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【製作年 : 1930年代 抽出】 >> 製作年レビュー統計
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21.  愛怨峡 これは彼の演出法がいちいち納得できた作品ということで、私にとっては記念すべき一本。室内で俯瞰にするのは人物(おもに男)の弱さや卑小さを強調し、また運命といった視点も導入できる。いさかいなどのシーンは、一つ奥の部屋でしていることが多い。一部屋遠くから撮る。俯瞰と同じような効果もあるが、さらに表情を隠す効果もある。剥き出しの表情を消せる。表情が急変するところをドラマチックに見せたくないという慎み深さ、そういうところを近づいて捉えては失礼だという意識もあったか。あるいは逆に、その人物にとっては大事件でも世間には大して関係ないよ、といった客観視とも取れる。芸人たちの小屋へ貰い子に出していた赤ん坊が帰ってくるところ、ワーッと仲間たちが囲んで、母と子の姿をカメラから隠してしまう。次にカメラが脇から捉えるときは、最初の出会いの瞬間の剥き出しの喜びは消え、穏やかな慈愛の表情になっている。こういう礼儀正しさが彼の演出法にはあるんではないか。しかしインテリ男に対する作者の目の厳しさは隠さない。都会に出りゃ何とかなると出てきて、しかし何も出来ないで、女のほうがしっかりしてて、けっきょく家長に絶対服従の駄目男。男に対する厳しさは剥き出しで描いているな。[映画館(邦画)] 8点(2012-09-29 10:02:31)

22.  M(1931) 《ネタバレ》 映画史上最も異様な作品。そのまま解釈すれば精神病に対する偏見の作品てことになるけど、後半の異様な熱気がそんなものでないことを示す。「時代の不安」の映画であることは間違いないが、そう簡単に言い切っちゃっていいのかい、とフィルムのほうがこちらを値踏みしてくるような落ち着かなさを感じる。子どもたちの未来を奪っていく黒い影、その性的変質が政治的変質と一つのかたまりになってスクリーンから押し出してくる。犯人が少女を見てムラムラッとなるところや、「裁判」での弁明に時間を割いて丁寧にやっているのも、単なるスリラーでない証拠だ。「心の中の悪魔が言うことをきかなかった」という犯人の弁明は、ドイツ人が十数年後に繰り返すことになる。小悪党によって変質者が裁かれ、いざ刑の執行になると、目に見えぬ官憲に踏み込まれる、という話に何らかの隠喩があるのかも知れないが、カフカに通じるような、異様さを異様なまま納得させるリアリティがあって、そっちのほうが急ごしらえの解釈など吹っ飛ばしてしまう。弁護士がさかんに「犯意のない犯行は無実ではないか」と主張するのも、これからファシズムを支えていく民衆の弁護になっており、誰かを裁くだけで済む問題ではないぞ、とドイツの未来に対して、さらには世界の歴史に対して先取りして発言しているよう。無数の解釈の可能性に覆われた、まるでカサブタだけで本体の見えぬ怪物に出会ってしまった気分にさせられる作品だ。ちなみに本作のP・ローレ、『サイコ』のA・パーキンス、『コレクター』のT・スタンプが、私にとっての愛すべき三大変態(別格扱いの『ソドムの市』の四人組とで「変態七福神」とも呼ぶ)。[映画館(字幕)] 8点(2012-08-03 10:07:21)

23.  意志の勝利 演説と行進と整列。繰り返し繰り返し所属することの悦びを歌い上げ、今あなたが所属している党/ドイツという国家の確実性・正統性を保証してくれる。この時代のこの国に生まれたことは何と幸運なんだろう。大人数を捉えるときは俯瞰でその秩序正しさを描き、ヒットラーを初め指導者たちを捉えるときはやや下から見上げ偉大さを強調する。演説者を横移動でゆっくり撮るのは、ありがたい仏像を拝むときの気持ちに似通った効果を狙っているのかもしれない。ヒットラーはしばしば逆光で捉えられ、彼の黒髪があたかも純粋なアーリア民族の(彼が夢見た)金髪であるかのような錯覚を与える。ショーというものの力を最も有効に使った権力者だけのことはある。モンタージュによる作為、反復の陶酔、映像の力をフルに生かした点でプロパガンダ映像史上の一つの頂点であり、後世にも影響を残した。拍手が鳴り止まぬ熱狂を司会者の困惑で描くうまさなんて、以後の劇映画でも目にした気がする。これ東京の有楽町そごうデパート7階だったかに短期間存在した「映像カルチャーホール」ってんで見たんだけど、500円で海外のドキュメンタリーの名作を見られるいいところだった(いまはデパートそのものもない)。映画史の本に載ってるような英国サイレント期の傑作を、ここでずいぶん見られた。あれどこが運営してたのか、あれらのフィルムは今どうなっているのか、ほとんど日本語字幕が付いてたし、無駄なく活用されていればいいんだけど。[映画館(字幕)] 8点(2012-06-23 09:45:48)

24.  妻よ薔薇のやうに 原作ものではあるが、登場人物がみな弱さを持っていて、それを肯定していくという成瀬の匂いの強い話。正妻は長野から送られてきた金で衣装をあつらえるような鈍感さを持っていながら、短歌の世界では一応名を成している歌人。外で見かけた幸福そうな一家もそれをそのまま感動できず、一度短歌に凍結してしまわないとならない性分。旦那は旦那で、もういい年なのに夢追い人。金鉱探しで一生を棒に振ってしまいそうな感じ、しかもそれをうすうす予感しているようなところもある。妾は妾でそれを見抜いていて、そっと溜め息ついたりしている(この時代、妾というものはただただ可哀想な弱者か、女狐のような悪者として描かれがちだったと思うんだけど、この英百合子はちゃんと一人の女性として立体感を持って存在していた、どちらかと言えば「可哀想」サイドだけど)。みんな不幸へ不幸へと傾いていてそれを自覚しながら引きずり込まれていく。成瀬の世界をひとことで言えば「ずるずる」。流されていく弱さを個々に見ていくとどうしようもないんだけど、しかしその弱さの総体をどこか肯定している。それが明るい印象を残している。こんな世界観ってあんまりないんじゃないか。[映画館(邦画)] 8点(2012-04-26 10:09:43)

25.  白雪姫 動きの滑らかさには圧倒される。この丁寧さがアニメーションにとっていいことだったのかどうかは分からないが、とにかく「すごい」と思わせられる。特に白雪姫の動作・表情は完全に役者のそれで、動物たちと絡むシーンで面白い。あと、井戸の底の波紋とか小人たちの洗濯シーン、魔女のリンゴに垂れる液、眠った姫のまわりの雨および涙とろうそくの涙、など水・液のイメージが鮮烈。固いものより柔らかいものを描くときにアニメは独特の味が出る、継母のマントとか(『くもとチューリップ』の波紋や、『話の話』のテーブルクロスや、アニメにおける柔らかいものの表現ってのは研究に値する)。そうか、小人の家の掃除を見て今になって気がついたんだが、『略奪された七人の花嫁』の前半はこのパロディだったんだな。あと小人たちのダンスシーンなど見せ場があるのだが、どうも締めの取ってつけたようなハッピーエンディングへの移行が少々物足りない。ま、あえてアニメで見せる部分がないので、これでいいのかも知れないけど。[映画館(吹替)] 8点(2011-05-24 09:53:22)

26.  トップ・ハット 人違いもののモチーフで、ずっと引っ張り続けるシナリオがいい。途中紹介される場面で、ここまでかな、と観客に思わせといて、さらに勘違いを続けていく粘っこさが嬉しい。誤解を続けさせる会話の妙。ダンスのほうはやや地味目で、二人で踊るのでは、仕方なく踊り始めてからしだいに熱が入っていく「チーク・トゥ・チーク」が見どころか。ただ一番うっとりさせるのは、アステアのロンドン公演でのステッキもの。ロンドン紳士の正装で、けっこうワイルドに踊るのが趣向。映画の冒頭、ロンドン紳士のクラブで音をたてないように息をひそめていた場面が反転される。タップの響きを銃声に見立て、向こうに並んだ同じく正装の紳士たちを(恋がたきという見立てか)、ステッキの銃で一人二人と倒していき、残ったのは機関銃で(ステップの連続音)薙ぎ倒す。それでも残った一人は、ヨーロッパ風に弓矢で仕留める。イギリスの上流階級と、アメリカのギャングとの重ね合わせのようなシャレた(ちょっと殺伐とした)趣向に、息を飲まされた。すべての動作がイキのよさで充満している。ロジャースの上の部屋で「砂の上の音をたてないタップ」をした欲求不満が、雷雨の中のあずまやで解消されたのと同じような爽快感が、このステージにもある。[映画館(字幕なし「原語」)] 8点(2011-05-07 09:39:39)(良:1票)

27.  マヅルカ 《ネタバレ》 色男・女たらしを描くと、この時代のドイツの右に出るものはないか(フランスよりも濃い気がする)。1935年のウィーン。真のヒロインが登場する酒場のシーンの頽廃感。バックに孔雀の羽根のようなデザインで姿を現わし、左手を腰に当てて、垂れたテープをかき分けながら歌って歩いてくる感じ。絶対に何か起こらねばならない、というワクワク感が満ちる。何しろ時代が下ってからこさえた時代色ではなく、まさに当時の空気なんだろうから。そして「何か」が起こって、映画は前半と後半にきれいに分かれる。それがどう重なっていくのか、っていうところが本作の推理小説的楽しさ。前半での女性の訪問が、後半で歌手の側から繰り返されたりする謎解き的楽しみね。物語の芯は、この時代に汎世界的にあった型で、何の作品がルーツかなんて確かめようもない人情話の世界なんだけど、やっぱりホロッとさせられる。警吏が、前に禁じたスカーフをそっと掛けてやったり。それと知らぬ実の子が礼を言って、空想の抱擁があって、歩いているうちにバックが輝きだして、となるの。前半で、女たらしと娘が踊るとこで、カメラと一緒にぐるぐる回ったりしてたなあ。[映画館(字幕)] 8点(2011-01-18 11:02:57)

28.  隣りの八重ちゃん 《ネタバレ》 「気さくな近所付き合い」を理想化したような描写は、今でもテレビドラマで見られるが、そこに漂う「生あたたかい不潔な感じ」は本作にはない。映画の前半は、ほとんど「気さくな近所付き合い」の描写だけで進行し、それがとってもいいの。ガラス割っても、お隣で昼飯食べても、そこにはごく「ふだん」の時間が清澄に流れていて、それを丁寧に綴っていく。こういうのがドラマとして成り立つ、ってどうして分かったんだろう。「靴下をはかせろ」ってとこで、子どものようにはしゃいでいた八重ちゃんに「乙女心」が、さらに「女」がハッと現われてしまうあたり、たまらない。会社や大学はいっさい出てこない。家の中に入ってくる外部は、女学生友だち、これがデビューの初々しい高杉早苗だけで(やがて市川猿之助の母となり、つまり香川照之の祖母となる!)、この世界を動揺させる力は持っていない。後半になると岡田嘉子の姉が異質な外部を持ち込んでくる。芝居の質も、彼女だけ新派を演じているようでかなり浮いているが、それだけ外部性は強まった。ここでは「不潔」は、この外部の彼女が一手に引き受け、二軒の「清潔」をさらに強める。その姉はおそらくカフェの女給になって満州にでも流れていくのではないか。彼女の一家は朝鮮に転勤になる。敗戦時には「外部」に剥き出しで呑み込まれ、苦労するであろう未来を予告するようにラストには雷鳴が轟く。しかしこの時にそれが分かるわけがなく、あの雷鳴を入れたのは何の作用なんだろう。単にトーキーになった嬉しさで、夏の風物詩として入れただけなのか。あるいは二人の恋の火花がこれから散るだろうという明るいイメージなのか。もしかして映画には予知夢の能力があるのかも知れない、と不気味に思った。[映画館(邦画)] 8点(2010-11-21 09:50:02)

29.  気まま時代 《ネタバレ》 字幕なし・あらすじ配布なし、という苛酷な条件下での鑑賞だったが(アテネ・フランセ)、かつてはほかに観る手段がなく、ヒアリング能力が劇的に劣る私でもミュージカルだと楽しめるから嬉しかった。最初の見せ場はゴルフ場、クラブやボールを小道具に使ってフル回転、パッとポーズを決めるのだが肝心のジンジャー嬢はすでにベランダから姿を消しているというオチがついている。ジンジャー嬢の夢、スローモーションになったりする。ミュージカルでわざわざ夢を入れるのは野暮みたいなものだが(現実が変形するから面白いはず)、この場合は精神分析に絡んでいくからいいの。一番の見せ場は、板敷きのホールみたいなとこで、部屋から部屋へまわりながら踊り続けるシーン。いやあ堪能堪能。ほかの部屋へ踊りながら移れる、ってところにミュージカル映画の楽しみの核がありそう。視点の身軽さってことかなあ、もっと映画の本質と関係がありそうなんだけど。あとは婚約発表のときの催眠術的振り付けによるシーンか。オカシくなってるジンジャー嬢が街をさまようあたりが楽しい。ガラスを割りそうでいてなかなか遂げられず(スパナを握ると梯子の上の職人さんに、どうもと受け取られる)、お巡りさんの警棒のスイングであっさり割っちゃうとことか。射撃場でのパニック。女性が銃を構えると、たいていピシッと決まるのはなぜなんだろう。ラストはかなり強引ながらもメデタシメデタシ。[映画館(字幕なし「原語」)] 8点(2010-09-15 09:58:17)

30.  残菊物語(1939) 最初は溝口って、まだるっこしくって苦手だった。もっぱら画面の美しさや長回しの楽しさを見てた。黒澤や小津みたいにストレートには熱狂できなかった。でこれが転換点だったな。やってることは新派の男女悲劇なんだけど、その男女の関係が違って見えた。名古屋のシーン、簾越しに見守る友人、奈落で祈るお徳さん。陰影の凄味も効いてるんだけど、この舞台上の菊之助とそれを下で支える女の情念の関係、「一歩下がって陰で支える女の道」ってモロ新派的なところだが、男が地下の女に支配されているとも見えたんだ。芸術家と批評家の関係でもあったんだけど、それよりもケモノと調教師に思えた。そうしたら、今まで観てきた溝口作品の多くも、調教師とケモノの物語に思えてきて、突然溝口作品がスーッと心に沁み込んできた(まあ溝口の男はケモノってほど猛々しくはないんだけど)。世間とか社会に対する調教師とケモノコンビの意地の物語。古めかしい女と男の物語でありつつ、その二人が一緒に世間と戦ってる能動的な物語にも見えてくる。これが一体になっている。本作のラスト、男の出世のために身をひく、と同時に、もう調教師は必要なくなった、という厳しい自己認識が女にある。以前の下宿を再訪するシーンの美しさは、その厳しさもあってノスタルジーがより磨かれているんじゃないか。[映画館(邦画)] 8点(2010-05-21 10:16:49)

31.  鴛鴦歌合戦 ミュージカル映画観てると、ときに思わぬ人が歌ってるのに出会うことがある。最近では『ヘアスプレー』でのクリストファー・ウォーケンか。かつて『ロシュフォールの恋人たち』では、ミシェル・ピコリが歌ってるのを目撃した。でもやっぱり一番驚いたのは、これの志村喬、片岡千恵蔵の連発だなあ。しかも時代が時代だし。なんかここらへんの映画の軽薄な陽気さって、好き。こういう「軽薄の力」が、中国大陸で無茶やってんのと同時進行で生きていたんだ。日本が、この片岡千恵蔵まで歌わせる軽薄さの側にしがみついて、眼を吊り上げるような馬鹿真面目を排除し、心を入れ替え地道に軽薄し続けていたら、日本現代史はあんな陰惨なものにならなかったんじゃないか。別に「時代の不安」の裏返しのヒステリックな笑いじゃないの。ただただ健康な陽気さが満ちている。伴奏が入ってくるあたりのムズムズ感がたまらない。こういう映画が作られていたことをアメリカが知ったらどう思うだろう、とふと考えたものだが、その後、日系人収容所描いた『愛と哀しみの旅路』というすごい邦題のハリウッド映画の中で、デニス・クエイドがこれ観てディック・ミネを真似て歌い踊るシーンを目にした。アメリカに勝ったと思った。[映画館(邦画)] 8点(2010-05-03 12:04:35)(良:1票)

32.  東京の宿 《ネタバレ》 たぶん小津作品で一番貧窮した人たちの話。そのせいか屋外シーンの比率の高さでも、一番じゃないか。そして犯罪が描かれた最後の作品だろう。『東京暮色』で警察は出るけど。子どものシーンはやっぱりうまいなあ。帽子買っちゃうとこ。思わず買ってしまった帽子が重荷になっていく感じ。父のとこに戻るときは弟にかぶせてんの。「ちゃん怒るぞ」と言いながら兄弟が歩いていく感じ。ふっと振り返ったのをきっかけに、ワーッと走り出していく。あるいは風呂敷包みを互いの責任にして道に置き捨ててきちゃうとこ。意地の張り合い。あそこらへんの子どもの心理はなかなか描けないもんですよ。ぺこぺこしてる親に「あんな守衛殴っちゃえばいいんだよ」と子どもは言う。『生れてはみたけれど』の視線。岡田嘉子は突然画面を横切って登場するんだな。けっきょく喜八は人のいいおっちょこちょいなわけで、女に「落ちぶれてはいけない」と諭しつつ自分が盗みに行ってしまう(ほとんど寅だけど、寅は犯罪にまでは踏み切れない)。『出来ごころ』的な“いいかっこしい”の場面もあり、その裏には、かあやんへの甘えがある。ここらへんの関係の作り方がうまい。『自転車泥棒』より10年以上も前の作品なわけだ。[映画館(邦画)] 8点(2010-04-25 11:59:28)

33.  浪華悲歌 考えてみればこれ完全に「傾向映画」というジャンルに含まれる作品なんだなあ。題名「何が彼女をさうさせたか」だっていいんだ。ただヒロインが一方的に受難するのではなく、彼女なりに企て、対決しようとする。そこらへんで「傾向映画」というジャンルから抜け出たか。ヒロインが決断するところを飛ばすのがいい。会社からも家からもいなくなって、モダンなアパートに移る。昔の恋人がアパートを訪れるシーン、カーテンの外から山田を捉えていたカメラが下がり入り口の男、そのまま階段を上がっていくのを追い、もとの窓までワンカット。『祇園の姉妹』では、ちょっとラストが取って付けた気分になるんだけど、こっちのラストはしっくりくる。署に引っ張られ、情けない男は逃げ、家に帰れば、自分が金を工面してやった兄、妹にうとまれ、実情を知っている父も黙ったまま。社会も家庭も大きく壁として立ち塞がってきて、それと拮抗するぐらいにヒロインは不貞腐れる。それまでヒロインの“闘争”を観てきた者にとって、戦いに敗れた後に彼女ができることは「不貞腐れること」しかないと納得できる。ぜんぜん「いじけ」た気分のない不貞腐れ。こうならねばならない、という道を突き進む迫力。転落することのエネルギーが満ちている。これって面白いことに、がむしゃらに成り上がる話とどこか気分が似ているんだ。[映画館(邦画)] 8点(2010-01-10 12:11:09)

34.   戦前の日本のリアリズムは、ちっとも戦後のイタリアに負けてなかった。演技、顔の表情も素晴らしい。背景に土地を含む構図も見事。いくつかの場面を思い返してみよう。風見章子が友だちを見送る場面、川原で木を拾っているその荒涼とした風景、遠くの舟との呼びかけあい。表情を抑えているところがいい。夏の水運び、つまずいて転んだりは決してしない、そういうときは桶を置いて休むのだ、それだけ水は大事に扱う、リアリズムの精神はこういうところで発揮される。雨乞いの太鼓をずっとバックで鳴らし続ける。収穫、苦しい場面を続けざまに押しつけるのではなく、仕事の喜びもちゃんと伝えてくれる。年貢(?)を運んで、その家で恐縮してご馳走になりながら帯の値段を尋ねる場面とか、火事のエピソード(長いショットで丹念に撮った迫力、知らせるのに田圃まで遠いいの)、人の家に飛び火してしまったことの疚しさのほうが先に来る、こんなところに村社会が見えてくる。セリフがよく聞き取れないのだが、父と婿の確執も重要そう。不完全なフィルム状態のままでも、傑作と言っていいだろう。[映画館(邦画)] 8点(2010-01-07 12:01:09)(良:1票)

35.  祇園の姉妹(1936) 溝口は、他の日本の名監督たちに比べてユーモアが苦手、って印象があるが、でもこれなんか傑作コメディだと思うよ。だいたい映画の本なんかだと、ラストの山田五十鈴を重視して、社会派のリアリズム映画に分類してしまってるんだけど、どっちかっていうとラストを観なかったことにして、コメディと分類したほうがスッキリするんじゃないかな。それぐらい志賀廼家弁慶と新藤英太郎が傑作で、男どもの卑小さを描いて傑出しているだけでなく、そこに上方文化の伝統にのっとった「愚かという徳」をも感じさせるあたりが、実に見応えがある(旦那が義太夫うなりながら乳母車をあやしてるとことか)。このユーモアセンスが監督の作品歴でもっと活かされても良かったんじゃないか、と私なんかは思う。それと上方女のキッパリ感を出した山田五十鈴の凄味、ラストでやや縮こまってしまう印象はあるがこれも見応え十分。どういういきさつがあるんだか知らないけど、戦後に溝口と山田が一緒の仕事をしなかったのは、日本文化における重大な損失だったと思う。[映画館(邦画)] 8点(2009-12-22 12:04:52)

36.  河内山宗俊 たまたま時代の設定が過去だったというだけで、会話だけ取り出せば昭和の現代劇の様相。かえって戦後の時代劇のほうが様式性が強くなってしまっているのかも知れない。直次郎はここではそこらにいるグレかけた気弱な少年だし、三千歳とはミッちゃんと呼びあっている。金子市の中村翫右衛門が傑作で、永年留年して大学に居着いてしまっているような雰囲気のある男、しかし実は死に場所を探していた余計もののニヒリズムも持っている、というあの時代の若者像をくっきりと代表している。“市井”という言葉がこんなにも似合うセットはそうそうなく、その中の住人としては雪の舞う世界などうっとりと見惚れていられるが、余計ものの目を通すと、唯一どぶだけが奥への逃げ路として続いている圧迫も感じられる、という素晴らしい造形。古女房のやきもちという、どちらかというと喜劇の要素を転換点に、ドラマが悲劇性を帯びていくのも、時代の影か。松江邸のニセ僧道海は、設定だけが歌舞伎と同じで、全然違うドラマに仕立てて読み換えの面白さになっている。見事な傑作だが、ただ音楽がうるさく、ラストの立ち回りで「ロミオとジュリエット」が流れ出すと、やはりのけぞる。[映画館(邦画)] 8点(2009-10-14 12:00:58)

37.  夜の鳩 市井風俗ものってのは、その場所の気分のスケッチが大事、というか、それこそが作品の中心。これなんか、ストーリーよりも、そこに漂う気分だけで一編の映画にしてしまい、しかも成功している。浅草老舗の料理屋なんだけど、しだいに質が落ちている、一の酉なのにあまり客がいない。そこの女たちの話。いちおう主人公は竹久千恵子、昔は看板娘だったが、いまはトウがたってしまった。ひいきにしてくれていた月形龍之介も最近は妹のほうに向いている。あと義父のヤクザに妾に行けと言われている娘や、オタフクのためにお燗番しかさせられない娘や、女たちの世界が静かに展開していく。年の瀬の雰囲気も加わって、全体が衰滅に向かっている気分がひしひしと伝わる。ジンタの音も流れてくる。作者の視線は、この滅んでいくものを記憶にとどめといてやろう、といった感じ。もうたぶん反復されないここでの最後の年の瀬を味わい尽くそう、って。ただただひたるための映画。こういう元気が出ないモロ後ろ向きの映画って、日本でだけ異様に洗練されていった気がする。右肩下がりに独特の情緒を感じてしまう国民性なんだな。無常観とかワビサビとかとつながってるのか。原作は武田麟太郎の小説「一の酉」で脚色も作家本人。このころからもう老人役の高堂国典は、当時「黒天」と表記していたらしい。[映画館(邦画)] 8点(2009-06-29 12:04:18)

38.  冬の宿 《ネタバレ》 前半はキリスト教狂いの妻とその夫の、ユーモアものみたいな展開。酒を飲んで帰ってくる亭主が、うがいをして匂いを消したり気をつかっている。恐妻家コメディの型で進みながら、しだいに話は深刻になっていく。最初にコメディタッチだっただけに、その深刻への傾斜が効いている。亭主、会社をクビになり、なのに見栄を張って宴会やったりする。地元の工場を処分してできた金を、キャバレーで散財してしまう。競馬で取り返そうとしてスッカラカンになる。コメディだったら愛すべき豪放な性格、ということでそれで済んでしまうんだけど、実際にはこういう“愛すべき性格”は、身内にとっては生活破綻者であって迷惑至極なわけだ。近所にこういう人がいても、いい人なんですけどね、と同情はするが、積極的に手を差し伸べはしない。そこらへんの、笑顔がしだいに強ばっていく展開が、見ているほうでも納得がいくだけにけっこう怖い。これを演じた勝見庸太郎も絶品だった。一見優しく見守っていたような作者の視線が、じつはヒンヤリと観察している。子どもたちに、そっちに行っちゃいけないよ、と言っていた貧民窟への坂を下っていくラストの厳しさ、まるで時代の下り坂と重ね合わされるふうで、ゾクッとした。前年の内田吐夢『限りなき前進』の暗さをちょっと思わせ、豊田四郎の文芸ものの中でも、重要な作品ではないだろうか。原作、阿部知二。[映画館(邦画)] 8点(2009-05-09 12:12:42)

39.  巴里祭 《ネタバレ》 最初のころは、クレールはコメディがいいんじゃないかと思っていたが、だんだんとこういうのの良さも分かるようになってきた。キレよりもコク。これなんか、映画で物語を語ることの最良の成果なんじゃないでしょうか。ほとんどの出来事や脇の登場人物が反復され、あんまりそういうことがキッチリしていると息苦しくなりそうなのに、それを感じさせないようにフランス映画は洒落た感覚を洗練させてきたんだなあ。そういうことを堪能できる映画。スリ一味の場などさながら良質のコントで、しかし彼らもちゃんともう一度、悪役に出世して登場してくる。無駄がない。しかもその変貌には悪女が関係しているので、不自然でない。あるいは小道具としてのジュークボックスの使い方。あるいは窓ぎわのライティングのうまさ。堪能、堪能。[映画館(字幕)] 8点(2009-01-04 12:13:19)

40.  ル・ミリオン 《ネタバレ》 当たったのに失くしてしまった宝くじをめぐるドタバタ。警官たちが列をなして屋根の上をビクビクしながら渡っていくとこや、借金取りが列をなして階段を上がっていくとこなどに、トーキーだけどもサイレントコメディの味を残している。サイレント経験した監督は、映画としてのリズム感がいいんだな。劇場に舞台が移ってますます快調、上着の取り合いから、メデタシメデタシかと思うところでひょいと悪漢に奪われたりと、緩急織りまぜ一気に見せていく。しかしこの悪漢もルパンの国の悪漢だから、単に金目当てでないことが分かるの。そして一同おおはしゃぎの群舞に合唱。「金こそすべて。金だけが人生じゃないと言うけど、それはお金持ちの言うこと」って歌詞が痛快。『ジャイアンツ』でジェームス・ディーンに似たような意味のせりふがあって、ハリウッドはさすがうまいせりふ作るな、と思ってたんだけど、もっと昔にフランスにあったんだ。人が出入りするということがどうしてこんなに面白いんだろう。追いかけられつつ追いかけるということが、どうしてこんなに面白いんだろう。[映画館(字幕)] 8点(2008-04-28 12:24:44)

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