや精神性は、荒唐無稽の映画世界の中でもしっかりと反映されている。 疾走する高速列車の中で、登場人物たちの「悪運」と「幸運」が、絡み合い、鬩ぎ合い、運命を切り開いていく。 殺し屋たちが織りなすその群像劇そのものは、非現実なファンタジーだけれど、現実世界であってもおびただしい人間たちの悪運と幸運が入り混じっていることには変わりなく、その一つ一つの結果が「人生」であるということ。 理不尽な状況下の中で、悪運を撒き散らしながらも、自身の信念を持って存在し続ける主人公の姿こそが、今この世界で「生きる」ということの本質なのかもしれない。 ともあれ、ちょっと珍しいくらいに嬉々として娯楽映画の主人公に扮するブラッド・ピットを堪能しつつ、“トンデモ”が止まらない本作の暴走ぶりを楽しむのがよろしかろう。 本作の舞台となる“弾丸列車”の名称は「ゆかり」。 そう、ほっかほかの“白飯”に、極彩色豊かな“ふりかけ”をたっぷりかけて味わうつもりで。[映画館(字幕)] 9点(2022-09-17 22:15:49)(笑:1票) (良:3票) 《改行有》

23.  ハウス・オブ・グッチ “GUCCI”を手にしたことも無い僕は、本作の鑑賞後、このブランドが辿ってきた歴史を取り急ぎググらなければならなかった。 それは、映画が描き出したストーリーの背景が分からなかったというよりも、“GUCCI”というブランドにまつわるあまりにも苛烈で悍ましい人間模様に対して興味を抑えることができなかったからだ。 「HOUSE OF GUCCI」 そのタイトルの通り、この映画は、壮絶にして残酷な“或る家族”の物語だった。 「事実に着想を得た物語」と冒頭にクレジットされていたが、エンドロールを迎え、この映画が描き出された顛末のどこまでが「事実」なのかと戸惑いと驚きを隠せなかった。 手にしたことがなくとも、「GUCCI」というブランド名は、無論世界中の誰もが知っている名称であり、個々人の趣向に関わらず、一つのステータスの象徴だろう。 そんな世界的ブランドの創業家において、これほどまでに衝撃的な御家騒動が巻き起こり、文字通りの“崩壊劇”を経ていたとは。しかもそれが、80年〜90年代という極めて近しい時代の出来事であることに愕然とした。 殺人という明確な「重罪」をも含めたこの壮絶なスキャンダルを、すべての固有名詞を実名で描ききる豪胆さ。 この手のノンフィクション的な物語に対するアメリカの映画産業は、常に意欲的で、その強さを改めて思い知った。 そして、当のGUCCIは、作品に対して“猛反発”をしているとは言うが、それでも間接的に許容していなければ、劇中のすべての固有名詞、そして必然的に映し出されるブランドの製品、デザイン、アイコンを使用することは不可能だろう。 そういう意味では、本作に対する現在のGUCCIの世界的ブランドとしての気概と、過去の歴史との“決別”に対する強い思いも感じる。 御年84歳の大巨匠リドリー・スコットのクリエイティビティは、衰え知らずというよりも、ここにきて益々冴え渡っているようにすら思える。 一つの家族における暗鬱とした人間模様を、いたずらに重くしすぎることなく、ドライに、ユーモラスに、エキサイティングに、圧倒的なエンターテイメント性を孕みながら創造している。 そこに集ったオールスターキャストも、華やかであると同時にあまりにも愚かな“親戚一同”を表現しきっている。 その中でも特筆すべきはやはりレディ・ガガだろう。 現実に起こったこの華麗なる一族の崩壊劇の中で、唯一無二の「悪女」として人々に記憶されているパトリツィア・レッジアーニという女性。 すべての“元凶”とされた彼女が主人公であるこの映画世界の中で、演じたレディ・ガガは、あらゆる意味で「支配」しており、圧巻の演技を見せている。 冒頭の登場シーンから、ラストの「グッチ夫人と呼びなさい」まで、表現者としてのその支配力は圧倒的だった。 最終的に紛れもない「重罪」を犯したこの女性に対し、擁護の余地はないだろう。しかし、すでに凋落の一途を辿っていたグッチ家にとって、パトリツィアという一人の女性の存在は、避けられない分岐点だったように思えた。 パトリツィアがもたらした功罪によって、結果的にグッチ家は崩壊したが、何かが少し異なれば、全く別の顛末もあったのかもしれない。 一族の崩壊の中心に存在した悲しき“夫婦”。 冒頭のシーンでは、燃え上がる愛情の赴くまま壁に叩きつけるような激しいセックスを見せる。そして時が経ち、今度は冷え切った愛情の表現として、夫は妻を壁に叩きつける。 彼らが見せたその“愛”の有り様は、あまりに無情で、心が締め付けられた。 暗殺の直前、あらゆるものを失ったグッチ家の男は、オープンテラスでエスプレッソを飲みながら何を思い、何を思い出して微笑んだのだろう。 あのセックスの激情に偽りは無かった。でも、どこかで何かを間違えてしまった。 それは、世界中のどの夫婦、そしてどの家族にも起こり得ることだろう。[映画館(字幕)] 9点(2022-02-03 21:58:43)(良:1票) 《改行有》

24.  ドント・ルック・アップ こんなにも笑えないブラックコメディは初めてかもしれない。 「今」この瞬間の世界の実態を詰め込んだような強烈な社会風刺と、世界の終末。 登場人物たちと、彼らが織りなす社会の滑稽さが極まるほどに、“笑う”余裕などなくなり、胸糞悪さを超えて、もはや恐怖を感じてくる。 それは即ち、この映画の風刺が、決して過度にデフォルメされた描写ではないことに他ならない。 世界の危機よりも自身の保身を案じる米国大統領、タレントのスキャンダルに興じ科学者の訴えを無下にする報道番組、世界の決断をも牛耳る巨大IT企業、そして、自らで考え判断することを放棄してしまっているすべての大衆……。 それはまさしく、可笑しさと、愚かさと、悍ましさが共存する、この「地球」と「人間」の姿そのものだった。 ハリウッドのトップ・オブ・トップのオールスターキャストが、この壮大な風刺映画を強烈に彩っている。 主演のレオナルド・ディカプリオ、ジェニファー・ローレンスをはじめとして、そうそうたる面々が、馬鹿な人間像を嬉々として演じきっている。 メリル・ストリープ、ケイト・ブランシェット、マーク・ライランスら押しも押されもせぬ名優たちが揃いも揃って人間の愚の骨頂を表現するさまは、この映画の品質と娯楽性を高めると同時に、決して看過できない危機感を如実に創出していたと思う。(惜しげもなく全裸シーンを披露する72歳の大女優には脱帽!) Netflix配信映画として全世界同時公開された今作は、あらゆる意味でこの「時代」に相応しい作品だった。 不都合な真実、面倒な現実から目を反らして、どこかの誰かの思惑に取り込まれていることを、無意識レベルで甘受してしまっているこの世界。 まるで藤子・F・不二雄のSF短編漫画のような手軽さと、それと相反する多層的な面白さと辛辣さが満ちていた。 タイトルバックで映し出されるジェニファー・ローレンスの嘔吐カットで表されている通り、時に吐き気をもよおすほどの醜悪さも感じるブラックコメディだったが、この映画の在り方は圧倒的に正しい。 これが地球、最高で最悪。[インターネット(字幕)] 9点(2021-12-31 14:57:37)(良:1票) 《改行有》

25.  浅草キッド 昭和56年生まれの僕は、ビートたけしが“漫才師”だった時代を知らない。 僕自身、物心がつくかつかないかの頃、テレビで活躍していた彼の姿は“タケちゃんマン”だった。 分別がつき始めた頃には彼は毒舌家のパーソナリティとして既に芸能界のトップに君臨していたし、映画鑑賞が趣味となった頃には“北野武”という押しも押されもせぬ日本を代表する映画監督になっていた。 もちろん、古い映像でツービートの漫才を見たことはあったし、無名時代にストリップショーの幕間コントに出演していたということは知っていたけれど、僕らの世代にとってそれらはもはや「伝説」の類だった。 (「ちびまる子ちゃん」でお笑い好きのキャラクター“野口さん”がフランス座の前で無名のたけしにサインをもらうエピソードが印象深い) そういうわけで、この映画は、この国の芸能界の“生きる伝説”ビートたけしの「誕生秘話」として極めて興味深く、青春映画として、そして伝記映画として紛れもなく傑作だったとまず言いたい。 正直、劇団ひとり監督をなめていた。 彼の芸人としての趣味趣向ど真ん中の題材とはいえ、これほどまで骨格のしっかりした良質な作品を作り上げるとは、只々脱帽だ。 浅草のストリップ劇場「フランス座」を舞台にした人間模様、そして芸人師弟の物語は、決して奇をてらうことなく王道的だった。 そこには、この国の誰もが知る芸能におけるスーパースターの誕生を描くことに対する気概と敬意が表れていたと思える。 「伝説」を映画として描き出すに当たって、余計な創作やデフォルメは不要であり、ありのままの“ビートたけし”をそこに存在させることができたならば、面白くなるに決まっている。 それが、ひとり監督の信念であり、勝算だったのではないか。 そして、その思惑は見事に結実している。 決して大袈裟なストーリーテリングをするわけでもなく、未読だが、おそらくは小説「浅草キッド」に沿った物語展開の中で、若き見習い芸人“タケ”が、“ビートたけし”へと成り上がっていく。 この映画を成立させているのは、やはり“ビートたけし”を文字通り体現した柳楽優弥だと思う。 松村邦洋からかなり綿密な指導を受けたようだが、当然ながら俳優としてモノマネという領域を超越し、“憑依”という言葉が相応しい圧巻の演技を見せてくれた。 前述の通り、僕自身は若い頃のビートたけしを見たことはないが、「ああ、これはたけしだ」と驚くほどに腹に落ちた。 W主演としてビートたけしの師匠・深見千三郎を演じた大泉洋も、もはや名優という冠を疑わせない安定感と存在感を見せている。 門脇麦、鈴木保奈美ら女優陣が表現した“生き様”もとてもドラマティックで素晴らしかった。 また、触れないわけにはいかないのが、ビートきよしを演じたナイツ土屋伸之の名演+名漫才。現役世代トップの漫才師としての技量と自然な佇まいが見事だった。 そしてそれら芸達者な演者たちの能力をちゃんと引き出し、王道的な映画世界の中に着実に落とし込んでみせた劇団ひとり監督の手腕は、やはり本物だと思うのだ。[インターネット(邦画)] 9点(2021-12-15 22:14:30)(良:2票) 《改行有》

26.  MINAMATA ミナマタ 「写真」を撮ることが、昔から好きだ。 “趣味”とも大きな声では言えないくらいのスナップ撮影だけれども、自分が目にしたもの、接した人の表情、過ごした時間と視界を、写真によって切り撮り、残すというプロセスと産物には、決して数値化できない価値があると思う。 今年、少しいいカメラを買って、写真を撮るということがもっと楽しくなり、そのプロセスが自分にとって益々意義深いものになりつつある。 そんな頃合いに、この映画を観たことは、自分の人生において、中々印象的なトピックスだったと思える。 ユージン・スミスが撮る「写真」と、自分が趣味レベルで撮る「写真」とは、意味も価値もまったく「別物」であることは理解しつつも、彼が人生の黄昏に宿命的に遭遇してしまった遠い異国の「事件」の渦中で語った写真を撮るということに対する覚悟と戒め、そして悦びは、強烈に突き刺さった。 僕は、日本人としてこの国に住んでいながら、「水俣病」について学校の教科書以上のことを殆ど知らないし、ユージン・スミスというフォトジャーナリストの存在も殆ど知らなかった。 ほんの50年ほど前の出来事であり、今なお訴訟が続いているにも関わらず、「無知」であることを恥ずべきだし、正確な知識と情報が流布されていないこの国の社会に在り方も、やはり問題視すべきだろう。 ただ、その「無知」を劇的に補完し、知るべきことを知らしめてくれるのも、「写真」というものが持つ「力」であることを、この映画はあまりにも雄弁に物語る。 ユージン・スミスをはじめ、フォトジャーナリストたちがファインダー越しに見つめ、残した数々の写真によって、我々は過ぎ去った事件、出来事の真実に触れ、深く知ろうとすることができる。 そして、そこにはフォトジャーナリスト一人ひとりと、被写体一人ひとりの、相当な覚悟と勇気も含めて焼き付けられているということ。その事実に、ふるえた。 感嘆を込めて、思わずため息を漏らしてしまうくらいに、素晴らしい映画だった。 すべてのシーン、カットが美しくて意義深い。それは伝説のフォトジャーナリストを描くに相応しい映画的アプローチだと思った。 “ドキュメンタリー映画”ではなく、劇映画である以上、“非現実”である描写も多分に含まれているのだろうが、そういう創作の部分も含めて、この“MINAMATA”というテーマに対する映画の作り手たちの思いとスタンスは真摯だったと思える。 きちんとこだわってキャスティングされた日本人俳優たちもみな素晴らしく、アメリカ映画ではあるが、この国のアイデンティティを示してくれていた。 そして、映画の製作・主演を担ったジョニー・デップが本当に素晴らしかった。 「エド・ウッド」「ブレイブ」「フェイク」……、数々の傑作の中でこの俳優は、時代の反逆児たちを演じ続けてきた。 30年近くこの映画俳優の大ファンで、作品を観続けているが、危ういまでに挑戦的で、反骨精神に溢れたジョニー・デップが帰ってきた。と、思った。 「写真」は、撮られる方も、撮る方も、「魂」を持っていかれると、ユージン・スミスは自戒を込めて語る。 それはすなわち、一枚の写真には、被写体と撮影者双方の人格が宿るということだと思う。 人間が「生」を全うするための時間は限られる。でも写真によってその一部を残すことができるのであれば、やはりそれは素敵なことだ。 と、自身の心に刻みつつ、今日も僕は、シャッターボタンを拙くも押し続ける。[映画館(字幕)] 9点(2021-09-27 15:01:55)(良:3票) 《改行有》

27.  ザ・スーサイド・スクワッド “極”悪党、集結 「観たかったのは、コレコレー!」 と、中指、イヤイヤ親指を終始立てっぱなしだった。 終始一貫して、ジェームズ・ガンのイカれた映画愛が躊躇なく爆発している。 まずは、過去の不適切ツイートによって映画界の第一線から追放されかかっていた彼を今作の監督として起用してくれたDCに「ありがとう!」と唱えずにはいられなかったし、強引に“この場所”に引き戻した世界中のボンクラ映画ファンの力に改めて感嘆した。 振り返ること5年前、新進気鋭のデヴィッド・エアーが監督を務めた“最初”の「スーサイド・スクワッド」は、極めて勿体ない作品だった。 何をおいても“サイコー”なマーゴット・ロビー演じる“ハーレイ・クイン”というキャラクターを生み出したことについての「価値」は揺るがないけれど、正直なところそれが賞賛でき得る唯一のポイントだったことは否めない。 チープなストーリーの上で薄っぺらい映画世界が展開する何とも期待ハズレでザンネンな映画だった。 登場する全員が「悪役(ヴィラン)」だという、作品にとって最大の特徴を全く活かしきれていなかった映画の仕上がりには、「コレジャナイ感」が充満していた。 そんな前回作品をほぼ無かったことにしてリブートされた今作「ザ・スーサイド・スクワッド」は、登場するキャラクターたちこそ一部続投されているが、そのヴィランたちに相応しい“悪ノリ”が冒頭からフルスロットルで展開され、悪趣味で露悪的な“圧倒的娯楽性”を全面に打ち出し、見事に振り切っている。 リミッターの外れたブラックユーモアとバイオレンスが全開で描かれるプロローグシーン(ザ・捨て駒シーン)が、とにかく容赦なく、一気にジェームズ・ガンの映画世界に引きずり込まれる。 劇場の後方シートで鑑賞していた僕は、ニヤニヤを抑えきれず、居ても立っても居られなくなって、前方の空きシートに移動せずにはいられなかった。 その冒頭シーンを支配していたのは、ガン監督の盟友マイケル・ルーカー。 「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」の“ヨンドゥ”を彷彿とさせる悪役としての風格と物々しさを携えて、作品のファーストシーンから登場しながら、完全なる“噛ませ犬”としてキャラクターを全うする様は、その無様な顛末を通り越してむしろ格好良かった。(そして、「GOG2」に続いて超間接的ではあるがシルベスター・スタローンとの共演に気づくと「クリフハンガー」が観たくなる!) そして、マーゴット・ロビーは、スピンオフ作品を含めて3回目の“ハーレイ・クイン嬢”を益々狂気的なキュートさで演じてみせる。 今作ではついにジョーカーの“ジョ”の字も発しないけれど、相変わらず惚れやすく、相変わらずブチギレたアクションで敵(男ども)を蹴散らしていく様は、破滅的で、可憐で、べらぼうに悪カワイイ。 その他にも新旧すべてのキャラクターが、あまりにもマンガ的で、馬鹿馬鹿しさに溢れつつも、それぞれユニークさとチャーミングさが振り切れており、愛さずにはいられない。 それは、この映画に登場するすべてのヴィランたちにおいて、ジェームズ・ガンの映画愛と精神が注ぎ込まれ、キャラクターとして造形されているからだと思う。 クライマックスでは、この世界で最も蔑まれ、忌み嫌われている或る存在が、脅威的な“KAIJU”を覆い尽くし、世界を救う。 それは、紛れもなく、この世界の最底辺からの強烈な“ワンスアゲイン”だった。 この世界は、相も変わらずクソッタレで、痛々しくて、愚かしいけれど、それでも時折、たまらなくキュートで美しい。 ジェームズ・ガンは、頭の中の狂気的な“お花畑”で舞い上がる花びらを世界中に振り撒きながら、オンリーワンの映画世界を創造し続ける(切望)。[映画館(字幕)] 9点(2021-08-30 23:46:24)(良:1票) 《改行有》

28.  ワンダーウーマン 1984 先ず言っておくと、決して「精巧」な映画ではない。ストーリーは強引だし、様々な側面においてはっきりと稚拙な部分も多い。 映画的なテンションの振れ幅が大きく、まとまりがない映画とも言えるかもしれない。 でも、「彼女」は時を超えて、変わらずに強く、美しい。それと同時に、等身大の儚い女性像も内包している。 世界の誰よりも強く美しい人が、世界中のすべての女性と同じように、悲しみ、苦しみ、戦う。 その様を再び目の当たりにして、僕は、前作以上に高まる高揚感と、殆ど無意識的に溢れる涙を抑えることはできなかった。 舞台は、前作の第一次世界大戦下から70年近く時を経た1984年。“ワンダーウーマン”ことダイアナ(ガル・ガドット)は、最愛の人スティーヴ・トレバー(クリス・パイン)をなくした傷心を抱え続け、それでもたった一人正義と平和のために日夜身を投じている。 そんな折、古の神の力を秘めた“願いを叶える石”によって死んだはずのスティーブが数十年の時を経て甦る。奇跡的な邂逅の喜びに包まれるダイアナだったが、その裏では或る男の陰謀が世界を破滅へと導いていた。 序盤は、1980年代のアメリカ特有のサイケ感と、前作に対するセルフパロディを楽しむべき“コメディ”なのかと思った。 当代随一のコメディエンヌであるクリステン・ウィグが放つ雰囲気と存在感も、その印象に拍車をかけていた。 この序盤のテイストは、かつて70年代〜80年代に製作されていたアメコミヒーロー作品に対するオマージュでもあったのだろう。(エンドクレジットにおいてサプライズ登場する或る人物も、当時のアメコミ映像化作品に対するリスペクトだ) 1984年の世界のビジュアル的な再現に留まらず、良い意味でも悪い意味でも“おおらか”で“ユニーク”な80年代の娯楽映画の雰囲気までもが、今作には充満していた。 それはそれで娯楽映画としてなかなか味わい深いテイストであったし、実際楽しい展開だったと思う。 だがしかし、そこから展開された今作のストーリーテリングは、「時代」という概念を超えて、極めて現代的なテーマと、まさにいまこの瞬間の「世界」における辛苦をまざまざと突きつけるものだった。 その語り口自体はどストレートであり、王道的だ。だが、“ワンダーウーマン”だからこそ伝えきるメッセージ性のエモーションに只々打ちのめされる。 オープニングのダイアナの幼少期のシークエンスからてらいなく描き出されていたことは、真実を偽ることへの「否定」と「代償」。 この現代社会において、“偽る”ことはあまりにも容易だ。不正することも、嘘をつくことも、いとも簡単にできてしまう。 そして、名も無き者の一つの「嘘」が、さも真実であるかのように世界中に拡散され、後戻りのできない悲劇を生んでしまう時代である。 今作においてヴィランとしてワンダーウーマンの前に立ちはだかるのは、文字通り「虚言」のみを武器にしたただの「男」である。 彼は野心的ではあるが、世界中の誰しもがそうであるように、夢を持ち、家族を持ち、ステータスを得て、“良い人生”を送りたいと、努力をし続けてきた普通の男だと言えよう。 ただ、一つの挫折が、この男を屈折した欲望と偽りの渦に落とし込む。 その金髪の風貌や、クライマックスの全世界に向けた“演説”シーン等のビジュアルからも明らかだが、このヴィランのモデルは“前アメリカ大統領”に他ならない。 あまりにも利己的で傲慢な者が、異様な力(権力+発言力)を持ち、世界に向けて「発信」することによる社会的な恐怖と鬱積。 この映画に充満した“絶望”とそこからの“解放”は、アメリカという大国のこの“4年間”そのものだったのではないかとすら思える。 傲慢で愚かなヴィランは、怒りや憎しみを超えて、もはや憐れに映し出される。 そんなヴィランに対して、ワンダーウーマンが取った行動は、攻撃でも封印でもなく、「対話」だった。 それはまさに、今この世界に求められる“真の強さ”であろう。 「欲望」は世界中の誰もが持っていて、それを追い求めること自体はあまりにも自然なことだ。 しかし、世界の理を無視して、世界中の欲望のすべてが「虚像」として叶えられたとしたら、この世界はどうなってしまうのか。人間は何を「代償」として失うのか。 その真理と恐怖を、この映画(彼女)は、信念を貫き、力強く叩きつける。[映画館(字幕)] 9点(2020-12-19 22:19:02)(良:1票) 《改行有》

29.  シカゴ7裁判 人類史において「正義」というものほど、絶大なパワーを持つ言葉でありながらも、それが指し示す意味と範疇がひどく曖昧で、都合のいい言葉はない。 世界中の誰でもが強い意志を持って掲げられる言葉だからこそ、とてもじゃないが一括にできるものではなく、本来、その是非を裁判なんてもので問えるものではないのだと思う。 今作で描き出された「裁判」においても、それぞれの主張はどこまでいっても平行線であり、折り合える余地などそもそもない。 なぜならば、被告として裁かれる活動家の面々は勿論、悪辣に描かれる裁判官にしても、微妙な立ち位置で己の職務を全うしようとする検事にしても、この映画に登場するすべての登場人物たちは、ただひたすらに己の「正義」を貫こうとしているのだから。 この裁判劇は、様々な側面から「正義」という言葉の意味とその本質を問い、その価値も、その危険性も、平等にあぶり出している。 正義を掲げる者たちが、突発的な怒りによって、いとも簡単に暴力を生み、無秩序な憎しみの螺旋に引きずり込まれるという事実。 すべての争い、すべての戦争も、詰まるところ「正義」と「正義」の衝突であるというあまりにも空虚な皮肉。 エディ・レッドメイン演じる主人公は、その現実に、自分自身が無意識のうちに呑み込まれていたことに気づき、思わず言葉を失う。 だが、それが愚かな人間の拭い去れない本質である以上、もはや絶望しても仕方がない。 自分自身の愚かさと罪を認めつつ、それでもなお、自分自身を駆り立てる「正義」を、自分の言葉で叫び続けるしかないのだ。 ラスト、主人公の“最終陳述”で発されたものは、主張でも、弁明でもなく、彼らを突き動かした「動機」そのものだった。 2020年、全世界的に混迷を極めたこの年にこの映画が“公開”されたことの意義はあまりにも大きい。(コロナ禍の影響による劇場公開断念を受け、いち早く権利を買い取って世界配信したNetflixの功績は大きい!) 大統領選に伴う大国アメリカの分断は、今年の混迷を象徴的に表しており、この映画で描かれた時代の空気感とも類似する。 この映画の主人公の手元にある“リスト”と同様に、今この瞬間も、社会の犠牲者はリストアップされ続けている。 映画の着地点と同じく、今この世界に必要なことは、一方的な「正義」の主張などではなく、大局的な見地で、この酷い「現実」を今一度直視することだろう。 次のメッセージが大衆の声によって高らかに発せられ今作は終幕する。 The whole world is watching !(世界が見ている!) 今まさに、私たち一人ひとりが、自分の目で世界の現実を見て、動き出さなければならないのではないか。[インターネット(字幕)] 9点(2020-12-19 22:09:32)(良:1票) 《改行有》

30.  ラストレター(2020) 《ネタバレ》 遅すぎた邂逅は、それでも何かを癒し、未来を生む。 いびつで、拙く、寓話のように非現実的だけれど、それは僕自身が「Love Letter」から25年来、愛し続けた世界観そのものであり、“優しい嘘”は、あの時と変わらずに心を揺らした。 僕が中学生の頃、「スワロウテイル」を観て、岩井俊二という映画監督の存在を初めて知った。 「映画」というものを自身の趣味として積極的に観始めたばかりの頃で、見識が浅い子供だった僕は、映し出されている映画世界のどこまでが現実で、どこからが非現実なのか、その境界線を判別できなくて、大きな戸惑い共に衝撃を受けた。 無論それは、あの“イェン・タウン”という異世界に対してリアリティを感じたというわけではなく、エキセントリックな「寓話」として映し出された空間に妙な生々しさと、現実世界と地続きの真理めいたものを感じたからだと思う。 以来僕は、二十数年に渡り、この映画監督が生み出す“世界”の虜になり、憧れ続けてきた。 時間は瞬く間に過ぎ去り、中学生の男子は、アラフォーのおじさんになった。 2016年の「リップヴァンウィンクルの花嫁」以来4年ぶりの最新作に対しては、少々気が引けていた部分があった。 「Love Letter」の二番煎じとまでは言わないまでも、何となく懐古的な雰囲気を携えたイントロダクションに懸念を感じていたこともあるが、何よりも僕自身が、“ラブストーリー”というものに対して、とんと縁遠くなってしまっていたことの影響が大きい。 四十路前のおじさんになってしまった自分が、中学生時代から憧れ続けてきた映画監督が新たに生み出したラブストーリーを目の当たりにして、照れずに、素直に受け入れることができるだろうか。そういう「危惧」が無意識下にあったように思う。 でも、そんな危惧や懸念は、序盤の何気ないシークエンスに触れた途端に消え去っていった。 少年少女たちの他愛もない台詞回し、どこか無防備な役者たちの自然体の演技、ただひたすらに美しい映像世界、ファーストカットからの一つ一つに対して、「ああ、岩井俊二の映画だな」とストンと腹に落ちる感覚を覚えた。 松たか子、福山雅治が演じる主人公たちは、奇しくも高校卒業から二十数年を経た“おばさん”、“おじさん”。 この上なくセンチメンタルで、ロマンティックなラブストーリーであることは間違いないけれど、この映画は、まさに「Love Letter」から25年が経った“僕たち”のための作品だった。 二十数年の年月は、劇中の登場人物たちにとっても、現実世界の僕たちにとっても、同じように長く、一口で語れるものではない。 色々なものを失い、色々なものを得るには充分な時間であろう。 過ぎ去った時間のあまりにも眩い「光」を愛するあまりに、逆にその呪縛から抜け出せずにいた売れない小説家の男。 不意に訪れた邂逅により、彼が突き付けられた“現実”はあまりにも厳しく、尽きせぬ悔恨と共に容赦なく「闇」の中に突き落とされる。 けれど、その邂逅は、男を呪縛から解き放ち、「闇」の中から新しい「光」へと導いてもいく。 “幻影”のように美しく光り輝く二人の少女に対峙した彼は、決して取り戻すことができない時間の無情さを痛感したと同時に、悔恨も、贖罪も、悲しみも、感謝も、すべてひっくるめて歩むべき「未来」を見出したのだろう。 “信奉者”としての贔屓目は多分にあろうとは思う。 ただ、岩井俊二の映画作品と共に、僕は僕なりに、二十数年の“紆余曲折”を経てきたわけで。 その上で得られたこの新たな感動を否定することなどできやしない。[映画館(邦画)] 9点(2020-01-18 23:31:44)(良:1票) 《改行有》

31.  アステロイド・シティ 結論から言うと、好きな映画だと言っていい。 メインストーリーを極彩色豊かな劇中劇として映し出し、舞台劇のように描き出した現実描写を挟み込んだ入れ子構造は、意図的に難解で、映画世界に没頭しづらい。 けれど、その感情移入のしづらさそのものが、本作におけるウェス・アンダーソン監督の思惑でもあり、最終的には彼の生み出した世界に心地よく包みこまれていたことに気づく。 30年以上に渡ってハリウッドの第一線で、偏執的なまでの自分の世界観を描き出し続けるウェス・アンダーソンのクリエイティブがとにかく素晴らしい。 1955年のアメリカ南西部の砂漠の中の小さな街を舞台にしたストーリーテリングには、当時のアメリカ社会を投影した様々な要素が盛り込まれている。 エスカレートしていく冷戦を背景にした軍拡前提の科学者育成、女性蔑視が色濃く残る社会や、その中で苦悩する人気女優。揃いも揃って風変わりな登場人物たちが、実は孕んでいる人生模様の中で、そういった要素が、割とダイレクトに表現されていた。 映画作品の文脈として特に興味深かったのは、同時期に製作・公開されたであろう「オッペンハイマー」との類似性だ。 砂漠の中の小さな街“アステロイド・シティ”の舞台設定は、「オッペンハイマー」で原爆開発のために作られた街“ロスアラモス”ととても似通っていたし、キャラクターたちの人生観においても、共通要素があったと思う。 公開時「オッペンハイマー」と対峙するように話題となった「バービー」の主演マーゴット・ロビーが出演していることも興味深い関連性だろう。 と、時代設定を背景にして色々な社会的要素を詰め込み、宇宙人も登場するハチャメチャな映画世界ではあるけれど、その一方で本質的なテーマはシンプルだ。 詰まる所、主人公である父親とその長男である息子の視点を主軸にした、妻(母)を亡くした父子の喪失とリスタートの物語だったのだと思う。 おそらくは、主人公の父子も、劇中劇を演出する監督や脚本家も、ウェス・アンダーソン監督自身の自己投影であり、やっぱり本作は首尾一貫して、彼の極めてパーソナルな心象風景を描き出した映画世界だった。 描き出された時代背景や、物語構造を推察して様々なテーマ性を考察することも一興だろうし、思考を止めてただただお洒落な映画世界をファッション誌をめくるように堪能することも、本作の正しい観方だろう。 脳天気なコメディにも見えるし、シニカルなブラックコメディにも見えるし、社会性を踏まえた重い悲劇のようにも見える。鑑賞者によっては、傑作にも、凡作にも、駄作にも見えるだろう。 そういった様々な側面を踏まえて、とても懐の深い映画だと思える。[インターネット(字幕)] 8点(2024-06-09 10:12:35)(良:1票) 《改行有》

32.  マッドマックス:フュリオサ 衝撃の“Fury Road”からはや9年。究極の“行きて帰りし物語”を文字通り牽引したキャラクター“フュリオサ”の前日譚は、世界中の映画ファンが待望していたことだろう。 前作でシャーリーズ・セロンが演じた、この映画史上に残る女性キャラの若かりし時代を、今度は、現在のハリウッドを代表する“ミューズ”の一人と言って間違いないアニャ・テイラー=ジョイが演じる。そりゃあ、高揚感は是が非でも高まるというもの。 結論から言ってしまうと、ずばり主演女優アニャ・テイラー=ジョイの“眼力”で押し通した映画だった。 前作に引き続き圧倒的に破天荒な終末世界が展開されるけれど、最終的に印象に残ったのは、各シーンにおける彼女の“眼差し”のみだったと言っても過言ではない。だが、それで良いし、それが良かったと思える。 前作がただただシンプルに行って帰ってくるストーリーだったように、本作はその表題に相応しく、あらゆるものを奪われ失った一人の少女“フュリオサ”の「復讐心」のみを表現した映画だったと思う。 故郷から引き離され、母を奪われ、人生を奪われ、そして腕を奪われたフュリオサが、復讐心の一念のみで生き続け、仇とこの世界に対して逆襲をしかける。そのシンプルで、ある意味純粋な感情が、主演女優の眼差しに宿り、明確なエンターテイメントして確立されていた。 アニャ・テイラー=ジョイは、全世界のボンクラ映画ファンが期待を最大限高めた役柄に対して、その眼差し一つで見事に応えてみせたと思う。 彼女のファンとして、とても満足度の高い映画であったことは間違いない。そして、「マッドマックス 怒りのデスロード」の前日譚としても申し分ない作品だった、とは思う。 ただその一方で、「ああ、紛れもない前日譚だったな」という印象は拭えない。それはこの作品の立ち位置として全く問題無いことではあるけれど、前作以上の映画的パワーがあったかというと、そこは当然ながら「NO」と言わざるを得ない。 本作をIMAXシアターで鑑賞したその日の夜、前作「マッドマックス 怒りのデスロード」を自宅で再鑑賞した。 劇場鑑賞以来9年ぶりの鑑賞だったが、やっぱりその強烈すぎる映画世界に改めて驚愕した。 ああ、そうだ、こんなにもイカれた映画だったと思い出した。 すると、昼間に観たこの最新作の印象が極端に薄まってしまっていることに気づいた。 前作と同じくジョージ・ミラー監督が手掛けた同じ世界観の映画作品のはずだし、製作規模的にも極端に目減りしている印象はないのだが、何か絶対的な“物足りなさ”を覚えていた。 それが具体的に何なのか明確には言語化できないけれど、前作と直接比較した所感としては、作品に対するもう一歩踏み込んだ「情念」や、ディティールに対する偏執的な「執着」が、ほんの少しだけ希薄に感じられた。 そう、詰まる所、前述の“イカれ”具合そのものが足りていなかったということなのかもしれない。 自宅で鑑賞した前作のBlu-rayに収録されていた特典映像を観ていくと、ジョージ・ミラー監督をはじめとする製作陣が、本当に嬉々として、自分たちが大好きな世界観の創造に没頭していることがよく分かる。 無論、本作においてもその情熱に陰りは無かっただろうけれど、全世界でカルト的人気を築いたオリジナルシリーズから30年の時を経て、製作された前作には、もっと無謀で、もっと純粋なチャレンジ精神が溢れかえっていたのだろう。 とはいえ、繰り返しになるが、「前日譚」として本作のテイストと仕上がり自体は、正解であり、成功していると思う。 御大シャーリーズ・セロンに負けず劣らず、若かりしフュリオサを体現してみせたアニャ・テイラー=ジョイは見事だったし、もっと彼女のフュリオサを見たいという気持ちは強い。 前日譚に続編があっても全然問題ないと思うので、引き続き彼女がこの先どう人生を送り、闘い続け、“Fury Road”へ向かう「決心」へと繋がっていくのか。是非観てみたい。[映画館(字幕)] 8点(2024-06-02 18:37:48)《改行有》

33.  シティーハンター(2024) 体現している人物が「冴羽獠」であることを信じて疑わせない鈴木亮平は、奇跡的ですらあった。それは、一般的な漫画の映画化作品における“忠実”とは一線を画していると言っていいくらいに、正真正銘の“実写化”だった。 何がスゴいって、漫画版、アニメ版の両方世界観における「冴羽獠」という架空のキャラクターを統合して一つの人格の中で表現していることだ。 男性でも惚れ惚れするしか無い肉体美を惜しげもなく披露したかと思えば、その“ほぼ全裸”状態のまま、ちょける、はじける。 普通、漫画やアニメの世界のテンションのまま実写版でふざけても、大体の場合は白けるし、失笑を避けられない。 けれど鈴木亮平の“獠ちゃん”は、漫画世界のキャラクター性とテンションそのままに、現実描写を成立させてしまっている。更に驚いたのは、ちょけたシーンの声色がアニメ版の声優・神谷明のそれにそっくりだったことだ。 そこには、実写版を観ていながら、アニメ版や漫画世界の境界線を超えて、三様の「シティーハンター」の世界線が入り混じり、違和感なく共存しているような感覚があった。 無論、真に迫っていたのはコメディシーンばかりではない。 説得力を伴った身体能力による格闘シーンもガンアクションも、世界最高のプロスイーパーである“シティーハンター”を過不足なくクリエイトしていた。 苛烈な過去を背負っている裏社会No.1のスイーパーが醸し出すハードボイルドと、“もっこり”がトレードマークの新宿の種馬という、あまりにも相反する両面のキャラクターを持つ主人公を、これほどまでに説得力を持って演じきれたのは、鈴木亮平という俳優自身が演じてきた役柄の振れ幅の広さに起因するだろう。 「HK 変態仮面」でお下劣なヒーローを演じたかと思えば、「孤狼の血 LEVEL2」では鬼畜の最凶ヤクザを狂気のままに演じきる。彼自身インタビューで語っていた通り、これまで決して型にはまることなくありとあらゆるキャラクターを演じきたことが、本作において圧倒的な説得力を伴った「冴羽獠」に繋がったことは明らかだ。 また「シティーハンター」という作品において、主人公と並んで重要度を持つヒロインであり相棒である「槇村香」を演じた森田望智も素晴らしかったと思う。 彼女は世代的に「シティーハンター」を知らなかったと言うが、おそらくはしっかりと原作やアニメを叩き込んで撮影に臨んだのだろう。ボーイッシュなビジュアルの再現はもちろん、重い荷物を担ぐ仕草だったり、ラストのジャケット&ジーンズ姿のフォルムに至るまで、こちらも鈴木亮平同様に細部に至るまで完璧に「香」を体現していた。 現在放映中の朝ドラ「虎に翼」でも印象的な役柄を好演しており、一躍いま最注目の女優の一人となっている。 兎にも角にも、過去最高に原作愛、アニメ愛に溢れた見事な実写化作品だ。 80年代生まれの生粋の原作ファンとして、ここまでのクリエイティブを見せてくれれば、もう文句は言えない。 まあ唯一注文をつけるとするならば、ラストかエンドクレジット後のカットで、“ラスボス”である「海原神」の存在をシルエット程度でいいので匂わしてほしかった。 要は、それくらい「続編」の存在を明示してほしかったということ。“海坊主”、“ミック・エンジェル”、この実写化で観たいキャラクターはまだまだ沢山いる。自信と確信を持ってシリーズ化してほしい。[インターネット(邦画)] 8点(2024-06-02 18:33:31)《改行有》

34.  デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション 前章 多様性という言葉のみが先行して、それを受け入れるための社会の成熟を成さぬまま、問題意識ばかりが蔓延する現代社会において、私たちは、いつしか見なければならない現実から目を背け、まるで気にもかけないように見えないふりをしている。 空に街を覆い隠すような巨大円盤が浮かんでいたって、仕事が大事、受験が大事、友情が大事、恋が大事、体裁やステータスが大事と、問題をすげ替える。 このアニメ映画は、本当は直視しなければならない「日常」の中に潜む「非日常」を、具現化して、切実に茶化して、女子高生たちを中心にした群像劇に落とし込む“くそやばい!”寓話だ。 今だからこそ多少ジョーク混じりに「闇落ちしていた」なんて思い出せるけれど、20代の私は諸々の環境が辛くてしんどくて、滅入っていた。専門学校を卒業して、フリーターを経て、ニートじみた時間を過ごして、ようやく就職した営業職に辟易とした日々を送っていた。 そんな折、いつも傍らにあったのは、浅野いにおの漫画だった。 「素晴らしい世界」「ひかりのまち」「ソラニン」「虹ヶ原ホログラフ」「世界の終わりと夜明け前」……と彼の作品はほぼ読んできた。 漫画作品としての面白さももちろん堪能していたけれど、特にその当時の私のフェイバリットになった「理由」は、同世代の作家が生み出してくれた「共感性」だったのではないかと、20年たった今思える。 自分と同じ20代の漫画家が、己の人生や社会に対する鬱積やジレンマを吐き出すように、そしてその先に一抹の光や希望を必死に求めるように、生々しく創造された漫画世界に、共感せずにはいられなかった。 そんな浅野いにお作品の初のアニメ映画化。そりゃあ観ないわけにはいられない。 「デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション」は、単行本を買っているけれど、途中で購入がストップしてしまっていた。(作品自体は非情に面白く、無論好きな世界観なのだが、ここ数年漫画本を購入する行為自体がすっかり消極的になってしまい、本屋に行かなくなってしまったことが最たる要因だろう) 既に完結している原作を読まずして、本作を観るのはいかがなものかとも逡巡したけれど、前章・後章構成ということもあり、とりあえず前章の鑑賞に至った。 原作ファンとしての警戒心はもちろんあったけれど、この前章を観る限りでは、ものすごく見事なアニメ映画に仕上がっていたと思える。 物語的には、おそらくは全体のストーリーの序盤から中盤に差し掛かるくらいの地点で終了してしまうので、尻切れトンボ感は拭えないが、それでもこの先何が起こるのかというワクワクドキドキは十二分に表現されていた。 何よりも、漫画世界の中で、特異なテンションと表情で悲喜こもごもの感情を爆発させていたキャラクターたちが、アニメーションの中でとても魅力的に躍動していたことが、素晴らしかったと思う。 主人公二人の声を演じた幾田りら&あのちゃんも、素晴らしい表現力と存在感で、門出とおんたんに息を吹き込んでいた。 この映画のストーリーが「後章」でどんな結実を見せるのか、まったくもって予想できないけれど、こうなればこのまま映画で結末を迎えたあとに、残りの単行本を買い揃えようと思う。 もちろん今も私の背後の本棚の一番近い段には、浅野いにおの作品が並んでいる。「後章」公開までは、保有済みの「デデデ」を読み返しながら、はにゃにゃフワーッと待つとしよう。[映画館(邦画)] 8点(2024-04-09 20:37:57)《改行有》

35.  首(2023) “可っ笑しい”映画だった。 豪華キャストと巨額を投じて、とことんまで「戦国時代」という時代性と概念をシニカルに馬鹿にし、下世話に表現しつくした北野武らしい映画だったと思う。 鑑賞前までは正直なところ失敗作なのではという危惧が無くはなかったけれど、北野武監督が描くに相応しい意義のある娯楽作品だった。 冒頭、川のせせらぎに放置された無数の武者の死屍累々。その中の一つの“首なし”死体の中から蟹がもぞもぞと出てくる。何とも悍ましいそのファーストカットが、本作のテーマである人間たちの権力争いの無情さと愚かさ、そして残酷さを如実に表していた。 そこから先は、まさに「首」というタイトルを踏襲するように、“打首”のオンパレード。織田信長を筆頭とする戦国の世の支配者層から、農民上がりの底辺の歩兵に至るまで、ありとあらゆる立場の人間が、互いの“首”を巡り謀略と残虐の限りを尽くしていく。 描き出される浮世には、もはや正義だとか、良識などという言葉は存在すらしない。 武将に限らず、市中の平民、山間の農民に至るまで、ほとんどすべての人間は悪意と強欲に埋め尽くされている。 その様を傍らで見つつ、自分自身も戦乱の中で野望を抱えて暗躍する抜け忍(芸人志望)の、曽呂利(演 木村祐一)という役どころこそが、北野武本人の代弁者だったのだろう。 彼が映画の終盤で思わず呟く「阿呆ばっかりか」という一言は、劇中の戦国時代のみならず、あらゆる欲望が渦巻き続ける人の世に対する諦観だった。 映画全体の絶対的な暴力性、人間の本質に対する虚無感と脱力感、そしてそこに挟み込まれるオフビートな乾いたコメディ描写は、やはり“北野武映画”らしく、興味深い世界観を構築していた。 織田信長、羽柴秀吉、徳川家康らが揃い踏む戦国時代を描いた映画ではあるが、いわゆる「史劇」として描き出すのではなく、まくまでも戦乱の世とそこに巣食った人間たちをモチーフにした狂騒劇として、想像性をふんだんに織り交ぜて構築されたエンターテインメントだったとも思う。 最後“2つの首”を並べて、泥と血に塗れて汚らしい首の方を忌々しく蹴り飛ばす羽柴秀吉(演 ビートたけし)の身も蓋もない言動は、本作が描き出す皮肉の到達点であり、ラストカットとしてあまりに相応しい。[映画館(邦画)] 8点(2023-12-02 12:20:02)(良:1票) 《改行有》

36.  ザ・キラー 《ネタバレ》 何やら高尚な“殺し屋哲学”を主人公は自己暗示のように終始唱え続ける。が、やることなすことちっとも予定通りにいかない一流(?)アサシンの憂鬱と激昂が、上質な映画世界の中で描かれる。 デヴィッド・フィンチャーによる秀麗な映像美と緊迫感に満ちた映画世界の空気感、そして、マイケル・ファスベンダーの氷のようにひりついた殺し屋造形によって、ストーリーは冒頭から極めてスリリングに展開していく。 ソリッドでバイオレントな殺し屋映画であることを予告編の段階では大いに期待させ、鑑賞中もその期待に即した感覚は終始持続される。 けれど、そんな作品の雰囲気そのものが、明確な“ミスリード”だったことに段々と気付かされていく。 本作の本当の“狙い”と“正体”は、実は「完璧」とは程遠い人間の本質的な滑稽さであり、それを終始ドライで大真面目なファスベンダーの殺し屋像を通じてあぶり出した“コメディ”だったのだと思う。 想像していたタイプの映画ではなかったけれど、異質でユニークな新しい殺し屋映画であり、想定外の感情も含めて満足度は高い。 冒頭の暗殺シーンが、実はこの映画の行く末と、主人公の殺し屋の本質を物語っていた。 何日も前から陣取り、寒さや居心地の悪さに耐え、効率よくタンパク質が取れるとかなんとか自身に言い訳しながら安いハンバーガー(バンズ抜き)を頬張り、音楽を聞いて集中力を切らさないように努め、睡眠時間を削りながらも緊張感を高め、平常心を保つように常に自分の心拍数を確認し、念入りに慎重に待機し続け、ようやく現れたターゲットを見事に撃ち損じることから始まる衝撃的な低落ぶり。 その風貌や意味深なモノローグから、我々観客はこの男が完全無欠な一流の殺し屋であることを信じて疑わなかったけれど、冒頭いきなりの「任務失敗」に端を発し、文字通り滑り落ちるように、この男をイメージ崩壊へと押し流していく。 「一流」だと信じて疑わなかった彼へのイメージが、徐々に確実に崩れていく様が、この手の殺し屋映画としてはとてもユニークで独創的だった。 一つの大失敗と共に一気に窮地に立たされ、ほぼ“逆ギレ”のような復讐劇に展開していくストーリーテリングも、常軌を逸していて面白い。 冒頭こそ慎重に丁寧に事を進めていた主人公が、段々と雑にヘロヘロになりながら、半ばヤケクソのように“殺し”を遂行していく様に、人間の脆さや不完全さが表れていたと思う。 もっと分かりやすくコメディ要素を膨らませ、名もなき殺し屋のドタバタ劇を繰り広げることもできたであろう。 でもそうはせずに、あくまでも表面的にはルックは、デヴィッド・フィンチャー監督のクリエイティビティと、マイケル・ファスベンダーの不穏な存在感と演技力によって、ハイクオリティなハードボイルドとハードなバイオレンスアクションを貫き通すことで、逆に隠された可笑しみがじわじわと滲み出てくるようだった。 近年、殺し屋業界の内幕モノはトレンドのように量産し続けられているけれど、本作のこの独特な味わいは、それらのどれとも異なり、クセが強く、ちょっと忘れ難い。 マイケル・ファスベンダー演じる名もなき殺し屋には、まだまだ秘められた過去と、噛みごたえがありそうなので、続編も期待したい。[インターネット(字幕)] 8点(2023-11-26 00:43:25)(良:1票) 《改行有》

37.  キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン 200分を超えた物語の終着点で、主人公のアーネスト・バークハートは、劇中最も情けなく、そして力ない表情で、傍らにいたFBI捜査官の方を振り向く。気丈な捜査官も、思わず目を背けてしまうくらいに、主人公のその様とそれに至った妻に対する「回答」は、愚かすぎて目も当てられない。 この映画は、米国史上における確固たる「闇」と、その中で蠢いた人間たちの悍ましさ、そして罪を犯し続けた一人の男のひたすらな愚かさを容赦なく描きつけている。 主演のレオナルド・ディカプリオが本作で演じたアーネスト・バークハートという男は、おそらく彼のフィルモグラフィーの中で最も愚かで救いのない人間だったに違いない。 それ故に、本作の製作に当たって当初は事件を究明するFBI捜査官の方を演じる予定だったところを、自らの判断でこの愚男に配役を変え、演じきったディカプリオは、すっかり骨太な映画人だなと思う。 マーティン・スコセッシ監督の最新作に、彼が長年に渡ってタッグを組み続けたロバート・デ・ニーロとレオナルド・ディカプリオが揃い踏みするという事実は、世界中の映画ファンにとってやはりスペシャルなことであり、むしろそれこそが「事件」と言えよう。 それが206分という異様な上映時間であったとしても映画館に足を運ばずにはいられなかった。 1920年代のオクラホマ州で起きた先住民族“オーセージ族”を対象にした連続殺人事件の真相と顛末を描いた実録犯罪映画。 206分という上映時間には流石に構えてしまったが、実際に鑑賞が始まると、そこはやはり大巨匠の独壇場、プロローグシーンから一気に映画世界に引き込まれる。 オクラホマの荒野に追いやられた先住民族が、油田の発掘により一転して莫大な富を得て、そのオイルマネーに群がる白人たちの操作と支配、陰謀によって運命を狂わされていく様が、努めて淡々と描き出される。 実話ベースのストーリーテリング故に、そこには大仰な映画的な派手さや、劇的な顛末は存在しない。ただだからこそ、一人ひとりの人間の本質が、丁寧に、生々しくあぶり出されていくようだった。 前述の愚男を演じたレオナルド・ディカプリオ、そして、人間の悪意をそのものを演じきるロバート・デ・ニーロの競演からは、人間が孕む闇と腐臭が匂い立ってくるようだった。終盤、それに群がるかのように飛び回る蝿の羽音が不快感を助長していた。 また、両者の間で身も心も侵食されるオーセージ族の一人であり、主人公の妻を演じたリリー・グラッドストーンの存在感も抜群だった。 只々、嵐が過ぎ去るのを耐え忍ぶように、沈黙を守り、最後の最後まで愚かな夫への“赦し”を与えようとするその姿は、とても美しく、神々しい。 劇中、白人は神の存在を都合よく語り、オーセージ族も自分たちの信仰を貫く、がしかし、本当の「神」とは、一人ひとりの人間の中にこそ生まれ存在するものなのではないか。というようなことを、主人公の妻モリーの生き様から感じた。 時代や場所、価値観や常識を超えて、迫害や侵害を念頭に置いた理不尽な暴力は、この世界のあちらこちらで今なお繰り広げられ続けている。 本作で綴られたことは、決して「物語」ではなく、無情で端的な事実であるということを、映画の最後、自ら登場したマーティン・スコセッシは、強く強く伝える。[映画館(字幕)] 8点(2023-11-11 00:47:33)《改行有》

38.  ジョン・ウィック:コンセクエンス ラストの「決闘」の舞台に向けて、パリ中から群がるおびただしい数の敵を蹴散らしながら、50代後半のキアヌ・リーヴスもといジョン・ウィックは、二百数十段の階段を登り切る。そして、見事な“階段落ち”を見せる。 決闘開始時刻のタイムリミットが迫る中、数十段のロスかと思いきや、まるでコントのように延々と転がり続け、なんと二百数十段丸ごとの階段落ちを目の当たりにした時、この映画世界の真の境地を見たと思った。 そこに生まれたのは失笑などではない、唯一無二のアクション映画に対する紛れもない感嘆だった。 どんなにマンガ的な設定であろうと、どんなにあり得ない展開であろうと、どんなに馬鹿馬鹿しい描写であろうと、それを“アリ”にしてしまう孤高の娯楽力。それこそが、「ジョン・ウィック」という映画化世界が達した世界観であり、五十路を越えて己の“アクション映画馬鹿”の精神を貫き通したハリウッドスターの矜持であろう。 振り返ってみても、「ジョン・ウィック」シリーズは、いわゆる“一級”のアクション映画の“品質”など端から追い求めていない。「ミッション:インポッシブル」や「007」のように、世界中の幅広い映画ファンに認められて称賛されようなんて考えは微塵も無かった。 本シリーズにおいて、キアヌ・リーヴスを始めとする製作陣が追求したのは、古今東西のアクション映画マニアの心に巣食う「俺が観たいアクション映画」に他ならなかった。 もっと言い切るならば、キアヌ・リーヴス自身が“観たいアクション”そして“撮りたいアクション”の結晶だったのだと思う。 「俺が撮りたいアクション映画」、それを実現するためならば、彼はあらゆる努力を惜しまない。 ガンアクション、マーシャルアーツをはじめ、玄人はだしのあらゆるトレーニングを積み重ね、60歳を目前とする今なお、己の身一つで“スタイリッシュ”を体現し続ける。 本作において、ヨーロッパの荘厳な教会や歴史的建造物を背にして歩くだけで、映画シーンとして様になるキアヌ・リーヴスは、まさしくイケオジの頂点だろう。 169分というあまりにも長い上映時間の中で、ほぼフルフルで展開されるアクションシーンの連続に対して、観客の多くは高揚感を遥かに通り過ぎて、頭がクラクラしてくるに違いない。 正直なところ映画的に冗長であることは否定できないし、何度も何度も繰り返される殺し屋同士の殺し合いの様は、まともな神経で観続けれることは困難で、ちょっと頭がどうかしていると思える。 だがしかし、もはやその狂気性とカオス感こそが、「ジョン・ウィック」なのだと認めて、呆然としながらこの映画世界を呑み込むしかない。 そう半ば強制的に観客の価値観をも支配してしまう本作と、その主人公及び主演俳優の在り方は、エキサイティングで、やっぱりちょっと異常だ。[映画館(字幕)] 8点(2023-09-23 22:14:08)(良:2票) 《改行有》

39.  バービー(2023) 小学6年生の娘はブルーやグリーンが好き。小学3年生の息子はピンクやイエローが好き。 自分の好きな“色”に対して、子どもたちが違和感を持つことはないし、親の僕自身も好きな色を選べば良いと心から思うけれど、一方で、こうやって敢えて言葉にすること自体が、僕自身が古い価値観を抜け出しきれていない証明なのだろうとも思う。 ただ、時代の変遷とともに移り変わり様変わりする価値観そのものを「古い!」と言って一概に否定したり、拒否したりすることは容易なことだけれど、あまり意味のないことだとも思う。 なぜなら、一つ一つの価値観には、それぞれの時代や環境において、何かしらの「意味」と「役割」を持っていただろうから。 本作の主題である“バービー人形”は、その顕著な事例であり、価値観という概念を象徴するものだったのだと思えた。 それまで少女たちの“ままごと”の子守相手に過ぎなかった人形が、バービー人形の登場により、夢や理想を投影する存在となった意味。 そして、少女(=女性)たちに、“定番”の夢と理想を与えて、“現実”から目を背けたかった意図。 なぜ少女たちは、金髪の白人人形に自らの夢を投影したのか、なぜ女性たちは非現実の世界に逃げ込まなければならなかったのか。 そこには、「功罪」が等しく存在していて、一方的な否定も肯定もできないと思う。 時代の変化、社会の変化に伴い、価値観の象徴であるバービー人形の存在意義そのものが問われることは必然だろう。 ただし、だからといってそれまでの価値観をそっくりそのまま“反転”できるかというと、無論そうではない。 「時代が変わった」「価値観が変わった」とただ声高に叫んで、バービーたちの女性社会を、ケンたちの男性社会に逆転させてみたところで、本末転倒で結局何も変わらないということ。 本作の最も素晴らしいところは、そういったこの世界の“価値観”の今現在の有り様に対して、極めてフラットな視点に立ち、そのことを偏った価値観の象徴であった“定番バービー人形”の変化の中で顕わにし、笑い飛ばしていることだ。 “定番”であり、世界の女性たちの夢と理想の権化であると信じていた“彼女”が、いつの間にか古臭い旧時代の女性像の象徴であると突きつけられるシーンは、つまるところ、今この瞬間に是とされている価値観すら常に変容していくものだということを物語っていると思えた。 いつからか世界は「完璧」を求めすぎている。 それは決して皆が一様に完璧な自分になりたいわけではなく、完璧でなければ許容されない現代社会の風潮に振り回されているからだろう。 そして、その“風潮”自体にも、必ずしも真っ当な信念があるわけではなく、ただ耳障りのいい“トレンド”に過ぎないことが、この世界の悶々とした息苦しさに繋がっているように思える。 本作は、ピンク一色のイカれた世界観の中で、浅はかな見識や無責任な正義感によって、“ポリコレ”や“ジェンダーレス”という言葉の嵐に振り回される現代社会に対する痛烈な批評性と風刺に満ち溢れていた。 “バービー人形”の中に、今この瞬間の世界で描き出すべきテーマの本質を見出し、映画化を実現し、この狂気的な映画世界の中で終始“バービー”としての存在感を貫き通したマーゴット・ロビーが、映画人として、女優として、そして一人の現代人として、本当に素晴らしい。[映画館(字幕)] 8点(2023-08-18 23:18:01)《改行有》

40.  ミッション:インポッシブル/デッドレコニング PART ONE “Actor”とは文字通り“Action”を追求し表現し続ける“生き方”であることを、今年61歳になるハリウッドスターは、証明し続ける。 1996年にトム・クルーズ自身の手によって製作された「ミッション:インポッシブル」シリーズの最新第7作。 27年余りの年月を経て、主人公イーサン・ハントを体現し続ける稀代のスター俳優は、“演者”としてのボーダーラインをとうの昔に超えてしまい、本作では文字通り境界のその先に我が身を放り出している。 数ヶ月前にYou Tubeで公開された本作最大のスタントシーンのドキュメント映像を見たときには、トム・クルーズの“映画馬鹿”としての気質を重々理解していた上でも、思わず「馬鹿かよ」と口に出さずにはおられず、ニヤつきが止まらなかった。 これまでのシリーズ作同様に、アクションシーンのアイデアを起点としてストーリー展開が構築されるスタイルは本作も変わらず、むしろさらにそのコンセプトが加速している。 163分の長尺の上映時間ほぼ目いっぱいに展開される数々のアクションシーンは、どれも驚きと娯楽性に溢れていて、そのアクションの過剰なエンターテインメント性に対して、ストーリーテリング自体が振り落とされないように必死にしがみつているような印象すら覚えた。 特に本作は、シリーズ初の二部構成の“前編”ということもあり、多少のストーリー的な説明不足感や、真相や伏線回収はあえて放置して、ひたすらにアクション描写に振り切っているようにも感じた。 ただその一方で、描き出されるテーマとほぼイコールの存在として描き出される本作の「敵」は、この2023年の映画としてあまりにもタイムリーであり、トム・クルーズの映画プロデューサーとしての視点の確かさにも感服する。 劇中“それ”と呼称され、全世界へ支配力を強める神のごとき存在として対峙する“AI”との戦いは、まさに「デッドレコニング(=推測航法)」の主導権を巡る戦いであり、すなわち人間とAIにおける未来の覇権争いへと繋がっていく。 無論、来年公開予定の続編がただただ待ち遠しいが、本作の各シーンでセルフオマージュされた「ミッション:インポッシブル」第一作からまた見直しつつ待つことにしよう。 ただひとつ、“彼女の死”がフェイクであることを願いながら。[映画館(字幕)] 8点(2023-07-23 22:06:26)《改行有》

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