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【製作年 : 1960年代 抽出】 >> 製作年レビュー統計
評価順1234567891011
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21.  未知への飛行 《ネタバレ》 核兵器の悲惨を描くのではなく、その「恐怖の均衡」という発想の狂気を描く。この均衡が崩れかけたとき、全面核戦争を回避するためにはどういう「最少の犠牲」が必要になるのか。丹念に不信の構造を見せつけられると、ラストの大統領の決断が突飛でなく、いやメチャクチャ突飛なんだけどこうする以外証明できないんじゃないか、と思わせられる、そこのところが怖い。大局的な世界にひたっていると、ニューヨークという大都会でも、全体を救うための「小さな犠牲」になってしまう。この恐ろしさ。その「最少の犠牲」の大きさに、核の均衡という発想の狂気、そもそもの核兵器を所持しないと不安でいられないところまで来てしまった軍事力に頼る人類の病理、がはっきり感じられた。戦争が終わると国家はいつも「犠牲者は平和への尊い礎です」と黙祷するだけで、その「礎」は戦争が繰り返されるたびに大きくなっていった。そしてこの映画ではニューヨークという都市がそうなる。なんかツインタワービル跡地のモニュメントを皮肉に予言したような映画でもあるな。冒頭にW・マッソーの教授がちらっと見せた黒い心、利益とか権力とかを別にして純粋に核戦争を望む心が存在するということのリアリティ、これはあまり突っ込まれてはいなかったけど大事なテーマで、これを観たときはまだ存在しいていなかったが、オウム真理教なんかを予告してたんじゃないか。[映画館(字幕)] 8点(2012-05-01 09:50:32)(良:1票)

22.  太陽がいっぱい このテーマ曲は今でこそ「太陽がいっぱいのテーマ」としてしか聴けないが、この揺れるような6拍子の曲想はイタリアの舟歌の感じを出してたんだな(バルカローレってのか?)。ゴンドラが映るシーンでしばしば断片が流れ、映画全体がラストシーンまで舟(ヨット)のモチーフで貫かれていた。あと跳ね回るような曲想もしばしば聴かれ(サルタレロってのか?)あれもイタリア情緒。イタリアのアメリカ人たちの漫遊気分の背景になっていて、イタリア人ロータもそういう意識で作曲したんだろう。よく出来たサスペンスで、警察の捜査を逆利用していくあたりが楽しく、また船上での笑顔の会話の緊迫も素晴らしい。でも原作のヨーロッパのアメリカ人って設定はあまり生きていない。いちおうセリフのなかでは説明していたが、印象づけていない。大西洋を離れた旅行者って設定が、他人に成り代わっていく展開の基礎として大事だったんじゃないか。特定の誰でもない旅行者の自由、誰にでもなれそうな自在感。そこらへんはより原作に忠実なリメイクだった『リプリー』のほうが描けていた。M・デイモンは明らかにアメリカ人顔だったし、「哀れな走り使い」のコンプレックスもあっちのほうが出ていた。こちらは美男のドロンが演じることでの痛ましさってのもあったけど。ハイスミスのミステリーは、前半はめちゃくちゃ面白いのに、後半もたれてくる。「文学」っぽくなってミステリーとしてのキレが悪くなる。『見知らぬ乗客』も後半は大幅に変えて映画を締めていた。本作のラストもそうだが、ミステリー映画としては悪くない改変だった。しかし原作のコクを好む人には物足りなかっただろう。あと今回気がついたのは、終盤で蝉が鳴いていたこと。ヨーロッパには蝉がいないと聞いていたが、南欧ではちゃんと鳴くんだ。[CS・衛星(字幕)] 8点(2012-04-29 10:13:16)

23.  圧殺の森 高崎経済大学闘争の記録 息苦しいこの映画でフッと息が抜けるのは、金子君が山歩きの靴はいて尾瀬に行くと言って仲間たちに呆れられるところ。このとき監督の目は、金子君に共感してはいなかったか。小川が描き続けることになったのは、人々が分かれていく酷薄さだった。一緒に戦っていた者たちが離れ、互いに非難し糾弾し合う残酷さみたいなものだった。『三里塚』でも、空港建設側に行った元村仲間に土をかけるようなシーンがあった。そういうときのカメラは微妙なタッチになる。「強圧的な権力に反対」というテーマに即して言えば糾弾する側に加わるべきかも知れないが、どこかでためらっている気配が感じられる。この金子君のシーンでも、呆れつつ「でもいい奴じゃないか」って思いも感じられるのだ。この金子君ってお父さんに説得されてた学生だよね。映画が息苦しく狭いところへ入り込んでいたとこで、息が抜けた。と言うより映画が膨らんだ。この学生たちに共感するでも非難するでもない場所が見えかけてくる。小川は「そうじゃない」と言うだろう。そういうドキュメンタリーの中立主義に反発した監督で、あくまで非権力の側に付いているんだ、って。でもこの金子君による世界の思わぬ拡張を、ドキュメンタリストとして待ち伏せてたってところもあるんじゃないか。新聞会の学生を追い詰めるところや、警備のおじさんをホールから締め出すところなんかも、迫害されてたはずの人間の集団が、やはり人間の集団の業を持ってしまうみたいな視点が感じられた。金子君はその集団の業から軽く離れている。夏休みの校舎に演説してて噴水がフッと弱まるところ、襟の汚れを丹念に追うカメラ。夏の暑さの感触がフィルムに染み渡っていた。その暑さの中で彼らが追い詰められていく・あるいは自分で追い詰めていく悲壮さ。権力の作為に乗せられて、というよりも、権力の意志に関わりなく、抵抗者が必然的にそう動かされていってしまうような気配があり、かえってそこに、大学当局や公安のレベルを超えた「権力」というものの気味悪さが感じられてくるのだ。そのとき金子君的な個人の振る舞いを生かす第三の道はなかったのか。[映画館(邦画)] 8点(2012-03-07 09:52:19)

24.  切腹 《ネタバレ》 これはいま観ると、正社員の職を得た者と派遣労働者の話に重なって実に生々しい。ほんのちょっとした運命の違いで生じた格差が、段上の命じる者と庭で腹を切る者とにまで広がっていったことが、怖く迫ってくる。立場が逆転していてもおかしくなかった。そういう苛烈な武士の社会と似たようなものが、現在でもあるんだろう。これのとりわけ前半はシナリオの名品であり、二人の切腹志願者の物語が反復しつつ並行し、千々岩のうちひしがれぶりと津雲の不敵さが対照され、後者がどんどん謎として膨らんでくる興味。追い詰める側が追い詰められていく展開の妙味。シナリオの力でこれだけグイグイ引っ張っていく映画は、あんまりない。後半ちょっと説明的で弱くなるが、しかしあそこらへんをちゃんとやっておかないと、千々岩が「武士として有るまじきさもしい行為」に及んだことを十分説得させられず、話の骨が崩れてしまう。津雲が語っている庭はゆっくりと陽が傾き、やがて風も吹き出す。あんなに武士の哀しさを語った津雲も、やはり刀でしか決着をつけられないところが痛ましい。竹光を嘲った井伊家が、最後には「武士の魂」の刀ではなく「卑怯な」飛び道具を持ち出してくる。儀式としての切腹は限りなくグロテスクだが、鉄砲で撃たれる前の腹切りは、美しくはないがグロテスクではない。あれはあくまで乱戦の延長であって意地の発露だった。でも井伊家の下級侍にとっては、秋葉原事件のようなとばっちりだったなあ。[CS・衛星(邦画)] 8点(2011-12-07 10:44:17)(良:1票)

25.  秋刀魚の味(1962) 《ネタバレ》 佐田啓二のアパートをロングで捉えたカットで、手前を小編成の電車がトコトコと通過していく。サイレント時代の斎藤達雄の家の前にもこんな車両がやたら往還していたなあ、などと思っていたら、あとで佐田宅から帰る岩下志麻が立った駅が東急池上線の石川台であった。このいくつか先に終点蒲田駅がある。松竹のサイレント時代の故郷だ。なるほど「小市民が暮らすのは蒲田」という配置は30年を置いても変わらなかったわけだ。もっともこちらの小市民はゴルフをたしなむまでになったが。あと今回気がついたことでは、最後のトリスバーのシーン。軍艦マーチが流れ、客の須賀不二男らが旧海軍を揶揄すると、笠智衆はムッとする表情を一瞬浮かべた。小津の登場人物は私的な場ではしばしばクサるが、公の場でこの手の不快を見せるのは珍しいのではないか。つい映画を観ていると忘れてしまいがちになるが、平山は艦長という帝国海軍のエリートだったわけだ。この映画に満ちている侘しさは、おもに娘の結婚や男やもめの孤独など家庭面から来るものだが、もっと若い時代にまつわる失意・小津が体験しつつもずっと正面からは触れようとしなかった戦争の影も、考える必要があるかもしれない。このバーに座る男は、妻に先立たれ・娘の恋を成就させてやれなかっただけでなく、今はからかいの対象にしかならない軍隊に若い時代をうずめてきたその徒労感(と若干の愛惜の情)も背負っているんだ。私は小津の映画が、そのすべてを肯定したくなるくらい大好きなのだが、音楽だけはどうにも我慢ならない。晩年の「秋」の三作にはどこか荒涼とした気配が感じられ、とりわけ遺作となった本作など東野英治郎への残酷な視線に容赦がなく、あのノーテンキな音楽がないとむごたらしさが前面に出過ぎてしまうからか、などと出来るだけ好意的に考えようとも思ってみるのだけど、もし音楽抜きのバージョンが存在したら迷わずそっちを選ぶ。[CS・衛星(邦画)] 8点(2011-11-05 12:23:54)(良:1票)

26.  大脱走 しばしば目に入る抜けるような空の青さはスポーツにこそふさわしい。この映画に満ちているのはスポーツの気分。逃亡するのが義務と心得ている連合国側捕虜と、それを阻止するための特別の収容所を開設したドイツ側との、攻守がはっきりしたチームスポーツ競技を観戦する気分だ。マックィーンの小道具としてのボールも、そういう気分をかもすのに役立っている。逃亡するための資材を調達していくあたりの、息のあった連携プレーが楽しい。役割りによって分業体制を敷いているのも団体スポーツの味わい。またその中にコンビの友情をいくつも仕込んでおいて、全体をまとめるのをイデオロギーにしていない。小さな友情が集まって大きな団結を構築している。一匹狼だったマックィーンも失われた友情への復讐心からチームに参加していく。本作の気持ちのいい明るさは、この友情を下敷きにしているところから来ているんだろう。悪役側も、ドイツ軍とゲシュタポとを区別し、ドイツ軍そのものはスポーツ競技の相手役としてサッパリとさせている。もちろん実際の戦争はスポーツではなかったわけで、それだけははっきりとさせとかなくちゃならない暗い部分はみなゲシュタポに任され、青空ではない曇り空の下の銃殺によって代表させる。暗い戦争を明朗なエンタテイメントに仕立て、しかもそれを「敵」をやっつけて溜飲を下げるレベルのものでなく成功させたところが、この映画の一番の手柄。[CS・衛星(字幕)] 8点(2011-10-22 10:08:53)(良:2票)

27.  テキサスの五人の仲間 《ネタバレ》 これは一つのアイデアだけを核にした物語だけど、ネタが分かればそれで終わりというものと違って、たぶん二度目の鑑賞にも耐えられると思う。かえって二度目の楽しみってのもあるんじゃないかな。H・フォンダの表情やまわりの連中の表情に、一回目に観たときとは違う味わいが出てくるはず。優位に立ったものの表情と、ヤバい立場に置かれたものの表情とがハッキリしている分、その皮肉がおかしい。それにしてもフォンダの崖っぷちに立ちながら浮かべる強ばった口元だけの笑い、うまいなあ。どうしたってカモそのもの。心配するけなげな子どももいれば、ついつい「お父さん危ない」って思っちゃうもん。また途中で鍛冶屋での妻のカットを挿入して観客の心配を煽るんだ。きたねえよなあ。映画のリズムは冒頭のポーカー仲間が集合してくるところから快調で、ただちょっと終わりがもたつく。ジェイソン・ロバーズが婿に説教垂れて、その直後バカにするようにきれいに落とし、そこでパッと切り上げればいいのに、ややだらけた。あと、銀行家がすぐ乗らず、一度追い返してから乗ってくるつながりがギクシャク感じたが、すぐに応じると不自然で、一度冗談ではないかと疑う時間を入れたほうがリアリティありってことか(引っ掛けられた悔しさで、なにか悪口を言っておきたい)。これそのまま江戸の時代劇に移せそう。「おまいさんバクチはこんりんざい駄目だよ」なんて落語に出てくるような夫婦ものが旅籠にやってきて…と思ったが、やはりポーカーフェイスという言葉があるポーカーでないとぴったりこないな。[CS・衛星(字幕)] 8点(2011-09-27 09:27:20)(良:1票)

28.  フェイシズ(1968) カサヴェテスの「はしゃいでしまうこと」のうつろさというモチーフは、アメリカ版『甘い生活』とでもいうべき本作で、最も徹底している。破綻しかけている夫婦が笑い転げたあとの索漠とした静けさ、その静けさはすでに無理に笑い転げている騒々しさのときから画面の中で成長していたもので、じっと記録し続けるカメラの手法が最大限に生かされている。笑ったあとが怖くて笑いやむことが出来ない、そこでさらに笑い声を高めていく、笑ったあとの静けさとの落差の広がりが意識され、はしゃぎはひたすら加速度を高めていく。くたくたに疲れきりながら、何がおかしいのか分からなくなっても、はしゃぎを演じ続けていく。主人公が「もうふざけるのはやめてくれ」と哀願しても、ジーナが「これが普段なのよ」と答える場面もある。たしかにそうなのだ。付けまつげが素顔になってしまっている生活。外のハレの場所に出て行くのではない。祭りは部屋の中で起きてしまっているのだ。カサヴェテス作品を、シナリオ起こして別の監督に撮らせても、ちっとも映画にならないだろう(『グロリア』はリメイクされたがあれは特殊)。設定を囲った中に俳優を配置して動かし、その生き生きしたところを掬い取っていくような監督術の映画だから、そこがないとただ落ち込むだけの話。そのかわりカサヴェテスの手にかかると、本作の後半のように感動としか呼べない緊張した時間が味わえるわけだ。[映画館(字幕)] 8点(2011-08-07 10:01:58)

29.  銀河 《ネタバレ》 とにかく西洋社会・とりわけカトリックの国でのキリスト教の大きさを感じさせる。こう何世紀にも渡って宗教と格闘し続けてきたんだなあ、と。そういう経歴を持たないことを日本は喜ぶべきなのか恥じるべきなのか。主人公の二人組の感じがある懐かしさを持ってて、いかにも旅って感じなの。ヤジキタとか、万国共通の二人旅のパターン。もっとも周囲ではキリスト教を巡る論争がひしめく。路上での予言。病院から逃げてきた神父。キリストは笑うか。森のなかの異端者たち。レストランで食事の支度前の論争(あのおかしさは独特のもので、あれで客が食事できなくなったら『ブルジョワジーの…』だ)。無垢な少女たちが声をそろえて「異端に呪いあれ」ってのもあった。男は法王銃殺を空想する。自らを十字架にかける狂信者を巡る決闘。この最中も論争を続ける。ごった返す論争の歴史。そのごった返しの迫力。異教徒にはしんどい映画だが、これらの歴史を背負って生きているカトリックの人々もかなりしんどいだろうなあ、という実感は得られた。我々には「異端」という言葉ひとつにしても、そのニュアンスに含まれている恐ろしさを本当のところは分かってないんだろうなあ、ということをつくづく分かった。[映画館(字幕)] 8点(2011-05-12 09:46:23)

30.  乱れ雲 《ネタバレ》 終盤、司葉子の心が乱れてからが凄い。それまで明晰な展開で持ってきてて、ここで画面を混乱の酩酊に一気に導く。加東大介の居どころを尋ね続ける森光子の電話、司の廊下の往復、じゃれ合っている新婚客のカットが飛び込み、時計のチクタク音が持続し、割れる茶碗、広い風景に変わって心中捜索の人々。危機感がスーッと滲みてくる。階段の上下で見つめ合い、車中の人となる。バックミラーから見つめてくる運転手の顔(雨のときの雨宿りの二人の男を思い出す)、長い長い通過貨車、そしてゆっくりくねっていくと現われる事故車、さらにくねって旅館に到着し、救急車も到着、担架の怪我人と泣く妻、ここで初めて司が「ごめんなさい」とセリフを吐く。なんかメロドラマの核心を満喫しましたなあ。世間が無表情に周囲を取り囲んでいくなかで、二人がおずおずと、時に緊張し時に馴れ馴れしさを装いながら、近づいていく。新婚旅行の回想では間に合わなかったバスが、この二人の雨のときは意識して去らせていく。そして武満の音楽が入り込んでくる的確さ。もっとこのコンビに作品を作っておいてもらいたかったなあ。[映画館(邦画)] 8点(2011-04-30 12:20:47)

31.  妖婆・死棺の呪い 《ネタバレ》 ロシアの香り。ホラーは土地の香りが大事。と言ってもこれは「ホラー」ってより「民話」だな。話はグリム童話にもよくある三晩妖怪と戦うってのだけど、主人公の髪形見ただけでもういかにもロシアの農奴。婆さんに乗っかられてフワーッと倒れ、またフワーッと置き上がるあの感じ。回転台の上を走ってるこのセットの感じ。全体にフワフワ感。メカじゃなく手作りの感触。涙がふっと赤くなり、起き上がった魔女がスーッと滑るように下りてくる感じ。どってことないことやってるんだけど、特撮でキラキラやるよりよっぽどハッとさせる。ロシアの土の匂いと、どこかでちゃんとつながってる。そして魔群の登場。湧いてくる感じがよく、壁面をいざるように降りてきたり、板の間からボタボタ落ちてきたり、手だけが出てきたり。本の中から烏が出てきたのは、二晩目だったっけ。[映画館(字幕)] 8点(2011-03-22 09:57:16)

32.  日本の夜と霧 50年代の共産党分裂騒ぎで傷ついた男と、60年安保闘争で挫折した女の結婚式、いう設定。その「儀式」の設定は、言葉の空疎さで生きてくる。結婚式スピーチの空疎さが、しばしば中山が語る党の公式見解の空疎さに通じ、そのままラストの「演説」の空疎に雪崩れ込む。真摯な問いかけは硬直した言葉で返され、その果てについに問いを遮断する演説に至る。言葉が溢れ返っている映画だが、その言葉たちは互いの理解に向かうのではなく、壁や塀として臆病に建て回されていく。言葉を封じるための言葉の氾濫。これは日本共産党批判の映画ではあるが、日本の政治風土全般の空疎を射抜いているだろう。上の指令で方針がコロコロ転換し、火炎瓶闘争は歌声運動に代わられる。それに疑問を持たない中山ら「良き前衛」に対する苛立たしさ。しかしもっと苦いことは、ここで批判者として登場する新左翼の若者たちも、60年代後半にはさらに空疎な演説言葉に振り回されていくその後の歴史をも私たちが知ってしまっていることだ。ワンシーンワンカットで、ちょっとしたセリフの詰まりぐらいは無視してずんずん進んでいくカメラ。安保闘争後急速に冷めていく時代に抵抗するような、「これでいいのか」という苛立ちの熱気の高温の中だけで生まれることが出来た、特殊金属のような強度を持つ奇跡の映画だろう。「突き詰める」という一番日本映画が、というか日本人が苦手としていることを、やり通そうとした爽快感がある。[DVD(邦画)] 8点(2011-03-02 12:28:22)(良:1票)

33.  野獣の青春 記憶の中でひときわ美しく残っている「夢のようなシーン」てのは私の映画受容史で二つあって、一つはムルナウの『サンライズ』の夜景、もう一つがこれの、ヘンタイの会長が嵐の外へ女を追いかけていく黄色い風のシーンだ。しかし記憶の中で磨かれて実際以上に美化いているような気もし、どちらも再見はしていない。ほかの多くの「美しかった名シーン」とは別次元の、息を呑んだ体感の記憶になっていて、この印象を壊したくない。こういうのはこちらの体調やら何やら好条件が重なった一度きりの体験であって、とくに本作のほうは褪色したフィルムで観たカラー作品なので、現物はまたかなり違っていた可能性もあり、たとえばDVDで見ても、あの「夢のような」感じはもう訪れない気がする。とにかくそういうワンシーンが際立って記憶されている映画です。スクリーンの裏側の事務所なんてのも面白かった。上映されている映画のほうの銃声で慌てたりするところもあって。あとプラモデルの飛行機がたくさんぶら下がっている部屋とか、そういう異様な空間設計で面目躍如の監督。話を円滑に進めようという気など全然ないもんね。[映画館(邦画)] 8点(2011-02-12 11:00:00)

34.  パルチザン前史 これが公開されたときは、上映が終わった公会堂の出口で公安が観客の顔を一人一人写してた、って話を聞いてたので、私が観たのはもう全共闘運動などとっくに終わった時期だったにもかかわらず、いささか緊張した。場所も「不動産会館」という聞いたこともない建物の地下の狭い一室で、なにか非合法の集会に参加しているようなトキメキを覚えた(「ぴあ」の自主上映の欄に堂々と載ってたのを見て来たんだけど)。そういう環境で火炎瓶の作り方なんか見てると、ちょっと「それらしい」気分になってくる。ナレーションはなく、必要最小限の字幕ですます。質問しそれに答えるという形式のインタビューがなく、自由に仲間うちの会話と同じ調子でしゃべらせる。あらたまらせない。演説はよく聞き取れないし、仲間うちの会話も聞き取れないことが多く、言葉はこの映画ではいっさい無視していいだろう。言葉の内容よりも、その語り口を映画は記録していく。ヘリコプターの音や、夜に聞こえてくるパイプの中を流れる水の音、機動隊の楯のカチャカチャいう音などと同列の、声も音としての記録素材。言葉の勢いに逆に振り回されているようなその空回りぶり、あるいはしゃべっては中断しを繰り返すその逡巡ぶり。路上での解放区設営が一つのヤマ場で、野次馬的興奮に駆られるが、中立に撮ろうとしている報道陣をも撮ってしまう視線がいい。ドラム缶相手の武闘訓練のときの、照れ笑いしている顔も撮っている。当時は極左映画というレッテルで観られた作品だが、おそらく現在でも記録としての価値はかなり高いだろうし、映像の緊張は素晴らしい。描かれる対象である京大全共闘の滝田修は、やたら「明確な」という言葉を繰り返し、軽薄なものをこれ観たときも感じたものだが、小熊英二の「1968」によると、当時「ガスを爆発させたら普通の人も死にます、しゃーないやないかそんなもん」などと無責任に威勢のいい発言をしていたが、のちに出版した「滝田修解体」では「過激な言辞でエエカッコしたかった」と簡単に自己批判している情けない男なのであった。フィルムはその軽薄さまでキッチリ記録していたわけだ。(と、あの時代の主役の一人永田洋子死亡のニュースの直後に本レビューを記すのも感慨無量である。)[映画館(邦画)] 8点(2011-02-08 09:21:10)

35.  若者のすべて 《ネタバレ》 3章の「ロッコ」から、それまでのネオリアリズモのタッチと、神話のような世界とが重なってきて交響し、圧倒的。長男は小家庭に籠もり外界には無関心、四男は都市でやっていこうと決心して、その信念に沿って勉強してる。長男の消極的都市生活に対して、積極的都市生活。五男は未来への希望であり、故郷へ帰れる者、さらには故郷を富ませるであろう者として存在する。重要なのはもちろん、次男のシモーネと三男のロッコの対立で、この二人の自分の役割に執着するその過剰さが、神話の雰囲気をかもす。獣性と聖性の対立という二元論で片づけてもいいんだけど、さらにこの二人がどちらも都会に不適応であるところが厚み。クライマックスでロッコがシモーネのことを、「家のいけにえ」と言ってたけど(公開時の字幕では、私のノートを信ずるなら「家族の土台となる者」)、あれは自分も含めてなんだよね。クリーニング屋での女たちにからかわれながらの働き、ジムで見込まれたときの歯まで調べられる扱われよう、酔いどれて酒場で友だちに馬鹿にされる痛ましさ。それは彼ら兄弟が地上に堕ちた神々の気配を漂わせているからこそ増幅される惨めさなんだろう。シモーネが金をたかるシーンでテレビがずっと古典画を映し続けていたのなんか、これは古典悲劇なんだよ、と監督が確認してるみたい。四男はロッコのことを「許してはけないものまで許してしまった」と言ってたけど、その過剰さが彼を神々の高さにまで引き上げ、また社会との不適応を招いている。ナディア陵辱シーンの、この兄弟の惨めさの極みがそのまま神性に通じていくようなあたり、ゾクゾクする。みなで雪掻きに出かけていくシーンは、後で振り返って悲しむために仕込まれた失楽園用情景だな。父が故郷にいるあいだずっと辛抱し、憧れ続けていた北部都市にやっと出てきたという母も悲しい。南部の暮らしのつらさを描いた場面はワンカットもないのだけれど(それならもう『揺れる大地』でミッチリ描いた)、それがずっと映画の通奏低音になっている。[CS・衛星(字幕)] 8点(2011-01-27 10:27:10)(良:1票)

36.  みどりの壁 《ネタバレ》 ジャングル開拓におもむいた元都会暮らしの一家の悲劇。詳しくは言えないけど、ラスト近く、川を行く舟がしだいに増えてくるシーンから後、ほとんど字幕なしで描かれる部分が凄く、子どもが作ったおもちゃの水車のチーンチーンと鳴る仕掛けが澄んで響き、じっと黙って食事の支度をしていた母がワッと泣き崩れ、そこでストップモーション、バッハのコラールがギターで聞こえてくる。おそらく映画の締めとして、ほとんど完璧と言っていい。このラストまでは、ややキザな演出でかえって軽めの印象をもたらしていたのが、ラストは正攻法でちゃんと手応えのある重さを持った(アルマンド・ロブレス・ゴドイってこの監督の、もう一つ日本で公開された作品『砂のミラージュ』は、キザのほうに傾きすぎてしまった)。ただ涙だけでなく、政治への怒りが裏打ちされているところがいかにも南米。家族の不幸を描きつつ、それを強いた開拓事業・さらに大統領へと怒りの方向を定めている。その構造だけを見ると、涙と怒りが釣り合って単純になってしまいそうなんだけど、ジャングルでの生活の描写が丁寧なので、映画が豊かになっている。涙と怒りが別々の天秤で釣り合うというより、それが混じり合って迫ってくる。[映画館(字幕)] 8点(2011-01-23 10:04:56)

37.  昭和残侠伝 血染の唐獅子 《ネタバレ》 ドラマの型としては、もう「忠臣蔵」パターンで、いじめられて仇を討つって芯。それを脇筋として山城新伍が膨らませている。これも考えてみれば「仮名手本忠臣蔵」の勘平、ずいぶん三枚目な勘平だけど、恋のため一家に不義理をし、その負い目から死んでいく役割りなわけ。昔からあるドラマの型を応用していく日本文化の伝統に則っている。相手の染次(牧紀子)がまた話を膨らませてくれて、自分に惚れた男に対する女の義理を果たす役どころ。さらにここには自分になびいてくれない秀さんに対する微量のアテツケも感じられ、自分の操を男気のシンボルである纏と交換し、秀の心に残ろうとする哀切もにじみ、まったく女優冥利に尽きる役どころだろう。そしてこれは、ただただ秀さんのことしか考えない藤純子のまっすぐな役どころと一対になっていて、それは複雑な池部良とまっすぐな高倉健の一対と同じ。こういう構造は一朝一夕に生まれるものではなく、長く大衆文化の中で練り込まれてきたものだから、安定感がある。いつもちょっと疑問だったのは、知的善玉やくざである池部がモロ悪人の組に入っちゃってる、ってのに無理があるんじゃないか、ってことだったが、今回思った。きっと昔は、河津清三郎も、池部が心服するような立派な任侠の徒だったんだ、世の中の変化に乗って組をやっていく上で、金に執着しなければ勝ち残っていけなくなり、そして歪んでいったんだろう。だからシリーズのタイトルも、時流に乗れない「残」侠伝なんだ(シリーズ1作目は戦後が舞台でその「残」の感じはさらに強い)。ラスト、健さんを包み込むように木遣りが流れるが、まるで近代に置き去りにされ滅ぼされていったすべてのものを弔う御詠歌のようにも聞こえてくる。[DVD(邦画)] 8点(2010-12-08 10:15:06)

38.  サイコ(1960) 《ネタバレ》 白骨になったりミイラ化してる家族と同居してた、って最近の“消えた高齢者”事件で、「そうか『サイコ』ってけっこうリアリズムだったんだ」と慄然とさせられた。少なくとも、我々の日常とどこかでつながってる話だったんだ。この二段構えの独特の構成、前半ではいたって「分かりやすい」犯罪、金を目にして魔がさす事件が展開する。変な言い方だが、日常的な犯罪。それが後段になると、より深いレベルの魔の世界に入り込んでいく。前半でしばしばクローズアップされていた事件の中心である大金が、あっさり車とともに沼に沈んでいく。より深い魔に。「分かりやすい」事件が、より暗い世界に包み込まれていく。この構成、作品全体の整いという点から見ると屈曲しているようでいて、それなりの筋が通っており、観客にとっては迷宮感を増すことになる。「犯人」が唐突に消え、次に「探偵」が消え、じゃあ誰がドラマを仕切るのだ、って。観客は実に心細い気持ちでこの手だれのスリラーを観続けねばならない。それにしても死体と同居していた事件を「年金詐欺」レベルで納得してしまう日本のマスコミの情けなさ、あれってジャネット・リーがベイツ・モーテルに到着したところで『サイコ』観るのをやめてしまったようなもんじゃないか。[DVD(字幕)] 8点(2010-09-21 09:50:29)(良:1票)

39.  世にも怪奇な物語 中世ヨーロッパを一番感じさせない女優に演じさせることで、ハンバーガーの香りのする奇妙な味を狙った、という訳でもなさそうで、こりゃ単に監督の個人映画と思えばいい1作目。馬小屋が焼け崩れた向こうに夕日が見えるなんてのはちょっと美しかった。2作目になると、ひどい奴をやらせるとアラン・ドロンの冷たい目つきは良く、勝ってたバルドーがフッと表情を強ばらす瞬間など、ヨーロッパの俳優のほうがポーはいい。つまりポーのころはアメリカ文学も実質ヨーロッパ文学だったってことか。でもこのオムニバスの価値は3作目。フェリーニの世界が凝縮されている。といっても本道をいく作品ではなく、異色作ではある。いつもの猥雑な幻想は人肌の温度を持っていたが、これは冷たい(後年『ジンジャーとフレッド』でもテレビの世界を扱ったが、あれは陽性だった)。それと製作費の関係だろうが、美術=セットにそれほど金を掛けてるようでなく、ロケの比率が高い。しかしその分、人物の顔のフェリーニ的カットがじっくり楽しめ、監督のやりたいことの手つきが認めやすい。人間はマネキンのようになり、疾走する車の道には人間のようなマネキンが立つ。疲れきった主人公。人々の喧騒から逃れるためには、車の爆音に包まれなければならない。休息を求める人々ってのが、フェリーニが一貫して描いたモチーフ。爆走の合い間に静寂が入るのが効いている。変な酔っ払いの表情も不気味なんだけど、ああいう表情が不気味になるって、どうやって発見したんだろう。橋の向こう側に少女を見て、ヒステリックな笑いが決断の表情に変わっていくとこがポイント。安息としての悪魔。テレンス・スタンプって『コレクター』と『テオレマ』とこれの強烈3本で、“こういう人”専門と頭に叩き込まれたもので、後年『プリシラ』でオカマ役を観たとき、へー、普通の人の役もやるんだ、と思ったものだった。[映画館(字幕)] 8点(2010-07-21 10:02:01)

40.  処女の泉 《ネタバレ》 少年が加わっていることで陰影が濃くなる。娘と対になるイケニエ役か。事件のあと雪が降り始め、罪の意識にさいなまれておどおどし、その晩地獄の恐怖に包まれ、やがて娘の母にすがるも投げ殺されてしまう。娘の死も惨めだったが、彼の死もあまりにも惨め、このむごたらしい何ら肯定的な光のない事件を、神は沈黙して見過ごし、その後で泉を湧き上がらせるわけだ(全編を通して火と水が対置されている)。おそらくこのズレに話のポイントがあるのだろう。復讐に至る場の緊張はすさまじい。娘の服を犯人どもに見せられた母の反応、叫び出したいのをじっと抑えたハラの演技が凄く、歌舞伎を思わせた(「先代萩」の政岡に通じるような)。知らされた父も、清めの湯を沸かすための樺の樹を捻り倒すロングのシーンで心情を見せる。朝を告げる鳥のさえずりが凶々しく、さらに家畜の鳴き声も加わる時間経過の描写。おもえば『羅生門』と似たような森の中の事件を扱い、仏教国とキリスト教国の違いが話に出ていた。というか温帯の濃密な照葉樹林と、寒帯の針葉樹林の違いか。顔の上で枝の影と血の流れが重なったりする効果。この監督にしては珍しくストレートな作りで、最初にスクリーンで観たときはちょっと物足りなく思ったが、のちにテレビで観たときは復讐シーンでのめり込まされ、これはこれでやはりベルイマンの映画なのだった。[地上波(字幕)] 8点(2010-05-11 12:04:15)

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